プロデューサーとしての歩み
- 舞台芸術に関わるようになった出発点から聞かせてください。
- 実は5歳からモダンダンスを習っていて、ダンサーになりたいと思っていました。でも、高校生の時に短期留学したニューヨークでアルヴィン・エイリー・アメリカン・ダンスシアターに行き、あまりのレベルの違いに見事に挫折した(笑)。でもすぐには諦めきれず、日本大学芸術学部企画制作コースに進学しました。大学で学ぶことがしっくりこなくて、在学中にコンテンポラリーダンスの拠点になっていた横浜のSTスポットでボランティアをはじめました。
コンテンポラリーダンスの振付ではコンセプトを提示することが重要とされていましたが、私にはその才能がなかった。STスポットで手塚夏子さんと出会い、「自分の身体を意識する順番が振付だ」というコンセプトに衝撃を受けて、追っかけのように手塚さんの活動についてまわりました。その頃、STスポットでアルバイトをしていたのが岡田利規さんで、チェルフィッチュの身体性は手塚さんの影響を受けた岡田さんが、山崎ルキノさん、山縣太一さん、松村翔子さんなどの俳優さんたちと一緒に獲得したものです
あの頃のことを思い出すと、当時、母親の躁鬱がひどくて、身の回りの対応やトラブルに振り回されていました。周りにもなかなか相談できないし、自分の居場所がなかった。就職を考えるとか、普通のキラキラした将来像が描けない状況でした。そういう私にとって、舞台に関わることが拠り所でした。手塚さんや岡田さんと出会い、こんな風に自分の力で新しい価値観を社会に提案できるって凄いな、そんな風になりたいと思いました。
2004年にチェルフィッチュが天王洲スフィアメックスで行われていたガーディアン・ガーデン演劇フェスティバルで初演した『三月の5日間』(*2)を見て、すごく感動しました。個人の実感を伴う表現だからこその真実味があり、若者のくだらない日常とイラク戦争という世界の大きな問題がこんな風に繋がっているし、繋がっていない…その距離感が、私の等身大の感覚と重なってきました。家族のゴタゴタと、でもやっぱり何かしなきゃいけないという社会的なプレッシャーと、テレビの中とかにあるキラキラした世界の嘘っぽさと──この頃、感じていたこの距離感が自分の活動の原点になっているように思います。 - 中村茜さんやプリコグの特徴とも言えるのが、周りにいるクリエイターの幅の広さです。そうした幅の広さから生まれた新たな視点のプロジェクトが多く、ジャンルに特化した制作会社との違いになっています。その人間関係はどのように培われたのでしょう。
- 意図したわけではありませんが、思い返すと、学生時代にアルバイトをしていた吉祥寺のSTAR PINE’S CAFÉは音楽のサブカルチャーの発信地でした。その頃の体験もあって、いろんなジャンルの観客を混ぜたいとか、パフォーミングアーツの面白さはもっと広く届くはずだといった思いがずっとあります。
そもそもプリコグを創設したのは小沢康夫さんという、クラブイベントや舞踏や映画祭など多方面でプロデュースをしていた人で、私もその横断的な視点にすごく共感していました。また、STスポットで関わりのあった桜井圭介さんが、2003年にオープンした森美術館の「第1回六本木クロッシング」展(2004年)の関連事業に企画協力することになり、私も関わってコンテンポラリーダンスの企画をやりました。これがきっかけになって生まれたのが、2005年から10年間続いたアサヒ・アートスクエアでの「吾妻橋ダンスクロッシング」(*3)です。ダンスといっても幅広いパフォーミングアーツをディレクションしたもので、これも今につながる私のジャンル横断的な志向に影響を与えていると思います。 - 『三月の5日間』のブレイク以降、チェルフィッチュ/岡田利規さんの海外での活躍は、日本の同時代演劇においても特筆すべき現象だと言えます。中村さんはプロデューサーとしてどのように考えていたのでしょうか。
- 当時の小劇場演劇では、いわゆる「小劇場すごろく」(キャパの小さな劇場から出発し、徐々に大きな劇場に上演会場を移してビジネスとして成立させることをゴールとする考え方)のようなことが言われていました。でもそうしてビジネスの方向性を探りながら観客を増やす考え方では、(当時の岡田さんの創り方では、俳優との共通言語の獲得に時間をかけていたこともあり)アーティスティックな活動は守られないんじゃないか、そうではない活動がつくれないかと思っていました。私の出自がダンスで、勅使川原三郎さんやダムタイプなどの国際的な活動に親近感をもっていたことも影響していたと思います。
PARC(NPO法人国際舞台芸術交流センター)が主催し、国内外の先端的な舞台芸術を紹介する「第2回ポストメインストリーム・パフォーミング・アーツ・フェスティバル」(2006年)のプログラムとして『三月の5日間』を六本木のSuperDeluxeで再演しました。それをブリュッセルのクンステン・フェスティバル・デザールのディレクター、クリストフ・スラフマイルダーが見てくれて、2007年のフェスティバルに参加することが決まりました。それで、セゾン文化財団の支援を受けて欧州フェスティバルの視察に行くと、「君たちは何がしたいのか? したい事に対して資金を提供する」と日本では考えられないオファーがありました。国際共同制作でこんな風に投資してくれる人達がいることにとても感動しました。国際的に活動していければ、ビジネスのために妥協しなくて済みますし、国際的な展開に賭けたいと思いました。
2007年の『三月の5日間』がブリュッセルで話題になったことで、パリ日本文化会館公演にフェスティバル・ドートンヌのディレクターが見にきてくれるなど、ヨーロッパでの公演が繋がっていく兆しが見えました。クンステンにしても、ベルリンのHAU(Hebbel am Ufer)やフェスティバル・ドートンヌにしても、美術、音楽、ダンス、演劇といったカテゴリーを横断して表現をしているアーティストがたくさんいました。そして観客とフェスティバルや劇場との間に信頼関係があるので、当時、全く無名の岡田さんの公演にも観客が集まる。加えて、例えばHAUでは劇場を街に拡張し、移民のコミュニティに入ってパフォーマンス化する取り組みもしていました。演劇が地域社会と接続できる可能性、街づくり、教育、福祉にも演劇が果たせる役割があることを感じました。このような経験が、飴屋法水さんと朝吹真理子さんらが国東半島全域(大分県)を舞台に滞在制作した10時間のツアー型パフォーマンス「いりくちでくち」(2012年〜2014年)や、2011年KAAT神奈川芸術劇場でHAUと共同キュレーションで日本特有の小劇場文化と世界の動向の接続を試みるプログラム「世界の小劇場」の開催にも繋がりました。 - 以来、様々なフェスティバルから招聘されるようになり、世界中に活躍の場を広げていきます。他方、国内では、美術館やギャラリーでの上演・展示、アートプロジェクトへの参加など美術分野に活動が広がります。近年では、映像演劇(2018年に熊本市現代美術館で開催したチェルフィッチュ個展)(*4)や『消しゴム森』(2020年に金沢21世紀美術館で開催したチェルフィッチュ展示×上演)など、チェルフィッチュの表現を美術館で展示として発表することも増えてきました。
- 『三月の5日間』をSuperDeluxeというライブハウスでやったことが、チェルフィッチュは劇場ではなくギャラリー空間でも公演できるという対外的なプレゼンテーションになったところがあります。SuperDeluxeに見に来た建畠晢さん(当時の国立国際美術館館長)から誘われて、国立国際美術館のギャラリーで上演しました。その頃からチェルフィッチュを美術領域のパフォーマンスとして位置付けるような予兆がありました。並行して岡田さん自身は新国立劇場や世田谷パブリックシアターの主催で劇場公演を演出していますが、結局、そちらの方向は選びませんでした。
思い返すと、当時、東京にはオルタナティブ・スペース文化といったものがあったように思います。SuperDeluxe、原宿のVACANT、倉庫を改装したギャラリーみたいなところなど。プリコグでもSNACというスペースを開設しましたが、今では閉じてしまったところも多いです。一方、2000年代に入ってから各地でアートフェスティバルが開催されるようになり、チェルフィッチュは2008年の水沢勉さんが芸術監督を務めた横浜トリエンナーレ、2010年の建畠晢さんが芸術監督を務めた第1回あいちトリエンナーレ、それから2016年の「第1回さいたまトリエンナーレ」でキュレーターの森真理子さんに呼んでいただき、初めて「映像演劇」というコンセプトで作品を発表しました。 - ちなみに、プレゼンターとしてアジアに目を向けるもの早くて、一時はタイで生活されていました。
- チェルフィッチュが紹介されるようになった2007年から2010年あたりは、ヨーロッパが日本ブームでした。HAUが2010年に企画した「TOKIO-SHIBUYA : THE NEW GENERATION」(*5)に、チェルフィッチュ、快快、庭劇団ペニノなどが一緒に行きました。バーゼルやチューリヒでも日本特集が組まれました。その後、「アジア・フォーカス」のような視点が出て、ヨーロッパでも「アジアとは何だ」といった議論が行われました。
そうした流れの中で2015年に韓国・光州に国立アジア文化殿堂がオープンします。初代芸術監督のキム・ソンヒはオープン前からアジアの現代性についてのリサーチプロジェクトをスタートしたのですが、私はそのチームに参加していました。アジアの定義も実態も掴めていませんでしたが、リサーチプロジェクトでは、1960年代以降の日本におけるコンテンポラリーなパフォーミングアーツのコンテクストがどのようにチェルフィッチュとそれ以降に繋がったのかという、自分が行っている活動の文脈についてプレゼンしました。土方巽さん、寺山修司さんの領域横断的かつ市街でも展開していくような創造性を日本のコンテンポラリーの基軸に据え、勅使川原さんやダムタイプがいてチェルフィッチュに至る、というような話です。
リサーチにはインドネシアから当時、ジャカルタ・アーツ・カウンシル・プログラム部門長を務めていたヘリー・ミナルティ(Helly Minarti)、フィリピンからインディペンデント・アート・スペースを運営しているグリーン・パパヤ・アートプロジェクト(Green Papaya Art Project)のマーヴ・エスピナ(Merv Espina)などが参加していました。また、中東やカザフスタンの関係者も参加していて、いろいろな人が自分たちのコンテクストを語りあうような場になりました。
リサーチを通じて、自分はアジアについて理解する視点が足りてないと感じたので、アジアン・カルチュラル・カウンシルのフェローシップを受けて、2016年から1年半ほどタイに滞在しました。滞在中は、『プラータナー:憑依のポートレート』(*6)や「Jejak旅 Exchange」(*7)を準備しながら、アジアの現代性やアーティストがパフォーミングアーツをつくる必然性のようなものを少しずつ体感していきました。
アジアと一口に言っても国ごとに事情が全く異なるため、最初はどう作品と現地を結びつけて考えればいいのか皆目見当もつきませんでした。それは今、障害のある方と作品を作るときに感じる戸惑いと似ている気がしますが、どちらもわからないところから模索していきました。 - 昨年2月20日に厚生労働省がイベント自粛要請を出し、それ以降、多くのイベントが中止になりました。チェルフィッチュの海外公演や、プリコグの活動にも大きな影響があったと思います。
- 2020年2月には『消しゴム山』(*8)でチェルフィッチュのニューヨーク公演が予定されていました。そのための舞台美術を船便で送ったのですが、コロナで輸送が乱れて中国で足止めされてしまった。公演に間に合わず、「美術を全部買い直したら200万円、公演を中止したらキャンセル料700万円」。究極の選択で、買い直しました。結局、それが最後の海外公演になり、後はすべてキャンセルになりました。
国内では、東京オリンピック・パラリンピックに併せて日本財団が主催した「True Colors Festival〜超ダイバーシティー芸術祭〜」(*9)の事務局をプリコグが委託されていました。2020年9月までいろいろなイベントが行われる予定だったのですが3月末でフェスティバルの中止が決定。事務局も4月に解散し、プリコグが有期雇用していたスタッフ20名の仕事がなくなってしまった。
その頃、国内の舞台芸術マーケットを繋いできたエンターテイメント系媒体やチケット系媒体が、コロナ禍での公演キャンセルなどにより、観客を繋ぎとめる求心力が弱まるのではないかということに問題意識を持ちました。欧米の劇場はレパートリー作品の映像配信をして観客を繋ぎとめているのに、日本では劇団や制作団体が個別に配信してはいても情報が分散して伝わらない。SNSで告知しても、限られた人数しか集客できないといった事態になってしまった。これまで積み上げてきた日本のパフォーミングアーツのマーケットが壊れてしまうかもしれないという危機感を持ちました。オンライン上にはNetflixやAmazon Primeなど、面白いコンテンツを有するプラットフォームがあるし、舞台芸術に人々の可処分時間が割り当てられなくなるのではないだろうか、と。
そういう危機感を持ちながら、昨年の4〜5月はイギリスのNational Theatre Walesなど、オンライン上のシアター/アートセンターについて金森香さんたちとブレインストーミングをしていました。金森さんと私は、2009年に一緒に設立した一般社団法人ドリフターズ・インターナショナル(*10)の理事で、True Colors Festivalのチームでした。現在、彼女はprecogの執行役員を務めてくれています。これまで横浜市の施設をアートセンターとして運営する構想を一緒に立ててコンペに臨んだこともあり、「多様なユーザーのアクセシビリティを強化したオンライン上のアートセンターみたいなものが必要なのではないか」という問題意識が一致して、企画を考えていました。
ちょうど文化庁の文化芸術収益力強化事業の企画公募があり、「THEATRE for ALL」のコンセプトで応募しました。プリコグのスタッフにはTrue Colors Festivalの知見が共有されていたので、THEATRE for ALLでも活用できると考えていました。 - True Colors Festivalについてもう少し詳しく教えてください。
- True Colors Festivalの主催者である日本財団からは、障害・性・世代・言語・国籍の5つの多様性をパフォーミングアーツに内包し、顕在化させてほしいというミッションを受けていました。2019年の9月から東京でオリンピック、パラリンピックが開催されるまでの1年間、毎月様々なジャンルの文化イベントを行い、ダイバーシティをテーマに作品をつくり(多様な人々が参加できる創作方法をつくることを含む)、ダイバーシティな客席をつくる。「客席をつくる」というのは、多様な人々が情報にアクセスできるような情報保障のシステムをつくる、多様な人々に対応した客席をデザインするといったことです。そういうことを様々なジャンル、様々な会場において実装できることを目指す挑戦でした。
新型コロナウイルス感染症の影響により、2020年2月公演までで中止になったためプログラムの半分しか実施できませんでした。でも、このフェスティバルに参画したことが、プリコグが福祉領域に関わるようになる原動力になりました。私たちは、国際事業を通じて多様性について考え、もともと違う文化圏の人たちの間を繋いできた。福祉との協働を「異なる文化圏」と捉えればできることがあるんじゃないか。異なる文化圏に作品を届ける時にどういう“翻訳”が必要かを実践してきたわけですから。一方で、福祉の領域には差別や偏見と闘ってきた社会的・歴史的な蓄積があり、“翻訳”の力だけでは足りません。プリコグだけでここに飛び込む勇気がもてなかったのですが、共同のパートナーがいれば何かやれるのではないかと思いました。
ちなみにTrue Colors Festivalでは事務局として、イベントの進行管理、制作、広報、票券、各種問い合わせ対応、ボランティアの運営に加えて教育普及のプログラムを担当しました。こうしたすべての業務領域に「アクセシビリティ」に対する意識が関わってきます。障害のある人たちの送迎、劇場内のバリアの解消、客席や楽屋の設計、広報の文字の大きさ、読み上げリーダーが読みやすいウェブサイトの設計、点字資料の手配など‥‥。また、接客については、テーマパークや航空会社のアテンドの知見を頂いてスタッフの育成プログラムをつくり、イベント運営において実践しました。
実際にやってみて大きな発見がいろいろとありました。そもそもこれまで障害のある観客に対して全く想像力が働いていなかったことに気が付きました。無意識の排除が自分の中にあったと反省しましたし、全てが学びの機会でした。障害は個人にあるものではなくて、社会との関係にある。だから社会の側のバリアを取り払うことができれば、障害という社会的認識を変えることに繋がるのではないかーーこういう考え方が指針になりました。鑑賞につながる情報保障をすることや、障害当事者による創作や当事者の視点をもつ作品が生まれることが当たり前になれば、差別や偏見を取り払っていくきっかけになるのではないかと思いました。 - THEATRE for ALLは文化庁の補助金で実施したバリアフリー型の動画配信事業です。多言語対応した映像や、バリアフリー字幕、手話などアクセシビリティの工夫が行われています。
- THEATRE for ALLのコンセプトは「誰でも、いつでも、どこからでも繋がれる劇場」です。アクセシビリティ、つまり、何らかの情報保障が発表作品に付いていることを必須にしています。手話通訳、音声ガイド、バリアフリー日本語字幕、多言語対応、アーティストによる作品の音声化など。加えて、芸術に対して人々が感じる「敷居の高さ」もバリアだと捉えているので、そこのアクセシビリティを高めるのも目標のひとつに掲げています。
コンテンツは30作品ありますが、その内、公募で選ばれたのが20作品で、美術、映画、演劇、ダンス、落語、神楽など様々なジャンルが入っています。これまでの名作またはアーティストの転機となった作品、障害当事者が創作した、もしくはインクルーシブな視点のある作品、コロナ禍における文化芸術を支える人たちのドキュメンタリーがあります。
それからラーニング・プログラムのコーナーでは、哲学対話やMoMAの対話型鑑賞のメソッドを提供してもらい、耳が聞こえない人や理解がゆっくりな人など、様々な方を交えた対話の場をどうつくれるかを試みています。また、コミュニティ・プログラムでは、そもそも鑑賞機会のない障害福祉施設の方々に対して、何が課題になっているのかを洗い出すためのワークショップや上映会をやりました。
THEATRE for ALLを構想したときに、私の中には日本の公立劇場の役割を問い直したいという思いもありました。顧客が少ないからという理由でインディペンデントなアーティストが活動できる場がどんどん小さくなっていますが、それでいいのでしょうか。例えばウィリアム・フォーサイスはブーイングとスタンディングオベーションが半々にある客席を理想としていましたが、それはすごく健全なことだと思います。アーティストが価値観を社会に問い、観客が各々の発言権をもって応答し主張する。賛否両論を耕すことによって、公立劇場が社会の民主制に寄与する場となるのは一つの美しいあり方だと思います。THEATRE for ALLはそういう思いを込めて構想しました。
こうした公立劇場のような「公共空間」をどうつくっていくかは、公立劇場という環境がある状況の中でキャリアをスタートした我々の世代(40歳代以下)にかかっていると思います。モデルをつくっていかなければならないと感じています。 - 実際にTHEATRE for ALLに取り組んだ感想をお聞かせください。
- 現在の演劇や劇場の制度そのものがマジョリティの視点で構成された文化であり、形態であると痛感させられました。例えば手話ですが、手話が第一言語の人にとっては、手話なしで、日本語字幕がつくだけでは十分に理解できないことがあるそうです。手話がどれだけ言葉として独立した文化を持っているのか痛感させられました。ですから、THEATRE for ALLではただ文字を置き換えるのではなく、どういう風に手話に翻訳するのかを情報保障の制作をお願いしているパートナーのパラブラさんやTA-Netさんと議論しながら進めています。それはつまり、手話は手話としての作品や手話ならではの世界観がもっとあっていいということです。
様々なアクセシビリティを調整するひとつひとつにこうしたことがありました。視覚障害者向けの音声ガイドは、見える人が何を見ているのかを解説するものですが、アーティストからすればそうした説明よりもそのままを感じてもらいたい。それで作品に「“音声作品”としての情報保障」を付けるという試みをしましたが、視覚障害者の方々に賛否両論を巻き起こしました。
今はまだいろいろなことが実験段階なので、「モニター検討会」というアーティストと障害当事者が出会う機会を意識的にたくさん設けました。例えば、作品の実験段階で様々な種類の障害を持つ方にそれぞれ鑑賞してもらい、どのように感じたかを意見交換する。見えない人と見える人が一緒に参加する場でのワークショップを考えるなど。創造のパートナーとしていろんな立場・属性の人たちが、より対等に意見を交し合える関係づくりを目指しています。 - 障害のある当事者が表現する取り組みも増えているように思いますが、主体的な鑑賞者として捉えるというのがTHEATRE for ALLの特徴かもしれませんね。
- もちろんTHEATRE for ALLでも、障害当事者による作品を見ることができます。ただ、「当事者がつくった作品」「健常者がつくった作品」とカテゴライズしたくなかったので、公募の際はインクルーシブな視点で創作された作品かどうかという点で選考しました。
近年、障害者の創作を支援する様々なプログラムも提供されていますが、これに対して障害当事者の団体からは今まで鑑賞の機会も触れる機会も与えられていなかったのに「つくれ」というのは暴力的だ、という意見もあります。それはその通りだと思います。視聴環境がなければ刺激を受けることも、インスピレーションを得ることも難しい。そもそも、こうしたことを議論したり、創造活動に関心を持つことも難しいというのが障害福祉の状況だと認識しています。日本では、例えばジブリ作品のようなポピュラーな作品を障害当事者が鑑賞する環境も十分に整えられていないのが現状だと聞いています。
THEATRE for ALLは配信プラットフォームとして立ち上げたものなので、障害当事者が広く視聴・鑑賞できる基盤になることには注力していきたいと考えています。 - 障害当事者による表現という意味では、異言語Lab.『没入型映像 イマージュ』(*11)の発表の仕方は発見に満ちたものだと感じました。オリジナルは16分の実験映像ですが、それを視覚化、聴覚化など4種類の異なる情報保障により展開しています。健常者と様々な障害当事者の間で何が翻訳可能で何が翻訳不可能なのか、といったことをすごく考えさせられました。障害を持った人の世界の見え方、世界の現れ方がそれぞれ固有のものである、ということに改めて気付かされました。
- 異言語Lab.は、ろう者、もう者、健常者のアートユニットです。今回の作品では「見えない人」「聞こえない人」「見えないし聞こえない人」「健常者」のそれぞれの世界で5種類の作品を用意しています。
彼らは様々な障害の有る無しによる世界の現れを「環世界」(*12)という言葉で考えています。それぞれの生物は自分自身の持つ知覚によってのみ世界を理解しているから、全ての生物にとって客観的な環境や世界はなく、生物各々が主体的に構築する独自の世界がある、という考え方です。これを聞こえない人や見えない人に置き換え、作品をそれぞれの視点で捉えて作品化しています。
今回の作品の総監督をつとめた和田夏実さんは、ろう者の両親に育てられた健常者で、第一言語が手話という方。だからそこの翻訳に長けています。創作過程ではそれぞれが違う立場から切実に議論して、価値観をぶつけ合いました。こういう実験、プロセスや問題意識は障害者か健常者か、ということを越えた表現者としての先見性があるものだと思います。表現のあり方としても、アクセシビリティについて考える上でも、続けていきたい取り組みです。 - THEATRE for ALLはインターネット環境によっていろいろな人たちに開かれる可能性、それによって広がるパフォーミング・アーツの表現の可能性を示したように思います。
- これまでプリコグにはなかった広がりや、アーティストとの繋がりが生まれました。これを今後にうまく活かしていきたいと思っています。
THEATRE for ALLのオンライン座談会で、鈴木励滋さん(生活介護事業所カプカプ所長)が、「福祉作業所は日常のためにある。作品の発表のための非日常な場所である劇場に障害当事者が関わるとき、当事者はその非日常についていけず、消費され、擦り減っていくような感覚がある」という話をされていました。アーティストが創作のアウトプットだけを目的として追求するのでなく、「日常としての創作のプロセスそのものに意味がある」という実感を、障害当事者の皆さんや市民と分かち合えるようになるといいのだと思います。今後そうした可能性も探っていきます。 - コロナ禍によりチェルフィッチュの劇場公演ができなくなったことから、オンライン配信にも取り組まれました。オンライン配信についてはどのように考えていますか。
- チェルフィッチュでは『消しゴム山』のライブ配信とアーカイブ配信、『消しゴム山は見ている』では観客席からは見えない角度から撮影して配信しました。岡崎藝術座『カオカオクラブ・オンライン』(*13)では、舞台公演としてやろうとしていたことを、音声、映画、PDF文書の3つの形態で創作し、オンライン配信しました。しかし、リアルな観客に出会うことができないと、どちらもあまりリアルタイムでは手応えを感じられない、というのが正直なところです。
つまり、配信というのは、生の舞台の「いま・ここ」という一回性や同時代性ではなく、記録性や未来の観客との出会いということを視野に入れた取り組みなんだというのがよくわかりました。映画にはポストプロダクション(撮影後の作業の総称)という考え方・作業がありますが、そういうことも学んで、これから丁寧にやっていきたいと思っています。これまでチェルフィッチュでは、舞台作品をつくるとそれで2〜3年世界をツアーする形で仕事をしてきました。岡田利規さんが「初演の時は0歳の赤ちゃんで100回目に成人する」と言いますが、そうやって作品を成長させてきた。コロナ禍で世界ツアーは思うようにいきませんが、上映会をやるとか、プラットフォームで配信するとか、バリアフリー版を整えるとか。初演後2〜3年かけて、未来の観客を創出するデザインを考え、ポストプロダクションを実装していきたいと思っています。 - 岡田利規さんは演出家として招聘されてコロナ禍でもドイツで創作活動をされています。国際的な活動についての展望があれば聞かせてください。
- 2021年5月現在、海外ツアーは基本的に止まったままで、復旧の見通しが立っていません。リアルに動くことができないので、今後のプロジェクトとしては、市原佐都子さんの作品を多言語(中国、インドネシア)のオンライン・パフォーマンスにして配信し、地域を跨いで観客を繋げる対話の場をつくるといったことを考えています。
岡田さん個人に対するオファーは既に3年先まで予定が入っていて、このコロナ禍でも絶え間なくオファーがきます。ただ、チェルフィッチュでの実験が岡田さんの創作には欠かせないエッセンスなので、本体の活動ができない中で想像の種を切らさないよう注意が必要かもしれません。また、チェルフィッチュで音楽劇を製作する国際共同制作の計画もありますが、今の状況では海外から日本に来てもらってクリエーションするより、私たちがヨーロッパに行く方が現実的かもしれないと思案しているところです。
岡田さんやチェルフィッチュのようにすでに知名度があれば活動は考えられますが、今回のコロナ禍で大きな打撃を受けているのは若い世代です。日本の若いアーティストは海外に出かけて成長して帰ってきていたのに、その機会を奪われてしまった。明日の公演、次の公演の見通しも立たず、成長の機会も奪われたら、未来への希望を失ってしまうと思います。THEATRE for ALLではそこにアプローチできなかったのが反省材料です。若手枠を設けましたが、応募がありませんでした。
なので、今、オンライン・シアターという特性を活かして、別の方法でもう少し広く若いアーティストの育成を支援することができないか考えなければと思っているところです。