池田扶美代

ローザスの創立メンバー 池田扶美代のチャレンジ

2012.11.02
池田扶美代

池田扶美代Fumiyo Ikeda

1962年大阪生まれ、福井育ち。1979年、モーリス・ベジャールが創設したダンス学校「ムードラ」に入学。同校でアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルと出会い、1983年にローザスを結成。以来、92年まですべての作品の創作に携わり、ダンサーとして出演。退団後もフリーのダンサーとしてローザスの舞台、映画、ビデオに参加。97年にローザスに復帰。また、近年は自らのアイデアによるクリエイションを開始。アラン・プラテル協力の下、ベンヤミン・ヴォルドンクと共作・共演した『Nine Finger』(2007年)、イギリスを代表する演出家ティム・エッチェルスとコラボレーションした2作目のソロ作品『in pieces』(2009年)、 ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマと『Life & Times Episode 2』(2010年)を発表。2012年はローザスのダンサーとして『Drumming』と『Elena’s Aria』のツアー中。

ベルギーを代表するダンス・カンパニー「ローザス」。1989年の初来日以来、日本のダンスファンに衝撃を与え続け、来日公演も多い。1983年に振付家のアンヌ=テレサ・ドゥ・ケースマイケルが旗揚げしたローザスに創立メンバーとして参加し、コンテンポラリーダンスを創世記から支え、約30年にわたって海外で活躍してきたダンサーが福井出身の池田扶美代だ。その間、ローザスだけではなく、舞台や映像などの先鋭的な作品にも出演。近年は、自らのアイデアによるコラボレーション作品にも取り組み、ベルギーを代表するアラン・プラテル(振付家)、ベンヤミン・ヴォルドンク(俳優)と組んだ第1作『Nine Finger』(2007年初演)、イギリスを代表する演出家ティム・エッチェルスとコラボレーションした第2作のソロ作品『in pieces』(2009年初演)を発表。アフリカの少年兵の目を通して戦争の過酷さを訴える小説を基にした第1作、言葉や身振りの断片の積み重ねで“記憶”をテーマに取り上げた第2作はともに、池田の強靱な身体を軸に、言葉と身体が交錯し、即興的なパフォーマンスが展開する実験的なもの。『in pieces』日本公演のために帰国した池田に、これまでとこれからを聞いた。
聞き手:乗越たかお[舞踊評論家]

最新作『in pieces』について

自分で作品をつくるようになったのはどうしてですか。
アンヌ=テレサから何か作品を創ってみれば?と言われたのがきっかけです。その時に「『何をつくりたいか』じゃなく『誰とやりたいか』を考えたら?」と言われて、ベンヤミンとやりたいと思いました。彼はワイルドなアーティストだし、二人だけでやるより、舞台に立たなくていいからコーチしてくれる人がいたほうがいいんじゃないかとアドバイスされて、じゃあアランがいいってお願いしました。それが『Nine Finger』です。『in pieces』では、ローザスの元アーティスティック・ディレクターのギイ・ゲイプンスがティムを推薦してくれました。完全なソロをやったことがなかったので、挑戦してみたいと思ってつくりました。
ティム・エッチェルスは言葉の可能性を追求した前衛作品で知られています。『in pieces』では、池田さんはしゃべりっぱなし、動きっぱなしです。oneなになに、twoなになに、threeなになに…とカウントしながら、感情や池田さんの過去のエピソードを断片的に話す短いシーンがずっと続きます。そこまでしゃべることになると思っていましたか。
 もちろんティムの作風は知っていました。なぜか日本に招聘される作品はセリフがないものばかりなのですが、実はローザスの作品の3/4はセリフのあるもので、私はよくしゃべっているんです。日本の観客には意外かもしれませんが…。
日本でローザスといえば、1989年の初来日で上演した『バルトーク/ミクロコスモス』でイメージが確立してしまったので、セリフのある作品は招聘しづらいのかもしれません。僕は、1994年にベルギーの『クンステン・フェスティバル・デ・ザール』で、映画をモチーフにした『キノック』という作品を見て、「ずいぶん印象が違うな」と思いましたから。
 そうでしょう。ちなみに『キノック』の中の『ローザ』というシーンは私がつくったものです。それを元にピーター・グリーナウェイが『ローザ』(1992)という短編の映像をつくっています。
『in pieces』の創作プロセスを教えてください。
 ティム とは、週に何日か会って一緒に作業をし、残りは別々に宿題をやって、次に会ったときにそれを見せ合うという感じでした。テキストを書いたり、見つけたり、短いダンスのセンテンスを創ったり、音楽を分析したり…。そうやってできたピースを組み立てていきました。ティムが私の書いたテキストを手直ししたところもあります。
アンヌ=テレサとのクリエイションは毎回難産なんです。だって「初日は到達点じゃなくて通過点よ!」と平気で言いますから。でも私の場合は、『Nine Finger』も『in pieces』も、初日の1週間前には出来上がっていました。要所だけ決めたら、あとは自然に出てくるものを大切にするほうが性に合っているので。だから100回やっても同じものはないし、飽きないし、慣れない(笑)。テキストを練習していても間違えるし、番号はわからなくなるし、踊りだって即興的な部分が多いからどうなっちゃうかわからないし。自分が何をやったか振り返っている時間がなくて、次へ次へと進むしかない。今日は良かったなと思っても、次の日は全然違うことが起こっちゃうから比べることもできない。もう起こったことは忘れちゃったほうがいい。自分を落ち着いた場所にもっていけないように出来上がっているんです。この作品は、そこが優れているのかもしれません。
日本公演では、英語、オランダ語、日本語の3カ国語のテキストが出てきます。中でもオランダ語で地震が起こった時のことを長くしゃべるシーンがありますが、観客に言葉で理解されることを拒否しているようにも見えます。
 どのセリフを何語で話すかは、上演する国で変えています。例えば、英語が通じる国では今回英語だったところを日本語にしたり。カウントも今回は前半英語、後半日本語でしたが、フランスでやったときは後半フランス語でした。英語もフランス語も通じない国では字幕をつかったところもあります。
地震の シーンは、ランチの時に英語で地震の話しをしていたら、ティムに「そういえば扶美代が母国語みたいに滑らかに話せるシーンがないね」と言われ て、日本語で 話したのが最初です。その時の話しを日本ではオランダ語にして、他の国では日本語で話しています。(意味はわからなくても)同じセリフと動作を、感情やトーンを変えながら4回繰り返しているから、「あ、あの言葉」「あのジェスチャー」って、見ている人がその場で“記憶”をつくっているみたいな感じになる。
そういえば、『in pieces』のテーマは“記憶”ですよね。
 そうです。ティムに「何がやりたいの?」と聞かれて、「記憶でいきましょう」と私が提案しました。私の昔話ではなくて、記憶そのものについて考えてみたかった。人間って適当だから自分が記憶したいように再構成して記憶しちゃうでしょ。そういうのって面白いと思うし。9.11や3.11のようにみんなそのときは凄くよく覚えているけど、100年後にはその日にちは記録でしかなくなって、もっと時間が経つと年表に書かれた1行の記号で終わってしまう。それで語られなくなったら、もう空中分解して塵のようになっちゃう。どれぐらい語られたら記憶は残るのかとか、とても興味があります。
記憶が消え去っていくことは虚しいと思われますか。
 いいえ。今生きていても1秒前は無くなっちゃうわけですから。それがどういうふうに失われていくのかということをクローズアップして、記憶とか、失うということについて考えてみたいと思いました。
「失うことを自覚する」ということですか。
 そう! まさにそれこそ、この30年間ローザスと一緒に仕事をしてきた私のテーマかもしれません。口では絶対に言わないけど、アンヌ=テレサもそういうことを気にしていると思います。「自分を失いたいから身を捨ててしまいたい」という願望から「失いたくない」という願望まで含めて、「失う」ということが気になる。
ただ先日、若い女性ダンサーに初期作品を教えていたんですが、「自分を失いたい」という感じではないんですよね。自分をさらけ出さない。私たちの頃は、舞台上で呼吸困難になってもそのままさらけ出すみたいに、ローザスでは、「現実に起こっていることを隠さない」「ありのままに見せる」ことを仕込まれたし、自分たちで発展させてきた。でも、今の若いダンサーは見せたくない、クールじゃなきゃいけないのって感じで、アンヌ=テレサも悩んでいました。


ムードラからローザスへ

ローザスが初来日したときには、「ベルギーを代表する人気カンパニーのメインダンサー、しかも創立メンバーに日本人がいる!」ということで、当時の日本の若いダンサーに大変刺激を与えました。高校1年生でムードラ(モーリス・ベジャールが創設したベルギー王立モネ劇場付属のダンス学校)に入学されましたが、きっかけは?
 私、子どもの頃からダンスは好きで、地元の福井県から月に何回も東京にバレエを習いに行っていました。でもそのままバレエでやっていく自信がなかったし、地元でバレエの先生になって終わっちゃっていいのかなと、将来に危機感を持っていました。どうすればいいんだろうと思っていた時に、「ムードラの校長が自ら日本を含む数カ国(アルゼンチンとブラジルとカナダ等)を回ってオーディションをする」という情報を新聞か何かで知って、これしかない!と思ったんです。ベジャールも知らなかったし、ムードラがどんな学校かも全く知らなかった。インターネットもない時代ですから、情報もほとんどないまま受けたら、あっ受かっちゃったみたいな……それで人生が変わりましたね。
1学年は何人くらい?
 その年に入学したのは50人くらいです。日本人も数人いましたが、最終的に残ったのは全体で8人でした。朝にクラシックやモダンのクラスがあって、昼から演技や歌のクラスがあり、毎日6時過ぎまで踊っていました。それだけダンス漬けになるのは初めてだったので、ホームシックになる間もありませんでした。
そこでケースマイケルさんと出会うわけですね。
 アンヌ=テレサは1年上で、同学年に広田レオナさんがいました。アンヌ=テレサは3年生に進級せず、アメリカの学校に行きました。私は3年に進み、最後まで残った8人で作品をつくっては公演をする毎日でした。アンヌ=テレサが卒業公演を見に来てくれて、終演後「あなたは私と一緒にやるのよ!」って。彼女は2年間のアメリカ留学から帰ったばかりで、ムードラで一緒だったミシェル=アンヌ・ドゥ・メイも参加して4つの小品で構成されたイブニング・ピース『ファーズ』を 発表する丁度1カ月前でした。彼女がどんな事に興味を持っているのか、何も知らなかったけど、アンヌ=テレサのことが大好きだったから、「わかった。一緒にやる!」って(笑)。
まだローザスと名づける前ですね。
 そうです。それでアンヌ=テレサ、ミシェル=アンヌ、 アドリアーナ・ボリエーロ と私の4人でやることになりました。ニード・カンパニーの前身のグループなど、いくつかのカンパニーと共同でスタジオを借りて、あるカンパニーがリハーサルをしている間は別のカンパニーが出稼ぎに行ってそのお金を分配するみたいな生活共同体をしていました。段々に国から認められて助成金が受けられるようになっていきました。ベルギーの助成金には、「4年継続助成」「作品助成」「個人助成」など色々あるんですが、そのうちに4年継続助成を受けられるようになり、今もそれで活動しています。
第1回公演の『ローザス・ダンス・ローザス』はどのようにして誕生したのですか。この作品は、創立メンバーのミシェル=アンヌ・ドゥ・メイの兄、ベルギー音楽界のキーパーソンだったティエリー・ドゥ・メイが音楽を担当していますよね。
 ティエリーはアンヌ=テレサの憧れの人でかなり影響を受けていると思います。『ローザス・ダンス・ローザス』はティエリーの音楽と並行してつくっていった感じです。僕はここの音楽をこうしたいから、4回動いてほしいとか、ストラクチャーを一緒につくっていきました。
最初はカンパニー名も、作品のタイトルも決まってなかったから制作に怒られて。さんざん悩んだ末に「じゃあ名前は『ローザス』、タイトルも『ローザスが踊るローザス』でいいじゃない」、というノリで『ローザス・ダンス・ローザス』になった(笑)。初演はブリュッセルのカゼンヌ(兵隊の宿泊所)を改装したバルザミン劇場でした。私は20歳、アンヌ=テレサも22歳前とみんな本当に若かった。
ローザスが誕生した1980年代のベルギーは、音楽ではクレプスキュールが、デザインでも「アントワープ6」が世界的に注目されていました。政治的にもEUの前身になる欧州諸共同体でベルギーが中心的な役割を果たすなど、盛り上がっていました。
 ブリュッセルでは私たち以外にニード・カンパニーやヤン・ファーブルが活動をはじめていました。 ユーゴ・ドゥ・グレーフ というゴッド・ファーザーみたいなプロデューサーがいて、私たちの面倒を見て、育て上げてくれたのも大きかったと思います。
やがてローザスはベジャールが拠点としていた王立モネ劇場を本拠地にするようになりますが、そこまでの道のりは順調でしたか?
 いえ大変でしたよ。仕込みもバラしも洗濯も自分たちでやりました。海外のフェスティバルに呼ばれるようになっても、ユーロ以前の時代なので、通貨が国毎に異なっていて、しかも現金払い。ツアーの間、大金を持ち歩かないといけないのに、そのバッグを電話ボックスに置き忘れたり。みんなで馬鹿なことをやっていました(笑)。1992年にアンヌ=テレサがモネ劇場のダンス部門の責任者になって、ちょうど15年間、レジデンス・カンパニーとして在籍していました。ただ新しいディレクターがレジデンス・カンパニーを置かない方針なので、今は自前のスタジオを拠点にしています。でも関係は良好なので、アンヌ=テレサが初演をモネ劇場でやりたいと思えばやっていますし、この『in pieces』にもクレジットが入っています。
そうやって評価が高まってきたローザスを招聘したのが「ヨコハマ・アート・ウェーヴ」(1989年)という伝説的なイベントでした。世界のコンテンポラリー・ダンス・カンパニーがプログラムされていて、日本の若いダンサーたちに大きなインパクトを与えました。ローザスの演目は『ミクロコスモス』『モニュメント/自画像/ムーヴメント』『QUATUORNO.4』の3つ。ミニマルでありながら、アメリカのポストモダンダンスのように機械的ではなく、いい感じの湿気があって、緊密なのに居心地がよく、こんなダンスがあるのかと魅了されました。
 たしかに機械的ではなくて、すごくハートがある動きだと思います。アンヌ=テレサは、徹底的に音楽を分析して動きをつくるんです。楽譜を小節ごとに色分けして、「テーマAとBはこういう関係で、ここはこういう風にミラーになっている」とか徹底的に分析して、その楽譜が見えるように動きをつくっていく。私たちも楽譜が完全に頭に入っているから、演奏者が変わったら「あの音が聞こえないんですけど」「本当はこうじゃないんですか」とか指摘できます。それだけ精密に分析しても、やはり分析しきれなくて残るものがある。それがアンヌ=テレサ独特の温かみのある動き、踊っていて「踊りたくなる動き」になるのだと思います。


現在のローザス

若い世代に比べて、ローザスなど30年前のカンパニーの人たちが、いまも面白いのはなぜなんでしょう。
 時代が一巡したということかもしれませんが、ローザスもヴィム・ヴァンデケイヴュスもヤン・ファーブルも、昔の作品を再演すると、ものすごく観客が喜ぶそうです。そもそもディレクターたちが若い世代に替わっているので、「DVDでしか知らないこの作品を、ぜひ生で見たい」と要望される。「観客を育てるために、80年代の作品と新作を両方見せる」というプログラムを組んでいる劇場もあります。コンセプチュアルで頭でっかちな作品より、見ていてなぜか涙が出るとか笑ってしまうとか、そういうダンスが求められるサイクルに戻ってきているのかもしれません。
ローザスの30周年記念に、80年代の初期作品をまとめて上演されたそうですが、反応はいかがでしたか。
 年齢に関係なく楽しんでもらったようです。例えば『エレナス・アリア』はすごくゆっくり時間を使うので、再演するにあたって今の時代のスピードに合うのか不安でした。そもそも演じている私たちの体感時間が昔と違っていて、本当は観客が「あれ、何も起こらないの?」と思ったくらいのタイミングでやっと動かなければいけないのに、つい早く動き出したくなっちゃう(笑)。初演時それで不評だったのですが、逆に今の観客の方が「こういう速度なんだ」というのを楽しんでくれています。うちの娘も「面白かった。ずっと見ていられる」と言っていました。時を超えて上演することは、作品を問い直して未来に残していくためにも必要なことだと実感しました。
コンテンポラリーダンスも伝承の時期に入ってきているのかもしれませんね。
 本当にそうです。今も『ファーズ』『ローザス・ダンス・ローザス』『エレナス・アリア』『ミクロコスモス』という80年代の作品を日替わりで公演する『アーリー・ピース』を続けています。アンヌ=テレサもそういうことを意識しはじめているのだと思いますが、今年(2012年)にこの4作品を分析した本とDVDを発行しました。『レイン』や『ドラミング』の分析本も進行中です。残念ながらピナはそういうものを残す間もなく亡くなってしまいましたが、同様のことをマース・カニンガムもやっています。
現在のローザスが上演している作品はどのようなものですか。
 2012年度でいいますと、9作品がツアーに回っています。『En Atendant』『Cesena』『Drumming』『3 Abschied』『The Song』『Bartok/Mikrokosmos』『Elena’s Aria』『Rosas danst Rosas』『Fase』。うち私は2作品に出演していて、2作品のリハーサル・ディレクター(公演先での責任者)をやりながら、自分の作品も上演している状態です。ローザスとしての正団員は5人くらいでしょうか。あとは作品ごとに契約をしているダンサーが30人くらいいます。『Cesena』(ダンサーと歌手が各12人)や『ドラミング』ライブバージョン(ダンサーとミュージシャンが各12人)のように人数の多い作品もあるので、大変です。テクニシャンも2グループあります。
さらに新作をつくっているわけですよね。
 そうですね。私もこの『in pieces』の他にアメリカのカンパニー、ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマと共同制作していました。アンヌ=テレサも精力的に新作をつくっていて、昨年はアヴィニヨンで『Cesena』を発表しました。これは、午前5時開演、午前7時終演、未明の真っ暗な中で始まって夜が明けて見えるようになって終演するという作品です。 舞台美術に予算をかけず電気も極力使わないという「エコノミーとエコロジー」に挑戦する作品でした。変則的な時間にもかかわらず観客は2000人くらい来ましたね。
ただ、今はどの国でも大きなフェスティバルにくるディレクターは同じようなメンバーで、まるで同窓会です。実際に見ていなくても情報交換だけで招聘を決めたりする結果、プログラムが似通ってきている。見るのはDVD、それも数分の短縮版のみ、ということもまかり通っていて、危険なことだと思います。
ローザスは、若手を育成するダンス学校「P.A.R.T.S.」も開校しています。
 はい。いまやローザスのダンサーはほとんど P.A.R.T.S. の卒業生になっています。すでに17/18年目のサイクルの準備が始まっていて、実は今、昔ムードラがやったように、入学のためのオーディションを日本で行う準備を進めています。私が日本で一次予選の選考をして、通過者にはブリュッセルでP.A.R.T.S.のクラスに近いカリキュラムをこなしてもらいます。アンヌ=テレサも選考に加わって、最終的に日本から数人、全体で40〜50人の新1年生を選ぶ予定です。
それは凄い!
 目的は光る原石を見つけること。以前、ヒップホップ以外にダンス経験がない若者が3人くらい入りましたが、毎日クラスを受けて、様々なダンスを踊れるようになりました。P.A.R.T.S.では、ダンサーになりたいのか、創作したいのか、早い時期に問われます。ピルエットを何回できるかより、「自分はこれをやりたくてP.A.R.T.S.に行くんだ」という強い意志があることが大切です。
現在は4年制ですが、博士号を取得できる 3年制のコースと2年のマスターコースもあります。学生のうちからツアーや創作をさせますし、公演はちゃんとした劇場で行うので、ディレクターに目をかけられて作品依頼を受ける卒業生もたくさんいます。
いま世界的に大きなカンパニーを維持するのが厳しくなってきた結果、若い世代を育てる場を作るのが難しくなってきています。 P.A.R.T.Sのその姿勢は素晴らしいですね。
 アンヌ=テレサとは、「私たち自身が舞台に立つことを含め、いま何が出来るのか、何をやるべきなのかを考えよう」と話しています。 若手の育成はもちろんですが、まず私たち自身が現役のアーティストとして、キャリアを重ねた現在の自分にしかできないクリエイションを考え続けていく。その姿を示すことも、重要な責任だと思っています。
その最新プロジェクトとして、アンヌ=テレサはボリス・シャルマッツとデュオを企画中です。私は、山田うんさんとのコラボレーションを進めています。離れているのでネットを使っていますが、企画をだらだら打ち合わせするより、「毎日、何でも良いから単語をひとつずつ送りあいましょう」と始めたら、もう600字以上に(笑)。考えていた以上に刺激的で、これがどう発展するのかワクワクしています。また2014年には谷崎潤一郎の『鍵』、2015年には『カミーユ・クロデール』を発表する予定です。
新作を楽しみにしています。長時間どうもありがとうございました。

ローザス
ベルギーを代表するダンスカンパニー。ブリュッセルにあるモーリス・ベジャールが創設したダンス学校「ムードラ」とニューヨークのティッシュ・スクール・オブ・ジ・アーツで学んだアンヌ=テレサ・ドゥ・ケースマイケルを中心に、ムードラで出会った4人の女性ダンサーにより1983年結成。デビュー作は、「ローザス・ダンス・ローザス」。1992年から2007年まで王立モネ劇場のレジデンスカンパニー。音楽的構造と身体的構造の関係を探求した先鋭的な作品を発表。最近 はテキストを多用した演劇的な作品も発表している。ベッシー賞など受賞多数。また、ピーター・グリーナウェイをはじめ多くの映像作家とコラボレーションを展開。
https://www.rosas.be/

ベンヤミン・ヴォルドンク
1972年ベルギー、アントワープ生まれ。俳優、作家、ヴィジュアル・アーティスト。2000年以降は公共空間における前衛的なパフォーマンスを発表し、豚と3日間にわたって「対談」し、アメリカとイラクの混乱を表現した作品などで話題。

アラン・プラテル
1956年ベルギー、ゲント生まれ。1986年、Les Ballets C. de la B.を結成。ベルギーを代表する振付家、演出家として多国籍なダンサー、歌手、演奏家を集めた先鋭的な作品を発表。

ティム・エッチェルス
1962年生まれ、演出家。イギリスを拠点とするパフォーマンス カンパニー「フォースド・エンターテイメント」アーティスティック・ディレクターとして先鋭的な作品を発表。

『in pieces』
(2012)
Photo: Hirohisa Koike

『Nine Finger』
Photo: Herman Sorgeloos

Rosas『Drumming』
(1998)
Photo: Herman Sorgeloos

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