友吉鶴心

薩摩琵琶から広がる
友吉鶴心の思い

2022.03.17
友吉鶴心

友吉鶴心Kakushin Tomoyoshi

1965年、薩摩琵琶奏者の山口速水、友吉鶴心の孫として東京浅草に生まれる。日本の伝統文化・芸能の豊かな環境で育ち、3歳から日本舞踊をはじめさまざまな伝統芸能を学ぶ。84年、日本大学藝術学部演劇学科に入学し、日本の中世の芸能を学ぶ。87年、両祖父の偉業である薩摩琵琶奏者を志し、鶴田錦史に師事。以来、国内外での薩摩琵琶の演奏活動はもちろん、ロックグループ「聖飢魔Ⅱ」をはじめとした多ジャンルの音楽家や表現者とのジョイント、小説家の橋本治書き下ろしによる新作『城壁のハムレット』(琵琶音楽会初のDVD化)、尺八の藤原道山と共演した『エクリプス』『ノヴェンバー・ステップス』、子どもたちへの普及活動、NHK大河ドラマをはじめとした芸能考証、ゲーム音楽など縦横に活躍。文部大臣奨励賞、NHK会長賞等受賞。日本大学藝術学部音楽学科非常勤講師。NPO法人ACT.JT理事。

両祖父が薩摩琵琶奏者という家に生まれ、幼い頃からさまざまな芸能を学び、琵琶奏者となった友吉鶴心(1965年生まれ)。鶴田錦史に師事し、古典はもとより、デーモン閣下とのライブ、橋本治書き下ろしによる新作、国内外のアーティストとのジョイント、ゲーム音楽への参画、NHK大河ドラマなどの芸能考証・指導など縦横に活動。薩摩琵琶の可能性を追求し、伝統芸能の普及に力を尽くす彼の思いとは?
聞き手:奈良部和美(ジャーナリスト)
友吉鶴心 薩摩琵琶演奏会『名ごりの花一看』

友吉鶴心 薩摩琵琶演奏会『名ごりの花一看(はないちかん)』(2021年10月28日/浅草ギャラリー・エフ)

友吉さんのご両親の父上、おじい様はお二人とも薩摩琵琶(*1)奏者でいらっしゃいました。ご自身はいつ頃から琵琶奏者を志したのですか。
 実は、子どもの頃は琵琶が大嫌いでした。華やかではないし、何を歌っているかも分からない(笑)。当時、一番好きだったのは歌舞伎でした。3歳ぐらいだったと思いますが、テレビの劇場中継で六世中村歌右衛門さんが八ツ橋を演じていたのを見ました。父が別の番組に変えると、私がすぐに八ツ橋に戻す。「この子はちょっと変わってる」と思ったらしく、踊りを習わせたらどうだと、家から徒歩50歩ぐらいのところに住んでらした花柳壽右衛門(じゅえもん)さんのところへ行かせることにした。生まれも育ちも浅草で、自宅の裏が小唄の春日とよ栄芝さんの家という環境でした。
浅草寺の門前町だった浅草は、江戸を代表する下町として賑わい、町人文化が栄え、明治時代にはたくさんの演芸場や劇場が建ち並んだ芸能の町です。今でも日本舞踊や長唄や小唄などのお師匠さんがお住まいになっていて、日本の伝統芸能が生活の中にあります。
 友吉家は170年ほど前、嘉永6年(1853年)、ペリーが浦賀に来た頃に福井から江戸の入谷に流れ着きました。そこで高祖父が味噌、醤油屋を始めて、一代で大きくした。その頃、琵琶や義太夫がとても流行っていて、曾祖父が琵琶を始めました。その影響で祖父もその兄弟もみんな琵琶をやるようになりました。祖父の友吉鶴心は鶴田錦史先生(*2)と同い年で、昔から仲が良かったそうです。祖父が副業で浅草に開いた飲食店には、国文学者の池田彌三郎先生とか琵琶曲の作詞をしていた望月唖江(あこう)さんとか、文人たちが着流しで来て、定席に座って飲んでいました。

 母方の祖父にあたるのが山口速水(そくすい)で、多分趣味で琵琶を始めたんだと思います。明治の終わりから第二次世界大戦後直ぐあたりまで、琵琶の動向を網羅した『琵琶新聞』というのが発行されていました。その新聞は酷評が多かったのですが、なぜか速水がたくさん出てきてとても評価が高かった。母によると、20代で師範になり、多くの弟子が学んでいたそうです。
大正時代ぐらいまでは、一家に一面琵琶があったと聞いたことがあります。人気があり、趣味で弾く人も多かったそうですね。
 その通りです。都内に36軒ぐらい琵琶屋さんがあり、作っても作っても売れた。今、琵琶をつくれるのは、虎ノ門の石田さんと渋谷の三田村さんのお店ぐらいです。

 うちは母の姉妹がみんな琵琶の家に嫁いでいるんです。ですから、当時の琵琶の名人たちと速水は縁戚でした。祖父の親族には琵琶奏者は一人もいませんが、兄弟がみんな商売で財を成したので、趣味で琵琶をやりつつ、パトロネージュをしていたようです。ですから、父と母が結婚する前から、私は琵琶と縁があったわけです。

 でも、嫌いだった(笑)。3歳か4歳の頃、祖父が私を文楽へ連れて行ってくれたのですが、そうすると文楽にハマる。祖父の友人に落語家さんもいらっしゃったので、落語に連れて行くと、落語にハマる。小学1年生の頃、長唄『綱館(つなやかた)』の稽古をしていた時に、隣の家の同級生が外でキャッチボールをしていたのが見えて、アイツらバカじゃないのと思ったのだから、ちょっと変わった子どもでしたね。

 祖父の麻雀仲間には有名な女流書家やさまざまな文化人がいました。母方の祖父は長唄の十四世杵屋六左衛門さんや杵屋正邦(せいほう)さんとも仲が良かった。十四世には三味線を教わりましたが、チントンシャンって何回やっても「違う」って言われる。お箏は中能島欣一(なかのしまきんいち)先生に少しお稽古していただいたときも、「違う」って言われる。でも、お二人とも何が違うかは教えてくださらない。常磐津の千東勢太夫さんにも稽古していただきましたが、今考えると、とても素敵な先生方に教えていただいたと思います。

 家の行李に、私が書いた書が全部残っているのですが、古今和歌集の第1首「年のうちに春はきにけりひととせを去年(こぞ)とやいはむ今年とやいはむ」ばかり書かされているんです。祖父は鉛筆を持つ前に、筆を持たなければ日本語は書けないと、私に筆を持たせたような人でした。子どもの頃、クリスマスのプレゼントはオモチャではなくて、源氏物語とか伊勢物語など国宝になっている巻物のレプリカとか、硯でした。琵琶を習うとか習わないとかではなくて、その土台として、ずっと続いてきた日本の伝統文化の中で自然と身に付くものがある──。今考えると、そういう環境にいさせてもらったことをとても幸せに思います。明治、大正のよき文化の薫りの中で育った祖父、じいちゃんが、多分、自分のコピーをつくろうと思ったんでしょうね。
琵琶奏者になることも、知らず知らずにおじいさまからすり込まれていたのでしょうか。
 いえ、どうしても歌舞伎役者になりたかった。日本舞踊をやり、三味線、お箏、ありとあらゆることをやらせてもらって、古今和歌集も全部覚え、万葉集も半分ぐらい覚えて、中学生になってもその思いは変わりませんでした。それも、「いかに弁慶〜」って言う「勧進帳」の義経のような主役をやりたかったのですが、なれるわけがない(笑)。
歌舞伎は代々役者の家柄でないと、なかなか主役は勤められません。一般家庭から歌舞伎役者になったとしても、主役を支えるその他大勢になるのが精一杯です。
 祖父の知り合いの役者さんが家に出入りする環境にいると、なれるものだと錯覚してしまう。でも高校に入った頃に、やっと歌舞伎役者にはなれないとわかるんです。とにかく勉強が大嫌いで、歌舞伎を見に行くか、登校しても保健室にいるという親不孝な時間を過ごしてました。

 親がどうしても大学に行って欲しいというので、大好きな舞踊評論家の目代清さんが教えていらした日本大学芸術学部日本舞踊コースを受けました。実技は最高得点でしたが筆記は歴史以外は適当に○×を付けただけ。面接で、「入ったら勉強します!」と一世一代の大芝居をしました。そうして入学したものの、やっぱり面白くない(笑)。高校生のときに、扇子だけが唯一シルクロードを遡ったという持論で「Ohgi」(おうぎ)という論文を書いたのですが、それを持って先生のところに行き、本に書いてあることをなぞる大学の授業は面白くないと訴えました。
友吉さんはNHKの時代劇ドラマで芸能考証をしていらっしゃるので、中世芸能史を学びたくて大学に進学されたのだとばかり思っていました。
 本当は勉強したかったんですよ。梁塵秘抄がどう展開して出雲阿国に繋がったのか知りたかった。梁塵秘抄は中学生の時から読んでいましたし、中世芸能史は勉強していたので大学に入る前から何を言われても答えられる状態ではありました。目代先生の授業はちゃんと踊りを踊るし、なぜこの振りはこうなるのかとか、ご自分の考えを伝えながら他の学び方も教えてくださったので楽しかった。でも、ほかの授業には興味がもてませんでした。

 そこからまた親不孝が始まり、親にもらった授業料を懐に入れて、歌舞伎座の昼の部を通しで初日から3日、中日から3日、楽日まで3日見に行っていました。それからお金をかき集めて、語学もできないのに、パリにオペラを見に行き、翌年はニューヨークにミュージカルを見に行きました。あの頃は勇気がありましたね。そんな親不孝をして、大学から授業料が未納だと親に連絡がいき、騒ぎになった。その時にはじいちゃんは亡くなっていました。
もはや助けてくれる味方がいない。
 歌舞伎俳優にはなれないし、お金がないと何も出来ないし、どうしようと悩んでいる時に、じいちゃんが琵琶を弾いている夢を3日連続で見たんです。それで、琵琶だったら親戚中やってる人いるし、じいちゃんの名前を名乗ればいいからと、本当に中途半端な気持ちで琵琶を始めた。でも楽器が無かったので、速水のおばあちゃんのところに行ってやりたいと言ったら、「無理」「食っていけないからやめなさい、ご家族に迷惑をかけるからやめなさい」と。でも再三、話に行き、五度目に母と一緒に行きました。それで、仕方がないということで、鶴田錦史のところへ行くことになりました。
友吉さんが錦史さんを師匠に選んだわけではないのですね。
 巡り合わせもありますが、選んだ理由ももちろんあります。琵琶をやりたいと思った時に、鶴田錦史の『敦盛』のテープを発見したんです。聴いた時に「なんだコレ」と驚きました。それまで聴いていた琵琶音楽とは全く違っていたんです。それで鶴田先生のところに弟子入りしましたが、最初はさしたる覚悟もなく、実家暮らしで生活も月謝も両親が面倒をみてくれました。

 初めて伺った時に、「あんた、ノミ研げるの?」と先生に問われて、「ノミですか?琵琶教わりに来たんですけど」と言ったら、「あんたね、私の言うことに一々口答えするんじゃない」と。「ノコギリ引けるか?」「目立てわかるか?」と聞かれて、「わかりません」と答えたら「じゃあダメだね。帰れ」と。ノミが研げて、ノコギリが引けて、この2つができなければ琵琶奏者にはなれない。歌を歌うのは誰でもできる、弾くのも誰でもできると言って、一度帰されるんです。

 ばあちゃんともう一度行って、「すいません、それでもやりたいです」「少し勉強してきました」とお願いしました。絃がフレット(柱)の上にどう乗っているかでさわりのつき方が変わるのですが、そのさわりを取るためにノミを使う必要があるんです。
フレットの高さを微妙に調整すると、いくえにも音が重なっているようなビーンという独特の音色が生まれる。その音色「さわり」を作るのは演奏者で、調整するためにはノミやノコギリが使えなければならないのですね。
 ノミを自分で研げなければ自分の音は出せない、自分で木を買ってきてフレットをつくれなければダメというところから始まりました。「あんたね、自分のこともわからないのに生意気なこと言ってんじゃない」って、よく怒られました。それで、1年間家にいらっしゃい、ダメだったらもうやめなさいと言われました。来るのが遅いとも言われました。

 私は自分が関わってきた人たちの声色が上手いんです。例えば清元志寿太夫(しずたゆう)をやれと言われればできますし、常磐津千東勢太夫をやれと言われたら千東勢太夫が私の中に降りてくる。ですから、歌なら錦史の真似もできます。でも、そんなことができても何も進歩しないよと先生には言われました。
錦史さんからはたくさんのことを学ばれたと思いますが‥‥。
 本気になったのは、先生が亡くなってからです。錦史の教えの中に「何をやってもいいんだよ。だけど琵琶は琵琶じゃなきゃダメだ」という言葉があって、先生も人がやってないことを散々されています。絃をパンパンに張って、ハンマーで琵琶を壊してもいますし、ジャズピアノのキース・ジャレットとも共演してます。

 ただ、きちんと古典というものができなきゃダメだともおっしゃってました。「古典ができたら何をやったっていいんだ」と。私は小生意気ですから、「先生のおっしゃる古典というのはどういうものでしょうか」みたいなことをつい言ってしまう。古典は“古い典”と書きますが、私の勝手な思いつきでは、それは古い楽曲とか古い文学とかそういうものを表している字ではなくて、「典」は台が付いて手が付いているから「器」で、神に捧げる古い器のことではないか。器は古くても中には常に新しいものを入れないと腐ってしまう。古いものをやるのも古典かもしれないけど、中身が新しいのも古典だ。それを鶴田先生に言ったらニヤッと笑って、「そうだよ」って。新しいのでいいけど、キチッと古典をしなきゃダメだよと言われました。
新しいことというと、1990年には自主企画によるはじめてのコンサートを青山スパイラルホールで開催されました。ロックバンド「聖飢魔Ⅱ」のボーカリストであるデーモン閣下が出演されていて、閣下とはいろいろと共演されています。
 先生にコンサートをやりたいと言って、怒られながらもはじめてやったのがその「物語遊行(ものがたりゆぎょう)」でした。『俊寛(しゅんかん)』、閣下とのトークショー、杵屋正邦作曲の琵琶独奏曲『不倒』の3本立てでした。先生に相談したら、満席にするんだったらやってもいいと。すべてひとりで企画して、友人の閣下に力を貸してもらいました。当日、先生も聴きに来てくださいました。

 プログラムも自分でデザインし、タイトルの「物語遊行」はローマ字表記にしました。アルファベットにすることで漢字から受ける意味から解放されると思ったからです。1991年から行っている私の演奏会「花一期」も「HANA ICHI GO」とアルファベット表記にしました。そうするとそれぞれの人がいろいろなイメージをもてる。私たちがいくら琵琶をやっていますと言っても、チケットを買って、聴いてくださらないと意味がないし、良いか悪いかをジャッジするのは聴きにきてくださった方だからです。

 演奏会とかリサイタルというタイトルは嫌いなので、弟子の会はすべて「花一重(はないちえ)」でやっています。世阿弥の「花伝書」の考えに共感して付けました。まことの花は今はないけど、一つ一つの積み重ねで、その時々に自分のできる演奏を必死でやっていればいつか世阿弥が言うところのまことの花に近づけるのかなと。今の夢は、あの世があるかどうかわかりませんが、死んでからまた錦史に会えたら、その時に怒られないでいられればいいなと思っています。
古典という意味では、友吉さんは子どもの頃から得がたい環境の中で育っていらっしゃいます。
 自分は一世代前の音しか聴いていないんです。例えば三味線で誰が一番素敵かといえば杵屋五三郎、または杵屋勝東治。箏では中能島欣一先生。ああいう方々に触れていると、ピッチがいいとかリズムがいいとか、そういう問題ではないことがわかります。そういう意味で、私もこれから新しい音として古典に戻る、絶対その方がいいと思っています。

 40歳を過ぎたら武満徹作曲の『ノヴェンバー・ステップス』や『エクリプス』をやりたい。それができる琵琶奏者になれたらと願っていました。先生が亡くなって、錦史が生涯をかけて育てた朝嵐(あさあらし)と名付けられた琵琶を先輩の中村鶴城さんが譲り受けました。それで鶴城さんのところにお稽古に伺ったことがあるのですが、錦史が弾いていたときの音と違っていた。そうか、もう鶴城さんの楽器になったんだなと思いました。

 それで、錦史と『ノヴェンバー・ステップス』『エクリプス』を演奏した尺八の横山勝也先生がいらっしゃると思い、伺いました。横山先生に教えてくださいとお願いしたら、「お前は面白いな」と言われ、5回ぐらい稽古に上がったのですが、一切稽古を付けてくださらない。雑談しながら、「今日は美味いカレーがあるから食べていけ」「今日は鮨にする」とかそんなことばっかり。でも、「あ、そうか」と。横山先生は錦史との時間の過ごし方を教えてくれていたんです。

 琵琶のフレットは横一線なのですが、錦史のフレットは真ん中あたりでちょっと段差がある。弟子は全員うちの師匠がつくったと思っていましたが、あれは横山先生が考えられたのだということがわかりました。琵琶のフレットは幅があるから、どうしても押さえる位置で音階が変わる。その微妙な音階の変化をどうするか、リハーサルをやっている時に横山先生がピアノの黒鍵を見て思いついた。ピアノの白鍵って横から見ると黒鍵より下がってるでしょ。これだと気付いて錦史に言ったらアレになったんだよと。あるいは、武満先生がこういうふうにしてこのフレーズが生まれたとか、たくさん話が聞けた。そして最後に、「『ノヴェンバー・ステップス』は自分でつくるもんだ」と言われました。

 サントリーホールから「20周年記念で『ノヴェンバー・ステップス』をプログラムするにあたって演奏者は誰がいいか」と、横山先生に相談がありました。ちょうど私と尺八の藤原道山さんが稽古に伺っていたこともあり、「若い二人でやりなさい」と結んでくださった。本番も聴きに来てくださいましたが、全然弾けなくて。そうしたら先生が、「いいんだよ、この曲はそういうもんだ。何十年やって、やっとあの形が生まれたんだから、二人で作っていきなさい」と優しいお言葉をいただきました。だから今も道山君とペアを組んでやっています。2016年に国立劇場で新しい邦楽の回顧録のような演奏会があり、二人で『エクリプス』を演奏したときに少し手応えがあり、横山先生がおっしゃってくださったことの薄いベールがちょっとだけ剥がせた気がしました。もちろんこれからですが。
先ほど、錦史さんが育てた琵琶「朝嵐」の話題がでましたが、楽器も奏者に育てられるものだと改めて思いました。
 少なくとも鶴田錦史まで、うちの祖父の代までの琵琶と今の琵琶では音が変わってきていると思います。石田琵琶店さんが一生懸命つくってくださっていますが、技術の問題ではなく、胴をつくるために必要な十分に乾燥した良い桑の木が手に入らなくなってきているから音が変わるんです。今の材料は輸入物に頼らなくてはならず、寝かす期間も短い。そうすると水分を含んだ木でつくらざるを得ない。みずみずしい琵琶になるので、音をキンキンにしたほうが鳴るんです。

 林宇助、吉岡友次郎(丸山友次郎)、勝田盛市という近代琵琶におけるストラディバリみたいな名匠の琵琶でも、新しいさわりを付けると音が変わってしまう。今どきの日本人にとっては良い音なのかもしれませんが、本来の木の優しさが伝わる、甘い音、深い音、枯れた音という琵琶の素敵さが時代とともに変わってきている気がして怖いとも思っています。
琵琶の普及にも力を入れ、積極的に子どもたちに教えていらっしゃいます。今の子どもたちは邦楽の音の世界とは全く異なる西洋音階で育ってきているので、教えるにも葛藤があるのではないですか?
 そんなことは全くありません。わかる必要はないと思っていて、まずやってちょうだいと。私はこう教わってきたから、その通り教えるから、そのままやってと。それで、まず歌詞を読んでもらいます。薩摩琵琶の『蓬莱山』は「めでたやな」という歌詞から始まりますが、「これは日本語だよ」と伝えてとにかくそれを読むんです。

 今、薩摩琵琶が生まれた地域、鹿児島県の薩摩川内入来麓(さつませんだいいりきふもと)で子どもたちに教えています。「あなたたちが弾いているこの琵琶は隣の隣の家で出来た琵琶だよ。だからあなたのおじいちゃん、ひいおじいちゃんはこの琵琶をつくった人を知っている。あなたのひいひいおじいちゃんはこの歌を歌えたかもしれない。そう考えると、何百年も昔の人たちがやっていたことを、今ここでおじさんと一緒にできるって素敵だね」と言ったら、子どもたちは「かっけえ(格好いい)」と言うわけです。嬉しいですよね。

 それから、私が1曲全部弾いて、楽譜を渡して、こうやって弾くと2時間稽古をして、後はお茶を飲みながらおしゃべりをする。私は1週間に1回ぐらい通うのですが、1カ月では覚えないだろうなと思っていたら、やってるんですよ。1曲全部歌える。子どもたちは素晴らしいです。音とか言葉じゃなくて、ハートというと嫌らしいですが、気持ちで持っていけるんじゃないかと思います。それに入来麓の郷土愛に育てられている子どもたちには薩摩琵琶のDNAがある。ここには磁場があるんだと思います。

 琵琶は子どもたちに預けて、好きに使っていいし、壊してもいい。何をしてもいいよと自由奔放にやらせています。実際、壊すこともありますが、修理できるので大丈夫なんです。鹿児島で子どもたちに琵琶を教えたいので古い琵琶があったら貸してほしいと市を通してお願いしたら、貸してくださるという申し出が何件もありました。

 実はその中ですごい出会いがありました。武満徹のご尊父は鹿児島出身で、その実家から琵琶を提供していただいたんです。錦史が『ノヴェンバー・ステップス』を弾いた楽器をつくった人の作で、鳥肌ものでした。琵琶は修理しないと使えなかったので私が修理をさせていただきました。「これで『ノヴェンバー・ステップス』を弾きたいです」とお願いしたら、友吉が使うんだったらいつでもどうぞと言ってくださった。大正6(1917)年製作だから100年ちょっと前の琵琶です。江戸中期に植えられた苗木が天保年間(1830〜44年)あたりに伐採されて、50年ぐらい乾燥して大正年間につくられた。今はこんな木はないので、石田さんも伊豆諸島の御蔵島とか小笠原列島の父島とかで穫れる桑を材料にされていると思います。でも、それももう無い。だから輸入に頼るしかない状況で、撥をつくる鹿児島のツゲの木も数えるほどしかありません。
友吉さんも古い薩摩琵琶を集めているそうですね。
 かなり広い部屋が一杯になるぐらいあります。先ほども言いましたが、今、石田さんでつくられている琵琶は50年後に最高の音になる。ですから、今鳴る100年前の古い琵琶を集めています。100年以上前の鹿児島の材料で出来た琵琶はその場で買います。胴が割れた琵琶も自分で修理し、漆と桑のおがくずを混ぜたものを使って、時間をかけてくっつけていきます。そのために漆の勉強もしました。修理した琵琶には、胴裏にいついつに友吉が直しましたと花押を入れてあります。盤面の飾りで螺鈿を入れるのですが、それも自分で出来るよう勉強しました。
友吉鶴心 薩摩琵琶演奏会『名ごりの花一看』

友吉鶴心『琵琶名器数々』(2021年10月27日、29日/浅草ギャラリー・エフ)

友吉さんはNHKの大河ドラマなどで芸能考証もされています。琵琶で学んだことをどう生かされているのでしょうか。日本の中世を描いたドラマでは、小さなシンバルのような鳴り物を手に踊る場面や白拍子が扇を手に歌いながら舞う場面なども出てきます。譜面は残っていないでしょうからどんな音楽だったか、どういう振りで踊ったか確かなことは分かりません。どのように再現するのですか。
 有り難いことに、うちには巻物のレプリカなど山のように資料があります。それを夜な夜な読むことが芸能考証に繋がります。雅楽や歌舞のことを書いてある正史や当時の貴族たちの日記を読めるだけ読む。そして当時の人が何を考えていたのかを考える。研究者はこう歌っていただろうと言いますが、それはひとつの考えであって、正しくはどうだったかわからない。一番大切なのは、例えば白拍子というのが何なのかということです。それを役者さんに説明するのが私の役目です。当時の白拍子とはこういうものだった、後は自分で考えてやってくださいとお話をする。

 音楽は、梁塵秘抄などの音律や拍子をちょっとだけ拾うのと、あとは私のやっている薩摩琵琶を参考にします。琵琶歌はゆっくり歌うとほとんどが昔の雅楽の曲のようになります。ですから逆にこの雅楽の曲いいなあと思うと、録音して、それを早送りする。私の耳に残る音以外ははじいて、残った音に自分のプロセスを付けていく。例えば、同じ琵琶の曲も、祖父が歌うのと錦史が歌うのと私が歌うのとでは全部違う。でも基本的な音、どこまで行ってどう終わるか、最後から2番目の音はどう収まるかだけは全員一緒で、そういう日本の節が生まれるプロセスと同じような感覚でつくっています。
琵琶から始まり仕事の範囲が年々広がっています。最近はゲームの音楽も担当されました。ゲーム「モンスターハンターライズ」にはどのように取り組まれたのですか。
 仕事の依頼をいただいたのですが、モンハンと言われても全くわからない。家にテレビもパソコンもないんですから。弟子たちに聞いたら、「世界的に有名なゲームです。どういう形で関わるのかわかりませんが、多くの人に琵琶の音を聞いてもらえるので絶対に引き受けてください」と言われました。

 でも、事前に絵も文章も見せてもらえない。ですから、すべてアドリブです。5日間拘束されて、スタジオに行って初めて絵を見て、言葉を聞いて、「こんな感じで弾いてもらえませんか?」と言われて、それに対して何十パターンもやるんです。楽譜も何もなくて、「あ、それです」「それはさっきのほうがいいです」「もうちょっとおどろおどろしく歌ってください」「もっと軽快」とかディレクションされながら、全部その場でつくっていく。ものすごく大変でした。
てっきりゲームがお好きなのだと思っていました。
 いやいや、最初はカプコンって何? カップヌードルみたいなもの?みたいな感じでした(笑)。今は集英社からの依頼で『BLEACH』(家族を護るために悪霊を退治する死神代行になった高校生・黒崎一護と仲間の活躍を描いたもの)というマンガ関係の音楽をやっています。作者の久保帯人さんとプロデューサーが私の演奏を聴いて「これだ!」と思ったそうです。私はとにかく一人でも多くの人に琵琶を聞いて欲しいと思っているので引き受けました。

 こちらも即興です。『BLEACH』の本が全巻送られてきましたが、全部読まなかった(笑)。読んでしまうと妄想したりして、自分の中にドラマができあがってしまうので。ディレクターの言葉を真摯に受け止められる自分でいたいと思いました。
新しいことに取り組むときに友吉さんが大切にされていることは何ですか。
 気持ちがあればお金がなくてもなんとかなると思っていますし、それで30年間やってきました。誰かに認めてもらいたいというのではなく、演奏家としての責任、生き方を考えることを大切にしています。私たち表現者は常に進化していかないとダメで、「また良くなったね」「今日のほうが良かったよ」と言ってもらえるのが一番嬉しい。私は稽古が趣味なので、最近はパッと幕が開いた瞬間に「あ、稽古してるな」と見えるようになってきた。そういう時は下手でも素晴らしいと思います。

 私は明治以降の日本の文化は嫌いです。明治は、過去にあった良いものをどんどん捨て去って新しいものと入れ替えることで新しい日本をつくろうというエネルギーが爆発し、それによって近代琵琶も生まれました。でも、江戸時代生まれの師匠に教わった明治生まれの演奏家の音源を聴くと、いきり立って歌っていない。たゆたゆと、やさしく歌う。鹿児島の方言から生まれている節なので、強いところだけポンポンポンと強く歌ってる。でもそれが明治で変わってしまった。自国の文化をしっかり足元から見直さないと、ダメだと思っています。今、自分が何でも自由奔放にやらせていただいていることにはとても感謝していますが、ただ未来を見ようとしてもそこに未来はありません。未来は過去にあるし、特に伝承に携わるものはそこに崇敬の念のもって臨むべきだと思っています。
楽器を作る素材がなくなり、楽器の作り手も減り、琵琶の音に触れる機会も少なくなっている。そうした状況の中で、琵琶楽をどう後世に伝えていきますか。
 ゆくゆくは途絶えると思います。はっきり言って生活の中で必要ないから。今の日本の生活の中で、琵琶じゃないとダメ、琵琶を弾かないと死んじゃうということはない。20代の頃には、ちょっと車で星の見える所に出掛けて、琵琶とチェロか何かの曲が流れるなかで告白するとか、そんなときに流れるような曲が書けたらいいなあと思った時もありました。でも、今は子どもたちにともかく琵琶に触れて欲しいと思っています。ピアノは押せば音が出ます。箏はどちらかというとピアノと一緒で弾けば音が出ますが、三味線と琵琶は音をつくっていく。自分でつくらない限り音が出てこないんです。
生きる上で生活に必要のないものも必要だと私は思います。だから絶えてほしくないです。
 もちろん私もそう思っています。絶えるか絶えないかは世の中が決めることだと思うので、私はとにかく必死に生きる。

 できれば子どもたちに琵琶を教えるための団体をつくりたいと思っています。多少は知っていただいているとはいえ、個人でやるのと公的なものに属しているのとでは違うので、一般社団法人を設立できればと考えてます。鹿児島入来麓を始め、近い将来、東京の神宮や神社、京・九州の神社等で「子ども琵琶教室」を開いてくれる方向になってます。ともかく頭が軟らかい子どもの内に琵琶に触れてもらいたい。その後、やるかやらないかは関係ないんです。私が子どもの頃に様々なものに触れる時間を頂戴できたように、とにかく琵琶に触れて、100年前の琵琶を弾いてもらいたい。これからはそれをコツコツとやろうと思っています。

 あと今年は、鶴田錦史がつくった楽曲を音源に残すことをはじめたいと思っています。錦史が残した節を正しく歌っている奏者は誰もいない。ウチにしかない資料とか、祖父が残した音源が沢山あってまだ発表していません。それらを勉強させてもらって演奏し、年内に20曲は録りたいと思っています。2年かけて最低でも錦史が残したものをすべて音源にして、なぜこの曲でこの手を弾いたか、なぜ錦史はこのように歌ったのか、すべて記述しておく作業をしたい。

 それから、古い琵琶を保護し、安い価格で修理し、貸し出しもしたい。琵琶の発展に関する環境や、研究は本当に足りてなくて、音源をはじめ私の弟子が研究している『琵琶新聞』の資料等すべて提供するので、ぜひ志しある人に琵琶音楽・近代琵琶のを研究していただければと思います。

 若い子たちがメイクをして「鬼滅の刃」を琵琶で弾いたりしてますが、否定する人が多いんです。でも私は逆。どんどんやればいいし、何でもやればいい。誰が聞いてくださるかわからないから、「あれは何だ、琵琶か、良いじゃないか」と思ってもらえるかもしれない。そういうことも奨励しながら、きっちり古典を護りたい。

 琵琶は中東で生まれた楽器ですから、私はいつもアジアの中の日本、日本の中のアジアについて思いを馳せています。とてもエキゾチックな楽器であり、日本の素敵な思いがたくさん受け継がれてきた楽器です。そういう根本的なみやびは何百年たっても変わらない。それさえ持っていれば何をやってもいい、と錦史の言っていたことが少しだけわかるような気になったので、私もまだこれから。気持ちを引き締めて琵琶と生きていかないといけないと思っています。

*1 薩摩琵琶
薩摩琵琶は、薩摩(今の鹿児島県の中の旧国名)の盲僧の琵琶を利用して、武士の修養に役立てるため、島津日新公(日新斎)の作詞と盲僧渕脇寿長院の作曲で創始された。それらの曲は、仏教や儒教の教えを平易に砕いた道徳的なものであった。ところが、その演奏者たちは薩摩武士であり、その後、戦国の世とて、合戦が相次いだので、薩摩琵琶の内容や表現は勇壮なものに変化した。そのため、人の道を諭す倫理的な日新公の作詞も、中国の女性がしみじみ語る身の上を抒情的に綴った白楽天の「潯陽江」も、薩摩琵琶にかかると、悲憤慷慨調になっていった。薩摩琵琶の音楽的な特徴は、絃全体を使って早いテンポで奏する「崩し」という勇ましい手と歌があり、それとは対照的な悲哀の歌(「吟替り」という)もあることである。しかも、義太夫節の発声に近い声量で、腹の底から声を出す歌い方は、普通の邦楽がやや声を控え目に出すのとは違っている。やはり薩摩武士の尚武の精神の影響を受けたのであろう。(吉川英史)

*2 鶴田錦史(つるた・きんし)
1911年〜95年。薩摩琵琶演奏家、作曲家。北海道滝川市生まれ。幼い頃より兄の影響で琵琶を始め、7歳で上京して小峰元水に入門。錦心流薩摩琵琶を習得し、10代で演奏活動と弟子の育成を始めるが、一時期実業家に転身して成功。55年に演奏家として再デビュー。64年に小林正樹監督の映画『怪談』で「壇ノ浦」を自作自演したのを機に作曲家の武満徹と知り合い、67年に武満作曲による『ノヴェンバー・ステップス』を演奏し、国際的な評価を得る。表現力豊かな琵琶楽を求めて楽器の改良や奏法の革新に取り組んだ。