サミュエル・ミラー

米アート・マネージメント界の雄
サミュエル・ミラーのすべて

2010.03.19
サミュエル・ミラー

サミュエル・ミラーSamuel A. Miller

サミュエル・ミラーは、プレゼンター、プロデューサー、芸術助成財団のヘッド、また芸術NPOの分野におけるコンサルタントとして比類のないキャリアを歩んできた人物だ。2004年から2009年までレバレッジング・インベストメント・イン・クリエイティビティー(LINC/「創造に対するテコ入れ支援」という意味)の運営代表。これに先立つ10年は、ニュー・イングランド芸術財団(New England Foundation for the Arts NEFA)のエグゼクティブ・ディレクターを務める。この間に、ニュー・イングランド地方にとどまらず全米に強い影響を与えた「ナショナル・ダンス・プロジェクト」や、国際事業「カンボジア・アーティスト・プロジェクト」などを世に送り出しているほか、「クリエイティブ・エコノミー」(NPOの芸術活動がニュー・イングランド地方の経済にいかに貢献しているかをデータで示し、NPOの芸術活動の重要さを証明したプロジェクト)、「エクスペディションズ」(情報の流通や助成金制度を通じてニュー・イングランド地方のプレゼンターの恊働によるツアー企画を推進したプロジェクト)など、新規事業を次々に立ち上げる。また、1986年から1995年までは、全米屈指の夏のフェスティバル「ジェイコブス・ピロー・ダンス・フェスティバル」の運営ディレクター、のちにエグゼクティブ・ディレクターとしても活躍。

昨年LINCの運営代表を退いて同団体の理事会プレジデントとなったのをきっかけに、現在はフリーランスのプロデューサー兼コンサルタントとなったミラー氏に、過去・現在・未来の活動について聞いた。
聞き手: 塩谷陽子 [ジャパン・ソサエティー芸術監督]
多大な業績を残していらっしゃって、しかもそこにはすべてを貫く複数の糸があるように見えます。ということで、まずは無難に、「あなたの職歴はどうやって始まったのでしょう?」という質問から始めたいと思います。
 では、手短かに(笑)。ロードアイランド州のプロヴィデンスというところで育ちました。両親はトリニティー・レパートリー・カンパニーという劇場・劇団の資金調達に関わっていました。私も演劇を学び、ステージ・マネージャーとして働き始めました。その後、振付家で、以前はダンサーだった私の弟のアダムのおかげで、ダンス界に転身しました。フィラデルフィアにあるペンシルベニア・バレエ団に就職し、その後コネチカット州のピロボラス・ダンス・シアターで働き、さらにマサチューセッツ州のジェイコブス・ピローに約10年いました。それからニュー・イングランド芸術財団(NEFA)に移り、そこでもダンスのプロジェクトに関わりました。2004年からはレバレッジング・インベストメント・イン・クリエイティビティー(LINC)のプレジデント兼CEOを務めましたが、昨年代表を退いて、同LINC理事会のプレジデントになると同時に、7月に自身の会社を立ち上げてコンサルタントやプロデューサー業を手がけています。
「貫く糸」ということに関して言えば、ダンスが私の興味の核で、ダンスとの付き合いはかれこれ30年近くになります。また「国際事業」ということも糸のひとつです。そうそう、最初に国を越える仕事をしたのは、1984年にピロボラスを日本に連れて行くことでした。この2つを合わせた経歴は25年になります。その中で大きな波となったのがジェイコブス・ピローでの10年と、NEFAでの10年でしょうね。私が関わってきた「ダンス」はコンテンポラリー・ダンスが中心で、「国際事業」というのは主にアジアに関わることです。
アジアとの関わりについてお聞かせください。
 米国でのモダンやコンテンポラリーのダンスを眺めると、アジアからの影響が鍵になっています。私がジェイコブス・ピローにいた当時は、米国人が訪れたりあるいは観に行ったりする行為の多くは、米国とヨーロッパとの往来の中で起こっており、それに比べれば米国とアジアとの行き来や交流はずっと少なかった。けれど、米国のアーティストに非常に強い影響を及ぼしたアジアのものがいくつもあると感じていますし、私自身が魅力的だと思う若手のアーティストはアジア出身だというケースが多い。アーティストの想像力というのは、新しい情報に遭遇することで育まれるものです。だからこそ米国とアジアの交流が重要ではないかと考えています。
私がジェイコブス・ピローに在籍していた当時、ロサンゼルスの日米文化コミュニティーセンター(JACCC)でディレクターを務めていたのがジェリー・ヨシトミさんでした。彼が行っていた「日米舞台芸術コラボレーション・プロジェクト」に深く関わることになり、それがきっかけで「交流」ということに傾倒し始めました。ジェリーが私に教えてくれたことのひとつは、「長年続ける」ということ。手をつけてはすぐやめて、などというのはダメだと。知識を蓄積して関係性を育むという観点から「長期事業」がいかに大切かということを学びました。
90年代の初頭には、さらに2つの事業に関わることになりました。ひとつがアジアン・カルチュルラル・カウンシル(ACC)のジョージ・コーチ(東京)および ラルフ・サミュエルソン (NY)、そしてセゾン文化財団と一緒に立ち上げた「トライアングル・プロジェクト」です。これは、米国と日本とインドネシアの3国交流プロジェクトで、15年間続きました。もうひとつが、同じ時期、1990年にカンボジアのアーティストらと協力して立ち上げたプロジェクトです。ACC、アジア・ソサエティーならびにいくつかのカンボジア側の協力者を得て、ロックフェラー財団からの助成金で20年間続けてきました。これらの米・日・アジア間の活動が、90年代の後半から2000年代の前半にかけて、私にとっての中核事業になりました。米国はもちろん、日本、インドネシア、シンガポールといった地域から仲間を取り込んでネットワークしようと一生懸命でしたよ。
NEFAでのことを聞かせてください。ミラーさんが在籍されていた10年間に多くの重要なプログラムが生み出され、それによってNEFAの存在感が非常に増しました。NEFAに就職された背景と、NEFAでご自身が課題にされたことについてお話いただけますか。
 前の職場のジェイコブス・ピローはニュー・イングランド地方にありましたから、NEFAのことは知っていましたし、良い組織だと思っていました。ホリー・シドフォードがディレクターを務めていた時で、私のようなニュー・イングランド地方のプレゼンターにとっては非常に重要な財源になっていました。ホリーがライラ・ワレス・リーダース・ダイジェスト財団に移籍して、私がNEFAに移ることにした時、私にはNEFAがやらなければならないことについての明確な問題意識がありました。というのも、次のようなことがあったからです。
ジェイコブス・ピローにいた最後の2年間、私はマスモカ(マサチューセッツ現代美術館)開発事業に関わるようになっていました。マスモカの当初のアイディアは、後にグッゲンハイム美術館の館長になったトーマス・クレンズが描いたものでした。それは、「主流のアートを見せるための純然たる美術館」という位置づけだったのですが、トムの後をジョセフ・トンプソンが引き継ぎ、私は彼を手伝うことになりました。そこで私は「舞台芸術とのパートナーシップ」という提案を加えました。これがマスモカのあり方を少しばかり揺るがすことになりまして(笑)。つまり、「モノのための場所」ではなく「モノをつくって、モノを見せる“人”のための場所」になった。マスモカが展覧会のためだけの場所ではなく、公演をプロデュースし上演する場所になったことで、ジェイコブス・ピロー、バーモントのフリン劇場、ミネアポリスのウォーカー・アート・センター、ロサンゼルスのJACCCやニューヨークのBAMなどと互いにパートナーシップを組むことになったのです。
その時に気づいたことがありました。「ある組織を単体で運営することと、その組織が必要とする他組織と連携して共同事業をすることを同時に行うのは、非常に困難だ」ということです。それでNEFAに移ることにしました。なぜなら「舞台芸術業界の交流を促して、パートナーシップの構築と運営をサポートする」というのがNEFAの事業の主眼だからです。プレゼンター、アーティスト、そしてキュレーターといった人々は、ネットワークの中で支えられるべきものだから、それをやりたいと思いました。それと、ネットワークを構築するのに長い歳月を擁する困難な国際事業というものにますます興味が湧いてきたのも移った理由のひとつです。
NEFAに移ったのは90年代の半ば。全米芸術基金(NEA)がいわゆる「文化戦争」のただ中で崩壊しかかっており、個人のアーティストへの直接助成が大幅に削減された頃です。タフな時代でした。ツアーのための事業やフェローシップ・プログラムも解体の憂き目にあって、ダンスは危うい状況に陥っていました。
NEFAの主要目的は「舞台芸術」への援助なのでしょうか?
 舞台芸術に特化しているわけではありません。でも、全米国に「地域別助成財団」(New England Foundation for the Arts、Arts Midwest、Mid-America Arts Alliance、Mid Atlantic Arts Foundation、Southern Arts Federation、Western States Arts Federation。NEAの先導で、地域ごとの各州が集まって1970年半ばに設置された)が6カ所存在している理由は、「誰かがアーティストを─主に舞台芸術の公演を─州から州に移動させなければならない」というところにあります。ある州はその州のアーティストをよその州に送りたい、でもよその州ではそのことに予算は使いたくない。そこでNEFAは、各州が支援する国内の行き来やNEAが支援する海外との行き来などをサポートするわけです。
こういうNEFAの使命と同時に90年代半ばのダンス助成の危機状況を鑑みて、「ナショナル・ダンス・プロジェクト」 を立ち上げました。「コンテンポラリー・ダンスの新作委嘱とその米国内ツアーの支援」を主眼にしたこの事業によって、NEFAの輪郭は変わりましたよ。国も各地域財団もダンスの巡回を支援するプログラムを長年運営してはいましたが、多くの場合「公演を配給する」という側面をサポートするのみで、「新作をつくる」という部分と一体になっての支援ではありませんでした。その意味でナショナル・ダンス・プロジェクトは従来のプログラムの影響で生まれたものでありながら、それまでのものとは全く違う支援だった。そんなわけでこの事業はNEFAの中心的事業となりました。
ミラーさんの個人的な興味と情熱がダンスだと知ると、ナショナル・ダンス・プロジェクトを立ち上げたことは不思議ではありません。でも計画段階で「なぜ特別にダンスだけなんだ?」という議論が、同僚や理事会から起こらなかったのですか?
 起こりましたね(笑)。確かにそれは問題にはなりましたが、当時は私の情熱と「必要とされているもの」が一致していたのです。たとえば、ニュー・イングランド地方には、フリン・アーツ・センターやダートマス大学付属の ホプキンス・センター 、あるいはウェスリアン大学などプレゼンターの多くが「ダンスに強い」という特徴があり、盛んに活動していました。彼らは地元に限らず他の地域のアーティストとも数多く付き合っていました。地域の内外だけでなく海外のアーティストに対してすら、コンテンポラリー・ダンスの新作を委嘱して上演する力がニュー・イングランドの文化構造の中にすでに備わっていたわけで、そこには潜在的な需要がありました。
それから、ニュー・イングランドにとって大切な振付家の多くが各自独立した活動をしているだけで、成熟した組織・団体からのサポートを得ていないという課題もありました。彼らの作品を上演する劇場のプレゼンターは、上演の部分だけで恊働するのではなく、つくる部分でも恊働すべきだと思いました。NEFAでは、振付家と組織とのこういう踏み込んだ関係を確立したいと考えました。となれば、ダンスに必要なものは何か?ということになるわけで、「様々な地域や海外も含めたインターナショナルな文脈で往来を増やす。往来は多ければ多いほど良い」というのが私なりの回答でした。
だからこそ、ニュー・イングランドがニュー・イングランドの目標を達成するためには、全米的視野に立つ必要があるのだということを説くことができたのです。全米的視野というのは「コンテンポラリー・ダンスをバーモント州からメイン州にツアーさせよう!」みたいな偏狭な発想ではなく、カリフォルニアから、ニューヨークから、あるいはフランスや日本からもカンパニーを連れてくる必要がある、というスタンスに立つということです。そもそもこういうことをするために設立されたのがNEFA(少なくとも私の見解では)だったはずですが、このスケールで実行に移されたことはそれまでありませんでしたから。
ただし、我々は、ナショナル・ダンス・プロジェクトの効果を量と質の両方から裏付けて見せなければなりません。助成や支援の獲得には多くの競争者がいるということ、また助成や支援を施してくれた主への説明責任があるということ、これらのせいで、効果を説明できる状態にしておくということに対する我々の意識は非常に高いのです。
「新作委嘱とそのツアーを促す」という事業は、ダンス専門ではありませんが、「ナショナル・パフォーマンス・ネットワーク(NPN)」がすでに20年近くも続けています。ナショナル・ダンス・プロジェクトの独自性は「スケール(規模)の大きさ」なのでしょうか? それとも「ダンスに特化」という部分なのでしょうか?
 私がナショナル・ダンス・プロジェクトをイメージすることができたのは、NPNが存在していたからです。NPNは、米国各地の中小規模のプレゼンターや組織のネットワークから成り立っていて、新作の舞台作品づくりを互いに助け合うという構造です。言い換えれば、ひとつの大テーブルを取り囲んで座る同じ立場の同僚たちの「互助機能」なわけです。それに対してナショナル・ダンス・プロジェクトはネットワークを前提としたものではない。小さなテーブルを用意してやって、ダンスに興味さえあれば大小いかなるプレゼンターでも立ち寄ることができるというあり方です。つまりナショナル・ダンス・プロジェクトは、私の中ではNPNを補完するものという位置づけになっています。①ダンスに焦点を定め、②プレゼンターに対して、アーティストのつくった作品を上演するだけでなく、作品づくりの段階から彼らを支援し奨励する、③できるだけ多くのプレゼンターの「継続支援」を奨励する、④わからない、採算が合わないといった理由でダンスに尻込みをする多くのプレゼンターのために、リスク・マネージメント面での手助けをする、⑤事例を固めて「こういうことがダンスに起こっています」と示す─というスタンスがナショナル・ダンス・プロジェクトであり、NPNとの違いです。
ナショナル・ダンス・プロジェクトは、指導的立場にある全国の12のプレゼンターに監督的役割を担ってもらっています。彼らはダンス・カンパニーからの助成申請を審査し、他のプレゼンターとパートナーシップを組む習慣をもっている人々です。NEFAは彼らを支援し、さらにパートナーシップの輪が広まるようプロモートします。その努力によって100以上のプレゼンターを取り込んだとしたら、数年後には300を越えるかもしれません。このような数量規模から言ってもナショナル・ダンス・プロジェクトとNPNとは異なっていて、そういう意味からもお互いに補完しあっていると言えます。この2つは米国の舞台芸術のインフラにとって欠くべからざる存在であり、国際事業においても長く貢献してきています。
プレゼンターには2種類あるように思います。ひとつは、作品づくりや作品発表においてアーティストにとって何がベストかをいつも考えている人。もうひとつは、アーティストを支持し、彼らのキャリアに気をくばるよりも「公共イベント」として提供する立場を保持したいと思っている人。
 確かに様々なタイプのプレゼンターがいますが、劇場で作品を上演する立場にいる限り、「どんな風にして作品を舞台に乗せるか?」ということに多かれ少なかれ気を配っているものです。そうした時に、演劇界と違ってダンスでは、自前の劇場で自演している人は非常に稀で、だから「つくる場所と上演する場所が同じ」ということがほんどない。そんな背景から言っても、公共イベントを提供するには、提供するだけではなく、作品がつくられる課程がそのままイベントに繋がるという意識をもったプレゼンターが必要となります。
ジェイコブス・ピローで、リズ・トンプソンと共にマネージング・ディレクターとして働いていた時や、その後、彼女のポジションを引き継いでエグゼクティブ・ディレクターになった頃、ジェイコブス・ピローの資源は「上演」と「教育」を目的としたものでした。歴史的に言っても、そもそもジェイコブス・ピローは「フェスティバル」と「学校」でしたから。私は、その資源をシフトさせ、例えば既存のスタジオを活用し、宿泊施設を充実させることで、「生徒需要」ではなく「アーティスト需要」に切り替えて作品づくりのためのレジデンシーができるようにしました。さらに、所有地という資源を開発して「スタジオ・シアター」を建設しました。(設立以来の)ミッションを書き換える必要はなくて─時代に合わせてミッションを解釈し直せばいいんです。
プレゼンターは上演だけでなく作品づくりの段階から関わる形でダンスをサポートするという発想は、ピロボラスというダンス・カンパニーでの仕事から、ジェイコブス・ピローというダンス・プレゼンターでの仕事を経たご自身の経歴の中で、徐々に培われていったものですか?
 アーティストをどうサポートするか、どうやったら彼らの作品づくりを助けることができるかというテーマは、私が大昔から抱いていた関心です。でも、好きだったたくさんのアーティストは、専任のマネージャーなど抱えられる身分ではありませんでした。ピロボラスからジェイコブス・ピローへ移って嬉しかったのは、この仕事によって毎年30人余りのアーティストと様々な形で仕事ができたことです。ラルフ・レモンや、アルビン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアターに戻る前のジュディス・ジャミソンとのように、アーティストとがっぷり四つに組んで仕事ができたこともありました。個別にマネージャーになるなどという非実用的な立場をとらずに複数のアーティストと長年仕事が続けられたのは、素晴らしいことでした。しかもそれが「ダンス」だったのですから(笑)。で、NEFAの仕事が舞い込んで来た時、「これをどうやったら続けられるか?」と考えた結果がナショナル・ダンス・プロジェクトでした。さらに一歩進んで振付家が良い作品をつくるのに必要なものは何か、その作品を全米の観客に観てもらうのに必要なものは何か、という課題をも扱った形になっています。
NEFAからLINCに移籍されたのは、「アーティストの作品づくりに必要なサポートを供給する」という仕事から、「アーティストが最低限必要とする環境を整える」という仕事に移った、と言えるように思います。これは、貴方の興味が、「作品づくり」という部分から、もっとアーティストが社会で生きてゆくための根源的な課題に移行したということなのでしょうか?
 こういう仕事を始める人は、そもそも最初に何人かの特定のアーティストが好きで、「彼の作品は本当に素晴らしい。彼の力になりたい」とか思うわけです。で、その人のマネージャーになる。これが私にとってはピロボラスだった。でもジェイコブス・ピローに移ったら、好きな人だけではシーズン・プログラムをつくれない。もっと多くのアーティストと一緒に仕事をしないとなりません。ということはつまり、自分が真に好きなアーティストをサポートするためには、そのアーティストだけでなく他のアーティストも含めた多くが求める支援体制を敷き、彼ら全員のために観客開発をするという風に、もっとずっと大きな体制を整える必要があるということです。そうすることで、結果的には自分が真に好きなアーティストもその効果に浴することになります。
NEFAに行っても同じです。つまり、自分の好きなアーティストに特権的に利用させるためにナショナル・ダンス・プロジェクトをつくるのではない。自分の好きなアーティストを含んだ多くの人々の情熱や需要や向上心のためにこのプログラムをつくったのです。つまり、ある人がその人の最も関心を寄せるアーティストにより良いことをやろうとすれば、すべきことがどんどん広がってゆくということです。じゃあ誰が何をするのか? ダンスを愛する人々全員がNEFAに勤めたりナショナル・ダンス・プロジェクトを運営したりするなんてことはなくて、ある人はマネージャーになるだろうし、ある人はプレゼンターになるでしょう。つまり、様々な役割の人々が必要なのです。
さて、愛するアーティストをよく眺めてみると、あることに気づきます。彼らの直面しているいくつかの困難な問題は、そのアーティストの属する業界やジャンルに固有のものではなく、社会の枠組みそのものが彼らに制約を課しているということです。例えば、手頃な健康保険の不足、手頃な仕事場(スペース)の不足、個人へのサポートの不足や、芸術市場の小ささなどです。ダンス固有の問題ではありませんから、「よし、自分の愛する振付家のために健康保険を探しにゆくぞ!」なんてことは何の解決にもなりません。「自分の愛するアーティストも含む“すべての”アーティストが手頃な金額で健康保険を手にできるようにするには、どのように戦略を練ったらよいか?」と考えるのが解決への道です。
こういう発想でできたのがLINCです。客観的に言って自分の才能は、パートナーシップを形成することと、資金調達をすることにある。この才能を使ってアーティストが直面している困難な環境に一石を投じて改善をもたらすには、自分の時間と才能をどこに向けたらよいかのだろう─そんな風に考える私のやり方の、LINCは最後のバージョンでした。NEFAのナショナル・ダンス・プロジェクトやその他の事業は、海外にすらまたがる事業でしたが、舞台芸術のアーティストとそのプレゼンターだけを対象としていました。それに対してLINCの事業は国内のことだけではありますが、200万人のアーティストに関する問題を扱うわけですから、対象人口はずっと大きいです。
LINCの創設者はどなたですか?
 LINCを立ち上げたのはホリー・シッドフォード。ちょっと込み入っていますが、私はLINCの業務内容を草記した人間のひとりです。2003年、私がNEFAにいた時、LINCを立ち上げようとしていたホリーの仕事を調整しなさいということでフォード財団がNEFAに助成金を出してくれたという背景があります。まもなくホリーが一身上の理由でLINCから身を引こうと決めた時、LINC設立からずっと牽引役となって関わってきた私が彼女の後任となってLINCのトップを引き継ぐのが自然だったのです。
NEFAにいらした時に比べると、LINCでの実績は一般の目には見えにくいのですけれど。
 NEFAはかれこれ40年近い団体で、私の就任の前も後も卓越した実績を重ねています。私が創った組織ではなく、ピロボラスやジェイコブス・ピロー同様、すでに存在している組織へ行ってすでに積み上げられたものの上にたって、次のレベルに導く、そういう楽しい仕事でした。一方LINCはまだたったの5年。全く違うものです。
LINCは「存続は10年」という期間限定の組織です。「地方自治体や州地域や国等の行政機関とのパートナーシップを通じて、米国の個人のアーティストをとりまく環境を向上させる」という原則は、LINCが活動を終える10年の後も保持されてゆく。つまりLINCの成し遂げた実績は、外から見ればパートナー団体の実績として映るだけなのです。10年経った後にはLINCの機能はパートナー団体に分散され引き継がれていく、というのがシナリオです。
LINCの目的は、①個人の芸術家に対する一般の認知度を高める、②個人の芸術家を社会に顕在させその存在価値を高める、③個人の芸術家をとりまく環境を改善する、というものです。LINCが成り立つまでのこの国の芸術インフラは、サービス・オーガニゼーションや助成プログラムなど「団体をサポートする」という方法に立脚していました。つまり、「団体をサポートすれば、それらの団体が個人をサポートするだろう」という発想だったわけです。個人のアーティストへの手助けというものが真に理解されているとは言えない状況でした。
NEAが個人の芸術家への助成をストップしてからはますますその傾向になりましたね。
 その通り。そこでLINCでは、地方自治体の芸術課や州の文化局やコミュニティー財団といったところに対して、「もしもあなたの地域のアート・コミュニティーのために何かをするとして、そこに個人のアーティストにも支援が届くようにするにはどうするか?」というスタンスでの一連のプログラムを実行しました。今LINCは5年目を終えたところですが、州地域・州・市を取り混ぜて全米15カ所の行政団体と一緒に働きました。これらの地域では、社会におけるアーティストの存在が極めて変化し、価値を認められるとともにサポートも受けられる状況になっています。例えば、健康管理に関する情報管理の方法が変わり、アーティストへのケアーが盛り込まれるようになりましたし、アーティストへの理解が深まって低所得者住宅に関する一般住民の見識も変わりました。こういった変化は、他のコミュニティーにも波及していくでしょう。
LINCの画期的なところは何なのでしょう? 例えばニューヨーク文化財団(NYFA)が設立されたのは40年も前ですが、これはニューヨーク州の芸術局が「個人のアーティストをサポートするために」という目的で設立し、個人のアーティストに対して助成金を出し、健康保険を出し、ローンを提供し、手頃な価格のスペースを供給したりしています。
 新規に別のオーガニゼーションをつくる、新規に個人のアーティスト用のプログラムをつくるといったような、別個のインフラを整備するのをやめよう、というのがLINCなんです。おっしゃるように、NYFAは個人のアーティストのアーティスト稼業を助ける多くのプログラムを敷いていますし、クリエイティブ・キャピタル、ユナイテッド・ステイツ・アーティスト、グッゲンハイム財団、マッカーサー財団、ハーブ・アルパート財団等々、個人アーティストを対象に支援や助成金を出すところは様々あり、どれもが大切なサポート機能として存在してきました。でも、存在しなかったものがありました。例えばワシントン州で、ベイエリアで、シカゴで、あるいはニューヨークで、その土地にある様々な行政機関が、その専門とする分野の範疇において、その土地のアーティストたちのニーズに応えようという動きは起きていなかった。つまり、ここでも再び「補完」なんですね。個人のアーティストが直接助成を得ようと互いに競争することの効果を認めつつ、同時に、健康管理やスペース、情報や学習といった諸問題を扱う既存の行政機構とパートナーシップを組んで、そこにアーティスト・サポートの視点を持ち込むことで環境改善を図るわけです。アーティストのニーズに応えるための戦略は、恒久的な組織を新設したりすることではなく、既存の機構・団体の行動様式に影響を与えることなんです。
なるほど。つまり、LINCが首尾よく既存の機構や団体の中にアーティスト・サポートに繋がるものを仕込めれば、その後はLINCなしでもそのままサポートが続く。だからLINCは「10年だけ」の期間限定の組織として発足したというわけですね。
 その通り。2004年にLINCに移籍した時に、当時NEFAで働いていたジュディリー・リードをLINCに誘い込みました。10年期間の中間にさしかかった時、残りの5年は彼女に責任を託して大丈夫との思いに至り、自分は理事に退いて運営牽引はジュディリーに任せたいと理事会に申し出たのです。5年の間に私は私の仕事をしましたからね。つまり、昔からやってきたこと---パートナーシップを築き上げ、そのパートナーシップを維持するための資金を調達するという仕事です。今後の残り5年は、この下地の上にたって全体を完璧にしていけばいい。
なぜこんな決心をしたかというと、その理由の一部は、もう一度ダンスに戻りたかったから(笑)、そしてインターナショナルな仕事に戻りたかったからです。LINCにいた時も、カンボジアと仕事をする方策をつくりましたし、また日本、オーストラリア、オランダといった国々を巻き込んだ「アーティストと国際社会」というプログラムも手がけました。けれどもLINCの主眼は国際事業ではなく、あくまで米国内のアーティストのニーズに取り組むこと。LINCのミッションを曖昧にするのは本望ではないですから、自分の本来の興味─ダンス、舞台芸術、そしてアジアを中心とした国際事業の世界に戻ってきたわけです。
それは、ミラーさんがちょうど開始したばかりの「エイコ&コマ」のプロジェクトのことをおっしゃっているのですか?
 ウェスリアン大学とその他のパートナーと始めた「エイコ&コマ回顧」という3年計画のプロジェクトは、現在手がけているいくつもの仕事の中のひとつです。昨年の2月から11月にかけては、ダンスと演劇への助成戦略について、メロン財団のコンサルティングをしていました。面白い仕事でした。ウェスリアン大学とは、大学院の学科新設の仕事もしています。舞台芸術分野のキュレトリアルの実践指導をするための学科です。この国にはプレゼンターとダンスのキュレーターを育てる専門教育が必要ですからね。また、マサチューセッツ州のグレート・バーリントンというところにある劇場、マヘーウィ舞台芸術センターのために、新しい事業計画をつくっています。この11月にはインドネシア、カンボジア、日本を訪問しまして、実はこの3つの国にいる私の「歴代の仕事仲間」と一緒に、次なる交流プログラムを打ち立てるための出張でした。私にとっての主要な2つのアジア・プロジェクト─「カンボジア・アーティスト・プロジェクト」と「トライアングル・プロジェクト」の集大成をするつもりです。
エイコ&コマのプロジェクトについて、説明してください。この米国在住の日本人アーティストの一大回顧プロジェクトのことを知っている人は、日本にはまだほとんどいませんから。
 これはエイコ&コマの業績を3年がかりで回顧しようという事業で、私がプロデュースしています。単なる米国内でのプロジェクトに終わらせずにどうアジアともシェアするかが、ひとつの課題です。エイコとコマは日本で生まれ育ちましたから、当然日本は中心的要素です。が、彼らは作品づくりと発表を日本の外で続けてきました。2人のアート活動の全容を眺めるこのプロジェクトを、どうやって若い世代の日本の人々とシェアするか? 日本訪問はその調査のためでした。
エイコ&コマのプロジェクトは、同時に手がけてらっしゃるカンボジアやインドネシアのプロジェクトとも関連してくるのですか。
 確かに一部重なります。エイコ&コマは近年カンボジアで活動をしていますし、インドネシアでの活動はもう長年のことですからね。そんなわけでツアー的なものをという話をしていますが、ことはそんなに単純ではありません。レジデンシーの話もしており、例えばカンボジアやインドネシアでかつてエイコ&コマとコラボレーションをしたアーティストを日本に送ってレジデンシーをさせつつ、彼らの作品を日本のダンス・コミュニティーの人々とシェアしてもらおう、とか。私がやりたいなと思っていることのある種のモデルなんです。つまり国際交流基金やセゾン文化財団のような「歴代の仕事仲間」と一緒に、単純な日米の二国間交流ではなく、マルチなやり方でアーティストを交流させる。単なる公演事業ではなく、プロセスと文脈が大切なんです。すばらしい交流事業になると思いますよ。歴代の仕事仲間と一緒にやることで、単体事業ではなく、3年から5年をかけた一連の事業に仕立てることができると考えています。
フリーランスになって、自由を得たことで、本来の興味と興味をもったアーティストに焦点を当てて活動できるようになったのですね。
 自由を得て、より過去の繋がりのことを考えます。ACCのラルフやJACCCのジェリーは、長期的な関係は知識と信頼関係を深めることで価値が増すのだと教えてくれました。築いた関係性を、単体の結果だけを求める短期のものにおとしめてしまうのは愚かなことです。自分は何をオファーできるのか、それは10年、20年、そして30年かけて見つけるべきことですから。
お時間とたいへん興味深い話をありがとうございました。

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