『ディクテ』『春の祭典』
- “書き取り(ディクテーション)”の意味を持つテレサ・ハッキョン・チャの実験作『ディクテ』は、韓国語、フランス語、英語、そして漢字、さまざまな文章からの引用などを交えながら自らの引き裂かれたジェンダーや多文化に挑んだ難解な実験作です。それをもとに舞台化したうんさんのパフォーマンスは、自身の経験を交えながら、テキストを語り、身体をもだえ、舞台美術に絵や漢字を書き、客席に話しかけるなど、断片的でありながら、テレサの違和感に満ちた世界に共感した作品になっていました。音楽も日本の曲やサムルノリとかいろいろ異質なものを使っていましたね。
- この本は、友人のダンサーから2006年に贈られたものです。詩でもなく小説でもない、とても不思議な、すごくダンシーなテキストだと思いました。本人の言葉だと思ったら、第三者の言葉の引用だったり、多言語だし、どこまでが本当かわからない。私の「母国語(母語)」をそのまま使ったらこの世界は舞台化できない、母語じゃない言葉を使いたいと思いました。じゃあ、舞台上における私の母語は何か? それは日本語以上に「ダンス」なんじゃないか。母語を使わない、「母語じゃないダンス」を考えようと。それで「常に『踊りにくさ』を抱えたダンス」をやろうと思いました。曲も自分が心地よく踊れない、少し嫌悪感を持つようなもので、人々の思い出が刻印されているようなもの、『マタイ受難曲』とか『ふるさと』とかを使いました。
- 2012年に発表したカンパニー作品『季節のない街』(山本周五郎の小説がモチーフ)でも第九を使っていましたね。ある意味でベタと取られるものを真正面から扱うのは意図的にやっているのですか。
- はい。ベタな音楽によって観客の記憶が立ち上がると、そのイメージと目の前のダンスを比較しながら観ますよね。まるで歌舞伎のイヤホンガイドみたいに「テキストを読みながら見ているような感覚」になるんです。人の中にある記憶のガイドを呼び起こしながら、目の前でリアルタイムな出来事が展開していく気持ち悪さと気持ちよさ(笑)。それをシンクロさせたり、拮抗させたりは、意図的にやっています。
- そういう意味では、最新作『春の祭典』では逆にストラヴィンスキーのバレエ曲に真正面から取り組んでいました。緻密に積み上げたダンスを、体力の限界に挑んでいるかのように怒濤の勢いで展開していました。
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『春の祭典』では、楽譜を研究して、曲の一つ一つのモチーフと、使われている音色などを細かく分析して動きやシーンを作りました。初演から100周年ということもあり、ダンサーも踊りたいと言っていたので思い切りやりましたが、「ここまで激しい振付にしなくても……」と零していましたね(笑)。
思い切り激しい振付にして、いままでダンサーに感じていた物足りなさを少し乗り越えた気がしています。たとえば大きな空間で踊った経験のないダンサーは、空間の把握の仕方が小さい。指の伸ばし方ひとつにしても、ほんとうに広い所で踊らないとわからない。それを今回は思い切りやらせられたのではないかと思っています。
実は、オーケストラの音楽に対する理解にも物足りなさを感じていて。今回はダンサーにスコアの見方から教えて、「何の楽器のどの音でこの動きをやる」ということをギッチリ決めました。音楽というものはここまで細かく聴けるものだ、ということをわかってもらえないと、他の作品でも私の振付がシェアできない。このことは、日本のダンサーと仕事をするときにしばしば感じていた不満でしたから。 - うんさんは音楽の編集も自分でやられるそうですね。
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はい。日本のダンス作品の場合、たいてい音楽をBGMとして使うか、ノリで使うか、ということが多い。後はこけおどしの爆音とか。でも音楽はもっと豊かなものだし、高次元の数学的な面もある。その「音の数学的空間」は、私には目に見えるくらいクッキリと捉えられるのに、振付家もダンサーも平たい使い方しかしないことが多いように思います。またどんなに音楽の力を駆使しても、照明を入れた瞬間に薄っぺらい音に聞こえたりすることもあるので、照明とのバランスは必須です。「耳で見る」と言ったらヘンですが、視覚的なものこそ、聴覚的に判断しないとダメだと思います。
「止まったら死ぬ」
- ご自身について伺わせてください。子どもの頃から膠原病リウマチの持病をお持ちだそうですね。
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はい。今でも身体中の関節が痛むのを、何とか筋肉でサポートしている状況です。朝は能役者のようにゆっくりとしか動けず、午前中いっぱいかけてヨガなどで身体をほぐして、ようやく午後から動けるようになるという感じです。
子どもの時は器械体操と水泳をやっていて、学校の前と後に練習に行く毎日でした。水泳はジュニアオリンピックの強化選手になるくらいで、器械体操で宙返りをしているのも好きでした。でも小学5年生のある日、交通事故に遭い3ヶ月ほど運動ができなかった。すると水泳も体操も、以前できていたことができなくなって、ちょっと荒れてしまった(笑)。そしたら、今度は中学1年の時に、関節が痛くて専門医に行くとリウマチだと診断された。「免疫力も弱いしあらゆる関節の軟骨がなくなっていくから、水泳や体操といったスポーツはやめたほうがいい。でも動かさないと固まってしまうのでダンスをやってみたらどうか」と医師から奨められました。これがダンスをはじめたきっかけです。 - ダンスにはすぐになじめましたか?
- スポーツと違い「勝ち負けがない世界の価値観」というのが全然わからなくて、全く面白くありませんでした。バレエはずっと地味なことをやらされるし、私より小さい子どもがもの凄く上手に踊ったりするわけですよ。学校ではヤンチャしても、バレエ教室では大人しくしているしかない。しかも関節が痛いからストレッチが辛くて。でもサボっていると思われるから痛いとは言いたくない。
- そこで逃げたりはしないんですね。ヤンチャなんだか、マジメなんだかよくわからない(笑)。
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運動しないとどんどん関節が動かなくなるという強迫観念がありましたからね。指も痛むので、ピアノの練習もすごくやっていました。とにかく「止まったら死ぬ」って、どこかで思っていました。それでも沸き上がるエネルギーの行き場がないからヤンチャをしていたけど、本当に楽しいわけじゃなかった。だったらバレエのつまらないお稽古にでも行ったほうが救われる、というのはありました。リハビリだと思って、バレエは大学生、某証券会社に就職してからも趣味としてやっていました。
仕事は営業成績は良かったものの、とにかくストレスが溜まって93年の暮れに辞めました。自分が仕事以外にやっていたのはダンスしかなかったので、退職金を持って会社を辞めた次の日、発作的にニューヨークに行きました。それが1993年のクリスマスです。向こうではスタジオのオープンクラスやマース・カニングハムのスタジオへ行きました。お金は極力ダンスのために遣おうと思っていたので、飲まず食わずで。ある日アパートで倒れてしまい、偶然遊びに来た友人に助けられて病院に行った。でも寒さで避難してきたホームレスが仮病を使って集まっていて、なかなか私の番がこない(笑)。見てもらったら胃潰瘍と栄養失調でした。 - 栄養失調って……完全にホームレス側じゃないですか(笑)。
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言われてみると、その通り(笑)。
自分にとってのダンスは自分で歩いて行く道でしか見つけられない
- しかし90年代といえばダンスの中心はアメリカからヨーロッパへ移っていた頃ですね。
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そうですね。あまり面白いものはなかった気がします。とりあえずビザなしでいられる3カ月を過ぎたところで帰国しました。それから学習障害の子どものための学習塾を開いたり、ダンス企画をまだ手探りで展開していた横浜STスポットを手伝ったりしました。そこでとにかく作品をつくりたくて、96年3月に「neighbors」という5人のダンサーに振り付けた60分作品をつくり、3ステージの自主公演をやりました。今思うと無謀ですよね(笑)。
私は自分の身体には興味がなくて、最初から振付志望だったんです。冒頭の30分はほぼ真っ暗な中で男性ソロが20分ぐらい続き、4〜5人の少しポップなシーンが入るみたいな構成でした。当時館長だった岡崎松恵さんに「作品はムチャクチャだけど」気に入られてスタッフに誘われ、色々助けてもらいました。そのとき、我ながら「経験のない若手にとって60分作品は無謀だ」と思ったので、短編の公募企画『ラボ20』を立ち上げたりしました。 - 96年といえば、同じ横浜では横浜ダンスコレクションなども始まっていましたね。ダンスも盛り上がってきた時期ですが、そういう状況をどう見ていましたか?
- もともとピナ・バウシュの初来日公演(86年)やヨコハマ・アートウェーブ(89年。日本で初めて本格的に海外のコンテンポラリー・ダンスが紹介したフェスティバル)など、ダンス公演はよく見ていました。もちろん素晴らしいとは思ったし影響もないわけはないと思いますが、「あんな風に踊りたい」という類の「あこがれ」って一度も抱いたことはないんです。まずプロのダンサーの道など考えてもいなかったし、自分にとってのダンスは自分で歩いて行く道でしか見つけられないのではないかという感じがしていました。アスベスト館に通って舞踏をやってみたときも、「どういうものか知りたい」という興味であって「何かを身につけよう」という意識ではありませんでした。
- では何を頼りに自分のダンスをつくっていったのですか。
- そこは、もがきました(笑)。ただやはり自分自身の身体の感覚を頼りにするしかない。水泳で水中にいるときや器械体操で重力から開放されたときの一種の浮遊感というか、私の身体に子どもの頃から刻み込まれているものが原点だったと思います。今ならば「スピードと重力から開放された時、圧力によって生まれる何か」と言語化できますが、当時は感覚としか思っていませんでした。
- 97年からソロ活動を始めます。先ほど「自分の身体に興味がない」とおっしゃっていましたが、興味が湧いてきたのでしょうか?
- いや、特に湧かないんですけど(笑)。ただバレエのような「スパイラル状の筋肉と骨格に支配された身体の捉え方」だけではなく、舞踏がいう「空っぽの身体」「袋のような身体」を合わせると、ちょっとは愛せるかな、と。自分の身体をということではなくて、あくまで「身体という存在に興味をもった」ということ。そういう身体からでてくる動きに興味はあるのですが、身体と考えている頭がチグハグな感じがして、自分の身体を通して研究する必要があると思ってソロをはじめました。
- その結果、翌2000年には横浜ダンスコレクションでソロ作品『duo』がフランス大使館賞を受賞。同年にベルリンの国際ダンスフェスティバルでグループ作品『乙女の祈り─ピンクのキャベツ隊』を発表します。
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フランス大使館賞は私が第1回の受賞でした。そのとき招待客として来日していたドイツのディレクターからフェスティバルに招聘されたので、フランスに行く直前にベルリンで公演しました。フランス大使館賞の副賞として半年間のビザと奨学金がもらえたので、マルセイユのミッシェル・ケレメニス・カンパニーと、オープンクラスのスタジオで受け入れてもらうことにしました。
滞在中はダンスやオペラを見たり、旅をしたりしていました。フェスティバルで作品が上演できないかと思ったのですが、2年先までプログラムが決まっていると言われて。そんな矢先、アーティストが占拠したたまり場のような「レ・フリーゴ」(Les Frigo)という場所でそこに住んでいるビジュアルアーティストやミュージシャンと夜な夜なセッションを始めました。また、新人振付家が作品をプレゼンして発表の場をもらえるという公募企画「Les rendez vous de la danse」を見つけました。滞在中は安いスタジオを借りてソロの短いピースを10ピースぐらいつくっていたので、それを踊ったら非常に喜ばれて、私だけ特別に開催期間中は連日踊らせてもらった。フランスでカンパニーをつくらないかと誘われたのですが、日本で活動したくて帰国しました。 - 帰国後、さまざまなユニット活動を経て、2002年にダンスカンパニーCo.山田うんを設立します。
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最初はパフォーマー・コンポーザーの足立智美とVACAというユニットをやったり、丹野賢一の短編レパートリーと私の短編レパートリーとの抱き合わせ公演で全国ツアーをしたりしていました。グループワークもやりたくて、2001年に音楽を足立智美に委嘱した『スコア〜集合写真とカレーうどん』をつくりました。グループワークを続けるには、知人に声をかけてやるというのではなく、これまでの人間関係を抜きにして、興味のある身体だけをオーディションで選んでカンパニーをつくった方がいいと思いました。
オーディションで私が重視するのは、動き以上に、頭の大きさや肩幅と手足の長さなど「骨格」のバランスです。私の振付にスッと入れる人は、すぐわかります。といってもスッと入れるのに3年くらいはかかりますが。逆にパーフェクトな素晴らしいダンサーでも、私以外の振付家のほうが合うなと思う場合は採りませんし、器用に私の振付を踊れた人が私の欲しいダンサーではなかったりします。 - 山田さんのカンパニーは本当に良いダンサーを輩出しています。 岩渕貞太 、関かおり、田畑真希など、後に独自の活動を活発に行って、賞を取っている人も多い。オーディションの内容はどのようなものですか。
- オーディションでは、ウォームアップ、振り、即興をやってもらっています。ウォームアップをしている時の歩き方や人との交じわり方から見ています。即興は無音で「やりたい人からどうぞ」という感じですが、どんな風にいつ出てくるか、振る舞いから見ます。振付は完全に振り写しをします。
- カンパニーを立ち上げた02年には『十回じっかい』という連続ソロ公演もやっていますね。
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2004年のシアタートラムでの長編ソロ「テンテコマイ」の助走としてやりました。それまでソロは狭いスペースでしかやったことがなくて、ちゃんとした劇場でやるのは初めてでしたので。BIWAKEIスタジオを借りて10回公演をやりました。タイトルの『ジッカイ』は“十戒”と、毎回違うソロダンスの“10回公演”を掛けたものです。途中で観客が5人ぐらいになってしまい、「これで終わるな、私」とまで思いましたが(笑)、その後からリピート客が増えて盛り返し、何とか今に至るという感じです。
そうやって準備した『テンテコマイ』だったのですが、開演して3分で大怪我をして入院。翌日は休演しましたが、次の日には病院を脱走して踊りました! まさにテンテコマイ大成功(笑)。同じ年にパズルのような『ワン◆ピース』とチェーホフが妻に宛てた手紙に材を取った『w.i.f.e』を同時に発表しました。
2006年は体調を崩し、二度の入院生活がきっかけでガラッと生活スタイルが変わりました。ヨガを始めて早寝早起き、気付いたら酒もタバコも要らなくなった。リウマチは楽になりました。身体が一度リセットされた感じです。 - そして07年にはベルギーのカンパニーdeepblueとの共同制作『ひび』、08年には日本での 『ドキュメント』をつくります。
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deepblue は、「横浜借景」(日本とベルギーのアーティストによるダンスの国際共同制作プロジェクト)で馴染みのある「field works-office」の前身です。メンバーの篠崎由紀子とSTスポット時代からの古い知り合いで。最初は互いの国を訪れたとき一緒に稽古をするだけだったのですが、2〜3年かけてメールのやり取りを重ね、最後にベルギーで一緒にクリエーションをして07年に発表しました。
『ドキュメント』では11人のダンサーに1対1で個別に振付をして、1カ月後に全員で合わせるというつくり方をしました。ダンサーがひとりの身体でやる動きのボキャブラリーと、集団でやるエネルギーはすごく違う。「この人は1対1ならどんな表情を私に見せるのかを掘り下げたい」と思いました。「ショパンのノクターンで3分間踊って」と言われて、激しく動く人もいれば、ずっと座っている人もいる。そうやって私を入れて12色の毛糸をまず揃え、編み物をしていくような感じで作品にしていきました。ダンサーたちは、自分が作品のどこにいるのか知らないので、グループ作品でも自分のソロを踊っているように舞台に居続けることができる。ダンサー個人の人間的なコミュニケーションと、私の中のコンセプチュアルな構造を合体することができる。このやり方はまたやってみたいですね。 -
お話を伺っていると、本当に多彩なつくり方で驚きます。
アーティストは「絶対子どもたちの周りにいないような大人」を見せる
- 09年が『カエル』。前半が茅ヶ崎の市民と創作したコミュニティ・ダンス、後半が自分のカンパニーの新作で、幅広い観客にコンテンポラリー・ダンスを見てもらえるスマートな方法ですね。
- ヨーロッパは劇場や国が新作の資金を出してくれますが、日本のように助成金に頼るしかないシステムだと、いつか作品を作れなくなる、違う形でバックアップしてくれる人を見つけなければ、とずっと思っていました。そこで出会ったのが、私たちのようなアーティストを地域の公共ホールとつないでくれる財団法人地域創造の「公共ホール現代ダンス活性化事業」でした。2005年で金沢市民芸術村に行ったのがはじまりですが、茅ヶ崎文化会館でも子どもたちや市民と一緒にワークショップをやるようになりました。茅ヶ崎は自分の育った町なので、知り合いもいて家族みたいな感じでやっています。
- うんさんは、こうしたコミュニティ・ダンスの草分けとして精力的に活動されてきました。学校へのアウトリーチもたくさんされてきましたが、どんな感じで取り組んでいるのですか。
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もともと私が学校嫌いでしたから(笑)。子どもにしても、とりあえず教師に言われているから座ってるだけ。そこに「みなさん、こんにちは!」みたいな、予想通りのことをしてもダメだと思うんです。せっかくアーティストが行くのだから、絶対子どもたちの周りにいないような大人を見せないと。たとえば教室に入っても何もせずに出ていくとか(笑)。すると子どもは当惑して、自分で色々考え出すんです。教室に入って、一言もしゃべらないで、動くだけで体育館まで誘導したこともあります。
「日常には、予期しないことが起こる」ということは、悲惨なニュースなどでも知ることはできるけど、楽しいことでもあるということを体感させたいですね。みんな学校生活とかテレビの中といった「自分が今知っていることが世界の全部だ」と思って、あきらめているところがある。そうじゃない世界があることを見せたいし、それは最終的に自分自身の中にあるんだというメッセージを伝えたい。だからワークショップの時にはこれでもかっていうぐらいガンガン踊ります。子どもたちは即興で汗びっしょりになって、楽しい楽しいって言いながら勝手に踊り始めますよ。 - 日本では中学校・高等学校でダンスが必修化されて話題になっています。それが身体を動かすことの本質的な楽しさを発見する方に向かうと素晴らしいのですが、えてしてヒップホップのステップを覚えることばかりになりがちですよね。
- 大切なのは「踊りを教える」ことではなく、「踊りたくなる状態をつくり出す」ことです。「踊りたくなる」ってこういうことだ、「踊っちゃう」のはこういう感じ、というのを一度でも体験したら、放っておいても踊れるんです。でもそういう経験がないと、「ステップを踏めないと踊れないものだ」と思い込んでしまう。ウキウキして走り出したりスキップしたりするという、そういう当たり前の体験を知らない子どもたちが、増えているんです。
- 相手の心を鷲掴みにして、踊りたくさせる……それはまさにアーティストの仕事ですね。そういうコミュニティ・ダンスの現場から、自分が影響されることはありましたか。
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ありますね。2010年の『ショーメン』という作品にすごく反映されています。
ワークショップでは、子どもたちに360度いつも囲まれます。子どもたちにとっては私の身体のあらゆる面が「正面」であって、決して「顔がある方向」ではない。そこで私も「舞台芸術は正面性に囚われることで失ったものがあるのではないか」と気づかされました。
それで『ショーメン』のクリエイション以降、ダンサーたちにもワークショップにアシスタントで参加してもらい、「正面が無いことの当たり前さ」を体験してもらいました。その結果「裏表もない、本音と建て前もないのが当たり前」というところにカンパニー全員が居ることができるようになりました。アウトリーチで予期しない展開になっても、偶然起こったことをダンサーたちが上手く拾って必然のように見せながら次につないでいけるようにもなりました。以来、ダンサーは、振付を踊っても即興的に偶然を取り入れて、かつ必然のように踊れるようになりました。
身体を媒介にしたマルチな発想
- いまローザスの 池田扶美代さん とのコラボレーション(2013年10月初演。日本ではKAATで10月18日〜20日)を進めているそうですね。ベルギー在住の池田さんと毎日単語を1つ送り合ってアイデアを探っているとか。
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それは最初の半年間ぐらいやって、900ワード以上交換しました。単語と単語の間にはまるでレース網のようなゴシックのような、どこか規則的な模様が浮かび上がる「隙間」があって、それは何だろうかと考えたり話し合ったりしてます。「隙間」って何もないように見えますが、とてもリッチな空っぽにも見えるんですよね。音楽はベルギーの音楽集団「BL!NDMAN」のサックス演奏によるバッハのオルガン曲を使用します。
扶美代さんとはバックグラウンドも踊り方も全然違うけど、大きな共通言語を持っているような気がします。それはお互いにこの年齢だから浮かび上がってきたんだと思いますが、例えば、黄昏時の空の色って何て言い表したらいいんだろう、なんてことを延々と話したりします。それと素直に踊っているその背後に、一種の「悪意」があるようなところが、私と似ているんです(笑)。ただふたりで手を繋いで「悪意」をつくるには、すごく面白い手の繋ぎ方を見つけなきゃいけない。全てはこれから! - 最後に、病気と二人三脚であることが、うんさんのダンス観に反映されているのでしょうか。
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自分の病気も含めて身体というものを理性的に見られるようになりました。免疫のメカニズムと精神のメカニズムは似ているなと思うんです。免疫異常は、回路が狂って出口がなく自分自身を攻撃してしまうのですが、そういう回路のあり方が私の作品づくりにすごく影響していると思います。
自分のことがすごく馬鹿に思えたり、尊いものに思えたりする。どこかにあるひとつの正解を求めていくのではなくて、相反すること全てを同時に行うという立体的な思考回路は、やっぱりこの身体によって導かれてきた思うんですよ。だから病気を抱えているということは、ひとつの特権だと思っています(笑)。