ケラリーノ・サンドロヴィッチ

ポストモダンなシリアスコメディ ケラリーノ・サンドロヴィッチ

2010.01.26
ケラリーノ・サンドロヴィッチ

ケラリーノ・サンドロヴィッチKeralino Sandorovich

1963年生まれ。横浜放送映画専門学校(現・日本映画学校)を卒業後、バンド「有頂天」を結成し、ヴォーカリストを務める。インディーズ・バンドブームの中心的な存在として音楽活動を行う一方、劇団健康を旗揚げして、1985年から92年までナンセンス・コメディを中心とした作品を発表。93年に演劇ユニット「ナイロン100℃」を立ち上げ、ほぼ全公演の作・演出を担当している。公演を「セッション」と称し、レギュラーメンバーに加え、毎回、多彩な客演を招いた企画性豊かな舞台を展開。得意のナンセンス・コメディのほかに、シチュエーション・コメディ、ダンス・映像・コントなどをミックスしたライブ的作品、女優だけによる西部劇など、多様な作品を発表している。99年に『フローズン・ビーチ』で岸田國士戯曲賞受賞。2002年第1回朝日舞台芸術賞、2002年『室温〜夜の音楽〜』で第5回鶴屋南北戯曲賞および第9回読売演劇大賞優秀演出家賞を受賞。

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小劇場演劇ブーム、インディーズバンドブーム、自主製作映画ブームと、インディーズシーンが活性化した80年代の東京をバックグラウンドに登場した劇作家・演出家のケラリーノ・サンドロヴィッチ(63年生まれ)。ロックバンド有頂天のヴォーカリストおよびインディーズレーベル「ナゴムレコード」のオーナーKERAとして注目を集めるさなかに、「劇団健康」を旗揚げし、ミュージシャンから演劇の道を歩むようになった経歴をもつ。93年からは演劇ユニット「ナイロン100℃」を母体に、同世代の平田オリザ、松尾スズキらとともに日本の現代演劇シーンを牽引してきた。作品を生み出すハイペースぶりもさることながら、シリアスコメディ、評伝劇、SFコメディなど、さまざまな題材を引用しながら紡ぎ出す世界の多様さには目を見張るものがある。作品のベースにあるのは、1960年代東京生まれ、東京育ちの早熟な少年が吸収してきた、映画や音楽、文学に演劇などの幅広くもマニアックなメディア体験。ポストモダンな時代の寵児、ケラの演劇ワールドをたどりながら、その原風景を探るインタビュー。
聞き手:扇田昭彦
1985年の劇団健康旗揚げから今年で25年。ケラさんは劇作家・演出家としてもベテランの域に入り、非常に多彩な新作を次々と発表し、日本の現代演劇の可能性を広げている方だと思います。もともとミュージシャンとして活動していた人が劇作家・演出家になるというのは、あまり例がなかったと思うのですが、まずは劇団結成のきっかけから聞かせてください。
 今も一緒に芝居をやっている犬山イヌコが、当時は僕の音楽仲間でバンドのメイクを手伝ってくれていたんです。音楽をやりながら女優を目指していた彼女のために、文化祭用のコントのようなものを遊びで書いたのがきっかけになって、劇団をやらないかという話になった。ちょうど鴻上尚史さんの第三舞台なんかが話題になり始めた頃。メインストリームではなかったけれど、宮沢章夫さんのラジカル・ガジベリビンバ・システムと、旗揚げしたばかりのワハハ本舗の2大お笑い劇団があって、日本の演劇シーンのある側面を引っ張っていました。かたやスタイリッシュ、かたやベタベタというまったく方向の違う笑いで、僕は両方を観るために2カ月に一度くらいは劇場に通っていて、気持ちはそれなりに演劇のほうに傾いていたんですね。
 そんな時に劇団をやらないかと誘われたので、バンドの観客で客席は埋まるだろうという小ずるい皮算用の下に(笑)、ナゴムレコードという僕がやっていた自主レーベルによるプロデュースという形で劇団の旗揚げ公演をやりました。だからそんなに長く続けるつもりもなかったし、最初の頃は客席もバンドのお客さんがほとんどという状態でした。
ケラリーノ・サンドロヴィッチという日本人らしからぬ芸名の由来は。
 高校時代に演劇部で先輩が付けてくれた名前がケラでして、それが有頂天でのニックネームになっていました。劇団立ち上げ公演のチラシを作るのに何か名前をつけなきゃと、一過性の名前のつもりでケラリーノ・サンドロヴィッチという名前を入れたんです。
 僕はマルクス・ブラザーズが大好きなんですが、役名をつけるときに、例えばグルーチョの演じた役名はドクター・ハッケンブッシュとか、ルーファス・T・フィアフライとかやたらと長くて仰々しい名前が多いでしょ。チコはイタリアなまりが売りなので、チコリーニといった具合になる。多分そのマネをしたんじゃないかと思います。あまり覚えてないんですが。コントをやっているくせに何か仰々しい名前が付いているのが面白いと(笑)。 
マルクス・ブラザーズの名前が出ましたが、ケラさんの場合、映画や音楽や文学など子どもの頃から慣れ親しんできたものが作品のベースになっているように思います。それを知るために、少し子ども時代のお話を伺いたいのですが、お父さんがジャズミュージシャンでいらしたとか。
 ええ。父親がジャズをやっていたというのは大きいと思います。由利徹さんとか森川信さんとか当時の日本のコメディ界を代表するような方々が周りにいて、幼い僕を抱いてくれているエノケンさんの写真もある。そんなジャズが毎日鳴り響いているような生活をしていたのですが、小学生の頃、「大正テレビ寄席」という牧伸二さんがやっていたテレビ番組で小野栄一さんを見たんです。チャップリンの形態模写をひとつの売りにしている方で、僕はそれで初めてチャップリンのことを知った。その直後に「ビバ!チャップリン」というチャップリンのリバイバル連続公開があって、第1弾の『モダン・タイムス』を観に行き、それでドップリはまりました。『エクソシスト』や『燃えよドラゴン』といった当時流行っていた映画とは全く違う世界。声がないしモノクロだし、全編にジャズとクラシックの間みたいな音楽が流れていて、そこで台詞を使わずに笑いを連発する。何か夢の世界のようですべてが魅力的で、ものすごく魅了されました。
それが無声映画との出合いだったんですね。
 次にハマったのがバスター・キートン。ちょうど失われていたはずのネガが見つかって彼の全作品が甦った時で、やはり10何本が連続公開されて大学生を中心に話題を呼んでいました。僕はまだ小学5〜6年でしたが、夏休みなどは1日中映画館にいて見ていました。売店のおばちゃんが僕の顔を覚えてくれて、ラスクをもらってとても嬉しかった。「1日何も食べないで何でこんな所にいるの?」って言われて。
 僕は今でもそうなんですが、チャップリン、キートンとくると、他にどんな人がいたんだろう?と調べずにはいられない性格なんです。で、古本屋に行って昔の映画雑誌を貪るように見たりしているうちに、「チャップリン、キートンとくればハロルド・ロイドなんだな」とわかってくる。そうやってトーキーになったらマルクス兄弟だという感じで、どんどん知識と興味が広がっていった
少年時代に無声映画のフィルムをコレクションしていたというのは本当ですか。
 サイレント・コメディ好きが高じて、輸入代行業を通してアメリカやドイツ、イタリアからマニアックな無声映画のフィルムを買って、コレクションし始めたんです。途中で勝手に親父の定期預金を200万下ろしたりもして、ものすごく怒られた。中学生くらいになると場所を借りて自分で上映会も主催していました。大人が来ると、「お父さんのお手伝いしてるの?」と言われるんで、めんどくさいから「そうです」って(笑)。
その中でもケラさんが好きだったのがバスター・キートンだったそうですね。キートンは今に至ってもケラさんの作風を決定しているようなところがありますね。
 キートンって、計算しているのか、人間性からくるものなのかわかりませんが、媚びない笑いで、クールで悲しい感じがしますよね。チャップリンが無声映画を好きになるきっかけではあったんですが、色んな事を知るにつれ、キートンとマルクス兄弟、つまり、やっていることがヒューマニズムから一番遠いところにあるアナーキーなものに惹かれるようになりました。バスター・キートン、マルクス兄弟、『モンティ・パイソン』の3つがなければ、今のような仕事は、少なくとも継続はしていなかったでしょうね。そこに、30歳を超えた辺りからウッディ・アレンが加わるんですけども。
高校は東京の日本大学鶴ヶ丘高等学校で、演劇部にいらした。ここは高校演劇の名門ですが、どんなものを上演していたのですか。
 顧問の先生の影響で、主にベケット、ピンター、 別役実 、清水邦夫です。あとは安部公房。だから、さっぱりわからなかったです(笑)。でも「これ読んどけ」と言われて読んだ別役さんの本は、読みながら思わず吹き出してしまうくらい面白かった。僕が「くだらない」と言う時は良い意味で言うことが多いんですが、別役さんの本は「いい年してよくこんなくだらないこと考えているな」と思えたんです。ところが実際に舞台を観にいくと、不条理劇風にくら〜く演出してしまうとその“しょうもなさ”がなくなってる。別役作品の不条理さ、すれ違いのおかしさは普通にやった方が表現できるのになあと思いました。
94年にケラさんが演出した別役さんの『病気』は、ラジオのDJで有名な小林克也さんを主役の中年サラリーマンにキャスティングし、変な看護婦にいじられるというナンセンスコメディとして演出されていて、別役作品の上演史を引っ繰り返した印象があります。そういう感じはすでに高校生の頃からもっていたんですね。高校生で演劇をやっていたのに、その後、映画の専門学校に進まれたのはなぜですか。
 日本大学の付属高校だったからそのまま日大に進むつもりだったのですが、そのための統一テストの時期に入院してしまったんです。その矢先に、深夜のラジオで小沢昭一さんがナレーションをしている「大学落ちたら横浜放送映画専門学院!」というCMを聞いたので、じゃあ行こうと(笑)。当時は映画監督の今村昌平さんが学院長でした。パンフレットを取り寄せたら、いきなり「映画で食うのは無理だ。女に食わせてもらえ」とあるようなユニークな学校で、映画の世界は尋常じゃないんだというところから始まりました。
日本映画では、当時のベテランで例えば岡本喜八のような喜劇センスのある監督もいたと思いますが、影響を受けた人はいますか。
 岡本喜八さん、川島雄三さん、中平康さん、市川昆さんの一部の作品など、すごくかっこいいなと思うものもありました。フィルムセンターなどにもよく行っていましたし。たとえば川島雄三だと『貸間あり』とか、『幕末太陽傳』のラストが墓で終わるというところとか。人生の暗部を“泣かせ”ではないところでドライに提示してくるような作家が、かっこいいなと思っていました。
にもかかわらず、映画の世界には進まなかった。
 知れば知るほどネガティブになるようなシステムでしたからね。当時の映画界はまだ、助監督のフォースから叩き上げて、10年間かかってようやく監督になって、撮りたくもないものを撮らされて当たらなかったら次はない、みたいな世界でしたし。僕が興味のある題材も、先輩たちに「邪道だ」「テーマがなきゃダメだ」と言われてしまうような経験があったりして、映画業界に幻滅を感じるようになっていったんです。
 一方で、当時は石井聰亙さんが『爆裂都市』を撮り、手塚眞さんが8ミリで『MOMENT』という作品を撮って若手のホープとして注目されたり、自主制作映画の登竜門としてぴあフィルムフェスティバルが始まったりと自主製作映画の新しい動きがようやく出始めた頃でした。でもそこでニューウェイブとして出て行くのも非常に狭き門で、迷っていた時に、インディーズのバンドが盛り上がってきたんですね。
楽器などはやってたんのですか。
 やってないです。親父がウッドベースやっているのを「うるせえな」と思いつつ見ていたくらい。その頃日本は、シンセサイザーとコンピューターを駆使したテクノポップの黎明期で、その代表であるYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)やパンキッシュなテクノのP-MODEL、グラフィック・デザイナーやスタイリストなんかが結成したプラスチックス、元ミスター・スリム・カンパニーの俳優だった巻上公一がヴォーカリストとして参加するヒカシューなどが出てきていました。パンク・ムーブメントがまずあって、その後、そのパンクな精神をテクノロジーを使って表現していくニューウェイブやテクノのブームが続いた。そこではアートスクール出身の人たちが弾けもしない楽器をもって表現したりしていて、僕もそれにすごく触発されて、自分もバンドをやろうと映画から離れていったんです。バンドは4、5人でパッとできるし、オーディエンスは思いの外みんな喜んでくれるし、気が付くと周りに変な奴らが集まっていて、将来どうするかも考えずにバンド活動をしていました。
そのバンド、有頂天でボーカルを担当されただけでなく、インディーズレーベルを主宰し、メジャーデビューもされた。ケラさんのバンド活動を、お父さんは結構喜んでいらしたんじゃないですか。
 照れ屋だったから直接僕に言うことはありませんでしたが、死んでから親父の友達に「俺より音楽の才能あるかもしれないな」みたいなことを言っていたと聞きました。亡くなったのは僕が27歳の時で、その3年くらい前から、病気であと2〜3年ですと言われていたので、覚悟はしていたんですが…。
お父さんが脳梗塞で入院されて、看病しながら書かれたのが88年の『カラフルメリィでオハヨ〜いつも軽い致命傷の朝〜』です。これはケラさんの劇作の中でも転機になった作品ではないかと思います。ある病院からの脱走劇と痴呆症の老人の話が絡み合うナンセンス・コメディです。「死」がテーマになっていて、悲しみが深い分逆に笑いが増えてしまうという、普通はあり得ないようなことが起こる非常に感動的な作品でした。自分の身近なことを書かれたのは初めてで、その後もあまりないですよね。
 あの時は、書くとしたらあれしかなかったという感じでした。
 『カラフルメリィ〜』以降、自分の中で変わったことというのが確かにあって。僕はアメリカ的な、健康的な笑いというのがあまり好きじゃなくて、イギリス的な自虐的な笑いが好きなんですが。なぜ、そう志向するのか?ということを、自分が生きていくことと関連づけて考えるようになった気がします。
 自虐的な笑いを突き詰めていくと、人生はそんなに楽しいことばかりじゃないけども、それでも生きていく、生まれて来ちゃったんだから、まあやっていこうよ、ということなんじゃないかと思います。あの作品はそういう作風に自分を向かわせたきっかけにはなっていますね。
健康は92年に解散し、93年からはナイロン100℃という演劇ユニットに切り替わるわけですが、それはどうしてですか。
 『カラフルメリィ〜』のようなイレギュラーな作風のものもありましたけど、そうは言っても健康というのは、やっぱりナンセンス系のコメディを専門にやるためのチームだったわけです。目指すはモンティ・パイソンだった。そのことに限界が見えてきたというのがありました。ナンセンスの臨界点に達してしまい、もう、何が可笑しいのかよくわからなくなった。「何も起こらないのが一番可笑しい」みたいな(笑)。役者さんの上手い・下手の基準もそうだと思うんですが、良いもの/悪いものの基準というのはとても多義的なものですから、もう少し視野を広げて、いろんなことをいろんな価値観で認めながらやっていけないか?という思いが個人的にあってナイロン100℃にしました。
 とは言え、1本目は健康時代と似たことをやっていて、2本目の『SLAPSTICKS』で評伝劇&メロドラマをやってから、一気にふっ切れた感があります。舞台の上でできる表現は何でもやっていこうという方向になっていきました。
ナイロン100℃になってからのケラさんは、多い時には年間5〜6本の新作を発表するなど、作品数がすごく増えましたし、作品のタイプも非常に多彩になりました。昔やっていたようなナンセンスコメディに評伝劇、SF喜劇のようなもの、最近では非常にシリアスな悲喜劇といった趣の作品もありました。これだけ間口の広い作家は珍しいですね。
 自分が飽きるのが恐くていろんなことをやっています(笑)。それと、僕は、失敗するのは絶対ナシだと思っているわけではなくて、上手くいくこともいかないこともあるけど、やらないよりは色々やって後で良かったなと思えればそれでいいと思ってるんです。1本の作品をつくり上げるだけの種火が自分の中に点りさえすれば、迷わずそれを作品にしていくという姿勢なので。そうじゃないと多分こんなにたくさんつくれなかったと思います。
作品を作る時に、どういうものにインスパイアされて、それをどう作品化していくのか、そのプロセスを聞かせてください。
 プロセスも何も、ドタバタしているうちに初日が来てしまうんですけど(笑)。例えば最新作の『東京月光魔曲』は、昭和初期の日本の風景を、YouTubeで見たのがきっかけでした。それがカラー映像だったんです。当時日本にはカラーフィルムがなかったですから外国人が日本に来た時に撮った映像で、浅草などの風景が補修も施されてすごくキレイな状態で見られたんですよ。それと、大家になる前の谷崎潤一郎や江戸川乱歩なども書いていた「新青年」という雑誌をまとめて読んだことも刺激になって、太平洋戦争前のエネルギーに満ちあふれた時代の東京を舞台に探偵小説風の群像劇を書いたら面白いんじゃないか、とイメージするようになる。そんなふうに幾つか偶然が揃うとグッと背中を押されるようなところがあって。僕は運命論者じゃないですけど、そうやって作品の材料は自然と揃っていくものだ、と感じています。
2001年にはカフカの評伝劇『カフカズ・ディック』を書いていらして、昨年は『審判』『城』『失踪者』という彼の長編小説3本を元にした芝居『世田谷カフカ』を発表されました。カフカの影響は大きいと思われるのですが、10代の頃から読んでいたのですか?
 ええ、最初はよくわからずに読んでいましたし、『城』なんかは幾度も挫折しましたけど。カフカを読んで残るのは、ストーリーと言うより“情景”みたいなものですよね。例えばもの凄くたくさんの人が裁判所にいるシーンとか、銀行員たちがわき目もふらずにタイプライターを打っているシーン、会社の倉庫で人が鞭打ちされてるシーン。僕は恐いおとぎ話みたいなものが好きだったので、その延長線上で読んでいた気がします。ほかにはマルケスやトーベ・ヤンソンも好きだったし、もちろんグリム兄弟も大好きでした。
 『変身』は短くてわかりやすかったから、そこから例の僕の癖で、この作家は他にどんなものを書いているんだろう?とひと通り読み、調べていくうちに、この人はプロの作家としてはほとんど認められぬまま40歳で死んでいったのか、とか、マックス・ブロートという友達がいたから今のカフカがあるんだな、なんてことがわかってくる。バックボーンというか、人生そのものが謎めいていて、魅力的です、カフカって人は。そこからまた作品にフィードバックしていきました。
 書簡集などを読むと、人間味のあるところもあれば、融通の利かない、わがままなところも一杯あった人のようで、そこが面白いなと思いましたね。
とあるホテルの10周年という設定で、オープン時の宿泊客たちの“10年後”を描いた2003年の『ハルディン・ホテル』や、最終戦争後の世界を生きる兄弟を主人公にした2004年の『消失』などが典型的ですが、ケラさんの作品は、一方に笑いがありながら、世界はどんどん崩壊していくというものが多い。
 「物事が良くなっていく」ということを自分の中であまり期待できないんでしょうね。僕らの子どもの頃には、21世紀は“バラ色の未来”“鉄腕アトム”などのポジティブなイメージがあったのですが、それがだんだん「そうでもないんじゃないか?」となっていった世代。未来が明るいかも、というイメージを提示できたのは、おそらくYMOが最後だったと思うんです。あの時でさえ、みんなこれは半分擬似的なものだと思いながら彼らのテクノポップを聴いていた気がします。それ以降は、もう未来に対してあまり期待しちゃいけないと思うようになった。どちらかというとユートピア的なものよりデストピア的なものに惹かれるのは、そんなところからきているのかもしれません。
 人間関係についても、人間の善意というものが裏目裏目に出ていくという、残酷なシチュエーションを書きたくなることが多いのは、登場人物がそういう事態とどう向き合っていくのかに興味があるから。それは、僕が幼い頃に、人間関係のことで悩んだことが原因なのかもしれませんが。例えばここに僕とAさん、Bさんがいるとしますよね。3人が揃って話すことと、Bさんが居なくなったところでAさんがBさんについて僕に言うことが違ったりする。そんなことがあるとその事態を、関係をどう処理していいかわからなかった。子どもの頃には誰もが感じるような些細なことだと思いますが、僕は多分他の友達よりも悩んでしまう方だったんだと思います。
 そういった経験が何故か忘れられなくて。今でもそういうシチュエーションはギャグとして作品に1回は必ず出てきますね。自分で分析し切れないこと、小さい頃に傷ついたことなどを、ちょっとした小笑いとして処理していくことで、どこか自分を清算しているような気持ちがあります。
作品を拝見していると、登場人物には表のキャラクターと裏のキャラクターがあって、台詞も実は2通りあって、その選択の仕方でストーリーが違ってくるような感じがあります。このシチュエーションでは表キャラを出すからこの台詞になる、みたいな。そういう感覚はあるのでしょうか。
 例えば岩松了さんは「人は思ったことを喋らない」とおっしゃるわけです。台詞というのは相対的なものであって、シェイクスピアの時代のように、自分の思っていることをそのまま口にするわけではないと。それはそうだなと思う反面、僕は案外折衷的に、「でも、それもさじ加減じゃないんだろうか?」と思う。人は、思ってることも口にするし、思ってないことも口にする。色々だ、と(笑)。それが表キャラ・裏キャラといった感じに見えるのかもしれません。
 ただ、役者に演出する時は、「人は思うことを言うとは限らないんだ」ということは強調します。“台詞すなわち感情”だというふうに役者は解釈しがちなので。あるいは、嘘をついているから誤魔化すために言っているんだ、といった具合に極端な解釈をしがちです。「もうちょっとぼんやりした、曖昧なことなんだよ」「なぜ自分がこう言っているのかこの瞬間はわからないでしょ?」というくらいのゆるーいスタンスが、僕には合っているような気がします。
『消失』のように数人しか出てこない作品もありますが、ケラさんが書くものは群像劇が多い。それは意識して書いているということですか。
 群像劇のほうが書きやすいんですね。主人公という発想に抵抗があるんです。ある時間を切り取るときに、誰かに多くの比重を取ることには、何か抵抗がある。幕が下りる時には何らかの結末があるわけですが、その結末ですべてが総括されるというよりは、まだ続くんだという感覚が常にあるんです。変な言い方ですが、登場人物に対して、自分の中でその先の責任を取ってあげながら、一応幕を下ろすというような感覚で書いています。
昨年、高齢者劇団のさいたまゴールド・シアターに書き下ろした『アンドゥ家の一夜』は、教師とその最期に立ち会うために集まった元教え子たちをめぐる群像劇。愚かさがあって、欲望があって、しかも現実的と非現実が一体化した魔術的な世界は、フェリーニ風とも見えました。 蜷川幸雄 さんの演出も素晴らしかったですが、ケラさんの本がとても良くて非常に感動しました。中高年の俳優、しかも42人もの出演者に書き分けるというのは大変なことだったのでは。
 書き分けたという感じが自分にあるのは半分くらいです。実はあれは、本来なら台本が出来ていなければいけない時期にまだ出来てなくて、稽古の様子をDVDで送ってもらい、それを見ながらアテ書きしていったんです。でも、ああいうふうに本当に並列の40何人のメンバーに向けて書くのはすごく楽ですよ。舞台が良かったのは役者さんの力、技術ではない人間力のおかげですよね。
ここ数年の中では、小説家が出てくる2007年の『わが闇』や、時代に対応できなくなった劇作家が出てくる2008年の 『シャープさんフラットさん』 と、物書きを描いた作品がありました。それはご自身とどこか重なる部分があるんですか。
 もちろんあります。よく、書けなくなったら、書けない作家を主人公にする手があるなどと言われていたりしますよね。でも書けないということを書くのは、それこそ「お手上げです」と言っているのと同じだという思いがあって、以前は作家をできるだけ出さないようにしようと思っていたんです。でも単純に、自分とかけ離れた業界の人間を描くよりも、作家という人間を描く方が色々なことがわかると割り切って、恐がらずに書けるようになった。「書けなくなった人を書こう」という発想ではなくて、「自分がもし今のような道を歩まずに、別の道をチョイスしていたら?」という発想で書けないかと思って書いたのが、『シャープさんフラットさん』です。
先ほど未来を明るいと思えない世代という話をされましたが、演劇界では松尾スズキさん、平田オリザさんあたりが同世代にあたるかと思います。同世代の作家に共通の感覚はありますか。
 あると思います。ロックの同時代感覚と同じで、やはり同じ時期につかこうへいさんや寺山修司さんの舞台を見ていたわけですから。
 僕は子どもの頃恵比寿に住んでいて、近所には寺山さんの天井桟敷の劇場があった。中学時代には、よく恵比寿から青山まで明治通りを歩いて、VAN99ホールにつかさんの芝居を観に行ってました。野田秀樹さんは高校時代に駒場小劇場で『二万七千光年の旅』を見たのが最初です。ただいわゆるアングラ演劇については、「何かわからないけどすごい」とは思っても、「自分もやりたい」とは思わなかった。「俺はこれじゃない」という感じがありました。
 その後に出会ったラジカル・ガジベリビンバ・システムは完全にライブ版『モンティ・パイソン』だった。これに感化された僕と松尾スズキさんには、やはり共通の感覚があると思います。ただし、片やサラリーマンを辞めて福岡から東京に出て来た、コンプレックスの固まりのような屈折した人間で、片や小さい頃から観たいものは何でも観られた東京の人間。彼はその逆境をバネにしてものをつくってるのに、僕にはその逆境がない。「この人はかつての自分の人生を全部作品にできるんだなあ」と羨ましかった。「そのコンプレックスは俺にはないよ」と。まあ江戸っ子には江戸っ子なりのやり方しかないわけだから、それでやっていくしかないんだなと思いつつ…それでも松尾さんとはお互いに出来不出来がありながらも、その気持ちはわかる、という共通の感覚はありますよね。最も信じられる作家であり続けています。
二人の同時代感覚というのは言葉にするとどういうことだと思いますか。
 それを最初に体現したのは「静かな演劇」といわれる平田オリザさんなんですが、演劇に対してのある種の恥ずかしさ、羞恥心があるということだと思います。松尾さんも、「恥ずかしがらずに舞台に立っている人は信じられない」というようなことを言っています。たとえば野田さんは、(言葉遊びや舞台を走り回る)あの疾走感で恥ずかしさを乗り越えたと思うのですが、僕らにはあれはできない。頭でっかちで、センスと発想勝負で書いている僕らは、「ちゃんと(自分を)わきまえていますよ」というところから演劇に入っていくしかなかったんですよね。62〜63年生まれくらいには多分そういう共通認識があると思います。
その羞恥心は芝居を作るときには、具体的にどんな意識になっていくんでしょうか。
 僕の場合は、例えばお芝居だからといって、ちょっと斜めに構えて立つみたいな入り方をするのはやめようよというようなことから始まっています。言葉を大切にしたいので、動かないでいいところは極力動かない。無駄に動いたり、無駄に観客にサービスしないという意識が、それができていたかどうかは別にして、芝居を始めた当初から自分の中にはありました。
お話をうかがっていると、ケラさんの原風景は基本的にメディア体験ですよね。しかも非常に早熟で、幅広いメディアのかなり古いところから新しいものまでを吸収している。その原風景をリソースとして演劇に反映させているところに、ケラさんの独特の立ち位置があるような気がします。
 実は、僕は5歳まで喘息だったんです。1歳の頃はもうダメだと言われて、それを生き延びたらしい。人よりも早熟だと言われるのは、5歳まで動けなかったからだと思います。周りの子どもたちが外でボール遊びをしたり、プラモデルやサッカーゲームで遊んでいる時にも、僕はずっと家で寝込んでいるから、テレビと音楽と本だけが“世界”だった。この時期に運動神経が養われなかったから、小学生になってもまた本や映画にのめりこんでいったんです。だからその集中力たるや、自分で言うのもなんですが、何かもの凄いものがありました。この頃に吸収したものは、いま芝居を作る上で非常に大きな影響を与えていると思います。

NYLON100℃ 34thSESSION
『世田谷カフカ』〜フランツ・カフカ「審判」「城」「失踪者」を草案とする〜」

(2009年9月28日〜10月12日/本多劇場)
脚本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
撮影:引地信彦

NYLON100℃ 32nd SESSION 15years Anniversary
ダブルキャスト2本立て興行
『シャープさんフラットさん』

『シャープさんフラットさん』
ブラックチーム(上)
ホワイトチーム(下)
脚本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
(2008年9月〜10月/本多劇場)
撮影:引地信彦