平田オリザ

現代演劇界のニューオピニオンリーダー 平田オリザに聞く

2007.03.23
平田オリザ

平田オリザOriza Hirata

1962年東京生まれ。劇作家、演出家、青年団主宰。こまばアゴラ劇場芸術総監督、城崎国際アートセンター芸術監督。大阪COデザインセンター特任教授、東京藝術大学COI研究推進機構特任教授、四国学院大学客員教授・学長特別補佐、京都文教大学客員教授、(公財)舞台芸術財団演劇人会議理事長、富士見市民文化会館キラリ☆ふじみマネージャー、日本演劇学会理事、一般財団法人地域創造理事、豊岡市文化政策担当参与、奈義町教育・文化の町づくり監。
16歳で高校を休学し、1年半かけて自転車による世界一周旅行を敢行。世界26カ国を走破。1986年に国際基督教大学教養学部卒業。在学中に劇団「青年団」を結成。大学3年時、奨学金により韓国延世大学に1年間留学。
「現代口語演劇」を提唱し、1990年代以降の日本の現代演劇界に多大な影響を与える。海外公演に意欲的に取り組み、フランス、韓国、中国との国際共同制作も多数。2008〜2013年にBeSeTo演劇祭日本委員会委員長。また、民間小劇場のこまばアゴラ劇場の経営者として若手演劇人を育成。演劇によるコミュニケーション教育、大学における演劇教育など演劇教育分野でも目覚ましい成果を上げる。公立劇場芸術監督を務め、「芸術立国論」(2002年発行)を著すなど、国や自治体の文化芸術による公共政策をオピニオンリーダーとして牽引している。
受賞歴:1995年『東京ノート』で第39回岸田國士戯曲受賞したのをはじめ、2019年『日本文学盛衰史』で第22回鶴屋南北戯曲賞受賞するなど作品の受賞歴多数。2006年モンブラン国際文化賞受賞。2011年フランス国文化省より芸術文化勲章シュヴァリエ受勲。

青年団 公式サイト
http://www.seinendan.org/

「現代口語演劇」を唱えて90年代の小劇場演劇をリードし、劇作家、演出家、民間小劇場の経営者、公立ホールの芸術監督、大学の教授などマルチに活躍。韓国、中国、フランスとの共同制作などにも積極的に取り組む44歳のニューオピニオンリーダー、平田オリザのロングインタビュー。
聞き手:扇田昭彦
平田さんは、1962年生まれで、まだ44歳です。しかし、劇作家であり、演出家であり、劇団青年団を主宰し、東京の民間の小劇場である「こまばアゴラ」の経営者・責任者でもあります。加えて、今年3月までは埼玉県内にある公立ホール、富士見市民文化会館キラリ☆ふじみの芸術監督を務められ、昨年4月からは大阪大学コミュニケーション・デザイン・センターの教授に就任‥‥と、ものすごく多彩な仕事をされています。このような演劇人は他にはいません。
 こうやって肩書きが並ぶと、まるで発展途上国のパワーエリートみたいですね(笑)。そういう人は大臣と芸術家を兼ねているなど、何でもやるでしょ。まだ、日本は芸術の領域では発展途上国だから、こういう僕のような変な奴がでてきても仕方がないんだろうなと、自分を納得させています(笑)。
いずれにしても周りの理解があるからできていることです。阪大も研究職に近いポジションなので授業をやる義務はないですし。ただ、学生と接する機会がないとつまらないので授業やゼミはやりますが‥‥。阪大の前に、桜美林大学の総合文化学群演劇専修の立ち上げから携わり、6年ほど教えました。最後は学科長のような立場で500名近い学生に対応していたので、その頃に比べるとずいぶん楽になりました。
コミュニケーションデザインというのは何ですか? 平田さんは何をされるのですか?
 説明するのが大変なのですが、簡単に言うと、僕がやるのは、医者、弁護士、学者などを志す理系の学生に演劇を通じてコミュニケーション能力を身につけてもらうためのプログラム開発です。いずれは、ここで開発したプログラムが必須になり、入試制度自体も変えていければと思っています。
「コミュニケーションデザイン」というのは非常に新しい考え方です。例えば、医者のコミュニケーション能力が不足しているからといって、スピーチがうまくなる指導だけしても問題は解決しません。診察室の椅子の位置、壁の色、採光といった患者さんが医者に質問をしやすい空間づくり、医療過誤が生じにくい組織づくりなど、コミュニケーションの観点から建築、組織、機器などあらゆるデザインを行なうのがコミュニケーションデザインの考え方です。
それはまさに演劇がやっていることと同じです。演劇空間ではコミュニケーションを図りやすい場をつくり、そこにお客さんを呼び込み、何時間か過ごしてもらう──コミュニケーションデザインにおいて演劇的な知恵を活かせる部分はたくさんあります。
学際的なアプローチですね。
 そうです。例えば、これから行っていきたいプロジェクトのひとつに介護用ロボットの開発をしている研究者との作業があります。介護用なので機能だけでなく老人が安心できる親しみやすさが求められます。ホンダのロボット、ASIMOは、押しても倒れずに二足歩行するのがウリですが、これから私たちがつくろうとしているのは、押すとよろけるし、言い間違えをするようなロボット。そのために言語学者や認知心理学者なども参加してきますが、言語学者がどんなに一生懸命言葉のサンプルを集めても、僕が書いた台本の方がよほどリアルなんです。
今までの学問のあり方は、ノイズを排除していく方向にあるので、機能的な反面、私たちがリアルに感じるランダムなものを数値化し、数式にすることが苦手なのだそうです。特に言語の部分は変数が多すぎて難しい。そこで、最後のところは芸術家に頼らざるをえないというのが、最近の大脳生理学、認知心理学、言語学者らの一致した見解になっています。
そこで、僕が演劇で表現してきた「現代口語演劇」が活きてくる。今、なぜこれがリアルに感じられるかを認知心理学の学者が研究しています。彼らは奥ゆかしいので、芸術家のやっていることの1パーセントぐらいしか解析できないと言いますが、それでもロボットやコンピュータをつくる時には随分改善されるようです。
この他にも平田さんが携わっているプロジェクトがありますか?
 もう一つが来年の秋から始める予定の「コミュニティカフェ」です。場所は、大阪の中之島に新しくできる地下鉄の駅の中です。普通にカフェとして営業しながら、午後5時半から2時間だけ、阪大の哲学や先端科学や経済の先生たちが参加して、愛とは何かとか、尊厳死は許されるかとか、熟年離婚はどうだとか、いろいろなテーマで議論をする。駅の真上が証券取引所なので、金融の話の時には証券マンが議論に加わるかもしれないし、そういう一般の人と対話できる場にしたい。
フレキシブルに使えるような空間にするために、ランドスケープの専門家やデザイナーと僕が一緒にカフェのデザインの段階から関わっています。土日は乗降客が少ないので、ダンス関係のNPO法人Dance Boxなどと共同でアートスペースとして運営する予定です。
最近、大学はサテライトキャンパスといって、駅前に教室を開いたりしていますが、あんなものは学生を獲得するために利便性を追究しているだけであって、知の社会還元でも何でもない。そうではなくて、まちの中に強制的に知を開いていかないとダメだ、といったことを言うのが最近の僕のイデオローグとしての役割です。
お話をうかがっていると、今までの日本の演劇人では考えられない広がりですね。ところで、平田さんは自らの劇世界を「現代口語演劇」と名付けられています。これは、「静かな演劇」と呼ばれる、平田さんを中心とした90年代以降の日本の現代演劇の新しい動きになっています。「現代口語演劇」について、平田さんご自身の言葉で説明していただけますでしょうか。
 起点をどこにするのかの問題はありますが、日本には80年なり、100年なりの近代演劇の歴史があります。その歴史の中の、僕は主に2つのことを問題にしてきました。
1つが西洋演劇を直輸入する過程で、戯曲の書き方まで直輸入してしまったのではないかということ。もう1つが、演劇がイデオロギーの支配から抜けきれなかったために、思想や主義主張が先行して言語の問題が後回しにされ、劇言語がイデオロギーに奉仕するようなものになっていたのではないかということです。ちなみに、ここは意見の分かれるところですが、新劇だけではなく、60年代以降の小劇場演劇についてもイデオロギーの支配から抜けきれていないというのが僕の見解です。
西洋演劇を輸入したのは仕方のないことですが、音楽、文学など他のジャンルに比べて輸入の時期が若干遅かったのと、民間レベルでメチャクチャな形で入ってきて──それはそれでよかったところもありますが──組織だった輸入ではなかったために成熟する期間をもてなかったのは、近代芸術としては致命的だったと思います。
こういう日本の近代演劇の出生が他のジャンルと全然違うことを、日本の演劇人はきちんと踏まえていかなければならなかったのですが、多分、このことについて筋道を通して話す、著作として記述するということまでをしているのは僕ぐらいだという自負はあります。
つまり、僕たちのやってきた「現代口語演劇」は、書き方まで直輸入され、イデオロギーに奉仕するようなものになっていた劇言語を、言語の側から再構築する運動だったというのがその本質だと思います。
わかりやすい例を上げると、それは「語順」や「アクセント」の問題ということになります。日本語は語順が自由なので、日常の会話では強調する言葉を前にもってきて繰り返し喋ります。しかし、それを固定して、文語調の語順でセリフを書いてきたために、俳優は変な、本来日本語にはない強弱アクセントを入れなければ喋れなくて、それが上手い人が名優と呼ばれてきました。
日本語のようで日本語ではない奇怪なシステム──これは小林秀雄が西田幾多郎のことを称した言葉ですが、そういうシステムで書かれた日本語の台詞をどう上手く言うか、その前にまさに翻訳調と言われた翻訳劇を、どうねじふせるかが俳優術であり、台詞術であるとされてきたわけです。
まあ、それはそれで仕方がなかった部分もあると思いますが、そうされてしまったところを、「いやそうではなくて戯曲の書き方の問題なんだ。語順を変えれば言いやすくなるし、強弱のアクセントを付けなくてもよくなる」というのが、「現代口語演劇」のシンプルだけど最大の発見だったと思います。
そのことによって、「現代口語演劇」とか「静かな演劇」にカテゴライズされる劇作家の文体はもう本当に変わったと思います。80年代までの文体で書かれた芝居を見ると、なんとなく古くさい感じがしてしまう。もちろん、何か特殊な様式性が伴っていれば別ですが、かつての演技スタイルでは、リアルな感じが持てなくなってしまった。もうそのことにはみんな気づいているのではないでしょうか。
それと同時に、「現代口語演劇」が目指したもう一つのことが、無言劇の太田省吾さんも言われているように、「劇というのは人生の中の劇的な瞬間を集めたものではなく、それ以外の時間も劇を構成する要素になるのではないか」ということです。
僕の現代口語演劇がフランスで紹介された時に、断片の積み重ねのような劇言語が一幕ものの物語にまとまっていることにフランス人はものすごく驚いたようです。確かにそう考えると、日本人はそういうのがけっこう得意で、俳句なんてまさにそうですよね。「柿くへば鐘がなるなり法隆寺」なんて、柿と鐘と法隆寺はまったく関係ないけど、3つで1つの世界を構築している。それまでフランス人が断片とかコラージュとか呼んでいたものが、1つの連続した時間の中に存在する、ということがフランスではとても評価されています。
現代口語演劇のような劇言語について考え始めたのはどのようなきっかけからですか。
 僕は、84〜85年に1年間韓国に留学していて、その時に日本語の特質とか、なぜ日本の演劇の言葉がそうなっているのかなど、いろいろと考えました。しかしそれがすぐに自分の劇作に結びついたわけではない。少しずつ作風が変わっていった時に、たまたま東京乾電池の岩松了さんがアゴラ劇場で『台所の灯』という作品を上演されて、すごく衝撃を受けたというか、自分のやっていることがそんなに間違っていないということを感じた。それが最後の決定打となり、今のような形がほぼ完成しました。
戯曲の問題は、当然、俳優の演技にも関わってきます。「現代口語演劇」は俳優術においても大きな変革を起こしたと言えます。
 そうですね。ただ、ここは非常に説明が難しいのですが、「現代口語演劇」では、普通にしゃべるということになっちゃうんですね。じゃあ普通って何だよ、ってことになりますが、要するに今までの演劇が現実の日本語から離れたところで架空の世界をつくってそれを曖昧に美としていたのに対し、われわれは現実の日本語をテーマとしているわけで、そういう意味では、誰でも参加できる可能性があるというか、良い悪いは別にして誰でもやれそうに見えます。
普通にしゃべるという俳優術に関して、一つ言っておきたいのは、「意識の分散」ということです。しゃべるという行為は人間のさまざまな行為の一部に過ぎないので、セリフに集中するのではなく、意識を分散していくことを強く求めます。これが多分、「現代口語演劇」における演出上の新しい発見だと思います。こうした意識の分散については、チェルフィッチュの 岡田利規 さんの表現にもっとも継承されています。
ながいあいだ認知心理学の人と一緒に俳優の記憶のメカニズムについて研究していますが、優れた俳優ほど、例えばしゃべっている時に机の上の小道具がどういう配置だったかを明確に覚えていることがわかってきました。
オリンピックの体操選手は、自分の筋肉の主体的な動きを記憶しているのはもちろんですが、それと同時に天井や壁がどういう順番で目に入るかも記憶しています。そういう外界の視覚や聴覚の情報が自分の主体的な動きと密接に結びついているのです。俳優も同じような仕事をしているので、実は台詞に集中するより、それを言っている時に何が聞こえているか──僕の演劇では台詞が同時多発なので──何が見えているかを、記憶していくことが大切です。
よく上演する場所にセットを組んで稽古するのが一番良いといわれますが、それは慣れの問題だけではなく、この俳優の記憶のメカニズムによるところが大きいのだとわかりました。意識の分散という演出には、僕たちが劇場をもっていて、稽古場にも実寸のセットが組める環境があるというのも重要な要素だったと思います。
平田さんが「現代口語演劇」の先行者として意識している劇作家はいらっしゃいますか。
 日本語をすごく考えた演劇人という意味で、昔から名前を上げているのが、岸田国士、三島由紀夫、寺山修司の3人です。ただこの三人は、日本演劇史では、やはり傍流ですね。 それから直接的な影響を受けた人としては、別役実さん、太田省吾さんの存在が大きい。別役さんは大陸育ちで、そのためか戯曲の文体が人工語というか、どこの言葉でもない。日本の劇言語は、ああいう、どこにも所属しない言葉を一度通過する必要があったんだと思います。
太田さんについては、演劇、ドラマに対する考え方に非常に影響を受けました。それから直近では山崎哲さんの80年代の戯曲は、語順の問題などほどんど現代口語演劇の考え方に近いのではないかと思っています。山崎さんは一時、東京乾電池の演出をされていたのですが、その関係で岩松了さんにも影響を与えているのではないかと、僕は勝手に思っています。
平田さんのつくりだした現代口語演劇は海外でも高く評価されています。過剰に劇的なものを排したスタイルが向こうにとっても新しい発見だったのではないでしょうか。
 海外各地で公演は行なっていますが、僕としてきちんと仕事ができていると思っているのはフランスです。フランスでは有り難いことに、本当に熱狂的に受け入れていただいています。ちょうど今も『別れの唄』という新作が、フランス国内を回っています。
今までは日本で発表した既存の戯曲(『東京ノート』『S高原から』 『ソウル市民』 )の翻訳上演でしたが、『別れの唄』はティヨンヴィル=ロレーヌ国立演劇センターというルクセンブルグとの国境近くの小さな町にある国立劇場からの依頼で、フランス人の俳優のために初めて書き下ろしました。
フランス人俳優5人と青年団の俳優3人が出演します。青年団の俳優の内、2人はほとんどがフランス語のセリフなので、1年間勉強させました。片言のフランス語をしゃべる日本人という役だから、字幕は必要ありません。
1月末に初日が開いて、ティヨンヴィルで6ステージかな。ブザンソンで4ステージ、今はストラスブールで3週間やっていますが、チケットはすべて売り切れです。ストラスブールだけで5千人ぐらい集客したと思います。4月に日本公演をやった後、5月にパリでやります。
これは、以前、文学座に書き下ろした『月がとっても蒼いから』のフランス版みたいな作品で、お通夜の話です。突飛なことはなにもないホンワカとした話ですから、年配のフランス人のお客さんも普通の芝居として楽しんでくれています。山内健司がサンキューしかしゃべらない役で出演していますが、後半になると日本語のセリフの量が増えて、フランスのお客さんは暴力的にわけのわからない日本語を聞かされる。そこも含めて楽しんでくれているようで、自分で言うのも何ですが、フランスではほぼ劇作家としての地位を確立したように思っています。
フランスで評価されているのは、1つには、先ほど言ったように、断片なのに全体が繋がっているという、俳句のようだとよく言われますが、そういうところだと思います。特にフランス人は余韻とか、余白とか、沈黙の時間といったものが好きみたいなので。
もう1つの評価されている点が、海外でしばしば質問される三島さんとの違いです。それだけ三島由紀夫の存在が大きいということですが、三島さんは西洋の文学や戯曲を輸入してきて、それを究極の人工日本語をつくって表現した大天才だと思います。だから翻訳されてもその美学が全く崩れない。特に戯曲はそうです。
しかし、日本人が読むと、絶対にこんな風に論理的にはしゃべらないよ、どれほど頭のいい人がしゃべっているんだ、という感じになる。つまり、三島作品は形式(ロジック)は西洋的で、コンテンツはジャパネスクなんですね。
それに対して、僕のお芝居はコンテンツがグローバルで、コミュニケーションの形式がジャパネスクなんです。例えば、『東京ノート』のアメリカツアーの時に、「登場人物たちは日本人なのに、なぜ西洋の作家や絵画の話ばかりしているのですか」と質問されて、日本人はいつも着物を着て浮世絵の話ばかりしているわけではないと答えたことがあります。実際、私たちの現在の生活の中では画家と言えばゴッホであり、ピカソ、ルノアールであって、決して北斎ではなく、グローバルです。だから、僕の作品はどこで上演されてもわからないということはない。
ところが、コンテンツはグローバルなのに、しゃべり方はものすごく日本的なわけです。話題があちらこちらに飛ぶなど、ロジックの進め方も日本的です。『東京ノート』は、「で、結局、そのマヨネーズ、どうしたんですか」という台詞ではじまりますが、これにはみんなびっくりします。不条理劇かと思うとそうでもないのに、ヨーロッパ人からすると会話が不条理に飛んでいく。これがフランス人には快感らしい。
よく言うのですが、世界中がハンバーガーを食べてコーラを飲むようになっても、コミュニケーションの形式はそんなに簡単には変わらない。だからそこにある小さな差異を描写していくのが、多分これからの芸術家の仕事なんだと思います。
こうした僕の考え方がフランスで評価されているのは、EUという大きな枠組みの中で、民族や宗教の対立が切迫した社会問題になっていることと無縁ではありません。市場経済がローラーで押しつぶすように世界中を一色にしていくグリーバリゼーションに対し、私たちは一人一人違います、民族もそれぞれ違います、というところを芸術家として表現していくべきではないでしょうか。
自分の芝居は、日本的なしゃべり方だと言われましたが、例えばフランス人の俳優が演じる場合、どうなるのですか。
 彼らが特に興味をもつのは、「あー」「うー」などの相槌です。最初は一生懸命に真似ようとするのでわざとらしくなりますが、俳優の音楽性が高いのですぐになじんできます。シャイヨー国立劇場でアルノー・ムニエが演出した『ソウル市民』でもそうでしたが、音楽を奏でるように「うん」「あー」を入れて、すごく素直な演出でよかったと思います。
ムニエやフィスバックも言っていますが、フランス人が日本人を演じようとしても無理だから、無国籍にならざるを得ないだろうと。なので、例えばムニエの『ソウル市民』の衣装も非常に抽象的だけどアジア的に見えなくもないという感じで、とてもうまくつくっていました。
平田さんの代表作である「ソウル市民3部作」について伺います。第1作『ソウル市民』が1989年初演、第2作『ソウル市民 1919』が2000年、第3作『ソウル市民 昭和望郷編』が2006年12月に初演されて三部作が完結し、昨年12月に一挙に連続上演されました。
第1作は、1909年、日韓併合の前の年、2作目はちょうど10年後の「三・一独立運動」の時期、3作目が1929年10月、世界大恐慌が始まる直前と、ちょうど10年刻みの設定になっています。ソウルで文房具店を営んでいる篠崎家の繁栄から崩壊までが、韓国の政治情勢を非常にビビッドに映しながら描かれています。大変よくできた構成ですが、当初からこういう構想でスタートされたのですが?
 こんな三部作になるなんて想定もしていませんでした。本当に運がよかったと思います。第1作目は、植民地化する前の年ということで1909年を設定として選びました。篠崎家は日本人の家族だからソウル市民ではありませんが、あえてアイロニーを込めて『ソウル市民』という題名にしました。
戦争や植民地についての文学や戯曲はどこかステレオタイプのものが多くて、悪役の軍人や財閥が登場して、庶民はいつも虐げられる側で、例えば韓国の人たちはいつも抵抗運動をしているとか。そういうイデオロギーに先導されたようなことを書いていたら、逆に権力者につけ込まれてしまうだけです。それで、漠然とですがもっと現実を直視しなければと思って書きました。
僕にとって“市民”というのは、選挙権をもっていることを含めて、自由に選択できる余地の残っている人のことです。“ポイント・オブ・ノーリターン”という言い方がありますが、歴史にそんな地点はないと私は思っています。植民地支配からまだ引き返せた1909年という設定で、ソウルにいたもっともリベラルな日本人の家族が「ソウル市民」として植民地支配を支えた、という物語にしました。
本当に間抜けな話ですが、7、8年経ってから、「あ、これ10年後は1919年だな」と気づいた。他の作品でも10年後の設定で連作を書いていますし、じゃあ『ソウル市民』も10年後が書けるなと(笑)。もちろん『1919』を書いた時点では、3作目は想定していました。

当時の風潮の中ではインテリで良心的な方の日本人の家族を描いていますが、とはいうものの1作目では娘などが植民地意識丸出しの、韓国の文化をバカにしたような発言をします。普通はその流れの中で発言を咎めて丸く納めますが、庶民の責任を直視する『ソウル市民』では意図的に言いっぱなしになっています。韓国で公演された時の反応はいかがでしたか。
 93年の韓国公演はものすごく緊張しました。みんなで韓国語を修得して、韓国語で上演しましたが、当時は僕の劇団もあまり有名ではなかったし、“静かな演劇”という言葉もない頃だったので、何をやっているのか全く解らなかったようです。これは芝居なの?という感じで内容に言及されるところまでいかなかった。
その後、『1919』は、イ・ユンテク率いる劇団コリペという有名な韓国の劇団が上演してくれました。本当に心配で、「三・一独立運動をこんなにちゃかしても大丈夫か?」と彼に聞いたのですが、「大丈夫だ。俺がもっと面白くしてやる」と。僕も見に行きましたが、この時は最初から最後まで若いお客さんが大爆笑していました。
彼は、登場人物の半分ぐらいを韓国人、たとえば日本育ちの韓国人とか、どちらの国の人間にも見えるようにエクスキューズを入れながら演出していて、すごく巧いなと思いました。僕が行った時に会議があり、韓国の評論家などが集まっていたのですが、「この作品は韓国の劇作家によって書かれるべきだった」と言っていただいてとてもうれしかった。今度は、三部作ごと持って韓国公演ができればと思います。
ソウル市民は日本の植民地支配を題材にしていますが、どこの国にも自国の過去の植民地支配を正当化したがる人々がいます。その時には必ず他の国の植民地支配よりましだったと、他国との比較になる。でも、そうではなくて、それは植民地支配の質が、収奪型から殖産型になったなど質が変わっただけの話で他国の領土を支配していることは同じです。日本の場合は、同化型という変な支配の仕方をしたために、朝鮮の方々との精神的な関係を強くゆがめてしまい、それを修復するのに戦後60年を越えてもまだ清算できない。そういう植民地支配の悲惨さをそれぞれの国の芸術家が記述していくことはとても重要な事だと思います。
平田さんは海外との共同制作も行なわれています。2002年に新国立劇場で上演された『その河をこえて、五月』は、平田さんと韓国の劇作家のキム・ミョンファさんの競作でした。平田さんとイ・ビョンフンさんとの共同演出で大変評判を呼び、朝日舞台芸術賞のグランプリを受賞されています。
また、今年5月には、日本と中国との共同制作により『下周村(かしゅうそん)-花に嵐のたとえもあるさ-』が新国立劇場で上演される予定です。これは、香港で幕を開けた後、北京、東京に回られると聞いています。
日本では、劇作家として海外との共同制作をこれだけ手がけている人はいないと思います。そもそものきっかけを聞かせてください。
 栗山民也さんが新国立劇場の芸術監督になられた時に、作品制作の依頼がありました。しかし、僕は国立劇場だけが国の支援を受けるのはおかしい、公立や民間の劇場にも助成が出ない限り、新国立劇場には協力しないというスタンスでした。でも2002年の日韓共催ワールドカップに合わせた日韓友情年の記念事業で上演して欲しいと言われ、特別に引き受けました。
その代わり、今までにない枠組みでやりたいと、日韓両方で書いて、両方で演出して、俳優やスタッフも半々にしたいと提案しました。
僕自身は、海外との共同制作に興味があるというよりも、作家・演出家として多言語の演劇に一番興味があります。舞台上に様々な言語が飛び交っていて、しかもそれがきちんと成立していることに興味がある。それは日韓でも日仏でも日中でも同じです。
そのためには、戯曲を書く段階で相当に頑張らないとできませんが、今は字幕システムもよくなっているので、実験演劇のようなものではなく、来たお客さんに楽しんで帰ってもらえるようなものとしてつくりたいと思っています。
今までも確かに多言語が飛び交う演劇はありましたが、確かに実験的なレベルに留まっていたように思います。しかし、『その河をこえて、五月』は、韓国語の先生と日本人の生徒といった設定にも必然性があり、日本語と韓国語のコミュニケーションとして成立していた。こういう仕掛けなど、ミョンファさんとの共同作業はどのようなものでしたか。
 戯曲を共同でつくるのはものすごく大変な作業でした。3日3晩話し合いを行ない、24ぐらいの綿密なプロットをつくり、僕が映画の絵コンテのようなものを書きました。それを、1番〜10番までは僕、11番〜20番はミョンファ、21番〜24番はまた僕、と二人で割り振って書きながら、石川樹里さんという優秀な翻訳家を介して何度もやりました。僕は韓国語を読むぐらいはできるので、両方を照らし合わせることはできますが、ミョンファさんは日本語がわかりませんから。
こういうことはメールが発達したからできることだと思います。ある程度、まとまってきたところで、合宿して上演台本をつくりました。それから演出家のイ・ビョンフンさんと一緒に現場で直していきました。結局、共同台本をつくるのに1年ぐらいかかりましたね。
ティヨンヴィル=ロレーヌ国立演劇センターとの共同プロジェクト『別れの唄』は、僕が全部書きましたが、翻訳してもらった後、僕と翻訳家と通訳と演出家の4人で、これも3日間ぐらい合宿しました。それで、フランス人が喋るセリフが彼らの感性としてどうかをチェックしました。
『下周村』は僕が8割方書いて、李六乙が8割方演出するので、少し違いますが、いずれにしてもフランス人や中国人がしゃべる内容を予想して書く訳ですから、必ずパートナーがいてチェックしてもらうことが必要になります。
『下周村』の日中共同プロジェクトはどういう経緯で決まったのですか。
 2004年に香港芸術祭に参加した『東京ノート』がとても評判がよくて、最初は香港から何かやってくれないかと話がありました。ところがだんだん話が大きくなり、結局、僕もよく知っていた北京の李六乙が指名されて、北京で作品をつくり、香港、北京、東京で公演することになりました。
どういうストーリーですか?
 『下周村』は、『さよならだけが人生か』(1992年初演)という、工事現場で遺跡が発掘されて工事が進められなくなった飯場の一日を描いた作品を元にしています。今回はその中国版で、四川省で大規模発掘をしているところに歴史の教科書を塗り替えるようなすごい遺跡が出てきて、工事を進められなくなるという話です。四川省では、実際に黄河文明に匹敵するような文明の遺跡が発掘されているらしいですが、インチキだという人もいて本当のところはわかりません。
李六乙と相談したのは、当然、日中だから歴史問題は避けて通れないし、そのつもりもない。ただ、戦争や侵略の話を書いても教条的になってしまうし、書けない事もたくさんあるので、もっとスパンを長くして古代史の話にしようと。それで、『下周村』を、かれこれ300年ぐらい前から埋蔵品の偽物をつくってきた村で、その周辺から遺跡が発掘されるという設定にしました。
300年前につくられた偽物は偽物ではないのではないか、歴史なんてものは非常に人間の恣意的なものでどちらにでもころぶのではないか、と、現在の日中の間のもろもろのことを遠くから眺めて皮肉るような歴史劇をつくろうと思いました。
今回も日本語と中国語で会話が交わされると思いますが、どのようになっているのですか。
 出演俳優は中国人が8人と、日本人が5人です。発掘現場に日本人の工事関係者や考古学者がやってくるという設定で、5人の内2人は片言の中国語がしゃべれるという役です。その1人はうちの劇団員なので1年前から中国語を勉強させて、今は日常会話ができるようになっています。
さきほど多言語演劇が非常に大事だとおっしゃいましたが、どうしてそう思われるようになったのですか。
 というよりも、純粋に芸術家としてその方が面白いと思っているのです。初めて本格的に取り組んだ『その河〜』では、事前のワークショップも1週間ぐらいやって本当に慎重に進めていきました。読み合わせは多言語の同時多発なのでとても難しいのですが、それがはじめてうまくいって美しい音のハーモニーができた瞬間があって、ああ、これがやりたかったんだと思いました。
演劇というのは、お互いの言葉の美しさや、響きの美しさを直感的に認め合うことのできる表現だと思います。お互いの言葉が混ざり合って、さらに美しくなるところに未来への希望もある。来年秋は、ブザンソン国立演劇センターで、日本とそこのフランス人の演出家と、イラン人の演出家と一緒に作品をつくることになっていています。3カ国から3人ずつ9人の俳優が出演し、40分ずつのオムニバスにする予定です。もっとグチャグチャしていければと思っていますが、台本はますます大変になりますね(笑)。
ここ20年、公立文化施設が数多く建設され、公的助成も増える等、日本の現代演劇を取り巻く公共政策は大きく変化してきました。こうした状況について、平田さんはどのように認識されていますか。
 基本的には現代演劇を取り巻く環境はよくなっていると思います。ここ30年ぐらいの社会情勢をみると、ヨーロッパの国々は、特にイギリスはそうですが、70年代から少しずつ構造改革をして、成熟国家としての着地点を見つけようとしてきました。しかし、日本は、70年代に2度のオイルショックに見舞われ、その国難に一致団結して立ち向かっている間に構造改革が遅れ、そのままバブル経済に突入してしまった。
僕は、この時点で構造改革が進んでいれば、70年代には日本人の消費対象が形のあるものから形のないものに移っていたはずだと考えています。ところがそれが遅れてしまい、形のあるものにしかお金を使う習慣がないところにもってきて、プラザ合意でダブついたお金が株と土地につぎ込まれ、バブル経済とその崩壊を招いてしまった。そういう手痛い失敗をして、今度は「羮に懲りて膾を吹く」じゃないけど、お金を使えなくなってしまったのが平成の消費不況でした。
加えて、ヨーロッパの国々はどこもアメリカのグローバリズムに対して独自性を保てるような国づくりを意識的に行なっていたのに、日本は全くそのことに無頓着だった。この10年、15年、日本の文化行政の方針が変わってきたことと、このことは無関係ではないと思っています。
その時期が、たまたま僕が作家として世の中に出始めたタイミングと重なり、僕の劇団の成長と日本の演劇に対する助成金システムの整備が重なったのはとてもありがたかったです。ただし、僕は学生たちには、警鐘の意味を込めて、日本はもう滅びると言っています。日本は滅んでも君たちが生まれ育った地域の文化が消え去るわけではないから、そちらを大切にしようと。
そういう意味で言うと、僕の芸術家としての仕事は、100年前にチェーホフが滅びゆくロシア帝国の人々を愛情込めて描いたように、滅びゆく日本人を愛情込めて描くということなのかもしれません。とは言っても、社会的な立場も理解しているので(笑)、滅びたくないならこうしたほうが良いとか、同じ滅びるにしてももう少し綺麗な滅び方があるといったメッセージぐらいは発していますが。
平田さんは公立ホールの芸術監督でもあります。公立ホールの状況はいかがですか。
 行政のシステムの中における文化の位置づけがこの10年で少しずつよくなっているので、職員の質も昔よりよくなり、公立ホールの状況もよくなっていると思います。特に若い人は、文化的な仕事に就きたくて職員になった人も多いので。
ただ、人事異動もありますし、民間のプロデューサーのように自分でリスクをとる覚悟があって事業をやっているわけではない。日本では公立文化施設の運営を民間企業やNPO法人などもできるように制度が変わりましたが(指定管理者制度)、これで状況が変わるとも思えません。今のシステムだとここが限界のように思います。
僕は、公立ホールは芸術を創造する場であるべきだと考えているので、そのためには組織に縛られないプロデューサーや芸術監督が必要だと思っています。プロ野球やサッカーの監督と同じで、1年契約でダメだったら契約更新しなければいい。もちろん1年で結果は出ないので、3年、5年ぐらいの期間は想定して欲しいと思いますが、1年でも、ある程度の結果がでなければ交替するぐらいの厳しさがないと、そこから先には行けない。
僕が芸術監督を務めていた富士見市民文化会館きらり☆ふじみは、事業に対する市からの補助はなくて、貸館料と入場料収入と、外部からの助成金で事業を実施していました。演劇関係の予算は合わせて3000万円足らずですが、毎年1本、若い作家の作品を公募して、俳優はオーディションで選んで、芝居をつくっています。300万〜400万円程度の予算ですが、若い作家には2ヶ月は生活できるギャラを払い、小ホールで2〜3週間は装置を建て込んで稽古をしてもらっています。
東京近郊だけでも100館ぐらいの公立ホールがあるので、各館がこういう作品を1作ずつつくるだけで日本の演劇環境はすごく変わると思います。この程度のことはその気になればどこでもできるのに、やろうとしない。実際にはやりたくてもそれだけのプロデュース能力がないのでできませんが、みんなが少しずつ変わろうとすれば日本の演劇環境はもっとよくなると思います。
じゃあ芸術監督は誰がやるんだ、という話になりますが、僕は若い人にもっと機会を与えるべきだと考えています。今、アゴラ劇場で行っているフェスティバルのディレクターを1973年生まれの岡田利規さんにお願いしていますが、とてもよくやってくれていますし、彼自身もすごく成長しています。
学生に、もし芸術監督になったとして、1億円の予算があるとするとどんなプログラムをつくる?と尋ねたことがあるのですが、みんな、自分の作品を1000万円ぐらい使って1本つくり、後は保守的な鑑賞プログラムを数本、海外招聘を1本など、バランスを考えてプログラムを組んでいました。本当に芸術監督になれば、必死で勉強すると思いますし、今まで見なかった芝居も見て、バランスや公共性も考えるようになると思います。
今の日本は、芸術監督そのものも少ないですし、若い人は何をするかわからないと敬遠されて、キャリアのある人が名誉職のように就任します。でも、若い人の方が純粋に勉強しますし、そこを変えていかないとはじまらないのではないでしょうか。
最後に、演劇の状況についてはどのように認識されていますか。
 チェルフィッチュの岡田利規さん、五反田団の前田司郎さん、ポツドールの 三浦大輔 さんなど、新しい才能がでてきていますが、それが、これからどういうムーブメントになっていくかだと思います。確かに彼らには才能はあるし、表現が暴力性やエログロに向わざるをえないところも、同時代的な何かを抱えているのだと思いますが、本人たちがまだ自分たちの表現のオリジナリティが何なのかをあまりよくわかっていない。それがうまく理論化できれば、「静かな演劇」に続くひとつのムーブメントになっていくと思います。
しかし、インターネットの発達により情報が先行し、また、商業資本が小劇場演劇に介入するようになり、才能の消費がとても早くなっているような気がします。新しい表現を理論化する過程では芸術家は孤独にならざるを得ないし、それが芸術家を成長させるのに、そういう孤独に向き合う時間もなくなっている。インターネットの情報で集まってくる演劇マニアの劇団になるか、商業化するしかない。特に、「現代口語演劇」でウェルメイドだとどうしても商業資本から声がかかってしまいます。ある劇作家が、とある若手の劇作家に向かって「そんな投げ方をしていると肩をこわす」と言っていましたが、芸術家が自分の方法論を守るのがすごく難しくなっている、というのが今の状況だと思います。

こまばアゴラ劇場
http://www.komaba-agora.com/

公演情報

青年団国際演劇交流プロジェクト2007 日仏合同公演
『別れの唄』

作:平田オリザ 演出:ロラン・グットマン

【ティヨンヴィル公演】2007年1月22日-26日
●Centre Dramatique de Thionville-Lorraine
【ブザンソン公演】1月30日-2月2日
●Centre Dramatique National de Besançon
【ストラスブール公演】2月7日-22日
●Théâtre National de Strasbourg
【東京公演】4月4日-8日
●シアタートラム
【パリ公演】5月23日-6月17日
●Théâtre de l’Est Parisien
◎フランス語上演/日本語字幕付き(字幕は東京公演のみ)

青年団第53回公演
『東京ノート』

作・演出:平田オリザ

【東京公演】2007年4月19日-5月14日
●こまばアゴラ劇場
◎オンデマンド字幕付き上演

新国立劇場<演劇>日中共同プロジェクト公演
『下周村─花に嵐のたとえもあるさ─』

作・演出:平田オリザ、李六乙
【香港公演】3月20日〜24日
【北京公演】4月
【東京公演】5月15日〜20日
●新国立劇場小劇場 THE PIT
https://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/10000122.html

『東京ノート』
(2000年/NYジャパン・ソサエティ公演)
撮影:青木司

『S高原から』
(2004年/こまばアゴラ劇場)
撮影:青木司

『ソウル市民』
(2006年/吉祥寺シアター)
撮影:青木司

『ソウル市民1919』
(2006年/吉祥寺シアター)
撮影:青木司

『ソウル市民 昭和望郷編』
(2006年/吉祥寺シアター)
撮影:青木司

『その河をこえて、五月』
(2005年5月/新国立劇場)
撮影:谷古宇正彦