梅田宏明

身体と光のインスタレーション 梅田宏明の作法

2009.09.09
梅田宏明

梅田宏明Hiroaki Umeda

1977年東京生まれ。 2000年より創作活動を開始し、「S20」を発足。2002年に発表した『while going to a condition』がフランスのRencontres Choregraphiques Internationalsのディレクターであるアニタ・マチュー氏により、「若くて有望な振付家の誕生である」と評価され、同フェスティバルで公演。2003年にカナダ・モントリオールで『Finore』、2004年にブラジル・リオデジャネイロで『Duo』、フィリップ・ドゥクフレのスタジオでのレジデンスの後、2007年にフランスのシャイヨー国立劇場との共同制作である『Accumulated Layout』を発表。ベルギーの クンステン・フェスティバル・デザール 、ロンドンのバービカン・シアター、ローマのRomeEurope Festival、パリのポンピドゥーセンターなどヨーロッパを中心に世界各地の主要フェスティバル・劇場に招聘されている。自身の作品では振付・ダンスのみならず映像・音・照明デザインまで担当し、「振付家、ダンサーというよりVisual ArtistでありMoverである」と評価され、ダンス以外の分野からも受け入れられている。

http://www.hiroakiumeda.com/

自らデザインした映像・音楽・照明のデータが入ったノートブック・パソコン1台と自分の身体だけ──そのコンパクトなスタイルで世界に飛び出したビジュアル・アーティスト&パフォーマーの梅田宏明。2002年に横浜ダンスコレクションRで注目されて以来、空間の中央で即興的に動く身体、光(映像)、音が織りなすまるで美術のインスタレーションのような美しさで世界のダンス関係者に好感を持って迎えられてきた。日本のITバブルを牽引したベンチャービジネスの若手起業家と同世代のアーティストであり、パソコンをパートナーにした梅田の世界に迫る。
聞き手:石井達朗

写真から飛び出したダンス

ダンスにはいつ頃からどういうきっかけで関心をもち始めたのですか。大学時代は写真を専攻されていたと聞きましたが……。
 父が報道写真家だったことと、森山大道のモノクロ写真が好きだったので、写真をやってみたいと思いました。でもどうも気に入らなくて、1年ぐらいで止めました。写真を撮っている間は(撮影者になっている間は)、自分が一度その環境から外れなくちゃいけないという感覚があって、それが面白くなかった。もっとリアルタイムで(一体となって)表現する方法はないかと思ってトライしていたのですが、あまり上手くいかなくて。それで別の表現方法を探している時にダンスというものがあると知って、じゃあやってみようかと思いました。
ダンスについては全く知らなかったので、その当時やっていたものは一通りみました。 勅使川原三郎さん 、岩下徹さん、山崎広太さん、田中泯さん、マース・カニングハムとか。ワークショップにも出ましたが、正直言って、あまり面白くなかった。ダンサーの体ではなかったとか、知識がなかったということもありますが、自分ならもう少し違うものがつくれるような気がした。自惚れていたわけではなくて、自分が観たい踊り、自分がつくりたいものが明確にあったんじゃないかと思います。
スポーツなども含めて、それまでに何か身体を動かすことをやった経験はありましたか。
 中学・高校のクラブ活動で10年ぐらいサッカーをやっていました。
その後、舞踊関連のワークショップを受けるようになってからは、どのようなものに参加しましたか。
 コンテンポラリーダンスだと、勅使川原さんとか山崎さんですね。それから舞踊評論家の長谷川六さんが主宰していたダンスの学校「PAS」でヒップホップ、バレエ、ジャズダンス、アフリカンダンス、パントマイムなんかもいろいろ試しました。その結果、僕が求めているものは、やっぱりここにはないということがわかり、1年でレッスンは全部止めました。僕はダンサーになりたいのではなく、作品をつくりたいんだと自覚しました。
じゃあ、すぐに作品をつくり始めた?
とりあえずやってみようと思って、2000年に八王子の小屋を借りて1時間ほどのソロ公演をやりました。今思うとつまらない作品でしたが、その時、ダンスというのは音響や照明などのためにすごく人件費が必要ということに気付いた。それなら、パソコンを使って全部ひとりでやろうと、IT関連の会社でバイトをしながら、独学でスキルを身に付けました。僕らの世代は誰でも気軽にパソコンを使うようになった最初の世代なので、それほど難しいことだとは思いませんでした。
それから2年ぐらいは、若手ダンサーのショーケースのような公演にエントリーして、5分くらいの作品をつくって出していました。
実質的なデビュー作となったのが、2002年の横浜ダンスコレクションRで発表した『while going to a condition』です。梅田さんの作品は、関節とか筋肉の動かし方が特徴的で、波打つような柔軟な使い方をします。光と音が重要な役割を果たし、空間の中央に位置する身体と三つ巴になり、三者が相互に反応しながら進行していきます。ときたま素早い動きを使うんですが、ある程度の速度を保ちながら動きっぱなしなので、とても運動量が多い。このスタイルはデビュー作から現在まで変わりませんよね。この作品はその後、何度も再演される代表作になりました。
 ダンスコレクションには「ランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナルドゥ・セーヌ・サン・ドニ(旧バニョレ国際振付家賞)」と「ソロ×デュオ・コンペティション」があって、僕は両方に出場しました。「ソロ×デュオ」に出した作品を見た評論家の三浦雅士さんに「もう少し舞台を使った作品をつくったほうがいいよ」と言われて、ランコントルまでの2週間で一気につくったのが『while going to a condition』です。賞は逃したのですが、ディレクターのアニタ・マチューの目にとまってフェスティバルに招待され、バニョレで公演しました。よく受賞したと勘違いされますが、してません。ここが僕には結構大切なところで(笑)。
これをきっかけに海外での活躍の場が一気に広がっていきます。「受賞」という事実はなかったけれど、横浜ダンスコレクションが梅田さんのキャリアにとって重要なターニングポイントになったわけですよね。向こうでのリアクションはいかがでした?
 公演経験も少ないし、比べるものもなかったので当時は日本の観客のリアクションもよくわからない状態でした。向こうでは公演が終わるといろんな人が声を掛けに来てくれたので、すごく評判が良かったのだと思っていましたが、今思えばそれは文化の違いで、普通のことだったんじゃないかと(笑)。それに海外で公演したといっても、公演が終わって日本に帰ってくれば別に何も変わっていないし。バイトしながら創作するという状態が続いていました。
梅田宏明という名前を聞くと、横浜ダンスコレクション以降ヨーロッパに渡って、そのまま帰ってこないという印象があります。私以外にもそう思っている人が大勢いると思うけれど、海外に拠点を移したのではないのですか?
 これもよく勘違いされるのですが、海外に移住したわけでも、ダンスをやめたわけでもない(笑)。バニョレの後、すぐに公演の話をいただいたのですが、正直、ダンスをやってお金をもらったのも初めてだったし、「何だこの世界は?」という感じで、これを続けてどうなるのかもよくわからなくて。バニョレで公演し次に繋がったので、とりあえずオファーがあれば行くという感じで、最初はどういうペースで自分が動けばいいのかとか、世界でどうツアーしていくのかとか、システムに慣れるのに精一杯でした。
ただ、当時は特にプロになろうという意識はなくて、自分で表現したいものをつくり、オファーがあれば行くだけだと思っていたので、マイペースと言うか、結構のんびりしていました。バイトが終わると家に帰り、自分の部屋で踊っていました。
稽古場という空間を使って、練習したり創作したりということはないのですか?
 いえ、専ら自分の部屋です。あとは電車に揺られながら練習したり。今でも稽古場に行って練習するというのは少ないです。だからあまり舞台上で動かないと冗談で言っていますが、本気にされると困ります(笑)。
2002年、2004年には国際交流基金の助成でヨーロッパツアーをします。それからカナダ・モントリオールの「ヌーベル・ダンス・フェスティバル」で『Finore』を、2004年にはリオデジャネイロの「パノラマ・ダンス・フェスティバル」で『Duo』を発表するなど、海外に招聘されるようになっていきます。梅田さんの作品は、梅田さん自身がつくった照明、音楽、映像のデータがすべて入っているノートブック・パソコンを1台もっていけば、海外どこでも余計な手間隙かけずに上演できちゃうわけですよね。これは素晴らしい。他のアーティストはみんな、特に海外公演の場合、幕が上がる直前まで、あちらのスタッフとうまくコミュニケーションがとれないなど、相当いろいろな苦労をしてますから。
 そうなんです。自分でもすごいシステムを考えたと思って(笑)。舞台をチェックして、後はコンピュータをクリックすればスタートできるわけですから。僕が難しい技術を使っているように見えるかもしれませんが、実は誰でも入手できる一般的な技術でやっている。2000年代に入って、表現したいものにコンピュータの性能が追いついてきて、高度なことも簡単にできるようになっています。もっと高度な技術を使うクリエイターとのコラボレーションの話もよくいただきますが、僕にとってテクノロジーはあくまで道具で、それを使った表現を追求したいわけではない。生活の中に当然のようにあるコンピュータを使っているだけ。テクノロジーのプレゼンテーションみたいなパフォーマンスをヨーロッパでよく見かけますが、そういうものをやりたいとは思っていません。
2007年にはパリの国立シャイヨー劇場との共同制作で『Accumulated Layout』を発表します。これは国際的にも高く評価され、ヨーロッパや中東、韓国、日本の新国立劇場でも公演が行われました。
 2006年にパリの小劇場で公演をした時、今プロデューサーをやってくれているドミニク・ロラネと出会い、それが転機になりました。それまでは年に数回の公演だったのが、彼のおかげでどんどん繋がっていって。ドミニクはフィリップ・ドゥクフレのプロデューサーで、『Accumulated Layout』は、ドゥクフレのスタジオで3週間レジデンスをしてつくった作品です。
『Accumulated Layout』は、それまでの作品より光の使い方が立体的だし、より空間全体の見え方を意識した作品になっていたと思います。以前とは違う新しい工夫をしたのですか?
 プロデューサーに「シャイヨーでやるんだから頑張れ」とプレッシャーをかけられて(笑)。ビジュアルに強い作品をつくりたくて、視覚的な奥行きについては光量をどう変化させるかなど、かなり考えました。技術的には別に新しくはありませんが、それまでそんなに頭を使ってプランしてこなかったという意識があったので、視覚的に変化を起こすことを頭で考えたという感じです。この作品で初めてちゃんと評価を受けたという手応えを感じました。この頃からパリのエージェントもつきました。


ドローイングからはじまる光と身体のインスタレーション

2009年3月に横浜の赤レンガ倉庫で発表ソロの最新作『Haptic』は色が鮮明で、その変容と身体との関係性のつくり方が非常に美しい作品でした。これも方法論的には『while going to a condition』の延長線上にあるといえて、梅田さんの基本的な作品づくりのやり方はデビュー当時と変わっていないと思います。この作品に特徴的なのは、単に「ダンス作品」というのではなく、光も音も身体もすべてを含めて、それらのトータルが作品であるという姿勢です。もともと梅田さんにあった方向性が、より鮮明になったと言えます。その意味で、これをダンス作品と呼ばずに、美術作品というか、身体を含めた音と光のインスタレーションと呼んでもいいくらいです。
 そうですね。そういうスタイルは最初から変わっていません。ダンスを見せるために照明や音楽をプランするということはしたくなくて、身体も光も音も、全部が同じ価値のエレメントだと思っています。ちなみに『Haptic』は触覚的なという意味で、ギリシャ語のhaptesthai(触覚)が語源です。色をコンセプトにしてつくりました。
梅田さんのダンスはだいたい即興に基づいていますが、ソロ作品の場合は、映像や音といったビジュアルイメージを先につくり、その中に身体を置いて即興で踊ってゆくというのが、作品づくりのプロセスだと思っていいのでしょうか。
 最初にビジュアルなイメージや踊りのイメージがあるわけではありません。もっと抽象的なイメージ、スペースのテンションみたいなものがイメージとしてあって、まずはそれをドローイングに起こします。ドローイングといっても絵ではなくてラインですね。僕にとってはその線がいわば楽譜みたいなもので、それに合わせて踊りや音、色を考えます。ラインなので時間軸があるから、やはり音が最初になるのですが、音をつくると同時に踊りや照明についても考えていって、全体のバランスを取りながらつくっていくという感じです。
ラインと時間軸のこと、もう少し具体的に言うとどういうことですか。
 例えば『while going to a condition』の場合は簡単で、「さあ、テンションを上げていきますよ!」という単純なラインです。『Accumulated Layout』ではもうちょっと複雑になるんですが、とにかく最初は抽象的なイメージ。それが何かと聞かれると答えにくいんですが、僕は「情動」という言い方をしています。定義すると、「感情になる以前の感情」みたいなものです。欲求という言葉に近いかもしれない。すごくプリミティブなものです。
踊りもこの情動にフィットする感覚を探す感じで、この動きだとフィットするとかしないとか、ということを基準に決めていく。でも手の角度とか細かいことを決めているわけではなくて、もっと抽象的なイメージです。それでだいたいのルールを決めて、8割ぐらいは即興になります。
梅田さんは、そんなふうにソロで踊る時に、だいたいどの作品でも空間の真ん中にポジションをとって、大きく横移動したり縦移動したりということがほとんどないですよね。それはどうしてですか。
 それは全く別に理由があって、僕は動き回ることにあまり意味を感じていないんです。むしろ中心の点をつくることのほうが空間を意識することにおいては重要だと思っています。
例えばマース・カニングハムは、自分が踊る時も、他のダンサーに振り付けるときも、踊り手を「点」のように使います。ただし、彼の場合は点として使いつつ、むしろ意図的に中心を避けているところがある。梅田さんと違い、中心をつくらないというのがカニングハムのやり方です。梅田さんはずっと一人で踊っていることもあるのかも知れませんが、中心にいることにこだわっていますよね。
 そうですね、こだわっているように見えると思います。重要なのは、舞台のサイズを見せたくないということ。動き回ることによって、ステージの制限を見せたくない。(動かない)点の意味は、そこから広がりがもてるということで、そのことが僕にとってはとても重要なんです。センターから移動しない「点」があることで、空間が広がり、観客にもっと広いスペースを意識もらえるのではないか、というのが僕の意図しているところです。
先ほど、作品の抽象的なイメージをまずドローイングとして起こすと伺いましたが、ドローイングをする前に前提になる作品全体のコンセプトはありますか。
 ええ、あります。自分が表現したいドローイングの部分を決めるための枠組みというのがあって、それを僕はコンセプトと言っています。枠組みの部分はいい加減というと言い過ぎですが、例えば『Haptic』だと色、『Accumulated Layout』だと視覚、『Adapting for Distortion』では錯覚をコンセプトにしています。日常生活などからいろいろインスピレーションを得てコンセプトを決めますが、それを舞台に載せて自分の表現したいもの(ドローイングで表したもの)にしていくわけです。
『Adapting for Distortion』では、ラインが何本も動く映像を使っていて、視覚的な効果をすごく意識しているように思えます。
 ダンスが視覚的に鑑賞されるものだと強く実感しました例えば、バレエはどうしてあんな動き方になったのかと想像すると、綺麗なラインをつくるとか、縦や横のラインを綺麗にするとか、形から入った結果なんじゃないかと。だとすると、視覚的に扱われることも多いのではないかと。僕はダンスをビデオで観るのも観られるのも嫌いなぐらい、そういうダンスの扱われ方にストレスを感じるんです。
それで、どうせ視覚的に扱われるのなら、視覚自体をコントロールすれば逆に何でもダンスになっちゃうかもしれない──そういうひねくれた考え方をするようになった。それで、逆に最初からビジュアル・パフォーマンスと称して、ビジュアルをコンセプトとして表に出すようになりました。
例えばリアルな僕とビデオで撮影された僕が出ている『Duo』という作品がありますが、それはまさにそのストレスフルなところから出発したものです。物理的な僕の身体がビデオになった時にどう変わっていくのかをすごく見せたかった。ビジュアルにこだわって、ビジュアル・パフォーマンスとして見せることによって、そこから違う何かが出てくるのを見せたかった。
今の社会はメディアが強く、出ている情報をみんなリアルだと思っていますが、本当にそうなのか? 視覚になっている情報をすごく優先的に扱うけど本当にそうなのか? そうしたことに対する疑問が僕の中には根強くあるんです。
『Duo』はそういった意味では、成功していると思います。徹底的にビジュアルにこだわりながらも、でもそれがビジュアルだけの作品なのか、あるいはビジュアル+αの仕掛けがあるのかがわからない。それはもう観客それぞれがどう受けとめるかということに委ねられている。深読みする人は、虚像と実像があることで何らかのメタファーを感じる人もいるかもしれないし、あるいは素直にビジュアルの面白さだけ、楽しんで見る人もいるかもしれない。それだけの含みがあるということは、企みが上手くいっているということだと思います。ところで、一口にビジュアルといってもいろいろな表現や傾向があるけれど、ビジュアルを通して梅田さんが狙っている方向というのはありますか?
 ビジュアルについて言うと、「目」という機能にすごく興味があります。目は光の受容機です。例えば目の前の石井さんを見ても、テレビに映っている石井さんを見ても、石井さんだと認識します。それに対する疑問がやっぱりあって、とりあえず目の光の受容器としての機能だけを抽出したいと思っているので、すごく抽象的な映像を使ったり、光量を変えたり、といったビジュアルを選んでいます。それと脳で情報を判断するような光ではなく、身体が反応してしまうようなプリミティブな方向を目指しているので、白黒が多いですね。
梅田さんのサウンドの使い方は、ノイズ系の持続音が多いですよね。音についてのコンセプトはありますか。
 音についてもフィジカルなものを選んでいて、例えばメロディーは極力排除しています。メロディーは言語に近い感じがするので、そういうものではなく、空気の振動とか、物質的に考えたいと思っています。
ビジュアルも音も筋電反応みたいにフィジカルなレベルで捉えたいということですか。
 そうです。最近、よく言っているのが観客にはダンスを観るというより、空間を体験してほしいということ。緊張感や音や光で、観客の中に変化が起こってくるところにすごく興味があります。つまり自分がお客さんにとっての刺激物になる。僕が海外に受け入れられた理由の一つに、それがあるんじゃないかと思っています。制作費があまりかからないし、一人で動けるというのも理由ではあるけれど、フィジカルなレベルに訴えかける作品なので、僕の踊りの背景になっている文化を知らなくても鑑賞できるんです。
作品をつくり続けていく上で、梅田さんの中で、この部分だけは絶対妥協できないということは?
 タイミング、時間感覚です。僕の考えでは、作品にいかに変化を与えるかがすごく重要になるので、そのタイミングははずせない。結局人は変化しか認知できないわけですから。
長くサッカーをやっていた身体感覚があるから、話をうかがっていると梅田さんのダンスにはサッカーに通じる部分があるのかなと思いました。サッカーはそれこそ臨機応変に、一瞬一瞬のタイミングを上手くつかまなければ試合にならない。梅田さんの作品もまた、上手く踊ろうとか、きれいに踊ろうとかいうよりも、一瞬一瞬、光と音とのタイミングにビビッドに身体を反応させる状態が持続していて、これを人がダンスと呼ぼうが呼ぶまいが、そんなことは問題ではないトータルなパフォーマンスになっている。そんな感じがあります。
 いわゆるダンサーの考え方じゃないし、自分はダンスの人ではないのではないかという感覚があります。確かに、踊っているとサッカーと同じくらい疲れるし。点を決めればいい、というのと、表現したいものを伝えればいい、というところに向かう感じも繋がっているかもしれません。
『while going to a condition』は何度も世界中で公演しています。そうすると普通はマンネリになりがちだけれども、そうならないのは、大まかな道筋を決めておいて動くにしても、8割ある即興のところは、その都度、新鮮な反応をしながら動くからだと思います。サッカーも、同じルール、同じメンバーで試合をしても、試合ごとに空間もタイミングも全部違いますからね。
 それはすごく思いますね。振りを決めてしまって、それをストップさせてしまうのはすごく嫌なんです。あえて即興にして、その時その時に反応できるようにしたいというのは確かにあります。ただ、あまりスマートじゃない気がして最近は嫌なんですが、どうしてもサッカー根性が抜けない(笑)。


グループワークについて

フィンランドで初演された『1. centrifugal』は、フィンランド人2人と日本人1人という計3人のダンサーに梅田さんが振付けた初めてのグループワークです。
 横浜市芸術文化振興財団とフィンランドセンター(Finnish Dance Information Center)が3年間の予定で、毎年お互いに振付家を交換するプログラムを企画していて、僕はその2年目に選ばれました。本当はフィンランド公演で終わりだったのですが、横浜でもぜひやりたくて、今年3月に横浜の赤レンガ倉庫で上演させてもらいました。
3人は梅田さんが選んだのですか。
 若くて身体の動く女性のバレエダンサーというオーダーを出して、フィンランド側が選びました。そこで文化を超えて経験を積もうということで、基本的にはすべて任されていました。僕みたいに振付を全くやったことがないものにとってはとてもよい企画だったと思います。
振付するというのは、自分でソロを踊るというのとは全く違う次元の仕事だと思いますが、どうでしたか。
 気を付けようと思ったのは、自分がやっている踊りをそのまま振り移しするのではなく、そういう反応が自然と出てくるようなシステムを考えようということ。自分の身体がもっているものを彼女たちに移植できる、動きを共有するための方法論をつくりたかったんです。
具体的にはどのようなことをやったのですか。
 まず、僕の動きの基本となる立ち方、歩き方から始めました。手本を見せたり、口頭で指示するんですが、クラシックバレエをやっている人はできないんですね。というのも、僕が自分の身体を通して論理化した動きで、どちらかというとアジアな身体から出る動きだと思います。
どういうものかというと、単純に、「重心の取り方は踵で」とか「膝は曲げてください」という感じで具体的な指示を出すのですがそういう身体の使い方ができない。バレエの人の重心の取り方は、いわゆるアンドゥオールで、腰がこう入って、踵の外側あたりで重心を取るのですが、僕は逆。腰を少し後ろに引いて、踵の内側辺りで重心を取って腰を載せるんです。そうすると、少し胸が出てくる……。
腰の位置や重心の取り方、姿勢の保ち方は能に近いものがありますね。
 そうかもしれないですね。キーワードは、重心が腰だけではなくて、胸にもあるということです。踵と腰と胸の重心が三点重なると、もう全然力を入れなくても楽に立っていられる。すごくリラックスできて、動きもすごく速くなります。僕はニュートラル・ポジションと言っていますが、バランスを崩さないためにはどうすればいいかを考えた時に、体験的に辿り着いたのがこれでした。
ニュートラル・ポジションの後はどうしたのですか。みんな即興で踊ったわけではないですよね。
 稽古の中ではかなり即興をやってもらいました。振り写しはやらないで、システムや論理を与えて、彼女らがそこから発展させ、出してきたものを僕が抽出して、構成するという方法を取りました。ベースを共有しながら個性を出してほしいというのが、グループワークでの僕のやりたい方向なので、どういう要素を彼女らがもっているのかギリギリまで見極めて、組み合わせを考えていった感じです。
ソロを踊ること、人に振付けること、自分の身体性ということをとおして、将来的にどんなことを考えていますか。
 ソロでは今後も音や映像を使った実験的なことをやっていくと思います。サッカーをやっていたおかげで、これくらい無酸素運動で踊っても大丈夫というタフさはありますが、このスタイルが続けられるのは後5年ぐらいだと思うので、自分がどういうことを表現したいのか、その後のことも考えたいと思っています。
振り付けについては10年がかりでしっかりやっていこうと思っています。10年というのは僕が踊りをやってきて、今に至るまでの年月。思っていることを実現するにはそれくらいかかると思います。ちなみに次の振付作品は、フランスのヒップホップダンサーとやります。『1. centrifugal』は「遠心力」がコンセプトでしたが、今度は「レスポンス」をコンセプトにしようと思っています。例えばステップを踏んだ時にちょっと反動が来ますよね。この反動は僕の踊りで結構使う動きですが、これをテーマにして振り付けようと思っています。
あと、5年後にダンスのないダンス作品をつくりたい。今この話をすると、屁理屈みたいになってしまうので、その時に詳しく話します(笑)。ダンサーが踊らないダンス作品ではなく、舞台に身体を置かないで照明や音でつくるダンス作品。それをダンス作品だと言って提示してみたい(笑)。

『Haptic』
初演:2008年
撮影:山方 伸

『1. centrifugal』
初演:2009年
振付:梅田宏明
出演:Satu Rekola、Milla Koistinen、Natsuko Kuroda
撮影:山方 伸