1万種のコレクションを誇る「現代演劇ポスター収集・保存・公開プロジェクト」
- 今どのくらいのコレクションがあるのですか?
- きちんと数えたことはないのですが、1万種類以上、点数で言うと2万点以上はあると思います。今も毎年500種類ずつ増えています。貸し出し依頼も多いので、15年ぐらい前からパソコンで簡単なデータ管理をしているのですが、データ化されているものだけで約8,000種類、画像データが約1,000枚。データには、デザイナー名、劇団名、作品名、劇作家名、演出家名、主な出演者名、初演年月日、会場名、それから備考で花とか女とか絵柄の特徴が入れてあります。
- その中の重要なコレクションと言えるのが、今では美術的にも高く評価されている寺山修司さんの天井棧敷や唐十郎さんの状況劇場など、1960年から80年にかけてのアングラ演劇のポスターです。
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そうですね。有名な横尾忠則さんの『腰巻お仙―忘却編』(状況劇場/1966年)のポスターが1970年にはニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションになっていますし、アングラ演劇のポスターには美術的に高く評価されているものが多数あります。これらは、日本のポスター史のなかでも時代を象徴する画期的な作品群に位置づけられています。1989年に名古屋で開催された「世界デザイン会議」に併せて「日本のポスター史 POSTERS JAPAN 1800’s〜1980’s」という、江戸時代からの宣伝美術を概観した貴重なポスター集が刊行されましたが、その中でも「アンダーグラウンドの衝撃(The Impact of the Underground)」というタイトルで取り上げられています。
そういう代表的な作品はほとんど収集しています。そのほかに、これまでは公開していなかったのですが、東京オリンピックなどのポスターをデザインした亀倉雄策さんや田中一光さんなど、戦後の広告をリードした日本宣伝美術会(通称:日宣美) (*1) を代表するデザイナーのポスターもかなり集めています。そういう貴重なものは、全部で500種類ぐらいあるのではないでしょうか。 - ちなみに、笹目さんのプロジェクト以外で、現代演劇のポスター収集をしているところはありますか。
- アングラ演劇のポスターについて言うと、当時の代表的なデザイナーのひとりである及部克人さんが教授をされている武蔵野美術大学美術資料図書館にコレクションがあります。早稲田演劇博物館の資料の一部にも現代演劇ポスターがありますね。商業広告のポスターとしては富山県立美術館が充実したコレクションをもっています。
- なぜ「現代演劇ポスター収集・保存・公開プロジェクト」を立ち上げたのか、その成り立ちを教えてください。
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僕は、現在、演劇、映画、コンサート、展覧会などのポスターを飲食店や劇場、美術館などに配布する仕事を専門にした「ポスターハリス・カンパニー」という会社を経営しています。演劇の制作現場で雑用扱いされていたポスター貼りをスタッフとして堂々とポスターに名前が載るような仕事にしたいと、その地位向上を目指して1987年に設立しました。
それで現代演劇を中心にポスターが継続的に手元に集まるようになったんです。当時は、会社が長続きすると思ってなかったし、10年ぐらいやって最後に展覧会でもできればいいなというのと、子どもの頃から紙ものを捨てられない性格だったので、配布した残りをそのまま保存していました。
それが、92年にたまたま青山のギャラリーから頼まれて、初めてのポスター展「ウルトラ ポスター ハリスター コレクション展」をやったわけです。ポスター貼り10周年を記念して開催したのと、ちょうど人気劇団の夢の遊眠社が解散したタイミングだったこともあって、新聞や雑誌が記事で取り上げてくれて3,000人も集客した。その時に映画だとフィルムセンターや川喜多記念映画文化財団など、ポスターの保存をしている公の機関があるのに、現代演劇にはそうした機関がないことを実感した。若気の至りで、ポスター貼りをビジネスにしている僕が収集施設をつくらなければといけないと、資金もないのに使命感に燃えてしまった。
それから劇場関係の人にポスター収集を始めますと宣言して、公演と平行して新しいポスターを意識的に集め始めました。権利の問題が発生する可能性もあったので、綿密にプランを練って、「ポスターは宣伝するために生まれてきたのだから、壁に貼られた使用済みのものこそ保存すべきだし、それなら問題になることも少ないのではないか。画鋲の穴はポスターとして生きた証だ」と、一度劇場に貼ったものを回収する方法をとりました。それから、ポスター展は基本的に入場料無料で公開し、貸し出しの場合は実費程度、有料出版物に利用する場合のルールづくりも行いました。アングラ演劇時代のポスターについても、それまでもっていたものに加え、購入する、寄贈してもらうなどして、個人的に収集しました。それから色々なところでポスター展もやるようになりました。
保存するのにも資金が必要だし、私的なプロジェクトとして取り組む範疇を越えてきたため、セゾン文化財団から助成(3年間で計300万円)を受けるのを機に、94年に「現代演劇ポスター収集・保存・公開プロジェクト」を正式に立ち上げました。プロジェクトの理念は、「世界中の舞台芸術に関するポスターの収集・保存・公開」と、僕がポスターハリス・カンパニーの理念としても掲げている「宣伝美術からの演劇の活性化」です。 - 新国立劇場が始めたポスター収集活動にも笹目さんは協力されています。
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新国立劇場は1996年に開館しましたが、付属情報センターでこうした現代演劇の資料収集を行いたいという相談があり、98年から共同でポスターを保存・公開するプロジェクトを始めました。これは新しいものばかりを集めるプロジェクトで、全国の2,000ぐらいの劇団や劇場に呼び掛けて収集を行い、毎年500枚のポスターを選んで保存し、その内の80点を掲載した図録を作成しています。
公の機関が現代演劇のポスター収集をやるべきだと考えていたので、新国立劇場という国の機関がポスター収集に着手してくれたのはとても嬉しかった。今は新国立劇場の倉庫に5,000種ぐらいコレクションが収蔵されているはずです。舞台芸術のポスター・デザイナーに日が当たる機会もないので、彼らにとってもとても励みになっているようです。こういうことが「宣伝美術を通じた演劇の活性化」にも繋がると考えています。しかし、担当者や体制が変わり、当初の理念が薄れて予算の確保も難しくなってきています。何とか継続できればと願っています。
右も左もわからないまま、30歳の時に志だけでポスター収集を始めたのですが、演劇が滅びるまでやり続けなくちゃいけないことに関わってしまったんだなと1、2年して気づきました。その上、2009年4月から三沢市にある寺山修司記念館 (*2) の運営を、寺山さんの元奥さんで天井棧敷のプロデューサーだった九條今日子さんと一緒にやることになった。現代演劇のポスターと寺山修司という、どちらも下ろすことができない二つの十字架を背負った感じです。
寺山修司との運命的な出会いがポスター収集のきっかけ
- 笹目さんが、そもそも演劇に携わるようになったきっかけを教えてください。
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82年、19歳の時に、当時ブームだった小劇場演劇と出合ったのがそもそもの始まりです。最初に見たのが野田秀樹の夢の遊眠社で、3番目に見たのが寺山修司の遺作となった天井棧敷の紀伊國屋ホール公演『レミングー‘82年改訂版 壁抜け男』でした。大学を中退し、モラトリアムな状態だった僕は、寺山さんの台詞でズタズタされた。もうこれしかないな、と運命が変わった。今思えば、天井棧敷との出会いがアングラ演劇のポスターとの出合いでもあったんですよね。
天井棧敷に参加しようとも思ったのですが、寺山さんが翌年の5月4日に亡くなり、劇団が解散してしまった。その時に小道具やポスターなどのバザーが行われたのですが、僕は一ファンとして参加して、『レミング』で使われた大きな体温計を買って帰ったりしていました。まだ20歳で、「演劇の世界で生きていく」といって親から勘当されてしまったので本当にお金がなくて。でも、人の縁に恵まれていて、芝居好きの人が一緒に連れて行ってくれたりしたので1カ月に10本ぐらい芝居を観ていました。その行く先々に九條さんがいて、まるで僕が追っかけているみたいだった。北村想さんの『十一人の少年』を観に行った時に席が隣になり、「そんなに芝居が好きなら手伝う?」と名刺をもらった。これは人生、最初で最後の最大のチャンスだと思って連絡しました。それで西武劇場(現・PARCO劇場)で行われた寺山修司追悼第2弾『青森県のせむし男』(83年)のスタッフとして手伝うことになり、人生で初めてのポスター貼りを経験しました。それをきっかけに西武劇場からポスター貼りのアルバイトを頼まれるようになったのが、今の仕事のルーツです。バイトと平行して、九條さんが代表をしていた寺山さん関連のプロダクション「人力飛行機舎」にも出入りし、追悼公演の制作や舞台監督の助手として手伝うようになりました。85年の「寺山修司全映像詩展」で運営を任された時に僕を手伝ってくれたスタッフと一緒に立ち上げたのが、ポスターハリス・カンパニーです。 - 92年に初めての展覧会をやってから、展覧会活動としてはどのような取り組みをしてきたのですか。
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現代演劇の全体像を伝えるのにポスターを活用できるんじゃないかと、96年には国際交流基金の支援を受けて、ウィーン、プラハ、ブダペストでポスター展をやりました。東京でも30年分の現代演劇のポスター500点をセレクトした大規模な「現代演劇ポスター展’66/’96〜挑発するポスター街に貼られた現代演劇」を開催したのですが、新聞にも大きく取り上げられて1万人ぐらいが来場した。この展覧会をきっかけに、プロジェクトについて周囲の認識も変わってきて、劇団から積極的に預けられるようになり、また、シルクスクリーンの刷り師だった人など個人的にポスターを所有している人から有効活用してほしいと寄贈されるようになってきました。
2004年には、60年代から80年代にかけてのアングラ演劇の傑作ポスター100点を選んだ「ジャパン・アヴァンギャルド〜アングラ演劇傑作ポスター展」を開催しました。天井棧敷、状況劇場、黒テント、土方巽など、当時の一番面白いポスターを選んで展覧会を開催し、それらすべてを収録した決定版の図録をPARCO出版から刊行した(B3版サイズで全ポスターを掲載)。最初に出版記念の展覧会を、ロゴスギャラリーや、かつてアングラ演劇のポスターが貼ってあったようなゴールデン街の飲み屋やバーなどで同時多発的に展示しました。アングラ演劇の人たちはみんな前衛を標榜していて「過去を振り返るな」という精神だし、複雑な人間関係や権利関係があって図録の編集は本当に大変でした。このタイミングだったのと、僕がどこの劇団にも所属したことのない第三者だったからやれたのだと思います。もし天井棧敷のメンバーになっていたらできなかったでしょうね。
それから、世田谷パブリックシアターのロビーでは、開館以来ずっと年間3〜4回入れ替えながら常設のポスター展をやっています。それから要望があれば、実費程度でポスターの貸し出しにはできるだけ対応しています。映画やテレビのセット用に貸し出すこともあれば、海外公演に併せたポスター展や、劇場ロビーでのポスター展など、色々な照会があって、年間の貸し出し枚数は100枚どころではないと思います。 - 現代演劇の大規模なポスター展として画期的だったのが、88年の第1回東京国際演劇祭に併せて西武美術館(89年セゾン美術館に改称。99年閉館)で開催された「現代演劇のアート・ワーク60’s〜80’s展」です。笹目さんはこれには関わっていないのですか。
- すでにポスターハリス・カンパニーを設立していたので、その展覧会のポスター貼りやチラシ配りは仕事としてやりましたが、企画には関わっていません。あれは、小堀純さんという大阪の編集者の発案で企画されたものです。アングラ演劇時代のポスターの特徴は、シルクスクリーンという印刷技法が使われていることです。板の替わりに目の粗い絹を使った多色刷りの版画のようなもので、1点1点手で刷っていく。そのポスターの魅力について、当時を代表するグラフィック・デザイナーの及部さんが書いた原稿を小堀さんが読んで、展覧会を企画したと聞いています。アングラから80年代の人気小劇団までのポスターが一堂に会した、画期的な展覧会でした。
- 2009年には渋谷にマンションの一室を改造したポスターハリスギャラリーを開設されました。
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ポスターの収集・保存・公開プロジェクトを立ち上げる時、本当はポスター美術館のようなものを構想していたんです。そこに行くと日本の演劇ポスターが全部コレクションされていて、世界中のポスターの情報も集まっているような。それはとても無理だけど、パソコンのモニターだけで情報にふれているような若い子たちに、少しでも本物のポスターに触れてもらいたくてギャラリーをオープンしました。今のところ年2回ぐらい作家別シリーズとして60年代のコレクションを展示する予定にしています。それに併せて色々なライブイベントも仕掛けていくつもりです。
この時代のポスターに「ロシア・アヴァンギャルド」を文字った「ジャパン・アヴァンギャルド」という名前を付けたのは、この時代にこういう表現があったということを今のデザイナーたちにきちんと伝えたいと思ったから。こういう前衛たちの仕事を踏まえながら、自分たちの表現活動をやってほしいということを伝えるのが、僕のひとつの使命かなと思っています。
アングラ演劇のポスターは若いデザイナーたちの叛乱だった
- 演劇のポスターは日本の現代演劇の大きな成果と言えるものです。グラフィックデザインには、横尾忠則をはじめとして、粟津潔、赤瀬川原平、宇野亜喜良、金子國義、篠原勝之、及部克人、平野甲賀、井上洋介、及川正通、榎本了壱、花輪和一、林静一、合田佐和子、戸田ツトム、辰巳四郎など、錚々たるアーティストが関わっています。ポスターは告知のための媒体ではなく、革新的なグラフィック表現の場であり、これから始まる演劇のメッセージそのものでした。
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こうしたアングラ演劇のポスターの端緒となったのが、土方巽の暗黒舞踏派ガルメラ商会による『バラ色ダンス─A LA MAISON DE M.CIVECAWA』(1965年)で、蛍光色を多用したサイケデリックなポスターです。最初、土方さんは田中一光さんにお願いしたら、面白い人がいると横尾さんを紹介された。このポスターを見た唐十郎さんが、横尾さんに状況劇場のポスターをお願いして生まれたのが『腰巻お仙─忘却編』です。これが衝撃だった。この頃の横尾さんのポスターをよく見ると、小さく「遅くなったことを許してください」というお詫び文が印刷されていますが、公演初日に届いたものがあるほど出来上がるのが遅かったそうです。
当時のアングラ演劇のポスターは、アメリカのヒッピー文化の影響を強く受けています。68年に新宿・花園神社の横にポスター専門店が出来て、アメリカのサイケデリック運動を牽引したグラフィック・デザイナーのピーター・マックスのポスターなどを紹介するようになったのも大きかった。68年と言えば世界中の大学で紛争が巻き起こり、日本でも全共闘が大学をバリケード封鎖して機動隊と激しい攻防を行った歴史に残る年です。そういう学生運動と繋がったところにアングラ演劇の運動もあるわけですが、グラフィック・デザインの世界にもその波は押し寄せていた。ポスターは告知媒体ではなく自分たちを表現する媒体だ、自分たちのメッセージをどんどん入れようという風潮になっていた。
そして決定打になったのがアングラ演劇と組んだ横尾さんの『腰巻お仙』です。ポスターでこれだけやれるんだ、何をやってもいいんだと触発された若いグラフィック・デザイナーたちが、引力が引き合うように、当時さまざまな才能が活躍していたアングラ演劇の劇団とドッキングして、挑発的なポスターを競い合うようにつくっていきました。その中で68/71黒色テントはこうした表現するポスターを「壁面劇場」であると宣言し、天井棧敷も市街劇の中で“タイムポスター”というポスターを貼り続ける演劇を発表するなど、ポスターが演劇そのものになっていくわけです。
天井棧敷のポスターは横尾さん、粟津さん、宇野さん、及川さん、辰巳さん、状況劇場は横尾さん、篠原さん、赤瀬川さん、合田さん、金子さんなどがデザインしていますが、粟津さんを除くと、後はみんな30歳代前半、1935年〜36年生まれの若さでした。ちなみにこの前の世代が、日宣美を設立してデザイン革命を起こした戦後第1世代の田中さん、亀倉さん、木村恒久さん、福田繁雄さん、永井一正さんたち。日宣美の公募展は若いアーティストの登竜門になっていたのですが、権威主義だとして学生運動の攻撃対象となり、1970年に解散に追い込まれています。 - 考えてみると、ポスターハリス・カンパニーが掲げている「宣伝美術からの演劇の活性化」というのは、かつてのポスターが演劇そのものだという精神の復権を目指したものなんですね。寺山さん流に言えば、ポスターで市街劇をやっているようなものだということがよくわかりました。ところで、当時、そういう若いデザイナーを支えた印刷会社として「サイトウプロセス」の名前がよく登場しますよね。
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サイトウプロセスはシルクスクリーンの刷り師がいる小さな町工場で、デザイナーたちが日宣美に応募するためのポスターを10枚単位で刷りに行っていた。そこがインディペンデントのアーティストたちをサポートしたんです。サイトウプロセスはもう解散していますが、その時に保存していたポスターをすべて武蔵野美術大学に寄贈したので美術資料図書館のコレクションが素晴らしいんですね。
シルクスクリーンというのは要するに版画なので、別に印刷会社に持って行かなくても自分の家でも刷れる。状況劇場や天井棧敷のポスターはサイトウプロセスなどの印刷屋で刷っていますが、自由劇場の串田光弘さんのものは自宅で自作したものです。だからサイズがA全だし、干して乾かす時に使った洗濯バサミの跡が残っています。シルクスクリーンは職人的な刷り師の世界であると同時に、自分たちの手づくりで印刷費をかけないで自由にできる表現だったから、若いデザイナーたちの表現手段として、武器として普及していきました。 - 80年代になると、社会を挑発するアングラ演劇から若者に人気の小劇場演劇へと時代が移り変わっていきます。80年代に一世を風靡したつかこうへいのポスターをデザインしたのはイラストレーターの和田誠さんでした。
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和田さんも1936年生まれですでに活躍されていたのですが、和田さんの絵はアングラ演劇には向かなくて、演劇の世界ではつかさんと共に登場してくるわけです。サイズもB全ではなくて小さくなり、壁面劇場のような運動ではなくなっていった。その後も劇団と組んだイラストレーターはいますが、例えば川崎ゆきおさん、ひさうちみちおさん、丸尾末広さん、高野文子さん、長谷川義史さんとか。でも60年代のアングラ演劇のポスターをやったグラフィックデザイナーたちが彼らと決定的に違うのは、その多くが舞台美術もやっていたということ。おそらく「美術をお願い」と頼まれて、そのなかでポスターもつくったのだと思います、だからこそポスターも演劇だった。でも、80年代以降は、ポスターはポスターとして発注され、その上、ポスターをデザインするデザイナーとイラストレーターは別というように分業化されていった。これでポスター表現は大きく変わった。
加えて、最近では、演劇のポスター、チラシが単純に経済的な効果で図られる存在になってしまっています。チケットを売るためだけのツールとして考えると、ポスター100枚刷ったらチケットが何枚売れるか、なんて計算になり、費用対効果が悪いからつくらなくていいとか。費用が掛かるからポスターとチラシのデザインは同じでいいとか。そういう存在になってしまった。
近年、芝居をつくる主体が劇団ではなく、ユニットやプロデュースという集団性のないものに変わってしまったことも原因のひとつで、劇団の旗印として登場したジャパン・アヴァンギャルドのようなポスターが必要ではなくなった。でも、チラシやポスターの表現は、関わっている人たちにやる気を起こさせたり、出会った人にメッセージを伝えたり、その出来映えによって作品を牽引する力や可能性をもっている。アーティストの表現の場としての可能性をもっている。それを安易に捨ててしまうのは本当に悲しい。 - そういう傾向が顕著になったのはいつからですか。
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ひとつは90年代を代表する人気劇団の大人計画がポスターをつくらなかった影響は大きいと思います。それから、小劇場を対象にしたチラシの折り込み代行が始まり、印刷経費も安くなったことから、劇団が自分たちで何も考えないで大量のチラシを刷って人任せで配布するようになったこともチラシ、ポスターという存在の衰退に繋がった。デザイナーも紙の印刷にこだわらなくなっていて、出力用データを渡すだけでプリントをチェックしないとか。自分が表現したかった色が出ているかどうか気にしなくて本当にいいのかと、彼らに問いただしたい気分です。
確かにIT技術が進んでいるのだから、そういう選択もあっていいけど、すべてがそういう傾向に流れるのはどうかと思う。インターネットがいいとなるとみんなそっちに流れるけど、紙の表現もインターネットも両方が共存する社会を目指さないと表現は衰退します。 - 最近のポスター表現はどのような傾向になっていますか。
- 90年代ぐらいからプロデュース公演が増えたために、出演者の集合写真のようなポスターやチラシばかりになっています。この俳優は何人集客できるとか、集客力のある俳優の所属事務所の力が大きくなって、デザイナーも記念撮影が仕事のようになっている。結局、チラシやポスターに写真をどう使えばいいかだけだから、表現としてどんどんつまらなくなる。グラフィックデザイナーの方も、試行錯誤の時代があったのだと思います。しかし2000年代に入ってから写真を使うのはマストですが、有名俳優のネームバリュー以上にその写真をデザインして、ポスター自体を上演作品に寄り添うように表現しインパクトのあるポスターをつくるデザイナーが何人か出てきました。河野真一や、マッチアンドカンパニーの町口覚、東學など、いい仕事をしています。少し希望は出てきました。
- いまでもジャパン・アヴァンギャルドのようなアートワークを行っているところはありますか。
- 東京で言えば、唐さんの唐組や、 麿赤兒 さんの大駱駝艦などは、当時と同じ大判のB全サイズのポスターを製作しています。大阪の維新派は、あまりポスターはつくらないですが、チラシはいいですね。あそこの宣伝美術は、1997年から墨絵画家でグラフィック・デザイナーでもある東學さんが担当していますが、抜群にいいです。それと僕の独断と偏見で言うと、戯曲を書かないタイプの演出家はあまり宣伝美術にこだわらない傾向があるように思えます。これはアングラ演劇時代も同じで、例えば寺山さんや唐さんや佐藤信さんにはいいポスターが残っていますね。
- 60年代にあれだけのポスター表現が花開き、アートワークとして高い評価を受けたのに、ポスターに対する社会的地位とか表現の場としての評価は高くならなかったのでしょうか。
- なりませんでしたね。それを変えたいとは思いますが、今は経済的な効果がすべてに優先してしまう。そうではなくて、ポスター1枚、チラシ1枚を見たことで演劇に出合ったり、人生が変わったりする可能性を復権したい。それは、僕自身が演劇で人生が変わった人間だから思うことかも知れませんが。
- ポスターを演劇として復権するためにはどうすればいいと思いますか。
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ひとつにはつくる側の意識改革だと思います。チラシもポスターも、ポスター貼りも丸投げで、どんどん仕事が細分化してひとつのものを一緒につくっていく感覚がなくなっている。ポスターハリス・カンパニーでは小劇団の仕事を受ける時にはみんなで街に貼りに行くほうがいいよと言いますし、初めは断っていたぐらいです。
「偶然性の出会いを組織する」という寺山の言葉があるのですが、僕たちは本当に偶然であった人たちによって支えられているし、ポスターや演劇はまさにその「偶然性の出会いを組織する」ということだと思います。ロシア・アヴァンギャルドのポスター作家として有名なステンベルグ兄弟は、「ポスターには芸術表現の可能性を試せる無限のチャンスがあった。僕たちは街ゆく人が足を止めてくれるよう、できる限りのことをすべて行って1枚のポスターを完成させた」と言っていますが、演劇製作者やグラフィックデザイナーにはこの言葉を心に刻んでおいてほしいと思います。
とはいうものの、60年代当時、みんながそう思っていたかどうか怪しいですが。劇団員たちはポスター貼りが面倒くさくて、案外、部屋に置きっぱなしにしていたかもしれない(笑)。