フィリップ・バイザー

国際的な前衛舞台芸術の拠点のひとつ
米ミネアポリスのウォーカー・アート・センター

2008.12.24
フィリップ・バイザー

Photo: Kyoko Yoshida

フィリップ・バイザーPhilip Bither

ウォーカー・アート・センター
シニア・キュレーター
長い歴史をもつ米国ミネソタ州ミネアポリス市のウォーカー・アート・センターは全米屈指の総合アートセンター。東京ドームの1.5倍の敷地に美術館、劇場、彫刻庭園等を備え、近現代美術、舞台芸術、映像、デザイン、ニューメディアなど幅広いジャンルの事業を展開している。

1960年代から時代をリードする舞台芸術のアーティスト支援を続け、レジデンシーや新作委嘱を行ってきた舞台芸術部門について、シニアキュレーターのフィリップ・バイザーに聞いた。
聞き手:吉田恭子[日米カルチュラル・トレード・ネットワーク・ディレクター] 2008年11月10日
ウォーカー・アート・センター(以下ウォーカー)は、全米五指の一つに数えられる総合アートセンターです。特にその舞台芸術プログラムは近現代美術のコレクションや展示とともに国際的に知られています (*1) 。まず、センターの歴史と今日に至るまでどのようなビジョンに基づいて発展してきたのかを聞かせてください。最初はアート・ギャラリーとして始まったとのことですが。
 ウォーカー・アート・センターは、工業化の進むツイン・シティーズ (*2) の名士であったT.B.ウォーカー氏のアートコレクションのギャラリーとして始まりました (*3) 。ウォーカー氏は木材業を営んでいましたが、アートに非常に興味をもっていて、世界中を旅し、古今東西の民芸品から伝統的な絵画まで珍しいアートを収集していて、それを一般に公開したいと思ったのです。最初のウォーカー・アート・センターは彼の自宅の中にありました。ちなみに、ウォーカー氏の自宅のあった土地には、現在、2005年に増築されたギャラリー・スペースが建っています。
ウォーカーが、現代アートにフォーカスするようになったのは1940年代に入ってからです。大恐慌に対処するためにルーズベルト大統領が設立したWPA (*4) のプロジェクトの一環で、ウォーカーは、アーティストに仕事を与えるとともに、広く一般の人々とアートを結び付ける役割を担うことになります。WPAのプログラムのおかげで、ウォーカーはエリートのための美術館ではなく、中西部の一般の人々と芸術を結び付けるための“場”となる大切な基盤が築かれました。現在のウォーカーの教育やアウトリーチ・プログラム、現代アートを広く一般の人々と結び付ける姿勢の基礎は、この時代にまで遡るものだと思います。
1940年代と50年代を通して、ウォーカーは基本的にはコレクションを一般公開するための美術館でしたが、50年代に、センター・アーツ・カウンシル(以下CAC) (*5) というボランティアの委員会が設立され、ダンス、ジャズ、レクチャー、映画など、数々のプログラムを提案し、制作をサポートするようになります。この段階ではまだ、パフォーミングアーツを含むこれらの演目は、ウォーカーの正式なプログラムとして行われたわけではありませんが、それでもウォーカーの旗印の下で上演されるようになり、素晴らしいアーティストが招かれ、時代のリーダーたちの講演なども行われました。それが徐々に正式なプログラムとして行われるようになっていきます。
60年代に入り、ウォーカーはガスリー・シアターでのイベントの担当スタッフとしてジョン・ルドウィグを雇用し、彼がCACの正式な初代コーディネーターを務めました。その後、スザンヌ・ウェイルという女性が雇用され、彼女の下で特に舞台芸術プログラムは大きく発展します。ウェイル氏を起用し、彼女にできる限り実験的でエキサイティングなプログラムを企画するよう奨励したのは60年代初頭からウォーカーのディレクターを務めたマーティン・フリードマン氏で、ウォーカーの転機となった人物です。ジャンルを超えてさまざまなアートを企画することをモットーとしたフリードマン氏の下で、ウォーカーは国際的に知られる存在になっていきます。ウェイル氏はフリードマン氏の期待に応え、ガスリー・シアター (*6) で当時最も人気のあったロックバンドのコンサートを幾度も行いました。ガスリー・シアターも、元々ウォーカーがその誕生に大きく関わっています。ウォーカーのボードメンバーがタイロン・ガスリーにアプローチし、初期資金を提供し、ウォーカーの所有地 (*7) に劇場を誘致したのです。それで、ガスリーが劇場を使用していない時はウォーカーが舞台芸術の企画で使用することができました。
60年代を通して、ザ・フー、レッド・ツェッペリンやフランク・ザッパをはじめとするロックバンドや、多くのフォークシンガーのコンサートが上演されました。当時、ロック系のミュージック業界は今と比べてはるかに未発達で、フリードマン氏もウェイル氏も、1960年代は、ロックンロールの音楽にこそ時代のエネルギーが集中しているのを感じたのだと思います。彼らは、60年代の音楽とロックをつくっていた実験好きでオープン・マインドな世代を、ビジュアルアーツ界の革新的な流れに結び付けたかったのでしょう。
ポップミュージック以外では、チャールズ・ミンガス、マイルス・デイビス、オーネット・コールマンらジャズ界の大御所たち、フィリップ・グラスや、スティーヴ・ライヒをはじめとした現代音楽の草分けのアーティストのコンサートを企画しました。ダンスでは、マース・カニングハムやトリシャ・ブラウンらのレジデンシー・プロジェクトを行ったり、演劇ではマボウ・マインズ、リチャード・フォアマン、ロバート・ウィルソンらを呼んだり、新作の委嘱制作(コミッション)を行ったりしました。
このようなプログラムが70年代から80年代を通して展開しましたが、パフォーミングアーツにとって組織的に重要なのは、1970年に、舞台芸術部門が正式に発足したことでした。それまでは、コンサートや公演はビジュアル・アーツ・センターの補足的プログラムと見られてきましたが、これを転機に正式な部門となり、ウォーカーは本格的に総合(マルチ)アーツ・センターとして発展していくことになります。
70年代から80年代の舞台芸術プログラムは、ウォーカーの建物の外で行われることがほとんどでした。2005年の改装前のウォーカーには、劇場施設がなかったので、ウェイル氏や彼女に続く舞台芸術部のディレクターたちは、ツイン・シティーズの他の劇場と提携したり、街中のスペースを利用したり、アーティストたちに頻繁にサイト・スペシフィックな作品を奨励したりしました。ウォーカーの舞台芸術プログラムが国際的に知られるようになったのは、この頃から国際的に活躍していたアーティストたちが、ウォーカーのレジデンシーやコミッションで作品をつくった後、海外で活動する時に、その経験を業界に広めてくれたからです。60年代からウォーカーでは革新的な海外アーティストとその作品に対して広く門戸を開けていましたが、それでも、主に焦点を当てていたのはやはり米国内のアーティストたちでした。
ウォーカーが舞台芸術のプログラムを始めたのは、難解と思われがちな現代美術だけでは人々を惹き付けるのが難しかったからですか?
 観客開拓のための戦略として始めたというより、理念的に、現代芸術の表現の多様性を認識してのことだと思います。「重要な芸術表現をしているアーティストたちがたまたま、美術ではなく音や動きを使った表現をしているのだから、彼らも、彫刻家や画家と同様に、ウォーカーが支援するべきだ」という認識です。もちろん、結果としてはウォーカーを訪れる人が増えたので、それは素晴らしいことですが、出発点は現代芸術表現はギャラリースペースに納まりきらない多様なものだという理念です。
また、背景として、60年代から70年代を通して米国では、現代舞台芸術家の活躍の場所が非常に限られていたことがあります。当時から著名なアーティストであったジョン・ケージやマース・カニングハムやフィリップ・グラスでさえ、例えば、ニューヨークでも、公演や演奏をする場所があまりなかった。ロングランを行うようないわゆる普通の劇場施設は、マーサ・グラハムやアルビン・エイリーの公演は上演したかもしれませんが、まだ“アバンギャルド”に対して門戸を開いていなかった。そこで、実験的作品をつくるアーティストたちはギャラリーやアーツセンターに活躍の場所を見出す必要があったのです。実際、当時の最も興味深いアート作品は、例えばニューヨークのソーホーのギャラリー・スペース、ロフトや倉庫のスペースで演じられていました。そのような状況下、革新的なアーティストの後ろ盾としてウォーカーのような大規模な組織の名前があることにはとても意味があったのです。中には社会的良識を揺るがすような挑発的なアート作品もあったので、大きな組織の太鼓判があると、容認されやすくなり、例えば米国内のツアーが行いやすくなったりしました。
2005年にウォーカーはセンタービルを増改築して新規オープンしましたが、その時に編集した総合カタログ (*8) で、美術作品に加えて初めて舞台芸術を含む他ジャンルの作品と、そのジャンルの歴史を掲載しました。これで、パフォーミングアーツが正式にウォーカーという組織の歴史に刻まれることになり、とても誇りに思っています。
60年代から舞台芸術の前衛的作品をレジデンシーやコッミッションを通してサポートしてきた組織は、米国内でウォーカーの他にありますか?
 現在、米国の舞台芸術界では、コミッションやレジデンシーに重きを置いていますが、ウォーカーはその流れをつくり、リーダーシップをとってきた先駆けだといえます。
ウォーカーのビジョンが全米に影響を及ぼしたということですね?
 実際、ウォーカーにいたディレクターたちは、その後、業界において非常に大切な仕事をしてきました。例えば、ウェイル氏はNEAへ行きましたし、彼女の後のディレクター、ナイジェル・レディンもNEAでの仕事の後、さらにリンカーン・センター・フェスティバルやスポレト・フェスティバルで指揮を執っています。私の前のディレクター、ジョン・カラーキーはサンフランシスコのイェルバ・ブエナ・センターを経てサンフランシスコ・ファウンデーションで活躍し、ロバート・スターンズは、オハイオ州のワクスナー・センターの創設ディレクターとなり、その後アーツ・ミッドウェストでも重要な仕事をしています。また、ウォーカーより10年から15年ほど後に建てられた全米で約12ほどある総合コンテンポラリー・アートセンター (*9) にとってウォーカーは一つのモデルとなっているのも嬉しいことです。
ツイン・シティーズには、ガスリー・シアター、チルドレンズ・シアター、ミネソタ・オペラ、ミネソタ・オーケストラ、プレイライツセンターなど、ウォーカーの他にも地元に貢献し、全米に影響を及ぼしている文化施設や団体がいくつもあります。何故この地に先見の明をもつ芸術文化のリーダーたちが集まり、活躍しているのでしょうか?
 理由はいくつかあるでしょう。一つには先見の明のあるフィランソロピストたちがいて、アートの組織に多額の寄付をし、方向性をアドバイスしたり、冒険することを奨励したりしてきたこと。地元のコミュニティーには、百年以上も前から個人や家族でミネアポリスが芸術において全米で抜きん出るためにと資金を提供してきた人々がいます。例えば、ターゲット (*10) の生みの親、ケン&ジュディー・デイトンは、前述のウォーカーの転換期、フリードマン氏の提唱した新しい方向性を支持し、何億ドルもの寄付をし、ツイン・シティーズの他の芸術組織にも寄付をしています。
また、ここは助成財団にも恵まれています。マクナイト(McKnight)財団、ジェローム(Jerome)財団、ジェネラル・ミルズ(General Mills)やセント・ポール・カンパニー(St. Paul Company)の財団のほか、文化を支援する多くの財団があり、非営利組織がさまざまな試みにチャレンジし、共同で事業を行うことを支援してきました。そうした環境に、アーティストたちが集まってきました。文化は公共の資金によって支えられ、人々の生活に根ざしたものであるべきだとし、それを支える努力をするスカンジナビア系移民の伝統もあったでしょう。このようなさまざまな理由と土壌があり、相乗効果も生まれ、文化施設がますます発展し、ウォーカーがある、ガスリーもある、ということで人々が集まってきたのだと思います。
つい先週(2008年11月4日)の選挙では、全州レベルで文化支援と土地活用、水の清浄化のために州税を増やす法案が可決したのは嬉しい最新ニュースです。
今シーズンは、マース・カニングハムの大規模なサイト・スペシフィック作品『Ocean(海)』で始まりました。海外からは、イスラエルのバットシェバ・ダンス・カンパニー、日本の劇団 チェルフィッチュ 、英国からはホイ・プロイ・シアターや、サウンド・アーティストのレイ・リー、フランスのパーカッション・アンサンブルなどが招聘され、ニューヨークのエイコ&コマ、ビルダース・アソシエーションや地元のアーティストがプログラムされ、今年の9月から来年の5月末までに28のさまざまな演目が上演されます。こうした現在のプログラム方針について聞かせてください。
 ウォーカーの方針は、全米、あるいは世界的に著名なアーティストと新進アーティストの両方の作品を上演することです。前者の場合は、そのアーティストが引き続き自分と芸術のジャンルに対して挑戦をし続けているかどうかを重視します。例えば、今シーズンのマース・カニングハムの場合、彼はもうすぐ90歳ですが、今なお自分とアートに対峙して野心的で面白い挑戦を続けています。それでも、ウォーカーのプログラムの中心はいわゆる中堅アーティストの作品です。30歳代半ばから50歳代後半くらいのアーティストで、国際的、あるいは全米ではまだ知られていないが良い作品をつくってきた経歴をもち、興味深い問いを投げかけているアーティストの作品を中心に企画します。
そして、私も、私の前のディレクターたちもそうだったと思いますが、コミュニティーの中にあるアート・インスティテューションは、地元のアーティストをシーズンに組み込み、真剣に支援する必要があると信じています。ですから常時、ローカル・アーティストに新作を委嘱したり、既存の作品を上演する可能性を探しています。比率でいうと、国際的または全米で知られているアーティストが80%、新進アーティストやローカル・アーティストが20%くらいですが、両方のアーティストの作品を上演することによって、ウォーカーは、ローカルと全米および世界のアーティストとの架け橋の役割も果たしています。
もちろん、ウォーカーがサポートできる新進アーティストの数には限りがあります。また、地元にはウォーカー以外に、特に新進アーティストをサポートする専門機関がいくつかありますから、ウォーカーはツイン・シティーズの文化的エコシステムの中でその役割の一端を担っているにすぎません。
ウォーカーのレジデンシー・プログラムについて詳しく教えてください。
 “レジデンシー”いう場合、大きく分けて2種類あると思います。一つはアーティストが作品をつくるサポートのための「プロダクション・レジデンシー」です。通常、新作の初演の場合でも、アーティストはリハーサル室から大劇場に移動して2、3日で技術関係の仕込みをし、すぐに幕を開けなければなりませんが、改装後のウォーカーには、マクグワイヤー・シアターがあるので、アーティストに作品を仕上げる場所と時間を十分提供することができるようになりました。
ディベロップメントの時間の為に、どのくらいの期間、マクグワイヤーを提供するのですか?
 「プロダクション・レジデンシー」に選んだアーティストの場合は、作品の技術的複雑さやアーティストの必要性によって異なりますが、大体10日から1カ月間です。その間、アーティストは地元のアーティストと交流したり、コミュニティーのためにクラスを教えたりもしますが、主たる目的はあくまで作品をつくることです。可能な限り最高の作品に仕上げて、ニューヨークや海外に送り出せるようにします。
ウォーカーでのレジデンシーでつくられた作品は当然マクグワイヤーで初演してからツアーするのですね?
 ほとんどがそのケースです。しかし、新作を初演するのは必ずしも良いことばかりではありません。観客に見せるにあたって、本当に良い作品になるかどうかは賭けですし、新作パフォーマンスの場合、初演の幕を開けてから作品が発展してゆく場合もあります。それでも、ウォーカーにとって新作の初演は素晴らしいことだと思います。2005年の改装オープン以来、すでに15から20本のレジデンシーとプレミアを行ってきました。そしてほとんど全ての作品が海外でも上演され、観客からも批評家からも非常に高い評価を得ています。
もう一つのレジデンシーは、アーティストが作品をつくる過程の初期の段階のリサーチ、またはツイン・シティーズの人々の問題にアーティストが関心をもって地元のコミュニティーと交流するケースで、私は「コミュニティー・レジデンシー」と呼んでいます。地元の問題や情熱をアーティストが作品に取り込む形になるので、創作の過程に非常に深く関わることになります。何かをつくる、あるいは探求することに関して芸術とコミュニティーが一体となるということで、人々にとっては心が豊かになる体験です。そしてアーティストにとっては作品の初期段階の研究開発の糧となります。
これまでビル・ティー・ジョーンズやラルフ・レモン、リズ・ラーマン、ビジュアルアーティストのネリー・ワードらとこのタイプのレジデンシーを行いました。もちろん、アーティストがつくろうとしている作品からフォーカスがずれないようにしますが、地元のコミュニティーから何かを得、何かを与えることができると感じるアーティストとのみ、このようなレジデンシーは成立します。
例としては、数年前、詩人でありパフォーマンス・アーティストであった故セイコウ・スンディアタのレジデンシーがありました。「アメリカのデモクラシーは一体どうなったしまったのか」というテーマでした。私たちはこのプロジェクトをミネソタ大学と共同で進めました。スンディアタは、ミネソタに来て、アフリカ系アメリカ人の詩人の眼で「アメリカ人であるとははどういう意味か」「デモクラシーとは何か」を探求しました。クラス、ワークショップ、ディナー・パーティー、サロンなどで地元の人々から話しを聞いたり、自分が話したりしました。1年後にこの作品 (*11) はウォーカーに戻ってきて上演されました。コミュニティーの人々との対話のビデオ録画が一部、作品の中に使われていました。
そのようにコミュニティーと深い関わりをもつプロジェクトは、貴方が提案するのですか?
 色々な要素が組み合わさっています。多くの場合はアーティストがある問題や関心をもっていて、かつ、このコミュニティーにも同様の問題意識があり、アーティストの関心を非常に直接的な形でコミュニティーに結び付けることができる、またはそのアーティストと一緒に共同作業をしたいと希望するコミュニティーが見つかるだろうと、私が確信した時点から始まります。
時には地元の組織や、コミュニティーのメンバーからの提案が先にあって、その要望に合ったアーティストを探す場合もありますが、どんな場合でも、アーティストがその問題に純粋な情熱をもっていることが大切です。コミュニティー・エクササイズに終わってほしくはないですから。あくまで芸術作品が本来の目的ですが、その創作の過程がコミュニティーの人々を包み込み、力づけるようなものであるということが大切です。
今の時代は、芸術作品の上演、芸術作品とのインターアクション、芸術作品の創作過程への参加という3つのことの境目が曖昧になってきていると思います。作品を見に行くだけでは満足しない人々が多くなってきています。人々は、何らかの形で芸術作品に参加したい、または“楽屋”にまで入っていって、何故、そしてどのように作品がつくられたか知りたいのです。
そして、レジデンシーだけでなく、委嘱制作(コミッション)のプログラムでも何らかの形で地元のコミュニティーやアーティストが参加するケースが多くなってきています。アーティストの場合もあれば、そうでない一般の人々の場合もあります。ローカルとグローバルの境界線もどんどん曖昧になってきている感じがします。これは私にとっては、大変興味深く、やりがいがありますが、同時に資金面やスケジュール等々の調整が大変になっています。
ローカル・アーティストや地元コミュニティーの参加という文脈の中で今シーズンの舞台芸術プログラムのハイライトを紹介してください。
 シーズンのオープニング、マース・カニングハムの『Ocean(海)』は、御影石(花崗岩)の採石所で上演しました。この作品にはクラシックのトレーニングを受けた器楽奏者150人が必要でした。舞台はツイン・シティーズから1時間半ほど車で走ったところにある採石所につくりました。カニングハムは世界的アーティストですが、ミネソタ全州から集めた150人のミュージシャンがジョン・ケージに触発された作品を演奏して参加し、採石現場で働く人々も、地元セント・クラウドの市民も巻き込み、ミネソタ大学のノースロップ劇場、セントベネディクト大学他、ミネソタ州のさまざまな組織とパートナーシップを組みました。
エイコ&コマは、3週間のレジデンシーで新作を仕上げました。特定のインドネシア音楽が作品に必要となり、私が地元のシューベルト・クラブ (*12) を介してガムラン奏者を紹介したところ、意気投合し、そのミュージシャンは共同創作者(コラボレーター)になりました。
ビルダース・アソシエーションの作品も大規模なレジデンシーを行いました。アーティストが地元の移民コミュニティーをインタビューし、それを作品の映像と音声デザインに取り入れました。また、ツイン・シティーズ中のコミュニティー・センターのコンピューターにアーティストの作成したウェブサイトをセットアップし、誰でも個人史や話を書き込めるようにし、それを演劇作品の一部として取り入れました。
ジャズの大御所ヤセフ・ラティーフのコンサートは地元のミュージシャンで全米に知られているダグラス・エワートとのコラボレーションになりました。このプロジェクトは、ある時、ダグラスが私に自分の夢はヤセフと共演することだと語ったのが発端です。
30年の歴史をもつシリーズ、「コレオグラファーズ・イブニング」は、地元のダンス振付家のための登竜門およびネットワークになっています。今年は、地元の振付家のサリー・ルースが地元の新進からベテランまで数人の振付家を選び、短編作品を上演します。
このように多くのプロジェクトにローカル/ナショナルのインターフェイス(交流面)があります。この傾向は、私たちの仕事が発展したことを示すもので、また、地元の観客に深い興味や親近感をもたらしています。
ローカル/ナショナルのインターフェイスや、創作過程への参加要望といったトレンドは、インターネットの発展と関係あると思いますか?
 もちろんです。インターネットは、コンテンツの所有、過程への参加、双方向のコミュニケーションが最大の要素ですから。アーティストの創作の過程自体にも変化が現れ、よりインターアクティブな要素が増えてきていると思います。今は現代芸術の分野や舞台作品にその影響が顕著ですが、これから10年、20年先には伝統芸術の分野にも影響を与えていくでしょう。ウォーカーの役割はそのような時代のトレンドを先取りして受け入れ、試行錯誤も辞さないこと、全米の舞台芸術にとってのリサーチ&ディベロップメントの原動力であることだと思います。
ワークショップやマスタークラスなど、いわゆる伝統的な意味での“アウトリーチ”プログラムも行っていますか?
 ウォーカーには、多くの賞を受けている素晴らしい教育部門(エデュケーション・デパートメント)があります。その下には6つの小部門があり、さまざまなアウトリーチ活動を行っています。例えば、前述のビルダース・アソシエーションの公演の一環としてコミュニティー・センターにウェブサイトをセットアップした時は、教育部門と共同で行いました。そのような地元のコミュニティーとの橋渡し的役割のほか、常時、素晴らしいエデュケーション・ガイドを行っています。従来はギャラリー・ツアーが主でしたが、現在は舞台芸術プログラムも取り入れ始め、美術、舞台芸術、映像芸術の3部門で展開しているテーマやアイデアを繋ぐようになってきています。例えば、ツアーガイドが、美術作品の解説をするだけでなく、それに関連して翌月行われる演劇やパフォーマンスのテーマの解説などをするといった具合です。
学校関係のプログラムもあります。地元の何百もの学校と提携して行います。多くの場合は学校の芸術関係の授業に実際に行って教えたり、ウォーカーへのエデュケーション・ツアーを行ったりします。ウォーカーのウェブ・プロジェクト「アーツ・コネックテッド」を通して現代美術に関する資料をオンラインで提供したりもします。
一般向けのプログラムもあり、例えば、デザインのトレンドに関するシリーズ講演など、芸術、文化、社会問題に関してスピーカーを招いて常時講演を行っています。さらに、これらと別に、教育部門の中に「コミュニティー」プログラムがあり、地元のさまざまなコミュニティー組織や小さな近隣グループなどに対するアウトリーチを専門にしています。それらの組織はアートとは直接の関係がない場合が多いので、こちらからアプローチしていかないと、なかなか関係がつくれません。
現代美術や舞台の作品を“解説”するのも教育部門の主な仕事の一つです。もともとは美術作品の解説、教育ガイド等が主でしたが、近年、舞台作品やアーティストにも同様のアプローチを始めています。
教育プログラム、アウトリーチやレジデンシーなど、完成作品と観客の距離を近づける努力の結果、観客は増えていますか?
 ウォーカーは、現代アートセンターとしては過去15〜20年間、他の同様の施設に比べて一貫して多くの来館者と観客を集めてきました。それでも、ウォーカーのプログラムには、人が聞いたこともないものや、何と呼んでいいかもわからないような表現や作品が多いので、集客は簡単ではありません。ウォーカーのミッションは新しい芸術の形、新しい表現、それを生み出すアーティストを支えることですから、まずは芸術作品があって、その周りに教育プログラムやレジデンシー、コミュニティープログラムを構成しています。ある意味で、自分たちで目標の達成を困難にしているようなところがあります。それでも、舞台芸術のプログラムでは平均して70%から80%の席が埋まり、売れ切れる公演も数多くあります。
教育部門のプログラムには、多くの人々が参加してします。特に、「フリー・サースデイ」というプログラムは、毎週木曜日の午後5時から9時まで美術館の入館料を無料にし、レクチャーやパフォーマンスなども行うもので、何千人もの人々を集めています。若い世代の中には、毎週木曜日ウォーカーに通って、“ウォーカー体験”を楽しむ人もいるくらい人気の高いプログラムです。
「スペシャル・プログラム」と呼ばれるイベント・シリーズでは、「ロック・ザ・ガーデン」などがあり、彫刻庭園の中に舞台を組んでロックバンドのコンサートを催し、8千人もの人々を集めることもあります。このようなイベントで集まった人々の中から沢山の人々がウォーカーのメンバーになります。幅広い層の人々に、ウォーカーのやっていることに興味をもってもらうための効果的な戦略だと思います。
現在、ウォーカーはどのような組織構成で、何人のスタッフが働いていますか?
 全館のフルタイムスタッフは120から125人くらいで、この数にはマーケティングや経理関係、広報関係、プログラム関係のほか、受付や美術品を管理する人々も含まれています。
プログラム関係は、3部門あります。ビジュアルアーツ部門が一番大きく歴史があり、アソシエイトやアシスタントキュレーターも入れると常時、5、6人のキュレーターいます。映像(フィルムとビデオ)部門には4人のスタッフ、そして舞台芸術部門には5人のスタッフがいます。
予算はどれくらいですか?
 全館予算は2200万ドル(約22億円)で、舞台芸術部門は100万ドル(約1億円)です。但しこの100万ドルの予算はいわゆるプログラム予算で、アーティスト・フィー、アーティストの宿泊や旅費、技術関係費、マーケティングなどで、同部門の運営費、人件費等は全館予算の方に含まれています。
プログラム関係の3部門は、コーディネイトして同じテーマやフォーカスの下に芸術作品を上演、展示することがありますか?
 できるだけそうなるよう、努力しているところです。ウォーカーの現総合ディレクターも、将来に向けての新しい方向性として、さまざまな芸術表現のジャンルを超えて統合して企画することに強い興味を示しています。しかし、ジャンルが違うと、通常、企画のタイムラインも全く違うことが難問です。具体的には、ビジュアルアーツの展示の企画は、今、4年先の計画を立てていますが、舞台芸術部門は、来年度、つまり今から1年から1年半先のプログラムを私が最終決定しているところです。そして、映像部門は3カ月から6カ月先のプログラムの準備をしているといった具合です。ですから足並みを揃えるのが難しいのですが、共同で企画をしたり、既存の企画から共通テーマを打ち出す可能性がないか、3部門で話し合えるシステムをつくっているところです。
3つのプログラム部門が一緒に仕事をすることはこれまでにもありました。例えば、ヨーコ・オノのショーの時は、私は関連音楽プログラムを上演し、他にスライド・レクチャーもあり、ヨーコのパフォーマンスもあり、映像部門は彼女の映像作品を上映しました。
ヨーコ・オノの例もそうですが、ウォーカーではこのインタビューを行っている現在も大島渚監督の映画上映をしていますし、過去にも日本関係の大掛かりな展示や日本の現代舞台芸術作品を何度も上演してきています。ウォーカーの企画の方向性と日本の芸術表現には、“美意識の一致”のようなものがあるのでしょうか?
 理路整然とは説明できませんが、確かにウォーカーのプログラム部門は全てのジャンルで、日本という国が現代アートの表現において革新的な考え方と形式を生み出す中心的存在の一つであるという見方をしてきたと思います。例えば、ウォーカー史上、最も人気のあった展示の一つは、フリードマンの指揮下に1980年代半ばに行われた「Tokyo: Form & Spirit」で、本当に多くの人々を惹き付けました。日本のデザイン、建築、ファッション、美術、メディアなど広範囲にわたる素晴らしい展示でした。
日本のアーティストはテクノロジーを上手く使い、現代社会に生きる問題点について先見的な見方、考え方をしているという印象があります。それに応えるべく、ウォーカーは彼らの北米での活躍の大きな窓口の一つとなってきたのです。ギャラリーでの展示作品はもちろん、舞台芸術でも、特にコンテンポラリーダンスは、大野一雄、山海塾、 大駱駝鑑 ダム・タイプ 伊藤キム 、田中泯、笠井叡、エイコ&コマ、彫刻庭園でのケイ・タケイなど、本当に数多くのアーティストを紹介してきました。
映画部門も、非常に国際色が強く、日本映画に関してはその新しいトレンドと並行して巨匠たちのレトロスペクティブを長年にわたって上映してきました。
近い将来、また日本からのパフォーミング・アーティストの上演を検討する場合、どのようなアーティストに興味がありますか?
 それは欧米のアーティストと同様、これまで見たことのない表現か、その形式において、また内容において新しい視点をもっているかどうかということです。ここ数年は、例えば演劇を例にとってもそうですが、テクノロジーの革新性もさることながら、同様に力強い内容をもつものに注目しています。
私は、多くの日本のアーティストの作品に感銘を受け、魅了され続けています。そして今、助成金申請など、招聘の努力の真っ最中なのが 勅使川原三郎 さん。ずっと呼びたかったアーティストです。彼もジャンルを超えて作品をつくってきたアーティストですから、ウィリアム・フォーサイス、メレデス・モンク、マース・カニングハムなどと同様、ウォーカーに最適だと思います。
ウォーカーの将来へのビジョンはどのようなものですか。
 一つには、現代アートの表現がジャンルを超えて刺激し合い、混じり合う方法を希求し続けることだ思います。そのためには、例えばギャラリーやロビーでのパフォーマンス、これまでもやってきましたが、ビジュアルや映像作家と舞台芸術家とのコラボレーションを反映したプログラムを増やすなど、全館レベルでよりさまざまな工夫をしていくつもりです。ウォーカーは、ジャンルが違うという理由でこれまで出会う機会のなかったアーティストたちが出会い、お互いを刺激する場でありつづけたいと思います。
それから、経済の不振に関わらず、コミッション・プロジェクトは続けていくつもりです。まだ日の目を見ない初期の創作段階で、アーティストに資金を与えることはとても重要だと思います。ヨーロッパや日本では、「コ・プロデューサー(共同プロデューサー)」と呼ばれる役割をウォーカーが果たすことは、不況の影響で新作のコミッションを控える組織が増えるこれからの時期、一層大切なことだと思います。
最後に、フィリップ・バイザーさん自身についてですが、業界のリーダーの一人として、全米各地の助成金の審査員やプログラムのアドバイザーをするなど、幅広いネットワークをもって活躍されています。貴方やウォーカーの舞台芸術部門が関わっている組織について、簡単に教えてください。
 私は、舞台芸術プログラムを総合現代アートセンターの一環で行っている全米12の組織を繋ぐ「コンテンポラリー・アート・ネットワーク」の共同創設者です。また、ウォーカーは、ナショナル・パフォーマンスアート・ネットワーク(NPN)の12の創設組織の一つで、私自身、このプログラムには大変積極的に参加しています。アフリカ大陸と北米の芸術交流促進のために新しくつくられた「アフリカン・コンソーティアム」には現在10の組織が参加していますが、ウォーカーは、創設組織の一つです。コンテンポラリーダンスの新作制作とツアーにとって大切な支援プログラム、「ナショナル・ダンス・プロジェクト」(NDP)にもウォーカーは積極的に参加していますし、私自身もアドバイザーを務めています。また、私はニューヨークのジャパン・ソサエティーのアドバイザリー・ボードもここ2年間、務めています。私とジュリー・ヴォイト(舞台芸術部シニアプログラムオフィサー)は両名とも国際交流基金のパフォーミングアーツ・ジャパン・プログラムの助成金審査員を何度も務め、日本にも定期的に行きました。米国のプレゼンターが海外のプログラムを増やす転機となったIPF(インタナショナル・プレゼンターズ・フォーラム)の議長をジェイコブス・ピロー・フェスティバルの会議でエッラ・バッフと務めたこともあります。米国とフランスのアーティストの交流を促進する助成金プログラム、「エタン・ドネ」でも助成金の審査員を務めました。そしてオーストラリアのアーティストに対する人々の理解を深めるために、オーストラリア・アーツ・カウンシルのアンバサダー的役割も務めています。また、個人的に、ブラジル、南アフリカ、インドネシアで将来の芸術交流のためのリサーチもしています。
ウォーカーが国内外の舞台芸術ネットワークの要となっていることがよくわかりました。本日はブラジルからもどってこられたばかりでお忙しいところ、ウォーカーの歴史やビジョンをお話しいただきまして、どうもありがとうございました。

*1
パーマネント・コレクションには、マシュー・バーニー、ロイ・リヒテンシュタイン、ヨーコ・オノ、ナム・ジュン・パイク、アンディー・ウォホール等の作品がある。舞台芸術部は、マース・カニングハム、オーネット・コールマン、ウースター・グループ、ロバート・ウィルソン、ビル・ティー・ジョーンズ、メレデス・モンク、マボウ・マインズ、トリシャ・ブラウン他のアーティストの作品を委嘱制作(コミッション)してきた。

*2
ミネソタの州都であるセントポール市と、州最大の市であるミネアポリスを総称するニックネーム。

*3
ウォーカー・アート・センターは、トーマス・バーロウ・ウォーカー(Thomas Barlow Walker, 1840─1928)によって1879年に始められ、1927年に中西部北部一帯で最初のパブリック・アート・ギャラリーとして現在のウォーカーの建物のある地に正式に設立された。

*4
The Works Progress Administration.
大恐慌時代の米国のニューディール政策最大の連邦機関。特に米国の田舎や西部山岳地域を中心に何百万もの人々に職を与えた。フランクリン・ルーズベルト大統領勅令によって創設され、1935年4月8日に国会で可決された。以後、1943年までに約800万の雇用を調達。そのプログラムの下、多くの公共施設や道路が建設、整備され、大掛かりな美術、演劇、文学プロジェクトが行われた。現在も、全米各地にWPAによってつくられた公園、橋、学校、などが見られる。

*5
ウォーカーのプログラムに関するアドバイザー/サポートグループ。ウォーカーのスタッフがミーティング等をコーディネートした。

*6
1963年、タイロン・ガスリーによりミネソタ州ミネアポリス市に設立された全米初のリージョナル・シアターで、近年まで劇場付きの劇団(レジデント・シアター)制で運営されていた。

*7
2006年に移転して再オープンするまで、ガスリー・シアターはウォーカーと同じビルの中にあった。

*8
8年ほどの周期で編集するウォーカーのパーマネント・コレクションのカタログ。“BITS & PIECES PUT TOGETHER TO PRESENT A SEMBLANCE OF A WHOLE”というタイトルで、ウォーカーのギフトショップで販売もされている。

*9
MassMoCA、ボストンのICA、Museum of Contemporary Arts in Chicago、オハイオ州コロンバス市のWexner Center、Portland Institute of Contemporary Arts、テキサス州ヒューストンのDiverse Worksなど。

*10
全米にチェーンをもつ日用雑貨品を中心としたスーパー。近年、小売業界の売り上げでは全米五指に入っている。

*11
the 51st (dream) state
米国の51番目の夢の州という意味のタイトル。米国は50の州より成る。

*12
1882年にミネソタ州セントポール市に設立された非営利組織。器楽博物館を運営するとともに、クラシック音楽の普及のためにコンサート他、さまざまなプログラムを行う。

Photo: Gene Pittman

Photo: Gene Pittman

ヘルツォーク&ド・ムーロンの拡張工事によるシアタータワー(左)と、バーンズビル(ギャラリー・タワー、右)。グランドオープン数カ月前の2005年2月。
Photo: Gene Pittman

ウォーカー・アート・センター
https://www.walkerart.org/
ウォーカー・アート・センターは、17エーカー(6万9,000m²)の敷地内に、センター・ビルディングと彫刻庭園(11エーカー)を併せもつ。増改築され、2005年にオープンした現在のセンタービルディングはそれ以前の2倍の規模で、従来のギャラリースペースとオーディトリアムに加え、385席のマクグワイヤー・シアター、レストラン、新たなギャラリー・スペース、映写室等が施設に加わった。

新たに組み立てられたウォーカー・アートギャラリーの玄関の壮大な階段の上のトーマス・バーロウ・ウォーカー(1927年)

ミネアポリスの1710リンデール・アベニューにあるウォーカー・アートギャラリーの“荒れ地の多い”正面(1930年)

東から見た1985年のバーンズビル(ガスリー・シアターはバーンズビルの右で屋根から広がっているバナーに接続されたビルにある)
Photo: Glenn Halvorson

マクグワイヤー・シアター(2008年)
Photo: Cameron Wittig

シアタータワー内の管理事務所(2006年)
Photo: Cameron Wittig

U.S. Bankオリエンテーションラウンジ(2005年)
Photo: Cameron Wittig

Bazinetガーデン・ロビー(2005年)。ダングラハム彫刻ビデオ視聴エリア
Photo: Cameron Wittig

Photo: Kyoko Yoshida

ミネアポリス彫刻庭園にあるマーク・ディ・スヴェロの彫刻『分子』(1998年)
Photo: Glenn Halvorson

ミネアポリス彫刻庭園にあるクレス・オルデンバーグ&コーシャ・ヴァン・ブリュッゲンの彫刻『Spoonbridge and Cherry』
Photo: Dan Dennehy

Haegue Yangの『Blind Room』は「Brave New Worlds exhibition」(2007年)のために設置された
Photo: Gene Pittman

ギャラリーでの展覧会、Kara Walker『私の補足、私の敵、私の抑圧者、私の愛』(2007年)
Photo: Gene Pittman

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