1945年3月10日、東京大空襲の日に生まれた田中泯は、東京・八王子の里山近くで育った。ひとり遊びの好きな「物言わぬ子供であった」が、やがて盆踊りや神楽や浪花節、河原芝居や三河万歳に夢中になる。10代になって日本文学を愛読し、シュルレアリスムにも傾倒。その後、バスケットボールの五輪チームに憧れて強豪・東京教育大学(現・筑波大学)に入学するも、挫折してクラシックバレエとモダンダンスを学びはじめる。
1966年からソロダンス活動を開始。様々な場所で、パフォーマンス(行為)を多々行い、1974年に「裸体を衣裳として」選ぶ。この時代に共闘者となる木幡和枝、松岡正剛と出会う。1978年、松岡との関わりの中で発見した「身体気象」という言葉を用いた「身体気象研究所」を、八王子に創設。同年、作曲家の武満徹と建築家の磯崎新が企画監修し、パリで開催された『「間」 - 日本の時空間』展に招聘され、3週間にわたって踊りを披露。これを契機に多くの交流が生まれ、「裸の田中泯」は欧米の知識人や舞台芸術ファンの間で広く知られるようになり、各国で踊るようになる。
1981年に舞踊グループ「舞塾」結成(1997年解散)。1982年、東京・中野に表現者が共同運営する実験的なスペース「plan-B」を創設。自身の公演のほか、話芸、シンポジウム、トーク、音楽ライブ、展覧会、上映会、演劇、ダンス公演など多種多様なイベントを開催する。開設前に雑誌『遊』に土方へのオマージュ「地を這う前衛」を寄稿。これが縁となって、土方に振付を依頼した『恋愛舞踏派—定礎』を発表する。
1985年には山梨県白州に移住し、「身体気象農場」と称して踊りと農業に従事。1988年からは同地で野外芸術祭を主催し、国内外の芸術家に発表や協働の場を提供した(1997年には同地に国内の民俗芸能、伝統芸能、世界中の民族芸能の資料収集などを目的とした「舞踊資源研究所」を立ち上げる)。
2002年、山田洋次監督の映画『たそがれ清兵衛』に出演。以降、映画やテレビドラマでも注目を集めるが、「本業」はあくまで踊り。2004年にインドネシアの島々を踊りながら45日間旅して以後、日常のさまざまな「場」で即興的に踊る「場踊り」を各地で展開する。
長年にわたり、音楽家のセシル・テイラー、デレク・ベイリー、ミルフォード・グレイヴス、ライコ・フェリックス、タチアナ・グリンデンコ、ウラジミール・マルティノフ、小澤征爾、山下洋輔、高橋悠治、灰野敬二、大友良英、坂本龍一、哲学者・作家のミッシェル・フーコー、フェリックス・ガタリ、ロラン・バルト、スーザン・ソンタグ、中上健次、寺田透、美術家のリチャード・セラ、カレル・アペル、ジャン・カルマン、原口典之、中谷芙二子など、多くのアーティストや哲学者と親交を結び、協働した。
2020年1月からTHEATRE E9 KYOTOで「言葉以前の感覚に満ちたオドリ場をつくる」というソロ公演のシリーズをスタート。同年12月には劇場公演として松岡正剛とタッグを組んだ『村のドン・キホーテ』を東京芸術劇場で発表した。また、2022年1月には、映画『メゾン・ド・ヒミコ』への出演をきっかけに親交を重ねてきた犬童一心監督が、2017年8月から2019年11月まで田中泯を追い続けたドキュメンタリー映画『名付けようのない踊り』を公開した。