ユ・ホシク

韓国のオルタナティブなダンス・プラットフォーム
NewDanceforAsia(NDA)が10周年

2022.05.18
ユ・ホシク

ユ・ホシクYu Hosik

2012年、ダンサー・振付家のユ・ホシク(Yu Hosik)が弱冠30歳のときに立ちあげたNDA(前身はGwangjin International Summer Dance Festival )が10周年を迎えた。NDAは決して規模の大きなフェスティバルではないが、舞踊協会や大学中心に発展してきた韓国ダンス界において、独立系のアーティストと海外の若いアーティストが交流するプラットフォームとして独自の存在感を示してきた。芸術監督であるホシクは、年間2人だけに付与される兵役免除を勝ち取るほどのダンサーであり、第一線で活躍する振付家だ。

今アジアでは、NDAをはじめとして現役のアーティストが続々とフェスティバルを立ち上げ、ネットワークの構築に乗りだしている。こうしたアーティスト目線のフェスティバルと最新の韓国のダンス事情などについて、Zoomでインタビューした。
聞き手:乗越たかお(舞踊評論家)

国際ダンスフェスティバル「New Dance for Asia(NDA)」

まず10周年を迎えたNDAについて聞かせください。
 「New Dance for Asia」の略で、主にアジアの才能ある若手振付家やダンサーを紹介し、交流する国際的なプラットフォームです。コロナのため、昨年だけ12月でしたが、毎年8月末に開催してきました。現在はアジア圏とヨーロッパ圏の7つのフェスティバルとパートナーシップを提携しています。このパートナーシップでは、各国のディレクターがフェスティバルを訪れ、優秀な作品を相互のフェスティバルに招聘し、交換上演しています。

※提携する7つのフェスティバル
・日本「石井漠・土方巽記念 国際ダンスフェスティバル 『踊る。秋田』」
・シンガポール「cont-act コンテンポラリーダンス・フェスティバル」(旧M1 CONTACT)
・香港「H.D.X(Hong Kong Dance Exchange)インターナショナル・フェスティバル」
・マカオ「CDE(Macau Contemporary Dance & Exchange Springboard)」
・ラオス「FMK(Fang Mae Khong ファン・メコン)インターナショナル・ダンス・フェスティバル」
・台湾「Stray Birds Dance Platform(漂鳥舞蹈平台)」
・スペイン「Masdanza(マスダンザ )」

 2020年はコロナのため、韓国国内の若手振付家の映像作品を配信したのみですが、2021年は交流を再開しました。韓国の11団体がソウルで有観客公演したものを撮影し、協力フェスティバルのディレクターに送り、4作品の招聘公演が内定しています。今年(2022年)は、各国のディレクターを韓国に招き、本格的な国際交流が再開される見込みです。
プログラムにはどのようなものがありますか。
 毎年少しずつ変わっています。開始当時、フェスティバルは別の名前(Gwangjin International Summer Dance Festival)でしたが、途中でコンセプトを見直しました。NDAに変更した直後の2016年には、次のようなプログラムを一週間にわたって行いました。全体的に参加する振付家は20代~30代の若手が多いです。

・インターナショナル・カンパニー&アーティスツ・プラットフォーム
・フェスティバル・エクスチェンジ・プログラム
・アジアン・ソロ&デュオ・チャレンジ・フォー・マスダンザ
・アジア・ヤング・ジェネレーションズ・ステージ
・コリア・コレオグラファーズ・ナイト
・ダンス・キャンプ・プラットフォーム・イン・コリア
「アジアン・ソロ&デュオ・チャレンジ・フォー・マスダンザ」は、スペインの国際ダンスフェスティバル「MASDANZA」と提携したプログラムですね。このフェスティバルは横浜ダンスコレクションとも提携しています。
 マスダンザで行われるコンペティションのセミファイナルに出場できるプラットフォームで、この2016年が第1回でした。日本からは浜田純平(2018年に横浜ダンスコレクションでフランス大使館賞受賞)さんが参加しています。名前が長すぎるので昨年から「マスダンザ・セレクション」に変更しました。

 新作による公募が基本です。20才以上で公演経験があれば、韓国以外からも参加できます。過去にはベトナム人が優勝したこともあります。現在はマスダンザ芸術監督のナタリア・メディナ、韓国の評論家・プロデューサーのチャン・グァンリョル、それからあなた、NDA公式アドバイザーもお願いしている乗越さんに審査をお願いしています。
ちなみにNDAの観客層はどうですか?
 若いアーティストが中心です。SIDanceの芸術監督のイ・ジョンホさんなど、毎年来て応援してくれる関係者もいますが、協会で地位のある年配の先生方はあまりいらっしゃいません。やはりNDAは、若いダンサーにとって、「韓国やアジア圏の同年代のアーティストの活動を見ることができる、若いアジアの振付家のトレンドを知ることができる、そして世界につながることができるプラットフォーム」として評価されていると思います。

GSDFからNDAへ

NDAの歴史について聞かせてください。
 NDAは2012年7月にソウル市の東部にある広津区で「広津国際サマーダンスフェスティバル(GSDF)」として始まりました。客席150席ほどの小劇場で開催する小さなフェスティバルでした。
GSDFを始めたきかっけは?
 私は2008~10年までシンガポールのオデュッセイア・ダンス・シアターでレジデンス振付家をしていて、年に2回、3週間ずつ滞在していました。このダンスカンパニーはプラットフォームをたくさん運営していて、フェスティバルはもちろんのこと、国際交流事業も多かった。当時の韓国では、ダンスカンパニーが主体のフェスティバルはほとんどなかったので、自分たちでもやってみようと思いました。
当時の韓国には、すでにMODAFE(国際現代舞踊祭)やSPAF(ソウル国際舞台芸術祭)、SIDanceといった大きなフェスティバルがありました。そういう状況に自分が入っていくことに不安はありませんでしたか。
 当時は不安感よりも情熱が強かったですね。それに「小さくて国際的なプラットフォーム」ならば、大きい作品が中心の大きなフェスとは勝負どころが違うので脅威にはならないと思いました。実際、韓国では大学や舞踊協会を中心に進められるフェスティバルが非常に多く、助成金も優先的に交付されます。そのため若手の小さい作品には手が回りきらない問題がありました。当時、独立系のアーティストを対象にした国際ダンスフェスティバルは、私たちのものしかなかったと思います。
チケットにしても、協会や大学ならまとめて売れるから楽でしょうね。
 そうですね。最初は私たちもチケットセールスを考えると、独立系アーティスト60%、大学所属のアーティストやダンスカンパニーが30~40%というプログラムを組まざるを得ませんでした。実際売り切れることも多かった。しかし、現在は私たちの主旨が広く理解されているので、独立系のアーティストやカンパニーの作品が80~90%でも観客が入るようになってきています。
当時はホシクさんも30歳になったばかりで、現役のダンサーたちと非常に近い存在だったことも独自のカラーになっていたのではないでしょうか。私はホシクさんがフェスティバルを始めると聞いた時、お金持ちの余技かと思いましたが、そのために車を売ったと聞いて、相当の覚悟で臨んでいるんだと驚きました。
 スタジオ経営や個人教授で貯めたお金でスタートしましたが、それでも足らなかったので2台あった車を1台売りました。当時は、フェスティバルを3年以上継続した団体でないと助成金に応募すらさせてもらえなかったのです。結局6回目まで助成金は下りませんでしたが、その後はソウル文化財団と韓国文化芸術財団という大きな助成が受けられるようになりました。
GSDFにも「国際」と入っていますが、その頃も海外から招聘していたのですか。
 当時、交流があった福岡ダンスフリンジフェスティバルから毎年1チームを招聘しました。他には自分が一緒にクリエイションしたドイツ人振付家などがいましたが、他は国内のチームでした。

 3年間経った頃、フェスティバルとしてのアイデンティティが希薄なことに悩んだ末、乗越さんに相談しました。その時に「韓国のことだけ考えるのではなく、アジア全体の若い人たちに機会を与えるフェスティバルに」とアドバイスをもらいました。そうなると新しいアイデンティティに合ったフェスティバルの名前にした方がいいと思い、「韓国」も「ソウル」も入っていない「NDA(ニュー・ダンス・フォー・アジア)」という名前を提案してもらいました。
若いアーティストもホシクさんも、国内の政治的なパワーゲームにつきあってヘトヘトになるより、海外の様々な人と出会い、ネットワークをつくった方が楽しいですよね。
 その通りです。NDAと名前を変えて、日本・シンガポール・香港・マカオ・スペインと提携先が広がっていくにつれ、「海外と交流できるメリットのあるフェスティバルらしい」と評判になり、広く認知されてきました。いまは韓国や海外でも、私たちのスタイルを真似するフェスティバルが出てきています。
NDAのこれまでの成果や変化についてはいかがですか。
 挙げるときりがないですが、とくに印象に残っているのは、キム・ボンスとチェ・ミョンヒョンです。彼らはNDAから海外へ活躍の場を広げ、自身の活動自体も充実させています。ボンスは現在、ベルギーを代表するダンスカンパニー、ピーピング・トムで活躍しているキム・ソルジンとともにMoverというカンパニーをつくり、非常に注目されています。
ピーピング・トムは日本でも何度も公演をしています。ソルジンは同カンパニーで有名な、超絶軟体ダンサーですね。
 はい。ミョンヒョンもシンガポールなど海外との交流が増え、自身のダンスカンパニーが10周年記念公演を行うほど人気を博しています。

 コロナ直前にはゴブリン・パーティーがNDAでデュオ作品『不時着』を上演しました。彼らは世界中で人気のカンパニーで、本来ならNDAに参加するようなカンパニーではないのですが、向こうから「出たい」とオファーがありました。『不時着』はシンガポール・香港・マカオ・ラオスの4カ国から招聘されました。残念ながら途中からコロナで延期になってしまいましたが、継続する予定です。

優勝して兵役免除を勝ち取る

ではホシクさん自身のお話を伺いたいと思います。ダンスを始めたきっかけは?
 中学生の時に好きなアイドルのダンスを真似して踊っていたところ、母がダンスを勧めてくれ、中学2年の時にモダンダンスを習い始めました。バレエは早く始める必要がありますが、韓国の男性の場合、モダンダンスは中学生や高校生でスタートすることが多いですね。そして本格的にやりたい人は、芸術系の高校や大学に進学します。私は大邱にある慶北芸術高校に進みました。舞踊はバレエと韓国舞踊と現代舞踊の3つに分かれています。
その頃はどんなスタイルのダンスをしていたのでしょう。
 中学から大学2年まで、マーサ・グラハムのテクニックが中心でした。あまり面白く感じなくて成績もよくなく、何度も逃げました。ホセ・リモンやラバンなど色々学びましたが、学校はとにかくグラハムを勧めていました。

 日本の場合、現代舞踊はモダンダンスとコンテンポラリーダンスに分かれていますが、韓国は認識としてモダンダンスとコンテンポラリーダンスは同じものと考えて、あまり区別はしませんね。
アイドルのダンスが好きで踊り始めたのにグラハム・テクニックとは、違いすぎますね(笑)。コンテンポラリーダンスとはどのように出会ったのですか。
 フランスで長く学んでいたキム・ソンヨン先生が、私が進学したソウルの漢陽大学の講師だったので、多くを学びました。ソンヨン先生は、現在、大邱市立舞踊団の芸術監督をしています。ここはダンサーを常時雇用している韓国唯一のコンテンポラリーダンス・カンパニーです。常時35~40人が所属していて、毎月市から給料が支給されています。韓国には国立のコンテンポラリーダンス・カンパニーKNCDC(韓国国立現代舞踊団)がありますが、ダンサーを常時雇用しているわけではなく、プロジェクト単位で採用する形式です。ソンヨン先生の前の芸術監督がホン・スンヨプ先生でした。
ホン・スンヨプはKNCDCの初代芸術監督ですね。15年ぐらい前に彼の作品をまとめて見たことがありますが、独自の動きと演出、ユーモアもあり本当に面白かった。韓国ではスター的な存在ですね。
 韓国のコンテンポラリーダンスのステージを一気に上げてくれた方です。私たちの世代はみんな彼を見て育ちました。

 もうひとりチェ・ドゥヒョク先生にも習っていました。陸完順先生(韓国にアメリカのモダンダンスを導入した先駆者)の代表作『ジーザス・クライスト=スーパースター』のキリスト役を踊った人です。私がコンテンポラリーダンスを学んだのはこの2人ですね。
韓国の男子には兵役の義務がありますよね。年に数人、特に優秀な人は兵役免除になるそうですが、ダンサーにとって20代の貴重な2年間を兵役にとられることを考えると必死になりますね。
 その通りです。現在は、ソウル国際舞踊コンクールと韓国舞踊協会が主催するコリア国際現代舞踊コンクールで各パート(バレエ、現代舞踊、韓国舞踊)2位までに入賞すると兵役免除になります。私の時代は、兵役免除を勝ち取るには、韓国舞踊協会が主催する全国新人舞踊競演大会と東亜日報が主催する東亜舞踊コンクールのどちらかで優勝する必要がありました。
ホシクさんの時代には、兵役免除は年間2人だけだったのですね。
 はい。私は全国新人舞踊競演大会で優勝しました。私が進学した漢陽大学は、当時最も兵役免除を獲得している大学でした。自らの振り付け作品を踊るのですが、振り付けそのものよりも「いかに5分以内にコンセプトに沿ってテクニカルな面をアピールできるか」がポイントになります。

 30歳になると強制的に入隊することになるので、その歳までに優勝するのがタイムリミットです。私も7回目の挑戦で優勝できましたが、毎年新人は出てくるし、先輩達は残っているしで、本当に大変でした。
2006年に兵役免除を獲得し、2008年から2年間はシンガポールのカンパニーのハウスコレオグラファーでした。2009年にソウル国際振付フェスティバル(SCF)に出場した『重い循環(heavy circulation)』で、福岡ダンスフリンジフェスティバル賞に選ばれ、日本に招聘されました。ダイナミックさと繊細さの同居する作品でしたね。
 これは2007年に若い振付家を対象にした韓国舞踊協会の最優秀振付家賞を獲得した作品です。実はSCFのときには手首を骨折していて、後輩に踊ってもらっていました。福岡公演では私が踊りました。
ホシクさんは、それだけの受賞歴があったのにどうして協会系の団体所属のダンサーにならなかったのですか。
 大学で間近に見ていた教授や、一緒にクリエイションをした先輩や後輩など、あまりにも政治的な動きが多くて、自分には合わないと感じていました。
wake-up

東京発ダンスブリッジ・インターナショナル
ユ・ホシク『wake up』
(2014年11月/神楽坂セッションハウス)

日本のダンスについて

ホシクさんが招聘されたとき、福岡フリンジも始まったばかりの頃で、まだまだ手作りの段階でした。しかも当時はノンセレクションで玉石混淆でした。総じて技術の高い韓国からすると驚かれたのではないですか。
 新鮮でした(笑)。私が知っている既存のフェスティバルは、夜7、8時から3~4本ぐらい上演してその日のプログラムが終わりますが、福岡フリンジは昼の12時から夜の9時まで50本くらい上演していました! 観客は自由に出入りして好きな作品だけ見て、合間に外でお茶を飲んでまた戻っていく。ギャラリーにいるような感覚で、とてもいいアイデアだと思いました。

 韓国に帰った後も「福岡のフェスは昼間の12時から作品を観られるんだ」と自慢しました。もちろん予算の関係で不備なところはありましたが、フリンジですから、機会を分け合うというコンセプトによく合うフェスティバルだったと思います。
ホシクさんは、北海道ダンスプロジェクト(HDP)のアドバイザーを2015年から18年まで務められるなど、日本のダンサーを多く見てらっしゃいます。
 HDPもユニークでしたね。前半が地元のダンススタジオが集まった発表会、後半がコンテンポラリーダンスのコンペティション。集客にはいい仕組みですよね。1500席ぐらいある市民会館の客席が全部埋まっているのには驚きました。コンペティションの参加者の中には札幌以外の地域から飛行機で来る人もいる。アマチュア的な作品も多かったですが中にはとても良い作品もありNDAに招聘しました。

 さらにユニークなのは、私達がするのは「審査」ではなく「アドバイス」だということです。3作品を見た直後に観客の前でコメントを言う。初めは慣れなくて大変でした。
あれは芸術監督の宏瀬賢二さんが考案した方法です。見たばかりの作品へのコメントを聞くことで、観客も一緒に作品を考える機会になる。NDAで選んだダンサーをゲストに呼んで3人(乗越、ホシク、ゲスト)でやることもありましたが、総じて韓国のダンサーは大学でダンスを学んだり教えたりしているので、論理的な指摘が多くて感心しました。
 それはよかったです。日本のユニークなフェスティバルからは私も大いに刺激を受けました。
NDAが提携している「踊る。秋田」フェスティバルも含めて、ホシクさんは多くの日本人のダンサーと関わっていらっしゃいます。日本のダンサーについてアドバイスはありますか。
 「踊る。秋田」はコロナの前に2回参加しただけですが、コンペティションの年、招聘公演の年など、状況に応じて柔軟に内容を変えているのがいいですね。

 日本のダンサーについて正直に言いますと、作品のアイデアにはすごく多様性や開けた魅力がある反面、それを整理できていない印象を受けます。また動きのディテールをあまり気にしていないように見受けられることもあります。逆に韓国は、動きや技術、フィジカルの部分は良いのですが、「デュオはコンタクト重視の作品ばかりになる」など、アイデアの多様性があまりありません。
いま海外のフェスティバルに行くと、韓国や中国のダンサーの活躍がすごく、「アジアのダンサーの技術は高い」というのが共通認識になりつつあるように思います。そこへキャラクター重視の日本のダンサーが行くと、アレ?という反応を受けることが多いですね。
 韓国のダンサーは基本的にエリートコースを踏襲するので、技能的に低い人はあまりいませんね。ただ考え方やマインドが、そうした教育課程のなかで縛られてきている面はあります。

 私が見てきた日本人振付家では、浅井信好さんがとても良いと思いました。技術的にも悪くないし、明確なコンセプトと表現力がある。彼はストリートダンスから舞踏(山海塾)と、エリートコースでなくても確実にコンテンポラリー的な思考で作品をつくっているのが良いですね。またケダゴロの下島礼紗さんもベーシックな技術でいえばできていないことも多いものの、自分だけの表現方法をはっきりと掴んでいるので、どんな国に行っても認められると思います。

激変する韓国のダンス状況

ではNDAが歩んできたこの10年間における、韓国のダンス界の環境変化についても聞かせてください。
 ダンスを支援するソウル文化財団と韓国文化芸術委員会という二つの重要な組織にも変革がありました。まず、ソウル文化財団は2022年から体制が大幅に変わり、フェスティバル助成がなくなり、その部分はソウル市に移管されました。財団はクリエイションを重視し、そのための支援事業を増やしています。

 また、今年は大統領選があり、韓国文化芸術委員会は文化観光庁の所属なので、政権が代わった影響が懸念されます。もっとも文化芸術委員会の助成は、昨年から約90%が協会系の団体に交付されているのであまり関係ありませんが‥‥。そのため多くのフェスティバルは助成金の受け皿になる協会をつくっているところです。たとえばSIDanceが持っているソウル国際ダンス機構(CID-UNESCO)のようなものです。いずれにしても、私たちのような独立系のフェスティバルの活動は難しさを増しています。
独立系のアーティストが集まって協会を設立したりはしないのですか。
 韓国では独立系の団体が7~8団体ぐらい集まり、共同組合のような組織を作るのが流行っています。しかし、結局お金が絡むことなので、はじめは高潔な理想があっても派閥や権力構造ができて協会と同じになってしまう危険があります。民主主義の社会で芸術をやるには合わないシステムなので、私は参加しようとは思いません。
確かに、イスラエルでも「インディペンデント・アーティスト・アソシエーション」が立ち上がったものの、空中分解しましたね。韓国の若いアーティストについての支援はどのような状況ですか。
 若いアーティストの創作活動に対する支援は、非常に充実しています。ダンス人口に比して育成事業も多く、作品を発表する機会も豊富です。私が知る限り、世界でもトップクラスだと思います。MODAFEなど協会が主催する大きなフェスティバルも、最近は独立系のアーティストによく機会を提供しています。そのためフリーや独立系のダンスカンパニーでも質の高い作品がたくさん生まれています。
支援を受けるためのプロセスは?
 一次の書類審査で作品のプランを説明し、2次がショーケースへの出演あるいは映像審査、3次がインタビューというのが一般的です。
コロナの影響に対する若いアーティストへの支援はありましたか。
 かなり手厚く行われました。大韓舞踊協会(旧「韓国舞踊協会」)は各地域の財団に支援金の支給を働きかけました。その結果、上期・下期で独立団体に5カ月ずつ、最大5人まで1人あたり毎月約18万円の支援金が支給さました。さらに作品の創作支援は別途支給されました。また、ダンススタジオや劇場に対しても、人件費支援や運営助成金が出ました。
制作者に対する支援体制はどうなっていますか。
 以前は十分な支援がなく、プロデューサーも「助成金の申請書を書いてくれる人」という程度の認識でしたが、最近は制作者向けの助成金も別途あるので、本来の役割が明確になってきました。アジアを越えてアメリカやヨーロッパにも広いネットワークのあるパク・シネや、モダンテーブルのキム・ジェドクとArt Project BORAのキム・ボラという世界的に超人気の二人をプロデュースしているイ・ミジンなど、フリーでも有名なプロデューサーがでてきています。
ドラマトゥルクへの支援はどうですか。
 どのように関わるかは人や作品によって違いますが、増えてきています。助成金にはクリエイションのスタッフ支援も含まれているので、問題なく参加できます。
ストリートダンスや現代サーカスなどはコンテンポラリーダンスと繋がっていますか。
 そこはまだ足りないですね。サーカスはフィジカルが中心の演劇団体とコラボレーションしています。ソウル文化財団も昨年まではサーカスとコンテンポラリーダンスを包括的に支援していましたが、今年から分離しました。現代サーカスはアジアでも活発になっているので専門性をもって発展させていくべきですが、以前NDAで招聘した渡邉尚のようなインパクトのある人はまだいません。
韓国は手厚いダンス支援で、多くの若いアーティストから良い作品が生まれているのですね。それらを海外につなぐNDAのようなプラットフォームは、ますます必要になってきます。
 はい。国際交流に関しても韓国は様々な財団等が海外渡航費をサポートしています。それだけに、これからはただ紹介するだけではなく、私たちのような独自の視点とネットワークで実りのある交流を提供できる存在が重要になってくるでしょう。

これからのNDA

これからのNDAについてはどのように考えていますか。
 ここ2年ほどNDAのプログラムを分け、2つはソウルで、1つは大邱で行っていました。今年は試験的に全プログラムを大邱で開催する予定です。大邱はソウルの次にインフラが整っており、舞踊人口もソウルの次に多く、若いアーティストも活発で、非常に可能性を感じるからです。

 ソウルで他のフェスティバルと競争するより、大邱で独自のプログラムを展開した方がいいのではないかと思っています。大邱にも国際空港があり、香港・マカオ・台湾・日本とは直接往来できるので、移動も容易です。もちろんソウルとの関係は堅持し、ソウルの振付家を大邱に招いてワークショップやクリエイションをしていきます。
大邱市からのサポートはありますか。
 大邱市の文化財団にはフェスティバルへの助成制度はないのですが、「国際交流への支援」があるので、その枠組みで申請しています。

 ただ大邱のダンス公演はかなり多いものの、約95%は無料公演です。ソウル以外の都市はほとんど同じ状況です。前述した大邱市立舞踊団ですらチケットは1万ウォン(約1000円)くらいです。公的支援が手厚いおかげですが、アーティストや作品のクオリティを上げていくためには、対価を払っても見たいと思うような有料公演を増やしていく必要があると思っています。
先ほどの話だと大邱市立舞踊団はレベルが高そうですが、NDAと連携する可能性はあるのでしょうか。
 NDAに大邱市立舞踊団を呼ぶことは可能ですが、NDAのコンセプトに合わないのでしないでしょう。現芸術監督のキム・ソンヨンさんも今年の12月で任期を終えるそうなので、そのあとにソヨンさんと協働することはあるかもしれません。

 ちなみに、私が大邱市立舞踊団の女性ダンサーに振り付けたソロ作品は4月に発表する予定です。これは私が主宰するダンス・カンパニーであり、NDAの主催団体でもある、デシグナレ・ムーブメント(Designare Movement)の作品として公演します。
NDAの事務局を担っているデシグナレ・ムーブメントはダンスカンパニーなんですね。
 そうです。もっともカンパニーといいながら常任のダンサーはおらず、プロジェクトごとに集めて公演をしています。実は、2021年には、大邱の若いダンサーたちとPYDANCE(ピー・ワイ・ダンス)という別のグループをつくりました。広い視野を持っている若い人たちとクリエイションするためです。10月に「大邱ダンス・グラウンド」というプログラムで2日間公演しました。
現在のホシクさんは、カンパニーとフェスティバルを複数運営しているということですか。
 そうです。デシグナレではNDAを8月に、PYDANCEでは「大邱ダンス・グラウンド」を10月に開催します。PYDANCEでは、私は若いダンサーへのアドバイザーの役割で、6月にポーランド、8月にメキシコで公演を予定しています。

 大邱はインフラも整って助成システムも良いのですが、ダンスに関しては保守的な面も残っており、国際交流が弱い地域です。若者は変化を求めているので、彼らを世界につなげる活動をしていきます。
さきほどNDAの独自性が重要になるとの話がありました。しかし大きなフェスティバルも国際交流に力を入れる一方、独立系のフェスティバルへの助成金が減っているという現状があります。NDAは将来的にどう展開していきますか。
 それにお答えするには、ラオスのフェスティバル「FMK(Fang Mae Khong ファン・メコン)国際ダンス・フェスティバル」を訪れたときの衝撃についてお話しした方がいいでしょう。

 芸術監督のオレ・カムチャンラはフランスのリヨンを拠点にしているダンサーですが、毎年ラオスでフェスティバルを開催しています。NDAは公式のパートナーシップを結んで3年になりますが、最初に訪れたときの感動は忘れられません。

 それまで私が見てきたフェスティバルは、全てが整った立派な劇場で専門のスタッフもちゃんといるものばかりでした。しかし、ラオスのフェスティバルはインフラも劇場も整っていない、ありのままを見せてフェスティバルを開催していたのです。

 住宅街の中にある無償で借りた土地に、自分たちでブロック塀を積み上げてブラックボックスの劇場にして、そのなかに事務所やシャワー室やスタジオをつくっていました。公演はそこに100席ほどの座席をつくって行います。舞台監督などのスタッフもダンサーが兼務していました。

 おそらくラオスからの助成金などのサポートなどはないと思いますが、芸術監督のオレがリヨンからヨーロッパのアーティストを毎回連れてきていました。それでも作品の質は高く、しかも参加者同士非常に親密で、公演後は劇場の外で現地の料理を食べながらオープンマインドな交流をして、素晴らしい時間を過ごしました。

 おっしゃる通り、韓国は協会中心にお金が動くので、私たちのようなインディペンデントな団体に回される金額は減ってきています。しかし、ラオスのFMKがNDAの今後のあり方に大きな希望を与えてくれました。
これまでアジアのフェスティバルは、「大きい予算を協会が運用して大きなフェスティバルを開催し、アーティストに分配する」というヨーロッパ型のフェスティバルを手本にしてきたところがあります。しかし、これからはNDAのように若いアーティストが芸術監督を兼ね、アーティストならではの独自のネットワークで地下茎のように他のフェスティバルとつながっていく。それも小さいからこそ濃厚につながれる。アジアの実情に沿った、新しいネットワーク型フェスティバルの期待がありますね。
 とはいえアジア圏のフェスティバルを調べてみると、まだまだアジア同士でのコラボよりヨーロッパに対する憧れみたいなものが残っているのを感じます。韓国の評論家からインタビューで「どうしてアジアの国の人たちを支援しようとするのか」と聞かれて、頭に来て「あなたはいったいアジアのコンテンポラリーダンスについてどれだけ知っているのか」と問い詰めたことがあります。

 逆に言えば、それは、アジアの人々がアジアのダンスの魅力を知っていく伸びしろがたっぷりあるということ。NDAの存在意義はますます増していくでしょう。
具体的なプログラムとして考えていることはありますか。
 既存のパートナーシップによる国際交流はこの10年間のベースがあるので、これからはレジデンシープログラムや、シンガポール・日本・韓国の振付家によるコラボレーションなど、国際交流から派生した新しいプログラムを模索したいと思います。

 数年前まで「ダンス・コスモポリタン」という、アジアのレジデンス・ツアーのプロジェクトをやっていました。タイと韓国と日本のダンサーが互いの国を訪れて合同でクリエイションしてNDAで発表するというものです。そこで、レジデンスは楽しい反面、効率よくクリエイションする手順を考える必要があると感じました。

 レジデンスも韓国や日本でやると費用がかさんでしまいますが、ラオスなら4分の1ぐらいですむ。ラオスで長期滞在してつくった作品を、NDAや各国のフェスティバルで上演するツアーを考えています。すでに試験的にゴブリン・パーティーのイ・ヨンジュがラオスに滞在し、地元のファンラオ・ダンスカンパニーのメンバーと創った作品をラオスとNDAで上演しており、実現性が大いにあると思いました。
国を超え、アジア全体をひとつの地域として連携するプログラムが考えられますね。
 はい。もちろんアジアはヨーロッパより地域性が強いので、馴染んでいくには時間が必要でしょう。それでもレジデンスを通じて往来しながらダンス作品をつくっていけば、おっしゃるような形になっていくと思います。

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