- 日本の社会では、お習い事として女の子がピアノやバレエをはじめることは珍しくないですが、20歳前後まで持続する人はそれほど多くない。
- そうですね。バレエが好きだったので、大学3年生の時にロンドンのラバンセンターに行く前までそれだけをずっと続けていました。まあ、他に知らなかったし(笑)。
- バレエ一筋でやっていた人がラバンセンターに行くと、みんな運動着を着て自由に動いていて、何だか今までと違うなみたいな違和感はありませんでしたか?
- もしコンテンポラリーダンスを日本で始めたとしたら、きっと違和感があったと思いますが、ロンドンに行って環境が一気に変わったから。すべてのものが目新しくて、そういう変化のうちのひとつだったのですごく自然に捉えられました。ダンスに限らず、ひとりで現代美術を観たり、音楽を聴きに行ったり、お芝居を観たりしました。何もかもカルチャーショックで面白かった。ラバンセンターもそういうカルチャーショックのひとつでした。プレイス・シアターなどの小さい劇場にも行きましたが、日本では大きな劇場でバレエばかり観ていたので、すごく新鮮でした。ロンドンが私の全てを変えたという感じです(笑)。
- ラバンセンターではどんなレッスンを?
- リリース・テクニックや、グラハム・テクニック、ホートン、ホセ・リモンのテクニックなどをやりました。また、ロンドンで活躍している振付家の方が指導してくれる授業があって、マシュー・ボーンなどのワークショップを受けました。
- 帰国してから、どういう経緯で「伊藤キム+輝く未来」に入ることになったのですか。
- 大学4年の夏に帰国した時は、もうバレエじゃなくて違うことがやりたいと思っていたのですが卒業制作が忙しくて。その後時間ができてからさあ何をしようかという感じで、いろいろと探し始めました。木佐貫邦子さん、二見一幸さん、山崎広太さんのワークショップを受けたり、セッションハウスなどで外国人のレッスンを受けたり……。その頃、日韓のダンスコラボレーションの公演を見に行き、偶然、キムさんのワークショップのチラシを見つけた。キムさんの公演は観たことがなかったのですが、受けに行くことにしました。
- 伊藤キム さんは舞踏出身ですが、その時点で舞踏についてあまり知らなかった?
- 知りませんでした。玉川大学の授業で、大野一雄さんとか、山海塾などがあるということぐらいは習いましたけど。伝統芸能だと思っていたぐらい(笑)。それでキムさんのワークショップを受けたら、「これダンス?」って感じだった。だけどやらなきゃ気が済まない質ですから。運動神経は悪い方じゃないし、たいてい何でもなんとかこなせた。でも、ドルフィン・ジャンプという、床にうつぶせになって、身体を波打たせながら跳ねる動きがあるんですが、それができなかった。本当にくやしくて、絶対次も受けようと、ワークショップやショーイングに参加するようになりました。はじめてキムさんの作品に出演したのは99年の『on the map』で、2000年初めに正式メンバーになりました。
- 谷桃子バレエ団を続けながらキムさんの作品でも踊っていたわけですが、この2つは同じ「ダンス」であっても全然違います。自分の中でどのようにバランスをとっていたのですか。
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キムさんの作品はすごく楽しくて、貴重な経験でしたが、これだけをやっているとダメだというのを何か直感していたように思います。バレエでバーレッスンをやって、毎朝謙虚な気持ちになりながら、キムさんの作品で身体をバラバラにしたりする……こういう往復が私にはちょうど良かった。バレエを切り捨てることは簡単だけど、バレエで身体に染みついたものを捨てて、こっちだけになるのは嘘っぽいんじゃなかと。
それと、キムさんのところやBATIKでやっていることとバレエは、身体の使い方とか考え方とか違うところの方が多いですが、一つだけ共通するところがあるんです。私は、キャラクテールよりコールドの方が好きで、『白鳥の湖』の三幕とかで盛り上がってくるとコールドをやっていても凄く興奮して列に並べなくなっちゃう。実は、そういう自分の感情みたいなものはコールド・バレエにはいらないんですが。こんなこと言うと、谷先生に怒られそうだけど(笑)、いらないんです。つまり、自己否定です。私の作品でも、とにかくダンサーを疲労させて、「自分はこういう人です」と言えない状態にまで身体を追い込みます。自己否定ですよね。そういうところは共通しているかなと……。 - 初の振付で女性だけの『SIDE-B』が生まれた経緯は?
-
ラバンセンターから帰ってきた2年後の2001年、22歳か23歳のときにつくりました。
キムさんが海外に行って不在だったので、カンパニーがふと暇になったんです。ポッと時間ができたら、いきなり『SIDE-B』の構想がワッと、ポロポロポロって出てきちゃった。それがたまたま全員女性だった。その場でマニキュアのビンをダンサーに見立てて並べながら、動線をつくれるぐらい、ものすごく鮮明な絵がポロポロポロって出てきました。それが全員黒いスカートをはいて、髪の毛で顔を隠している女の子たちのイメージだったんです。
そのポロポロポロってなった瞬間に、これは形にしないと気が済まないというせっぱ詰まった感じになって、すぐに絵コンテを描いて、音も全部決めました。知り合いのダンサーに、今こういう作品のイメージがいきなり沸いてきたので(作品をつくるのに)付き合って欲しいと電話をかけまくりました。ダンサーには、絵コンテをもって行って、「ビデオ撮りだけ付き合って欲しい、10回のリハーサルで仕上げるから」と言って説得しました。その時は6人のダンサーを集めてビデオ撮りだけをして、2002年2月に横浜で初演するまでずっとほったらかしにしていました。 - その時は、発表する予定はなかった?
- 全然ありませんでした。とにかくもう、形にしたくてしたくて仕方がなかったんです。ビデオを撮った後は、また、踊り手としてやっていたのですが、2002年のヨコハマ・プラットフォームに参加してナショナル協議員賞をいただき、その時は本当にびっくりして腰が抜けてしまいそうでした。
- 『SIDE-B』の後の作品が『SHOKU』ですね。
-
『SHOKU』はまずソロバージョンを韓国でやりました。踊った後、カーテンコールの時に拍手が起きなくて、血の気が引きました(笑)。儒教の国だから、セクシャルに取られがちなことを女性がやることに抵抗があるのではないかと、現地の方が話をされていましたが。
その後、グループバージョンを森下スタジオでやって、翌年、6人でのミドルバージョンを横浜で、7人のフルバージョンをシアタートラムでやりました。『SIDE-B』と核の部分は違いますが、両方ともすごく皮膚感覚と、身体に対する執着があると思います。
- 精神分析しろとは言いませんが、例えば、その皮膚感覚のような身体に対する執着を舞台上でストレートに表現するというのは、育世さんの中にそれをさせる何かがあると思うんですね。だいたい自分のパンツの中に手を突っ込む作品なんてつくる人はいないですよ(笑)。
-
チラシの写真にまで載ってしまって(笑)。質問の答えからはずれてしまうかもしれませんが、作品をつくるというのは、本当にやらなきゃ気が済まないぐらいの衝動がないとできないことだと思います。何でわざわざ人にそれを見せるのかを考えた時、もし私が持っているだけで死んでしまったら、これだけの衝動が何もなかったことになってしまう……。いくらなんでもそれはできないという衝動を、私は作品として提示している気がします。その衝動を人が受け取りやすい形にして提示するのは、どこか本末転倒というか、それならやる必要がない。だからありのままに出しちゃうんですよね。
この間、Noism05に振り付けた時にそこのダンサーと話をしていて、「育世ちゃんは踊りで何でも解決しようとする人だね」と言われたんです。確かに、ダンスでああいう生々しさというのを普通は出さないのかもしれない。私はダンスで何でもやっちゃう。私がやりたいダンスにはすべてがある。何にもないけどすべてがあるという感じ。そういう生々しさにこそすべてがあると思います。
- ダンスを通してすべてを、自分のすべてを、表現したいものをすべて語ってしまうということですか?
-
最近は、「ダンスを通して」というのも何か違うような気がしてきています。それではダンスが手段になってしまうけど、私にとってダンスはおそらく主体なんです。だから、私がしているダンスには生々しさが出てくる……。なんだか抽象的ですね。つまり、自分がダンスそのものである、という感じになれれば幸せなんです。
- 『SHOKU』は皮膚に対する感覚と言いましたけど、それと同時に自分を痛めつけたり、あるいは他のダンサーの頭をひっぱたいたりするような動作が続いているところがありました。そういうふうに、フェティッシュなものばかりでなく、いたぶったりいたぶられたりすることによって、自分の身体を確かめるような要素はどこからきているのですか?
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本当の本物というのは追い込まれた状況でこそ出てくると思っています。そういう状況に身体を置かないと本物が出てこないというのを、『SIDE-B』や『SHOKU』をやっていく中でつかんでいった。例えば、ずっと倒れ続けるという単純作業で身体が取り繕えない状態になってから、初めてちょっとキラッとするものが出てくる。つまり、表現して、演技して、という嘘は必要ないんです。
稽古もそういう感じで運んでいきます。わかりやすい例が「BATIKトライアル」というスタジオ・パフォーマンスの企画です。メンバーが各々10分弱ぐらいの作品をつくってみんなで見せ合い、意見を言い合って作品をつくっていきます。あるダンサーが提示した作品を見た時、健康な身体で見せられても彼女がやりたいことが伝わってこなかったので、私は「ちょっとすみませんが、育世に付き合ってください。私が手を叩くまでずっと稽古場をぐるぐる走ってください」と言った。みんなも「何が起こるの?」って感じでしたが、ひたすら走ってもらって息がかなり荒くなってから手を叩き、その後もう1回その作品を踊ってもらいました。そうしたら、すごく良くなったんです。それが良かったということは、そこにもっていくために、どう構成していけばいいのかが見えてくるはずだとダンサーには伝えました。
……という具合に、稽古でも「もう1回、もう1回」ってずっと繰り返してもらったりして、だいたい止めさせない(笑)。本番の時は直前にダンサーを走らせることはできませんから、普段の稽古の中で、こういう身心の状態にあるダンスを体得してもらう。取り繕ってもダメなんだ、ということをわかってもらう。実際は、ニコニコしながら「もう1回」って言うだけですけど(笑)。でもダンサーたちも「何クソ」って思うみたい。育世にあれをやられるとコノヤロウって思うんですって(笑)。
- 『SIDE-B』『SHOKU』の次ぎが『アウラ』という20分の小品です。水瓶を挟んで二人の女性が登場しますが、二人が別々のようでもあり、一人の女性の分身のようでもある。
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『アウラ』は2週間ぐらいでつくりました。おっしゃるように、相手方の高部尚子さんは表側の人、私は背面の人という感じで一種のコントラストになっています。あの作品は『花は流れて時は固まる』と同じ、時間のこと・今のこと、というのをテキストにしていて、「水」「花」「鈴」「白」「青」というマテリアルも全部同じです。
- 『花は流れて時は固まる』は、今までの作品の中で一番の大作だと思います。よくここまでチャレンジしたなというぐらいスケールの大きい、しかも細部に至るまで難しいつくり方をしていました。花と水と身体があって、そこにある種の、シャーマニズム的儀礼のような、何かを呼び起こすようなものを感じました。
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あの作品は本当に大変でした……今考えても涙が出てきます(笑)。3m近い高さからダンサーが飛び降りる最後のシーンをつくることに追われて、他には何にも出来なかった。
あの作品の出発点は私の子どもの時の感覚です。私は、子どもの時にものすごく力んでいた記憶があるんですが、それが半端じゃなくて、気を失う直前までいってた。その時に、「時が止まる感覚」というのがあったんです。チクタクと刻む時がパーンって切れて、そこには時間がない状態があった。今でもそれを傷として持っている気がします。それをそのまま作品にしたのが『花は流れて時は固まる』です。
パーンと叩き切られて、時間の流れがなくなって、叩き切られた断面が忽然と表れてむき出しになったというか。「あ、断面」みたいな。その時間を叩き切るために何をしなければいけないかと考えた時に、まず思い浮かんだのが「繰り返し」だった。飛び降りることを繰り返すという作業だったんです。
- ダンサーはアクロバティックなサーカス芸人ではないし、3m近い高さから全員を飛び降りさせ続けるというのはなかなか過酷なことでした。その「繰り返す」というのは、自分の身体を追い込んでゆくことでもありますね。
-
そうです。それでどんどんむき出しになっていく。本当は延々と落ち続ける、という瞬間の繰り返しをやっていて、落ち続けることで「今」が忽然と表れる。過去に対する執着や、未来に対する期待や、そういうことが一切はぎ取られた状態で「今」が忽然と表れるという状態をつくるには、飛び降り続けるしかなかった。何かをし続けるということが、時間を叩き切ることだったんです。すごく逆説的だなと思うんですけど。
当たり前ですが、ダンサーは怖がりました。それでまず私が飛び降りて危険度をチェックをしながら舞台監督と高さを調整していきました。最後はみんなできるようになったんですが、あの時は本当の意味でダンサーを追い込んでしまいました。飛び降りることだけじゃなく、かなり厳しくしてしまったこともありました。
- 舞台前面に水を張って花をたくさん使っていました。片やああいう無機的な装置をつくってダンサーをバンバン落としていた。水や花からは自ずと生命や自然を感じます。それらは育世さんの中でどういう繋がりがあるのですか。
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これも『アウラ』から引き継いでいるんですが、ポロポロポロって出てきた時に、花と水と白と青の絵が鮮明にあったんです。それを後から自分で分析していろいろ考えることもできますが、あまり意味がないような気がします。『SHOKU』のフリフリパンツとか、『SIDE-B』で使った幕とかが、社会と自分との隔たりだとか、後から連想はできますが、あんまりたいしたことなくて。とにかく一番信用できるのはその時の直感、それがすべてです。自分の直感が一番尊い。
- その直感は幼少時の記憶と何か関係がありますか? 例えば、花が好きだったとか単純なことでも。
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これだなっていうのは特に思い当たらないですが、色に関しては、白よりさらに透明なのが青だと思っていました。空や海の感じからきてるんだと思いますが、何もない状態、遙かなイメージが青にはある。それで、衣裳や照明も白から青に変わっていって、それが全部はぎ取られて、本当に忽然と断面が出てくる。
花というのは、自分の身体に付着している過去に対する思い入れとか、未来に対する期待とか、チクタク流れる日常に必ずあるもの、必ず存在しているものの象徴、という感じです。それをはぎ取られた状態というのが、先に言った断面であると。 - 育世さんの作品は全体として見ると、生々しいままで終わっていなくて、構成的には透明感があり、それが作品全体にしっかりとした力を与えていると思います。そういう構成的なことを、つくる過程で意識していますか。
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舞台にのせる必要のないものは整理していかなければ、という思いはすごく強いです。なので、削いでいく作業は必ずします。基本的に構成する作業が好きなんですね。ポロポロポロって出てきた絵を、いかにいらないものを削いで、気持ちよく通していけるかを考えるのは、好きです。
- 構成するのが好きということが、黒田育世作品に濃さと密度を与えていると思います。育世さんのように鮮烈なイメージを持っていても、それだけではいいアーティストになれません。余分なものをとっていって、どれだけ自分のイメージに構成上の透明感を与えられるかが重要です。
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自分ではわかりませんが、思うに私がやっていることは、観る人にちょっと懐かしい感じを与えているんじゃないかと思うんです。実は人間だったら知っているはずのことをやっているだけというか。普段はつい忘れているけど、人間のお腹の真ん中にあることをやっているという気がします。ドロドロだけじゃない、「あっ、そういえばそうかもね」と腑に落ちる、どこか懐かしいところがある。私には「新しいことをやろう」という欲がそこまでありませんし。
- 今年7月に上演した『Last Pie』についてですが、育世さんにとっては、依頼されて振り付けた最初の作品になります。しかも、その振り付ける対象が 金森穣 という、今一番期待されている、本当に力のあるダンサーであり振付家が率いるNoism05だった。
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もうとにかく心配というか、ビビリまくっていました。「できるのかな、できるのかな」って感じで。BATIK以外に振り付けるのも、男性に振り付けるのも、生演奏でやるのもすべて初めてだった。あんなに助走期間を設けたことはありません。稽古場に足を踏み入れた段階では、振付もすべて決まっていたし、あんなに全部決め込んで稽古場に臨んだことはない。今までで一番時間をかけました。
この作品をつくるために、『モニカ モニカ モニカ』という自分のソロ作品をつくっているんです。今回、金森さんがやったパートを私がまるまる踊っているというそれだけの作品です。それをつくってから穣さんに振り付けました。なので『Last Pie』と『モニカ モニカ モニカ』の作品ノートは全く同じものです。
──選べない、交われない、戻れない、許されない、終われない、わからない、それでもうれしくてまだ止めない、ただただ身体がもげそうで──
生きていることを思い返すと、黒田育世に生まれたくて生まれてきたわけじゃなくて「選べない」。「あなたは私」というふうに思えるぐらい人と交われているかというとなかなか「交われない」。時間はさっき言ったみたいに叩き切ることも困難だし「戻れない」。一過性の時間しか与えられていなくていろいろなことが「許されない」し、一過性の時間を自分で終わらすことも出来なくで「終われない」。結局何なのかというと、何にも「わからない」ところで生きている、という感じです。ないない尽くしなのに、お腹の中ですごく生きていることを喜んでいて、踊ることを喜んでいて、踊りたくてしょうがないという何かがお腹の真ん中にいる。それで、身体がもげそうなくらい喜んでしまう、踊ってしまう、という……そのままなんですけど(笑)。
この黒田が感じていることそのままを、穣さんに振り付けた時に、穣さんが果たしてうれしくてまだ止めないという状態になれるかどうか、本当に賭けでした。「選べない、交われない、戻れない」のナイナイナイは、きっと穣さんも実感できると思ったんですが……。
- 要するに、金森穣のパートは孤立しているわけですよね。他の人たちはいるんだけど、他の人たちと別にコミュニケーションがあるわけでなく、それでも存在している……。
-
終われない、戻れない……1回明かりが点いちゃうと戻れない。それでも、踊っていること、生きていることが楽しいというのがお腹の中に必ずある──止められないから止めないんじゃなくて、うれしくて止めない。「ダンス止めないぞ、踊り止めないぞ」という状態に穣さんを置いた。あれをやるんだったら、私がソロでやるのは別にして、金森穣しかいないだろう、という感じで穣さんにやってもらいました。
1回10分弱ぐらいの長い振付を、穣さんはたぶん4回か5回繰り返しているんですけど、「ほんとに? これほんとにやるの?」って感じだったみたいです。「追い込む振付家ってのは何人か会ったことあるけど、追い込んでいるように見えないのに追い込んでいる振付家は初めてだ」と言われました(笑)。
- 最後に、育世さんは、作品数こそ多くないけど、この3、4年の間につくった作品で次々賞を取って注目されています。今の自分をどう位置づけ、これからどうしていきたいと思っていますか。
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ちょっと位置づけと離れてしまうかもしれませんが、変わりたい部分と変わりたくない部分というのはありますね。変わりたくない部分は、「これをやりたいからこれをやる」というところでずっといたいということ。「何ができるか」とか、「今、私は何をつくることを期待されているか」とか、そういうことをいろいろ言われたりもするんですが、いい意味で「これがやりたい」ということを持ち続けていきたい。
それと、『花は流れて時は固まる』をやって、その後、『SHOKU』に戻って昨年末に公演をやったぐらいから、すごく変わってきたところがあります。ダンスに対するとらえ方というか、向き合い方なんですが。今までは一個、核を掴まえたら、そこに向かって突進するという感じだったんだけど、何もいらなくなっちゃった。踊っていられればダンスになれる、ダンスになりたい、という感じになってきた。それをいい形でやれるといいな、と思っています。
- 例えば10年前と比べて、自分がダンスをやっていることをより幸せに思える?
- そうですね。今すごくそういうふうに向かっている感じです。振り返ると、この3年間は眉間にしわを寄せながら、どうしようもなく踊っていたような気がします。もちろん踊りたくて踊っていたんですが、それは、コインの裏側だった。でも、ポーンと投げたら、今は表になって落ちてきそうな感じがします。座右の銘ですが、いつも「今日も一日感謝の気持ちを忘れずに」奢らずに、生きていこうと思っています。
黒田育世
身体の極限に問う
黒田育世の世界とは?
黒田育世Ikuyo Kuroda
6歳で谷桃子バレエ団に入団。以来、小・中・高校、大学卒業まで、クラッシック・バレエ一筋。大学時代にロンドンのラバンセンターに留学したのを機に、コンテンポラリーダンスの世界に引き込まれ、ダンサーとして本格活動を開始。2000年から「伊藤キム+輝く未来」のダンサーとして国内外の公演に多数出演。
2002年、初の振付作品『SIDE-B』で「ランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ(旧バニョレ国際振付賞)ヨコハマ・プラットフォーム」の「ナショナル協議員賞」を受賞し、同年4月に女性だけのダンスカンパニー「BATIK」を設立。2003年には、静岡県舞台芸術センター主催「SPACダンス・フェスティバル2003」の「優秀賞」、「トヨタ・コレオグラフィーアワード2003」のグランプリ「次代を担う振付家賞」を受賞。2004年に『花は流れて時は固まる』『SHOKU』の演出、振付、出演に対して「第4回朝日舞台芸術賞」「キリンダンスサポート賞」を同時受賞するなど、デビューから瞬く間に振付家としての地位を確立。この他の振付作品に『アウラ』『Last Pie』など。
聞き手:石井達朗
●BATIK欧州ツアースケジュール
10月1日、2日 20:00
モウソントゥルム(フランクフルト)
https://www.mousonturm.de/neptun/neptun.php/oktopus/page/1/6
10月6日、7日、8日 20:30
パリ日本文化会館(パリ)
10月12日、13日 19:00
トゥルク・コンセルヴァトワール内シギン・ホール(トゥルク)
10月14日 午後
ワークショップ/トゥルク・コンセルヴァトワール内シギン・ホール(トゥルク)
https://turunkonservatorio.fi/
BATIK『SIDE-B』
撮影:Shinji Suzuki
BATIK『SHOKU』
撮影:斉藤功一郎
BATIK『花は流れて時は固まる』
撮影:塚田洋一
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