新型コロナウィルス感染症の影響
- いま世界中に新型コロナウイルス感染症が蔓延し、多くの舞台や国際フェスティバルが中止・延期となっています。唐津さんが愛知県芸術劇場でプロデュースした舞台のフランス公演も危なかったそうですね。
- はい。3月13日、14日にパリ日本文化会館で『ありか』(元フォーサイス・カンパニー島地保武とラッパーの環ROYのデュオ作品)を予定していたのですが、本当にギリギリでした。出演者がパリに着いた時点で問題はなかったのですが、公演の3日前に私がパリに着いた翌日、11日にフランス政府から「1000人以上の集会禁止」の通達、13日の公演当日午後3時に「100人以上の集会禁止」が発表されました。劇場と協議して100人未満での上演を決め、上演開始時間の午後8時まで劇場スタッフが総出で予約キャンセルの電話をしてくれ、劇場内の人数をスタッフ含め100人未満に抑えて何とか上演できました。15日の朝には全ての公立劇場が閉鎖された状態で、16日にマクロン大統領が翌17日からのロックダウンを発表。フランスの判断の早さは驚くほどで、数時間単位で状況が目まぐるしく変わりました 。
- ダンスとラップによる島地保武&環ROY『ありか』は2月には横浜で開催された「第3回HOTPOT東アジア・ダンスプラットフォーム」(*1)でも上演され、複数のフェスティバルから声がかかるなど、海外のディレクターから評価されていました。
- 『ありか』は5年前に愛知で初演した作品です。島地さんには当初から「再演できる作品をつくりたい」とお話していました。日本では文化庁も新作を優先して助成しますし、日本各地の劇場も招聘は初演作品に偏りがちです。再演を重ねるためには、コアなダンスファンだけでなく、ダンスに馴染みのない一般客を引きつける別の要素が必要と考えていたところ、環ROYさん(ミュージシャン、ラッパー)の名前が挙がりました。彼も本格的に舞台のクリエイションに関心をもってくださっていたので、お願いすることにしました。2015年にスタートした「ミニセレ(ミニシアター・セレクション)」(愛知県芸術劇場小ホールでジャンルを横断した先駆的・実験的なプログラムを上演するシリーズ)のコンセプトに繋がるもので、指定管理に移行して初めて本格的にプロデュースしたコンテンポラリーダンス作品といえます。愛知県内では知立市、春日井市、豊川市、県外では神奈川芸術劇場(KAAT)と山口情報芸術センター(YCAM)で上演しました。再演では、HOTPOTと富山市芸術文化ホール(オーバード・ホール)でも上演しました。いずれも公立劇場で、海外は今回が初めてです。
- HOTPOTと同時期に開催された横浜ダンスコレクションのオープニングでは、愛知県芸術劇場が国際共同制作に参加した『ON VIEW:Panorama』も発表されました。これは、オーストラリアの振付家・映像作家のスー・ヒーリーが香港・日本・オーストラリアのダンサーなどと協働した作品です。ダンサーそれぞれの表現スタイルと内面を反映したショートフィルム、映像インスタレーション、ライブパフォーマンスを融合した作品です。
- オーストラリアのヴィクトリア州と愛知県が姉妹都市ということもあり、メルボルンを中心に、開館以来、様々な連携をしてきました。スーと彼女のカンパニーのダンサーには、1997年から愛知の地元のダンサーや日本のユニークなアーティスト(演出:山口勝弘、音楽:今堀恒雄、菊地成孔、映像:IKIFなど)と交流してもらい、その成果をもって、1998年にはメルボルン・フェスティバルに参加しました。また、2002年に文化情報センターのダンス・イン・プログレス2002という企画で『NICHE』という作品をつくってもらったこともあります。香港の西九文化區(West Kowloon Cultural District )ダンス部門ディレクターのアナ・チャン(Anna CY Chan)がオーストラリア版の『ON VIEW』に惚れ込み、香港版を製作。偶然、彼女は20年来の知人でもあり、オーストラリア・香港・日本の共同製作の提案があったときに、これまでのいくつかの縁をさらに発展させる良い機会だと思いました。文化情報センター時代にも、私以外に映像の学芸員がいたことで、ダンスと映像とのコラボレーションを積極的に行っていたのですが、これだけメディアが氾濫した今、オンラインと展示と実演の3つの実践を通して、改めてダンスと映像の関係について考えてみたいと思いました。
日本人ダンサーの選考は一任されたので、白河直子、小㞍健太、湯浅永麻、浅井信好、ハラサオリの5名に決めて、2018年9月に2週間ぐらいかけて映像を撮影。それから各国2人ずつダンサーを選び、2019年に城崎国際アートセンターで今回のクリエイションに入りました。横浜、愛知で上演し、2020年に香港、シドニーで公演を予定していたのですが、新型コロナウィルス感染症拡大の影響で延期となり、来年で再調整しています。国際協働は大変ですが、最初から複数カ所で上演できるので気持ちも乗りますし、上演回数が増えればアーティストにもフィーが入る。作品のクオリティも上がり、劇場にとっては自主制作した作品を世界に発信することができます。海外との交流が増えれば、自ずと協働の機会も増えますし、メリットが多いです。 - ご自身のキャリアについて伺います。まずダンスとの出会いはいつ頃ですか。
- 5〜10歳までは東京でモダンダンスを習っていて、コンクール等にも出ていました。実は両親とも器械体操の選手で、母はオリンピック候補でした(予選で怪我をして引退)。父も器械体操の他、スケートやスキー、テニス、水泳もすべて国体の選手に選ばれるほどスポーツ万能で、両親の友達はオリンピック選手ばかりという家庭環境でした。私も運動神経はよかったのですが、実は外で遊ぶよりお人形さんごっこやお菓子づくり、手芸などの家遊びが好きでした。家族の期待もあって体操教室にも通いましたが、とても怖がりでアクロバティックな動きが好きになれず、続きませんでした。
母は引退した後、一般の人ができる健康体操教室を開くために研究していました。一緒に初期のエアロビクスやダンスを見て回っているうちに、自然とダンスに興味を持つようになりました。ロシアのバレエ公演や、河野潤さんと竹屋啓子さんの『カルミナ・ブラーナ』は、今でも強烈に覚えています。振り返ると、小学校のお誕生日会で毎月自作の踊りを発表したり、それを見ていた担任から「振付をやらない?」と1年生なのに2年生から5年生までの全生徒に振り付けしたり。小さい頃から踊りが好きでした。
小学4年生の時に熊本県に引っ越したのですが、モダンダンスの教室が見つからなかったので熊本バレエ研究所に入りました。東京のダンス教室では、毎日最後に先生が選んだ曲をみんな自由に踊っていたので、私にとっては自分の身体や感情をナチュラルに表現するものがダンスでした。でもバレエは、当たり前ですが、ちゃんとした型を身に付けなければいけないのでとても苦しかった(笑)。そこで迷走して、また器械体操を始めたり、スケートを始めたり、演劇部に入ったり。高校では新体操に結構真剣に取り組みました。 - 結局、お茶の水女子大学の文教育学部舞踊教育学科に進学します。
- ダンスが勉強できる大学を探して、国立4年制大学で唯一「舞踊」という名前の付いた専門コースがある大学に進みました。基本的には体育の女性教員を養成するのが目的のコースで、当時は今ほどダンスの実技に重きが置かれていなかった。それで大学と並行して子どもの頃に通っていた森谷紀久子モダンダンススタジオと、学年担任で教授の石黒節子さんが開いていたダンス教室などに通い、子どものためのクラスで教えるアシスタントもしていました。
- 1985年入学ですから、ピナ・バウシュ&ブッパタール舞踊団初来日公演(86年)、勅使川原三郎のバニョレ国際振付コンクール受賞(86年)など、日本でコンテンポラリーダンスが盛り上がってきた直撃世代ですね。
- そうです。もうそれに尽きます。「こんなダンスがあるんだ!」という衝撃。そういう良いものに若いときに出会えたことが大きかった。この頃、自分が踊るより強烈な観る体験をしたことが、現在のプロデューサーという仕事に繋がっています。
大学にダンス公演の情報が届くので、ピナ・バウシュ、ウィリアム・フォーサイス、ローザス、勅使川原三郎、山海塾、黒沢美香など、めぼしい公演はほとんど観ました。中でも好きだったのが木佐貫邦子さんです。大学2年生の時、東京大学の文化祭で小さな部屋で踊っていた木佐貫さんのソロ『てふてふ』にものすごく感動し、以降、ほとんどの公演を観ています。 - 木佐貫さんはモダンダンス出身で、日本でまだコンテンポラリーダンスという言葉が聞かれなかった82年に実験的な『てふてふ』を発表。新しいダンスを牽引し、海外公演も行ったパイオニアのひとりです。桜美林大学教授として多くの後進を育てています。
- 木佐貫さんが開催した最初のワークショップを私と一緒に受けていたのが安藤洋子さん(後にフォーサイス・カンパニー)でした。木佐貫さんのカンパニー「neo」からは安藤さん、上村なおかさん(大学の1年後輩で寮も一緒)、永谷亜紀さんがデビューしています。開館3年目に木佐貫さんの単独公演『カラダの街』(1994)を企画したのですが、その時に、木佐貫さんと一緒に安藤さん、楠田健造さんが出演してくれました。
私と同世代、80年代後半に大学生だった世代にはコンテンポラリーダンスの息吹を受けて育ったアーティストがたくさんいます。1988年にスタートした全国規模の創作ダンス競技会「全日本高校・大学ダンスフェスティバル(All Japan Dance Festival-KOBE)」には私も第1回に出場していますが、その時に「上手な人がいる」と騒がれていたのが筑波大学の平山素子さんです。近藤良平さんは横浜国立大学ですが、このフェスでいろいろな学校のダンス部の男子と出会ったのがきっかけでコンドルズを結成しました。2つ年下に北村明子さん(レニ・バッソ主宰)、伊藤千枝さん(珍しいキノコ舞踊団主宰。現在は伊藤千枝子)と、後に日本のコンテンポラリーダンスの勃興期を支えたカンパニーを立ち上げた人たちが固まっています。 - 一番多感な時期に海外などから刺激を受けた世代です。でも唐津さんのように制作する側に回った人は、あまりいないのではありませんか。
- そうですね。そもそも当時の日本に、大学の舞踊科を出てプロデューサーになるルートがあったわけではありませんし、公立劇場の多くは貸館だけで自主事業もやってなかった。私も正直どうしたらいいかわからないまま、知見を広げるためにまずは海外のダンスの研究をしたいと大学院に進みました。
- 大学院の頃はもう自分では踊っていなかったのですか。
- 続けてはいました。院では研究と同時に、ポストモダンダンスのリサーチの過程で音楽や美術とのコラボレーションに興味が湧いてきました。それで、サイトスペシフィックな空間で音楽家と即興的なパフォーマンスを行ったり、銀座の現代アートのギャラリーでアルバイトしたりしていました。大学院のとき4人の女性ダンサーと4人の男性ミュージシャン(維新派の舞台音楽監督でもある音楽家の内橋和久もメンバー)でつくった作品がニューヨークに招待されました。これが私の人生初のフェスティバル体験で、この強烈な経験で人生が変わりました!当時の日本でダンス公演はまだまだ一部のダンスファンだけのものでしたが、ニューヨークでは老夫婦が仲良く観に来るし、普通の市民がダンス文化を楽しんでいた。日本から来た無名の私たちの5公演もすべて満席。ワークショップにも参加して、お礼を言って帰っていく。その景色が目に焼き付いて、「こういうことがやりたい!」という思いで一杯になりました。
それで、そのままニューヨークに残り、いろいろなところを見て回りました。ジョイスシアターのような憧れのダンス劇場でローラ・ディーン公演を観たり、ブルーノートでジャズライブを聞いたり、オフ・ブロードウェイに行ったり、ソーホーでギャラリー巡りをしたりしていました。マーサ・グラハムやマース・カニングハムなどのクラスやワークショップも受けましたが、そこに来るような選りすぐりのダンサーは才能のケタが違っていて、自分での振付や踊ることに完全に見切りをつけました。ダンスのフェスティバルへの思いはあってもどうしていいかわからず、日本に帰ってとりあえず就職活動をはじめました。 - その頃の日本はバブルで、海外から最新のダンスが次々に招聘されていましたが、ダンス・フェスティバルはまだありませんでした。横浜でその端緒となる「ヨコハマ・アート・ウェーブ」(*2)が開催されたのが1989年です。
- 私も観に行き、横浜でこのような国際的なダンスフェスティバルが成立していることにとても刺激を受けました。残念ながら1回で終了してしまいましたが、プロデューサーの佐藤まいみさんとは、その後、30年にわたってご縁をいただき、この仕事の先達として導いてくださっています。
NYから帰国した後、就職活動をしながらも就職先のイメージが描けないまま宙ぶらりんでいたときに、大学の指導教官の片岡康子教授が「あなたがやりたいのはこういうことじゃないの?」と紹介してくださったのが、新しく開館する愛知芸術文化センターにできる愛知県文化情報センターの学芸員の求人でした。オープニング企画に山海塾の公演があり、ダンスに詳しい人材が必要で大学に照会がありました。
それまで愛知に縁はなかったし、学芸員資格もありませんでしたが、愛知県の公務員試験を受けて採用されました。文化情報センターに所属しながら1年かけて学芸員資格を取得し、93年に正式に学芸員になりました。 - 日本で公務員としてダンスの学芸員が採用されているのは愛知県だけです。新しい劇場、新しい組織、新しいポジションだったわけですが、まずは愛知芸術文化センターについて紹介していただけますか。
- 愛知芸術文化センターは、愛知県美術館・愛知県芸術劇場・愛知県文化情報センター・愛知県図書館からなる複合施設です。開館当初は、すべて愛知県の直営でした。芸術劇場は基本貸館として運営され、オペラや演劇の自主公演は愛知県文化振興事業団に委託して地元のテレビ局などとも共催することがありました。
私が所属していた文化情報センターは「文化・情報の収集と発信」が主な業務で、アートプラザという情報収集セクションが集めた資料などを研究し、あくまで市民に現代音楽、コンテンポラリーダンス、実験的な映像に親しんでもらう普及活動(レクチャー、トーク、ワークショップ、実験公演)を行っていました。いわゆる興行的な公演事業というより、博物館学におけるキュレーションのプロセスに近い手法で企画を考え、運営していました。私は開館1年前から準備室に所属していましたが、初年度のメインプログラムは決まっており、1992年10月30日にオープンしました。 - オープン記念に大ホールで行われたのが山海塾『そっと触れられた表面─おもて』です。
- そうです。文化情報センターでは、「身体」を全体のテーマにしていました。そこで、そのコンセプトを象徴するトークとイベントを行う「イベントーク」を開館から2008年まで実施してきました。今でこそこういうトークイベントは増えましたが、当時は珍しいもので、その第1回で山海塾の天児牛大さんと松岡正剛さんに対談してもらいました。そしてイベントで憧れの木佐貫さんにパフォーマンスをお願いしました。これが私の初めての企画です。
- 愛知県芸術劇場のサイトには自主事業の記録がアーカイブとしてアップされています(*3)。特に文化情報センターについては、2002年ぐらいまでは唐津さんたち学芸員が丁寧に記録をとって解説しています。インターネット普及以前のこうした情報はとても貴重です。
- 日本の劇場は興行を成立させることに手一杯で、アーカイブは二の次になりがちです。でも情報の収集・発信が文化情報センターの本来業務だったことが幸いし、きちんと記録を残すことができました。企画書も報告書も最初から全て担当が自分で書いて、ウェブに上げました。
- 翌93年が勅使川原三郎『NOIJECT』公演ですね。
- 山海塾以降、身体表現に関する企画は私の担当になりました。山海塾も勅使川原さんも愛知では初の公演でしたが、両方とも満席でした。しかし、最初の数年間は試行錯誤の連続! 私は大学を出たばかりで文化施設の企画に携わったことがないし、「公務員として採用されたダンス専門職員」と言われてもモデルとなる先達が誰もいない。私より上の世代には、佐藤まいみさん(2005年〜彩の国さいたま芸術劇場舞踊プロデューサーなど)や永利真弓さん(株式会社アンクリエイティブ代表取締役社長)などがいらっしゃいますが、それぞれフランスやアメリカでの実績とネットワークがあり、その頃あった劇場やフェスティバルにはフリーランス的な関わり方をされていました。文化情報センターには20人ぐらいの職員がいて、専門職と言っても組織では私が一番の若輩。ただ、ちゃんと了承を得れば仕事はかなり任せてもらえました。
- 文化情報センターでは95年から98年まで「Human Collaboration」という企画を実施しています。
- これは愛知芸術文化センター全館を使った複合的なプログラムとして企画されたものです。愛知県からの要望で、通常は個別に活動している美術館、劇場、文化情報センターを繋ぎ、全館を使った一体感のあるプログラムを実施しました。例えば、95年には美術館で「環流─日韓現代美術展」が開催されたのに合わせて、サムルノリやパンソリ、韓国のダンサーなどを招き、日本と韓国のアーティストによる音楽・ダンス・映像のジャンルを超えたコラボレーションを行いました。また96年のArt Around Project「舟の丘、水の舞台」では、詩人の吉増剛造と学芸員が共同で台本と構成を考え、映像作家の大木裕之、ダンサーのミエ・コッカムポーや五井輝、音楽家の斎藤徹などが参加して、観客がセンターのエントランスを回遊する立体的なプログラムを実現しました。これらのジャンルを横断したプログラムの経験が、その後の私のプロデュースにも影響しています。
- 97年にはじまったのが「コンテンポラリーダンス・シリーズ」です。2002年まで続きますが、ビデオ上映、公演、トーク、ワークショップなどにより国内外のアーティストを紹介しています。国内では、伊籐キム、大島早紀子+平山素子、笠井叡+笠井瑞丈、珍しいキノコ舞踊団、レニ・バッソ、発条トなど、当時の新世代を代表するアーティストがセレクションされています。
- コンテンポラリーダンスという言葉が一般に認知され始めた頃でした。予算はそんなに多くありませんでしたが、芸術劇場の小ホールなどを使って新しい日本のダンスを紹介する先駆的な企画になりました。
- 愛知芸術文化センター開館10周年の時に、文化情報センターの企画で行われたのがフルオーケストラの演奏と合唱によるH・アール・カオスのダンス公演『カルミナ・ブラーナ』(演出・振付:大島早紀子)でした。これには衝撃を受けました。H・アール・カオスはしっかりしたバレエの基礎と並外れた表現力をもつスケールの大きなカンパニーですが、2000人を超える大ホールを使い、これだけの規模で彼女たちの才能を開花させたプロデュース作品は他にないでしょう。東京をはじめ、全国から観客が駆けつけ、高い評価を得ました。
- 記念事業の大きな予算が付いたので実現できました。『カルミナ・ブラーナ』は、ダンスあり、歌あり、生演奏あり、三面舞台の機能を活かした舞台美術と「これは新しいオペラだ!」と思える素晴らしい総合舞台芸術作品になりました。この思いが翌年立ち上げた「ダンスオペラ」に繋がりました。
- 「ダンスオペラ」も毎年通いました。出演アーティストが多彩で、しかもワクワクさせる組み合わせでした。最後にはバレエ界の至宝ファルフ・ルジマトフまで登場しました。
- 通常のオペラは歌手や指揮者が上位にいますが、ダンスという身体表現が前面に出ることで、オペラのヒエラルキーをフラットにした新しい時代のオペラ(=総合芸術)、ダンス要素の強いオペラをつくりたいと提案しました。既存の予算枠では賄えないので、外部から3年間の助成を受けて実現しました。県の文化施設として地元の文化団体とクリエイションすることも求められていたので、同時に「あいちダンス・フェスティバル/ダンス・クロニクル(舞踊年代記)〜それぞれの白鳥〜」という地元のバレエ団の交流とバレエの歴史を実際の舞台から知ることができる企画を共存させることにも留意しました。ダンスオペラ『UZME』は国際博覧会「愛・地球博」のために製作した作品で、笠井叡が振り付けし、ルジマトフと白河直子が共演しました。
- 2005年の「愛・地球博」、2007年の開館15周年記念、2010年の「第1回あいちトリエンナーレ」と、愛知県では大きなイベントが続きました。とくにあいちトリエンナーレは、美術だけでなく舞台芸術の比重も大きいことが特徴でした。
- 国際博覧会の成功を受けて、こういう大規模な文化催事を続けたいという当時の知事の意向があり、あいちトリエンナーレが立ち上がりました。私は第1回から3回までパフォーミング・アーツのキュレーターを務めました。毎回テーマも芸術監督もかなりギリギリに決まるため、それまでどういった方向でリサーチをすれば良いのか推測するしかない。決定してからすぐに企画を出すのは本当に大変でした。ただ、フェスティバルではテーマに沿っていれば斬新な作品はむしろ喜ばれるので、無名だけど凄い海外作品を招聘することもできます。それで、この頃から招聘も想定して積極的に海外にリサーチに行くようになりました。海外のフェスティバルディレクターのように、提案すれば必ず採用されるかどうかの保証があるわけではないので、与えられた条件でやりたい/やれる企画を提案し、事業全体の中でコンテンポラリーダンスの「居場所」をつくっていく。予算が足らなければ外部資金などを調達するというスタンスでキュレーションしました。そういう中で、数少ないコンテンポラリーダンス事業を行っている公立劇場との連携を模索するようになりました。
2014年から指定管理者に移行し、運営体制も大きく変わりました。それまで県の直営だった文化情報センターは指定管理者である愛知県文化振興事業団によって芸術劇場と一体運営されることになり(映像部門は美術館に移行)、私は芸術劇場のプロデューサーとして事業に携わるようになりました。また、指定管理者になったことで事業の見直しが行われ、ダンス事業に体系的に取り組むことができるようにもなりました。 - 指定管理者に移行し、具体的にはどのような変化がありましたか。「ファミリー・プログラム」など、地域に向けた事業もはじまりましたね。
- 「劇場、音楽堂等の活性化に関する法律(通称:劇場法)」(2012年施行)で実演芸術の活性化とともに地域コミュニティへの取り組みが求められるようになり、プログラムを大幅に見直した結果です。かつては文化振興事業団がオペラ・演劇・コンサートの鑑賞事業を行う予算をもっていましたが減り続け、文化情報センターも指定管理者に移行する前は外部資金を得ないと事業ができないくらい減っていました。
文化振興事業団が芸術劇場と文化情報センターを一体運営することになり、新たに就任した丹羽康雄館長(2019年度で退任)のリーダーシップでいろいろな見直しが行われました。丹羽館長は前に所属していた東京の民間劇場「日生劇場」でファミリー向けの企画を手掛けていた経験もあり、劇場があることのメリットを幅広い層に届けたいとファミリー・プログラムや学校単位で子どもたちを劇場に招待する学校公演にも力を入れるようになりました。県内の市町村ホールとの連携も強化し、海外から招聘するファミリー・プログラムを2019年度は10カ所ぐらいに巡回しました。
丹羽館長になってから、2週間に一度企画会議を開き、すべてのジャンルで「本当に必要なものは何か」を話し合い、事業を企画するようになりました。私もいろいろと提案し、ダンス事業についてもはじめて中長期で体系的に取り組める体制ができました。その中で立ち上がったのが文化情報センターの頃からやってきた実験的なコラボレーションを継承する「ミニセレ(ミニシアター・セレクション)です。
コンテンポラリーダンスでは、前述した『ありか』や大島早紀子振付の白河直子『エタニティ』(2016)、加藤訓子&平山素子『DOPE』(2018)などをプロデュースする一方で、ヴェルテダンス『CORRECTION』(2016)、『ミュルミュル ミュール』(構想・演出:ヴィクトリア・ティエレ=チャップリン、2015)などのサーカス的な要素のあるパフォーマンスの招聘公演も行いました。また、ミニセレの一環で、話題になった作品をオムニバス形式で再演する「ダンス・セレクション」(1日3作品、2日間)も立ち上げました。関連事業でダンスを理解する、観る人を育てるためのアーティスト・トークやワークショップもやっています。地方にはダンスについて書く人が本当に少ないので、乗越さんにも講師をお願いしたレビュー講座も開いています。ちなみに昨年からは「ファシリテーター&コーディネーター 人材養成講座」をはじめました。こうした普及事業、人材育成事業を通じて、地方にはないコンテンポラリーダンスの環境を少しでも整えることができればと考えています。
ちなみにミニセレは年間約10本企画していて、この5月には新しいスペース「Dance Base Yokohama(DaBY)」と連動した安藤洋子×酒井はな×中村恩恵「ダンスの系譜学」を行う予定です(新型コロナ感染症対策のため中止)。 - 愛知県芸術劇場のダンス事業の基本方針がありますか。
- 2016年に定めた中長期計画で、特性を活かした事業として「先駆的・現代的なダンス公演の実施」を重点的に取り組む分野のひとつに掲げました。ただ予算と人員は限られているので、これまでのノウハウを活かし、コンテンポラリーダンスに関心のある全国の公立劇場やフェスティバルと連携するなど、どうすれば実現できるかをさまざまな形で探っています。
ホールが3つあるので、大ホールでは集客が見込めて全国展開できる海外カンパニーの招聘公演、コンサートホールでは音楽とコラボレーションするダンス・コンサート・シリーズ、小ホールではミニセレと使い分けています。大ホールでは、ネザーランド・ダンス・シアター(NDT)の13年ぶりの日本公演(2019)の記憶が新しいところだと思いますが、近年はスペイン国立ダンスカンパニーやバットシェバ舞踊団などの招聘公演を行いました。上演作品の内容はかなり吟味を重ね、イリ・キリアン、ウィリアム・フォーサイス、オハッド・ナハリン、クリスタル・パイト、マルコ・ゲッケなどの同時代を代表する優れた振付家の圧倒的な作品を取り上げています。大ホール事業は、バレエとコンテンポラリーを繋ぎ、ダンスの裾野を広げる最良の機会と捉えています。
また、2019年のダンス・コンサート・シリーズではマニュエル・ルグリのような一流のダンサーが出演してバレエをライブ演奏で楽しむ『Stars in Blue』を企画制作し、東京芸術劇場を始め全国4カ所で上演しました。愛知県芸術劇場には中ホールがないため、作品によって名古屋市の公立劇場である名古屋市芸術創造センター(640席、名古屋市文化振興事業団が運営)とも連携して実施しています。第3回あいちトリエンナーレでプロデュースした山田うん振付の新作『いきのね』、ローザスやイスラエル・ガルバンの招聘公演もそこで上演しました。今後は同じ名古屋にある公立劇場として年に1本ぐらいのペースで協働していきたいと考えています。 - 2020年度からは勅使川原三郎が愛知県芸術劇場の芸術監督に就任することが決まっています。現役のコンテンポラリーダンスのアーティストが公立劇場の芸術監督に就任するのは、日本ではほとんど例がありません。
- 芸術監督も含め、日本では多くの公立劇場にダンスの専門人材はいません。海外では多くのアーティストが公務員ですし、公務員の芸術監督もプロデューサーも沢山います。愛知県芸術劇場はこれで海外並みにダンスの芸術監督とプロデューサーが揃うことになったわけです。
勅使川原さんとは、昨年から継続的にいろいろな話をしています。就任会見でも語っていましたが、地元のバレエ団を含め、身体的に高い専門性をもつダンサーと作品をつくっていくことになると思います。勅使川原さんはこれまで海外のバレエ団ともたくさん協働していますので、その優れたネットワークも活かされるのではないでしょうか。ちなみに、2020年度のミニセレでは芸術監督就任記念シリーズとして『白痴』(7月)、『調べ─笙とダンスによる』(12月)、新作(2021年2月)が決まっています。 - ダンスの新しい拠点として注目を集める「Dance Base Yokohama (DaBY )」について伺います。セガサミー文化芸術財団が開設し、唐津さんはアーティスティック・ディレクターに就任されます。しかも愛知県芸術劇場シニアプロデューサーをされながらだそうですね。どのような経緯でDaBYが開設されることになったのでしょう。
- 公務員なので簡単ではありませんが、DaBYはボランティアですし、両方の組織に柔軟に対応していただいて実現できました。そもそもは、数年前にセガサミーホールディングス株式会社(*4)から「今の時代に必要な文化支援をする財団をつくりたい」という相談がありました。幅広い文化芸術から、どのジャンルにどんな形の支援をするのがベストなのか──私は「これまでほとんど支援されてこなかった分野こそ支援する意義がある。日本でいえばそれはコンテンポラリーダンスです」と提案しました。そして関係者と一緒にさまざまな公演や劇場を観て回り、意義を理解していただきました。
- 財団の設立主旨にも「複製の効かない一期一会の舞台芸術は、生産性が低く慢性的な収入不足の状態」にあるからこそ支える意義があると、書かれています。
- はい。外国ではダンスが社会的に重要なものとして認識されています。しかし日本は公立劇場ですらダンスの専門家がほとんどいなくて、事業も限られている。日本のダンサーたちは世界を股に掛けて活躍しているのに、彼らを取り巻く環境は惨憺たるものです。セガサミーの里見治紀社長は海外経験が豊富な方なので、ダンスや劇場文化に対する偏見がありません。「セガサミーの本業であるエンタテインメントはアートから様々なアイデアを得ている。発想の源を大切にしましょう!」という私の提案を理解していただきました。
支援といっても賞を創設するなど、いろいろなやり方があります。でもこれまでそうした舞台芸術の賞が廃止され、助成金が続かない例をいくつも見てきました。ですから「本当の支援のためには、何十年も継続していく意志表明となる場所が必要。まずはダンサーの拠り所となる場所をつくってください」と、提案しました。他にダンス専用の劇場が欲しいとか、カンパニーが必要とか、好き勝手に言いましたが(笑)。 - 今回のインタビューは内装工事中のDaBYで行っています。場所は、横浜の馬車道駅に直結したKITANAKA BRICK&WHITEの中にあります。この建物は、横浜市認定歴史的建造物の旧横浜生糸検査所附属生糸絹物専用倉庫を復元したものです。約190平方メートルの四角いアクティングエリアをアーカイブエリアの回廊がぐるっと囲んでいるシンプルなもので、とても雰囲気があります。4月23日にオープンする予定ですが(新型コロナ感染症の影響により延期)、どのような体制で、どのような事業を考えていますか。
- 2020年度は試験的な運営を考えています。基本的にここは劇場ではなくクリエイションする場所で、施設の開設費用や運営費は財団が負担します。例えばアーティストに数週間DaBYを無償提供してクリエイションしてもらい、最後にトライアウトを地域の人々に観てもらう。日本の劇場にもクリエイション施設が付帯しているところはありますが、占有することが難しい。年間数本程度は若いアーティストに助成して作品をつくるプロジェクトも行います。愛知県芸術劇場はクリエイション施設を持っていないので、ここでつくって愛知で上演するような連携ができればと思っています。「ダンスの系譜学」はここの開館記念でトライアウトし、愛知県芸術劇場で世界初演する予定です(新型コロナウイルスの影響により延期)。
また、海外で活躍したダンサーから日本に帰ってきても居場所がないし、話をする相手もいないという相談をよく受けます。彼らと様々な分野や地域に住むアーティストの間を繋ぐための場になればと思っています。KITANAKA BRICK&WHITEにはさまざまな商業施設が入っているので、そこのお客様にクリエイションの現場を公開するなど、ダンスへの敷居を低くする取り組みも考えています。 - 「ダンスの系譜学」は「振付の原点」として古典を、つぎに「振付の継承/再構築」として同じダンサーが新作を振り付けるというユニークな企画です。
- プロフェッショナルな「ダンス」のための場所で取り組む最初の創作ですから、ダンスの原点にかえって「振付」にフォーカスした企画にしました。ダンサーや観客にとってもダンスの歴史をさらに深く知ってもらう契機にしてもらいたい。一方で今の新しい表現がここから生まれてほしい。そこで、世界的な巨匠振付家による名作と実験的な作品を同時に観ることができる構成にしました。結果、チェルフィッチュの岡田利規さんが、酒井はなさんに『瀕死の白鳥』を振り付けるなど、意欲的な作品がそろっています。
- 日本で舞台芸術のアーティストのクリエイションを支援する公立施設としては、無料で長期滞在が可能な城崎国際アートセンターや、テクニカルなスタッフが常駐して強力にサポートする山口芸術情報センター(YCAM)が有名です。一方で、最近では中村恩恵、梅田宏明、平原慎太郎、鈴木竜といった現役のアーティストがそれぞれ自主的にダンサー・振付家のための講座を行う動きもでています。
- ダンサー・振付家が学ぶ機会を提供し、支援するというのはとても重要な課題だと思っています。DaBYでは「ダンス・エバンジェリスト(ダンスの伝道師)」という役割を設けていて、小㞍健太さんに委嘱しました。彼はネザーランド・ダンス・シアターなど海外経験が豊富なので、日本の若手ダンサーのさまざまな相談に乗り、クリエイションについて助言するメンターのような役割を期待しています。さらに、観客や一般の人とDaBYやダンスを繋ぐ役割も担ってもらえればと思っています。まずは、オーディションで選抜した(コロナの影響で延期)プロを目指すダンサーのためのクラスを週2日ぐらい開講する予定です。
それと、ダンサーの雇用環境を整えることが急務と考え、契約などについて法律相談できる弁護士「リーガル・アドバイザー」を置くことにしました。30代のバレエが大好きな東海千尋さんです。たいていのダンサーは公演スタッフのなかでも一番ギャラが少なく、立場も弱いため契約書もない。あったとしても先方に都合の良いものが多い。DaBYでひな形となる契約書を作成して提供し、契約書の内容をみてアドバイスすることを考えています。
また、ダンスに限らず、たとえば法律や社会的な知識、助成金の申請書の書き方、照明や音楽に関することなど、アーティストが知っておくべき様々な知識を学ぶ勉強会に近いセミナーもやるつもりです。建築家やデザイナーなどの何人もの異ジャンルのクリエイターたちが協力してくれています。できれば、音楽家、舞台美術家、衣裳デザイナーなど、ダンスに関わりたい若者が実験をする機会もつくりたい。様々なジャンルの人たちがクロスオーバーすることで、ダンス業界そのものが豊かになっていくと思っています。 - 日本における芸術教育制度の中で、ダンスを専門的に学ぶシステムも劇場も少なく、ダンスを振興するための環境を整えるためにやるべきことは山積しています。
- はい、何から手をつけたらよいかわからないほど課題は多いのですが、日本の現状を考えると、観客を増やすことが最も重要だと考えています。観客が増えれば、ダンスを行う劇場も増え、それによりダンスアーティストの活動環境も少しずつでもよくなっていきます。愛知県芸術劇場では大小ホールを使い分けて、「実験的でアーティストと観客が近い関係でコアなファンをつくれる小ホール作品」と「多くの人に興味を持ってもらうため、ダンス公演の入口の役割を果たす大ホール作品」の両輪で観客層を広げてやってきました。
一方DaBYは、劇場ではなく作品をクリエイションする場所です。アーティストにとっては作品を発表する劇場よりもずっと長い時間を過ごす場所でもあります。日本では「劇場」と「日常」が乖離していて、劇場へ行くことの敷居が高い。劇場に行くひとつ手前のこととして、彼らの創作の現場を気軽に見ていただくことで、ダンスを観ることや劇場に足を踏み入れることの敷居を下げ、観客層を拡げていきたいと思っています。
どちらの場合にも、観客づくりは長期的なスパンで取り組まなければできません。私の場合は、幸運にも専門の公務員として採用いただけたので、愛知に骨を埋めるつもりでやってこられましたが、現状のような指定管理者で運営されている劇場や行政主導の公立文化施設では、スタッフが中長期ヴィジョンをもって企画・運営していくことはほとんど不可能です。ダンスを振興していく環境を根本的に変えていくには、専門家の雇用や組織的なマネジメント組織の構築など、制度的な側面からも見直していく必要があると考えています。
体育会系の家庭環境からダンスの世界へ
初のフェスティバル体験が人生を変える
愛知芸術文化センターでの取り組み
愛知芸術文化センターのダンス自主企画と“ダンスオペラ”の誕生
新たな体制によって拡充したコンテンポラリーダンス事業
新しいダンスの拠点、横浜のDaBY
愛知芸術文化センター
1992年開館。2010年から「あいちトリエンナーレ」の主会場となっている愛知県美術館、本格的なオペラやバレエが上演可能な大ホール(2,480席)・コンサートホール(1,800席)・小ホール(最大330席)を備える愛知県芸術劇場、アートスペース・アートライブラリー・アートプラザからなる愛知県文化情報センターで構成。開館当初は全て愛知県の直営で、芸術劇場の事業のみ愛知県文化振興事業団(2012年公益財団法人に移行)に委託。2014年から芸術劇場と文化情報センター(アートライブラリーを除く)を指定管理者として事業団が一体運営。指定管理に移行前の文化情報センターは、音楽・映像・ダンス部門に各1名の学芸員を置いていた。
https://www.aac.pref.aichi.jp/