池田亮

現実と往復する新たな演劇にアプローチ
デジタルネイティブ世代の池田亮

2023.03.16
池田亮

撮影:川喜田茉莉

池田亮Ryo Ikeda

1992年、埼玉県生まれ。脚本家・劇作家・演出家・美術家・俳優。東京藝術大学大学院美術研究科彫刻専攻卒業。彫刻家としての活動を経て、2015年にゆうめいを立ち上げ、作・演出・美術・映像を担当。亡き祖父の絵画を展示し実父と共演するなど、現実の関係性からの地続きで空間と物語を描く。ノンジャンルでの創作の多面性を解析しながら活動し、外部の公演やテレビドラマ、アニメへの脚本提供も多数。作品に自らが体験したいじめをもとにした『弟兄』(初演・再演2017年、再再演2020年)、自身の家族の話を実父が出演するかたちで演劇化した『あか』(2018年)、『姿』(初演2019年、再演2021年)など。

ゆうめい公式サイト
https://www.yu-mei.com/

美術大学で彫刻を専攻し、舞台美術も手がける「ゆうめい」の劇作家・演出家の池田亮(1992年生まれ)。自らのいじめ体験をモチーフにした『弟兄(おととい)』(2017年初演)、自身の家族の話を実父が出演するかたちで演劇化した『あか』(2018年初演)などを発表。自身の体験や周囲の人々からの「自分のことを話したい」という声を出発点にして、現実と往復する新たな演劇づくりを模索する池田の思いとは?
聞き手:山﨑健太(批評家、ドラマトゥルク)
弟兄

ゆうめい『弟兄』(再演)
(2017年9月8日〜12日/STスポット)

池田さんは大学では美術を専攻されていて、学部は多摩美術大学、大学院は東京藝術大学で彫刻を学ばれました。現在も演劇や脚本の仕事と並行して、水栓のクリスタルハンドルをミニチュアの指輪にしたグッズなど、ハンドメイドのオブジェを作っています。もともとは彫刻の道に進むつもりだったのでしょうか。
 実は、そもそもは陸上で大学に進学するつもりだったんです。高校が陸上の強豪校で、駅伝では関東大会までいきました。でも顧問がスパルタで、練習で怪我人が続出してそこから先に進めなかった。それが悔しくて、大学では箱根駅伝を目指したいと思っていました。ただ、美術も好きでした。

 もともと、祖父が美術の先生で画家だったので、美術に興味がありました。趣味でお菓子の箱を細く薄く割いたものを素材にして樹を作る工作みたいなことをしていて。そういうのが好きな人が集まる、今でいうpixivの造形版みたいなウェブサイトに作品の写真を投稿していました。

 怪我をして陸上部を休んでいるときに、ペーパークラフトや自分の指のデッサンにハマったんです。スパルタで辞めていく人も多い中、陸上部に残っている自分は正しいと思っていたのに、辞めた人たちが楽しそうにしているのを見て疑問を持つようになりました。それで、大学では好きな美術をやることにしました。
彫刻を選んだのはなぜでしょうか。
 彫刻というか、墓石を彫る人になりたかったんです。子どもの頃、祖父と散歩していたときに、なぜか墓石を見せられて「死んだら誰でもああいう作品を残せるんだよ」みたいなことを言われた。それでなんとなく墓石が好きになりました。

 美大に進学したいと親を説得するときも、墓石なら絶対に需要があるからと熱弁しました。それに、美大から箱根駅伝に出たらこれは相当すごいことだからとか。いろいろ言って説得して美大に行きましたが、結局、陸上やる人なんて全然いなかった(笑)。
大学ではどんな作品を?
 やっぱり墓石を掘りたかったので、最初の頃は石を素材にしていました。石って材料費がすごく高いので、大学1年のときは一生懸命アルバイトをしていました。化粧品の蓋をひたすら閉め続けるとか、冷蔵倉庫でベルトコンベアを流れてくる食品の袋にシールを貼るとか‥。指をまっすぐ1本にしてそこに乗せたシールを貼っていくのですが、倉庫がものすごく寒くてかじかんでできなくなってくる。怒られながら8時間働くのですが、寒すぎて風邪を引き、結局バイト代は医療費に消える‥‥。その経験を作品にしようと思って、硬直した指を石彫で表現したけど伝わらない(笑)。教授に、コンセプトは面白いから石じゃなくて複合的な素材でやった方がいいと言われました。

 長くやったアルバイトのひとつに、博物館とかで使うジオラマを作る仕事がありました。たとえば縄文人が生活している様子を作ったりするのですが、そのときにグリーンアーミーと呼ばれる緑色の兵隊のフィギュアを削って縄文人に変えるんです。たとえば銃を構えている兵士を杭を打ち込む縄文人に変える。それがすごく面白くて、そこから複合的な素材とか映像を使ったりするようになっていきました。

 指の彫刻と同じコンセプトを最終的に複合的な素材で作り直し、鑑賞する人がハンドルを回すと指が動くような、労働行為も組み込んだ作品にしました。素材も、潰れた工場からもらった廃品を使って。それが優秀作品に選ばれたこともあって、大学院を受けることにしました。
大学院でもコンセプチュアルな作品を?
 その頃には人物もやりたいと思うようになっていたので、大学院では北郷悟先生に師事していました。結局、大学院に入った頃から脚本の仕事が忙しくなり、卒業こそしたものの、ほとんど行けませんでした。
演劇をはじめたきっかけを教えてください。
 演劇というものを初めてしっかり見たのは高校の芸術鑑賞教室でした。戦争についての作品でしたが、印象に残ったのは話の内容よりも演劇的な表現への違和感みたいなものでした。自分が陸上部だったこともあって、たとえば舞台上で俳優が走っている場面を見たときに、友達と「あんな簡単に走れたらいいね」と話したり。そういう嘘への違和感があって、距離が遠いというか、無理やり何かを表現しようとしているように思いました。

 演劇に関わるようになったのは大学3年ぐらいのときです。演劇部で人手が足りないというので、舞台美術とか小道具とかを手伝うようになりました。バイトで結構何でもやっていたので、舞台監督的な役割も担っていました。それで最終的に「脚本・演出の人がいなくなっちゃったから池田くん書けない?」みたいな感じで書くことになりました。
それまで脚本を書いたことはなかったのに?
 なかったです。ただ、アルバイトで裁判の様子を描く法廷画の手伝いをしていて、その時に裁判のルポの原稿も書いていたのでそういう経験はありました。

 それと、アニメの二次創作をネットに書き込むみたいなこともしていました。それは我が家に居候していた友達が、好きなアニメの二次創作をネットに書いていて、どうしても続きが書けないから手伝ってくれと。その創作は彼がアニメの世界に入って楽しんでいる様子を書いていくようなもので。アニメよりもむしろ、自分がアニメの世界に入ってどうなっていくかというリアリティを追求するようなものだった。そういう彼がしようとしていることに興味を感じ、自分も書くようになりました。

 遡ると、実は中学生のときから匿名掲示板の2ちゃんねるに書き込みをしていました。僕は92年生まれで、ちょうどインターネットが活発になっていった時期に中高校時代を過ごした世代です。「おもしろフラッシュ」という、たとえばドラえもんが人を殺しちゃうみたいなおかしなアニメーションとか、テレビじゃ絶対に映せないようなサブカル的なものが子どもたちに浸透し、自分も友達とパソコンやネットニュースの話をしていた。

 2ちゃんねるとは中学生ぐらいのときに出会い、たぶんパソコンに履歴が残っていたんだと思いますが、既婚女性専用の掲示板を読んで、衝撃を受けた。既婚女性が夫や姑、子どもに対して思っていること、言ってしまえば鬱憤を赤裸々に語っていて、それは自分が普段見ているTVドラマとかとは乖離した世界に思えました。一方で、母が言うようなグチとそっくりな書き込みもあって。ここに書き込んでいるのはどういう人たちなんだろうと興味を持ちました。

 それで「なんで結婚したんですか?」と書き込んだらすごく叩かれて。変なコードにひっかかって自分のIPアドレスも公開されて、怖い世界だなと思いました。しばらくは離れていたのですが、高校に入ってからやっぱり興味があって覗くようになり、そのうち自分も書き込むようになりました。それも今度は主婦になりすまして、母だったり、祖母だったりのことを思い浮かべながら書き込んだ。最初は「ネカマ(*1)だろ」ってバレてたのですが、だんだん上手くなってバレなくなりました。それがキャラクターの言葉を書くようになった原体験ですね。

 実は墓石をつくりたいと思ったのも、ここで60代、70代の人が「お墓をどうする?」といった書き込みをしているのをみて墓石についてよく検索するようになったのがきっかけのひとつだったりもします。
演劇部で最初に書いた脚本に、そういう池田さんのバックグラウンドは反映されていましたか。
 いえ、頼まれて脚本を書いたので、部員のリクエストに応えようとした作品でした。当時、大人計画(松尾スズキが主宰する劇団)がすごい人気で、そういうテイストにしてほしいとか、ちょっとアングラにしてほしいとか言われて。結局、生まれてきた子どもが自転車だったという話を書きました。どうやって自転車を育てるのかとか、他の自転車の近くにいたら間違えて連れ去られちゃったとか(笑)、そういう話でしたね。
当時、演劇は見ていたのですか。
 多くは見ていません。友達に誘われて2.5次元ミュージカルの『テニスの王子様』とか劇団四季の『ライオンキング』を見たくらいだと思います。美大だったのであいちトリエンナーレのような芸術祭に行ったり、ダンスやライブペインティングなどのパフォーマンスは見ていました。

 そんな状態だったので、アングラ演劇を書いてくれと言われて何となくそういうテイストのところを見に行きました。でもお金がないので手伝う代わりにタダで見させてもらった。その縁で技術スタッフとして演劇部以外の劇団を手伝うようになり、そのうち俳優が足りないから出てくれないかと言われ、気づいたら出演するようになっていました。
それがきっかけで、本格的に演劇をやりたいと思うようになったのですか。
 将来は作り手になりたいとずっと思っていたので、アルバイトとして長く働いていた博物館の模型を作る会社に正社員として就職するつもりでいました。そういう気持ちでいた大学4年生くらいのときに、偶然、インターネットで「ハイバイドア」という、ハイバイ(岩井秀人が主宰する劇団)が使っていた舞台美術の写真を見かけてすごく面白いと思いました。空中にドアノブだけが浮いていて、ドアノブだけで空間を想像することができる。僕はデュシャンの《泉》という便器の作品が好きで、それは既存のものから違う風景が見えるのがすごいと思っているのですが、「ハイバイドア」にもそういう力があると思いました。

 それでその実物がどうしても見たくなって、ハイバイの公演を手伝いに行きました。とにかくあのドアを動かす瞬間が見たくて、ずっといつ出てくるんだろうと思いながら見ていた。そのとき手伝った『おとこたち』という作品に、結局、「ハイバイドア」は出てこなかった(笑)。それがきっかけでハイバイを手伝うようになりました。

 そしたら翌年の3月、大学を卒業するタイミングで、三重県総合文化センターで25歳以下のメンバーで演劇をつくるミエ・ユース×ハイバイ「ミエ・ユース 演劇ラボ」という企画があると。4月には就職するつもりでいたので、これで舞台の創作を最後にしようと思い、参加しました。

 それは岩井さんがファシリテーターを務め、参加者が自分の体験を元にして脚本を書いて演劇をつくるという企画でした。そこで「ゆうめい」を一緒にはじめた俳優の田中祐希と出会いました。ミエ・ユースが終わった後、田中くんが劇団をやりたいと声をかけてくれて、働きながらでもやれるんじゃないかと思ってはじめました。
「ゆうめい」は田中さん主導だったのですね。
 そうですね。演劇は大勢の人と作るから、自分の意思ではないものが加わって何かが作られていく。そこが面白いと思います。自分の作家性を出すなら一人で出来る彫刻とか小説とかをやればいい。それで「ゆうめい」では、一緒にやりたいって言ってくれた田中くんと組んで何かを作ることをやろうと2015年に設立しました。

 彫刻を続けたい気持ちもあったので、記念受験ぐらいのつもりで大学院を受験したら受かった。それで結局、就職はやめて大学院に行きながら「ゆうめい」をはじめました。
池田さんはゲームなどのシナリオの仕事もされています。
 実は脚本の仕事は演劇とは関係ないところからいただいていました。アニメの二次創作を書いていたものを脚本家の事務所の人が読んでくれて、うちの事務所に入らないかと誘ってもらいました。それで所属した事務所からゲームのシナリオや、『ウマ娘』(*2)みたいなアニメの脚本の仕事もいただくようになりました。
田中さんとはじめた「ゆうめい」の作風にはハイバイからの影響を強く感じます。
 ハイバイはもちろん一緒に作品を作ってそこで過ごした時間も長かったので、作風が似ていると言われるのはわかります。でも、「ゆうめい」は田中くんや関わってくれる人と何か作りたいということが先行していたので、自分のオリジナルの作家性みたいなことはあまり考えていませんでした。そもそも演劇をやっているのも大学の演劇部からの延長で、そういう意味ではハイバイよりも大学の演劇部とかとの繋がりの方が深いなとも思っています。
初期の「ゆうめい」はどんな作品をつくっていたのでしょうか。
 最初にやった『俺』(2015)という作品は、アニメの二次創作の話を元にして作りました。当初は僕が作・演出を担当することも決まっていなくて、田中くんが脚本や演出やりたいなら僕は演劇部で経験があるから舞台監督をやってもいいよみたいなノリでした。ミエ・ユースの延長で、自分たちの話を演劇にしたらいいかもしれないと思っていたのですが、田中くんが書けないというので僕が書くことになりました。

 「ゆうめい」の初期は完全なフィクションを書いていて、たとえば『カッドォン』(2015)はドラマーを主人公にした映画『セッション』の内容を「太鼓の達人」というゲームに置き換えたパロディでした。また、『フェス』(2016)は絶対にパンツだけは脱ぎたくないヌードモデルの話で、結構ふざけた話を書いてましたね。
でも次の『弟兄(おととい)』(2017)では池田さん自身の話が元になっていました。池田さんが中学校時代に味わったいじめを巡る話で、学校名もいじめっ子の名前もすべて実名で、自分をいじめていた加害者たち全員から許可をとって上演した異色作です。
 『弟兄』も最初はフィクションを書こうとしていました。でも、公演の準備をしている時期に昔のいじめっ子に出会うという衝撃的な出来事が現実に起きてしまって、そこを書かないわけにはいなかくなったというのが正直なところです。
そこから「ゆうめい」はドキュメンタリー的な方向の作品が多くなっていきます。
 『弟兄』の次にやった2017年の『〆(しめ)』(ピンクサロンのボーイたちが休憩中に一番最悪な将来を予想し合う話)は自分のことではありませんが、モデルになった人と一緒に台本を書きました。その人には自分の存在はなるべく表に出さないでもらいたいと言われていたので、当時は公表していませんでした。

 こういう作風でやっていると、全然知らない人から急に「自分の話を演劇にしたいんですけど「ゆうめい」でネタになりませんか」ってメールが来たりする。他人の話を聞いてそれを作品化するということになると、それは自分がやっていいものだろうかと思ってしまうところがあります。でも、モデルになった人と一緒なら自分のことじゃなくても書けるんじゃないかと思いました。

 そういう人がいると、内容だけじゃなくて、美術についてもこういう使い方がいいんじゃないかみたいな意見が出てきたりして、自分が一人で演出する感じじゃなくなってくる。自分が題材として扱う人からの言葉を伝えることが演出の役割というか、自分の演出法になります。
池田さん自身の実体験をもとにした作品が多いのは、自分の話だったら作品化することに責任が持てるからということでしょうか。
 そうですね。でもそれについてもこれだったらオッケーみたいに思っているわけではなくて、どうすればいいんだろうとずっと考えています。自分の話だからといって自分だけが出てくるわけではないですし。

 『弟兄』をやったときは「ゆうめい」のお客さんもそれほど多くない頃で、そういうときにあの作品をやって面白がってもらえた。それで「ゆうめい」としてこの方向を模索した方がいいんじゃないかと思ったところがあります。一方で、リアリティショーみたいなものを見たいと思ってしまう人間の習性を利用しているような気がして。それが自分の手法みたいになってしまうのは何か違うなと‥‥。これを続けていると取り返しがつかないことになる可能性も大いにあるなと、ずっと考えていました。

 『弟兄』は僕がいじめられた体験をもとにしていて、ある意味では作品を通して加害者を告発しているような側面もある作品です。初演を見たお客さんのなかには「いじめの加害者が自殺したらどうするんだろう」というような感想を言う人もいました。改めていろいろなことを考えましたが、結局、2020年の再演では初演で出していた実名は伏せることにしました。

 自分としてはあくまで舞台上で演劇というフィクションを提示しているつもりなのですが、作品で提示されたものだけを根拠に現実の方が判断されてしまうことはある。それはまずいなと思いました。作品では描かれていない出来事もいっぱいあるのに、それを2時間にまとめてある種の見世物にしているし、自分の視点から描いた部分がどうしても大きくなっていますから。

 それで『弟兄』以降は、現実に起きたことをただの題材とか客寄せパンダのように使うのではなくて、「自分たちが現実にどうアプローチしてどう変わったか」「自分たちがやったことがこうなりました」ということを発表した方がいいと考えるようになりました。
「父子の展示・公演」と冠された『あか』(2018)では、池田さんのお父様も出演されています。ある意味、ますます現実を題材として利用しているようにも見えますが‥‥。
 実は『あか』では、祖父の絵を展示する企画が先にありました。絵画をやっていた祖父が絵の展示をやって欲しいと言い残して亡くなったのですが、なかなか実現できなかった。それで新宿眼科画廊だったら展示できるんじゃないかという話になったときに、その展示をやっている人たち、その絵を描いた画家の家族がどういう人たちなのかを見せる公演をやったらいいんじゃないかと。それと、大学の頃に演劇をやっていた父が「またやりたい」と言ったので、出演することになりました。

 なので、この作品は、自分と父、父と祖父の話をもとにしたフィクションであるとともに、舞台に立っている人の現在のドキュメンタリーというか、作品のなかで描かれていることの続きが舞台の上で現実に展開するところを見せたいと思ってやっていました。それなら「本人」が出演する演劇を成立させられるんじゃないかと思いました。
『あか』をリクリエイションした2022年の『あかあか』では、さらにその先の現実を舞台の上で展開した?
 最初は『あか』を再演するつもりでした。でも、再演を決めた後に祖父の絵を処分することになり、ただの再演じゃすまなくなった。『あか』を再演し、プラスアルファでその後を描くという選択肢もありました。でも、絵が処分されてしまうという現実を前にして、残されたものがいつまでも残せるわけではないみたいなことが、全体的なテーマとしてメンバーと共有されていきました。

 絵を展示することを前提に演劇を作るのと、絵が処分されることを前提に演劇を作るのとでは、全然違う作品にならざるを得なかった。絵を保管していた家が老朽化で解体されることになり、保管のために倉庫を借りると多額のお金がかかる。そうなったときに、残されたものをどうするのか。そういう、ある人の死後を生きている自分たちが残されたものにどう向き合うのか、ということを考えながらクリエーションしました。
あかあか
あかあか

ゆうめい『あかあか』
(2022年5月28日〜6月5日/川崎市アートセンター アルテリオ小劇場)
撮影:佐々木啓太

家族の話をもとにした作品を上演することで、ご自身の家族との関係は変わりましたか。
 『弟兄』を母が見に来たのですが、僕がいじめられる場面を見てゲラゲラ笑ってたんです。もちろん笑える場面として書いてはいますが、自分としては「親なのに笑えるんだ」と思っちゃいました。後で話を聞いたら、フィクションとして作ったものなんだから、リアルな話じゃなくて作品として見るようにしたって言うんです。それを聞いて、母親にも母親じゃない視点があるということに気づけた。向き合い方が変わることにより、その人の見え方が変わることがあるのを発見し、何かサッパリしたみたいなところがありました。

 書いているときは、これを見たときに書かれた相手がどう感じるかを想像することがモチベーションになっているところもありました。相手の意識を変えよう、変わってもらいたいと思って書くのですが、結局そんなに変わらなかったりする。相手がどうこうというのではなく、むしろ自分が気づいてなかったことに気づかされることの方が多かったです。

 一方、作品を書いて上演することで変化する現実というのも確実にあります。『〆』のモデルになった人とはそれ以来ずっと交流が続いていますし、『弟兄』で描いたいじめの加害者、向こうからしたらそれを書いた僕の方が加害者になるのかもしれませんが、逆にそういう人と親交が深まるようなことも起きている。フィクションの題材にした人との関係が現実で大きく変わったとき、自分はフィクションの題材以上のものとしてその人たちと向き合えているだろうかと、改めて考えるようになりました。
『あか』『あかあか』ではお父様のことを中心に描いていたのに対し、『姿』『娘』(2021)ではお母様というか、母という存在が物語の中心になっていました。
 『姿』という作品は『あか』で父が出ているのを見た母が、「男だけで好きなことをやってる。私の方が面白い話ができる」みたいなことを言い出して。じゃあ何か一緒に作ろうと、話を聞くところからはじめました。そうしたら、ちょっと話はじめるとあっという間に3時間。それだけ話すのは何かがあるわけで、それをまずはメモして、そこに子どものときの自分の目線を合わせるようなかたちで書きました。書き上がった戯曲を見せたら、「これは話すのはいいけど、書かれるのはイヤ」みたいなこともでてきて、母とやりとりしながら修正というか、フィクションにしていきました。

 そうやって出来上がった『姿』を見て、母も「自分は変わった」みたいなことを言う。息子の手前、そう言ってくれたところもあるとは思いますが、実際に母は公務員を退職した後、展示などを行う事務所を立ち上げたいと。実は『あかあか』の公演が終わった後、祖父の絵を展示する会を母の主催でやりました。今は母からその事務所の立ち上げに関わってくれないかと誘われています。

 現実の家のことを作品にしたら、親とはすごく話しやすくなりました。親子の関係じゃなく、仕事というか、同じ作品を作る仲間として話すことで、接する態度も変わってくる。そうやって役割が変わることで、関係が変わるというのは大きな発見でしたね。
姿
姿
姿

ゆうめい『姿』(再演)
(2021年5月18日~30日/東京芸術劇場 シアターイースト)
撮影:佐々木啓太

娘
娘
娘
娘

ゆうめい『娘』
(2021年12月22日~29日/ザ・スズナリ)
撮影:佐々木啓太
(→今月の戯曲『娘』

「ゆうめい」の作品では一人の俳優が複数の役を演じたり、作中で役を交換したり、役割が変わるということがよく行なわれていますよね。
 複数の役を兼ねることで広がりが見えると思っていて。それは配役の面白さというより、複数の役を演じることを通して、それを演じている俳優自身がどういう人なのかが見えてくるのが面白いと思っています。父本人が出ている舞台上で俳優がその父を演じると、父の見え方が変わったりするのも面白いですよね。

 でも、現実では全部の役割が変更可能なわけじゃない。そもそも変えられない「役」を持った人も当然います。役割を変えてみることでその人自身の変えられないものや、変えられないものを持っている人の存在に気づけるようになるといいなと思います。
初期の作品では俳優が「池田亮です」と言って作品がはじまるパターンが多かったと思います。あの名乗りもそういう役割への意識から来るものでしょうか。
 『弟兄』のときは、現実の話を舞台に上げるのに、それは現実と地続きだけど現実とはやっぱり違う、ということを示そうとして俳優に「池田亮です」って名乗ってもらいました。2ちゃんねるに書き込みをすると「名無しさん」という名前というか、匿名が表示されるんですが、舞台上で名前が与えられるのはあれに近い効果があるんじゃないかと思っています。
池田さんの作品で出演する俳優自身の人生を役として組み込むこともあるのでしょうか。
 戯曲を書く段階ではしていませんし、演出をするときも俳優自身の記憶を思い出して演技をしてくださいみたいな指示はしません。演技をするなかでどうしても本人の何かが出てくることはあると思いますが、それは劇場のなかで、俳優が身につけた技術を使って演技をするときに起きることなので、普段話しているときのリアルとは違うものだと思っています。
作品の作り方についてお聞きします。作品づくりはどこからスタートするのでしょうか。
 実は、美術先行で作っていくことが多いです。『弟兄』でも、最初にあったのはテーマとか物語ではなくて、標識みたいなポールみたいなものが舞台上に立っているイメージでした。
その舞台美術から物語を立ち上げていくのですか?
 「ハイバイドア」もそうですが、それが存在することによって何か周りの風景が見えてくるみたいなことが面白いんです。たとえば日々の生活のなかですごく記憶に残っている形状のものとかからイメージをスタートする。そこから話を広げていくと、描きたいと思っていた物語とは別の世界、自分とは全く別の存在に行き着けるのではないかと。

 なので、美術はそれだけで独立して見ることができるものがいいなと思っています。たとえばある舞台を見て、わけがわからないと思っても、物語とは関係ないところにある何かを楽しめるということはありますよね。ちょっとしたものやことで偶然に近い形で見え方が変わるようなことを、舞台の上に求めているんだと思います。美術はもちろん意図を持って持ち込んでいるものではありますが、それによって自分の意図ではないものも舞台上に持ち込みたいんです。

 もう少し具体的に言うと──。母にトラウマになるレベルで怒られたことがあったのですが、そのとき母の身につけていた赤いマフラーが妙にはっきりと記憶に残っていたんです。後で調べてみたら、それはおばあちゃんの手編みのマフラーだった。それでトラウマが消えるわけではありませんが、おばあちゃんは母に手編みであんな綺麗なマフラーを作ってあげたんだ、みたいな‥‥。怒られたこととは別の角度でその出来事を思い返すことができる。そうやって視点を変えることで、一つのことへの執着や、固定されてしまった関係を変えることができるんじゃないかと思っています。
ずっと池田さん自身が舞台美術を手がけていましたが、最近は山本貴愛さんに変わっています。
 ずっとやっていると、どうしても脚本と美術を同時進行で考えるようになってしまって。僕は舞台美術に公園のようなイメージを持っています。演出家と俳優はそこに用意された遊び遊具でどう遊ぶかを試すことになる。自分が一から考えた遊び場だと、提案できる遊び方がやっぱり狭くなる。でも貴愛さんが提案してくれた美術だと、自分も新しい遊び方を提案できるし、演出家が正解を持っているわけじゃないという前提があることで、俳優からも提案が出やすくなる。そうすると、自分一人で作るより作品に広がりが出てくるんです。
美術のイメージが先行した後、戯曲の執筆はどのように進めるのでしょうか。
 何となくの作品のイメージとか、こういう人たちが出てくるみたいな設定がある程度あり、それをもとに取材する人を決めて話を聞いていきます。それから自分なりに書いてみる。出来事を時系列で書くところからはじめ、そこから、たとえば『姿』のときは取材対象の母に読んでもらったり、出演者に読んでもらって、ダメ出しをしてもらいます。

 「ゆうめい」では、ダメ出しというのは演出家が俳優に出すものではなく、取材された人や出演者などが劇作家にするもののことを指します。いつも同じやり方というわけではありませんし、それがいいのかどうなのかもずっと思案しています。
稽古はどのように進んでいくのでしょうか。
 稽古では演技にオーダーを出すというよりは、今度はこっちで演技をしてみてくださいという感じで、演じる人とかものの空間的な配置を変えて、見え方を変えてみるようなことを試していることが多いです。そのなかにはもちろん、舞台上の美術に対してどうアプローチするかも入ってきます。

 演技にはあまりダメ出しをしないので、逆にもっと言ってほしいと俳優からは言われます。でも自分としては俳優の役づくりとか、演じる作業に演出がそこまで介入していいものかと悩むところもあって。演出は俳優が出してきたものをどううまく見せるか、そういう見せ方を考えるのが仕事だと思ってるところがありますね。
ものや人との関係のとり方には、同世代の他の作家との共通性も感じるように思います。
 たとえばヌトミックの額田大志さんとスペースノットブランクの中澤陽さんは同じ92年に生まれていて、たとえばネットに対する感覚とか共有できるものが多いと感じています。スペースノットブランクに原作を提供した『ウエア』『ハワワ』では、文字以外のものも戯曲にできるかもしれないよね、ということで、テキストだけではなく映像や音楽、エクセルやパワーポイントのデータを戯曲として渡しました。感覚が共有できるからこそそういう実験ができるところはありますね。
2023年4月に予定されている新作『ハートランド』について教えてください。
 新作は映画館で本編の前に流れる「映画泥棒」(盗撮防止を訴えるマナームービーもしくはそこに登場するキャラクターの俗称)がモチーフの一つになっています。あれを見るといつも、映画を泥棒する人の人生ってどういう人生なんだろう、と考えてしまうんです。

 というのも、『あかあか』で作品を残すことができないという話をやって、物語も、書き終わってしまったらその続きは書かれないなと、気になったんです。自分も、何かを題材にするその時はそのことを書きたいと思って向き合いますが、次の作品をつくるときには前の作品のことは忘れている。それに気づいたときに、自分はその出来事を作品のための素材として扱っていたんだという、自分の暴力的な部分に直面させられました。それは映画の予告編にも通じるところがあって、本編を見ない限り、予告編の登場人物たちがその後どうなったのかを知ることはできない。本編を見て、本編より更にその後どうなったのかの想像が作品の評価だけではなく、モチーフとなった現実へ繋がっていくにはどうするべきかを考えています。

 もう一つのモチーフはNFT(Non-Fungible Token:非代替性トークン)です。最近は自分が体験した酷い話をNFTにして売っている人や、YouTubeでそういう体験を話して収入を得ている人がいます。Twitterで酷い体験談がいっぱいリツイートされたりするのもある種野次馬的な興味があるからですよね。そうやって体験談を話して収入を得られる人もいれば、一銭も得られない人もいるし、一方で誰にも相談できない人もいる。

 『ハートランド』はこういうことをモチーフにした完全なフィクションにしたいと思っていますが、現実を素材に演劇をつくってきた自分を批判的に見るような作品にもなると思います。

*1 ネカマ
真偽が確認できないネットワーク上で、男性が女性のように振る舞うことを意味するスラング。

*2 ウマ娘
Cygamesによる競走馬を擬人化したスマートフォン向けゲームアプリとPCゲーム。育成シミュレーションゲームで、キャラクターを育成してレースでの勝利を目指す。ゲームを原作としたアニメ作品も大ヒットした。