国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan

Artist Interview アーティストインタビュー

2006.10.20
舞踏とコンテンポラリーの90年代を築いた越境のダンサー 伊藤キムのこれから

Kim Itoh, the cross-over dancer who redefined butoh and contemporary dance in the 90s, looks to the future

dance

舞踏とコンテンポラリーの90年代を築いた越境のダンサー 伊藤キムのこれから

伊藤キム

96年のバニョレ国際振付家賞受賞後の10年、その活動に誰もが注目してきたアーティスト、伊藤キム。ダンスカンパニー「伊藤キム+輝く未来」を主宰し、ソロ活動やワークショップなど、日本のコンテンポラリーダンスの中で常に先頭を走ってきた。2005年に『禁色』を発表した矢先、世界をめぐる旅に出た彼は、自らの新たな意欲に目覚めて帰国。創作活動を休止すると宣言したキムの胸中とは?
聞き手:石井達朗

ダンスと関わるようになったのは、いつどんなきっかけがあったのですか。
中学、高校ではロックバンドで音楽活動をやっていたし、大学は社会学専攻だったので、踊りとは無縁でした。それまでに身体を動かすことでやったことがあるとすると、中学の部活の器械体操ぐらいですね。大学生のときには一人芝居のイッセー尾形や第三舞台などの演劇を見ていました。そのころサークル活動で世界中の民俗芸能の上演活動をやっている芸能山城組に入り、1年ほどケチャなどをやっていたこともあります。
山城組をやめてから、何か舞台関係のアルバイトはないかと探していたところ、新宿に「モダンアート」というストリップ劇場があって、雑用係をすることになりました。
そこは70年代に寺山修司が芝居をやったり、パンクバンドがライブをやったり、流山児祥がショー的なものをやったり、ストリップ劇場というよりも当時のアングラの拠点のひとつでした。70年代の空気にちょっとしたあこがれもあって、アングラのにおいがぷんぷんするその環境はとても居心地がよかったし、刺激的でした。
そこのストリップショーはトップレスだけのレビューで、踊り子さんには過激さよりも芸を求めていたせいか、お客さんが少なかった(笑)。踊り子さんの数も少ないし、休憩時間が長くて舞台が空いていたので、踊っていいですか、と店長に聞いたら、いいよって。いいかげんですよね。それで、テープをかけて10分ぐらい一人で踊ってみた。踊り子さんたちに刺激されていたし、一応ストリップ劇場だから男女の区別がつかないユニセックスな衣裳を着けて踊ったら、これがお客さんに受けて拍手が来た。「おお、これはいいな」と思ったのが舞台デビューです。それが85年ごろ、20歳ぐらいのときです。
そう言われればキムさんの作品には、ストリップ劇場のショーケース的な、「見せますよ」という踊りがけっこういろんなシーンで挿入されてくるような気がします。拍手の味が忘れられなくてそこから抜けられなくなったんでしょうか(笑)。
そうですね(笑)。僕は、コンテンポラリーダンスとか何とかじゃなくて、そういうすごく下世話な、泥臭いところの出身だという意識がありますから。あの頃も、酔客を前にいかに楽しませるか、そういうことばっかり考えていました。それはすごく楽しかった。
現在の伊藤キムを形作るのに、もっとも影響力があったのは舞踏家の古川あんずさんだと思います。彼女と出会っていなかったら、今のようなキムさんのスタイルはなかったかもしれません。彼女との出会いはどんなふうだったんですか。
高校生のころたまたまテレビで放映された山海塾の公演を見て「これはなんだろう」と思ったり、 大駱駝艦 を舞台で見たりしていました。そういう興味を見出されたのか、大学のときにそのストリップ劇場にいた踊り子さんのひとりに古川あんずさんがワークショップをやっていると紹介されたんです。行ってみたら 勅使川原三郎 のワークショップもやっていて、興味もありましたが、あまりに混雑していたので、何度か参加したけれど続ける気にならなかった。もし、そっちに参加していたらミニ勅使川原みたいになっていて、今の僕はなかったかもしれませんね(笑)。あんずさんのワークショップを受けて、それまで舞踏にもっていたドロドロしたイメージじゃなくて、舞踏にはもっと軽妙でコミカルな部分もあることを知りました。そのまま90年まで3年ほど彼女のカンパニーにいました。
あんずさんのスタイルが、キムさんの身体に合っていたのはどういう部分ですか。
何て言ったらいいのかな、彼女の踊りは情熱的でありながら、ものすごく冷静。彼女は作品を突き放してつくれるところがある。
それは確かに、伊藤キム作品に継承されていますね。その後、キムさんが自分のカンパニーを創設(95年)するまで数年の年月がありますが、その間はどんな活動をしていたのですか。
4、5年間ほどフリーのダンサーとしてあちこち出演したり、小さい舞台でソロを踊ったりしていました。H・アール・カオスの前身となるカンパニーで 大島早紀子 さんの舞台に出たり、中村隆彦さんらの現代舞踊協会系のモダンダンスの公演に客演したこともあります。あんずさんのカンパニーで一緒に踊っていたドイツのグループに客演をしたり、他には、写真家や音楽家とのコラボレーションもやりました。
1995年に自身のカンパニー「伊藤キム+輝く未来」を旗揚げして、そのあと10年間にわたり舞踏というジャンルの中だけでなく、広くコンテンポラリーダンスの世界で中心的な活動が始動します。旗揚げの作品は何だったんですか。
ウィリアム・ゴールディングの小説『蝿の王』をモチーフにした作品で旗揚げしました。その頃にバニョレ国際振付賞のことを知り、周囲からの勧めもあって、96年に『生きたまま死んでいるヒトは死んだまま生きているのか?』を出品しました。
『生きたまま死んでいるヒトは死んだまま生きているのか?』は、日本のダンス界に非常にアピールしました。笠井叡、 山崎広太 のいくつかの作品のように、90年代に舞踏とコンテンポラリーダンスの境界を消去しながら、ダンス作品としての強度を獲得していった作品の一つです。タイトルがとてもユニークですが、生と死のイメージがつきまとう「舞踏」を意識していましたか。
特に意識していたわけではありませんが、当時は近年の作品より舞踏色は強かったと自分でも思います。
これは僕自身も実感している事ですが、都会に住んでいる人たちはいつも自分を殺して生きていると思うんです。例えば、満員電車で隣に知らない人がいると、じっと直視することはできないでしょ。じっと見たり話しかけたりするのは変人と思われるから、自分の周りにシャッターを下ろして、外界からシャットアウトして物みたいになって立っているしかない。僕自身、あまりオープンな方じゃなくて、人と関わらない方が楽だし、「ああ、俺はこういうことが楽だと思うんだな」という実感は、現代に生きている人に共通している要素じゃないでしょうか。
そういうようなことを考えて踊りをやっていた時に、丸谷才一が「今の日本人は生きているか死んでいるかよくわからない」とどこかで書いているのを読み、その通りだと共感して、このタイトルを思いつきました。ちゃんと息もしているし、心臓も動いていて身体はあるんだけど、存在を消せるという身体。それは果たして生きているのか、死んでいるのか。もちろんそんな身体についての考え方だけでは作品にはなりませんから、美術や音楽、ビジュアルや空間、時間的な流れがどうなっているのか、そういうことをあれこれ考えながら作品をつくりました。
僕は、空間的にも時間的にも「構成」をするのが踊りだと思っていますから、身体そのものをいじるよりも、ある空間があって、どこに人がいるのか、どのぐらいの時間でどこに移動するのか、どういうルートをたどって動くのか、その速度とか、立っているのかものすごく時間をかけて座るとこうなるといった身体の状態とか、そういう空間構成、時間構成を考えるのが好きなんです。
そこは、舞踏とかコンテンポラリーダンスといったジャンルの違いとは関係ないし、まあ、そういうジャンルの違いも僕にはよくわかりませんが……。
今の話は伊藤キムの踊りのすべてだという気がします。ダンスの歴史のなかで、土方巽、大野一雄らは西洋・東洋を含め素晴らしい踊り手たちです。舞踏家は身体そのものの在り方に集中していて、それをテーマにしていて、その中に深く静かに潜行してゆきます。それが今までのダンスの歴史になかったような独自の表現スタイルを生みました。しかし、同時に舞踏といっても、身体だけがすべてなのではありません。身体が観客に供される空間というものがあります。舞台という空間で、例えば30分なりの時間の流れの中で、身体を含めた空間をどう構成してゆくのが問われます。つまり、客観的な意味での空間全体の演出を、時間の経過のなかでどのように構成してゆけるのかということです。これは舞踏家に限らず、「作品」としてダンスをするすべての舞踊家に必要とされます。でも、自分の身体だけにこだわって、客観的な構成に対して配慮が足りない舞踊家も多いです。キムさんの作品は、動きの探求以外に、空間におけるダンサーのポジショニングや、出入りのタイミングなどに対して非常に意識的であり、そのため密度の高い構成が見えます。ただし、そういうしっかりとした構成のなかで、いつも既成の枠組みを解体してゆくような方向性が見えます。
バニョレで賞を取った後の10年間の活躍ぶりは、日本のダンス界ではよく知られていますが、『on the Map』にしても『劇場遊園』や『壁の花、旅に出る。』にしても、いずれも空間の扱い方に大胆で面白い仕掛けがありました。『on the Map』は相当に意欲的な実験作品で、劇場の中に設置されたテーマ別の檻の中で行われるパフォーマンスを観客はマップを頼りに見て歩くというマルチフォーカスの舞台でした。『劇場遊園』では、ロビーや客席まで劇場全体を使っています。このように「ダンス」という以前に、空間そのものに対して人々が日常的に慣れ親しんだ意識を転覆するような、伊藤キム独特のトリッキーな感覚があるのですね。
僕は、どちらかというとイベント志向なんですよ。劇場のプロセニアムの中だけではなくて、街でイベントをやるとか、そういうことがとても好きなんです。もともと社会学専攻ですから(笑)。
ちょっと変な話になりますが、僕はいろいろな方法で人を「洗脳」したいと思っているんです。もし時代が違っていたら、どこかの国の独裁者になっていたかもしれませんね(笑)。文章を読ませるとか、映像を見せるとか、話を聞かせるとか、洗脳の方法はいろいろあると思いますが、僕の場合は、観客を「ある状況に巻き込む」ことで洗脳していきます。だから『on the Map』や『壁の花〜』などでは、観客と演者の間の境界線を曖昧にして両者を入れ替えてお客さんの場所の感覚を惑わせる──こういうやり方をトリッキーと言われれば、トリッキーなのかもしれません。
ちなみに『on the Map』については、古川あんずが1989年にベルリンで公演した『Rent a body-The last Night of Ballhaus』からかなりアイデアを得ています。実は、僕の他の作品にしても、この作品からの影響をかなり受けているといっていいと思います。『Rent A Body』は、2階分ぐらいの吹き抜けのホールで、上にホールを見渡せるギャラリー、下にバーがある大きな舞踏会場の空間全体を使った作品です。日本人メンバー数人と現地のワークショップ生を含めて計52人で踊りました。建物全体で同時多発のハプニング的な踊りをし、最後はホールにダンサーもお客さんも集まって踊って終わるという2部構成の作品です。それを自分のカンパニーで試してみたくて『on the Map』をやりました。
おそらく多くのアーティストはもともとあるフィールドからいかに逃れるか、いかに壊すかということを考えていると思うんです。特にコンテンポラリーアートの人たちにはそれ自体が目的になってしまう傾向があります。でも僕はそうではなくて、『on the Map』の時も、舞台の上で踊るだけでは飽き足らないということに加えて、遊園地のようなものをつくってみたかったんです。『劇場遊園』では、実は観客席そのものを「舞台美術」として使いたかっただけで、そうすれば見たこともないような美術になるんじゃないかと考えました。そこに客席と舞台を逆転するといった別の意味を見出そうとした人たちもいましたが、そういうただルールを壊すということだけでやると、つまらないものに陥ってしまう危険性があります。
そういう感覚になるのは、キムさんが狭いダンスの世界だけに閉じこもって、劇場の中だけで作品をつくっていたくはないということと、自ずと繋がってくるのでしょう。ところで、 白井剛 黒田育世 を始めにして、今のコンテンポラリーダンスのキムさんの次の世代の人たちで、大いに活躍して高い評価を得ているアーティストに「輝く未来」出身が多いというのは不思議でもあります。どういうところに理由があるのでしょうか。また、メンバーはどんな育て方をしますか。
メンバーになる時点で、この人は振付家に向いているかどうかなどはあまり考えていませんし、わかりません。彼らにもともとそういう資質があったというのが大きいと思います。ただ、カンパニー活動の中で、メンバーには常にただの雇われダンサーではなく、ものをつくるとはどういうことかの意識をもってもらい、自分を追究することを求めています。僕は先ほども言ったように独裁者なので、押さえるところは押さえますが、スキのある独裁者なので、それ以外は「自由にやっていいですよ」とみんなに丸投げしちゃう。まあ不親切かもしれませんが、僕の思いの至らない部分を結果的に彼らが埋めていて、そういうところがうまくいっているのかなと思っています。昔のメンバーが「キムさんはすごく冷たく突き放すから、いつの間にか自分がやらなくちゃいけなくなる」と言っていましたが、用意されたことをこなすのではなく、自分の問題として抱えなければならなくなることは確かです。創作だけでなく、普段の稽古場でも身体に対する考え方や自分自身の存在を自力で探していくよう意図的に仕向けています。それが後々の個々の活動に繋がっているのかなという気はします。
キムさんにとって、身体とは何ですか。
最終的には「遊び道具」かな。それと商売道具(笑)。まあ踊りは遊びから出発するというふうにいつも思っているので。まさにそれも古川あんずの考えていたことです。だから、ダンサーには、もっと自分の身体を遊べということを言いますし、ワークショップでもやっています。自分の身体をいかにおもちゃのように遊ぶことができるか。そのためには、自分の身体を徹底的に解剖し、完全に別の物体として扱える必要があります。だから、僕にとって、ナルシスティックになっていたり、自分の身体に依存してしまっているダンサーはつまらないんです。
ワークショップでは、例えば布を使って、くちゃくちゃにしたり、伸ばしたり、いろいろな形をつくって、「その布になりましょう」というようなことをやっています。心が素直で、外的な力を素直に自然に受け入れることができる身体が理想的ですが、それはかなり難しいことです。歳をとればとるほど、経験を積めば積むほど難しくなります。
キムさんの活動の一つの節目となる作品が、2005年に発表した『禁色』です。これは、白井剛とのデュオで、これまでのキムさんの活動を凝縮したような大変密度の高い作品でした。『禁色』は言うまでもなく三島由紀夫の小説であり、同時に土方巽が舞踏を創始したと言われる伝説の舞台のタイトルでもあります。他のダンサーは、わざわざこのタイトルを、自分の作品に付けるなんていう、恐れ多いことはしません。このタイトルを使っただけでも、ある種の覚悟と意気込み、それに挑戦が窺えます。あえてこの題材を取り上げたのはなぜですか。
僕はこう見えてもかなり戦闘派なんです(笑)。この作品は、世田谷パブリックシアターに委嘱されて、最初は、男性ばかり7〜8人の演劇的な作品をやりたいという案を出しました。カンパニー企画ではないから、カンパニーではできないことをやりたかったんです。でもよく考えたら、大勢の作品はカンパニーでやっているんですよね。でもソロをやるつもりはなかったし、じゃあデュオかなと。デュオだったらもう一人は白井剛だ。それでインパクトのある作品となると、『禁色』しかないかなと思いました。
その時思い浮かべたのは土方巽の舞踏の『禁色』ですか、それともその原作者である三島由紀夫の小説の方ですか。
両方です。
それは確かに戦闘的ですね(笑)。舞踏界における土方巽や『禁色』の位置づけを知っていれば、センセーショナルすぎて、普通は誰もやろうとはしないですね。
中学生のときに見た『Uボート』というドイツの潜水艦を舞台にした戦争映画が好きで、変な話ですがああいう非常事態のなかにある緊迫感にあこがれていました。ヘラーっといるよりも何かを仕掛けて世の中を煽って、洗脳もするし扇動もする、そういうのに飢えていた。それでこの際、『禁色』をやるのもいいかなと思いました。
まあ、それがとりもなおさず自分のルーツを見つめるいい機会になったわけです。俺はやっぱり舞踏家なのかな、と。実は、その数年ぐらい前から踊りに対する情熱がなくなりつつあって、昨年ちょうど40歳になり過去を振り返ることも多かった。ある種曲がり角に立っていたことも影響していると思います。
『禁色』は舞踏とコンテンポラリーの境界を異化してゆくような、刺激的な作品でした。9月にやったリヨン・ビエンナーレ、デュッセルドルフでの公演の評判はいかがでしたか?
反応はとても良かったです。でも、これは『禁色』だけではなく海外に行くといつもそうですが、「舞踏家・伊藤キム」として紹介されるし、作品が『禁色』だから余計にそうですが、「舞踏とは一体なんぞや?」という話があちこちから出てきてちょっと不思議な感じがしました。
去年日本でやったときも、作品そのものに対する評価はいろいろと聞きましたが、『禁色』をやったということに対する意見はあまり耳にしなかった。自分のやったことが、意味があったのか、なかったのか、見た人たちの捉え方は一体どうだったのか、今回海外でやってあらためて気になりました。
昨年、日本で『禁色』を初演してから、半年間、活動を休止して世界一周旅行に出かけたそうですね。キムさんは、もっとも期待されている舞踊家の一人で、いちばん活躍できる時期に、ダンスの仕事をすべて休んでそんなに大きな休暇をとったのはどうしてですか。
とにかく休暇がほしかった。95年にカンパニーを作ってからはカンパニー活動を軌道に乗せることに集中してきました。しかし、3年ぐらい前から作品がマンネリになってきたという自覚もありましたし、創作意欲も落ちていました。これじゃあダメだ、本当に休もうと考えていた時に、世界一周を思い立ちました。ですから、セゾン文化財団のサバティカル休暇制度が新設されたのは、いいタイミングでした。
僕には、踊りをやっているのは仮の姿で、自分はもっと社会のいろいろなものを吸収して、他のジャンルでも何かをやってみたいという漠然とした興味がありました。社会学専攻ですから(笑)。大学生のときはマスコミ志望だったのですが、たまたま出合った踊りに魅入られて、結局20年近くつづけてきたわけで、そのこと自体あまり本意ではなかったかもしれません。後悔しているということではなく、自分が本来求めていたものの根っこは同じだけれども、表現の仕方やスタイルが違っていてすべては偶然の巡り会わせで今の自分がある。そういうことを、旅行しながら考えていました。つまり、旅をしてみて僕はこんな狭い世界で20年も生きて来たのかと実感しました。それなりに世の中のことを知っていたつもりだったし、自分なりの世の中の見方や知識があると思っていたんですけど、とんでもない。むちゃくちゃ井の中の蛙だな、と改めて思いました。
キムさんは、ダンスの世界にいる人たちの中では、外側の社会に目が向いている数少ない振付家だと思いますが、そういう人だからこそ世界を回って余計にふだん見えてこない世界がヴィヴィッドに見えたのかもしれません。自分の中で以前と明確に変わった部分はありますか。
性格がオープンになったことかな(笑)。僕は人付き合いが苦手で、どちらかというと家に閉じこもってじっとしているタイプで、あまり社交的じゃなかった。しかし今は、自分であちこちに顔を出すようになったし、人と気軽にお茶を飲んだりするようにもなった。フィールドを広げつつあるというか、自分から動くようになってきたという感じです。よく考えてみると踊りを始めた頃は、そうやって動いていたんですよね。カンパニーの実績ができて、ちょっと天狗になっていたのかもしれません。それを6カ月の旅でリセットしてきたんだと思います。
半年間、まったくダンスから離れて、世界各地の貧困とか、われわれの尺度では推し量れない宗教観や価値観のなかで生活をしている人たちと出会って新たな気持ちになれたのは意義深いことだと思います。『禁色』というエポックになる作品を発表し、長い旅から帰り、今後はどのような活動を考えていますか。
それでもまだ、踊りから離れたいという気持ちがあるのは事実なんです。ただし、離れるといってもそこで培ってきたものや人間関係などは大事にしつつ、別のこともやっていきたいということ。具体的に今後踊りとどう関わっていくかは、まだ整理できていませんが、来年からカンパニーのスタイルを変えようとは思っています。カンパニー名から「伊藤キム」を取って「輝く未来」だけにして、僕は主宰者ではあるけど作品はつくらず、他のメンバーがつくった作品でダンサーとして踊るだけ。この秋にワークショップをやって、その中から選んだメンバーと来年の春に再始動します。今は自分でつくりたいとは思わないけど、過去の作品を再演するためにもカンパニーはシステムとして残しておきたいし、次の世代をバックアップし、育てていきたいと思っています。
それと今、文章を書くことにとても興味をもっています。最近は俳句をやったり、雑誌や新聞に原稿を書いたりしていますが、本格的に活動していきたいと思っています。旅の途中で『身体国語辞典』というタイトルで書き始めたものがあるのですが、例えば「目が据わる」とか「首が回らない」とか「手が早い」という身体にまつわるフレーズを1つ1つ取り上げて、僕なりの解釈で短い文章を添えています。できればこれを雑誌で連載して、将来的に単行本にしたいと思っています。
キムさんは言葉に対してしっかりとした意識をもっているし、いろいろなことを言語化するとき、言葉のチョイスが適格です。だからそちらでも面白い仕事ができるでしょう。 これからはずっと舞踊作品はつくらないのですか。
それはわかりません。ソロで即興をやることはあるかもしれませんが、でも今は本当に全くつくりたくない。新しいカンパニーもやってみないとわからない。ただ、ワークショップや審査員などの教育プログラムには興味があります。ずっと先のことになると思いますが、いずれは学校をつくりたいとも思っています。
踊りに情熱がなくなりつつあったから、それを打開するために長い休暇を取ったら、さらに離れてしまった。なにか古い自分に見切りを付けるための旅だったような気がします。ただし、それはそれで良かった。踊りそのものに情熱がなくなったというよりも、その分の情熱が他の分野に向いていて、そこからまた今までとは違った新しい活動がでてきそうな気がしています。とにかく、これからやってみないとわかりません。
Profile

伊藤キム(Kim Itoh)
振付家・ダンサー
1987年、舞踏家・古川あんずに師事。90年、ソロ活動を開始。95年、ダンスカンパニー「伊藤キム+輝く未来」を結成。「日常の中の非日常性」をテーマにした風刺と独特のユーモアを交えた作品を発表。
96年、『生きたまま死んでいるヒトは死んだまま生きているのか?』でバニョレ国際振付賞を受賞し、活動の場を海外にも広げ、その後は、ほぼ年1作のペースで新作を発表。国内に加え、フランス・ドイツ・イギリス・スペイン・アルゼンチン・オランダ・アメリカ・カナ ダ・デンマーク等にて公演されている。
2001年、海外から招聘したカウンターテナー歌手兼ダンサー2名と室内楽演奏家5名に振 付・演出し、伊藤キム本人も出演した『Close the door, open your mouth』(製作: 新国立劇場)、カンパニー作品『激しい庭』(共同製作:世田谷パブリックシアター・ びわ湖ホール)を発表し、第1回朝日舞台芸術賞において、清新な活躍を見せた個人・ 団体に送られる寺山修司賞を受賞。
劇場内での公演に加え、03年より、『階段主義』と題し、「階段」という日常的な空間に身体を放り出すことをコンセプトに、パブリックスペースを活用した新たなダンス・パフォーマンスの演出を開始し、これまでに大阪、高知、神戸、東京、佐世保、広島、岩手の7都市にて公演した。
05年、「愛地球博」の前夜祭パレードで総合演出をつとめる。白井剛氏とのデュオ『禁色』、カンパニー作品『未来の記』を発表。05年から06年にかけ、バックパックを背負って半年間の世界一周の旅に出る。07年春より「伊藤キム+輝く未来」から「輝く未来」にカンパニー名称を変えて新たな形態でカンパニーを再始動する。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/3773/

『蝿の王』
撮影:山中隆史

『生きたまま死んでいるヒトは死んだまま生きているのか?』

『on the Map』

『劇場遊園』
撮影:荒木美樹(上2点) / 斉藤巧一郎(下)

『劇場遊園』
撮影:荒木美樹(上2点) / 斉藤巧一郎(下)

『禁色』
撮影:上牧 佑