丸岡ひろみ

国際舞台芸術交流のオーガナイザー
PARCの歩み

2014.02.03
丸岡ひろみ

丸岡ひろみHiromi Maruoka

PARC理事長
舞台芸術に関わるプロフェッショナルが各国から横浜に集う国際舞台芸術ミーティング「TPAM in Yokohama2014」が2月8日から16日まで開催される。その実行委員会に国際交流基金などとともに参画し、事務局を務めているのがNPO法人国際舞台芸術交流センター・PARC(Japan Center, Pacific Basin Arts Communication)である。PARCは、20年にわたって蜷川幸雄のプロデューサーを務め、1983年に『王女メディア』で初の海外公演を成功させた中根公夫が舞台芸術の国際交流事業を行う非営利団体として構想したものだ。1990年に「環太平洋舞台芸術専門家会議(Meeting for Pacific Basin Arts Communication)」を呼びかけ、PARCを発足(2002年NPO法人化)。セミナーなどにより舞台芸術の国際交流の啓発を行うとともに、1995年に東京国際舞台芸術フェスティバル(TIF)と併設して第1回芸術見本市・TPAM(Tokyo Performing Arts Market)を企画する。以来、さまざまな変遷はあったものの、PARCは事務局として海外との窓口を一手に引き受けてきた。

『王女メディア』の海外公演から数えて30年──日本における国際舞台芸術交流のオーガナイザーとしての歩みを振り返るとともに、マーケットからミーティングへと衣替えしたTPAMについて、丸岡ひろみ・現PARC理事長にインタビューした。
聞き手:岡崎松恵、坪池栄子
まず、PARC(国際舞台芸術交流センター)について教えてください。
 PARCは、舞台芸術の国際交流に寄与することを目的として1990年12月に設立されました。当時は任意団体でしたが、2002年にNPO法人化しました。同年11月に開催された「環太平洋舞台芸術専門家会議(Meeting for Pacific Basin Arts Communication)」が母体となっているため、そこから英語名称をとってPARC(Japan Center, Pacific Basin Arts Communication)と命名されました。今では、この英語名称の意味がよくわからないと言われますが、当時は環太平洋の舞台芸術マーケットを構想していて、PARCはその日本センターという位置づけでした。

 現在実施している事業は、1995年に開始した芸術見本市「TPAM(Tokyo Performing Arts Market)」を引き継いだ国際舞台芸術ミーティング「TPAM in Yokohama(Performing Arts Meeting in Yokohama)」や2012年から始まった「サウンド・ライブ・トーキョー」の企画制作などです。ちなみに、後者は東京都の事業で、音と音楽の可能性を追求するフェスティバルです。その他に1990年から文化庁からの委託で「舞台芸術交流年鑑」を作成しています。 

 組織の規模は、私を含めて常勤スタッフが5人、TPAM期間中は10人ぐらい。予算は年度によって前後しますが、年間で8,000万円ぐらいですね。
PARCの創設者である中根公夫さんは、商業演劇にアンダーグラウンドで活躍する蜷川幸雄さんを初めて登用した東宝の名プロデューサーだった方です。海外公演といえば古典か一部の前衛だった時代、舞台芸術が輸入超過だった時代、1983年に『王女メディア』で日本の現代演劇の本格的な海外進出を成功させた功労者です。中根さんはどのような思いでPARCを発足したのでしょう。
 私がPARCの職員になったのは98年なので当時のことは詳しくわかりませんが、『王女メディア』の海外公演を企画した当時、東宝にそのためのスキームがなかったので、その都度特例的な扱いで実施するしかなかったと聞いています。それで数年後に、中根が個人として海外公演事業を中心にした制作会社「ポイント東京株式会社」を設立しました。その流れの中で、当時パリで開催されていた舞台芸術見本市「マルス」に参加し、日本において国際舞台芸術交流をオーガナイズする非営利団体をつくろうと構想したようです。

 そのために呼びかけたのが、「環太平洋舞台芸術専門家会議」です。東・東南アジア、オーストラリア、アメリカという環太平洋を対象にした非常に大きな会議で、錚々たるメンバーが集まりました。松竹の故・永山武臣会長をはじめ、国際交流基金などの団体の方々、田村光男さん(現・PARC理事)、高萩宏さん(現・東京芸術劇場副館長)、佐藤まいみさん(現・さいたま芸術劇場プロデューサー)、金森美弥子さん(現・ホリプロダクション専務取締役)。そして海外から、台湾の現代演劇の父=ウー・ジンジーさん、シンガポールのリュウ・チン・チョイさん、ロサンゼルスの日米文化会館のジェラルド・ヨシトミさんなど。この会議の参加メンバーからボードメンバーを選び、理事長に永山会長、事務局長に中根が就任してPARCは発足しました。

 当初は主にセミナーや会議を企画し、自治体や文化財団などと協力しながら「舞台芸術交流セミナー」を各地で展開していました。93年には各国の代表的なフェスティバルを紹介する「世界芸術フェスティバル・サミット」を開催。国際交流基金などとともに、モントリオールのアメリーク演劇祭(現・フェスティバル・トランスアメリーク )、アヴィニヨン演劇祭、エジンバラ国際フェスティバル、香港アーツフェスティバル、アデレード・フェスティバルなど、当時、一堂に会する機会のなかったフェスティバル関係者を招聘しました。

 88年には池袋で2年に1度の「東京国際演劇祭’88池袋」がスタートしていましたが、いろいろあってPARCが95年から事務局を引き受けることになり、「東京国際舞台芸術フェスティバル(TIF)」と名称変更し、マルスを参考に念願の芸術見本市・TPAM(Tokyo Performing Arts Market)を併設して立ち上げました。
ちょっと振り返ってみたいのですが。東京国際演劇祭は、文化事業に力を入れていた西武百貨店や東武百貨店を中心に池袋に拠点のあった民間企業が推進母体となって立ち上げたものです。バブル経済が崩壊したことによる紆余曲折があり、95年に東京都が財政的に大きく支援するTIFとしてリニューアルされました。その時に事務局を引き受けたのがPARCです。その後もフェスティバルを継続するための紆余曲折があり、2000年以降はNPO法人アートネットワーク・ジャパンが事務局機能を引き継ぎ、現在の「フェスティバル/トーキョー(F/T)」へと展開します。一方、PARCはTPAMを引き継ぎ、運営体制や内容を変えながら年1回、20年近く継続し、現在に至っているわけです(97年度のみ休止)。そもそも95年当時にTIFに併設して芸術見本市を立ち上げたのは、何か特段の意味があったのでしょうか。
 舞台芸術の国際交流で言うと、当時、新宿梁山泊や第三エロチカなどいくつかの劇団がドイツや東欧の演劇祭に参加していました。しかし、ドイツ語圏における演劇祭はドイツ語の芝居しかやらないなど、自分の文化的コンテクスト以外の作品を国境を越えて上演するのはまだまだ難しい時代だったと思います。そういう中に日本の現代舞台芸術を押し出していきたい、そのためにはどうすればいいかが課題でした。中根は商業演劇畑の人でしたが、PARCのボードメンバーとの繋がりもあって当時台頭してきたアングラ演劇や若手劇団にも通じていました。それで、TIFで燐光群、新宿梁山泊、第三エロチカ、解体社といった次世代の小劇団を取り上げるとともに、プレゼンターが集まる見本市を開催しました。
第1回のTPAMは、どのようなものでしたか。
 出展者が出展料を払ってブース展示を行い、参加費を払ったプレゼンターや関係者が見て回るというものです。落語や古典も含んでいて、日本の舞台芸術の全ジャンルをカバーしようとしていました。テレビに出演しているような有名人を呼んだセミナーもあり、メトロポリタンプラザで2日間開催しました。

 当時、私は解体社の制作をしていて、95年のTPAMとTIFの両方に参加しています。大学で演劇サークル活動をしていたのですが、利賀フェスティバルに解体社のメンバーとして参加し、本格的に関わり始めました。また、92年からPARCをアルバイトとして手伝うようもなっていました。

 ちょうど解体社は、海外に新たな活路を見出そうとしていた時期だったのですが、海外公演をしたいと思っても、誰かの伝でフェスティバルや劇場を紹介してもらってアプローチするしかなかった。たまたまそこのディレクターに気に入ってもらえなければ、道は閉ざされてしまうわけです。

 ところが、TPAMのブース出展をきっかけに、ユーロカズ・フェスティバルに招聘されて、クロアチア国内3カ所でのツアーが実現した。その時の観客やプロデューサーたちの反応が非常にダイレクトで、それが劇団の転機になりました。その後も海外から声をかけていただきました。TPAMに参加して、ダイレクトに海外のプレゼンターと話す機会をもつことが、海外公演への一番の近道だと私自身が身を以て知りました。ただ、当時はTPAMの参加団体はとても幅広いジャンルだったので、効果がないと言う団体の方が圧倒的に多かった。

 当時はパソコンもオフィスに1台、インターネットもそれほど普及していなかったので、誰をどのように繋いでいけばいいかイメージが湧かない。TPAMに出展すれば、世界中から、日本中から人が来るから公演が売れる。売れなければそれは劇団の実力がないからだ、という感覚だったと思います。

 翌96年度には東京国際フォーラムの会場提供によりTPAMの単独開催が決まり、2002年までその状況が続きました。96年度(97年2月開催)のブース出展数はこれまでの最大規模で、約400団体が出展し、海外からフリー・レイセン やアデレード・フェスティバルの伝説的なアーティスティック・ディレクター、ロビン・アーチャーなどを招聘して多彩なセミナーも開催されました。その頃は、国際交流基金、地域創造、全国公立文化施設協会、日本芸能実演家団体協議会が主催団体でしたが、ミッションの違いからその体制は長続きしませんでした。

 ちなみに私は、97年に劇団を辞め、翌年、PARCの職員になりました。しかし、実行部隊は2人しかいない状況で、私が経理、広報、出展団体の窓口を引き受けていました。TPAMの機会をもっと海外公演に興味がある団体に活用して欲しいと思いながら、目の前のことをこなすので手一杯の状況でしたね。
当時を振り返って、どう思われますか。
 いま思えば、1995年〜2002年のTPAMは、インフラを整える時期だったのではないかと思います。私自身も世界の舞台芸術見本市がどのように行われているのかを知らないで、漠然と携わっていた。資金的な問題も抱えていました。でも2000年頃から海外に視察に行くようになり、そこで行われている当たり前のことができていなかったと気づきました。
具体的にどこを視察し、どんな発見がありましたか。
 ニューヨークのAPAP、モントリオールのCINARS 、アデレードのオーストラリア・パフォーミング・アーツ・マーケット、シンガポールのアジアン・アーツ・マート(AAM)などに行きました。どこも、ショーケースをきちんとディレクションしていましたし、コミュニケーションの機会をたくさん作っていました。セミナーだけでなく、朝食ミーティング、ランチ、レセプション…交流しながら話す機会がものすごく多かった。夜も飲みながらずっと朝まで話したり、徹底的に「参加者同士の出会いの場」として運営されていました。また、費用を負担してプレゼンターの招聘も行っていました。

 私もそうでしたが、当時の日本の舞台芸術関係者の認識は、一生懸命良い作品をつくればピックアップされるという感覚で、受け身でした。でも、もし一緒に仕事をする、一緒に作品をつくるのだったら、まずは相手のことを知らなくちゃいけない。少なくとも制作者と言われる人は、相手が何を求め、自分たちはどう応えられるのか知らなくちゃいけない。TPAMはそういうお互いを知り合える場になるべきだと思いました。
丸岡さんは、2003年から1年間、PARCを離れて、文化庁の在外研修生としてニューヨークに滞在。2005年に帰国してからTPAMのディレクターに就任されます。
 9.11以降、ニューヨークのアーティストがどんなことをしているのかを知りたかったというのがありました。1年間の滞在で、違う文化的コンテクストを持った人間がいるのが当たり前だと思えるようになったのと、音と音楽の新しい表現に刺激を受けました。2003年にPARCで「ポスト・メインストリーム・パフォーミングアーツ・フェスティバル(PPAF)」をプロデュースした経験もあったので、帰国後は招聘プロデューサーになりたいと思っていました。でも中根からTPAMの事務局長をやらないかと打診され、引き受けるならディレクターをやりたいと伝えました。

 通常、舞台芸術見本市には最高責任者やオーガナイザーはいてもディレクターはいません。しかし、TPAMは複数団体が参画した実行委員会形式で運営されているため、はっきりした方向性を打ち出すにはディレクター制にする必要があると考えたからです。
ディレクターになり、日本語名称を「芸術見本市」から「東京芸術見本市」に改称し、「同時代の舞台芸術に携わるプロフェッショナルのネットワーク構築」を重視する方針を出されました。どのような変更をされたのですか。
 対象を同時代の舞台芸術にフォーカスしました。商業演劇や古典は他にマーケットがあるけれど、非商業的パフォーミングアーツは同時代の表現として国際的なニーズがあるにもかかわらず支える仕組み、交流する仕組みがなかったからです。国内でもこうした表現を受け入れている劇場は限られていました。

 それから、完全に和英のバイリンガルにして、TPAMはプレゼンター(作品と観客を繋ぐ仕事をしている人)のための国際的な催しであることを明確にし、アピールしました。また、ランチミーティングやレセプションなど、直接話しのできる機会を増やしました。TPAMに参加するとどんなアーティストと出会えるのかを明解にするために、ショーケースをすべてディレクター制にしました。また、海外の舞台芸術見本市でTPAMのプレゼンスを上げる努力をしました。TPAMのブースをAPAP、CINARSなどに出展したり、ブリティッシュ・カウンシル やケベック州政府などの海外の文化行政機関および国際交流基金の協力により日本のプレゼンター派遣を仲介したり、日本の舞台芸術を紹介するセミナーを海外で実施したこともあります。

 そういう中で、徐々に“ネットワーク”というキーワードが確かなものになっていきました。プレゼンターという専門家のための国際的な催しというからには、参加するとある一定のネットワークに繋がれなければ意味がない。それで海外のプレゼンターのネットワーク会議との繋がりを強化していこうと考えました。そこで出会ったのがIETM(International Network for Contemporary Performing Arts)です。2008年にIETMのアジア会議に参加したのですが、非常にフランクでカジュアルなミーティングで、これならTPAMでもできるのではないかと思いました。当時の事務局長、マリー・アン・ドゥブリーグ のネットワークの考え方や、同時代の舞台芸術に関して専門家同士が思考を深めていける会議の作り方に大いに感化されました。それで、TPAMをネットワークの場に変えていく契機として、同年、IETMのサテライトミーティングを開催しました。
当時の舞台芸術見本市の国際的な潮流もネットワークに向かっていたのでしょうか。
 概ねそういう方向に向かっていたと思います。ショーケースを見て、そこから招聘する作品やカンパニーを買い物をするように選ぶのではなく、知り合って、一緒にやりたいと思える相手を探した方がいい仕事ができるとみんな思っていた。見本市で見たものを買う、あるいはフェスティバルで他のディレクターが優れていると一定の評価をしたものをただ招聘するというのを嫌がるようになっていました。

 見たことのないもの、これからの新しい価値が生まれるかもしれない場をつくらないとTPAMは役割を果たせない。世界のプレゼンターとフランクに話が出来て、劇場にかかる前の、もう一つ手前の場所として、玉石混淆かもしれないけどいろいろなものに出会えるのがTPAMというプラットフォームの役割なんだと考えました。プロだったらそういう場に来て、新しい可能性を開拓して欲しいとも思いました。
2011年には開催地を東京から横浜に移して、英語名称を「Market」から「Meeting」に変更されました。若手ディレクターによるショーケースにも力を入れています。
 提携してもらえる会場の都合で転々としていましたが、神奈川芸術劇場(KAAT)から複数年にわたる会場提供の申し出があり、また、横浜は創造都市に力を入れている地でもあるので思い切って移りました。現在は、国際交流基金、神奈川芸術文化財団、横浜市芸術文化振興財団、PARCが実行委員会を組んで主催しています。

 横浜は創造都市を目指して、徒歩圏内に複数のアートセンターが立地する創造界隈を形成してきました。そういう街への回遊性が高くなっているのが横浜に移ってからの特徴です。期間も9日間と長くなっています。

 プログラミングでは、わざわざダイジェストのショーケースをつくって見せることにあまり意義を感じられなくなり、TPAMの期間中に自分たちの公演としてフルパフォーマンスで行うものを登録する「TPAMショーケース」の枠を拡大しました。と同時に、TPAMの事務局として新しい表現の方向性を示すために、若い複数のプロデューサーをディレクターに起用した「TPAMディレクション」を始めました。ディレクターは今のところは私が選んでいますが、彼らには、日本語や日本のコンテクストを知らない人が見ることを意識して欲しいということと、TPAMでしかやれないことをやって欲しいと要望しています。
95年にスタートしたTPAMは、紆余曲折がありながらも、約20年にわたり海外プレゼンターの窓口としての役割を果たしてきました。いろいろな人脈が培われたと思いますが、この間の蓄積についてお話ください。
 TPAMには毎回約150人程度の国内外のプレゼンターが参加し、TPAMで把握しているプレゼンターのコンタクトリストは6000人を越えています。海外との繋がりを意識した仕事をしている国内のプレゼンターはほぼTPAMに参加していますし、海外のネットワークとも繋がっています。IETM、CINARS、エジンバラ・ショーケース、ヨーロッパの代表的なフェスティバル(ウィーン芸術週間、クンステン・フェスティバル・デザール 、シアター・デアベルト、チューリヒ・シアター・スペクタクル など)に加え、インドネシア・ダンスフェスティバル、ソウルのPAMS、韓国・光州の大型アート・コンプレックスなどアジアの新しいネットワークともコンタクトを密にしています。今回のTPAMにはオーストラリア・アーツ・カウンシルを通じたネットワークの人たちが新たに参加することになっていますし、メルボルンで開催されるIETMのアジア大会の紹介も行われる予定です。今ではTPAMの海外におけるプレゼンスは格段に上がっていて、知らない人はあまりいません。

 最近ではTPAMでの出会いから新しいプロジェクトも生まれるようになってきました。例えば、2013年に光州・高知・金沢で上演されたサイトスペシフィック作品『ONE DAY, MAYBE いつか、きっと』は、ドリームシンクスピーク、高知県立美術館、金沢21世紀美術館、韓国のアジア・ナウによる英日韓3カ国の国際共同制作によって生まれたものです。
ネットワークでは、丸岡さんが副理事長を務める「ON-PAM(舞台芸術制作者オープンネットワーク)」という新たな組織が2013年に立ち上がりました。現在は全国各地の公立劇場・民間劇場・制作会社の関係者、フリーランスのプロデューサーなど約150人の会員がいます。経緯や目的、TPAMとの関係をご紹介ください。
 ネットワークについては、「プロジェクト・コンソーシアム」「アソシエーション」「オープン・ネットワーク」の3つに分けて考えています。プロジェクト・コンソーシアムは1つの作品を一緒にツアーするなどといった場合に立ち上がるもの、アソシエーションは自分たちの利益を守るために共闘していくタイプのヒエラルキーのあるもの、オープン・ネットワークは誰でも出入り自由で間口が広く、いろいろなサブ・ネットワークを抱えているものというイメージです。

 ON-PAMは、情報交換や勉強をしながら、なぜ私たちはこの仕事をしているのかといった理念を一緒につくり、政策提言に繋げましょうという集まりで、地域毎のミーティングを行うことも特徴のひとつになっています。2008年のIETMでオープン・ネットワークという概念を知り、いつかできるといいなと思っていました。3.11という経験をして、みんなで話し合う場に対する機運が盛り上がってきたのと、セゾン文化財団 の後押しがあり、立ち上がりました。TPAMはその下支えができるプラットフォームになれればいいと思っています。
最後に、長年にわたって舞台芸術の国際交流の現場に携わってきて、新たな傾向や課題といったものが見えてきていますか。
 欧米各地のフェスティバルの大きな課題のひとつに、いかに若者を劇場に惹きつけるかがあります。観客の高齢化が進み、どこのフェスティバルのボランティアも高齢化しています。日本の同時代的な作品は、若者を劇場に惹きつける力があると評価されています。

 2010年に快快がチューリヒ・シアター・スペクタクルで最優秀賞(ZKB Patronage Prize)を受賞した時、私も審査員として関わっていましたが、若い審査員が「彼らは私だ。あのどん詰まりで希望のない状況は同じだ」と言うわけです。それに加えて、今まで見たことがない洗練された美学やセンスがある。そういうものとしてチェルフィッチュに代表されるような作品が呼ばれている。加えて、街に入ってそこに物語や仕掛をインストールするようなタイプの演劇を招聘するところも増えています。いずれにしても、歳を取ってしまった舞台芸術というメディアをどう若返らせるかが欧米の大きなテーマになっていると思います。

 一方、アジアは正反対で、街が若い。例えばインドネシアの平均年齢は約28歳です。しかし劇場に行くお金が無い。フラストレーションを抱えた若者はどういうコンテクストの中にいて、どういう表現が必要とされているのか。これはアジアとのネットワークを考えるうえで非常に重要なテーマになっています。これまでだと「マハーバーラタ」のようなアジアの特徴や個性を生かしながらグローバルなコンテクストに影響を与える表現が評価されたかもしれませんが、実際の現場を歩くともっと違うものが求められていると感じます。

 もっとユニークでローカルな感覚が養われていて、違うローカルと違うローカルの交流がオーバーラップするようなネットワークが必要とされている。ヨーロッパから優れていると言われる作品を呼ぼうという発想ではなく、自分たちがまだ手にできていないと思われる個人主義、あるいは民主主義や自由というものへの憧憬はあるから知りたいし、交流したいと思う。それに対してどう応答していくかが、TPAMでもON-PAMでも大きな課題になってくると思います。

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