大島早紀子

独自の美意識に彩られた 演出家・振付家、大島早紀子の世界

2006.09.14
大島早紀子

大島早紀子Sakiko Oshima

演出家、振付家。1989年に、ダンサー白河直子とともにダンスカンパニー、H・アール・カオスを設立。独特な美意識と哲学に支えられた創作活動は日本のトップダンスカンパニーとして、国内外で高い評価を受けている。100人のオーケストラ演奏による『春の祭典』公演や、オーケストラ・合唱団・オペラ歌手の演奏による『カルミナ・ブラーナ』など、他に例を見ないスケールの大きな作品を発表している。海外フェスティバルからの招聘も数多く、国内外の様々な都市で公演を実施している。97年に続く2度目の北米ツアー(2000年)では、NYタイムズが選ぶダンス・オブ・ザ・イヤーに選ばれたほか、朝日舞台芸術賞(2002)など国内外の賞を多数受賞している。2003年6月にはシンガポールのバレエ団「シンガポール・ダンス・シアター(SDT)」に演出・振付(主演:白河直子)。2004年にはストラヴィンスキー生誕の地であるサンクトペテルブルグの他モスクワ、ヘルシンキ、ワルシャワを巡る本格ツアーをし、この9月にはSDTとの新たな共同作品『Whose Voice Cries Out?』を発表。2007年2月に東京二期会主催オペラ『ダフネ』の演出を手がける。

http://www.h-art-chaos.com/

独自の美意識と哲学に支えられたシアトリカルな大島早紀子の演出、天才ダンサー白河直子の存在により日本を代表するダンスカンパニーとなったH・アール・カオス。2000年にはNYタイムズが選ぶ同年のダンス・オブ・ザ・イヤーに選ばれるなど海外でも高く評価されている。近年ではシンガポールのバレエ団SDTやオペラの振付など、個人での活動にも力を入れている大島が語る、これまで、今、これから。
聞き手:立木燁子/9月2日『Whose Voice Cries Out?』の公演中、シンガポール・エスプラナード劇場にて
1989年のカンパニー創設から今年で17年です。カンパニー創設の経緯から振り返っていただけますか?バレエやモダンダンスが基本になっていると思いますが、演劇に対する興味もあったと聞いています。
演劇についてはバックグラウンドがあるわけではなく、中学の時に演劇部に入っていて戯曲を書いたことがあるぐらいです。大学では広告研究会でしたが、ダンスや演劇は興味をもって見ていて、現・ダンスワークス主宰の野坂公夫さんのカンパニーに入りました。そこでモダンダンスの基本的なテクニックなどを学んだり、同時にバレエの小川亜矢子さんのオープンクラスに通ったりしていました。そのうちに、「こういう作品がつくりたい」「自分の見たい世界を自分でつくりたい」という漠然とした創作意欲がわいてきた。ちょうどその頃、野坂さんのカンパニーに白河直子さんが入ってきたんです。
H・アール・カオスで17年間ずっとともに歩んできた白河さんとの出会いですね。
そうです。白河さんには、初めて会った時から他の人とはぜんぜん違うオーラがありました。普段はざっくばらんですごく親しみやすい人柄ですが、踊り出すと全く違う雰囲気を醸し出す。誰でも舞台に上がると変わりますが、彼女は稽古場でも別人のようにパッとモードが切り替わる。野坂先生も、限りない可能性があるすごい大器だと言っていました。ですから、カンパニーをつくる時にはもう、白河さんが入ってくれることが必須条件で、白河さんを中心にこういう世界をつくろうというのが溜まっていった感じでした。実際、そうして作品をつくっていったので、彼女がいなければカンパニーはなかったと思います。
H・アール・カオスというカンパニー名について聞かせてください。
「H」がヘブン、「アール」がアート、「カオス」は混沌です。Hのヘブンは英語で、アールはアートじゃなくてアールと、フランス語読みにして。カオスはギリシア語の読みです。私たちの活動が、国境や人種や言語といった境界を越えて、さらに自分自身という境界も越えて、人と何か心が通じるような活動になればという願いを込めています。混沌の中から天国に通じる恍惚感を観客と共有することができれば、という願いもあります。
まさに今つくってらっしゃる作品のイメージとぴったりのカンパニー名ですね。当初から女性ばかりのカンパニーだったのですか?
創立当時から意識していたわけではありませんが、確かに12〜13人いたダンサーは全員女性でした。ただ、白河さんは両性具有的な特殊なムードのある人だし、男性が出ている作品も初期にはたくさんあります。今でもカンパニー以外の仕事で男性ダンサーに振付けることは多いです。
「男である」「女である」ということを考えるとき、いずれか1つの性だけでやる方が観客の想像の枠が広がるんじゃないかと思っています。白河さんのような人がいたからこそそう思ったのですが、男なら男だけ、女なら女だけの方が、既成のものを超えた自由な発想ができる余地を観客に与えられるような気がします。単一の性でやると、身体がもっている社会的な制約や関係性の制約が直接的でない分だけ抽象化し、性そのものの持っている固定概念を乗り越えられる部分もあると思います。それと一種の宗教的な感覚を表現する場合にも有効だと思います。性を乗り越えると、身体は崇高なものだと思いますし。
「性」が「聖」になる?
はい、そういう可能性は単一の性でやった方が表現しやすいと思うんです。もちろんそれが中心的なテーマじゃない時は、男性に出てもらった方が表現は豊かになりますよね。こういう考え方は89年当初から何となく持ってはいましたが、今みたいには答えられなかったと思います。徐々に実感が沸いてきて、『秘密クラブ・・・浮遊する天使たち』(92年)をつくった頃には確信になっていました。
大島さんの作品はどれも空間の使い方が実に巧くて、スケールが大きい。舞台美術に対してのイメージもすごくはっきりしています。
美術は基本的に私が全部プランを立てています。振りを付けている時も、つくりながら照明を考えています。音楽ともすごく密接に関係していて、音楽と照明は相互補完しているので、オペレーションでは寸分の狂いも許されません。照明という光の芸術を何秒で何パーセント落とすか、ワイヤーに下げられた身体が光に向かってどう動くのか、シルエットで見えるかでは全く効果が異なります。こうしたことを細かく具体的に考えていきます。
光同様、闇にも思い入れがあります。闇には、ゼロというところで、プラスマイナスが完璧に均衡した無というイメージがあります。それが、時間や空間、生とか死とか、哲学的なテーマに転化していくので、照明に求めている闇には色合いがあります。こういうふうに照明は私の作品にとって非常に重要な意味をもっています。光の力は、世界に身体があるというのと同じぐらい、いやそれよりもっと凄いことかもしれません。
大島さんの作品の中ではよくワイヤーで宙づりにされたダンサーが出てきます。
ワイヤーを使って自由に飛ぶことより、飛んで行って現実に引き戻されることの方を表現したくて使っています。ワイヤーで宙づりにしたダンサーの身体は、すごく自由にもなるけど、必ず制約というマイナスの要素も一緒に付いてきます。ワイヤーによって重力から自由になれるのではなく、身体に対する重力のかかり方が変わるということなのです。それによってひとつのなまの身体が作品のなかで際立ってくるわけで、ワイヤー、とかゴムとかは私にとって大変有効な手段になっています。あくまで人間的な可能性の拡張としてですが。
創作する上で白河さんのようなダンサーとのコラボレーションは重要ですか?
もちろん重要です。頭で考えているものを身体が打ち砕いていく、と言うんでしょうか、彼女の身体によって私のイメージが粉々に砕かれていきます。でもそうやって、左脳で理性的に考えたものは一度壊してしまう必要があるのです。私には言葉というものに刺激されてテーマを決めたり、世界を創造したりするところがあるのですが、作品にするときには言葉そのものを一度解体すべきだと思っています。それがやれるのは、やはり身体の力しかない。身体を使って、最後まで何度も意味の解体を行い、自分のコンセプトを再構築していきます。
テーマも非常に哲学的・社会的で、空間造形と併せてとても宇宙的な世界を創りだしている感じがします。
昔から「時間」とか「性」とか「生死」といったテーマや宇宙の仕組みについて興味をもっていました。なので、ハイゼンベルグやシュレーディンガーの物理学書、アインシュタイン以降の量子力学の科学書にはロマンがあって惹かれます。世界への関わり方を呈示してくれるドゥルーズ、ガタリ、ヴィトゲンシュタイン、デリダや、身体と世界について考えさせてくれるメルロ・ポンティーなどの哲学も大好きです。アンリ・ベルグソンが『創造的進化』の中で著した“エラン・ヴィタール(生命の飛躍)”、無限の創造を促す生命のエネルギーがテーマの、『エラン・ヴィタール-Eveの躁鬱-』(2002年初演)では、ES細胞やクローンなど、生命の始まりのボーダーラインの揺らぎをモチーフに創作しました。
空間について私が一番考えているのが、空間を存在させる身体が一番にあるということです。身体があるからこそそこに空間が生まれる、つまり身体を中心にして空間も存在しえるのだと思います。
今の世界では周りの環境は飛躍的に変化していて私たちはそれについていけないような状況にあります。それで、舞台上でも演出的に人間的な身体の可能性をちょっと拡張したような瞬間があってはじめて、生の身体の持っている凄みというのが逆に出てくるんじゃないかと思います。私たちには羽根はないけれど飛行機で空を飛べますし、大きな声を出さなくても拡声器があるし、遠くの人とも電話で喋れるし、脳の外にも記録できるといったように、私たちの身体は日常生活の中でさえ外に拡張したり流れ出したりしている。だから、舞台空間の中で道具も含めた周りの空間そのものも身体を中心にした何かエネルギーの流れのあるもの、身体とともに踊る空間であってほしい。そんななかで身体の可能性を逸脱したり、拡張したりして、失われた世界の実在感を取り戻す時、私にとってなまの身体はよりリアリティのあるものになるのです。
ソシュールの記号論からタイトルをもってきた93年の『シニフィアン・シニフィエ・人魚姫』は、カンパニー創設から4年目で大島さんが注目され始めた重要な作品となりました。
人魚姫は17歳で海から外に出て行きますが、特に女性が大人になるという記号としての身体を空間の中に視覚的に表現したいと思いました。舞台を2段にして、上と下に分けて、さっきまでそこにあったはずの身体の輪郭みたいなものを残そうとしたり、そういったことを考えながらつくった作品です。
『白鳥の湖・・・零のエクリチュール』(94年初演)では、また違う身体に対する考え方を呈示していたのではないかと思います。
女性の身体が背負っている社会的な意味を解体したいと思ってつくりました。当時、女子中・高校生が着用したままの制服や下着などを販売する「ブルセラ・ショップ」が社会問題になっていて、それで性風俗に着目しました。ダンサーが踊りながら何枚ものパンツを脱いでいくとそこに下着の湖ができる。10枚ぐらい重ねて穿いていて、ダンサーは脱いだパンツに気が付かずに楽しそうに踊っているんだけど、足下にあるパンツの湖に足を取られてしまう。「誰にも迷惑をかけていないからいいじゃない」と言いながらパンツを売る女子高生たちをTVのドキュメンタリーで見て、まるで白鳥が自分の羽根をむしっているように思えた。彼女たちの身体から噴出する、時代が身体に科している何かを感じていたんだと思います。
代表作の『春の祭典』(95年初演)でも社会を鋭く見据えています。女性の社会的立場とか、そういう言葉が好きかどうかわかりませんが、フェミニズム的な視線もはっきり見えた気がします。
『春の祭典』はストラヴィンスキーの曲の中にあるものにそって、“視線の暴力”について振り付けた作品です。被害者に対する加害者ではなく傍観者の暴力、時代が無意識に選ぶ生け贄について考えました。当時の日本では、いじめがすごく問題になっていたし、この作品をつくった後に、パパラッチに追われて事故死したダイアナ妃の事件があった。そういう視線の暴力に無関心であることの恐ろしさというか、私たちの身体が気付かないうちに鬱積してしまったある種の不安だったり苛立ちだったり、そういったものが世の中に現象として噴出していのではないかと思ってつくりました。
この作品での白河さんの存在感と踊りは素晴らしかった。また、ワイヤーで吊るした椅子が効果的に用いられるなど、ワイヤーの使い方も完成された感がありました。
自分では意識していないですが、そう言われてみればそうなのかもしれません。自分の顔の周りを椅子が回っている様子をみんながずっとただ見ている。そういう視線を肌で感じる。何なのでしょう、視線って、見ることって。思うに、距離を持った触覚なんですよね。人の視線が遠くから冷たく鋭く注がれると、触られている気がする。空中に漂っている椅子や投げつけられる椅子でその視線を表してみました。視線はある意味凶器というか、切迫した暴力性を被害者に突きつけていると思います。
白河さんの存在という意味では、『ロミオとジュリエット』(96年初演)も素晴らしい。彼女のためのソロ作品ですが、ものすごくたくさんの人が出てきたようなイメージがありあす。
『ロミオとジュリエット』は、神父さまの手紙がロミオに届かなかった、つまり情報伝達のミスからくる悲劇ですよね。そこから連想してコンピュータの世界を作品にしました。私たちの生は一回限りのものですが、テレビゲームなどはリセットすれば何度でも再生できる。なので、この作品では、ゲームのキャラクターとしてのジュリエットは何度も生き返るんですが、それがウィルスの侵入で本当にできなくなって1回限りの悲しみがやってくる。その時にはじめて知る人生の1回性の切実さ、時の道化としての悲しみを描きたかったんです。
川端康成の『眠れる美女』と『眠れる森の美女』がモチーフになっている『眠りの森の  』(97年初演)は野外スペース(横浜ビジネスパーク・水のホール)での公演でした。
幻想的な回廊のようなところにプールがあり、向こう側に都会的なビルが立ち並んでいる。それが森の中の湖に見えたんです。そのうっそうとした高層ビル中で働いている人たちは眠っているように生きているかもしれない・・・ということをここだったらやれると思いました。川端作品には不思議なエロスがあります。性的な関係ではなく、若い娘と眠ることだけを欲し、主人公が死体にも似た意識のないものを愛するとはどういうことなのか、考えさせられました。みんな眠っているかのような都会の生活の中で見過ごしている何かを解き放つことができないか‥‥。死体のような意識のない美女がみんなベッドに寝かされ、光輝く水の中からスーっと運ばれて来る、そういうイメージを表現しました。
2000年に北米ツアーを実施した『秘密クラブ・・・浮遊する天使たち』の再演は絶賛され、アンナ・キセルゴフがすばらしい批評を書いています。この作品は92年(98年リメイク)に初演された原点とも言えるものです。ワイヤーワーク、群舞、白河さんのソロ、鏡や懐中電灯を使った光と闇の照明‥‥。
初期につくった作品なので、気付いたらできちゃっていたという感じです。本当の「客観性」というのはこの世にあり得ないじゃないか、というのがテーマでした。ハエの見ている世界、人間の見ている世界、それぞれ違っているわけだから、どれが本当の世界なのかは決してわからないと思うんです。主観と客観とは、違って見える世界の重なりあいで、狂気と正気の関係も境界がないままなんじゃないか。だから、一つの意識が見ている世界というのは、すごく秘密に満ちたもので、他人には決して見えないんです。
2001年の作品は、個人的な生と死の体験が反映されていると伺いました。
バリ島で溺れてしまって、「ああこれで死ぬんだな」と思った瞬間に、紫がかった青い水や海藻が揺れていているのが完全に止まって見えて、時間が止まったような感覚でした。そこから完全に意識がなくなったんです。結局たいしたことはなかったのですが、目覚めた後、浜辺で花を見て、その花の中に時間が流れていると直感し、結構ショックを受けました。この世界には時間があって、時間を身体の中に持っていることが生きていることなんだ、この世界はある意味で、時間というものが表現している世界なのだと強く思いました。
生と死を考えたとき、かつて死の瞬間は、神が決めるものだったはずですが、今では人間が人工呼吸器を操作したり、延命装置で先送りすることもできるようになった。生と死のボーダーラインが曖昧になって、神の領域とされていたところに、今は周りにいる家族などが入り込むようになってきた。身体そのものも、臓器移植など、自分の身体だったものが、いつの間にか人の臓器になってしまうわけで、私たちの生と死の境界線が揺れているのと同じように身体の境界線も揺れている。何かそういう今の時代の生と死の倫理観のなかで揺れている身体とは何かを考えて創ったのが、『神々を創る機械』です。
そのテーマは現在までずっと続いていて、『忘却という神話』(2003年初演)、『人工楽園』『白夜』(ともに2004年初演)では、生と死というイメージが、リアルとバーチャルへと転化していきます。
『忘却という神話』(2003年初演)は歴史のなかで忘却されていく個人の時間についての作品です。『人工楽園』と『白夜』はバーチャルなものをすごく考えました。『人工楽園』は編集された時間と場所の中に生きる私たちの身体イメージがテーマです。『白夜』のときに思ったのは、ショッピングセンターの監視カメラです。私の姿を秒刻みに記録して、過ぎていった時間も蓄積されていくわけですよね。そういうふうに常に見られていることが当たり前になっている。全てを暴き管理しようとする世界、自分の血液型などが情報としていつの間にか外に蓄積されていたり、国が背番号制にしようとしていたり、身体に対しての感覚が今すごく変わっていっているように思います。自分で意識するしないにかかわらず、すべてがコンピュータに記録されてしまっている。私たちのからだの過剰性から私たちの文化は創られてきたんだけど、その過剰性は、今また私たちの身体に中に違った形で帰ってきてるんだなあって驚いたんですけど。私の家の出入りも指紋認証なんですが、当たり前にやっているけど、これって一体なんなのかって思います。ケイタイもコンピュータもこれから生体認証になって、身体自体が鍵になる。気付かないうちに身体がバーチャルなものに化けて、いろんな所で垂れ流されている。でも実際の身体は全く使われないから、身体にとっては断片的な経験しかない。身体の存在はここにあるのではなく、全てが機械の中の情報として操られている‥‥。そのバーチャルな空間はどこか知らないよそにあるのではない、既にここにあるんだ、と思ったんです。
近年ではカンパニー活動だけでなく個人の振付家としての活動にも意欲的です。シンガポール・ダンス・シアター(SDT)にも今回で2回目の振り付けになります。
2001年に、H・アール・カオスの『春の祭典』でシンガポール・アーツ・フェスティバルに参加したのですが、その公演をSDT芸術監督のゴー・スー・キムさんが観てくださって、ぜひうちのカンパニーで振付をやってほしいと依頼されました。それで、2003年に彼らとつくった最初の共同作品が『Feast of Immortality』です。
『神々を創る機械』が原形にあって、テーマ、セット、音楽はすべて同じです。バレエ団に振り付けるということで、SDT版はポアントを多用した作品につくり直しました。男性ダンサーも含め24人全員を出して、ワイヤーも使い、ポアントもあり、男性のための新たなシーンを入れたりもしました。やはりバレエのポアントの動きなどは、私のカンパニーの場合と全く違いますから、振付や構成もH・アール・カオス版とは異なった作品になりました。
『Feast of Immortality』は、白河さんが主役で踊っていたと思いますが、今回の新作『Whose Voice Cries Out?』はSDTのダンサーだけによるオリジナル作品です。8月31日にエスプラネードで拝見しましたが、バレエ団の長所を生かした、素晴らしい作品でした。
今回は、2回に分けて作業をしましたが、それがよかった。まず6月に3週間ほど滞在してワークショップをやりました。即興的な動きをやったり、声をずっと出して演劇的なことをやったり、マイクで叫びながらでも動きが取れるかどうかなどといったことをいろいろと試しました。それはそれでけっこう面白かったんですが、私が事前に考えていたこととは合わないことも多くて、アイデアがバラバラになってしまった。それで7月に帰国して、冷静になってからポアントのプレイについてなどかなり研究しました。作り方についても、一からなので、こうやって進めなきゃ間にあわない、とか考えながら、白河さんをつかってパートごとに進めたりしましたが、最初は本当にめちゃくちゃな状態でしたね。
コンセプトはどういうふうに考えたのでしょう? シンガポールという社会をモチーフされたのでしょうか。
ワークショップの時から彼らからかなり刺激を受けました。シンガポールはインターネットが発達している高度情報社会だけれども、東京に比べると人間的な繋がりも自然も濃厚に残っています。シンガポールには、さまざまな人種グループがあるため、みんなが自分と他人との関係性をすごく考えているように思います。彼らのなかにはそういう人間的な関係がインターネットの世界とは全く異質のものとして根深く存在しているようでした。
実際の稽古場では、私もずいぶん振付をチョイスしたり、彼らからのフィードバックもあったりしながらみんなで一生懸命やりました。ただ、私がカンパニーで当たり前にやっているような振付も、こなし方が全く違う。「ここ呼吸でやってみて」と言っても通じなかったり、踊り方もこちらが欲しているものと受け取り方が全く違って、まるで別の振りになってしまうこともありました。阿吽の呼吸なんてものは一切存在しない。こういったコミュニケーション/ディスコミュニケーションについて考えたことが、今回の作品のテーマにもなっています。
シンガポールでなければできなかった作品になったわけですね。
こういう時代、時間と距離の編集された時代の孤独について考えました。ボードの中から首だけが出ているシーンは、本当の自分というものが抑圧されて失われていっている姿を表したものです。遠くの事はインターネットやTVで凄く知っているのに隣の家のことは何も知らない私たちの日常の感覚でしょうか。すぐ側にいても相手は携帯電話で遠くの人と話をしていたりするような、つまり、身体の生の経験の不足した、断片的な身体の経験によって、特に首から上のパーツでしか世界と関わり合えなくなった現代人のリレーションシップをテーマにしています。
テレビで流れているイメージがいつの間にか自分のイメージとして頭の中に入り込んでいたり、自分の意見を言っているつもりでテレビのアナウンサーが言っていたことを繰り返していたり。商品を見るように目の前にいる女性(男性)を見ていたり、あるいは女性も男性をそう見ていたり、本を読んでいると、私じゃなくて、読んでいた本が私の中で話しているみたいに錯覚したり‥‥。自分とかけ離れて首から上だけが私の世界をつくってしまっている、そういったある種の違和感がモチーフになっています。
このカンパニーとの交流は続くのでしょうか。
それはわかりませんが、とにかく、振付をしていても全く違うので本当に驚きました。バレエ団だし、いろんな人種がいるし、まるでアジアのニューヨークのような感じです。稽古場で寝ているダンサーもいれば、日本語を一生懸命聞いてくれるダンサーもいるし、人種によって、人によってそれぞれ態度が違う。普通だったらひとつのカンパニーに1つの態度でしょ。でもここはよくも悪くもバリエーション豊かなんです。日本は単一民族ですし、とても面白い経験でした。
今後については?
来年2月に二期会のオペラの演出・振付をすることになっています。演目は現存するもっとも古いオペラで、ギリシア神話の「ダフネ」、作曲はリヒャルト・シュトラウスのものです。
もちろん白河さんも出演します。また新たな領域に挑戦します。

『シニフィアン・シニフィエ・人魚姫』
撮影:吉村新

『白鳥の湖・・・零のエクリチュール』

『春の祭典』
撮影:松山悦子

『ロミオとジュリエット』
撮影:inri

『眠りの森の  』
撮影:竹田直樹

『秘密クラブ・・・浮遊する天使たち2000』
撮影:鷹野晃

『神々を創る機械2005』
撮影:松山悦子

『人工楽園』
撮影:小熊栄

『白夜』
撮影:小熊栄

H・アール・カオス&シンガポール・ダンス・シアター『Feast of Immortality』

シンガポール・ダンス・シアター
『Whose Voice Cries Out?』