ノイズのない若い俳優たちと船出したネクスト・シアター
- 蜷川さんが彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督になられたのが2006年。その年に中高年を対象にしたゴールド・シアターがスタートし、若い俳優を中心としたネクスト・シアターが今年からスタートしたわけですが、芸術監督になられた当初からそういう構想だったのでしょうか。
- ゴールド・シアターはありましたが、ネクスト・シアターはなかったですね。これまで若い俳優とは自分が主宰するニナガワ・スタジオでやってきたのですが、最近はあまり活動しなくなっていたので、それにたいするフラストレーションがあったのかもしれません。
- ニナガワ・スタジオはGEKI-SYA NINAGAWA STUDIOとして84年にスタートしましたが、現在はどのようになっていますか。
- スタジオの存在自体は残してあります。ただ稽古場として借りていたベニサン・ピットの建物が老朽化で取り壊しになったため、場所がなくなった。稽古場があるときはみんなでエチュードをやりながら、作品をつくって発表してきたけど、それができなくなった。エチュードをやらなくなるとダメなんですよね。それで、ニナガワ・スタジオは名前としては残しておいて、別にネクスト・シアターをつくるからオーディションを受けたい人は来ればいいと言いました。僕の中では、あくまでスタジオとネクストは別々の活動ということです。
- ゴールド・シアターは55歳以上の劇団としてメンバーを固定化していますが、ネクスト・シアターについてはどういう方針ですか。公演毎にオーディションを行うプロダクションで運営されるのですか。
- まだはっきりはしていませんが、やがて固定化してくるかもしれません。若い人の組織感覚というものも見てみたいという気持ちもあるので。作品をやると、役がそれぞれ付いていく、あるいは付かない人も出てくる。それでもなお、僕を中心とした集団に関心があるなら、維持できるだろうし、そうなったら何らかの方法を考えなくてはいけない。今はまだ無給ですが、作品がおもしろいと言われるようになったら、県から補助が出るようになるかもしれないし。そういう声が上がるまでに、3年はかかると思います。(高齢者は生活費の心配をしなくていいですが)ネクスト・シアターを集団化するには、俳優に固定給が出るようにならないと続かない。
- 公演はどのぐらいやる予定ですか。
- 年に2、3本やれればと思っています。ゴールド・シアターを入れたら年4本になるから、今の僕のスケジュールを考えるとかなり厳しい。最初は自分でやって、緩やかに若い新しい演出家にバトンタッチしていければ…。
- 若い俳優たちをどういう基準で選んだのですか。今回のオーディションの参加者にはいろいろな大学で演劇を学んでいた人が多かったと聞いていますが。
- 基本的には、台詞がきちんと喋れることと自然に動けること、もうひとつは「ノイズが多い」ことを基準にした。野生をもった、動物的な若者を探したかった。でも、スクエアな俳優が多いんです。姿勢は良い。皮膚はツルツル。清く正しく喋る。これがすべてでおもしろくない。一切、ノイズがない。台詞を明確に喋れるということも大事だけれど、意味もなく明晰というのは不愉快です。内的に何かを抱えこんでいて、それが言葉に表れなければ意味がないけど、そういう俳優は実に少ないですね。僕の関心としては、余計なことをしないで演技によって語らせたいと思っているんだけど、どうなるか、これからです。
- 俳優たちの性質が以前と比べて違ってきているということですか。
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違いますね。ニナガワ・スタジオをつくった頃にはもっとノイズがある俳優がいた。かつての蟹江敬三や石橋蓮司がそうだったように、彼らは決して優等生じゃない。はみ出る、迷惑なことをする、僕(演出家)の邪魔をする(笑)。人と違うことをやりたいと思っている連中が多かった。でも、今の若者たちは本当にナイーブだし、穏やかですよ。
ブレヒト劇を日本的に血肉化した『真田風雲録』を再評価
- ネクスト・シアターの1回目の作品に選ばれたのが、福田善之さんの『真田風雲録』です。これは1962年に千田是也さんの演出で初演された現代演劇史に残る画期的な作品として知られています。江戸幕府が豊臣宗家を滅ぼした大坂冬の陣と夏の陣を舞台に、真田幸村と真田十勇士の活躍と挫折を描いた歌入りの娯楽劇ですが、当時の学生運動や安保闘争で揺れた日本の状況が巧みに盛り込まれた政治劇でもあります。あえてこの作品を選ばれた理由は何ですか。
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新劇がブレヒト的なものを日本人の感性、身体で血肉化しようとしたときに、最初の実践者となったのが福田善之さんだった。現場の演劇人が初めてつくり上げた“日本的な異化効果”をもった演劇、それが福田さんの演劇だった。その後に登場する(小劇場演劇の)唐十郎や鈴木忠志によって、福田さんは一挙に飛び越されてしまうけれど、福田善之という人がいなければ、彼らの登場も準備されなかったと思います。それほど福田さんがやっていた仕事というのは大変なものだったし、歴史的な意味がある。
福田さんは、民話劇をやっていたぶどうの会にも書き下ろしていたし、『長い墓標の列』といったリアリズム演劇も書いているけれど、大衆演劇も含めて演劇の見直しを行う中で、民衆劇の視点を入れながら、ブレヒトの芝居のようにちゃんと異化効果を内在させた戯曲を書こうとした。俳優座の千田是也さんや小沢栄太郎さんが演出したブレヒト劇も上手いけれど、どこかで翻訳劇のにおいがしていた。福田さんはそれを自分でちゃんと咀しゃくして、日本人の身体を使って恥ずかしくない演劇にした。
福田さんはやがて大衆演劇の沢竜二さんと一緒に仕事をするのですが、それは、日本の近代劇が置き忘れてきた前近代的な演劇も含めて集約しようとしたからだと思います。その評価があまりにもなされていないので、僕がちゃんとやろうと思ったんです。若者たちに『真田風雲録』をテキストとして与えて、演技の問題で言えば、リアリズムの演技と異化効果を含んだ演技の両方なきゃいけないということや、その2つを併せもつと現代的演技のある大半をカバーすることができるということ。その2つを教育しようと思っています。 - この作品は歴史的な出来事と60年安保闘争が重ね合わされていますが、今の若い世代はそのことを両方とも知らないと思います。
- 僕としては、政治闘争の問題をあまり強調しないで演出し、若者たちに接しようとしている。政治闘争を表に出すと若者にはわからないことだらけになってくるから。ただ、現実にこの作品の背景には学生たちの異議申し立ても含めた日本の新左翼の運動が中心にあるのは間違いないので、世界的な学生たちの反乱の動きも含めて徐々に喋っています。
- 福田さんの作品には『真田風雲録』以外にも50年代、60年代に書かれたすごく良い作品があります。
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『袴垂れはどこだ』とか『長い墓標の列』とか、いい作品だなと思います。福田さん以外にも、木下順二が1951年に書いた『蛙昇天』には衝撃を受けました。終戦にまつわる実際の政治裁判で起こった事件をカエルの世界に置き換えた戯曲で、証人喚問に呼ばれたまじめな青年が自殺しちゃう。その異様な芝居に衝撃を受けた。僕は、三越劇場でやった初演を見ましたが、山本安英が「戦争はいやだ」って客席を走るんです。「こんな芝居みたことない」ってビックリした。僕の芝居で客席をよく使うのは、ひょっとするとこの影響かもしれない(笑)。芝居ってこんなに生々しいものなんだと、初めて生々しい感動を受けた。
読み直してみないとわからないけれど、三好十郎さんや秋元松代さんの作品など、従来の新劇でありながらその革新性のせいで新劇から正しく評価されていない劇作家の作品はやっていいんじゃないかと思う。若い世代が自分たちの世代の“リアル”というものを追求するのは十分わかるけれど、そうじゃない戯曲の存在というものを、もうちょっと身を以て知ったほうが、いずれ自分たちの世代の演劇をつくるにしても意味がある。 - そういった蜷川さんに影響を与えたような、新劇の先鋭的なテキストをネクスト・シアターのプログラムにしていく。
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ええ。歳をとった人がやっても意味がなくて、若者たちがテキストの読み直しをやったらいいと思うんですよ。演劇としての読み直しも含めて、文化の流れとしての読み直しをちゃんとやったらいいと思うんです。
だけど、そのことを彼らにわからせるというのは至難の業。もう、外国の戯曲をやるようなものだから、テキストにどうアプローチしていいのかという読む態度もわからなければ、そこに書かれている習慣も知らない。そんなことはすっ飛ばして、お笑いの演劇をつくっているほうがずっとやさしい。彼らには、身体が何かを描写できるということは、マイナスなことはひとつもないんだから、それだけはやれよ、と言いたい。 - 今度の『真田風雲録』は、大ホールの舞台上にステージを組んで上演しますが、どうしてこういうやり方にしたのですか。彩の国さいたま芸術劇場には小ホールもありますよね。
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小ホールではちょっと空間が大きい。もうちょっと一体感をもてる、身体だけでものをつくれる、小さな劇場をつくって俳優たちを教育したかった。
民衆史としてのリアルを求めて船出したゴールド・シアター
- ゴールド・シアターの話をうかがいます。中高年を中心とする、プロフェッショナルを目指す劇団というのは、どういうところから発想が生まれたのですか。
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若い頃から、僕は自分で演出しているときにある種の「怯え」があったんです。それは何かというと、思っていることも口にしないで、普通に生活してきた老人たちが、僕の芝居を観たときに、その人たちの生活史に僕の芝居は耐えられるんだろうか?ということ。老人やもの言わぬ人たちが、僕たちの芝居を観たときに、「学校に行って勉強した連中がつくっているものは薄っぺらい」と思われるんじゃないか。そういう不安がものすごくありました。
その象徴として時々言っている例え話が、「こまどり姉妹(どん底からはい上がった昭和30年代に一世を風靡した双子の演歌歌手)が舞台を通ったら、僕たちの芝居は凍りつくだろう」ということです。ハムレットが「To be or Not to be」って言ったときに、こまどり姉妹が登場する芝居をつくったらどうなるか、と一瞬本気で考えたぐらい。翻訳劇をやっている真っ最中に、こまどり姉妹がベンベンベンと三味線を弾きながら振り袖姿で横切ったら、僕たちの舞台なんかぶっ飛んじゃうんじゃないか。つまり、こまどり姉妹に象徴されるような「民衆史」を目の前にすると、俺たちがつくろうとしたヨーロッパから学んだ演劇なんか一瞬にして凍りつくだろうと思った。そのコンプレックスがあって、こまどり姉妹じゃないけど、僕にとっては同じ意味をもつ老人と一緒に演劇をつくろうとゴールド・シアターを始めた。
実際、老人(民衆史)という対極から相対化して見ると、僕が演出してつくっている舞台なんて大したことないなあと。だから彼らとは素人の余興としての演劇をやっているのではなく、リアルの体系が違う老人たち──忘れるとか、身体が動かないとか、台詞が滑らかに言えないとか──と演劇をつくると、僕らがつくってきた演劇的リアルと違うリアルというものが現れてくるんじゃないか。それが自分のやってきた仕事を撃つんじゃないか、と思って真剣にやっている。 - ポーランドの前衛演劇人タデウシュ・カントールが主宰していた、老人ばかりの劇団クリコット2のことは意識していましたか。1982年に日本で『死の教室』を上演しています。蜷川さんはご覧になりましたか。
- 観ました。それなりの衝撃を受けましたから、イメージはありました。ヨーロッパにおける前衛というもののあり方は、これをやるのか、青臭くないんだと思った。観念だけで何かを操作していないから、相対的に人間を見ながら、違った角度で、例えば『死の教室』では、老人たちが自分たちの子ども時代の学校の話をやるわけでしょ。その知的な深さというものに衝撃を受けた。カントールとは違う形で何ができるか、です。変形だと寺山修司になるし。
- 2006年にゴールド・シアターを立ち上げて3年目ですが、蜷川さんの思っていることはどれくらいできていますか。
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例えば遠山さんというオジサンがいるのですが、その人を見ていると、普通の職業的な俳優ではできない演技力があるわけです。声といい、やっている仕草といい、喋り方や間も、職業的俳優が及びもつかない、それとは全く別の体系の演技というものがある。それに意味があるのはわかった。
ゴールド・シアターは、人間の老いというものを抱えているわけです。記憶が一定ではない。覚えられない。昨日できたことが今日できるとは限らない。で、昨日できなかったことが今日できることがある。そうすると、老いの人生を全部抱えるという風なつくり方をしなければいけない。何かを切り取るんじゃなくて、全部抱えて、誰かが今日台詞を忘れても大丈夫なようにつくっていかなきゃいけない。そうすると演出家は普通、客席にいるもんだけどそんなこと言っていられない。舞台に出て行って、穴が開いた所を埋めなきゃいけない。つまり、やっているのは、いわゆる芸術的完成ではなくて、「老い」というものを見せるということも含めて、全部演劇なんだということです。
忘れる、突然思い出す、表現が一定しない…年寄りに起こることは、そのまま舞台で起こることだと考えて、何が起こってもいいようにあらゆる手当をしている。74歳の人生に起こることは何でも受け入れる体制で、芝居をお客さんの前にもっていく。そのことを許容されない限り、その芝居は演劇と呼べないわけです。そうすることによって、芝居の領域というものが、ああ、これも演劇に入れていいんだ、あるいはそれを見ることによって、人生の発見に繋がるという舞台に、この間のお芝居(『アンドゥ家の一夜』作・ ケラリーノ・サンドロヴィッチ )はなったと思う。 - プロの老優より良い部分がけっこうあるんですよね。その人の生き方とか、存在感が舞台に出てきて魅了されてしまう。
- 何かあるんですよね。特攻隊から生き残って還ってきた人が芝居の方が緊張するっていうんだから(笑)。人生経験で言えば、僕よりはるかにいろんなことを経験している人の必死さ、違う次元の必死さが楽しいんですね。それと、芝居をやっているとみんなが若返っていく。何しろ、舞台はおもしろいと。何かをつくって人の目にさらされるというのが面白くて、活き活きしてくる、そういうことも含めて、ああ、やっぱり演劇だと考えていいんだなあと思うわけです。
- 蜷川さんが彩の国さいたま芸術劇場という公立劇場の芸術監督になったことが、ゴールド・シアターやネクスト・シアターが出来た基盤になっていると思います。民間ではなかなかできない仕事ですよね。
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そうですね。公共の事業なので、集団がどういう風に着地するんだということを、数字も含めて出さなきゃいけないんだろうけど、それを少し猶予をもちながらやりながら考えるということを埼玉は認めてくれたし、公共の劇場だからその猶予がもてる。その成果によって、お客さんがやっていることを支持してくれて、もっとこの人たちを支援してほしいという声が上がるようになったら、必要だったら予算を増やしてくれるかもしれない。
公共の劇場というのは、初めから幾らの予算で何々が欲しい、給料は幾らで、というやり方じゃないほうがいい。活動の実態を示しながら、その成果に見合った支援のあり方を、県なり劇場が誠実に考えてくれる関係があればいい。我々は、ムダなお金を使わないとか、全能力をそこに傾けながら、観てくれた人に説得力のあることを積み重ねていくから、それを誠実に見て、予算を付けたり、さまざまな支援をしてほしい、というのが僕自身の基本的な考え方です。
2008年に上演された『95kgと97kgのあいだ』で多くの若い俳優と出会ったことに触発されたのがきっかけ。今回の『真田風雲録』のキャストを選考する公募オーディションには1,200人を超える応募があり、最終的に男27名、女17名の44名が合格した。今後も継続的に若手俳優の育成を目的とした新作公演を行う。