勅使川原三郎

世界のコンテンポラリーダンスを変えた
勅使川原の広がり続ける世界とは?

2008.08.29
勅使川原三郎

Photo: Norifumi Inagaki

勅使川原三郎Saburo Teshigawara

クラシックバレエを学んだ後、1981年より独自の創作活動を開始。85年、宮田佳と共にKARASを結成し、既存のダンスの枠組みではとらえられない新しい表現を追及。類まれな造形感覚を持って舞台美術、照明デザイン、衣装、音楽構成も自ら手掛ける。光・音・空気・身体によって空間を質的に変化させ創造される、かつてない独創的な舞台作品は、ダンス界にとどまらず、あらゆるアートシーンに衝撃を与えるとともに高く評価され、国内のみならず欧米他、諸外国の主要なフェスティバルおよび劇場の招きにより多数の公演を行う。

自身のソロ作品、KARASとのグループ作品創作の他にも、パリオペラ座バレエ団、フランクフルトバレエ団、ネザーランド・ダンス・シアター I 、バイエルン国立歌劇場バレエ団、ジュネーブバレエなどヨーロッパの一流バレエ団からの依頼で作品を創作。

造形美術家としても、日本、ドイツ、フランス、オーストリアでインスタレーション作品が紹介され、93〜94年には映像作品『T-CITY』、『KESHIOKO』、『N-EVER PARA-DICE』を製作。2006年には『A Tale Of』がロンドンのICA(Institute of Contemporary Arts)において上映され、好評を得た。

ダンス教育に関しても独自の理念をもち、KARAS創設以前より継続してワークショップを行い、現在に至るまで国内外で若手ダンサーの育成に力を注ぐ。1995年にロンドンで1年間におよぶ若者のための教育プロジェクトS.T.E.P.(Saburo Teshigawara Education Project)を設立。1999〜2000年にはS.T.E.P.2000を発足しロンドンとヘルシンキの共同企画公演『Flower Eyes』へと展開した。その他、ローレックス メントー&プロトジェ アートプログラムのメントー(指導者)を委託され、1年間(04〜05年)にわたり若手芸術家育成支援事業に関わる(https://www.rolex.org/rolex-mentor-protege)。06年度からは立教大学 現代心理学部 映像身体学科の専任教授に就任。08年4月に、新国立劇場・富山市オーバードホール・まつもと市民芸術館の3館で10代のダンサー達と共に創作した『空気のダンス』を上演。教育現場における新世代との創造活動にも意欲を注いでいる。

KARAS
https://www.st-karas.com/

1986年、バニョレ国際振付コンクールで衝撃的なデビューを果たした勅使川原三郎。「崩れては起き上がる」という動きをモチーフにした作品『風の尖端』で、勅使川原が従来の形式的なテクニックによらない新たな身体表現のあり方を世界に認めさせて以来、日本では自らの身体に向き合うコンテンポラリーダンスが大きなムーブメントになっている。振り付けだけでなく、音楽・照明・美術など五感に入るものすべてを自らプランニングする作品は世界で高く評価され、主宰するKARASで各国フェスティバル公演等を行うほか、近年では、盲目の青年とのワークショップによりつくりあげた『LUMINOUS』、日本の中高校生とのワークショップによりつくりあげた『空気のダンス』や映像インスタレーション作品を発表するなど、その自在さは目を見張るばかりだ。「芸術は保守的に停滞してはならない」という勅使川原に、これまでの歩みを含めて近況を聞いた。
聞き手:佐藤まいみ
近年は映像作品や大学での指導など、勅使川原さんの活動の幅は大きく広がっています。まずは、現在、行っているプロジェクトについてお聞かせください。
 ちょうど、上海eARTSフェスティバル(上海電子芸術祭)で展示する3Dの映像インスタレーション作品のための映像をシドニーで撮影して帰ってきたばかりです。スクリーンを6角形に組んで、6方向から同時撮影した3D映像を流します。通常、僕らは客席に対してパフォーマンスしますが、この映像インスタレーションでは、観客はダンサーの周囲をぐるっと回りながら全方向から観ることができる。しかも3Dなので、別の意味でリアルな世界を体験することができます。ちなみに、今年の横浜トリエンナーレにはこれとは別のインスタレーションで参加します。
 それから、もちろんKARASの公演もやっていて、6月のモンペリエのフェスティバルでは、現在世界ツアー中の『MIROKU』を上演しました。その後すぐにスウェーデンに飛び、映像作品を撮影しました。2007年に亡くなった映画監督のイングマール・ベルイマンが住んでいた小さな島に行ったのですが、カメラマンのBengt Wanseliusさんが、ベルイマンがこの島の光を気に入っていたから一度おいでよと誘ってくださったんです。本当に光が素晴らしくて、ここで佐東利穂子が踊ったのを撮影しました。これは自主製作で、Wanseliusさんが撮影を担当し、僕は監督をしました。
 フェスティバルでは、ミラノ市内の数カ所の劇場で1カ月にわたって行われる「ミラネジアーナ(La Milanesiana)」にも昨年に続き参加しました。これは、小説家の朗読と音楽とか、映像と音楽とかがコラボレーションしたりする文学、映像、音楽のフェスティバルです。フィリップ・グラス、ローリー・アンダーソン、ウンベルト・エーコ、ルー・リードら、実に多彩なメンバーが集まります。昨年はミラノのスカラ座で『Black Water』を上演しました。『The Blackwater Lightship』という作品を発表しているアイルランドの作家のコルム・トビン(Colm Toibin)と一緒で、彼は僕の公演の前に朗読をしました。
2008年8月9、10日には、勅使川原さんのスタジオがある東京・亀戸で初めての公演『36のダンス変奏曲集〜正しい姿勢』を行いました。
 一度地元でやりたいと思っていました。これは僕も出ましたし、『空気のダンス』に出ていた少年少女も出演しました。位置付けとしては勉強会に近いですね。これからこれとは別にスタジオ・パフォーマンスをもっとやっていきたいと思っています。実験的なことをやりたくて、その出発点になります。
立教大学で指導されるようになりましたが、どのような授業をされているのですか?
 大学では現代心理学部映像身体学科の専任教授として講義を行なっています。僕の経験からくる理論を話したり、ワークショップをしたりしています。講義には、映像に興味をもっている学生と、演劇やダンスに興味をもっている学生の両方がいますが、どちらかというと映像系が多いですね。
 例えば「身体表現史」という授業では、自分の身体とは何か? 自分の身体が何を感じているか? など「身体」について考えさせています。考えることも、身体も一生付き合うものです。つまり表現以前のこととして、「身体」を研究するわけです。身体への向かい方や僕がいつも言っている「呼吸」について徹底的に考察します。身体という視点から映像を見ようとか、身体という視点からビジュアルに対しての感覚を養おうとか。最終的な表現方法を何にするかというのは、具体的な技術の問題であり、技術の習得には時間が掛かるので、若い人たちには「慌てるな、まずは自分の感覚を磨こう、視点をもとう」と話しています。少なくともその時々で自分の意見は自分の言葉ではっきり言おうとも話します。なので、レポートはかなり書かせていますね。
振付家、美術家という区別なく、勅使川原さんは作品をトータルにクリエイトされています。
 あくまで僕の個性だと思います。経験的に言うと、ある表現に辿り着く方法、本来自分が興味をもっていた目的・対象に近づくための方法を発見する仕方や、そのための視点を得るには、一直線に進むだけじゃなくて、違うアプローチがあってもいいのではないかと思っています。
 僕のことでいえば、バレエを真剣にやっているうちに、本来最も興味があった視覚表現について自覚できるようになったとか。でもそれは、「視覚的な欲求」を通してその向こう側にある、自分が欲している何かしらの感覚、人間のもっと深い部分に関して探究心をもっていたということが後になってわかったのですが。いずれにしても、身体的なものも映像的なものも、人間のもっと深い部分への関わり方を追求し、それを強く鮮明に感じられるということは僕にとって大きな喜びです。
勅使川原さんは、1995年からイギリスで教育プロジェクト「S.T.E.P.(Saburo Teshigawara Education Project)」にも取り組まれています。最近、日本でもダンスの教育活動に注目が集まっていますが、その先駆けでもあります。
ロンドン・インターナショナル・フェスティバル・オブ・シアター(LIFT)というところにさまざまなエデュケーション・プロジェクトがあり、そのなかではじめてこうしたプロジェクトに関わりました。最初にやったのが身障者の子どもたちとのプロジェクトで、次にロンドンの3つの区域の中高生とのプロジェクトをやり、ICA(Institute of Contemporary Arts)のスペースの壁も床も強烈な色に全部塗り替えて『Invisible Room』という公演をやりました。
 僕はダンスをすることによって何かを成し遂げることを彼らに知ってもらいたかった。そして、彼らがやりたいことに基づいて作品をつくってみたかった。ダンスすることは彼らにとってはそんなに必要ではなかったかもれしれないですが、集まって練習するうちにしだいに変わってきました。自殺願望をもった子もいたし、楽屋裏で殴り合いの喧嘩になることもあった。思春期の一番難しい世代で、家庭環境の悪い子どもたちもいて、彼らの個人的な問題と付き合わざるをえなかったのは、僕にとっても興味深いことでした。
 その次に関わったのが、盲目の人たちです。ロンドンのザ・プレイス(The Place)の企画でしたが、そのプロジェクトに盲目の人が参加していたんです。そこで、時間をかけてワークショップを行い、僕が行けない時はビデオを渡して指示をして『Flower Eyes』をつくりました。これはヘルシンキとの交流プロジェクトだったので、ヘルシンキのダンサー志望の人たちも加わっていました。
そこで『LUMINOUS』(2000年)に出演した盲目の青年、スチュワート・ジャクソンに出会ったんですね。
そうです。彼のケアテーカーをしている女性が、ダンスを経験させたほうがよいと考えて、連れて来ました。盲目の人にとって、見えないけど何かを見に行く=感じに行く、しかも誰かと一緒に何かをやるということはとても大事なことなんです。
 彼のほかにもうひとり、弱視の、盲学校の先生がいました。身体の各部分と呼吸との関係をワークショップでやりますが、スチュワートは男の子だからジャンプや回転といった強い表現、強い音楽に反応する。一方、彼女の動きは、とても滑らかで美しかった。ワークショップでそれぞれの個性がより強調され、純度の高さを感じました。僕は、彼らの姿を見て、僕らは僕らの能力をもっと高めることができるし、自分がもっているものをもっと生き生きと使うことができると強く感じました。
 スチュワートは、生来の全盲で全く見えないし、ひとりでは何もできないので、躊躇する気持ちとか、恐怖心が強い。だから日常生活では自分を押さえ込んでしまうことが多いのですが、それが取り払われるととても強い表現になる。彼がもっている、潜在的な、精神的な強さがストレートに出るんです。
2001年には、彼とイギリスの俳優エヴロイ・ディアに参加してらった『LUMINOUS』をシアタコクーンで発表し、その後、世界を回りました。今では、スチュワートは自分の作品をつくるまでになっています。
それはどのような作品ですか?
『Angel’s Journey』というタイトルで、とても素晴らしい作品でした。テーマは彼が好きなエンジェル。ときどき、やっぱり激しい動きが出てくるのですが、彼にとっての激しさというのは、求めるものに近づく表現なんだと思います。彼は目が見えないだけではなくて、いわゆる学習困難児というか、記憶を順番に辿ることができない問題もありました。記憶はあるけど構築されていないので、話が支離滅裂になる。最初は、作品の稽古をしている時も、順番がわからなくなるし、言葉もほとんど出てこなかったんです。ところが身体運動をしていくうちに、次第にものごとが組み立てられるようになっていった。身体的な動作を記憶することが、言語情報を組み立てるきっかけになり、言葉を喋れるようになってきたんです。これには驚いたし、身体運動の可能性について改めて考えましたね。
これまでとは全く違う感受性の人たちと作業をするのは、勅使川原さんの表現をやってもらうことではなく、相手の感受性を引き出して形にするということですか。
そうです。僕が教育者じゃないと言っているのはそういうことです。他人の身体と関わる面白さ、僕の知らないことを発見する面白さがある。彼らに障害があるからということではなく、隠れていたことを引き出す、掘り下げていく。僕にとっては、自分の中を知りたいということと、他人を知るということは何か似ているんですね。
 だから、『空気のダンス』で中高生に対して僕が伝えたいのは、「自分自身で何を発見したいと思っているんだろう?」という疑問形。彼らの中にあることは彼らにとって大事であることは確かだし、何かをもっているに決まっている。ただ、彼らがどのようにそれを出せばいいのかわからないのなら、「こうしてみたら?」ということは伝えられる。技術はそのためにあるのだから、本当の基礎的な動きがどうやって出てくるのかだけ、そのことばかりをやるんです。
むしろ、中に何があるのか?ということは、大学生もそうですが、急いで表現させようとはしません。
少し遡ってお話を伺いたいのですが、勅使川原さんがアーティストとして活動を始めた頃はどのようなことをされていたのですか。
僕のキャリアの中ではバレエを習っていた期間が一番長いですね。その後、イベントに出たり、渋谷の「アンテナ21」というスペースで、3カ月に一度、ビデオのアーティストやロック系でノイズをやっている人とかと作品をつくったりしていました。1984年頃のことです。
当時は「コンテンポラリーダンス」という言葉も存在しませんでしたが、何と称していましたか?
「ムービング・ワーク」と言っていました。モダンダンスという言葉は嫌いでしたし、舞踏は違うと思っていたので。演劇も好きで、工場を劇場にした本当に小さな旧真空鑑劇場というところに出入りしていました。そこの裸電球が灯った土間で踊ったのが、僕の初舞台だったかもしれない。
勅使川原さんが「僕の身体には内臓はない」とインタビューで答えていたのが印象に残っています。それは舞踏が提示した身体観でもなく、クラシックバレエやモダンダンスの身体観でもなかった。
「肉体的」という言葉はいまだに嫌いです。当時は、自分の身体を発見し、それを表現にしていきたいというのでとにかく必死でした。「空気」「物質」「非物質」といった言葉を自分の身体で感じて表現していきたかった。僕にとっては「空気」という言葉にも、ある種の虚しさというか、何かと決裂する感覚がありました。なので、音楽も当然ノイズに向かい、スティーヴ・ライヒのようなポストモダンと言われているミニマルな発想ではなくて、「演奏していない音が音楽だ」と考えていました。
それが、オリジナルな表現のために音楽も照明も美術も、全部自分でプランする勅使川原さんの個性に繋がっていった。
僕のような感覚をもつ人は、舞台関係者やダンス関係者にはいなかったんです。むしろ映画やノイズをやっていた人のほうが自分の感覚に近かったかもしれない。僕はずっと、先生なんかいらない、僕は誰からも教わりたくない、と思っていた。けれども、実は何かは習っているし、身に付いている。なぜこんなことをやらなければいけないのか、絶対に自分の身体には合わないと思いながら、バレエをやっていた。その違和感から出発しています。とても重要な経験でした。
決まった形の中で表現することに収まりきらず、名付けがたいものを抱えていた勅使川原さんは、1986年、『風の尖端』という作品でバニョレ国際振付コンクールに参加し、世界から注目されます。あの作品は、崩れては起き上がるという動きをモチーフにしていて、衝撃的でした。というのも、バランスをとることが課題のダンスでは、クラシックにしてもモダンにしても、転んではいけなかった。私は、崩れては起き上がる動きを見て、それまで見たことがなかったもの、ダンスの新しい言語のようなものを感じました。あの動きはどのように生まれたのですか?
やはり、宮田佳との出会いが大きかったと思います。僕らは、1つの動作を何時間もかけてやるようなワークショップを延々続けていました。宮田はダンスが嫌いで、その経験もない。でも身体表現をしたいという強い思いがある。けど技術がゼロで動けない。その時、身体を空っぽにして、「身体の中で感じる」ということを、動く前にやってみようと思った。身体の中でいろいろなものが動く。「呼吸」だとか、「空気の流れ」だとか。自分たちが感覚的に広がるために、「ある」と思わないで「ない」ところから出発しよう、そう思ったのが原点です。
 人は、元々自分が何かをもっていると思いたいし、外側からの視点や外圧から自分を守ろうとする自己防衛本能があります。だけど、表現者というのは、日常生活で当たり前である自己防衛本能をどうすればもたないでいられるかが勝負になる。それには自分がまず空っぽになり、そこから出発する。
 「すると、空っぽの身体は崩れてしまうでしょう?」そう言うと、宮田はすぐに感覚的に理解して、ファーっとなって、足からじゃなく、頭から崩れていくんです。それが何とも美しい。彼女の身体は実になめらかに美しく、まるで巨大なビルがスローモーションで崩れて、煙がわき起こるような質感が出る。それで僕は、「これは動きではなくて質感だ」と思ったんです。
 僕にとって、宮田はあらゆる想像力の源であり、僕らの表現の技術は、宮田と僕によって、宮田の身体を通してできたものです。「質感」という言葉や「呼吸」「空気」、それから「倒れる」「崩れる」、あるいは急に「凝固する」、それがまた「溶ける」、あるいは「粉末」になるように、「気体」になるように空間に溶けていく……。それは「動き」ではない。まず感覚が変わり、そうすると質感が変わった身体になって、それが動きになる。そしてある身体の線が出てくる。宮田が崩れたとき、そういうプロセスが…まあその過程というか旅というか、それがきちっと見えて、美しいと思ったんです。
 いわゆるモダンダンスやバレエは、ごく当たり前に動きます。ステップが次から次へと上手に出るように練習し、そのうちに、何も考えなくても、感覚をもたなくても動けるようになる。機械みたいに。でも僕は、それに疑問をもっています。動いちゃえば動けるのなら、何のために稽古の時間があるのか?
 作品を発表することが一番重要なら、作品の稽古だけをすればいい。ヨーロッパでもレパートリーの練習ばかりしているグループが多いですが、どういうふうに情報をもらうと動けるかということばかりが頭の中にこびりついているので、身体がそういう身体にしかなっていない。日本でモダンをやっていた人たちは、カニンガムかマーサ・グラハムの生徒でみんな同じことをやっていたし、80年代の後半、フランスのコンテンポラリーダンスを観たときにも、全部形でしかない、ああ、みんな同じだとわかってしまった。
 つまり、音に合わせる、建築に合わせる、舞台状況に合わせる、作曲家に合わせる…そういうカップリングでつくっている限り、やっぱりそれはある形式になっていく。形式になっていくことを僕は否定しませんし、好き嫌いの問題かもしれないけども、オリジナルとして成り立つためには、大量生産のようなダンスは必要ないでしょう? (ダンスは)情報を伝えるのではなくて、生きているか生きていないか、ということだ。80年代に宮田と会った時にそう感じて、僕は形をやりたくないと思いました。
 そういう稽古をいっぱいしている時に、バニョレに参加することを決めました。参加条件が3人以上のグループだったので、初めてグループ作品をつくった。それで上演してみたら、何か伝わった感じがしたんです。
伝わった以上に、熱く迎え入れられましたね。
反響はものすごかった。「振付コンクール」だったので、即興が多すぎるという声はありましたが。でも、今では、振り付けられている、いないというコレオグラフについての考え方も、その捉え方も大きく変化している。僕があの時に壊したのかもしれません。
バニョレの後、1位になったカンパニーよりも勅使川原さんのほうにいくつもオファーがきた。それで、ボルドーのシグマ・フェスティバル(Le Festival Sigma De Bordeaux)で『星座』という作品を上演しました。私が、その時に軽くショックを受けたのは、舞台を半分に仕切ってしまったことです。舞台というのは全体を思い切り使うものだと思い込んでいたら、勅使川原さんはそれをブリキの塀で仕切り、ブリキという質感の中で踊った。
そうでしたね。鉄の箱をみんなで叩きながら行進したり、わけのわかんないことをやりました。
 バニョレに出たことで、7〜8カ月先のスケジュールがあっという間に埋まってしまった。新作、新作で、帰ったらすぐ次の作品を準備するという状態でした。ボルドーの後、池袋西武のスタジオ200でやり、その後ウィーンにワークショップの講師として行きましたが、あれが実はすごく大きな経験でした。受講生が世界中から来ていて、1カ月毎日朝から夕方までみっちりワークショップをする。そのなかで、自分が何を考えているのか、何を言いたいのか、僕にとっての表現というものが明確になりました。
その後、パリのポンピドゥー・センターでやり、青山のスパイラルホールで公演をしました。そこでは針金やガラスなど、質感として硬質なものを舞台装置として使いました。
この頃ようやくグループとしての方向性が定まってきたのではという気がします。日本とヨーロッパで公演をするようになり、ある時期からヨーロッパでの上演回数のほうが多くなっていった。最初はフランスを拠点にしていましたが、僕はフランスのコンテンポラリーダンスが好きじゃなかったのと、フランクフルトのテアター・アム・トゥルムで公演したのが決定的になって、それからはフランクフルトを拠点にしました。
ちょうどヨーロッパのフェスティバルに活気があり、ディレクターたちの新作制作意欲も高くて、非常に良い時代でしたね。個性的なフェスティバルがたくさんありました。
劇場もきちんとした考え方をもっていて、ディレクターもしっかりしていました。最初にTATに呼ばれた時、彼らが言ったのは、短い付き合い方はしない、僕らが呼ぶと決めたら6、7年、最低でもそのぐらいは続けてお願いする。つまみ食いみたいなことはしたくないと。素晴らしいと思いましたね。それなら安心して挑戦できる、力をぶつけられると思いました。
勅使川原さんはパリ・オペラ座付属バレエ団の振付を依頼されるなど、その方法論は普遍的なものとしてヨーロッパで認識されているように思います。
空気のこと、重力と浮力の感覚、身体を崩すとか組み立てるとかいうことを、僕らは延々と研究していますが、そうしたものの普遍性を感じてくれているのかなと思っています。その普遍的なものを、実際の身体の使い方として、常に発見し、技術として身につけ、継続していくことが必要なのですが、海外でやることによって自分たちのやっていることが間違いないことをより強く感じることができました。
 カナダの「フェスティバル・インターナショナル・ド・ヌーベルダンス・モントリオール」でも、シャイヨー劇場でも、観客のはっきりした反応がありました。面白かったのは、シャイヨーの人が「ここで何年も働いているけども、これが一番自分に感じました」と言ったこと。ダンスとして今これが良いのか? ということではなくて、自分が「感じた」ことが基準になる。それが、僕が最初から目指している、ダンスという表現にある「力」です。
勅使川原さんのワークショップとはどのようなものか、具体的な内容についてご説明いただけますか。
僕らは「呼吸」をしないと生きていられない。呼吸は回りの「空気」がなければ成立しない。ということは、周りの空気まで含めてすべてが「身体」であると。そして身体には「重力」が働いている。その重力と身体を感じる「意識」と「呼吸」がある──それだけをたっぷり感じるところから始めます。身体の中にどういう記憶があるかとか、どういう思いがあるかとか、この音楽をどのように理解するとか、そういうことは一切必要ない。ただ、自分の身体を感じましょうと。「理解する」以前に「感じる」がある、そして意識化した理解に向かう。
 具体的には、まず、呼吸だけやります。「吸って」「吐いて」「吸って」「吐いて」……と。呼吸に集中してと言うと、だいたい目をつむりたがりますが、そうすると身体のバランスが悪くなるし、音のほうに気がいってしまうので、目は開けたままやる。でもやっているうちにだんだんつまらなくなるでしょ。呼吸だけやれってどういうことよ? みたいな(笑)。そうやって苛ついてくると、何かやりたくなるのが情なので、段々味がでてきてそれがオモシロいんです。
 そうなったら、「吸って〜、もっと吸って〜、もっと吸えるはずだ〜」と指示する。で、今度はゆっくり、ゆっくり吐かせる。そうして自分の「呼吸の幅」を意識するようにさせます。ゆっくり吐ききってもうこれ以上吐けないところまで吐いたら、ゆっくり吸い始める。ちょうどボールを上に投げ上げると放物線を描いて止まることなく落ちてくるように、呼吸は基本的に止まらないサイクルをつくっているから無意識にできるわけですが、その吸い始める時と、吐き始める時を意識的にやろうと。そうすると、つまりそれがリズムになっていく。もっと言うとそれが動作になっていく。その呼吸をガイドにして手を伸ばすことと呼吸を一緒にやる。
 バレエではステップバックしてからやることをプリパレーションと言いますが、動作には全部そういう仕組みがあって、吸うんだったらまずちょっと吐く、吐くんだったらまずちょっと吸う、それを動作といっしょにやると、「緩む」というそこに特有の劇的なセンセーションが生まれます。
 ワークショップでは、そういう呼吸と動作だけをやります。吐ききった後の「もういいじゃん」という表現的な心理を抜いて、最初は呼吸だけ、次は呼吸と動作を一致させて、調和させていく。スチュワートがなぜひとりで歩けるようになったかというと、呼吸と、踵、足の裏、指が順に床から離れるという動作を、呼吸のサイクルでやる練習をしたからです。だから呼吸がなかったら、杖や手すりがないのと同じことで、彼にとって呼吸は調和のもとになっているんです。僕らは、そうしたことを全部組み立てているわけではなくて、自動的にできるオートマティズムをもっています。呼吸を意識してコントロールできるようになれば、あとは係数というか、条件を自分で加えていく方法を編み出せばいいんです。
 身体には、何かを微分していって最後に残るような感覚が潜んでいると思っています。僕はそれを発見するのが楽しいし、若い人たちとやっていると、発見できることがまだまだあります。時間が足りないけど、これまでのダンスとは別の言語感覚(僕のメソッド)を持てるだろうと思っているし、求め続けていきたいと思っています。バレエも能も、ひとりの人がつくったわけではなく、長い時間の中で形作られたものだから。このことを『リベラシオン』紙の記者に話したら、「まるでドン・キホーテだね」(笑)と言われました。見果てぬ夢に向かって歩いていると。でもそれは僕にとってはとてもポジティブなことなんです。
今後の予定をお聞かせください。
9月に彩の国さいたま芸術劇場で『HERE TO HERE』を上演し、12月には東京・両国のシアターXで新作演劇をやります。ロベルト・ムージルというオーストリアの作家のテキストで、僕は主演・演出です。ムージルはヨーロッパでは誰でも知っている思想家・小説家で、その人の『特性のない男(Der Mann ohne Eigenschaften)』という作品を取り上げます。僕は別にお芝居をやりたいわけではなく、声と身体だけで何ができるか、実験したいと思っています。身体の使い方が、今までとは全く違うものになると思います。
 今はあまりダンスの振付をやりたくなくて。自分が作家としてできることはこれからも個人的な発想でつくっていくと思いますが、そういうことのみではなく、個人じゃない部分、個人には負えない部分にどう取り組めるか、ということに今一番興味があります。以前、「一千年かかる革命には参加したい」と書いたんですが、それは大げさじゃなく、まあ大げさな言葉なんだけど(笑)、そういうことに興味がありますね。
佐藤まいみ
ダンス/舞台芸術プロデューサー。1993年より2005年まで神奈川芸術文化財団/コンテンポラリー アーツ シリーズ プロデューサーを務める。05年4月より埼玉県芸術文化振興財団ダンス部門プロデューサーに就任、現在に至る。

『空気のダンス』
撮影:鹿摩隆司/新国立劇場/2008年

『LUMINOUS』(2001年)
撮影:Dominik Mentzos

『ガラスノ牙』
撮影:鹿摩隆司/新国立劇場/2006年

撮影:Dominik Mentzos

 

『HERE TO HERE』(1995年)
撮影:Bengt Wanselius