- 青木さんは、演劇集団「円」の研究所のご出身です。小劇場系の劇団は学生時代に仲間を集めて結成することが多いですが、円のような新劇の劇団の研究所に籍をおいたことがあるというのはユニークだと思います。
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そもそもからお話すると、演劇をはじめたのは高校生の時からです。ただ男子校の演劇部だったので、演劇が好きで在籍しているのは僕だけで、残りのメンバーは鍵の掛かる部室が持てるから入ったとか、そういう不純な動機の連中ばっかりでした。大学の附属高校だったのでそのまま大学まで行けたのですが、その大学は演劇があまり盛んではなかったため、演劇をやるには早稲田大学か、明治大学だろうと受験して、明治に入りました。
ところが、明治大学の学生劇団として生まれた第三エロチカが独り立ちしたばかりの時期で、いい俳優は全部そっちに持っていかれて人材が乏しかった。仕方なく先輩に誘われて映画研究部に入ったのですが、芝居をやりたがってるやつがいるからお前役者で出てみないかと誘われ――その演出家がいま文学座で活躍している松本佑子さんだったんですけど――その時知り合ったメンバーと、その後、僕が作・演出して1本上演しました。
そしたらこれが非常に稚拙というか、全然ダメで。同年代の人間と組んでやったのでは限界が見える気がして、さまざまな年齢層の人がいる劇団に入って、どうやって舞台を作るのかを一から勉強し直そうと考え、大学3年の時に入団試験を受けました。 - 入団試験を受けたのは円だけですか?
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実は、演出家の
蜷川幸雄
さんが若い俳優と立ち上げた「ニナガワスタジオ」も受けたんですが、落ちたんです。もの凄く緊張しちゃって、あらかじめ渡された戯曲の抜粋を、自分なりの仕方で組み立てて喋るテストでしたが、セリフが全部飛んじゃった。必死で思い出して演ったらすごくゆっくりになり、蜷川さんに「そんなゆっくりやってたら、みんな寝るんだよ、バカ。帰れ」って言われて(笑)。
円の入団試験の時は、あれほど緊張することはもう二度とないだろうというニナガワスタジオでの経験のおかげで、まるで緊張することなくうまくいきました。 - なぜ「円」を選ばれたのですか。
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劇団内にいろいろなタイプの演出家がいたし、やっている作品の傾向もバラバラだったんですね、ちょうど僕が受験を考えていた年は、小劇場出身の人気作家だったつかこうへいもやれば、無言劇の太田省吾やシェイクスピアもやる、ラシーヌもある、これだけメチャクチャだと僕の付け入る隙もあるだろうと思いました。
既成の小劇場に入ろうと思わなかったのは、日本の小劇場は作家が演出家を兼ねて劇団を主宰するという独特のスタイルがあるじゃないですか。入団して、僕も作・演出やりたいですって言ってもやらせてもらえないだろうと思ったものですから。 - 新劇団のような職業劇団には文芸部・演出部というのがあると思いますが、その研究所ではどのような勉強をしているのですか?
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他の劇団のことは知らないですが、円の研究所には、特別なカリキュラムや勉強はなかったですよ。最初半年間は、俳優たちと一緒に声を出すトレーニングなどをしましたが、その後はもうすぐに本公演の舞台監督助手のような形で大道具・小道具の制作を手伝いました。研究生が行う公演のスタッフもやっていたので、道具を叩いて(つくって)、稽古につきあって、また叩いて、仲間と飲みに行って、気がついたら午前3時。朝の7時半には自主練習をやる研究生のために稽古場の鍵を開けに行く‥‥。もう稽古場に住んでいるようなものです(笑)。
ですから、劇作も演出もほとんど独学なんですが、ただ、円に佐久間崇というチェーホフに造詣の深い演出家の方がいらっしゃって、佐久間さんには教えられたところがたくさんあります。例えば、「舞台に出ていない人物が、舞台の外で何をしているかということを絶えず考えろ」って仰っていたことは、今でもずいぶん役に立っています。 - 職業劇団の研究所にも演出家養成のカリキュラムがないとしたら、日本の演出家はどんなふうに育っているのでしょうね。
- それがかなり問題だと、僕は思っています。学ぶことがないわけですから、自分が勝手にこれは新しいと創案したことが、たまたま他人にも新しいと思われて頭角を表すしかない。下手したらその時代の社会現象と偶然に一致してヒットしたとか、そんなことから出てくることになるわけですから。
- グリング旗揚げの経緯は?
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もともと作・演出家志望だったのですが、円の研究所に入って2年目に役者になりたくて俳優部に転部しちゃったんです。4年目の劇団に残れるかどうかの査定で撥ねられた時には、役者になりたい気持ちでいっぱいになっていたので行き場を失って、誘われるままに、しばらくはあちこちの公演に出演させてもらっていました。
でも、もともと作・演出家志望ですから、どこへ行っても生意気なことを言うわけです。演出家にむかって「その動きは違うよね」とか(笑)。僕の劇団にこういう役者がいたらまず最初に一緒にやりたくないって思うタイプ(笑)。だんだん誰も使ってくれなくなって、円の先輩で演出家の宋英徳さんにも「そんなにあれこれいうなら自分でやれば」とか言われ、それじゃあと思って劇場を借りることにしてしまった。その辺まででボヤボヤと30歳になっていました。 - 先に劇場を押さえてから、グリングを作ったんですか?
- そうなんです。グリングは初め円の時の同期などに声をかけて、スケジュールがあいている人を集めて公演をやるというセルフプロデュースのスタイルでしたから。お金がなくて、3回公演までは僕が塾の講師などで必死に稼いで続けました。お客さんの受けもそれなりによかったので、「もしこのまま続ける気があるなら、みんなで公演資金の積み立てをしよう」と申し出て、今に至ります。
- 旗揚げ当時から、リアリズムタッチで、複数の人物たちがテンポのいい会話を交わしながら、複数のエピソードをからみ合わせて進行する、現在のような作風だったのですか?
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実は、僕は、野田秀樹さんの「贋作桜の森の満開の下」を見てショックを受け、野田さんみたいな作品に憧れていたのですが全然書けなくて、プレッシャーのあまり過呼吸になった(笑)。書いたら八百枚くらいになっちゃって、でもまるでなってなくて、だけどその中で塾の先生が与太話している3ページぐらいだけは自分でも楽しく書けたんですね。宋さんが読んで「野田秀樹みたいなのをやりたいって言うけど、あんたはそういう作家じゃない。与太話のほうが面白そうだよ」って言われた。結局、第1回の公演は、合格祝賀会の余興を何かやろうと話し合っている塾の先生たちの物語になりました。
- 野田演劇と現在のグリングでは、動と静の意味でも、幻想性とリアリズムタッチの点でも、真逆ですよね。
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それについては自己分析してみたことがあります。野田さんの演劇を見ていると、野田さん自身が高校時代に陸上部だったこととも関係があると思いますが、「人よりも速く走ることが美しい」と思ってるなとつくづく感じるんです。だから文章も走っているし、走りながらじゃないとこのセリフは出てこない。人によってそれぞれ立脚しているところが違うとすれば、僕にとってそれは何かと考えたとき、僕の場合は「定点観測」なんじゃないかと思いました。
僕の実家は横須賀で三代にわたり、総菜とお弁当の店をやっていました。店番をやらされていると、パートのおばさんとか、近所の人たちが入れ替わり立ち替わり出入りしては、「あそこの喫茶店のオジサン、店たたんだあと強盗になっちゃったらしいよ」とか、結構とんでもないことをサラッと言ったりする。そういう、どうでもいい話と同じ調子で一大事を喋るという風景は、僕の中にはいくらでもストックがあり、それがたぶん原風景でもあると思うんです。だから、そういう設定だと、言葉がどんどん出てくる。ああ僕の演劇はそっちなんだなと思いました。
それと、最初に押さえたのがけっこう大きな劇場で、止まったまま会話をさせていると、それこそ蜷川さんではありませんが(笑)、お客は寝るはずなので、なんとか動かそうとしたら、頻繁に出入りさせるしかなかった。そういう必要に迫られて7、8人の役者を動かしつついくつかの挿話をからませて展開する書き方になったところがあります。原体験とこの書き方がマッチして、今の作風が生まれたように思います。
それに僕は割と飽きっぽいので、一本のお話がずうっと繋がっていくと、書くのも見るのも飽きちゃうんです。でもこのままでいいのかな、ということがあって、一度、二人芝居を書いてみたいとは思っています。ひとつの話を二転三転させながら二人の役者で進めていく。劇作家の岩松了さんにも、「強烈な対立項がないと、二人で1時間半の戯曲は書けないから、そういう作業は経験した方がいい」とアドバイスされています。
- 伺ったところによると、書いていて行き詰まると、冒頭に戻ってまた新たに書き始めるという変わった書き方をされるとか。
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どこへ行き着くかは分からないけど、大まかなプロットはまず考えます。三つか四つの話が同時に転がっていくことと、この場面からスタートして中盤でこうなるけどくらいまでは想定して、後は自分でも結末が分からないままで書き始めます。エピソードをどの順番で語ってゆけば、人をどんな風に動かせば、中盤のこの展開までたどり着けるかを考えながら、少しずつ執筆を進めます。行き詰まると、冒頭のセリフに戻って一行ずつ、どこで止まるんだろうと検証していく。ああなってこうなってと、えんえん自己問答を繰り返す。やっとここが問題点だというセリフが見つかると、ノートパソコンで書いていますが、そこからあとを消してファイル名を更新して新しく書き進める。第2稿、3稿と増えていって、だいたい40稿くらいでいつも書き終わる感じです。30から40の間です、いつも。30越えるとああそろそろ終わるなって実感してきます。だいたい、前半の一時間を書き終わるのに一ヶ月半、残りを2日で書き上げるみたいな感じですね。
- たとえば、プロットの段階で、エピソードや登場人物を書きしるしたカードを作り、並べ替えながら流れを作って、全体が見えてから実際に書き始めるのではダメですか。
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やってみたことはありますが、最初に頭で考えた通りにしか進まないのでつまらなくなるんです。あんまり突き抜けたという感じがしなくて、書いていてもつまらないし、作品もしぼんじゃう。どうなるか分からないで書いていた方が自分でもわくわくするし、楽しいんです。
- 今までに青木さんは、つぶれかかった動物園とか、修学旅行中の宿屋とか、ストリップ劇場の楽屋とか、理髪店とかを背景にした芝居をお書きになっています。青木さんにとって、演劇にしやすい魅力的な「場所」というものがあるんでしょうか。
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ありますね。ひとつは、劇作家で演出家の平田オリザさんがおっしゃっていた「セミ・パブリック」と名づけられたような場所ですね。個室になっちゃうと、人の出入りが難しいですから、半分公共の場であり、半分プライベートでもあるような場所は、やっぱり書きやすいです。
それと僕の場合は、そのすぐそばに僕が本当に書きたい場所があるような空間になっていると思います。たとえば、旗揚げの作品でいうと、「塾の隣にある空き地」という設定でした。生徒や先生が集まっているのは塾だし、母親たちがクレームを付けに行くのも塾であって、大きな出来事はみんな塾の中で起きている。そして、その隣にある空き地で余興の稽古をしているわけです。重大な会議は塾の中で行われていて、そこに加わりたくない人が空き地で陰口を言ったり、そういうチマチマした風景が展開されていく。ストリップ劇場の時も、一番書きたかったのは舞台で起きていることや、水戸の原発事故をモチーフに取り入れた作品でしたから、原発を抱えた町の人々の空気感みたいなものだったのですが、それらがひとつところに吹き寄せられる場所として「楽屋」が一番よかったわけです。物事の中心からちょっとだけ外れた場所、完全にではなくちょっとだけはずれたところというのが魅力的です。
- 常に役者にあて書きして書かれるんですよね。
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そうです。僕自身が役者になりたかったということもあって、その役者さんが素敵に見える芝居にしたい。それは、その役者さんの個性をそのままを延長したり、拡大するというのではなく、この人にこんなことをいわせたら面白いだろうとか、あんなことをさせたら面白いだろうな、という形でのあて書きですけど。
- どの作品にも、書くときの参考にするネタ本があるらしいですね。
- そうですね、毎回ありますね。それだけ自分には物語性がないのかもしれませんねえ(笑)。新しいものなんか作れないという諦めがあるんだと思いますが。今回の『虹』でいうと、イプセンの『幽霊』を土台にしました。あれは梅毒の話だったから、現代でいえばHIVかなと。 『海賊』 っていう作品は、『欲望という名の電車』を男主人公でやったらどうなるんだろうと考えたものですし、文学座のアトリエに書いた 『エスペラント』 は久保田万太郎の『大寺学校』でした。ネタ本が近代劇になるのは、純粋に人物たちの関係性だけを取り出して、再構成できるからというのが大きいです。
- 登場人物たちは、常になんらかの「わだかまり」みたいなものを抱えて舞台に出入りしているように思います。青木さんが描きたいのはどんな種類の「わだかまり」なのですか。
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やっぱり、マイノリティなものを書きたいっていうのはありますね。マイノリティの側から見たら、世間の「普通」はそれほど普通じゃないぞというか。多数派じゃない人たちの世界の見え方みたいなものを書きたいと思っています。
- 不思議なのは、マイノリティな人々の抱えた「わだかまり」は、決して解決しませんよね。解決していないのに、ささやかな希望じみたものが見えて幕がおります。
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それは僕にとってはとても嬉しいご感想なのですが、たぶん僕が持っている世界観がそうなんだという気がします。そういう風に世の中を見てしまっている。つまり、たとえば僕自身が抱えちゃっている悩みにしても、現実にはほとんど解消されることはないですよね。ある日、完璧に解消されるなんてことはあり得ない。それを逆のほうから言うと、原風景の人がたくさん出入りする場所に座って世界を眺めながら、それでもこの人と出会ってこんな話をできたのがちょっとだけ気持ちよかったなという感慨があるわけで、それがとても大切なことだと思っているんです。悩みは果てしなく続くけれど、こんな人と今日は会えたというのが支えになっていくはずだと。
- 若い劇作家の割には、「新劇風」な書き手だといわれることが多いと思うのですが、ご自分ではどう感じていらっしゃいますか。
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それはたぶん、分かりやすい設定の作品ですし、役者に一人一役がちゃんと振られていて、会話劇で進んでいくからそう思われているんじゃないかと思います。でも、自分ではそういうことではなくて、小さいケレンを思いついたときに、ああこの芝居は書けるなと思うんです。今回の『虹』という作品でいうと、本水の雨を降らそうとか、ラストシーンで教会のステンドグラスに日があたって虹のように見えるとか、そうなるとうっとりするんじゃないか(笑)、と。蜷川さんみたいに大量の水とか、大量の花びらをバァーッと降らせることはできませんが。なにしろ、リアルな口語体で進んでいく芝居ですから、最後にいきなり派手なことやろうってもそうはいかない。『イノセント』っていう芝居をやったときに、最後に桜の花びらを降らそうとしたんですが、どう考えても遠くのほうにチラチラとしか降らせられない。静かな芝居なもので(笑)。
- そもそもなぜ、青木さんの芝居は静かな芝居なんですか。
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なぜなんですかねえ。結婚したときに挨拶まわりにいったんですが、そうすると僕の親戚だけで四十軒ぐらいあって、どこへ行っても、みんなとにかくしゃべり続けるんです。そういう親戚が胎内記憶にあるものだから(笑)、大きな声で立派なことをいうよりは、普通に喋るというのが体に宿ってるんでしょうね。ただ最近、口語演劇が保守化していると言われることについては、僕も危機感は覚えています。つまり、今あるものを分かりやすい形で提供することで果たしていいんだろうか、と。
だけど、第3回公演で自衛隊の引っ越しの話を書いた時に、自分には今書いているみたいな芝居しか書けないと思ったのと同時に、それでいいのかもしれないと納得したことがあります。登場人物に小説を書きたいけどうまく書けないという娘が出てくるんですが、彼女は大きな物語を書きたいんだけど思いつかないんですね。そのうち身のまわりの小さなことをあれこれ見聞きしていくうちに、この程度の小さなことしか私には書けないかもしれないって気づいていく。これは露骨に僕自身の感慨なんですが、その時に思ったのは、細部をトコトン極めれば、その裏にある大きなものが見えてくるかもしれないということ。そうしたら大きな物語を届けたのと同じなんじゃないかと。
- 今回第10回公演で紀伊国屋ホールに進出されました。青木さんの芝居に人気があるのはなぜだとお考えですか。
- 本当にそうなのか、自分では疑問をもっていますけど。メディアでもいろいろ取り上げていただいて、名前はそれなりに知られてきたのかなあという感じはしています。もし、本当に僕が受け入れられてるんだとしたら、さっき言った「細部を極める」みたいなことが、ああここは丁寧に作ってあるなと客席に伝わっているからではないかと思います。後は、弁当屋三代目ということがあるのかと、最近思うようになりましたね。しょせん京懐石が作れるわけでもないし(笑)、斬新な創作料理ができるわけでもない、でも「あそこちょっとガンモの煮方がうまいよねぇ」みたいな(笑)。血だと思います。
青木豪
わだかまりを抱えた人々が通り過ぎる「場」を描き 心の襞を照らし出す青木豪の世界
青木豪Go Aoki
1967年神奈川県横須賀市生まれ。明治大学文学部文学科演劇学専攻卒。 演劇集団 円 演劇研究所 卒。97年に旗揚げした劇団グリングの作品すべての作・演出を務める。舞台にとどまらず、『中学生日記』(NHK脚本)や、『IKKA:一和』(第11回PFFスカラシップ作品)の共同脚本、ラジオドラマの脚本も手がける。
●近年の主な舞台脚本・演出作品(外部公演のみ)
2005年・2006年 劇団銅鑼『流星ワゴン』脚色(原作 重松清)
2005年演劇集団 円『東風』作・演出(鶴屋南北戯曲 賞ノミネート作品)
2005年東京グローブ座『エデンの東』脚本
2006年文学座アトリエ公演『エスペラント 〜教師たちの修学旅行の夜』脚本
2006年9月シス・カンパニー公演『獏のゆりかご』作・演出
聞き手:岡野宏文
グリング第13回公演『虹』
(2006年12月20日〜24日/紀伊國屋ホール)
作・演出:青木豪
撮影:鏡田伸幸
グリング第6回公演『ストリップ』
(2002年7月2日〜7日/下北沢「劇」小劇場)
作・演出:青木豪
撮影:加藤尋
文学座アトリエの会『エスペラント〜教師たちの修学旅行の夜〜』
(2006年/文学座アトリエ)
作:青木豪
演出:坂口芳貞
撮影:飯田研紀
グリング第9回公演『旧歌』
(2004年6月25日〜7月4日/下北沢「劇」小劇場)
作・演出:青木豪
撮影:福田直正
グリング第10回公演『ストリップ』(再演)
(2004年10月19日〜24日/THEATER / TOPS)
作・演出:青木豪
撮影:福田直正
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