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私が理解している川口さんには3つの側面があります。まずは、何といっても1990年代のアートシーンを席巻したパフォーマンス/アーティスト集団「ダムタイプ」に96年からメンバーとして参加されていること。2つ目は、このことを知っている人は少ないと思いますが、数年前まで「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」のディレクターを務められていたこと。3つ目はもちろん、現在、日本のコンテンポラリーダンスの世界で、さまざまな分野のアーティストたちとコラボレーションしながら、舞踊という枠を超えて画期的なパフォーマンス・アート作品を発表されていることです。今回のインタビューでは、1つ目と3つ目の面でお話をうかがいたいと思います。
川口さんはダムタイプのメンバーになる以前、80年代末から幾つかのユニークな活動をされています。自らの肉体を使って表現活動をするようになった経緯を聞かせてください。 -
いろいろと辿っていくと、子どものころにさかのぼりますが、幼稚園では『こぶとり爺さん』の主役、小学校では音楽会の指揮者、中学の課外授業では演劇、高校の体育祭の仮装行列では『不思議の国のアリス』のアリス役で優勝(笑)とか。ともかくどこに行っても前に出て、すごく目立つ子どもでした。
高校3年の夏にアメリカに留学したのですが、そこでも現地の生徒たちとミュージカルをやったりして、いつの間にか演劇やミュージカルがすごく好きになっていました。
大学ではスペイン語を専攻して、スペイン語演劇のサークルに入り、俳優としてロルカの『イェルマ Yerma』などを原語でやっていました。 - 海外公演のための作品ノートを英語で書かれるなど、語学が堪能だということは知っていましたが、外国語学部だったとは知りませんでした。
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大学時代にはアルバイトで日本に住む外国人向けの英語情報誌『Tokyo Journal』のパフォーミングアーツ欄のリスティングやリコメンデーションを書いたりしていました。そういうことを10年以上続けましたが、80年代当時の日本は、海外からたくさんのパフォーミングアーツが来日するようになり、百花繚乱ともいうべき状況でした。僕も仕事と趣味を兼ねて演劇、ダンスを問わず、いろいろな舞台をたくさん観ていました。その中で最も印象に残っているもののひとつが、86年に初来日したピナ・バウシュの『春の祭典』『カフェミュラー』です。
自分の活動としては、もちろんスペイン語劇も続けていたのですが、それだけでは飽き足らず、大学3年のときにムーブメントシアターのワークショップに参加しました。フランスの「テアトル・ド・ラ・マンドルゴール」で学んだ西森守さんの主宰していた劇団で「ミーム」というパントマイムを基礎とした表現のテクニックを学びました。面白かったので、劇団の年間を通じたトレーニングのコースに入り、2年後には本公演にも出演しました。その劇団でやっていたのは、言葉や台詞よりも身体のテクニックを主体にしたもので、演劇を身体的に分析し、パントマイムの技術を突き詰めた抽象的な表現でした。その劇団での活動は大学を卒業してからも続けました。
その頃福島県の尾瀬の玄関口にある檜枝岐という村で「檜枝岐パフォーマンスフェスティバル」が行われていたのですが、そこで水島一江さん(現在は、空間に張りめぐらせた糸をパフォーマンスしながら演奏するストリングラフィ・アーティストとして活躍)、山崎広太さん(コンテンポラリーダンサー)と一緒に長谷川六さんの作品にダンサーとして出ました。檜枝岐のフェスティバルには、当時既存の芸術の枠にとらわれない前衛的なことをやっていた人たちが多数集まってきていて、多くの舞踏家や、モレキュラーシアター(Molecular Theatre)の豊島重之さん、実験映画の飯村隆彦さん、パフォーマーの浜田剛爾さんなどもいました。僕も20代前半にして、ある意味、その洗礼を受けたと言えます。
それと同時期に、コンテンポラリーダンスの勅使川原三郎さんや、黒沢美香さんのワークショップも受けていました。黒沢さんとは、綱島のスタジオに半年ぐらい通って、最終的には彼女の作品『Eve and/or eve』シリーズに出演もしました。 - 自分の作品を初めてつくったのはいつですか。それはどんな作品でしたか。
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88年6月に、テネシー・ウィリアムズの二人芝居『話してくれ、雨のように』を基にした作品を中野テルプシコールでやったのが初めてです。自分で脚本・演出・出演し、その時も水島さんが音楽でしたが、リアリズムの演劇ではなく、テキストも解体して反復したり、動きも抽象的で、発声も普通ではないパフォーマンスとして自由にアレンジしました。それが今でも僕が目指す舞台の原型であるような気がします。
スペイン文学の古典から現代演劇まで勉強したくて、88年9月からスペイン政府の給費留学生としてバルセロナの大学に1年間通いましたが、大学院レベルでついていけなくて、結局劇場通いをしていました。
スペインの演劇はもちろん、パフォーマンス集団の「ラ・フラ・デルス・バウスLA FURA DELS BAUS」やロシアの前衛演劇などもよく観ました。ベルギーの「ローザスRosas」の『オットーネ・オットーネOttone, Ottone』も観ました。また、実験演劇の劇団のワークショップにも参加しましたが、バルセロナは新しいものを吸収しようとする精神が旺盛だったのでいろいろ共感できることが多かったです。 - 川口さんの今の活動を理解するには、スペイン留学時代のことを抜きにしては語れないですね。その1年間の経験が血となり肉となっている感じですね。
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しかし、その時点では、僕のパフォーマー人生はまだ始まっていないのですが(笑)。帰国してすぐに、舞踏家の徳田ガンさんに大晦日の年越しパフォーマンスを「何かやってみない?」と誘われたんです。それで黒沢さんのところで踊っていた吉福敦子さんともう一人の女性ダンサーと3人でパフォーマンスをしました。そのときも、言葉はあるけど演劇でもなく、ダンスでもなく、パフォーマンスというのかもわからない作品でしたが、それはそれで面白かったので、彼女たちとATADANCEというカンパニーを結成しました。当時、日曜になると表参道は歩行者天国になっていていろんなライブが行なわれていたので、僕たちも定期的にストリートダンス・パフォーマンスをやりました。スペインで観たピナ・バウシュの『1980』という作品にラインになって行進しながら華麗に踊る振付があったので、それを真似て表参道を行進したり。僕の中ではすごくファッショナブルに踊っていたつもりでしたが、通行人にはどういうふうに見えていたのでしょうね(笑)。
- 表参道でのストリートパフォーマンスは3年もやったそうですね。
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はい。それでいよいよ劇場空間でやろうということになり、91年に横浜のSTスポットで『mata-R』をやりました。この年が僕にとってすごく重要なターニングポイントになるのですが、ちょうど『mata-R』の稽古をやっていたときにウィリアム・フォーサイスが来日し、彼の『Impressing the Czar』の公演を観に行きました。それでドイツ文化センターで行われたワークショップの見学にも行ったのですが、フォーサイスの言葉と彼のカンパニーのダンサーの身体の動きにすっかり魅了されてしまった。「点と点があって線ができる、線と線がつながって面ができる」といった言葉を彼が放つたびに、ダンサーが次から次に魔法のように動きにしていくのを目の当たりにして、思わず「フォーサイスさん、僕も同じような作品をつくりたい!」と彼に話しかけていました。「どんどん盗みなさい、いくらでも真似しなさい」と彼も言ってくれて。そうして僕の意識が変わって生まれたのが『mata-R』であり、僕が振付・演出・出演した初めての作品になりました。
その勢いで、バニョレ国際振付コンクールの第1回東京プラットフォームに参加しましたが、審査員には、「アンビシャスな作品ですね」と言われました(笑)
- バニョレに応募した時には、この分野でこれから表現者としてやっていこうと思っていたのですか。
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僕はあまり、こういうふうにしようといった決意を固めるタイプではなくて、面白そうだな、という感じでずっと続けてきました。ATADANCEもそういう感じで続けていたのですが、とうとう壁に突き当たってしまった。ダンスカンパニーとして助成金ももらえるようになったのですが、逆に“ダンス作品”をつくらなければならない、そういう枠組みに自分を嵌めなければいけないと思い始めたら、行き詰まってしまいました。「ダンス作品をつくる」ということが、自分の身体に引き寄せる行為ではなく、自分と離れたところにあるものを追いかけているだけなのかもしれないと思えてきて、それで95年にATADANCEを解散しました。
- そしてダムタイプと出合うわけですね。
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そうです。もちろん、ダムタイプが初めて東京で公演をした『Pleasure Life』も、89年の『pH』も観ていました。エイズで亡くなった古橋悌二のことも、黒沢美香&ダンサーズにいてその後ダムタイプに加わった砂山典子らも以前から知っていました。しかし、一緒に活動はしていなかった。95年10月に京都で古橋の最期を看取った後、僕はその年の年末にロベール・ルパージュ演出のマイケル・ナイマン・オペラ『テンペスト』にパフォーマーとして出演しました。そのころダムタイプはデンマークのパフォーマンス集団「ホテル・プロフォルマHOTEL PRO FORMA」とのコラボレーションで『モンキー・ビジネス・クラスMONKEY BUSINESS--SARU HODO NI』という大掛かりなパフォーマンス作品の計画を進めていたのですが、ちょうどデンマークのディレクターが『テンペスト』の神戸公演を観に来てくれて、僕を出演者の一人として誘ってくれたんです。
その作品で初めてダムタイプに関わるようになり、その後96年の年末に始まった『OR』の制作には自分から出たいと手を上げて、97年の3月の公演までフランスのモーブージュでレジデンスしながら創作をしました。その当時のダムタイプは、古橋が死んでから解散を噂されつつも、古橋亡き後何ができるのかという自分たちの活動の意味が改めて問われている状況でした。ただ、それぞれの思いを持ちながらもアーティスト集団「ダムタイプ」として活動していくという確信はありました。
- ダムタイプは1984年に結成され、80年代末から90年代前半の段階で、日本のアーティスト集団のなかでもすでに特異な存在になっていました。海外でも頻繁に作品を発表し、高い評価を得ていました。彼らの作品はテクノロジーと身体というミクストメディアのあり方を、批判とアイロニーの精神をもって追求したばかりでなく、代表作『S/N』では、エイズやセクシュアリティ、国籍といった政治的な問題にまで踏み込みました。ダムタイプは、もともと日本の劇団によくあるようなヒエラルキーをつくらずに、映像、音楽、美術、ダンスなどのアーティストたちがそれぞれのアイデアと技術を持ち寄りながら作品を共同制作してきた新しい集団です。とはいえ、中心的な存在であった古橋さんの果たしてきた役割が大きかったのは言うまでもありません。彼が亡くなった後、ダムタイプは、音楽に池田亮司が初めて参加して、生か(or)死かをテーマにした大作の『OR』を発表し、その後、『メモランダム』『ヴォヤージュ』と続きます。
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僕としては、99年の『メモランダム』が創作過程として一番面白い作品だと思っています。舞台に出ている時間も長いし、創作した達成感という意味でも思い入れがあります。
- 『メモランダム』は、記憶をコンセプトにした作品で、男が記憶の断片をメモし、そのメモを映像で見せていくというパフォーマンスがあり、記憶の堆積と喪失のイメージが多様なパフォーマンスとして波打つように押し寄せてきます。身体の外側に見えるものと内側にあるものがリンクしながら展開してゆく感じがしましたが、そのぶん作品のスケール感が後退している感じがしました。それに対して、次作の『ヴォヤージュ』は、スケール感を前面に出した作品でした。特に航空撮影した遠く広大な自然の映像に対してダンサーの身体が対置されていたという印象が強く残っています。私が観た日本での初演の時にはまだ全体がまとまってなかったと思いますが、部分的には音と映像と身体が非常に高いレベルで融合していて、これはダムタイプの一つの到達点だと思いました。巨大な空間の中でダンサーの体を小さく捉え、空中にあるような浮遊感を出すなど、テクノロジー、自然、身体がアーティスティックに舞台で共存する美しい瞬間は、稀有なものだったと思います。
- 『ヴォヤージュ』 (*) はフランスのドゥルーズで滞在創製作をしました。遠くにあるイメージというのはその通りで、すごくスタティックな作品です。海外の評論家には「パフォーミングアーツとして身体を終わらせようとしている作品だが、ただ終わらせるなら、身体でもって身体を終わらせてほしい」と言われていて、ある意味、それを目指して上演のたびに改良しながら作品を完成させてきています。
- ダムタイプはこれからどういう活動をしていこうと考えていますか。
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そのあたりはメンバーみんなにも見えていないというのが正直なところです。『ヴォヤージュ』のツアーは今も続けていますが、どういうカンパニーとしてやっていくのかはわかりません。それぞれが個人レベルで活動していますし、メンバー同士が個別にコラボレーションすることもあります。僕も、2000年に『世界の中心』を「パークタワー・ネクストダンス・フェスティバル」で発表しましたし、翌年には『夜色』をつくりました。
- 『世界の中心』は、ダムタイプ以降に川口さんが構成・振付した最初の本格的な舞台作品ですね。演劇的な要素とダンス的な要素を組み合わせて、独特の川口色を出していました。ダムタイプの活動開始後に発表したこともあり、作品にもその影響がありましたが、ダムタイプの川口隆夫というより、ソロパフォーマー川口としての力が発揮されていたように思います。派手なロングドレスを引きずりながら歩く女装のゲイ(ドラァグクイーン)やゲイポルノ俳優も出演していて、川口さん自身のセクシャリティを全面に出していましたね。
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タイトルも壮大な『世界の中心』ですし(笑)、自分のセクシャリティをテーマにしたソロ作品を発表できたという意味で「ネクストダンス・フェスティバル」には、いいきっかけをもらいました。
- このフェスティバルは、若手アーティストに発表の場を与えることを目的としていました。ニューヨークならそういうところで自分の芸術活動を通してセクシャリティやジェンダーの問題を扱う作品がいくつも出てきて不思議はないですが、日本ではそういう傾向のものが出てくることは少ない。『世界の中心』が、真っ正面から、しかも、ドグマティックにならずにそのようなテーマを取り上げたのはとてもユニークでした。日本の舞台としてはまさにポップでキャンプなテイストに溢れた珍しい舞台でした。ただ、周りの人にそんなテーマを真正面から扱う、川口さんの手つきの面白さが充分伝わったかどうか。川口さんのほうが先んじていた感じがしました。
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女性のお客さんは支持してくれる人が多かったのですが、男性には「何でわざわざ自分のセクシャリティを作品で言わなければいけないんだ」と。僕としては、作品をつくる際には、必ず自分のことがテーマにならざるを得ない。自分を表現する、語るときには、すべてをさらけ出してしまいますから。現在は、ATA DANCE時代の作品よりも、より自叙伝的な、パーソナルな作品をつくるようになってきています。
- 『世界の中心』に続いて発表したソロパフォーマンス作品『夜色』は、ダンスがもっと客体化されていて、川口隆夫的な動きが映像と融和しながら、より抽象的なレベルで構成された美しい作品でした。
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『夜色』は01年の3月にオランダのフローニンゲン・グランド・シアターでつくりました。ダムタイプの『メモランダム』の中に自分のソロダンスのシーンがあるのですが、そこで使ったランダムなイメージを重ねていくという手法で、8メートル四方の舞台に、自分の身体と映像を組み合わせて何が見えるかということを空間の中に焼き付けていきました。その後、ダムタイプの照明家である藤本隆行にお願いしてLED照明を使うなど、いろいろと手直しをして、03年にはインドのアジア舞台芸術祭でも上演しました。
- デリーで行われたその芸術祭には私も同行しました。日本のコンテンポラリーダンスがインドで本格的に紹介されたのは、これが始めてではないかと思います。川口さんと黒沢美香、室伏鴻による3作品が公演され、最後に私が講演した関係で、たくさんのインド人観客と話しましたが、伝統舞踊が主体のインドで、この3名の作品は彼らに非常に新鮮で、興味を持たれていました。『夜色』の後、2004年に山川冬樹とコラボレートした『D.D.D.』を発表します。私は、この作品を近来まれに見る優れた作品だと思っています。120センチ四方のテーブルという限られた空間の上で、川口さんが一人で格闘しますね。山川さんが自分の身体機能とシンクロさせてつくりだした音、光、映像と川口さんの身体でいったい何ができるかということに真っ正面から挑んだ作品でした。『D.D.D.』というタイトルはどういう意味ですか。
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「Don’t Do Drug」です(笑)。まあ、それは後からつけた言い方ですけど、本当は心臓の鼓動の音です。「デーデーデー」という。実際に山川くんが自分の心臓の音をサウンドとして出しています。
- 川口さんは冒頭、プロレスラーの悪役のような目出し帽をかぶって登場しするのが、とても衝撃的です。第1ラウンド、第2ラウンドと7ラウンドまで小さいテーブルの上で、まるで「ひとりプロレス」という感じでいろんな場面が進行します。この作品の出発点はどういうものだったのですか。
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そもそもは、身体をぶつけるとか、衝撃を感じさせるといったパフォーマンスをやりたいと思っていました。東京・六本木のライブスペース「スーパー・デラックス」を会場にする予定だったので、場所の下見がてら、ちょうどそこでやっていた山川くんのパフォーマンスを観に行きました。そしたら、彼の心臓の音と電球の光、ホーメイ(倍音)という唄を組み合わせたライブがすごいパワフルで。すぐに「一緒にやりませんか」と声を掛けました。山川くんは、作品をつくろうとするときに自分の身体を使うことが自分が最低限の責任を持てるアートを生む唯一の方法だと言っている人で、僕も同じ感覚です。彼の作品も非常にダイレクトで、インパクトがあります。
- ただ身体を乱暴にぶつけるのはダンサーや音楽家でなくてもできることですが、だからこそそのような行為を「表現」として見せるのは、容易そうで難しいことだと思います。『D.D.D.』は、川口隆夫と山川冬樹という二人のアーティストによるパフォーマンス作品として、時間と空間からたちのぼる力がひとつになり、強いインパクトをもって観る者に迫る作品でした。川口さんと山川さんそれぞれが、全身で自分自身のパフォーマンスに徹しながら、せめぎあう緊張感に満ちていました。国際的にもあちこちで公演して、それぞれ高い評価を得ていますが、やっている側としては、どういうところが評価されていると感じていますか。
- 自分の作品のいいところを言うのは難しいですが、『D.D.D.』は原始的な欲望をぶつけつつ、ヘヴィメタ、日本のプロレス的なもの、といったポップなエレメントも持ち込んでいます。そういう面がうまくいっているのかもしれません。山川さんもパワフルで、ある意味二人の格闘技でもあります。彼が身体の内側から闘っていくのに対して、僕は外側から闘っている感じがあります。
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川口さんは、コラボレーションのためのいいパートナーを探すのがうまいと思います。コラボレーションというのはすごく難しくて、観るほうの立場からすると制作者側の意図が見えて予定調和的なパフォーマンスになる場合が多い。つまり、面白い人と面白い人が集まればプラスになるとは限らなくて、マイナスの結果になることも多い。
川口さんの場合は、『D.D.D.』にしろ、蛍光灯を使ったアーティストの伊東篤宏さんとのコラボレーション作品『ディケノヴェス』(03年)にしろ、コラボレーションのあるべき姿というか、二人でやることによって、一人では生まれないものをスパークさせていると思います。 -
僕が自分の作品でコラボレーションをする時、参加するクリエーターそれぞれにコンセプトがあって、互いがどう切り込んでいって、どう変換させれば違うダイナミズムで新たな作品として提示できるか、ということをすごく考えます。『ディケノヴェス』をやったときには、伊東さんが表現するビカビカの蛍光灯の照明の中で、僕の身体がどう太刀打ちできるかと考えたとき、もうぐるぐる回ってみるしかなかった。強烈に増幅された蛍光灯の放電ノイズが僕の三半規管を極限まで動かして麻痺させ、そのうち目が回って倒れるんじゃないか、そして倒れたときのインパクトがどれほどのものなのか、と。
- 今後はどういう作品をつくっていきたいのですか。
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もっといろんな人たちとガチンコでやっていきたいと思っています。それと、“言葉”をもっと積極的に使っていきたい。言葉も映像も身体も同じレベルでいられるようなことをどう開拓していくかですが、それはもういろんな可能性があると思います。
今、山口情報芸術センターで新作『true/本当のこと』の創作に取り組んでいます。藤本隆行がディレクターとして僕とコンテンポラリーダンサーの白井剛さんを呼んでくれたんですが、同じパフォーマーである白井さんとどういうコラボレーションができるか楽しみです。
また、『true』のデザインチームとしても一緒にやっているメディア・アーティストの真鍋大度さんとは、『テーブルマインド』という作品でコラボレーションしていますが、その作品をもう少し膨らませて再挑戦したいと思っています。
そしてその次は、指輪ホテルの新作『exchange (エクスチェンジ)』に出演します。ダンサーのユン・ミョンフィさんと、それから演出の羊屋白玉さんとの共演。これまでにやったことのないタイプのパフォーマンスで、すごく新鮮だし、挑戦でもあります。
今後の作品づくりの方向性としては、ジャンルや手法にこだわらず、いろんな手法でいろんな語り口で表現していければと思っています。もちろん最終的には手法にこだわらざるをえませんが、ダンスであったり、テキストであったり、映像であったり、音楽であったり、あらゆることを導入していきながら、それぞれの手法でしかできない表現を模索していきたいと考えています。それはコラボレーション作品であっても、ソロであっても同じです。
結局、僕がやっていることは、“パフォーマンス”という言葉でくくってしまったほうが言いやすいんだと思いますが、手法とテーマがかみ合って分離できないところで初めて何かが生まれてくるということがあるのではないでしょうか。何か新しい手法を思いついたとして、その手法によってしか、こういう舞台言語でしか表現できないもの、僕はそういう表現を模索していきたいと思っています。身体を使うことはやはり中核にあるわけですが、その上で、既成の価値観でなかったものを開拓していきたいんです。
- ある意味、ジャンル別に技術があってその枠の中だけで表現しているということのほうがおかしなことで、一度そういうものをすべて御破算にした上で、新しい表現の可能性にチャレンジしていくことが求められていると私も思います。技術と表現がリンクする地平をいつも洗いなおしてゆくという作業ですね。
- はい。そこが“コンテンポラリー”の面白さだと思うんです。コンテンポラリーであるかないか、ということはあるかもしれませんが、コンテポラリー「ダンス」や「シアター」と分ける必要はない。ヴィジュアルアートももう境界がなくなっていて、建築もアートと一体化しています。コンテンポラリーというのは、ダンサーはダンスのことだけやっていればいいというのではなく、最終的にはこの世界でこの限られた時間に生きている自分すべてが関わってくることだと思います。そういった意味では、アートということ自体がひとつのジャンルになっているとすると、そのジャンルも疑ってみなければいけない時期にきているのではないでしょうか。
川口隆夫
自らの肉体をさらけ出し、ミクストメディア・アートに挑む川口隆夫の歩み
川口隆夫Takao Kawaguchi
1962年佐賀県生まれ。パフォーマー、アーティスト集団「ダムタイプ」メンバー。大学時代にスペイン語劇サークルで活動し、その後パントマイムを基礎としたムーブメントシアターのテクニック「ミーム」を学ぶ。実験演劇からダンス、パフォーマンス・アートまで数々のプロジェクトに参加。88年6月、初の自主公演として、テネシー・ウィリアムズ原作『話してくれ、雨のように』の実験パフォーマンスを中野テルプシコールで公演。同年9月から1年間、スペイン政府給費留学奨学生としてバルセロナ自治大学に留学。帰国後、90年よりダンサーの吉福敦子らとダンスカンパニー「ATADANCE」を結成、95年に解散。96年からアーティスト集団「ダムタイプ」に参加し、『OR』『メモランダム』『ヴォヤージュ』に出演する。これらの作品はダムタイプのレパートリーとして現在も海外で公演されている。2000年以降は、ジャンルを超えたアーティスト、音楽家、パフォーマーらとのコラボレーションを積極的に行いながらソロ活動を展開し、『夜色』(2001年)、『ディケノヴェス』(2003年)、『D.D.D.』(2004年)、『テーブルマインド』(2006年)などを発表。『D.D.D』は、テクノロジーと身体をテーマに作品を発表しているホーメイ歌手の山川冬樹とのコラボレーション作品で、2005年9月にクロアチア共和国ザグレブ「クィーアザグレブ・フェスティバル」、2006年6月「ヴェネチア・ビエンナーレ」、2007年6月ソウル「MODAFE 2007」、2007年7月シンガポール「エスプラネード」公演など海外でも上演されている。
聞き手:石井達朗 インタビュー:2007年8月10日 協力:山口情報芸術センター
*『ヴォヤージュ』(2002年/フランス初演)
2001年の米国同時多発テロ事件の影響下でつくられた作品。通常の制作過程とは異なり、小さなユニットに分かれて行った作業から「旅」というモチーフが生まれた。床をメタルでつくり、そこに映像を反射させることで次々に空間が変化。ダンサーが無重力空間に浮いているように見えるなど、これまでにない体感型の作品。
川口隆夫『夜色(ヨルイロ)』
撮影:小原大貴
川口隆夫『ディケノベス』
撮影:小原大貴
© Takao Kawaguchi
川口隆夫『D.D.D』
撮影:小原大貴
© Takao Kawaguchi
YCAM滞在制作新作ダンス公演『true/本当のこと』 白井 剛×川口隆夫×藤本隆行
振付・出演:白井剛(発条ト/AbsT)
振付・テクスト・出演:川口隆夫(Dumb Type)
ディレクション・照明:藤本隆行(Refined Colors/Dumb Type)
9月1日/山口情報芸術センター スタジオB
12月8日、9日/金沢21世紀美術館シアター21
12月14日〜16日/横浜赤レンガ倉庫一号館3Fホール
指輪ホテル 新作公演『エクスチェンジ』
演出:羊屋白玉
出演:尹明希(ユン・ミョンフィ)、川口隆夫、羊屋白玉
東京公演:10月4日-7日/シアター・イワト
京都公演:10月13日、14日/京都造形大学 青窓館 Aスタジオ
札幌公演:10月19日、20日/コンカリーニョ
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