塩谷陽子

日米交流に尽力して100年
ニューヨーク、ジャパン・ソサエティーの新展開

2007.09.28
塩谷陽子

塩谷陽子Yoko Shioya

1960年東京生まれ。東京芸術大学音楽学部楽理科卒。1988年の渡米を機に、朝日新聞、産経新聞、AERA等多くの活字メディアでの文化欄・芸術コラムの執筆を開始。また、米国社会の芸術支援に関する調査研究を、日本の各種財団・企業・地方行政局等に向けて行うと共に、シンポジウムや学会発表を通じて、日本社会に芸術支援のありかたを問い続けている。1997年よりジャパン・ソサエティー(在NY)舞台公演部勤務、2003年より同部長、2006年より舞台部門と映画部門を統括する芸術監督に就任。 主な著書に、『ニューヨーク:芸術家と共存する街』(丸善ライブラリー新書/1998年)『なぜ、企業はメセナをするのか?』(共著、企業メセナ協議会/2001年)など。

ジャパン・ソサエティーは、日露戦争を契機に日本との相互理解の重要性を感じたニューヨークの財界指導者たちによって1907年に設立されたアメリカの民間非営利組織。日米の相互理解と交流に尽力し、1953年にパフォーミングアーツ部が発足してからは、日本の舞台芸術の紹介者として重要な役割を果たしてきた。今年、創立100周年を迎え、日本関連の多彩な事業を実施しているジャパン・ソサエティーの芸術監督、塩谷陽子氏が語る新たな日米舞台芸術交流のあり方とは?
聞き手:坪池栄子
塩谷さんは、日本の新聞や雑誌にアメリカの舞台芸術についての記事を書かれたり、アメリカのアートNPOについて積極的に紹介されたり、日本では芸術文化事業の研究者という肩書きで活動されています。このウェブサイトでもアメリカ関係の情報提供をしていただくなど、お世話になっています。今回は、ジャパン・ソサエティーの芸術監督としてのお話を伺いたいと思います。まず、芸術監督というのはどのような仕事をされているのですか。
私が舞台公演部のディレクターに就任したのは2003年、その後2006年に芸術監督という肩書きになりました。それまではそういうポジションはありませんでした。役職でいうとバイスプレジデントに当たりますが、パフォーミングアーツの世界でバイスプレジデントというと管理職的なイメージが強いし、プログラミングの指揮をしているという役割が伝わらないので、この肩書きになっています。ちなみに、ジャパン・ソサエティーの職員数は約60名。その内、舞台芸術部門の担当者は5.5人で、昨年度(06-07)・今年度(07-08)とも、事業予算は1.1ミリオンU.S. ドル(約1億3千万円)。この2年度は、それぞれ半期ずつ100周年記念事業にかかっていますので例年より予算が大きめになっています。
芸術監督としてはパフォーミングアーツをメインに、映画部を管理し、一部レクチャーの事業も担当しています。映画は専門外なので具体的なプログラムまでつくることはありませんが、ジャパン・ソサエティーとしてどのような見せ方をすべきかの方向性と戦略を示すという責任を負っています。例えば、昨年、新作映画ばかりを上映するノンキュレトリアルな映画祭を立ち上げました。それは、これまで海外映画にシェアを奪われていた日本映画市場で日本映画が盛り返してきている現状を伝えるには、「過去の映画をキュレトリアルな視線で提示する」という今までのやり方だけでは不完全だと思ったからです。また、日本では大ヒットしたのに字幕がついていなかったがためにアメリカで紹介されたことがない過去の映画を発掘して、パソコンで作成した字幕を同時投影しながら上映する新しいシリーズも始めました。これは、日本語が堪能なスタッフがいないとできないので、ジャパン・ソサエティーがやるべき仕事だと判断しました。こうした方向性は出しますが、具体的な作品を選んでいるのは映画の専門担当者です。
パフォーミングアーツ部の事業については、後ほど詳しくお伺いしたいと思います。その前に、日本人である塩谷さんがジャパン・ソサエティーで仕事をされるようになった経緯を聞かせてください。大学では何を専攻していたのですか。
漠然とダンスの勉強がしたくて、東京芸術大学に入ったのですが、私が学生だった80年代のはじめは指導者もいなければ資料もなかった。それで、民族音楽の研究者である小泉文夫先生の研究室に受け入れていただき、自分で勝手に近代の舞踊史、イサドラ・ダンカンから始まってジャドソン・チャーチぐらいまでを研究しました。
なぜこういう仕事をしているのかに関わることなのですが、私は高校生ぐらいからバレエ・リュスを立ち上げたロシアの舞台芸術プロデューサー、ディアギレフ──かつては「興行師」という言葉が使われることが多かったですが──に、とても興味をもっていました。ディアギレフのように、音楽家、舞踊家、美術家、作家などいろいろなジャンルのカッティングエッジなアーティストに声をかけてひとつの作品をつくり、それを上演という形で世に問うという仕事に興味があった。でも、例えば、コクトーに声をかけたり、ストラビンスキーに作曲を依頼するというのは具体的にどういうことなのかわかりませんでした。本人に直接電話をするのか?どんな話からはじめるのか? フィーの相場というのはあるのだろうか? 契約書は? ポスターをつくるタイミングは? など、そういったことがいちいち不思議でした。
今思えば、それは「アーツマネージメント」という言葉で括られることだったんですが、私の学生時代にはもちろんその言葉も概念もなかった。それに、少なくとも当時の日本の舞台芸術の世界が、私の求めていた問いへの回答があるような、常識的なビジネスのルールで動いている世界とはとても思えなかった。それで、まずは、健全なビジネスの世界に身を置くべきではないかと、建築デザイン関係の企画や総合プロデュースを手がけていた会社、浜野商品研究所に就職しました。ひとつのビルをデザインしてオープンするには、建築家、インテリアデザイナー、グラフィックデザイナーなど、いわゆる「クリエーター」たちがひとつのプロジェクトの中で同時に動き、そこにディベロッパーやテナント事業主などいろいろな人が関わって、ビジネスとして機能していた。パフォーミングアーツの世界ではありませんでしたが、私が興味をもっていたことが学べるのではないかと思いました。
実際、契約書をつくったり、財団やコーポレートサポートと呼ばれる人たちから資金調達したり、今、ジャパンソサイエティでやっている仕事の基礎はこの時代に培ったものです。まだできあがっていないもの(デザイン)に対してコミットしてもらうためには、関わるすべての人を一緒にエキサイトさせて説いて同調させていく必要がありますが、このプロセズに必要な技術的・社会的な約束事は、アートでも同じだと思います。
なぜ、アメリカに渡ったのですか?
あり体に言えば、前夫が現代美術のアーティストで、かつ日米の二重国籍だったのがきっかけです。アメリカに渡ったのは88年ですが、当時は、向こうの方が明らかにアーティスト活動をやりやすかったし、私もトレンドを追いかけ消費を促進するコマーシャルなデザイン業界に嫌気がさしていた。そもそも芸術の世界、美を追求する世界に身を置きたかったわけで、このまま続けてももう何ら知的刺激を感じないという思いになっていました。ニューヨークでも生活の糧を得ないわけにはいかないので、当初は日本から仕事を受けて、建築デザイン関係のコーディネーターをしていました。それと平行して、日本の雑誌にアートを支援しているアメリカの非営利団体についての記事を書いたり、日本からの調査委託を受けたりして、芸術文化事業の研究者としてのポジションをつくっていきました。まあ、生活は決して楽ではありませんでしたが(笑)。
ジャパン・ソサエティーの仕事を始めたのはいつからですか。
97年からです。ACC(アジアン・カルチュラル・カウンシル)のディレクターがジャパン・ソサエティーのパフォーミングアーツ部の人が会いたがっているというので出かけたら、それが面接だった(笑)。その年に、90周年記念事業をやるのに合わせてフルタイムスタッフを募集していたんです。今さら組織に所属して“給料取り”なんてものになる気はなかったのでいったんは断りましたが、パフォーミングアーツ部はコンプタイムの多い職場なので個人の仕事も続けられることがわかり、日本では変わらず芸術文化事業の研究者、アメリカではジャパン・ソサエティーのスタッフという二足のわらじを履くことにしました。
ジャパン・ソサエティーには100年の歴史があります。スタートした時と現在では、役割も活動も大きく変わってきていると思います。
ジャパン・ソサエティーは、日露戦争でロシアという大国を相手に互角に戦った日本の存在を無視できないと思ったアメリカの実業家たちが、今後、両国が相互理解を図っていくためにはどのような組織があればいいかを日本の有識者と話し合って立ち上げたものです。今でこそ、「ソサエティー」という名称には違和感を覚えるところもありますが、当初は現在のような劇場施設をもっていたわけでもなくて、学者や文化人や政財界人といった指導的立場にある人たちに交流機会を提供するというのが主な活動でした。それに併せて生け花などの日本文化を紹介するイベントをホテルで催すとか、あるいは、少し変わったところで言うと、アメリカ人が日本に旅行するパッケージツアーを旅行会社に初めて企画させたのもジャパン・ソサエティーでした。
現在のジャパン・ソサエティーの基礎がつくられたのは、第二次世界大戦後、1952年にチェースマンハッタン銀行の頭取だったデービッド・ロックフェラー三世が理事長に就任してからです。53年にはパフォーミングアーツ部が発足し、そして芸術文化のプログラムのプロデュースに力を入れるようになります。1971年には吉村順三の設計による現在の社屋が誕生します。「ジャパン・ハウス」と呼ばれるこのビルには、劇場、ギャラリー、語学教室などが備わっており、当然、舞台公演のプログラムも自主事業としてプロデュース・主催するようになりました。
この100年を振り返ると、ジャパン・ソサエティーが日米の相互理解に果たしてきた役割は、大変大きなものだったと思います。例えば、メディア・フェロー(日米のジャーナリストの相互派遣と現地での取材コーディネートを支援)を受けたジャーナリストには今でも大きな影響力をもっている人たちが多数います。また、アメリカの中で「ジャパン・エキスパート」と呼ばれる多くの学者たちとの長年にわたる深いネットワークもあります。今でこそ、日米の文化の違いを理解した上で日本語を話せるアメリカ人、英語を話せる日本人も増え、また、インターネットで簡単に情報が入手できるようになりましたが、それまでは日本の水先案内人としての機能をあらゆる分野において果たせる機関はジャパン・ソサエティーだけであり、日本の最大のリソースセンターとして認識されていました。
しかし、今ではその置かれている状況は全く異なっています──と、少なくとも私は思っています。まず、かつてのアメリカ人の興味の対象は、圧倒的に日本の古典・伝統文化にありました。ところが今では、相変わらず「富士ヤマ・芸者」に興味をもつ人も入れば、アニメやマンガといった新しい「オタク文化」に興味を持つ人も激増しているし、一方ではテクノロジー大国や経済大国としての日本に興味のある人も多くいて、求められている情報が多岐に細分化されています。ここまで幅のあるものを「日本」というひとつの人格の中で扱わなければいけないというのは非常に大きな課題、チャレンジだと思っています。
その上、これだけ多様なものを扱わなければいけないのに、インターネットが発達した現在では、表面的な情報を見せるだけでは通用しなくなっています。つまり、現在のジャパン・ソサエティーには、日本のリソースセンターとして、どうすればこれだけ多様なものを日本というひとつの人格として見せられるか、また、どうすればインターネットで入手できるような情報ではなく、新しい発見がある情報の伝え方(プログラミング)ができるかという、新しい水先案内人の役割が問われているわけです。
例えば、具体的にはどのような伝え方をされているのですか。
ジャパン・ソサエティーが村上隆のキュレーションによる展覧会『リトル・ボーイ展』を主催したとき、当初の準備段階では、当時の美術部門のディレクターをはじめ広報の担当も資金調達部のスタッフも、皆「ポップアート」という括りで紹介しようとしていた。でも、舞台公演の方でも連携したプログラムを企画していた私が「おたく」というテーマでプレゼンテーションすべきだと強く主張しました。「“おたく”なんて言葉ではアメリカ人には何の事だかわからないから“ポップアート”じゃないと訴求力が無い」と言うのが彼らの意見でしたが、英語でPop Artと言ってしまったらそれは「おたく」とは全く異なる概念のものです。ネガティブなものも含めて、日本のおたくという概念を正しく伝える見せ方をしないとジャパン・ソサエティーがやる意味はありません。表層に見えている部分だけで伝えてもダメで、前にも言いましたが、日本として全人格的に伝えようとするセンシティビティが必要です。
その上、現在の状況では、日本だけを見ていて日本が発見できると思っているのも大きな間違いです。かつては諸外国で活動していたアーティストは数えるほどだったかもしれませんが、今では、例えば世界のバレエ団をみても日本人のいないバレエ団を見つけるのは難しいくらいです。振り付けを踊っているだけでなく、自分で作品を作っている人の数も増えている。それだけ日本人が拡散して他の国の文化の中に入り込んでいるということは、ただ単に物理的にそこに日本人がいるというだけのことではなくて、そこで生まれてくる作品のどこかが日本的であったり、日本的な何かが変容を遂げた姿であったりするわけです。そういうことがあちらこちらで起こっている今日、日本国内で起こることを切り取って米国に紹介しているだけでは「いまの日本の全人格」を扱っていることにはなりません。
今、2009年秋か、2010年春ぐらいにヨーロッパ(もしくはドイツ)特集をやろうと計画しています。招聘を予定しているベルリンのカンパニーは、日本人女性とドイツ人男性が一緒に作ったグループで、二人はニューヨーク大学在学中に知り合いました。作品のテーマは日本ですが、英語で上演されていて、プロダククション・チームの大半はドイツ人。そして出演者には在NYの日本人や在ベルリンのダンサーが混じっています。こういう作品を安易に「日本のものだ」と単純なラベルを貼って見せることはできません。同時に「日本」というラベルを完全にはがしてしまうにはあまりにそのコアは「日本」です。つまり、こんな風に幅のある今の日本を提示することが肝要なのです。実は10年続けてきた「コンテンポラリー・ダンスショーケース・フロム・ジャパン」というプログラムも、“第二章”として今年から「ジャパン・アンド・イーストアジア・ショーケース」に衣替えし、台湾と韓国のダンスカンパニーと並べてプレゼンテーションすることにしました。このように、常に、世界というコンテクストの中で日本をどう見せていくかが問われていると思います。
パフォーミングアーツ部の全体像についてお伺いしたいのですが、どのようなプログラムが実施されていますか。
おおよそ月1本ペースで、パフォーミングアーツのプログラムを主催・上演しています。ジャンルはコンテンポラリーの音楽、ダンス、演劇、および古典芸能と、すべてにわたっています。毎年継続しているプログラムとしては、日本のセゾン財団からの助成を受けて行っている現代演劇の公演とその米国ツアー、日本を代表する一流の演者による年1回の古典芸能公演、コンテンポラリー・ダンスショウケース、それから前衛音楽家のジョン・ゾーンがキュレートし、彼の「ザディック・レーベル・シリーズ」に参加している日本人を紹介するコンサート・シリーズ、日本の現代演劇の英語によるリーディング・シリーズ、非日本人に2年に1回、日本に触発を受けた新作を委嘱するシリーズ等があります。これらを取り混ぜて、半期ごとに違った切り口のテーマを設けて年間のシーズンを作り上げます。
米国内のツアーについてお伺いしたいのですが、どのような作品を紹介していますか?
ツアーについては、それだけの価値のある作品かどうか、米国での助成金が受けられるかどうか、アーティストがツアーを希望しているかどうか、米国のプレゼンターたちが魅力的と感じる内容かどうか、予算・スケジュールの条件があうか、などいろいろな要素を勘案してその都度企画しています。これまで、燐光群、青年団、クナウカ、SPAC、白石加代子出演の『百物語』、川村毅演出の『KOMACHI』、指輪ホテルなどを紹介していて、来年はチェルフィッチュのツアーを予定しています。コンテンポラリーダンスは言語がない分ツアーをしやすいので、米国の一般のプレゼンターでもプロデュースが可能ですが、現代演劇は字幕の内容や見せ方をどうするかなど、日本のことをかなり理解していないと扱えません。ですから、ジャパン・ソサエティーとしては他がやりにくい現代演劇を紹介することに特に力を入れています。
日本の現代演劇の受け入れ先としてはどのようなところがありますか。
実際に受け入れてもらったかどうかは別にして、ここには必ず声をかけるというところはあります。例えば、ミネアポリスのウォーカー・アートセンター、オハイオのウェクスナー・センター、ニュー・ハンプシャーのホプキンス・センター、サンフランシスコのイエバ・ブエナ・アートセンター、シアトルのオン・ザ・ボード、シカゴのコンテンポラリー・アートミュージアム、バーモントのフリン・シアター、マイアミのマイアミライツ、それからピッツバーグ大学やマサチューセッツ大学などにも声をかけます。これまでの受け入れ先の記録がありますので、20カ所ぐらいはすぐにリストアップできます。
そうしたところは日本の現代演劇のどのようなところに興味をもっているのでしょう。
古典芸能を受け入れるところは能でも歌舞伎でも落語でも、「古典芸能」というジャンル自体に興味をもっているのですが、現代演劇の受け入れ先は個々の作品の内容に興味をもっています。ツアーする作品がアメリカでは作られない類のものだということを必ず期待している。それは、正座しておじぎをするなどの日本の生活習慣が描かれているといった具体的なことではありません。私の国籍は日本ですが、アメリカ人のプレゼンターがこれはアメリカでは作られない、日本っぽいものだと感じる作品がどういうものか肌で判ります。そういう意味で私もアメリカ人のプレゼンターなのだと思います。例えば、独特のテンポ、男女の距離感、社会性のない若者のあり様……。日本っぽいものと同時に、あんなに離れたところにある違う国なのに、アメリカと同じようなことが起こっている、という同時代的な表現にも彼らは興味をもちます。
アメリカ人が日本っぽいものだと思うものについて、もう少し具体的に紹介してください。
例えば、舞台セットが異常に細かく考えてつくってあるといったことですね。
それは、フェティッシュということですか?
そうですね。ダムタイプの美術のように、あれだけ凝って隙の無いつくりのものはアメリカにはありません。それから燐光群の 『屋根裏』 でテーマになっていた“ひきこもり”と呼ばれる社会性のない若者については同時代的なテーマとして理解できたと思いますし、加えて、あの狭い箱の中でパフォーマンスをする表現の仕方が日本っぽいと感じていたでしょうね。室伏鴻さんのようにあれだけストイックに肉体を出すことも、日本っぽい、舞踏っぽいと感じると思います。
室伏さんの舞踏がストイックに見えるのですか? 日本人の感じ方と違いますね。
そう見えます。それから、指輪ホテルの羊屋白玉は、「女の子」をテーマにしていますが、女が成長した後でまだ「女の子」でいる状態なんてアメリカでは存在しませんから、あれは変な生き物、日本にいる特殊な生き物として見ていると思います。「ガール(女の子)」はアメリカでは限られた年齢を指す言葉ですが、日本の場合、年齢ではない概念として存在しています。アメリカ人の女像の中には概念としては存在していない、変な女像があるように見えているのではないでしょうか。しかし、そういったことは劇場まで観に来てくれなければ本来わからないことです。なので、見に来させるために、それを言葉でどう伝えるか、彼らがやっていることが空回りしないように伝えるためのマーケティングやプロモーション戦略も、我々がしなければならない非常に大切なことです。
新作の委嘱というのはどのようなプログラムですか。
ドリス・デューク・チャリタブル財団という米国の大手の助成財団から与えられたマッチンググラントで調達した資金で、近年、パフォーミングアーツ部だけが使える約1億4000万円(1.25ミリオンドル)の基金が誕生しました。その運用益の内、4〜5万ドルを新作委嘱の予算に充てていて、日本の伝統的な技術を使った作品や、日本人とのコラボレーションなど、何らかのかたちで日本に関わる新作を非日本人に委嘱しています。この委嘱プログラムでプロデュースした二つ目の作品がバジル・ツイストの『道具がえし』で、初演は2004年。この9月にジャパン・ソサエティーの劇場で再演をし、続けてこの秋に始まる日本ツアーも我々でプロデュースしました。
この新作委嘱のプロジェクトの特徴は、リサーチしながら作品をつくるタイプの作家に委嘱をし、その作品づくりに私やジャパン・ソサエティーがものすごくコミットし、お世話をするということです。例えば、阿波地方に残っている人形芝居を調べてつくった『道具返し』の場合は、バジルが2回日本に取材旅行に行っています。人形芝居に詳しい通訳を付けるところからはじまって、1回目の取材旅行から戻ったバジルが三味線奏者とコラボレーションしたいと言ったので、古典の義太夫三味線をきっちり修めつつコンテンポラリーな作品にも意欲的に参加している、そういう演奏家を紹介しました。また、舞台美術に日本の伝統的な図柄を使いたいという要望もあったためそういう図柄が調べられるインターンも付けました。新作委嘱の第三弾は、ビックダンスシアターという沖縄舞踊を取り入れているダンサーと演出家のカンパニーに井伏鱒二の短編をモチーフにした作品を委嘱しました。初演は今年の2月に私の劇場で行われ、その後米国を数カ所ツアーした後、9月には再びニューヨークの別の劇場で再演されています。こちらも井伏鱒二の甥に会えるように手配するところから始まって、沖縄舞踊を学ぶためのレジデンスの手配なども行いました。
つまり、ただ、新作を委嘱するだけではなく、彼らが作品をつくる過程で日本に対してできる限り深い理解に達し、その興味の深さに見合う知識の吸収ができるようなサポートをするわけです。つまり作品をつくるということを、日本文化に深い興味を持ってもらうための種まきと考えていて、長い目でみれば人数は少なくてもものすごく影響力があるのではないかと思っています。日米間の移動さえままならなかった時代にはこうしたことは不可能でしたが、今はアーティストのハートさえついてくればいくらでも丁寧に耕していける。みんなが簡単に日本の情報にアクセスできる時代だからこそ、こうしたコミットがいかに日本のことを深く理解してもらえるかの勝負どころになります。誰もができる仕事ではありませんが、こういう日本の知ってもらい方のストラテジーをいかに考え、実践するかが、ジャパン・ソサエティーと私に託されていることだと思います。

ジャパン・ソサエティー
© Cynthia Sternau

ジャパン・ソサエティー委嘱作品
バジル・ツイスト作『道具がえし』

(2007年9月)
© Richard Termine, courtesy of Tandem Otter Productions

この記事に関連するタグ