天野天街

“宇宙的郷愁”を操る
奇想のアーティスト、天野天街

2018.08.30
天野天街

天野天街Tengai Amano

1960年愛知県一宮市生まれ。少年王者舘主宰・劇作家・演出家。劇団紅十字舎を経て、1982年に劇團少年王者を旗揚げ(1985年、少年王者舘に改称)。ほとんどの作品の作・演出を務め、名古屋を拠点として全国的に活躍。1992年に澁澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』を野外劇化して各界の注目を集める。1994年には初監督した映画『トワイライツ』が2つの国際映画祭でグランプリを受賞。1998年より演劇ユニットKUDAN Projectを始動。同時に海外公演も開始。2000年に『劇終/OSHIMAI〜くだんの件』が第44回岸田國士戯曲賞最終候補にノミネート。2005年には総勢160名以上が出演した『百人芝居◎真夜中の弥次さん喜多さん』を上演し、大きな話題を呼んだ。また、流山児★事務所、ITOプロジェクト、雨傘屋など外部演出も多数手掛けている。2019年5月には、書き下ろし新作『1001(イチゼロゼロイチ)』を新国立劇場にて上演予定。

少年王者舘
http://www.oujakan.jp/

劇作、演出、映画監督、コラージュ、イラストレーションなど、多岐にわたる創作活動を展開し、名古屋を拠点に全国で活躍する天野天街。自ら率いる少年王者舘の公演を軸に、「アタシはなぜ、ここにいるのか?」という根源的な問いから、生と死、過去や未来など、すべてを等価に見据えた視点で時間軸や因果律を操作した、複雑で遊び心溢れる“アマノワールド”と呼ばれる劇世界を構築。“しりとり”の要領で書かれた台本を、同じ音のコトバを重ねながら繋げていく独特のセリフ術、自動人形のような幾何学的ダンスも繰り広げる役者の動き、美術・音楽・照明・映像・音響が渾然一体となったどこか懐かしいイメージで観客を魅了してきた。オリジナル作品だけでなく、澁澤龍彦や諏訪哲史らの小説、寺山修司の映画、鈴木翁二やしりあがり寿らの漫画をアマノワールドへと変換する舞台化に取り組む他、近年は人形劇のジャンルでもその手法を最大限に生かした演出で高く評価されている。来年には新国立劇場での劇団公演も控え、ますます注目を集める奇想のアーティストのルーツを探るロングインタビュー。
聞き手:小堀純、インタビュー構成:望月勝美

ルーツは幼少期の読書体験

天野さんは愛知県一宮市の出身で、実家は貸本屋をされていたとか。
 そうですね。漫画とか貸本小説と言われている大衆小説がたくさんあって、水木しげるや杉浦茂の漫画、小松崎茂の絵物語などいろいろ読んでいました。父が結核で10年療養している間に貸本屋をやっていて、僕が9歳の頃にはやめて以前勤めていた会社に戻りました。その頃までの記憶ですね。
漫画家になりたかったそうですが、雑誌に投稿したことはなかったのですか。
 ないです。投稿したいとは思っていたけど、1本の作品としてまとめることができなかったから。それはいまだにそうです。
少年王者舘の芝居を観ていると、ご自身が好きだという稲垣足穂(*1)や鈴木翁二(*2)、『ガロ』(*3)から影響を受けられていることに納得します。
 『ガロ』の影響は大きいですね。そこで知った鈴木翁二の魅力は、線であり、気配です。稲垣足穂が好きだと言っているけど、そんなに読んでいるわけではありません。結局、文章がどうこうではなくて、文字自体が日本語だけどオブジェのようなもので、それが1個ずつ屹立しているような感覚が好きなんです。
 僕は、稲垣足穂が言っている「宇宙的郷愁」──つまり、過去へのベクトルでも未来でもなく、今でもない“懐かしさ”みたいなものが表現されているものに惹かれるんです。それは鈴木翁二の漫画にもあがた森魚(*4)の曲にも通底する感覚で、そういうものに惹かれるし、なおかつ自分の中にもそういうものを表したいという欲望があります。例えば、幼少期の迷子感覚。「自分はどこにいるんだ? 自分は一体何なんだ?」とか、そういう“ある感覚”が懐かしさ、根源的な郷愁に結びついているんです。
 小学校6年の頃に星新一のショートショートを読んだのですが、それが面白くて。新潮文庫だったんですけど、そのカタログで稲垣足穂が「ショートショートの元祖」と書いてあったので読んでみたら、全然ショートショートじゃなかった(笑)。『一千一秒物語』は確かにそういうところもありますが、オチがあるわけでもないし。でもそれをパラパラ読んでいたら、『美のはかなさ』というエッセイに「宇宙的郷愁」と書いてあったんです。小さい頃から感じていたけど言葉にできなかった“ある何かの感覚”を言い当てていて、ビックリした。後にあがたさんと話すようになって、やっぱり「稲垣足穂というものに惹かれている」と。要するにそれが共通項なんだと思います。
作品世界もそうですが、足穂という名前も気になったんじゃないですか。
 “タルホ”という、何か得も言われぬ音感にグッとくるものがある。音(おん)といい字面といい、変なオブジェ感覚がありますよね。
演劇を始めたきっかけというのは?
 演劇は大嫌いだったのですが、19歳の時に、別の大学に進学した高校の同級生が演劇部に入って芝居を始めて、紅十字舎という劇団を新しく作った時に「チラシと舞台美術をやらないか?」と誘われた。「ついでに役者もやらないか?」と言われて、できるわけないのに出演して、全く何もできなかった。それが悔しくて演劇と付き合うようになり、台本も周りの人間に「書け、書け」と言われて書いて、上手くいかないから「次こそは!」というのが、最初の頃のある意味の原動力でしたね。それでズルズルと今に至る(笑)。辞めるきっかけがなかったというか。ただ、中から見ると演劇にはものすごくいっぱい伸びしろがある。何となく映画のようなものをつくりたいという気持ちでやっていたのですが、〈演劇〉というライブであり総合芸術…光や音など総合的に使って何かひとつのものを成り立たせることに可能性を感じました。ぼんやりと「こんなことがやりたいな」という方向はあるけど全然上手くできないから、「もうちょっとできるんじゃないか」という思いから出発したところはあります。
その最初の上演場所であり、ホームグラウンドになったのが名古屋にある七ツ寺共同スタジオ(*5)です。
 そうです。そこで育った、という感じですね。
七ツ寺共同スタジオは京都大学西部講堂と並んでアンダーグラウンド演劇の拠点になったところです。天野さんははじめて七ツ寺に芝居を観に行った時に、1階の客席ではなく、いきなり2階の楽屋に上がったとか。
 入ってすぐのところに階段があったので、客席は上だと思ったんですよね。そうしたら皆がメイクしていた。2階に上がるとすぐ炊事場があって、ものすごく生活感溢れる空間なんですけど、僕はそこが舞台だと思って「これが芝居か」と(笑)。役者が準備していただけなんですけど、すごく白粉臭いし、衝撃を受けました。ある意味、迷宮感覚。初めて行くとそんな感じですよね。
七ツ寺共同スタジオは民間劇場で、“共同”というくらいだから、最初は演劇だけでなく、映像、音楽、政治運動、文学などいろいろな人たちが集まっていました。でも、それぞれに意見があるから一緒になるわけがない。結果的に残ったのが演劇でした。
 そうですね。だからいろいろなものを入れられる。ごった煮というか、闇鍋ではないけどそういう状態でした。代表の二村利之さん(現顧問)がいい加減でしたから。“いい加減”というのが一番大切で、ひとつの方向に行かないことがよかったんだと思います。自分はこの小屋の留守番をしている「留守番隊長だ」と言っていましたから。
共同スタジオという形式の劇場があるのは全国的にも名古屋だけで、“誰のものでもない”という、そこが一番よかったと思います。すぐ側に銭湯もあったし、古着屋があって、喫茶店があって、寝泊りも自由で。
 最近やっと鍵がかかるようになりました。それまでは誰でも入れた。正式に契約していない居候が管理していましたね(笑)。
そういう七ツ寺共同スタジオという場が孵卵器となって、いろいろな人たちがいろいろな表現を生み出していった。その中のひとりが天野さんだったと思いますが、少年王者舘を旗揚げしようと思った時には、「自分はこういう表現をやりたい」というビジョンはあったのですか。
 明確なビジョンなんて今でもありませんが、ぼんやりした方向性みたいなものはずっと同じです。何か驚かせたいとか、変なことがしたいとか。あとは、「なぜこの世界があるのか?」ということをひたすら考えたいというか、やりながら「どんなものがほの見えてくるか」ということしかないです。


アマノワールドの演出法・劇作法

天野さんの演出には、例えば『御姉妹』(1988年)など初期の作品では障子がよく使われています。それがパッと開閉して、障子を破っていろいろなものが出てきたり。先ほど「根源的郷愁」という話が出ましたが、子どもの頃にそういう遊びをして怒られたことがあったような、なかったような何とも言えない感覚が一瞬よぎります。
 とにかくいろいろなものを重ねたいからひと言では言えないのですが、障子を使っていたのは、一瞬において場を変えられたり、裏と表というのが変換できたり、いろいろなことが容易にできるのでよく使っていました。
ただの舞台転換ではなく、道具を一瞬にして消すための仕掛けみたいなものでもなく、映画のフラッシュバックに近い感じがします。
 その方が近いですね。例えば時間というのは概念でしかなくて、その“あるのかないのかよくわからないもの”を、だったら非日常の中でいろいろといじくれるんじゃないか、ということに一番興味があります。足したり引いたり、逆転させたり、進めたり遅らせたり。それを嘘、バーチャルにおいて体感するところまで、“時間というある概念”をいじくれる面白さがあります。
最近では、芝居の最中にいきなり客電を点けたり、「携帯電話をお切りください」といった開演前の挨拶が途中で切れて劇中のセリフが被さってきたり、ということもしていますね。
 “始まり”ということをブラしたいんです。もともとの原型や感覚の元になっている何かをブラしたい、という思いがある。演劇はどうしても、“始まって、終わる”ということが決まっているから、そこをちょっとブラすしかない。そんなことは1回やれば済むことですけど、それを手を替え品を替えやっているんです。偉そうな言い方ですが、常に思うのは「“私”というものは一体どこから来たんだろう?」ということ。精子と卵子という風にも思うけど、じゃあ「“私という現象”はどこから来たのか?」。無から有になってまた無になるという感覚や、演劇という現象が始まって終わるということはどういうことなのか。始まる前は一体どうなっていて、終わった後はどうなるのか、というところにとても興味がある。だから始まりをブラしたいし、終わりもブラしたいわけです。それで、始まりと終わりをくっつけて円環させたらどうなるか?とか。ウロボロスみたいに、始まりが終わりをだんだん侵食してゼロになる、という芝居がしたくて一生懸命やろうとしているけどすごく難しくて、いまだに上手くできないんです。
舞台上の生身の役者の上に、その役者の映像を重ねて投影する(*6)という見せ方も天野さんらしい演出法です。
 演劇で映像というものを扱えるようになった1990年頃は、スクリーンに投影するのが映像だと誰もが思い込んでいたけど、僕は映像というより照明…光として使っていた。今もそうですが、僕にとってそこにある状態すべてがそのままスクリーンだという考えでずっとやっています。今は“プロジェクションマッピング”と言われている方法ですけど、当時は誰もやっていなかったですね。
映像を多用する演出家もいますが、単にシーンの背景として流していることも多いです。
 それではつまらない。それは補足とか蛇足でしかないから必要ないわけです。もっと練りこんで一体化しないと使う意味がない。完全平等主義、つまりそこにあるすべては等価。そうすると“等価の中の差異”という面白さがまた生まれる、という感覚もあるかもしれません。
少年王者舘のある公演前のインタビューでは、「僕の芝居は物語がなくて、客観して、主観して、循環して、停滞して、飛躍して、逆転して、逆流する時間」と仰っていますが。
 それ、たぶん1行も書けていない時です(笑)。内容がないからそう言うしかなくて。でも完成してもそういうことしか言えないんですよね。説明しにくいことがしたいので、どう説明していいかわからないというか。結果として説明できない、という円環に閉じ込められてしまうんです。
演出家としては自作のもの、自劇団のものだけでなく、原作ものを取り上げたり、他のユニットでやったりいろいろなタイプの作品があります。自劇団以外の代表作が小熊ヒデジと寺十吾の二人芝居を行うKUDAN Project(*7)の 『くだんの件』 です。件(くだん)という半人半牛の伝説の生き物を題材にしています。
 あの作品は、件をモチーフにして、そこから出るイメージを積み重ねるというか、足したり、引いたり、割ったり、微分したりしてつくりました。KUDAN Projectは徹底的に2人でやるという縛りがある。何か縛りがあったほうが、着地させやすいんです。他の人から頼まれて、お題を与えられたり「こういうふうにしてほしい」と言われたり、私というもの以外の向こう側の要素が入るほうが、取っ掛かりや根拠が与えられて、離陸しやすいというか。少年王者舘の本公演のように、「何をやってもいい」という時はいつまでも離陸できなくて、いつまでも書けない(笑)。
『くだんの件』の登場人物の名前は、ヒトシとタロウですが、ヒトシが“人と死”“人と牛”、タロウが“ミノタウロス”と一種のアナグラムになっています。
 ダブルミーニング、トリプルミーニングとか、言葉をバラバラにして別のものに組み替えたり。ひとつのものにいろいろな意味を持たせたい、というより、いろいろなものを封じ込めたい、というのはありますね。
ちなみに天野さんはイラストレーターでもあります。台本を書く時は、絵を言葉にしていく感じですか? アイデアをどのようにアウトプットされているのでしょう。
 絵も言葉も自分からは出ないから、セリフの語尾と次のセリフの頭をくっつけて(*8)無理やりひとつの言葉を生んでおいて、そこから派生させていく。要は“しりとり”ですね。勝手に増幅していく、というのを無理矢理言語でやっているわけです。最近はずっとそういうやり方です。その作業を重ねていくとやっと始まって、ちょっと書けるようになる。出だしが大変なんです。何でもいいんですが、その“何でもいい”ができない。言葉を重ねていたりするので台本を読むのは難しいけど、役者の配置や小道具など全て書き込んであるので、そのままやれば書いたものが立ち現れるようにはなっています。
舞台美術や照明など、ビジュアルは台本から起こしていくのですか。
 舞台美術や音楽などは事前に打ち合わせをしてつくってもらいます。照明や音響、大道具の転換といったスタッフの作業も、そのままやってもらえればできるように細かく書き込んであります。仕込みの時もまだ書いていたりするので、自分が現場に行かなくてもできるようにしておかないと本番に間に合わない(笑)。
“しりとり”でセリフを繋げていく時は、前の言葉を裏切るような言葉を次に持ってくる、というイメージですか。
 いや、普通に。でもバラバラでは面白くないから、ちゃんと意味が繋がるようにしています。あたり前のことだけど、いわゆる会話とかも含めて。もちろん、その中に裏切るようなことが出たら面白いですけど、それは“正と誤”とか“正と反”ということでしかないので、それはどちらでもいいわけです。
野田秀樹も言葉遊びで戯曲を書きますが、例えばテレビで流れていたものがそのまま戯曲に入ってきたりします。遊んだ言葉が空間的にも時間的にも展開していくことで、演劇的な世界が広がります。
 そうそう、そうじゃないと。何かとくっついていないと全然面白くない。それも後からくっついてくる、というものじゃないとダメですね。言葉遊びだけが浮いてしまうと面白くもなんともないから。
稲垣足穂について「言葉がオブジェに見える」と仰っていましたが、そうした感覚が劇作にも影響していますか。
 言葉をある意味の“物質”として置く、つまり、言語というものの意味とかそういうものは置いておいて物質として捉えれば、他のものと“等価”でしょ。そういう“等価”なものとして全部を繋げてしまう感覚があります。私たちが認識する、すごく遠いものと近いものがあるとしたら、遠いものも近いものも繋がっている、通底しているという、何か見栄えを一緒にするというところにちょっとだけ近づける。それは、お客さんに対して優しくなくても、繋がっているという感覚があれば大丈夫なんじゃないかと。
文字も意味も、光も何もかも“等価”ということですね。
 そうです。バラバラに見えているものがくっついた瞬間に、ちょっと爽快感を覚える。つまり万物照応(最大なる世界は最小なる世界と影響しあい、相似するという神秘主義の概念)というものですね、本当にやりたいことは。本当に何の関係もないようなものが全て照応している。でもそれは認識しているものでしかないから、認識以外のところでそういうものがぼんやり見えるような“ある設定”とか‥‥。こういう言葉で言えないようなことを説明しようとすると難しくなるんです(笑)。
現在、少年王者舘のメンバーは何人ぐらいですか。
 役者は20人ぐらいですが、公演毎に出たり、出られなかったり。オーディションはほとんどやらないので、公演を観て「入りたい」と言った人から少しずつ選んでいます。最初は劇団に舞台スタッフもいましたが、今はみんな独立しました。長年一緒にやっている舞台美術の田岡一遠さんは元劇団員ですし、スタッフは劇団員ではないけど、ある程度チームになっています。


KUDAN Project海外公演での挑戦

KUDAN Projectでは、国内公演だけなくアジアツアーにも行かれています(詳しくは国際交流基金が発行していた国際文化交流専門誌 「をちこち(遠近)」28号 参照)。これまでどこで公演されましたか。(KUDAN Projectのプロデューサーで役者の小熊ヒデジがインタビューに同席)
小熊: 初めての海外公演が台北で、他に香港、北京、広州、ハルピン、重慶、釜山、マニラ、クアラルンプール、インドネシア、計10都市を回りました。『くだんの件』は1995年に日本で初演していますが、相手役が変わったKUDAN Projectの作品としては台北が初演になります。
海外公演では言葉の問題がありますが、翻訳字幕は使わなかったそうですね。
天野: 実は字幕は準備してあったのですが、絶対に使うのはやめようと。それで、手書きで現地語のセリフカードをつくって、要所要所で役者に出してもらいました。
小熊: セリフカードはすべて現地に行ってから決まるので、仕込みの2日か3日で、きっかけが50〜100も増えるんです(笑)。
天野: 現地に行かないとわからないし、直訳でやっても何も面白くないと思ったから。演技の中にセリフカードという異物が入るわけで、それを出すことによって言葉を強調したり、いろいろな使い方ができる。役者には技術というか資質が必要で、小熊さんみたいな特殊な役者じゃないとできない(笑)。
漫画の吹き出しみたいなものですね。これは 松本雄吉 (*9)さんのヂャンヂャン☆オペラ(*10)と同じくらいの演劇的発明だと思います。
天野: セリフカードがただの違和感になるのではなく、いかに溶け込んでいるか、または逆に溶け込まずに違和感を出すか、といういろいろなテクニックが必要ですが、これができる役者が少なすぎるので、絶対一般化できない。
小熊: 身体で隠したり、相手が出したカードに自分のカードを被せたり、本来の演技とはまた違うアクションが必要になります。この海外バージョンは、日本でも何回か凱旋公演のような形でやりました。
天野: セリフカードを使って別な形の日本バージョンをやることもできる。セリフとカードの内容が同じではなく裏切ってもいいわけですし。可能性はたくさんあります。
作家はもちろん自分の書いたことにこだわりがあるので、それが強い作家にはできない作業ですよね。異化効果も生まれますが、そもそも自分の書いたセリフをバラバラにしたり、否定しない限り、この芝居は成り立たないので。
 そういうことにもなりますね。流山児★事務所の『西遊記』(天野が作・演出を務め、2015年に初演)で去年初めて海外公演を行い、今年も中国に行きますが、セリフカードをやってみたけど役者に合わない。特殊役者がいないとやはり成り立たないんです。前半で少し使いましたが、後半はやめました。それで字幕でやってみたらそれはそれで面白かったので、字幕でも大丈夫だということに気づきました(笑)。
天野さんが提示するものから我々が感じる、例えば日本人にとってのノスタルジーとか、呼び覚まされる記憶とか、潜在的な意識に働きかけてくるものというのは、海外の方にとっても同じなのでしょうか。
 観る側のアーキタイプ(元型)を突く…つまり、同じものを見ているのに全く別なものがそれぞれの認識の中に登場するような状態をつくることに腐心しているので、ある意味抽象的に表しているわけです。具体事例じゃなくて、元の元のところが勝負なので。だから変性意識状態(トランス状態)とはちょっと違うのですが、観る側が想像するものは千差万別でいいわけで、ただそこに通底している原形質のようなものがあれば普遍的なものになり得る。松本雄吉の『蟹殿下』(1984年)が、そういう原形質のような芝居でした。
維新派がまだ日本維新派だった頃に大阪の南港で上演した『蟹殿下』は、見事な同時多発演劇でした。台本に同時進行のシーンがあり、セリフがずっと繋がっているところがあり、舞台がひとつではなくて、トンネルを掘ってあらゆるところから役者が出てきました。
 僕は24歳の時に観たのですが、松本さんはこの頃まで、裸の役者が並んで一升瓶の水を全部飲んで全部吐く…つまり「人間は円筒、1本の管である」ということをそうやって表現していた。一升瓶の中身は設定では酒だけど、そんなことやったら死んじゃうからもちろん水で(笑)。そういうものを観て感動したわけです。バカバカしいやり方ですけど、「人間って一体なんだろう?」ということを一番わかりやすい形で示していた。
そういうストレートな松本雄吉の表現と、それをもっと迷路のようにする天野さんの表現と、出し方は対極のような気がしますけど、掴まえているところは同じだと思います。
 僕の中では全く一緒です。「人間は何やろ?」「世界は何やろ?」という本質的な部分のどうしても気になってしょうがないところが松本さんにも絶対あるはずで。焦点や結束点はもちろん違いますが、自分の中では同じことをやっているつもりです。
松本さんの表現は、写真で見るとすごく雄弁なんですよね。『足乃裏から冥王まで』という日本維新派の記録映画(1979年)を井筒和幸(当時は井筒和生)が撮っていますが、写真の方が語りかけてくるものがある。
 今見ても写真の方が雄弁ですね。確実に伝説になるものに、映像はいらない。動いてしまっているものをそのまま見ても、何も喚起力はないですよね。
そういえば、天野さんの作品は分解写真的だとも言えますよね。
 そうですね。映画が、コマとコマの間にスリットという“闇”がないと動いたように見えないのと同じことで、人間もマバタキをして、そこにちゃんと“闇”が入っている。マバタキの前と後では確実に違うはずなんだけど、連続しているように認識してしまっている状態が面白い。その闇の後に違うものがポンと出てきたら面白いわけで…というようなことを演劇でやっているんです。
だから早回し、スローモーションもある。
 あとコマ撮りですね。途中でフィルムが欠落して飛んでいるのを、普通に流れるようにする。切り離したものをどうやった面白くなるか、というのを考えるのが楽しい。
でも、カットバックやフラッシュバック、クローズアップは難しい。
 そう! これはずっと昔に松本さんと対談した時に、「演劇でクローズアップみたいなことをどうしたらできるか?」という話題になり、最初の主観のあり処とか、人間の認識はとか、偉そうなことを言いあっていたのが、途中から酒が入って馬鹿話になって終わってしまった(笑)。
松本さんは、蒸気機関車が前方から迫ってくる『ラ・シオタ駅への列車の到着』(*11)みたいなことも演劇でできないか、と言っていました。
 松本さんの目は濁っていないんです。だから初めて映画を観た人と同じ感覚で見ている。だって、映画の中の人間とかは巨大で、あんなに不気味なものはない。それを当たり前のように享受しているのはおかしい。最初はビックリしていたはずのことを忘れているだけですよね。そういうことを思い出してやっているような状態が、一番面白いんです。


新境地を切り拓いた人形劇

天野さんはここ数年、人形劇の演出(*12)も多く手掛けられています。これはご自身が希望されたのですか。それともオファーがあったのですか。
 ITOプロジェクト(*13)の山田俊彦さんが少年王者舘をずっと観てくれていて、「一緒にやりませんか?」と声をかけてもらった。人形劇というのはそれまでほとんど観たことがなかったのですが、きっといろんなことができるなと、すごく興味を持ちました。
ITOプロジェクトの公演ではオリジナルの人形をつくっていますが、天野さんからどういう顔で、どういう形で、とオーダーしたのですか。
 そうです。1回目の『平太郎化物日記』(*14)はほぼ全部、自分で絵を描いて指示しました。ITOは糸あやつり人形のユニットですから、ともかく糸でしかできないものに特化したことがやりたいと思いました。人形というよりも糸、“糸で操られる人形”に特化したいと。何か新しいジャンルをやるというよりも、要は“演劇でしかできないこと”と同じで、せっかくだから糸あやつりでしかできないこと、また糸あやつりではできなさそうなことを考えてやるのが一番楽しいし、やり甲斐があると思っています。糸のことがわからないからブラックボックスになっている部分もありますが、糸についてあまり知りすぎると、“不可能そうだけどできる”ということが書けなくなるので、今でも知り過ぎないようにしています。
今年上演された『高丘親王航海記』(*15)については?
 『平太郎化物日記』で僕の糸あやつりのアイデアはほぼ出尽くしているから、これは不可能かもしれないということを提示したり、「何か良いアイデアはないですか?」と募集したり、ITOのみんなといろいろコラボレーションして創りました。
“糸あやつりでしかできないこと”というと、人間の役者との違いで言えば、重力とか。
 そうですね。人間はできないけど、人形はすぐにフワッと浮いたりできてしまう。それを極力禁じ手にして、どうやったらこの浮いた感じをビックリするようなものにできるか。重力について考えることで、歩くことがどれだけ難しいか、貴重なことか、すごいことか、が出てくるわけです。糸あやつりを初めて体験する人でも人形を浮かすことはできますが、歩かせることなんてまず不可能です。だから遣い手が簡単にできてしまうことはやらないで、なるべくストイックにして、という考え方でアプローチしました。あと、同じ個体を増幅させることは人形では簡単にできますが、それだけでは全然面白くない。同じものが出た時にどうしたらビックリするか、というやり方を掘り下げられると面白い。
 人形だということはバレている。だけど…というところから始めると、ある意味のメタ構造というものがそこで生まれるわけです。
映画監督もされていますが、映画も同じで、映画でしかできないことをやって、映画なら簡単にできてしまうことはやらないわけですね。
 そうそう、そういう可能性・不可能性を考える。映画も、CG全盛だからできてしまうし、簡単にみえてしまう。もし、もう1回映画を撮れるなら、その辺のことを基本にして“映画でしかできないこと”に特化してやりますね。それが良いか悪いか、は別にして。『トワイライツ』(*16)を撮った頃は、フィルムだったから今の状況とは違いますけど、当時思っていた「フィルムという物質に焼き付けられた光の残像である」という感覚は今もあります。
KUDAN ProjectやITOプロジェクト以外で、定期的に行っている活動はありますか。
 熊本で雨傘屋(*17)というユニットの演出を、毎年1カ月くらい滞在して行っています。僕は協会員ではないけど、日本演出者協会が主催した「演劇大学in熊本」で講師をした時の受講生から依頼されました。雨傘屋は熊本大学OBを中心とした、それぞれ劇団を持っている人たちの集合体です。書き下ろしは無理なので、みんなが選んだ本をグチャグチャっとして演出しています。
天井桟敷のメンバーだった横尾忠則は美術とポスターをつくっていましたが、一方で状況劇場のポスターもつくっていた。ポスターを見ると、天井桟敷と状況劇場の違いがはっきりとわかるし、しかも横尾忠則の作品だということがわかる。天野さんの芝居もそれに近いものがありますね。
 嬉しいことを言ってくださいましたけど、そんな感じです。本質の捉え方だと思いますが、そこがブレなければいいんです。


至福のコラージュと新作公演

公演のチラシやポスターは天野さんがデザインされていますが、それを制作する時には作品のイメージはありますか。
 ないない(笑)。少しはあるかもしれないけど、その時に意識には昇っていないですね。
コラージュでデザインされていますが、それはコンセプトとして決めているのですか。
 コラージュは途中からです。それこそ、松本さんたち日本維新派と1回目の合同公演をした『少年ノ玉』(1987年)のポスターが初めてのコラージュです。それまではお金もないし、当時はカラー印刷が高かったので手書きで描いていました。今年の11月に名古屋で、僕が昔からやっているデザインワークの個展(*18)をやります。
あのコラージュを見ると、天野さんの頭の中を覗いているような気がします。
 イメージの集積というか、言うならばシュールレアリスムと同じ。絶対に自分の意志を入れずに、自分の手で描いたものではなくて、誰かがつくったものを組み合わせて別なものを創ることに特化しようとしています。自分の意志が入っても、自分としては全然面白くないから。どれだけ自分をなくせるか、という面白さなんです。
“集合的無意識”というお話もよくされていますが、チラシやポスターで表現されているものもそれなのですか。
 そうですね。自分で台本を書く時に、そういう集合的無意識を生み出せなくて遅れるというわけではないけど、締切があって「もうどうにでもなれ!」とヤケになった時に、ふと出たものを大切にするようなことがあるとしたら、コラージュをやる作業は相当それに近いですね。自分から出さずに他のところから持ってくる、というのをボーッとしながらやる。至福の時間です(笑)。
集合的無意識の境地に自分を置くという‥‥。
 その楽しさはあります。コラージュをやっている時は、相当自然に移行できていると思います。
それをトランス状態ではなくて正気でやっている。演劇は他者がいないと絶対にできないので、絶えず正気でいることが求められますから。
 そうなんですよ。正気な状態を保ったままどうするか? というのが大変難しいです。例えトランス状態に追い込んでもそうなれるかどうかもわからないし、自分で操作したり制御したりはなかなかできないですよね。
来年の5月には、少年王者舘の新作公演が新国立劇場で行われます。
 何をやるかまだ決まっていませんが、『1001(イチゼロゼロイチ)』というタイトルだけは勘で決めました。二進法であり、「ある・ない・ない・ある」であり、足穂の『一千一秒物語』であり、『アラビアンナイト(千夜一夜物語)』でもある。なんとなくその辺りのことを量子力学的な考えとかをフリかけてごちゃ混ぜにしてやりたい。『1001』にしておけば何でも入るからいいかなと思っています。
新国立劇場が劇団単体の公演を主催するのは、2003年の維新派『nocturne』以来だそうですね。
 そうみたいですね。でも、何をやってもいいと言われているから困っています。逆に「こういうのはやってはいけません」と言われると、その隙間が見えてくる。反発心ではないけど、その方が燃えるし、超える目標が立つんです。

*1 稲垣足穂
1920年代(大正末期)〜70年代(昭和後期)にかけて、飛行機、天体、エロティシズムなどをモチーフに数々の作品を発表した小説家。代表作は『一千一秒物語』『少年愛の美学』など。

*2 鈴木翁二
1949年愛知県生まれ、北海道在住の漫画家。『月刊漫画ガロ』や漫画・評論誌『夜行』などで作品を発表。天野は、1990年と1998年に鈴木の代表作『マッチ一本の話』、2004年に『こくう物語』を舞台化。あがた森魚も1994年に『オートバイ少女』を監督し、映画化している。

*3 『月刊漫画ガロ』
青林堂創業者で編集者の長井勝一と漫画家の白土三平により、1964年に創刊された青年漫画雑誌。代表的作家は、水木しげる、つげ義春、林静一など。独自の作家性を持つ執筆者らは「ガロ系」と称された。2002年休刊。

*4 あがた森魚
1948年北海道生まれのシンガーソングライター。林静一の同名漫画を題材とした「赤色エレジー」が1972年に大ヒット。音楽活動のほか、映画監督(『オートバイ少女』『港のロキシー』など)や俳優としても活躍。天野は、10代の頃からあがたの曲を愛聴、プラネタリウムでのライブ「プラネッツ・アーベント’99」の演出や、あがた自身も出演・音楽を担当した舞台『赤色エレジー』(2011年上演)の脚本・構成・演出を手掛けるなど親交が深い。

*5 「七ツ寺共同スタジオ」
1972年に創立された、名古屋随一の繁華街・栄に近い大須エリアにある定員90名の小劇場。演劇、舞踏、パフォーマンス、映像などさまざまな表現活動のための開かれた空間として、また地域の演劇センター及び街のアート拠点として半世紀近い歴史を積み重ねてきた。1998年には25周年記念誌「空間の祝杯─七ツ寺共同スタジオとその同時代史」、2014年には40周年記念誌「空間の祝杯II─連動する表現活動の軌跡」を上梓。

*6 役者の映像を重ねて投影する
役者のいる舞台全体の映像を事前に撮影し、実際の舞台や、同ポジションで立つ役者の実体にその映像を重ねることで生まれる効果を狙った独自の演出方法で、“同ポジ撮影”と呼ばれる。「そこにある世界を撮り入れて、もう一度同じ大きさで元の世界に重ねてみる。それをずらすと不思議な感じになるし、さらに加工して元来あったものを歪ませたり、波紋のように揺らすと、面白い効果を生む」と天野。現在も映像を担当する浜嶋将裕のアイデアから出発した。

*7 KUDAN Project
1995年に『くだんの件』を初演したキコリの会を前身に、俳優でプロデューサーの小熊ヒデジ(てんぷくプロ)と、俳優で演出家の寺十吾(じつなしさとる/tsumazuki no ishi)による二人芝居を、天野の作・演出で上演するユニットとして1998年に名古屋で結成。これまで『くだんの件』、『真夜中の弥次さん喜多さん』(原作:しりあがり寿)、『美藝公』(原作:筒井康隆)を上演。2005年には出演者総勢160名以上による『百人芝居◎真夜中の弥次さん喜多さん』を上演し話題を呼んだ。2018年12月には『真夜中の弥次さん喜多さん』再演ツアーを名古屋、伊丹、四日市で敢行予定。

*8 セリフの語尾と次のセリフの頭をくっつけて
台本上では前の役者のセリフの語尾と次の役者のセリフの語頭が“同じ音のコトバ”になるよう表記されており、それを役者が重ねて発声していくことで独特のリズムが生まれる。下記はその一例(1998年『それいゆ』より)。

次郎 |わたしは岬のトッタンに立ち
ひなた|たちまちソコラはユウカタに
夕目 |ソコのぞくここちで
次郎 |ちでいた
ひなた|いた かった
夕目 |かったばっかのくつはいて …

*9 松本雄吉
維新派主宰・演出家。1970年に日本維新派を旗揚げ(1987年、維新派に改称)。野外にこだわり、公演の際には役者・スタッフ総勢50名ほどが50〜60日をかけて巨大な野外劇場を建設。公演後は釘一本残さず元の更地に戻した。大阪の南港、岡山の犬島、滋賀のびわ湖水上など各地で公演を行い、その場の風景を取り込んだ作品で観る者を圧倒し続けたが、2016年6月に食道癌のため他界。維新派は、同年10月の奈良・平城宮跡公演『アマハラ』、翌2017年10〜11月の同作台湾公演をもって解散した。

*10 ヂャンヂャン☆オペラ
セリフのほとんどを単語に解体し、5拍子や7拍子のリズムに乗せて大阪弁で語る、維新派独特の発語スタイル。バリ島のケチャに似ていることから、「大阪ケチャ」とも評される。松本雄吉は1991年に東京・汐留で上演した『少年街』でこのスタイルを確立した。

*11 『ラ・シオタ駅への列車の到着』
1895年にフランスのリュミエール兄弟によって監督・製作された、白黒サイレント短編ドキュメンタリーフィルム。最初に上映された時、観客は自分たちに迫りくる実物大の列車に驚き、叫び声を上げて逃げ出したという。

*12 人形劇の演出
2004年のITOプロジェクト『平太郎化物日記』以降、2005年人形劇団むすび座『夜叉ケ池』(原作:泉鏡花)、2007・08年『平太郎化物日記』再演、2012年江戸糸あやつり人形結城座『ミス・タナカ』(作:ジョン・ロメリル)、2014年糸あやつり人形一糸座『泣いた赤鬼』(原作:浜田廣介)、2016年・18年『泣いた赤鬼』再演、2016年一糸座『ゴーレム』、翌2017年同作再演、2018年ITOプロジェクト『高丘親王航海記』と、これまで4団体6作品の脚本・演出、時には人形美術デザインも務めた。

糸あやつり人形一糸座『泣いた赤鬼』
(2016年/原作:浜田廣介、脚本・演出:天野天街)

*13 ITOプロジェクト(アイティーオープロジェクト)
代表の飯室康一ら、関西の糸あやつり人形に関わる劇団の有志とその賛同者により結成。現メンバーは9名。「日本の糸あやつり人形の技術継承や、現代に受け入れられる糸あやつり人形劇の創造」を目指し、2001年の発足以来、公演やワークショップをコンスタントに行っている。

『高丘親王航海記』操演風景
撮影:羽鳥直志

*14 『平太郎化物日記』
ITOプロジェクトと天野天街の共作第1弾。2004年に大阪・名古屋・広島で初演、2007年に東京、2008年に静岡で再演された。江戸時代中期、備後三次(現在の広島県三次市)の稲生武太夫(幼名・平太郎)が体験したという物怪騒動の記録「稲生物怪録」をもとに天野が脚本・演出・美術を手掛けた。人形デザインやネタ帳なども収録された台本が、北冬書房より発行されている。

*15 『高丘親王航海記』
1992年に天野の脚本・演出により、澁澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』を野外劇化。七ツ寺共同スタジオ創立20周年&少年王者舘創立10周年企画として、維新派、てんぷくプロとの合同公演の形で上演、各界の注目を集める。2018年、ITOプロジェクトと天野の共作第2弾としてこの作品を人形劇化し、東京、伊丹、飯田で上演。糸あやつり人形劇の可能性を拡げた驚きの演出の数々と、難易度の高い演出家の要求に応えた遣い手の高度な技術が絶賛され、大好評を博した。

ITOプロジェクト『高丘親王航海記』
(2018年/原作:澁澤龍彦、脚本・演出:天野天街)撮影:羽鳥直志

*16 『トワイライツ』
1994年に愛知芸術文化センターのオリジナル映像作品として天野が初監督した短編映画。少年トウヤが、死の瞬間から過去・現在・未来の郷愁を採取して幻の地図を巡る、サイレント、スラップスティック調ロードムービー。「第41回ドイツ・オーバーハウゼン国際短編映画祭」及び「第44回メルボルン国際映画祭短編部門」で、共に日本人として初めてグランプリを受賞した。

映画『トワイライツ』
(1994年/監督:天野天街)

*17 雨傘屋
2009年に熊本で結成された演劇ユニット。2011年の第2回公演『隣にいても一人』(作:平田オリザ)以降、天野に演出を依頼。2013年『わが星』(作:柴幸男)、2014年『禿の女歌手』(作:ウジェーヌ・イヨネスコ)、2017年『夏の夜の夢』(作:ウィリアム・シェイクスピア)など、ほぼ年1回公演を行っている。2018年10月11〜14日に『隣にいても一人』を熊本の「studio in K」で再演予定。

*18 デザインワークの個展
名古屋市民芸術祭の企画美術展として、2018年11月15日〜30日に名古屋・覚王山の「揚輝荘(ようきそう)」にて『揚輝荘天街展/ヨウキソウテンガイテン)』が開催される。コラージュ表現による宣伝美術の原画展示を中心に、映画『トワイライツ』の上映&ゲストによるトークショーなど、スペシャルイベントも予定。

 

少年王者舘『思い出し未来』
(2016年/作・演出:天野天街)
撮影:羽鳥直志

少年王者舘『シアンガーデン』
(2017年/原作:虎馬鯨、脚色・演出:天野天街)
撮影:羽鳥直志

KUDAN Project『くだんの件』海外バージョン
(2001年 韓国・釜山/作・演出:天野天街)