クリストフ・スラフマイルダー

現代アートの潮流を生み出す震源地
ブリュッセルのクンステン・フェスティバル・デザール

2008.02.29
クリストフ・スラフマイルダー

クリストフ・スラフマイルダーChristophe Slagmuylder

1967年ブリュッセル生まれ。ブリュッセル自由大学(ULB)にて現代芸術史を学んだ後、国立高等視聴覚学院(ENSAV)の教師となる。94年よりベルギー人振付家ミシェル・ノワレ、ピエール・ドウルレ、トーマス・ハートのカンパニーや、ローザス主宰の振付家アンヌ・テレーザ・ケースマイケルが設立した舞踊学校「P.A.R.T.S.」などにおいて制作として関わる。ブリュッセルの小劇場テアトル・レ・ラヌールの芸術監督アシスタントを経て、2002年にクンステン・フェスティバル・デザールのプログラム担当となり、芸術監督フリー・レイセンの右腕として活躍。06年フリー・レイセンの引退に伴い、フェスティバルの芸術監督に就任。

ベルギー・ブリュッセルで毎年5月に開催される現代舞台芸術フェスティバル「クンステン・フェスティバル・デザール」。先鋭的なプログラムで知られ、若手アーティスを発掘し、国際共同制作に力を入れ、世界初演がプログラムの約半数を占めるなど、世界のフェスティバル・ディレクターが注目するアンテナ・フェスティバルとなっている。日本の岡田利規もここから世界に羽ばたいたクンステン・フェスティバル・デザールの2代目芸術監督、クリストフ・スラフマイルダー氏にその歩みと今後の展望を聞いた。
聞き手:相馬千秋 2007年12月18日 於:国際交流基金
まずクンステン・フェスティバル・デザール(以下KFDA)が成立した背景についてお伺いします。KFDAの初回開催は1994年ですが、その前年にはEUが発足しその本部がブリュッセルに置かれると同時に、ベルギーが連邦制を導入するなどブリュッセルを取り巻く社会状況が大きく変化した時期でもありました。こうした社会状況の変化とフェスティバル誕生にはどういった関係があったのでしょうか。
 KFDAは、1994年、フリー・レイセンによって設立されました。彼女にとって、ブリュッセルに先鋭的な国際フェスティバルが存在することは極めて重要でした。当時のブリュッセルは欧州の「首都」としての国際的な地位を確立しようとしているにも関わらず、文化面では他の欧州の大都市に比べて遅れていました。また、フランス語圏(ワロン地方)とフラマン語圏(フランドル地方)という二つの共同体によって分断されているベルギーにおいて、ブリュッセルは、国内で唯一、両方の言語が公式に使用されている都市であるという特殊な事情もあります。昔からベルギーでは、文化的な活動は完全にそれぞれの共同体に属するものでした。それぞれの共同体に文化省があり、助成金システムも劇場もそれぞれの共同体に属しているわけです。KFDAでは、2つの共同体が唯一共存しているブリュッセルにおいて、この分断の構図を少しでも壊し、どちらの共同体の市民に対しても開かれた、また国際的なアーティスト、ブリュッセル在住のアーティスト、そして両方の共同体のアーティストと共に行うフェスティバルを目指しました。また財政面においても、当初から両方の共同体からの資金導入を行い、KFDAはどちらか一方の共同体のためのフェスティバルではなく、ブリュッセルのための、ブリュッセルにおける国際フェスティバルなのだ、ということを強く主張しました。もちろんこれは多くの困難を伴う作業で、毎年のように政策決定権を持つ人たちとの戦いを強いられます。というのもKFDAは、フランス語圏のフェスティバルだ、あるいはフラマン語圏のフェスティバルだと政治的に宣伝することができないフェスティバルですから、行政的にはとてもやりずらいどちらにも属さないシステムの外にあり、決して政治的な判断を優先しないわけですから。今となってはKFDAは国際的にも有名なフェスティバルとなって、行政側もその存在を軽視することはできなくなっていますが。
ということは、つまり、フリー・レイセンはこの「欧州の首都」という政治的コンテクストの中でフェスティバルのアイデンティティを確立しようと意図したということですか?
 そうとも言えるし、そうではないとも言えます。フリー・レイセンは常々、ブリュッセルは文化面および思想面においての野望に欠ける都市だと考えていました。EUの発足は、まず何よりも経済のプロジェクトに過ぎない。フリー・レイセンが望んだのは、ブリュッセルが単にEUの行政首都になる、ということではなくて、知性と文化の欧州首都になるということでした。ヨーロッパの中心部に位置し他の大都市からもアクセスしやすい、という地理的条件は、規模だけ見れば他の大都市に比べて小さいブリュッセル(人口100万人)に、多くのことをもたらしてくれたのは事実でしょう。またブリュッセルは、ベルギーにおける二つの共同体間の緊張関係の中で、ベルギーという国のアイデンティティについて考えざるを得ない場所でもあります。ベルギーは1830年に発足したばかりの新しい国であり、また独立前も後も常に周辺国から占領されてきた歴史がある。ドイツやフランス、イギリスといった欧州のほかの大国のように伝統的で強い文化的アイデンティティは持っていない。「ベルギーのアイデンティティ」といったときに、何か判然としない、明確には定義できない感じがする。しかし、そのことが逆に面白いというか、だからこそ多くのことが可能となるわけです。重厚な遺産がないからこそ、ベルギー、特に今日のブリュッセルでは、過去や伝統にしがみつくのではなく、未来に向って開かれた精神の場を持つことができる。このことは、ベルギーの芸術状況にも顕著に現れています。小国ベルギーでこの30年間、現代芸術のすべての分野で、極めて豊かな状況が続いています。そして、このようなコンテクストの中で新しいフェスティバルがブリュッセルに誕生したことは決して偶然ではないと思います。つまり精神が開かれているということ、そして国家としての強いアイデンティティの欠如、文化的ブランド力の欠如が、逆にアバンギャルドなプロジェクトを後押ししたのではないかと思うのです。アバンギャルドという表現は的確な言葉ではないかもしれませんが、新しい芸術形式・言語を擁護する場として、こうしたコンテクストは欠かせないものだったと思います。
ベルギーでは80年代から、ヤン・ファーブル、ヴィム・バンデケイビュス、ヤン・ローワース など、フラマン語圏出身のアーティストが大勢、国際的に活躍していましたね。こうしたアーティストたちのコミュニティは、アントワープにあったのですか?
 アントワープだけなく、ブリュッセルでも活動をしていました。ヤン・ローワース率いるニードカンパニーやローザスなどは当時からブリュッセルに拠点を置いていました。
KFDAの創設者フリー・レイセンは、92年まで自らが立ち上げたアントワープのDe Singel の芸術監督を務めていました。
 そうです。De Singelの設立経緯は、KFDAとはまたまったく別で、しかも面白いんです。De Singelはもともと、芸術学校(コンセルヴァトワール)として計画され、生徒たちのために作られた巨大で技術的にもハイスペックなホールがありました。彼女は最初、そのホールのコンシエルジュ(管理人)として採用されたんです(笑)! 彼女は、このホールがとにかくベルギー国中でも類を見ないほど素晴らしいホールで、これがアーティストのために強力な道具となると感じた。そこで行政や政治家に掛け合い、この場所を世界中からアーティストを招聘し作品を発表できる場にするよう説得したんです。当時ベルギーにはこれほど大きな舞台やハイスペックな技術機構を持つホールは他になく、ここならば、ベルギーで唯一、ピナ・バウシュなど世界的カンパニーの大規模な作品を上演できる、と。彼女はとことん戦って、もともとコセルヴァトワールとして計画された場を国際的なアートセンターにしたのです。今日でもDe Singel には学校としての機能と、アートセンターとしての機能がありますが、それはまさにフリー・レイセンの意志とアイディアによるものです。80年代初頭まで、ベルギーにはほとんど世界的アーティストはいませんでしたが、De Singelの存在はまさにその誕生にも大きく貢献しました。例えばヤン・ファーブルもDe Singel の恩恵を受けた一人です。De Singelという世界に直結した強力な場所で、世界のほかの偉大なアーティストの作品と平行して作品を発表し、創作活動を行っていた時期があります。このように80年代から90年代にかけて、De Singelはベルギーのアートシーンにとってまさに「灯台」のような象徴的な場だったのです。
なぜ彼女はDe Singel を辞めて、ブリュッセルに新しいフェスティバルを立ち上げようとしたのでしょうか。
 彼女は常に変革を望み、ある地位に安住して状況が固定化することを好まない人です。De Singel で10年間にわたって様々なことを実験し発展させた上で、その場を次の世代に譲り、自分は次なることに着手しようとしたのです。彼女はDe Singel を辞めてから少しして、本当に自分がやりたいことは、国際的な野望に欠けるブリュッセルで、先鋭的なフェスティバルをすることだと思い立ちました。このプロジェクトのアイディアを得てから彼女は2年をかけて、ようやく第一回のフェスティバル開催を実現しました。92年にDe Singel を辞めて、94年がKFDAの第1回です。
クリストフさんはKFDAが始まった90年代初頭はどんな活動をしていたのですか? そしてどういった経緯で2002年よりフリー・レイセンと共に働くことになったのでしょうか?
 もともと大学では現代芸術史を勉強して、卒業後は教員としてブリュッセルのエコール・シュペリュール(高等教育機関)で授業を持っていました。それと平行して舞台芸術の現場では多くのダンス・カンパニーの制作やアドミニストレーターもやりました。アンヌ=テレーザ・ドゥ・ケースマイケルの学校PARTSでも働いていました。生徒たちによる特別公演を企画したり、卒業後の進路カウンセラーをしたり。そんな中でKFDAのフリー・レイセンと出会い、2002年に彼女から一緒にプログラムをやらないかという誘いを受けました。彼女は94年当初から一人でプログラムを作ってきましたが、私と出会う頃には、プログラムを変革し、もっと先に進むために、アイディアを交換できるパートナーが欲しいと考えていたようです。どんなフェスティバルにもそれまでやってきたことを見直し、問題提起をする節目となる時期があるのでしょうが、フリー・レイセンにとってはKFDAができて既に8年が経ち、ブリュッセルを取り巻く状況も設立時から大きく変化している中で「我々は続けるべきか? 続けるのならばどのように?」という問いを、誰かと一緒に問い直す必要があったのです。こうして私は2002年よりフリー・レイセンのパートナーとして働き始め、彼女と私のコラボレーションは、彼女がフェスティバルを去る決断をするまで発展・継続しました。彼女は2006年を最後にフェスティバルを去ったわけですが、そもそもディレクター任期の設定があるわけではなく、しかも彼女自身が創出したフェスティバルをこのような形で辞任するのは異例のケースかも知れません。KFDAはいかなる公的権力からも独立していて、もともとはフリー・レイセンという一個人の独立したイニシアティブによって生まれたフェスティバルです。もちろん国からの支援はもらっていますが、行政が彼女にブリュッセルにフェスティバルを設立するよう依頼したわけではない。ですから彼女が望めば留まることができたのでしょうが、彼女はこのKFDAというプロジェクトの更なる発展のために次世代に引き継ぐことを選んだのです。
フリー・レイセンがKFDAを立ち上げたときは、彼女はたった一人だったのですか? それともアドミニストレーターなど別のコラボレーターはいたのでしょうか?
 コ・ディレクターがいました。ギィドー・ミン という、90年代のベルギーのカルチャーシーンにおいて重要な人物です。彼は1994年の第一回開催から、彼が2000年ブリュッセルの欧州文化首都のためフェスティバルを去るまで、財政面や運営面を担当するジェネラル・ディレクターを務めていましたが、芸術的な面でもフリー・レイセンを助けていました。
クリストフさんがKFDAのチームに合流する以前は、このフェスティバルを外部からどのように見ていましたか? 何か新しいムーブメントのようなものを感じていましたか?
 1994年の第一回開催は、とにかくブリュッセルでのアートライフにとって、重大な事件として受け取りました。第一回から、国際的なアーティストと地元ブリュッセルのアーティストがプログラムされ、中には非ヨーロッパ圏のアーティストも紹介されていました。例えば中国、香港、台湾の、現代芸術をやっているアーティストがプログラムされていたのですが、当時こうした国々から伝統芸術ではなく現代的表現が紹介されることは極めて稀なことでした。また、地元のアーティストによる新しい形式の表現のクリエーションを促し、こうしたアーティストが国際的なコンテクストの中で作品を発表することを促しました。ブリュッセルないしベルギーで活動するアーティストたちの視点と、国際的なアーティストたちのもっと幅広い視野を同じ場で取り上げること。また地元のアーティストの作品を海外のプロフェッショナルに見てもらう機会としても重要でした。
さらに、フランス語圏とフラマン語圏の関係でいうと、KFDAは自前の上演会場を持っていないため、公演ごとに会場となる劇場やスペースと協働しなければならないのですが、フランス語圏とフラマン語圏両方の劇場やアートセンターが会場になるというのは、当時は極めて稀なことだったんです。そもそもフランス語圏とフラマン語圏の劇場やアートセンターは、2つのまったく異なるサーキットに属していて、お互いまったく相手のことを知らなかったし、知り合う理由もありませんでした。つまり知り合うことの相互的なメリットもなかった。双方にそれぞれ助成機関があり、それぞれの観客がいて、劇場のプログラムだって自分たちの言語でしか書いていないわけです。芸術を取り上げるメディアもすべてフランス語圏、フラマン語圏に完全に分かれているわけで・・・今となっては少し変わってきていますが、90年代当時は完全に分かれていました。テレビもフランス語圏放送とフラマン語圏放送に分かれていて、文化情報など必ずしも同じ話題を取り上げる必要はないわけだし……。
とはいえ学校教育では、もう一方の言語を学ぶんですよね?
 確かにもう一方の言語は第二外国語としてかなり早い段階から必修科目になっています。けれど、2つの言語が公用語として指定されているブリュッセル以外の国内のほとんどの地域では、もう一方の言語を話さなければならない状況はほとんどありません。
行政機関が分かれ、完全に分断されたこのような状況は実に驚くべきものですが、KFDAがどのように受け取られていたかという先ほどの質問に答えるならば、まさに、この2つの分断されたコミュニティ双方に属する劇場のディレクターが集まり、同じ議論のテーブルについたということだけでも、大きなインパクトを持つ事件だったといえます。現在、状況は大きく変化し、他方の言語の作品を上演したり、翻訳字幕をつけたり、プログラムも2カ国語で表記する劇場が増えてきましたが、これは90年代にはまったくもって想像も出来ないことでした。ですからKFDAは、人々がブリュッセルという都市の中をより開かれた形で行き来し、共にとらえなおしていくことに大きく貢献したといえるでしょう。
これだけKFDAが二つのコミュニティの共存に貢献したにも関わらず、最近のベルギーの政治状況たるや…!(笑) 二つのコミュニティの対立はさらに鮮明なものとなり、新政府が発足しないという非常事態が数カ月続きました。この矛盾した状況をどうお考えですか?
 一番深刻なのは、今日の政治状況が、民主的な選挙によって選ばれた政治家たちによって生まれているという点です。国内では、特に北部フラマン語圏の経済的にとても豊かな地域で、北部=フラマン語圏と、南部=フランス語圏の分離を支持する動きが高まっています。これは何よりも経済的な理由によるものなんです。非常に複雑な話になりますが、これまでお話したように文化については行政組織が言語圏ごとに完全に分かれていますが、例えば社会保障といったいくつかの行政分野では、省はひとつしかありません。これらさえも分離し、各言語圏の権限を強めようとする動きが高まっているのです。これは私たちのフェスティバルが試みてきたこととは相容れない考え方です。またこうした事態はブリュッセルという都市にとっても深刻です。というのもブリュッセルは、フランス語圏でもフラマン語圏でもなく、ワロニー、ブランドルという二つの地方とならぶ、都市圏として独立した行政区と考えられているため、二つの言語圏が分離してしまったら、どこにも属さないことになってしまう。
それでも厚生、税、社会保障といった分野でさえも行政機関を分離しようという動きは強まる一方です。その理由は、最も裕福な北部の人々が、他の地域、そもそも自分たちと同じ言語すら話してないやつらのために税金を払い続けるのはもう御免! ということなんですが…(苦笑)。非常に深刻な状況です。
欧州の首都として国境を開いていこうという理念のすぐ横で、こんなちっぽけな領土の中でさえ合意できず、逆に国境を閉ざしてその境界を定義しようとする、ますます小さくなろうとする動きは、実に恐ろしいものです。文化的統一感の中に安住し、経済的な快適さのために他者の文化に対する不寛容を増大させるという……実に憂慮すべき状況です。
そして、ブリュッセルにはもうひとつのコミュニティ、移民コミュニティが存在していますね。
 そのとおりです。私が芸術監督になって最初のフェスティバルは2007年ですが、もちろんこれまでの路線を継承し、その哲学を基礎としながらも、少しずつ私自身の個人的な色も出していきたいと考えました。そのためにはフェスティバルのコンセプトやミッションを再定義し、新しいボキャブラリーを投入することが重要でした。2007年は、「アーバン(都市的な)」「コスモポリット(国際的な)」なフェスティバルである、という言葉を断固として使いました。私にとっては、フランス語圏、フラマン語圏という問題の外側では、都市は極めてコスモポリタンであり、その中には実に多くのコミュニティが存在している。しかもこうしたコミュニティは単純に共通言語によってだけでは定義することができず、近くに住んで同じ趣味を持っているとか、興味の中心が同じとか、インターネットで繋がっているとか、そうした形でコミュニティはますます多様化していると思います。ですから単純に言語ということではなく、ブリュッセルや東京のような大都市において、多くの異なるコミュニティが交錯している。私たちが支持したいのは、まさにこうした「コスモポリット」な状況に対するヴィジョンです。そしてこれらの異なるコミュニティが共存し、それぞれが殻の中に閉じこもるのではなく、互いを知りあうことが重要だと言えること。例えばチャイナタウンなどは都市の中で孤立した「ゲットー」を形成していて、もちろん家族的な雰囲気を保ちたいという意図も分かりますが、私たちが面白いと思うのは、むしろそれぞれコミュニティが、その差異を携えながらも出会うときの衝撃、対峙というものなのです。
それでは、いよいよクリストフさんがディレクションされた2007年以降のフェスティバルにフォーカスしていきたいと思います。まずは基本的な情報からお伺いします。まずフェスティバルの運営組織ですが、非営利団体(アソシエーション)の形態をとっていますね。団体の理事はどういった方々ですか?
 理事は、文化や思想のジャンルの人物たちで、全員ベルギー人です。やはり理事の構成もフランス語圏、フラマン語圏両方のバランスには気をつけていまして、プレジデント(理事長)も二人います。彼らは皆、政治からは完全に独立した人物たちです。政治中枢とのパイプ役は果たしてもらえないかも知れませんが、逆に政治的な圧力からは一切自由であるという点で、非常に良いと思います。理事会は年に4回ほどしか開催されませんが、彼らは一種のコントロール機関として機能しています。彼らは決してプログラムに介入したり、私に何かするよう強制したりはしませんが、私がプログラムを発表する前には相談して意見を聞いたりできる貴重な人々です。また毎年フェスティバルが終わった6月には、一緒にフェスティバルの総括をして、評価にも立ち会ってもらいます。ですから理事会は私にとって、コントロール機関であると同時に、貴重なレフェランス(拠りどころ、参照すべきもの)でもあるのです。1994年の設立当初にフリー・レイセンが集めた人物もいますし、その後新しく加わった人もいます。
次に事務局チームについて伺います。芸術監督のクリストフさんに対して、アドミニストレーションを統括するコ・ディレクターがいらっしゃいますよね?
 はい、ロジェ・クリストマンといって、財政面やアドミニストレーションを担当するコ・ディレクターがいます。この共同ディレクション体制は非常に貴重なもので、彼がファンドレイズや各プロジェクトの組織運営に集中してくれるおかげで、私は芸術面のプログラムに集中することができます。彼は私より早く2001年からチームに入り、私と彼の共同ディレクションは公式には2006年6月からです。
2人のディレクターのほかに、常勤スタッフは何人いますか?
 この質問は、本当に答えるのが難しいですね。9カ月、10カ月の間業務をお願いしている人たちもいますが、彼らは100パーセントの常勤スタッフではないにしても、期限つきの雇用契約に基づいて働いてもらっています。常勤スタッフとして、つまり無期限の雇用契約のもとに働いているのは、私とロジェを含めて6名ですね。加えて4名が、9カ月ないし10カ月間働いています。以上の10名が、フェスティバルの核となるスタッフです。そのほかに、多くの短期雇用スタッフがいます。彼らは1月、2月からフェスティバルの終わる5月まで働いています。
KFDAといえば、フランス語、フラマン語、英語の3カ国語で書かれた分厚いプログラムや、観劇前に配られるプレスリリースのテキストの量と質が素晴らしいですね。また海外演目の字幕も完全にフランス語・フラマン語の2カ国語対応にしていらっしゃいますが、こうした膨大なテキスト作業はどのように行っているのですか?
 まずプログラムの出版やウェブサイトの編集は、核となるメンバーの一人が責任をもって行っています。彼女がすべての情報を集めて、アーティストにもコンタクトをします。プログラムなどの執筆は、フリーランスの人に依頼したり、一部のテキストは私自身が書いたりで、彼女、私、フリーランスが執筆編集チームを結成しています。ここでまたもや言語の問題があるんですが(笑)、私たちのすべての出版物は3カ国語対応なので、フランス語とフラマン語のフリーランスを雇用して、英語は翻訳家に別途依頼する形をとっています。
作品の字幕については、ずいぶん前から、ある一人の翻訳家とコラボレーションをしています。彼は舞台字幕専門の翻訳家で、他のフェスティバルにも字幕を提供したりしています。国際フェスティバルですから海外のアーティストが使う多様なすべての言語に対応しなければなりません。日本語、ポルトガル語、クロアチア語などなど、とにかく言語が多様です。そこでまず先ほど言った一人の翻訳家に相談して、彼がそれぞれの言語ができる翻訳家を見つけてくる形をとります。また、どの作品も可能な限りオリジナルの言語からの翻訳を心がけていますから、とにかく膨大な作業量です。さらに字幕の映写については、その位置や舞台装置との関係性についてアーティストと直接、徹底的に話し合うようにしています。時には、初日前に何度も字幕つきのリハーサルをお願いする場合もあります。例えば 岡田利規 さんの時は、日本以外の国で上演されるのがはじめてだったため、字幕あわせに多くの時間を要しました。こういった膨大な作業は、国際フェスティバルとしての選択でもあるのです。観客が外国語の作品をより多くの方法で理解できるよう努力することは、国際フェスティバルとして重要です。
次に予算について伺います。KFDAは、他のヨーロッパの大規模フェスティバルに比べると、財政的には「ひかえめ」ですよね(笑)。
 はい、「ひかえめ」です。(笑)フェスティバルの総予算は、2,700,000EURO(=4億3200万円/1ユーロ=160円)です。そのうち基礎的な運営費が50パーセント弱です。フェスティバルの総予算の半分以上は作品など芸術面の制作費にあてられるように努めています。この芸術面の制作費のうち、また大部分を共同制作に支出できるように努めています。というのも、私たちのフェスティバルの大前提が、クリエーション型のフェスティバルであるからです。もちろん既に出来上がった作品を招聘することもありますが、プログラムの半分以上は、我々も制作に参加して支援した新作です。ですからこうした芸術面での支出が総予算のかなりの割合を占めてきます。
共同制作については後ほど詳しくお伺いしますが、KFDAでは経営面、財政面でのストラテジーはありますか?フェスティバルを発展的に存続させていくための基本となる考え方や実践があったら教えてください。
 まず先ほどから申し上げているように、フランス語圏、フラマン語圏の両サイドから資金を導入すること。これはKFDAにとって普遍的な大前提であり、もしどちらか一方からの資金が途絶えたら、我々はフェスティバルを中止しなければなりません。それほどこの問題は我々の存在そのもの、存在意義に関わっていることです。フランス語圏、フラマン語圏双方の文化省とは複数年に渡る契約を結んでいます。フランス語圏との契約が5年、フラマン語圏との契約が4年で、それぞれ更新可能な契約です。この契約では、5年間、あるいは4年間、毎年同じ金額が保障されています。契約の最終年度には、過去5年ないし4年の成果を提出した上で、今後また5年間、4年間で展開したい事業を提案し、次の契約金額を交渉します。この2つの助成金がフェスティバル運営の基礎的な財政基盤となっており、このほかには、複数年にわたる支援を保障する助成金は受けていません。2つの文化省からの助成は、総収入の60パーセント近くを占めています。
この2つの文化省は、プログラムの内容に介入したりはしないんですか?
 プログラム内容への介入はありません。しかし、私たちと文化省の間の関係は、いわゆる契約に基づいているわけですから、4年ないし5年にわたるミッションや目標を定義し、それを実行に移さなければなりませんし、評価についても、毎年、評価報告書を提出します。財政的な評価に加え、批評なども掲載した内容面の評価も必要です。また4年ないし5年後には、複数年度をまとめた大掛かりな評価レポートと、次なる4年、5年の方向性を示す資料を提出します。これはKFDAに限らず、ベルギーで国からの助成を受ける大規模なカンパニーやアーティストたちに対しても同様です。
カンパニーも国と4年、5年タームで契約するのですか? 複数年度支援は芸術団体にも適用されるのですか?
 はい。これは良いシステムですよね。特にフラマン語圏では、すべてのカンパニーが同じ時期に契約更新となるため、国にしても、4年後の国内の芸術状況を想像し、長期的な視野にたって選択することができるという利点があります。事業ごとに助成金をばら撒くのではなく、きちんと全体を俯瞰して助成対象を決めることができる。
いいですね。ぜひ日本の文化庁にも、こうした複数年度の契約に基づく補助金システムを提案してください(笑)。国からの助成の他にはどういう収入源があるのでしょう?
 国以外の助成は、基本的に単年度です。ブリュッセルが属する「地方」、それからブリュッセル市。他にも単年度で申請する助成金はありますが、確実に獲得できる保障はなく、申請可否の結果を知らされるのもフェスティバルの直前、あるいは終わった後の場合もあります。
また2008年からは、初めてEUからの5年契約の助成金を獲得しました。これはKFDAを含む6つのフェスティバルの共同プロジェクトに対する助成です。ロッテルダム、リスボン、エストニア、ヨーテボリ(スウェーデン)、ボルドー の各フェスティバルがパートナーです。彼らと共に、これから5年間に渡って共同制作のプロジェクトを実施していきます。KFDAはこの5つを牽引するリーダーの役割を担っており、我々が対EUの窓口を努めています。
以上のような公的資金導入に関しては、だんだん天井に達しつつあるというか、これ以上の増額は望めないという印象をもっています。ですから少しずつ、民間財団からの資金導入も検討しています。ただしベルギーでは民間財団はまだまだ十分に機能していない領域ですし、またその資金導入については慎重でなければならないと思っています。というのも、私はやはり芸術文化への支援は誰よりも公共が果たすべき役割だと思っているからです。
また、そもそもフェスティバルの規模をこれ以上大きくしたいのかという議論も必要でしょう。過去数年、KFDAでは入場者数(チケット売り上げ数)が2万から2.5万人に達し、特に過去4回は大成功を収め、全演目の動員率も90パーセントを超えています。これ以上観客を増やすことを望むのか、大規模な作品をやることを望むのか、議論が必要です。もちろんこれ以上小さくなりたくはない、ということは明白ですが。あとは、先ほども申し上げたとおり、オリジナルの作品創造のための資金を充実させていきたいとは思っていますが、フェスティバルの規模については、これ以上大きくなるべきかどうか疑問にも思います。3週間に30作品という現状がちょうど良いと思っていますし、そもそも100万人しか人口のいないブリュッセルで、たとえ海外からも多くの観客が来てくれているとしても、それ以上の集客ポテンシャルがあるのか。例えば演目数を2倍の60演目にして動員数を5万人にすることがいいのかどうかは疑問です。やはり自分たちのフェスティバルにふさわしい枠組みというものを見定めることが大切です。
次に、共同制作について伺います。KFDAはなぜ共同制作をするのか、KFDAにとって共同制作とは何を意味するのか、その背後にある哲学とはどのようなものか、お聞かせいただけますか。
 まずフェスティバルをするには2つの方法があると思います。1つは、ショッピングバックを携えて世界中で作品を見て周り、面白い作品をピックアップしてフェスティバルの枠で紹介すること。それはそれで素晴らしいことだし、実際KFDAでも一部のプログラムはこれで成り立っています。もう一方で、フェスティバルは、アーティストが新たな作品を創造し発表するのを支える役割も担っていると考えます。ですからKFDAでは、比較的作品を創造・発表する機会が少ないアーティストにこそそうした機会、方法を差し出したいという意識が強くあります。例えばフォーサイスやローザスは、KFDAでも何度も紹介していて常に私たちの興味をひきつける素晴らしいアーティストたちですが、今、必ずしも彼らの制作にフェスティバルが支援する必然性はない。一方でまだそれほど有名でない若手アーティストが新しい作品にチャレンジすることを、共同制作という形で間接的に支援していくことはフェスティバルの大きな存在意義といえます。
共同制作には2つの側面があります。ひとつは純粋に財政的な側面、つまりフェスティバルがお金を出資=投資するという側面です。二つ目は内容面において、フェスティバルがそのプロジェクト、その作品に対して内容面で支えるという側面です。我々が共同制作をする場合、まず大前提としてそのアーティストに何度か会ったことがあり、彼のそれまでの作品も観てきて、彼との信頼関係が築けていることがあります。私たちは彼を信じ、彼が作品を作ることを心から支えたいと思う。この信頼関係によって、アーティストとの間に盛んなコミュニケーションが生まれ、そのアーティストの現状や今後について相談を受けたり、時にはリハーサルに立ち会って意見を求められたり、時には他のアーティストとのコラボレーションについてアドヴァイスをしたりすることにも繋がるわけです。ですから共同制作には財政的な面だけではなく、芸術的および精神的な支えという意味での内容面と、2つの側面があります。
共同制作に参加するということは、時にまだ自分が一度も見たこともない作品を観客に向かって紹介することになりますから、それなりの勇気や覚悟が必要だし、また観客に対しても説明責任が生じます。それはリスクでもありますが、そのリスクを観客とも共有することが必要です。もちろん観客もそのことは理解していて、共同制作の作品はある種の好奇心をかきたてる、どんなものか分からないなりの楽しみ方、発見をしてくれていると思います。共同制作の場合、これまでの何度かKFDAで紹介してきたアーティストばかりですから、前の作品との連続性の中からそのアーティストへの好奇心が高まるとも言えるでしょう。
共同制作を提案する場合、まず他のフェスティバルや劇場など他の共同制作パートナーとの連携が必要ですし、誰がどのタイミングで共同制作をアーティストに提案をするかについては、様々なパターンが考えられえると思いますが。
 もちろん他のパートナーたちが必要です。KFDA単体として共同制作に出資できる金額は限られていますし、それは作品全体の制作費に対しては十分ではありません。アーティストが既にカンパニーや制作会社など組織をもっていて海外とのネットワークにも通じている場合は、自分自身で共同制作のパートナーを見つけることができますが、まだアーティストが若くて組織力やネットワーク力が弱い場合は、フェスティバル側で海外のパートナーを見つけるように手助けをしてあげます。岡田利規さんの次回の新作もそのようにして、私が他の共同制作のパートナーとのつなぎ役を果たしました。また、アーティストがまったく制作機能を有していない場合は、フェスティバルが完全に作品の制作(プロダクション)を担う場合もあります。つまりフェスティバルが個々の俳優や技術スタッフと直接契約を交わし、作品制作のマネジメントをも担当する。この場合はフェスティバルが制作の主体となり、後から他の共同制作のパートナーが見つかるということもあります。これはフェスティバルから委嘱する特別作品の場合が主ですが、例えば前回のフェスティバルでは、我々からウースターグループ にオペラの制作を依頼し、その制作をフェスティバルが行ったので、我々のほうから他のヨーロッパのパートナーを探し資金を集めました。06年のクリストフ・マルターラーの作品もそうでした。
果たしてフェスティバルが制作機能まで果たすべきかどうかは、我々の間でも議論の分かれるところです。制作を行うには、それに適したインフラストラクチャーが必要ですが、KFDAは事務局のオフィス以外には、劇場やスタジオを持っていません。制作に着手するからには、アーティストやそのチームが集まって作業する場が必要ですし、単にフェスティバルを運営するのとはまた別のノウハウが必要となります。例えば06年にクリストフ・マルターラー の新作をKFDAが製作したときも、作品の巡回も我々サイドで手配し、ツアー先の劇場やフェスティバルと我々が直接契約を取り交わすということがおきました。このように作品制作とフェスティバル運営を両方やっていくのは、先ほども申しましたようにたった6名しかパーマネント・スタッフがいない小組織にとっては、大きな負担となってしまいます。
そのような状況にはとても共感します。幸い私のいる東京国際芸術祭(TIF)は、フェスティバルと平行して稽古場や劇場といったハードも持っていますが、フェスティバルを運営しながら場所を運営し、かつ作品の制作もやっていくというのは至難の業ですよね。
さて、こうした理念に支えられたクンステンで紹介されることは、若いアーティストにとってどんな意味を持っているんでしょうか。例えばクンステンでの初演後、岡田利規さんのもとには世界中から多くのプロポーザルがあったと伺っていますが。
 とても微妙な問題ですね(笑)。確かにKFDAは新しいアーティストの「発見」のフェスティバルとしての評判を得ています。既に評価の定まったアーティストだけではなく、まだヨーロッパで紹介されていないアーティストをヨーロッパに紹介するのが私たちの役割のひとつです。しかし、私が一番重要視しているのは、まず観客です。例えば岡田さんの作品を、私は素晴らしいと思いプログラムに選んだわけですが、その作品を観客と分かち合いたい、という思いが最初にあるわけです。確かにKFDAは海外からの多くのプロフェッショナルが来て、今日の現代芸術の参照点のような存在となっていて、例えば私のように世界中をまわって現地で作品を観ることに多くの時間を割くことが出来ないプロフェッショナルにとっては、KFDAに来ることで世界中の作品を一度に見られる機会でもあるわけです。
しかし、こうした役割や効果を持つKFDAには、逆に大きな責任も生じてしまいます。つまり逆にマイナスの波及効果をもたらしてしまう危険性もある。ある作品が、世界中のプロフェッショナルが集まっている場で、我々が期待したような受け取られ方をしないこともあるわけです。ですから我々は、性急なやり方を避けねばなりません。
とても正直に言って、私はKFDA後に岡田さんに訪れたある種異常な状況を、まったく予想していませんでした。もちろんいろいろな提案をもらうことは彼にとっては素晴らしいことだとも思いますが、一方で、怖い状況だと思います。というのも、どういった形で彼の作品が日本以外の場所で受容され得るのか、彼の作品は日本の若者の生活や言語(スラング)に密接に関わっているので、翻訳の問題にしても、それほど単純な話ではない。実際私が日本以外の場所で始めて紹介したときも、とても怖かったし、これからも彼が次の作品を発表してそれが一作目に比べて成功度が低い場合、あっさりと背を向けてしまう人々が出るのではないか。もちろん私自身は、岡田さんの仕事はそれに耐えうるだけの十分な強度があり、成熟していると信じています。だからこそ慎重に、時間をかけたいと思います。岡田さんの場合は、一作品を一度見ただけですぐに決断できましたが、それはむしろ例外的で、アーティストの作品を4作品、5作品と観て、ようやく6作品目でフェスティバルに招待することを決める場合もあります。ここで慎重にならないと、成功したらそれでもいいですが、失敗したときは本当に悲惨なことになる。フェスティバルには大きな注目が集まっていますから、失敗したら世界中から「だめな作品」というレッテルを貼られることにもなりかねません。だからといって評価の定まった確かなアーティストだけを紹介するということではありませんが、一方で、まだ若くてフラジャイルな状態のアーティストをプログラムすることも避けなければなりません。今日、十分にそのレベルに達したアーティストを注意深く判別し、国際的な批評や評判にも耐えうるかどうかを見定めなければならないのです。
岡田さんがKFDAで成功して以来、日本のアーティストからまるで私が彼らのキャリアを救う「救世主」のような眼差しで見られてしまうことがあるのですが(笑)「KFDAで紹介されれば、世界的に成功する」といった考えは、まったくの幻想で、ある一人の人間にはそうだったかも知れないけれど、他のアーティストにはそうでないかも知れないわけで・・・だからこそこういった問題は、非常に微妙だし神経を使います。
国際フェスティバル間では協力関係もある一方で、ライバル関係でもあります。今、そしてこれから、KFDAはどんなフェスティバルとネットワークを構築していこうとしているのでしょうか。
 まずKFDAはマルチ・ジャンルのフェスティバルですし、多種多様なアーティストと仕事をしていますから、そのプロジェクトによって様々な機関と協働することになります。ですから潜在的にとても幅広いパートナーとの協働が可能です。またフェスティバル開催時期が5月ということは、同時期に開催されるほかのヨーロッパのフェスティバルと連携し同じ作品を巡回させることもあります。ヨーロッパではフェスティバルに限らず劇場などとも連携します。ヨーロッパ以外では、例えば2008年にはシンガポールのアーティストを紹介するので、シンガポール・アーツフェスティバルとの共同制作を行います。こうしたパートナーシップは、むしろ作品ごと、プロジェクトごとの連携であり、恒常的なパートナーシップとは性格が異なります。先ほど申し上げたEUの助成金を受ける6つのヨーロッパのフェスティバル・ネットワークでは、企画の段階から一緒に考えます。その場合、6つすべてのフェスティバルが参加することは必ずしも条件ではなく、6つのうち3つのフェスティバルが参加すれば助成金を受けられる仕組みになっています。このシステムはネットワークの中にも各フェスティバルの自主性・独自性を担保するもので、非常にいいと思います。
つまり、共同制作ネットワークの結果、各地で行われるフェスティバルのプログラムや取り上げるアーティストが似通って単一化してくる危険性も出てくるわけです。ですから、フェスティバル同士のネットワークは良いことですが、一方で各フェスティバルの独自性を保っていくことも必要だと思います。
フェスティバルで世界初演、あるいはヨーロッパ初演を行うということは、KFDAにとってどういう意味があるんでしょうか。一般的に、世界初演を迎えることはある種の「名声」が伴うと考えられていますが。
 この質問に対しては、正直な返答と、不正直な返答、2種類あります(笑)。
まず不正直な返答から。観客にとって、その作品が世界初演かどうかは、まったくもってどうでもいいことです。別の都市で先に公演されていようが、観客にとってはそんなことはどうでもいいわけですから、その意味ではフェスティバル・ディレクターである私にとっても自分のフェスティバルで世界初演を迎えることはそれほど重要なことではありません。
次に正直な返答。とはいえやっぱり、世界初演はある種のプレミア感というか、「名声」が伴うものですし、その新作クリエーションの初演に立ち会うため、多くのプロフェッショナルやジャーナリストが海外からもわざわざ見に来てくれたりするわけですから、決してこの効果を低くみるわけにはいかないと思います。特に、こうした「名声」を評価の対象にする政治家や行政側に海外から多くの観客を動員できるという事実は、今後もフェスティバルを存続させていくための説得材料にもなりますから、私にとっては重要なものです。
また初演を行うアーティストとの信頼関係を築く上でも意味がありますよね?
 確かにそうですが、良くあるのは、KFDAで世界初演をしたときはまだ十分に作品が完成していなくてイマイチだったのに、その半年後に別のフェスティバルで上演されるときはものすごく良く仕上がっていて・・・(笑)なんてこともあるわけです。こうした世界初演にまとわりつく矛盾とどう折り合いをつけていくかは難しいですね。作品が熟成するには時間が必要ですから。そして、また世界初演ということで観客の期待や好奇心は高いけれど、実際には未成熟の作品を観るということでは観客にとって非常に残念な話です。ですから世界初演というのは、いいことも悪いこともある、両義的な賭けのようなものだと思います。
クリストフさんが2代目のディレクターとして目指す方向性やプロジェクトはどんなものでしょう?
 まずはこれまでの継続性というものをしっかり受け継ぐこと、と同時に、KFDAというものを、ひとつのプロジェクトとして捉えることです。KFDAはアプリオリに与えられた自明のものではなくて、ある時間とその連続性の中に位置づけられたプロジェクトです。ですから自分の役割は、フェスティバルの基礎となる哲学をしっかりと継承し、今日の社会の中で、芸術創造を共有すること、個々人の知性と批評性を発展させていくこと、他者と出会い自己を開いていくことを、問いかけていくことだと思います。これらがやはりフェスティバルの基礎となる哲学ですから。その上で、これらの思想をいかにプログラムの中に具体的に落とし込んでいくか、それが私の挑戦です。私はフリー・レイセンとはまた別の世代に属していますし、私なりのヴィジョンを私なりの色、私なりの道でプログラムに反映することが出来ると思います。
自分がまったく関与していないプロジェクトだったら、完全にゼロから、自分自身からスタートしたほうが面白いのでしょうが、私の場合は既に2002年からフリー・レイセンと一緒にプログラムを担当していましたし、彼女から多くのことをゆっくりと時間をかけて引きついで、芸術的な選択もかなりの割合でゆだねられてきたので、私にとっては、これまでとこれからの間にそんな断絶があるとも思えないし、むしろこうした持続性はとても自然なものです。ですから、何か前代とのラジカルな断絶は必要ないと思います。そもそもKFDAは設立当初から常に変化・発展し続けてきたフェスティバルですから、私はこの持続性を大切にしたいと思います。
具体的な変化としては、例えばフリー・レイセンは、どちらかというと地域や芸術的ボキャブラリーのまったく異なるアーティストの作品をいろいろ織り交ぜてプログラミングし、敢えてそうした異質なものの対峙を狙っていたところがありますが、私はあるラインというか方向性をもう少し明確に出していきたいと思っています。
最後に、KFDAの歴史の中で、フェスティバルの価値や特徴を世界に向けて強く発信することに貢献した、象徴的なアーティストについて、何人か名前を挙げてご紹介ください。
 KFDAのかなり初期から何度も紹介し、しかも当初はまだそれほど有名ではなく、今や世界の大御所的な地位を確立したアーティストとしては、フォースト・エンターテイメントのティム・エッチェル 、ソチエタス・ラファエロ・サンツィオのロメオ・カステルッチ などでしょうか。それから、クリストフ・マルターラー は第一回のKFDAで初めてドイツ語圏から外に出たのですが、今やヨーロッパ演劇の巨匠の一人となりました。またアルゼンチンのアーティストともかなり多くの仕事をしてきて、特にエル・ペリフェリコ・デ・オブヘトス は何度もKFDAで作品を創作・発表してくれました。それから南アフリカのウィリアム・ケントリッジ もKFDAの常連ですが、我々が最初に彼に音楽作品を依頼したことがきっかけで、今ではオペラなども手掛けるようになりました。それから中東地域のアーティストもいます。レバノンのラビア・ムルエ はKFDAで三度ほど作品を発表し、今や世界のアートシーンの常連となりました。それからイランの若手演出家アミール・レザ・コーヘスタニ についても同様です。彼が2004年に「Dance on The Glass」という作品をKFDAで発表するまで、彼はまったく無名の若手でしたが、2007年の岡田利規同様、KFDA後にはオランダ・フェスティバルやフェスティバル・ドートンヌといったメジャーなフェスティバルでも紹介されるようになりました。こうしたアーティストにとってKFDAが世界的な活動へのスタート地点ともなりましたし、観客にとってもひとつの衝撃を与えたものでした。そして岡田利規も、私にとってはこの中の一人です。彼もまた、これからのKFDAの歴史に立ち会ってくれるアーティストの一人になってほしいと、心から願っています。

クンステン・フェスティバル・デザール
Kunsten Festival des Arts


ベルギー・ブリュッセルで毎年5月に開催される。パフォーミングアーツを中心とした現代アートフェスティバル。先鋭的なプログラムで知られ、世界の現代アート界のアンテナフェスティバルとも称されている。ヨーロッパ演劇のメインストリームをいくフランスのアヴィニョン・フェスティバルとは対称的に、より実験的な作品および世界の多様性を反映する独自のプログラミングを目指している。ベルギー国内はもとより、ヨーロッパ全域、さらには芸術支援インフラに乏しい発展途上の国々におよぶ世界の若手アーティストを独自に発掘し、多くの作品プロデュースを行なっている。また、長期的視野に立ってアーティストの育成を図るため、複数年にわたり共同制作を行なうと同時に、ベルギーやヨーロッパに拠点を置く実力派アーティストの新作を製作し、世界に先駆けて発表している。世界のパフォーミングアーツの潮流を生み出す震源地の一つとして、確かなブランド力を持つ。プロデュース公演と共同製作公演が、プログラム全体の50パーセントを超え、世界初演が約半数を占める。2006年を最後に立ち上げから芸術監督を務めてきたフリー・レイセンが引退。それまで女史の右腕としてプログラミングを担当してきたクリストフ・スラフマイルダーが芸術監督を引き継ぎ、今後の変革に注目が集まっている。

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