国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan

Artist Interview アーティストインタビュー

2022.2.24
田村友一郎

Found images and objects inspiring flights of imagination –
the method of Yuichiro Tamura

美術/演劇

起点から飛躍する
田村友一郎のアプローチ

現代アーティスト・田村友一郎による初の劇場作品《テイストレス》が、2021年6月27日に京都芸術劇場 春秋座にて大学開学30周年記念・劇場20周年記念公演のひとつとして上演された(22年3月から京都芸術劇場YouTubeチャンネルにて記録映像を英語字幕付で公開予定)。田村は、既存のイメージやオブジェクトを起点に、現実と虚構を交差させた多層的な物語を構築するインスタレーションやパフォーマンスを国内外で発表。《テイストレス》では、春秋座をサイトスペシフィックな空間として捉え直し、アメリカで高校生活を送ったアーティスト・荒木悠の経験を出発点に、大統領選挙やアメフト、宇宙開発などアメリカ文化を重層的に展開した。
聞き手:中山佐代[《テイストレス》企画者]、坪池栄子

テイストレス
テイストレス
テイストレス
テイストレス
テイストレス
テイストレス

《テイストレス》(2021年)
撮影:田村友一郎

初の劇場作品《テイストレス》

春秋座は、京都芸術大学(旧称・京都造形芸術大学)が学内に開設した歌舞伎ができる機構を備えた劇場です。現代劇の上演にも対応できるよう設計されていますが、《テイストレス》では、客席を2階正面席に限定し、2階席からステージ面を見下ろす視点で創作されました。盆やセリといった歌舞伎の機構をこれまでにない発想で用い、空間をダイナミックにトランスフォームするなど、劇場へのサイトスペシフィックなアプローチは驚きの連続でした。また、本物のアーティストである荒木悠さんが記念公演の基調講演を行うシーンからはじまり、アメリカで高校生活を過ごした際に接したアメリカ文化へと話題が展開。そこからアメリカンフットボール、俳優時代にフットボール選手を演じたロナルド・レーガン大統領、スペースシャトル、チューインガムといった要素が連想ゲームのように現れては層をなし、リアルとフィクションを巧みに用いた現代版アメリカ神話と言えるようなものになっていました。味のしなくなったチューインガムを噛むようにアメリカ文化を咀嚼しているようにも見えつつ、一方ではアメリカン・ドリームの儚さのようなものも感じました。田村さんにとって初めての劇場作品ですが、依頼があった時はどう思われましたか。
 僕自身、仕事の分野をそんなに分けているわけではなくて、これもいつもの仕事の延長線上というか、あまり抵抗はなかったです。僕の制作スタイルは、絵を描くとか、彫刻をつくるとか、そういうことではなく、オーダーによって仕立てられていく感じなので、今回は劇場なんだなと。それに対してどういうことができるんだろうと考えました。平常運転です。
春秋座を劇場としてただ使用するのではなく、サイトスペシフィックな場所として捉え直されていると感じました。春秋座へ下見に訪れた際にどのように感じましたか。
 劇場を下見した時、2階席から劇場を俯瞰する感じに一番惹かれました。あとは盆が回るとかセリが上下すると聞いたので、その機構をフルに生かした時に、それを俯瞰できる場所としても2階の客席は最適だと思いました。下見は2018年だったので記憶が定かじゃないのですが、1階の客席から舞台を見るという想定は全く無かったと思います。

 KYOTO EXPERIMENTなどの機会に、舞台上に客席を組んだりした作品を見たことはありましたが、折角ならフルスペックで劇場自体を使ったほうが良いなというのはありました。そういう意味でも無駄に舞台の機構を全部使いたい、みたいなところはあったかもしれないですね。

 実は、依頼された時には原作にあたるようなテキストがあり、その中でJ・G・バラード(*1)が引用されていたんです。バラードがSF作家なので、ある程度のスケール感やビジュアルは頭に浮かんでいました。そのテキスト要素は最終的にはほとんど残っていませんが、引用されたバラードのビジュアルの印象は割と生きている感じです。
そこからアメリカンフットボール、ロナルド・レーガン大統領、スペースシャトル、チューインガムといった要素はどのように出てきたのでしょうか。
 もともとあった原作のテキストは食べ物がモチーフになっていたので、最初は食べ物にこだわっていました。でも何かそれとは違う方が良いなと思っていたところで、チューインガムを思い付きました。チューインガムは食べ物だけど、ずっと口の中に残っていて、味が無くなってもずっと噛み続ける。そこからドラマトゥルクの前原拓也くんともチューインガムを軸にして構築していくことになり、《テイストレス》というタイトルが決まりました。
チューインガムを起点にして作品が動き出したのが2019年。2020年2月に上演予定でしたがCOVID-19の影響で延期になりました。最終的に、2021年6月に上演しましたが(*2)、その間、様々なアイデアが出て、どんどん飛躍していきました。
 行き当たりばったりなところがあるというか、正解というものはないと思っています。あるタイミング、「ここで」となればそこでアウトプットする。状況によっても変わっていきますし、時間が経てば経つほど捨てられていくアイデアもある。その時の最適値が出せれば良いのかなと思っています。

 例えば、最初の構想では劇場が口であり、宇宙であるみたいなノリでした。舞台上に大きなガムっぽい造形物があって、それが噛まれている状況。でもどうやって噛むの?となった時に、アメフト選手がその柔らかいものに体当たりし続けている。でも、アメフト選手を何人か探してきて出演してもらうのは難しいだろうということもあって、その案は無くなりましたが、アメフトのイメージは残りました。ビジュアル要素として真っ白な何かが欲しいとも思いました。それは俳優の衣装として残っています。それから、劇場は口なので咀嚼音がこの空間に充満するとか。これに関しては6月の公演でも残っていますね。
もともとは、東京オリンピックが開催される予定だった2020年、しかも4年に一度の閏日である2020年2月29日に《テイストレス》を上演する予定でした。その辺りから、オリンピックと同じ年に行われるアメリカ大統領選挙に繋がったと記憶しています。この作品に限らず、田村さんはアメリカを取り上げることが多い気がしますが、なぜアメリカなのでしょうか?
 閏年に開催されるオリンピック、けどそのオリンピックより大事なのがアメリカでは大統領選挙。それでアメフトをしていた大統領はいないかなと調べたらロナルド・レーガンがいました。レーガンはロサンゼルス・オリンピックが開催された1984年の大統領選挙に2期目で大勝しているということで、衣装に採用したアメフトのユニフォームの背番号を84に決めました。レーガンはアポロ以降の宇宙開発にも関わっていて、スペースシャトルなんかは彼の業績だけど、一方ではチャレンジャー号の痛ましい事故もありました。そういった流れでレーガン辺りのアメリカに触れることになったんだと思います。

 僕は、80年代半ばに『バック・トゥ・ザ・フューチャー』とか、ハリウッド映画を見て育った世代なので、アメリカが身近な文化としてあります。でも、ドラマトゥルクの前原くんは僕より15歳ぐらい下なので、僕がなぜそんなにアメリカとか宇宙とかにこだわるのか、不思議に思っていたようです。育ってきた時代背景の違いだと思いますが、僕がナチュラルに「レーガンが…」と言っても若い人には通じない。ですから、世代が違う人が、ドラマトゥルクとして入ってテキストの整合性を整えてもらうというのは必要な作業だったと思います。
前原さんと最初に仕事をされたのは、日産アートアワード2017でのサミュエル・ベケットの戯曲の要素を取り入れた《栄光と終焉、もしくはその終演 / End Game》(2017年)というインスタレーション作品でした。その後、いくつかの作品でご一緒されていますが、田村さんの創作にとってドラマトゥルクはどのような役割を担っていますか。
 作品の基本的な構成は僕がしています。それを前原くんに渡して、「ちょっとここよくわからないんですけど」と戻ってきたところに対して、「じゃあここ直そうか」とか、「ここ、たるいですね」だったら「ここ消そう」とか、そういうやりとりをしています。相談相手でもあるし、構成でもあるという感じですね。あと、劇場のことを僕よりよく知っているので、映し出す字幕の長さの調整など、テクニカルなことも今回はお願いしました。
いわゆる舞台作品は、本番の前には台本が完成し、稽古期間があり、作品をほぼ完成させ、劇場に入って微調整し本番を迎えることが多いかと思います。それに対して《テイストレス》は、劇場に滞在した5日間、内1日は本番という極めて短期間で作るスタイルでした。劇場入りするまでに何度か途中段階のテキストをいただき、関係者に進捗を共有してはいましたが、完成したテキストを頂いたのは劇場入りするタイミングでした。事前の打ち合わせで、田村さんの中にあるイメージを照明、音響などのテクニカル・スタッフと共有しましたが、ある程度任されている部分があるように思いました。テクニカル・スタッフとはどのように仕事をされましたか。
 サウンドの荒木優光くんとはここ何年か一緒に仕事をしていますし、照明の高原文江さんも過去に仕事をしたことがあるのでコミュニケーションできる人だとわかっていました。だからサウンドも照明も僕が細かく指示するのではなく、「こんな感じ」という方向性だけ伝えて、「じゃあこんな感じですか?」と提案してもらったものに、「もう少し横からこう入ったほうが良いかも」みたいに、感想を言う程度です。それぐらいのやり取りなので、その人のスキルやセンスによるところも大きいと思います。荒木くんも高原さんも劇場がある京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)出身ということもあって、現場のスタッフとも顔見知りなので、ある程度やり取りもできる。僕と劇場の間の緩衝地帯になったというか、それは良かったかなという気がしています。僕のように劇場スタッフと距離感がある外の人間は、現場で1度スタックすると、このスピード感で舞台をつくるのは難しかったでしょうね。
舞台監督は京都芸術劇場の技術監督にお願いしました。維新派(*3)の舞台監督をされていたこともある大田和司さんで、様々な現場に対応できる方だと思います。
 大田さんとは、国東半島アートプロジェクト2012の飴屋法水さんのツアー型アート作品《いりくちでくち》(*4)で一緒に仕事をしています。僕は映像として関わっていて、現場が結構ハードだったんですが、大田さんはそれらにも柔軟に対応されていました。実際、僕も事前に細かくプランを出す方ではなく、現場で思いつくこともありますし、最後は現場で詰めていく方なので、「最初に言ってくれなきゃできないでしょ!」みたいなことになると、僕の作り方の場合はやっぱり難しいので。他の舞台監督とたくさん仕事をしたほうではないですけど、最終的に舞台作品として成立させられたのは、大田さんだったからという気はしています。
演劇やパフォーマンスでは演技とか身体表現、台詞などの要素が大きいですが、それに対して《テイストレス》は圧倒的にビジュアルの力によって時間が構成されていたように思います。
 多分、僕のバックグラウンドがそうだからだと思います。逆に、出演者にセリフを喋ってもらってそれを制御するということは今回はしていません。セリフの間とか、動きや演技の指示とか、そういうことはあまりしていなかったように思います。なので出演者の山崎皓司さんに関しては、少しセリフはありますが、喋ったと思ったら口の中にガムが詰まってるとか、荒木くんに至っては逆回しのセリフだったり。正当なセリフというものはなかったと思います。
出演者であるアーティストの荒木悠さんは田村さんの大学院の同級生ですが、俳優の山崎皓司さんとは初対面でした。そもそも俳優との仕事自体が初めてですよね。
 俳優という肩書きの方との仕事は初めてでした。最初のシーンでは、荒木悠くんはそのままアーティストの荒木くんとして登場し、アーティスト・トークを披露します。一方の山崎皓司さんは俳優ということもあり、最初は双方に戸惑いみたいなものはありましたね。だけどそれは、いろいろなジャンルの人と仕事をする中で、僕がこれまでも経験してきたことです。例えばモデルであれば、会うまで動き方などはどう制御していいかわからないのですが、会ってみれば「ああ、こういうふうにすれば動くんだ」とわかる。落語家との仕事では、僕が筋を投げても「いや、落語ってこういうものなので、ここまで書いてもらわないとこっちも喋れません」と言われて、書き直したこともあります。その都度その都度、そういった新しい経験があります。ただ、生の俳優が2人以上関わるというのを短期間でやれと言われても、多分すぐにはできないと思います。それを練り上げるには時間が必要でしょうし、それこそ稽古期間を1カ月ぐらいかけないと難しいでしょうね。

 《テイストレス》のビジュアルは照明やサウンドで作れると思っていましたが、山崎さんが「今どういう状態なんですか?」と戸惑うことはありました。こちらからするとビジュアルはもう成立しているので、心配しないでくださいという感じなのですが、俳優からそれは見えない。なので撮影した映像を確認してもらったりもしました。あと、山崎さんが一番困っていたのは、お客さんの反応が遠いということ。客席が2階席のみなので。普段はある程度の距離にお客さんがいて、何らかの返しがあるのに、今回は全く無いみたいなことはおっしゃっていましたね。ただ、舞台というか劇場に山崎さんが一人。それをお客さんは遠くの2階席から俯瞰で見る。ビジュアルとしてはそれで良かったと思います。
荒木悠さんや山崎さんがご自分でお書きになったセリフもありました。荒木さんは、田村さんが書かれたテキストに、アメリカでの高校生活の経験を肉付けし、「アメリカン・メモリー」というシーンを仕上げました。山崎さんにもモノローグのシーンがありましたが、これはどのように依頼されたのでしょうか。
 今回の公演が決まったあとに、山崎さんのドキュメンタリー映像作品『Koji Return』(2021年)(*5)を見ることがありました。内容もさることながら山崎さんのパーソナリティがとても素晴らしかったんです。なので、もっと山崎さんの素の部分が出るといいなと思いました。それで今回の小屋入り前の打ち合わせの段階で、山崎さんがしゃべりたいことがあればしゃべっていいですよと伝えていました。でも、稽古時間もほとんどありませんでしたし、作品と自分との関係を掴むのが難しかったそうです。毎回変わるからアドリブと言えばアドリブですが、山崎さんによれば、初めと終わりは決めて、中身は緩めにしてその時の状況に応じて内容を構成されていたようです。一点、山崎さんが「有益な話をしたい」と言っていたのを「(意)味のある話をしたい」という言い回しに変えてもらったというのはあります。

《テイストレス》
(2021年6月27日/京都芸術劇場 春秋座)

カメラマンから作家へ:構成・メディア・観客

田村さんは1977年生まれ、富山県出身で、東京の大学に進学されました。富山のどちらのご出身ですか。
 今は合併して富山市になりましたが、大山町という町の出身です。山の麓で、市内の高校まで電車で30分かけて通っていました。高校卒業後は、東京に出たくて、東京にあるごく普通の一般大学の社会学コースに入学しました。当時、1996年頃は社会学がひとつの流行りでもありました。ちょうど宮台真司とかが脚光を浴びていた頃です。ただ一般大学なので、学生数も多いし、手応えもさっぱりで、結局2年で退学しました。

 東京というか世間に埋没する自分に焦りも感じつつ、もっと面白いことができないかなと思い、仮面浪人じゃないけど、そのまま日本大学芸術学部(以下、日芸)の映画学科、放送学科、写真学科を受験しました。映画を受けたのは学校をサボって新宿武蔵野館や飯田橋ギンレイホールでよく映画を見たりしていたからでしょうね。その頃は、映画は日芸ぐらいしかなくて、映画が第一志望、放送が第二志望、写真が第三志望だったのですが、唯一受かった写真学科に入りました。それが1998年です。当時は、HIROMIX、長島有里枝、蜷川実花のガーリーフォトブーム、あとはホンマタカシや佐内正史などが登場した、言わば写真ブームの時代でした。雑誌も元気がよくて、マガジンハウスの雑誌がよく読まれていました(*6)。写真学科は2年生ぐらいからマガジンハウスでアルバイトをするというのが通例でした。社員カメラマンのアシスタントなのですが、そこでエディトリアルの写真撮影のプロセスみたいなものを何となく理解しました。

 結局、日芸は留年して5年で卒業、半年ぐらいフラフラしていたら、暮しの手帖社がカメラマンを募集しているという情報を知人から聞いて、エディトリアルは何となくわかっていたつもりだったので、受けてみたところ、採用となりました。それが2003年とかです。
写真家の登竜門である木村伊兵衛賞を若い人が受賞するようになり、雑誌が若者のライフスタイルをつくりだした雑誌文化全盛時代ですよね。インターネットによって今では様相が一変してしまいました。雑誌社が社員カメラマンを雇うこともなくなっているのではないでしょうか。
 昔は雑誌の現場はポジフィルムで撮影していたのでカメラマンは技術職として雇われていましたが、デジタルに移行してからは編集者が撮影することもありますし、純然たる社員カメラマンていうのはごく稀で、今ではスポーツ紙ぐらいしか採用していないかもしれませんね。

 ビジュアル雑誌が全盛だった当時は、カメラマンにスタイルが求められるようにもなっていました。でも、暮しの手帖社では、実験とか商品テストとか、記録撮影をするためにカメラマンを雇用していて、そういったスタイルとは無縁の仕事をしていましたし、時代のセンスとはズレた孤高のスタイルみたいなものには惹かれました。暮しの手帖社にはトータルで4年半ぐらい勤めましたが、最後の2年は初めて外部から編集長に松浦弥太郎さん(*7)を招き、書き手や撮り手はフリーランスに発注するという体制に切り替わりました。各編集者が外部のフリーランスを抱えて、この記事だったらこのライターとカメラマンで作るとか、世の中はすでにそれが当たり前だったのですが、暮しの手帖社も時代のセンスに沿った雑誌作りに様変わりしました。ただ、そうなると僕とかはもう撮り手としては闘えないわけです。そういうトレーニングをしてきてないわけですから。
その後、東京藝術大学大学院映像研究科に進学されます。何かきっかけがあったのですか。
 『暮しの手帖』で佐藤雅彦さん(*8)が連載されていて、会社にいる頃から面白いことを書いているなと思って読んでいました。佐藤さんは、電通時代はCMプランナー、その後は、「だんご3兄弟」の作詞・プロデュース、「ピタゴラスイッチ」の監修などを手掛けられた方で、慶應義塾大学環境情報学部を経て、東京藝術大学大学院映像研究科の教授という肩書きでした。それで映像研究科のことを知りました。その頃には、暮しの手帖社にカメラマンは僕しか残っていなくて、そろそろ潮時かな、みたいな感じもありました。ただ、辞めてどうするの?ということにもなりそうだったので、藝大の院を受験して受かったので辞めますということになれば、スムーズかなと思い、受験しました。結果は、合格ということになり、会社を3月いっぱいで辞めました。2008年のことです。
2005年に東京藝術大学に映像研究科を立ちあげた藤幡正樹さん(*9)は日本におけるメディアアートのパイオニアです。当時は、そういった現代アートの第一線で活躍した人たちがアカデミズムの中に入って学生を指導するという新しいフェーズでした。田村さんは何期生ですか。映像研究科には映画、メディア映像、アニメーションの3専攻ありますが、何を専攻されましたか。
 僕は3期生で、メディア映像を専攻しました。メディア映像専攻は面白いところで、武蔵野美術大学や多摩美術大学みたいな美大出身者も少しはいますが、理系や心理学、体育大といった他分野からもたくさん入学していて、学生の配分はハイブリッドな感じでした。研究科が立ち上がった頃はICC (*10)が牽引するようなメディアアートをやろうといった勢いがありましたが、僕の時にはすでにデジタルメディアを多用するメディアアートは先端という感じではなくなっていて、先生たちも急に「あらゆるものがメディアだ、身体もメディアだ」と言い始めるみたいな雰囲気でした。だから、「メディア」というワードを介して多様な実践ができていたかなと思います。どの機材を使うとか、どのように見せるかとか、ここで身体が入ってとか、この人は何を喋るべきなのかとか。そういうことを複合的に扱うメディアミックスのリテラシーや、メディアコンディションの扱い方というのは大学院で学んだかもしれません。

 入学するまでは佐藤さんしか知らなかったのですが、研究室は藤幡さんのところに入りました。制作する作品や興味がアート寄りかデザイン寄りかぐらいの緩い区分けでしたが、アート寄りだと藤幡さんの研究室、デザイン寄りだと佐藤さんの研究室という雰囲気でした。荒木悠くんも藤幡研です。ただ、佐藤さんともたくさん仕事をしました。佐藤さんの著書『新しい分かり方』(中央公論新社、2017年)の写真を担当しましたし、佐藤さんがディレクションされた21_21 DESIGN SIGHTの「“これも自分と認めざるをえない” 展」(2010年)にも作家として参加しました。
作家を志して大学院に行かれたわけではないのですね。作家になろうと思われた転機はいつですか。
 大学院での2年間は、課題が出ては作品めいたものを作って、それに対する講評というのの繰り返しでした。教員からはどんどん作れ、みたいな感じで。その流れでひたすら作っていたような気がします。最終的には、修士課程の修了作品《NIGHTLESS》(2010年)が、藝大の買い上げ作品になったり、文化庁のメディア芸術祭では優秀賞を受賞しました。大学院修了のタイミングで1年間、トーキョーワンダーサイト(*11)が運営していた青山のレジデンスに滞在することにもなりました。作家としてはこれも転機になったと思います。同じ年には下道基行くんとかmamoruくんらがレジデンスしていましたし、次の年は荒木悠くんとか、「悪魔のしるし」の危口統之くんもいました。毎月オープンスタジオをやる決まりでしたが、僕の作品はプロセスが無いので、見せるものが無い。なので、毎月部屋で何かが起こっているという、パフォーマンスと言えるかどうかわからないですが、部屋に入ったらタップダンサーやボディビルダーがいるとか、落語家が一席やるとか。ヴンダーカンマー(驚異の部屋)と称して節操なくいろいろやっていましたね。

 青山のレジデンスは出島みたいな所で、海外からも多くの作家が来ていたので一緒にわいわい呑みに行ったり展示もしたり。そこで、こういうフィールドでの作家と称される人たちの振る舞いやロジック、作法じゃないですけど、そういうものが身に付いたようにも思います。その後は、コンスタントに国内外のレジデンスに行ったり、作家として展示に参加したりするようになりました。国際交流基金のプログラムでよくアジアにも行きましたし、そうしたことを重ねて今があるようにも思えます。
第14回文化庁メディア芸術祭アート部門優秀賞を受賞した《NIGHTLESS》は、Googleストリートビューのイメージをスクリーンショットした素材のみで構成されたロードムービーです。田村さんにとって対外的に発表したはじめての作品になりますが、第3回恵比寿映像祭、第57回オーバーハウゼン国際短編映画祭など世界各国で上映されています。すでにあるイメージや素材をサンプリングして制作するという方法には、どのようにたどり着かれましたか。
 あの作品は、修士2年の夏休み明けに提出した課題が元になっています。はじめは単に学生最後の夏休みだから映画を撮ろうかなぐらいの思いつきだったのですが、かといって人を使ってカメラを回すというのは違うなと。元々ストリートビューのイメージは気になってはいました。自分で撮ることに飽き飽きしていた時に、ストリートビューの乾いたイメージがしっくりきたというか。ストリートビューで写っているものは「撮る」という感じじゃなくて、言ってしまえばスキャンのようなものですよね。それぐらいチープなイメージに、どれだけストーリーを乗せて作品化できるか。撮る意志が無い主体によって生み出されたイメージで「感動した」と言われるようなところまで行けたらどうなるだろうと。それはつまりクリエイションと呼ばれるものですよね。

 それで、ナレーションぐらいは作って、ロードムービーっぽい短編を夏休み明けに提出したら、藤幡さんにこれは面白いからちゃんと作った方がいいと言われました。それが10月で、1月の修了展までに結構作り込みました。ストリートビューのスクリーンショットを並べてアニメーションにするのですが、その作業が結構大変で、1分作るのに一晩ぐらいかかります。いちいち手作業で画面のスクリーンショットを撮って、ちょっと進んではカメラをパンしてショットを撮る。途中で道が切れていたりすると、そこまでの作業が水の泡になるので、ロケハンが大事でもあったり。なので、その場所に行って撮っちゃったほうが実は早い。最初のナレーション以外は自分で書いたテキストはほぼ無くて、YouTubeから持ってきたり、アメリカの田舎のラジオのサウンドを持ってきたり、サウンドはすべてそういったファウンドフッテージ(*12)と呼ばれる断片で構成しています。修了展は、藝大の大きなスタジオが会場だったのですが、そこにキャデラックを置いて、観客はキャデラックの中から《NIGHTLESS》を観るという仕立て。サウンドは車のスピーカーから流して、ドライブインシアターのような形式です。没入感は凄かったと思います。
NIGHTLESS
NIGHTLESS
NIGHTLESS
NIGHTLESS

《NIGHTLESS》(2010年–)
撮影:田村友一郎

《テイストレス(TASTELESS)》が2階客席だったのに対し、《NIGHTLESS》はキャデラックの座席と、作品の中に客席が想定されているのが面白いと思いました。
 やっぱり観客のことは考えますよね。今回の《テイストレス》では、開演前の客席にラウンジ感をだそうと、それ用のサウンドと照明を設定しました。関係者からは、それ要ります?という意見もありましたが、僕は必要だと思ってて。いつも演劇を観に行くと気になっていたのが、開演前に観客が無駄に緊張していることです。それが僕としてはどうしても引っかかってたんです。

 そういったところが気になるというのは、おそらく観客としていろいろなものに触れていた時間が長かったというのがあるのかなと思います。先にも話した通り、会社員時代が4年半ほどあります。平日は働き詰めなので、唯一の休みである土日に何をするかが課題だったりするんです。ただ土曜はたいがい疲れてて何もできない。じゃあ、残った日曜をどう過ごすか。この日曜の過ごし方によって翌日の月曜からの平日の乗り切り方が変わってくる。そういった中で、美術館やギャラリーといった場所に日曜によく足を運んでいました。おそらく今よりも展示を観ていたかもしれません。僕もそうでしたが、日曜に美術館に足を運ぶ観客は非日常のようなものを求めているところがあって、平日とのコントラストを求めている。そういった欲望には応えたいと思っています。なので作品を制作する時に、そういった過去の会社員時代の自分というものを観客として想定しているふしはありますね。
《NIGHTLESS》は一人で作られていますが、チームで作業をされたのはどの作品からですか。
 《NIGHTLESS》の後もいろんな経験をしていますが、最初に大人数で取り組んだのは東京都現代美術館でのグループ展「MOTアニュアル2012 風が吹けば桶屋が儲かる」で発表した《深い沼》(2012年)という作品です。

 美術館近くにかつてあった同潤会アパートには、昭和35年に演説中に刺殺された日本社会党委員長だった浅沼稲次郎が住んでいました。アパートはもう無くなっていましたが、作品ではその浅沼のアパートの一部を映画制作会社の系列の美術部にお願いして美術館の地下駐車場に原寸大で再現しました。観客は係員から手渡されるラジオから、今は武蔵美の映像学科で先生をされているクリストフ・シャルルさん、味のある日本語を話されるのですが、シャルルさんの語りで美術館がある深川地域の太古の昔から現在までの話を聴く。「◯◯年前、ここで…」みたいな。サウンドはトランスミッターで飛ばしていて、広大な仄暗い地下駐車場の至るところで聴けるようにしました。
深い沼
深い沼
深い沼
深い沼

《深い沼》(2012年)
撮影:田村友一郎

深川の地元のお祭りに参加して浅沼のことをお知りになったとか。
 最初、企画の話をいただいた時に漠然とですが、美術館が建っている土地にまつわることをやりたいと思いました。それで、学芸員に深川地域のことを知るにはどうしたらいいかと相談したら、深川の祭りがあるから、その神輿を担がせてもらったら?という話になり、法被を着て若い男の学芸員と御輿を担ぎに行きました。そしたら、地元の人に「ここら辺で先生っていったら誰だかわかるか?」と問われ、答えに困っていたら「浅沼稲次郎だよ、この近くに住んでいたんだ」と。ただ、そのアパートはもう無くなっていて跡地に大きなマンションが建っていた。そこの町内会を仕切っている人に話を聞きに行ったら、「浅沼さんと同じフロアに住んでいたので、当時のあの家の図面もあるからあげるよ」と。そういう経緯があって、浅沼稲次郎が住んでいたアパートの部屋を再現することに。

 あとは、単純に若手アーティストのグループ展でもあったので、目立ちたいというのもありましたね。学芸員に「一番広い場所を借りたい」と言ったら、地下駐車場があると。それで、美術館と同じ広さがある地下駐車場を使うことにしました。それだけだと成立しないので、メインの展示室の一角に美術館のコレクションを並べて、キャプションを付けました。展示はありふれた常設展のように見えますが、そのキャプションが実は美術館のコレクションのタイトルのみで構成される小説になっていて、展示室の最後に「この展示は地下3階に続きます」と注意書きがあるんです。観客はそれを見て地下駐車場にエレベーターで降りていく。地上と地下が繋がる、そういうレイヤーのある展示です。
地下駐車場には、アパートの一部屋全体ではなく、玄関と細い廊下、それに続く和室が再現されていました。それは、橋掛かりを通り、本舞台へと繋がる能舞台の構造を彷彿とさせました。
 最初から能を意識したわけではないんですが、作っている最中に、能っぽいなと。まず、浅沼稲次郎のアパートの部屋をフルで再現したかったのですが、到底予算が足りない。なので、作り物を削っていかないといけなくなって。美術監督とも話して、台所いらないよね、便所いらないよね、ここの部屋いらないよね、挙句、壁もいらないよねと。そうこうしているうちに玄関と廊下と奥の六畳間のみが残りました。壁も取っ払っているので、完全に能舞台になってしまった。

 能の構造で多いのが、旅人であるワキがふらっと立ち寄った土地で、その土地の人間であるシテと出会う。シテはこの土地で過去にあった話を語り、実は私がその幽霊であることを明かすというものです。刺されて亡くなった浅沼稲次郎はこの土地にかつて存在していた人物です。お客さんは地下という過去を体現する場所に降りていき、その人物の幽霊と出会うわけです。

 そこにかこつけて会期終わりには、《深沼》という能に想を得たパフォーマンスを行いました。パフォーマンス前にはこの美術館が元々は木場だったということもあったので、地元の木遣りの会を呼んで一曲演ってもらったり、アパートの前に松の植木を並べてみたり、いろいろと趣向を凝らしていたように思います。ただ、地上で繰り広げられている若手作家の企画展示というテイストからは結構、浮いていたようにも思います。
浅沼、深い沼というレトリックですね。ちなみに創作する上でリサーチをされることは多いのでしょうか。《テイストレス》では劇場機構をリサーチしたことが作品の内容と深く結びついています。
 リサーチというほどのことではなく、Wikipediaをあたるぐらいのものです。僕の仕事をリサーチ型と言う人もいますが、自分では「サーチ」と言っています。深く調べるというよりかは、表層的な広がりを意識しています。縦軸ではなく横軸。その上で、何と何が繋がるかということも意識することで、より広がりを持った射程を獲得することができます。もちろん、より詳細な情報が必要な場合は、文献資料にあたったり、美術館の学芸員に資料を提供してもらったりということはありますが。
田村さんの世代は、海外でのアーティスト・イン・レジデンスが日本において普及した世代でもあったように思います。
 僕ら世代は、トーキョーワンダーサイトや国際交流基金などの支援で海外にレジデンスに行くようになり、レジデンス先で即興的にリアクションするみたいなことが求められていたようにも思います。あとは、越後妻有アートトリエンナーレや瀬戸内国際芸術祭など、美術館ではないところでのプロジェクトの展開がはじまったジェネレーションでもあると思います。その土地に行って作る──そういう動きが生まれて、活動の場が広がった世代というのはあると思います。
2013年から1年間、アーティストのオラファー・エリアソンが開いていたベルリン芸術大学の空間実験研究所(*13)へ文化庁新進芸術家海外研修制度で行かれています。
 僕ら世代の作家は、30歳半ばになると、文化庁やポーラ美術振興財団の助成を使って海外研修に行く人が多かったんです。僕もそういう時期に行きました。当時の行き先の流行りはベルリンでした。なので、自分も漠然とベルリンかなと思っていたら、トーキョーワンダーサイトの今村有策さんに「オラファーがベルリンで学校をやっているから、そこはどう?」と言われ、是非ともということで、コンタクトを取ってもらい、その学校が研修先になりました。

 学生とはいえ、みんな個が立っているので、教える・教えられるという関係性ではないし、とても刺激になりました。学校の主眼としては、空間に対してどれだけ実験できるかといったもので、空間のコンテクストを読み解き、それに対してどう反応するかみたいな。対象が空間や社会だったので、自ずと作品のスケールは大きかったですね。スケールという点では、先生がオラファーというのも影響してたでしょうけど。なので、絵画や彫刻といったファインアートをやっている学生はあまりいませんでした。学生全員がドイツ人ではありませんが、どこかヨーゼフ・ボイスの十字架を背負っているみたいなところがありました。彼らは作品を制作するためのメディウムを規定しているわけではなくて、その態度自体がステートメントになっているので、その人がどんなことをしようと作品になってしまう。なので、作家としてのエンジンは常に回っていて、あとはギアを入れれば作品ができるという感じでした。

 中国にみんなで遠足に行ったことがあるのですが、◯月◯日に香港集合ということだけ決まっていて、行き方は自由。そしたらクラスメートが、「そこの東洋人、一緒にシベリア鉄道で行かないか?」と。4人コンパートメントで1つ空いているから誘われたのですが、1週間ドイツ人と冬のシベリア鉄道に乗りました。シベリア鉄道ってコンパートメントと廊下がある客車が10何両繋がっているのですが、クラスメートが夜中に僕をたたき起こして、となりの客車と僕らの客車の廊下の絨毯を入れ替えるぞって言うんです。それが彼らの芸術行為としてのアクションなわけです。客車の長さは同じなので、絨毯の長さも一緒。だけど、端っこがちょっと違いますよね。その合ってないところを写真に撮って終わり、みたいな。場所ごとのコンテクストを読み取ってアクションを起こす、そういった実験が常に行われていて、そのタフネスはすごかったです。
シベリア鉄道
シベリア鉄道
シベリア鉄道
シベリア鉄道

ベルリン芸術大学空間実験研究所による中国でのプロジェクトへ向かうモスクワ発、北京行きのシベリア鉄道の列車内にて
撮影:田村友一郎

田村さんの中で特に拘って表現したいと思っていることはありますか。
 表現者としてこれが表現したいと強く思っていることはありません。いただいた仕事をこなしています。オーダーがあってそれに対して返す。つくづくリアクションだと思います。今、美術大学で教える立場にいて、どちらかというと絵画の分野にいますが、絵を描いている人たちを見てると自分のなかから沸きたつものをキャンバスに投影している。それって「表現」というものに近いと思うのですが、僕の仕事の体系はそれとは違う。過去の僕の仕事を参照して、この人だったらこういうことができるのではないか、こういうことを頼んでみたら面白いのではないか、という先方の動機のもとオーダーが来る。そういうオーダーに対して、ある程度納得いくものを返したいと思って臨んでいます。だから、よく言えばある一定の条件とオーダーがある中で作る建築家。でも建築の人には、注文住宅のメーカーと言われましたけど。ここでの納得いくもの、つまりクオリティということになると思いますが、それを高めるには限りなく自分をゼロにしておくのが肝要だと僕は思っています。なので表現者ではないでしょうね。
《テイストレス》では「演出」とは名乗らず、クレジットは「構成」でした。
 美術の仕事の場合は、クレジットはつかず名前と作品タイトルの併記のみです。他の分野でクレジットを求められる場合は「構成」と入れることが多いですね。映画だと「監督」、演劇だと「演出」なのかもしれないけど、それだとトップダウンになってしまって、現場で働いている人が監督にお伺いを立てるイメージになる。そういった僕だけが決定権を握っている感じになるのは、個人的には違うかなと思います。本当はここまであるけど途中で止めてお伺いを立てることになるよりは、その人が良いと思う選択をして、それに対して周りがリアクションするような自発的な関係性が築ければと思います。その上で全体の構成をするというような。
そういう「構成力」によって生み出されるクリエイティビティについてはあまり語られていないような気がします。田村さんがカメラマンとして仕事をされていた雑誌も企画、テキスト、コピー、写真、イラスト、レイアウト、デザインといった誌面構成、編集によって展開するものです。
 いろいろ経験してきたからだと思いますが、会社員時代の仕事は影響してるかもね、とたまに言われたりはします。雑誌づくりは頁数にリミットがあるので、料理記事16ページだと写真が何カット必要だとか、逆算が入るというか。それと、編集会議では台割などのフレームワークがあって、そこで何をどう展開するかという最初の因子みたいなことを話し合いますが、例えば一緒に仕事をしている人が「ここは写真じゃなくてイラストのほうがいいんじゃない?」と言えば「そうしましょう」と言えるような関係性を維持したい。僕が僕がと主張ばかりすると、そういう意見も上がってこなくなる。そういう意味である程度、開いておいたほうがいいのですが、僕が引き過ぎても物事が進まなかったりする。その塩梅はあると思いますけど、いいアイデアがあれば「ぜひとも」という感じです。《テイストレス》で、初めて仕事をしたスタッフが、「どっちがいいですか?」と僕に質問したことがあったのですが、「どっちでもいいです。決めてもらっていいですよ」と答えたら、そういう答えは初めてですと驚かれていました。
田村さんの作品は、歴史的な出来事や人物が作品の起点になる印象があります。
 多分、それが僕の興味というか、趣味趣向なんだと思います。例えば横浜美術館の企画展「BODY/PLAY/POLITICS」(*14)で発表した《裏切りの海》(2016年)は、ボディビル、三島由紀夫、G.H.Q.などの話題が折り込まれています。そこに元々強い思い入れがあったわけじゃなくても、それに関わる作品を作ろうとすると、いろんなことを自ずと知っていくことになります。興味としては、戦後のアメリカと日本の関係のようなところからはじまっていて、《テイストレス》でレーガンにフォーカスがいくのもそういう興味からきているように思いますし、ここ何年かの作品を振り返れば、アメリカ何部作というようなものになっていると思います。

 ただ、僕が自分の興味に沿って闇雲にそこに向かっているわけではなく、時代の要請や、展覧会のテーマなどで求められていることでもあります。特にアジアの国際展などではアジアの歴史を串刺しにするとなると、往々にして日本の統治時代がフォーカスされます。その上で、アジア各国の作家は日本人が知らない統治時代の隠された歴史を紐解いてみせます。そういうなかで統治側だった日本の作家はどう振る舞うべきか?となる。その場合に、三島由紀夫のような多面的な存在は、ツールとしてとても有効な気がしています。国際的な同時代性となれば、共通認識として遡れるのが、1945年やその後の冷戦構造だったりするので、その時代に生きた人物を通して、言葉を紡ぎ出す。イタコじゃないですけど、そういった過去の存在を通して現代に語りかけるという構造は有効だと思っています。そういう意味で、先の「能」のような、ああいった構造には強く惹かれます。
そういう観点でいうと、COVID-19が冷戦後初めての世界共通言語になった感じがあります。
 そうですね。ただ、それを触ったとしても、それで成立するわけではないですよね。内容やそこを起点にどれだけ飛躍させられるか。その飛距離が問われるところだと思います。なので、僕自身の仕事の内容としては今までとそれほど変わるものではないと思っています。2020年に開催されたヨコハマトリエンナーレでは、COVID-19に関わる《舎密 / The Story of C》(*15)という作品をすでに発表しています。コロナによって常態化した作品のオンライン展開とオフライン展開を起点として、インターネット空間と実空間の不完全な相互補完と、それらの和解を扱ったものです。4幕構成で、マジシャン、落語家、ファッションモデルなどが登場します。タイトルにもあるように「C」にまつわるストーリーで、Coronaに代表されるような、いまを紐解く「C」の頭文字を持つ英単語によって構成されるものです。

 質問で世界共通言語とおっしゃいましたが、共通言語という括りは、ときに危険性を孕むものだとも思っています。そうではなくその言語を分断し、断片としての言語を提示することのほうが有効だと思っています。「C」はその断片としての言語の一片として捉えてもらえると良いのかなと思います。その断片(*16)同士に接続点を見出し、構成するのが僕の仕事です。
裏切りの海
裏切りの海

《裏切りの海》(2016年)
撮影:田村友一郎

舎密
舎密

《舎密 / The Story of C》(2020年)
撮影:田村友一郎

*1 James Graham Ballard(ジェームズ・グレアム・バラード)はイギリスの小説家。1930年上海生まれ。「これからのSFが探索すべきは、外宇宙ではなく、人間の意識の内宇宙だ」として、1960年代におきたSFのニュー・ウェーブ運動の中心となり、その前衛的な作品はSFの可能性を広げた。第二次世界大戦中、日本軍の捕虜収容所で過ごした少年時代の経験から書かれた半自伝的小説『太陽の帝国』はベストセラーとなり、スティーヴン・スピルバーグ監督が映画化。《テイストレス》では、異星を舞台に宇宙の循環が描かれた短編小説 『The Waiting Grounds』(1959年)を参照、一節が引用されている。

*2 《テイストレス》は、京都芸術大学の共同利用・共同研究拠点事業〈舞台芸術作品の創造・受容のための領域横断的・実践的研究拠点〉劇場実験型公募研究「The Waiting Grounds──舞台芸術と劇場の現在を巡る領域横断的試み」(研究代表者:中山佐代)という研究プロジェクトとして企画されたもの。2020年2月29日に開催予定だったが、2月26日に新型コロナウイルス感染症対策本部にて政府に要請された方針に従い中止が決定。その後、舞台芸術研究センターの主催公演として改めて2021年6月27日に実施された。

*3 1970年に主宰の松本雄吉(1946〜2016年)を中心に大阪で結成された劇団。最も大きな特徴として、役者、スタッフたち自らの手で巨大な野外劇場を更地から建設することが挙げられる。また、映画のセットのようなリアルなものから抽象的な空間までつくり込む圧倒的な美術、ヂャンヂャン☆オペラと名付けられた大阪弁のイントネーションを生かした変拍子のリズムを持つ発語スタイルなどの特徴がある。創設以来、「移民」や「漂流」をキーワードに様々な場所で公演を行っていたが、2017年12月31日をもって活動を終了。

*4 演出家・飴屋法水、小説家・朝吹真理子をはじめとしたメンバーが大分県の国東半島に滞在し、制作した12時間におよぶアートツアー。田村はツアー内での映像及びドキュメント映像を担当している。ドキュメントはBlu-ray、DVD販売のほか、オンラインでレンタル視聴が可能。
https://vimeo.com/ondemand/iriguchidekuchi

*5 百の姓を持つ、百の屋号を持つ、百の仕事を持つという意味での「百姓」を志す、山崎皓司(快快)の百姓生活を記録したドキュメンタリー作品。北川陽子(快快)と林靖高(Chim↑Pom)がディレクターとして参加し、山崎と共にフィールドワークをしながら制作。YouTubeで公開されている。
https://youtu.be/rTYVlf1EZAA

*6 『POPEYE』、『BRUTUS』、『relax』、『GINZA』などがある。カルチャー誌『relax』(1996〜2006年)は現在休刊しているが、岡本仁が編集長を務めた2000~2004年の間、独自の目線でカルチャー、ミュージック、ファッションを取り上げた特集や、アートディレクターの小野英作が手掛けた誌面デザインなどが多くの読者に愛され海外でもファンを獲得した。

*7 1965年東京生まれ。エッセイスト。クリエイティブディレクター。高校中退後、渡米。アメリカの書店文化に惹かれ、帰国後、オールドマガジン専門店「m&co.booksellers」を開業。2000年にトラックによる移動書店を開始し、2002年には書店「COW BOOKS」を中目黒にオープン。2006年から雑誌『暮しの手帖』の編集長を9年間務めたのち、2015年クックパッド株式会社に入社。同年、ウェブメディア「くらしのきほん」を立ち上げる。現在は、株式会社おいしい健康の取締役として同メディアを運営。

*8 1954年静岡県生まれ。電通のCMプランナーとして、湖池屋「スコーン」「ポリンキー」「ドンタコス」、NEC「バザールでござーる」、トヨタ「カローラⅡ」などのヒットCMを独自の方法論で生み出す。独立後は、ゲームソフト「I.Q.」や、NHK教育テレビ「ピタゴラスイッチ」を手掛けるなど、分野を超えた活動を続けている。1999年より慶應義塾大学環境情報学部教授。2006年より東京藝術大学大学院映像研究科教授、2021年より東京藝術大学名誉教授。

*9 1956年東京生まれ。1980年代初頭からコンピュータを使った作品制作を行い、1990年代からはインタラクティヴな作品を次々に発表。1996年、ネットワークをテーマにした作品《グローバル・インテリア・プロジェクト#2》がアルス・エレクトロニカ(リンツ、オーストリア)で、ゴールデン・ニカ賞を受賞。インタラクティヴな本をテーマにした作品《ビヨンド・ページズ》は、カールスルーエ・アート・アンド・メディア・テクノロジー・センター(ZKM)のパーマネント・コレクション。2005年より東京藝術大学大学院映像研究科の設立に参加し、2012年まで研究科長を勤めた。現在は東京藝術大学名誉教授。

*10 NTTインターコミュニケーション・センター(ICC)は、1997年に西新宿の東京オペラシティタワー内にオープンしたNTT東日本が運営する文化施設。科学技術と芸術科学の融合をテーマとし、ヴァーチャル・リアリティやインタラクティヴ技術などの最先端テクノロジーを使ったメディア・アート作品を紹介している。機関誌『InterCommunication』(2008年に65号をもって休刊)の発行も行っていた。

*11 幅広いジャンルの活動や領域横断的、実験的な試みを支援し、同時代の表現を東京から創造し発信するアートセンター。2001年に若手アーティストの育成支援機関として東京都が創設し、発表の場と滞在制作やリサーチ活動の拠点となるスペースを運営。2006年より国内外の様々なジャンルのアーティストやクリエーターの招聘や派遣を行うレジデンス・プログラムも実施。2017年にトーキョーアーツアンドスペースに名称変更。

*12 映像制作において既存の映像素材を引用・流用する映像技法のこと。

*13 2009年から2013年までの5年間、オラファー・エリアソンを中心にベルリン芸術大学内にて実施された教育プログラム。実際的な活動はすでに終了しているが、活動場所をウェブサイトに移し今も活動は継続されている。
https://raumexperimente.net/en/

*14 ヨーロッパ、アフリカ、東南アジア、日本から6人の現代作家が参加したグループ展。田村は三島由紀夫の小説『午後の曳航』を下敷きに、近代ボディビルディングの歴史を通して日本の戦後を読み直したインスタレーション作品《裏切りの海》を発表。

*15 COVID-19の集団感染が発生したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号は、造船所で建造中に火災に見舞われ、同時に建造されていた姉妹船のサファイア・プリンセス号と名前が入れ替わった。そのことから、ダイヤモンドとサファイアをめぐるエピソードを起点とした作品となっている。オンライン配信映像などのアーカイブが公開されている。
https://www.yokohamatriennale.jp/2020/concept/episodo/08/

*16 「断片を巡る制作体系に関する考察」(2016年度東京藝術大学大学院映像研究科)と題した博士論文を執筆している。田村の制作行為において重要な概念である「断片」について、それらの特長が顕著な過去の実践を例示しながら、「断片」を生み出す「切断」と作品たらしめる「接続」という2つの行為を軸に詳述した内容となっている。