- 舞台上で出演者の介護もしていた演出助手や施設の先生方は何人くらいいたのでしょうか。
- 単純には数えられないけれど、障害の重度の人には2人の介護がついているケースもありました。舞台上で芝居の進行係をやっている演出助手(介護者)はだいたい障害者5人に1人。裏方として舞台装置の出し入れとか舞台転換をしたスタッフは舞台の上下に7、8人。彼らは芝居の台詞のフォローや動きのフォロー、あるいは舞台袖にいて危険な動きを回避するためのケアもします。持ち道具の出し捌けとか舞台転換の誘導もしなければなりませんから。
今回集まった演出助手をはじめとするスタッフたちは、他に仕事をもっていて完全にボランティアです。だから僕は本番10日前に寮に入りましたが、それができずに本番間近になってかけつけた者もいました。 - そもそもあざみ・もみじ寮での演劇活動はどんなきっかけで始まり、なぜ内藤さんがかかわっていらっしゃるのでしょうか。
- 僕の大阪芸術大学時代の恩師の秋浜悟史先生がまだ岩波映画社に在籍していた時代に、滋賀県にある重症心身障害児施設・びわこ学園の療育活動を記録した『夜明け前の子どもたち』という作品をつくるためにシナリオハンティングに訪れたのが始まりと聞いています。先生の奥様の実家が幼稚園をやっていた関係もあって、滋賀県とのかかわりができたのでしょう。
その寮が現在の場所に移ったときに、寮生で演劇ができないかという相談を秋浜先生が受けて、最初にそれをやったのが1979年でした。それは僕が大学に入る前の話しなので、その頃のことは知らないのですが。
ただ、その時に京都大学の児童心理学の権威の田中昌人教授が、芝居の前とあとで寮生全員に面接したのだそうです。そしたら、顕著な例では「人間の絵を描きなさい」というと顔から手足が生えるような、相当発達が遅れている子でも、劇が終わったあと描かせると首があって胴体があってそこから手足が出る絵を描いた。飛躍的な変化があるということがわかったのです。そのことから、人の発達にとって演劇体験はすごく貴重なものだということが認識されて、以降、寮の中でクリスマス会や雛祭りのときに先生の指導で小さな芝居をつくるようになり、5年に一度大きな会場で秋浜先生の指導の下で芝居をやるのがならわしになりました。
僕が初めてこの芝居づくりに参加したのは2回目の時、ちょうど大学を卒業した1984年でしたが、秋浜先生に「ちょっと手伝え」と呼ばれたのがきっかけです。それからは5年に一度、参加するようになりました。
その間、秋浜先生が指導した学生などが増えて、宝塚北高校生、大阪芸大生、ピッコロ劇団の人たち、そしてそのOBたちがボランティアで手伝いにきてくれるようになり、数日間かけて稽古して、徹夜で大道具をつくって、発表会をするようになりました。
ボランティアなので無償ですが、寮に泊まれますし、食事は寮でみんなと一緒に食べられる。演劇をやっているやつらは貧しいですから、ここにくれば普段より美味しいものを食べてます(笑)。
今回の公演では、僕は11月8日から寮に入りました。それから公演までずっといたのは15、6人で、あとのボランティアは都合がつき次第順次手伝いに入ってきました。スケジュールは午後1時半から稽古。終わってから夜中まで大道具つくり。翌日午前中は打ち合わせ。夜7時頃に誘導の稽古というサイクルでした。 - あざみ・もみじ寮では過去に5回の公演が行われたわけですね。
- そうなりますね。寮生も最初は30歳代だったけれど、今では皆60代70代になってきて、足元よろよろで危ない人も増えました。5年前にやったときに、「もう体力的に無理だ、これで最後にしましょう」と言ったのですが、終わったら寮生たちが「またやろう、またやりたいよ」と言い出して、今回につながったというわけです。社会的にはこの間、「障害者自立支援法案」ができた関係で障害者施設の予算が削減されたり、こういう取り組みに理解のあった滋賀県知事が変わったりして、決していい環境ではありません。滋賀県は第二次大戦の直後から障害者施設を建設するなど日本におけるこの領域の先駆者として尽力された糸賀先生の歴史を受け継ぐ障害者王国というけれど、厳しい状況になってきているというのが僕の印象です。
- 今回糸賀記念舞台芸術祭として全県的な活動に広がった経緯はどんなものでしたか。
- 本来は5年に1度の演劇公演は去年やる予定だったのですが、予算がつかずできませんでした。そこで、毎年やっている糸賀音楽祭とドッキングしてやろう、それも障害者福祉に貢献した人を顕彰する糸賀一雄記念賞が第10回を迎えるのを記念して少し大規模にやれればという流れになったようです。
音楽と演劇と一緒にできれば予算化もしやすいだろうし、あざみ・もみじ寮生だけでなく他の施設や在宅の障害者も公演に参加できる。そういう機会になればいいと、秋浜先生が考えられたんだと思います。 - ところが秋浜先生が急逝された。
- そうなのです。発案者である秋浜先生が、去年の夏に8グループの様子を見に行く最中で突然亡くなってしまったのです。僕は台本ができたあとに演出のお手伝いをするだけの予定だったのですが、台本ができる前に先生が亡くなってしまった!
そもそもこの作品は先生だからこそできる大きな企画でした。じゃあどうしようとなったときに、これは教え子でがんばるしかないじゃないかという声があがりました。考えてみればこれは秋浜先生のやり残した最後の仕事ですし、30年以上やってきた集大成ですからやりたかったに違いないんです。
そしたら田中先生も去年の秋に亡くなられて、両巨頭を一度に失うはめになりました。 - それで内藤さんがピンチヒッターを引き受けたわけですね。
- そうです。今年の夏の自分たちの劇団の公演が終わってすぐに、それぞれのパフォーマンスグループがどんなことをやっているのかを見に行くスケジュールをたてました。でも実際に各地の障害者たちの活動を見たら、これを芝居の中にどう取り入れればいいか、正直、途方にくれました。
あざみ・もみじ寮で行なっていた芝居も「ロビンフッドの冒険」シリーズでしたが、内容は寮内の出来事とか生活の話題を構成したようなものでした。でも今回は音楽やダンスといった別々のパフォーマンスを入れなければならないし、そのためには全体の流れ(ストーリー)をつくって場面をころがす必要があります。舞台をころがすには「台詞」が不可欠ですが、はたして彼らにそういう台詞が言えるのだろうか。彼らがやれるためにはどんな台本を書けばいいのかと悩みました。 - 3時間の作品でしたが、狂言回しがいてうまく話が展開していました。
- 主な台詞をしゃべっていたのは、あざみ・もみじ寮生で演劇経験もあり、付き合いの長い人たちです。その他の人たちの場合も、台詞は覚えられなくてもインタビューをすれば答えられる。たとえば「あなたの名前は?」「一番好きなものは?」と聞けば、「○○です」と答えられる。これなら音楽やダンスをやってきた人たちにもできるし、本人にとってそれは書かれた台詞を言っていることと同じなんです。
重要なのは、舞台では、その言葉に対して客席から反応があるんです。反応がある、人に観られている、他者に意識された存在として舞台にある──それが大切なんです。笑いでも、拍手でも、ヘーでもいいからとにかくリアクションがあって、まさに他者から自分が意識されていると肌で感じると、ものすごく消極的だった子が積極的になる。能動的になるんです。僕はそれをこの30年間目の当たりにしているので、何とか全員に一言ずつでも喋らせたいと思って台本をつくりました。
滋賀県の障害者福祉をリードした糸賀先生の言葉に「人は人の間で人間になる」というのがあります。狭い寮の中で暮らしている寮生たちにとって、「自分は他者に認められてここにいる」ということを肌で感じる機会はとても少ない。でも舞台に立って勇気をもってひとこと台詞を言うだけでその扉が開き、世界が広がる。だったらどんな手段を使っても良いからしゃべる(台詞を言う)機会をつくろう。皆でしゃべらせよう。一度は舞台の最前列に出そう。そしたらお客さんは反応してくれる。本人には飛躍的な発達になるはずだ──。そんな感じでした。 - 衣装やメイクも凝っていましたね。
- 音楽系の子たちはいつもの発表会では衣装もつけないしメイクもしないんだそうです。だから衣装を着るだけで興奮していました。でも本番前日のゲネプロでは衣装までにして、メイクは本番までとっておきました。ゲネプロでそこまでやると気持ちが終わっちゃうので‥‥。 ──ところで、内藤さんの通常の演劇活動(劇団南河内万歳一座や各地のワークショップ等)にとって、こうした経験はどのような影響がありますか。
- 僕らにとってとにかく強烈だったのは「彼らは天才だ」ということです。それは最初の出会いの時から感じていました。無意識であのパフォーマンスができるんですから、僕らの想像力を越えています。彼らは知らん顔して企んでるんじゃないかと疑いたくなります。もはや芝居の域を越えている。そういう意味で、役者としても吸収する部分が多かったです。
殊に20代で劇団を始めたばかりの頃には、どうやってオリジナルな立ち方で舞台上に存在できるかということを他の劇団、他の役者たちと競っていましたが、僕の場合はほとんどあざみ・もみじ寮生たちのパクリでしたね(笑)。あのアナーキーさ、わけのわからなさ。いろいろなところで使わせていただきましたよ。 - 主人公を演じた寮生は、琵琶湖を一周する列車の駅を全てそらんじていました。物凄い記憶力ですね。
- 彼女は天才で、計り知れない記憶力をもっています。1951年11月6日は何曜日って聞くと、即座にわかる。頭の中に特殊なカレンダーが入っているんだと思います。
実は記憶力だけでなく、彼女なりの企みもあるんです。僕は彼女の台詞入れは彼女と40年一緒にいる先生に頼むのですが、練習ではわざと忘れたふりをする。何かにかこつけて「あんなことがあったから今日はうまくできなかった」なんて言い訳する。ところが本番になると、「天国の秋浜先生や田中先生が見ていてくださる」なんて、アドリブを言ったりするんです。あんな台詞書いてないし、練習でも一度も言ったことないのに。本番までとっておいたんでしょう。あの一言でお客さんをさらって、本人はたまらない快感ですよ。演出家泣かせでしょ(笑)。 - そういう能力を持つ人もいるのですね。
- とにかく天才が多い。彼女は自閉症ですが、自閉症の人は調子のいい時と悪い時があって、毎日こだわっていることをやらないとどうしようもなくなります。だから稽古をやればいいわけじゃない。興奮したら倒れちゃうし、ニコニコ笑って台詞を言っていたのに、自分が言えてないと思うと、叫んでテーブルを叩いて指を3本骨折したり。いつ爆発するかわからないところがある。だから職員の先生と相談して、いつも大丈夫かどうかを確かめながら練習します。本番近くなると皆な調子はあがってくるけれど、それで爆発したら終わりです。職員との密なコミュニケーションが不可欠なんです。
寮生にしても、芝居の稽古中は知らない連中が泊りに来ていていつもより刺激が多いので毎日が新鮮でハイになりやすい。だからこそやりすぎると危ない。とはいえお芝居は楽しくやりたいし、その辺の塩梅が難しいですね。
演劇をやる年には、先生方も寮生たちに半年かけて「お芝居にでようね、でようね」と動機付けしてくださっています。彼らも半年あれば、自分で調節できるんです。狂言回しの一人、仲居さん役で登場した女性もやはり自閉症ですが、実は本番までに一度も稽古をしていません。でも、彼女なりに芝居の準備はしているみたいで、ただし、職員にも出るための準備なのか出ないための準備なのかわからない。
しょうがないから、もし彼女が舞台に出てくれた場合は仲居さん役の台詞をふりましょうと。相手役が「仲居さん、○○どすなぁ?」と言って、彼女が「そうですねぇ」と返す。たったこれだけのやりとりですが、でも、彼女の返事を待ってもでてこなかったら、仕方がないのでその台詞を飛ばして先にすすむ。そんな打ち合わせで臨みました。
そしたら、リハーサルでがんばってでてきてくれたんです。ところが本番になったら、最初は出ていたのに途中から抜けてしまった。もうしんどいからそれで終わりかなと思ったら、最後にまたでてきてくれた。彼女に限りませんが、皆な一人一人ぎりぎりの自分と闘って舞台に出てきてくれる。そういう姿が嬉しかったですね。 - 演劇療法とはいいませんが、こういう試みは演劇界でもっと評価されるべきだと思います。
- 秋浜先生の活動はちょっと早すぎたのかなとは思います。最近は演劇を使って何かをすることが増えてきましたが、秋浜先生はその先駆的な方でした。若い頃は、先生に「お前はそんなことで子どもに何かあったらどうするんだ」と怒られて、その声にみんな震え上がりましたが、そんなことも含めて、すべて本質的には演劇的な体験だったのだと思います。
内藤裕敬
知的障害者との舞台づくり
30年におよぶ活動の軌跡を内藤裕敬に聞く
内藤裕敬Hironori Naito
南河内万歳一座・座長。1959年栃木生まれ。高校の時に状況劇場『蛇姫様』(作・演出/唐十郎)を見て芝居の道へ。1979年、大阪芸術大学(舞台芸術学科)に入学。4年間、秋浜悟史教授(劇作家・演出家)に師事。その間、“リアリズムにおけるインチキの仕方”を追求。1980年、南河内万歳一座を『蛇姫様』(作・唐十郎/演出・内藤裕敬)で旗揚げ。以降、全作品の作・演出を手がける。現代的演劇の基礎を土台とし、常に現代を俯瞰した作品には定評があり、劇団外での作・演出も多数。世界的ピアニスト・仲道郁代企画の異色コンサート「仲道郁代のゴメン!遊ばせクラシック」全国ツアーでの構成・演出も手掛ける。2000年、OMSプロデュース『ここからは遠い国』で、読売演劇大賞・優秀演出家賞受賞。2005年、『調教師』(作・唐十郎)を演出、東京シアターコクーン・兵庫県立芸術文化センターにて上演。2003年本拠地となっていた扇町ミュージアムスクエア閉館後、ウルトラマーケット(大阪城ホール・西倉庫)の演劇活用に邁進。著作に『内藤裕敬/劇風録其之壱(内藤裕敬・処女戯曲集)』『青木さん家の奥さん』がある。
劇場は大きく様相を変え、客席は前3分の1が取り払われて広い車いすスペースになり、ステージの前面に出入りするための特設スロープを設置。演出家はその車いすスペースの最前列、ど真ん中に陣取り、上演中ずっとステージに向って指揮を取り続ける。出演者は基本的に全員が客席と相対するようにステージ上にスタンバイしたままで、お客さんと一緒にお芝居を見ながら、自分の番がくれば出演し、時にはスタンバイした状態で参加する。
探し物が何かも忘れてしまったペンギン達がいろいろな生き物と出会い、冒険の旅をするという物語をかりて、障害者も健常者もともに笑い、ゲームに興じ、生きている喜びをわかちあった舞台だった。全員が舞台に乗って稽古したのは公演前日の公開ゲネプロがはじめてであるにも関わらず、これだけエネルギーに溢れた舞台ができあがった背景とは? 演出の内藤裕敬に聞いた。
聞き手:神山典士
*秋浜悟史(あきはま・さとし)
1934年岩手県生まれ。早稲田大学文学部演劇科卒。在学中の56年に『英雄たち』を発表。卒業後、岩波映画に8年間勤務。62年から73年まで劇団三十人会に参加し、『ほらんばか』(60年)、『冬眠まんざい』(65年)、『しらけおばけ』(67年)などを創作。66年に『ほらんばか』で第1回紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞。69年『幼児たちの後の祭り』(68年)で「新劇」岸田戯曲賞を受賞。79年から大阪芸術大学舞台芸術科で教鞭をとり、また94年からは国内初の県立劇団である兵庫県立ピッコロ劇団の初代代表として、若者の指導に当たり、演出家としても活躍。98年にはピッコロ劇団の舞台成果で紀伊国屋演劇賞団体賞と芸術祭優秀賞を受賞。2003年の退任後もピッコロ演劇学校の参与・演劇教育アドバイザーとして活躍。2005年逝去。
*糸賀一雄(いとが・かずお)
1914年生まれ、68年逝去。日本の障害児教育、社会福祉事業の先駆者。鳥取県に生まれ、京都帝国大学文学部哲学科を経て滋賀県庁入り。終戦の翌年、戦災孤児と知的障害者のための施設「近江学園」を開設。その後、西日本で最初の重症心身障害児施設「びわこ学園」を設立するなど、多くの施設を手がけるとともに、中央児童福祉審議会・精神薄弱者福祉審議会の委員や全日本手をつなぐ育成会(旧称:全日本精神薄弱者育成会「手をつなぐ親の会」)の理事として、国の制度づくりにも尽力。「この子らを世の光に」という信念をもって福祉教育にあたり、日本の障害者福祉を切り開いた第一人者として知られ、彼の精神は、現在もなお多くの福祉関係者に受け継がれている。現在では、故郷の滋賀県に糸賀氏の取組みを次代に引き継ぐ「糸賀一雄記念財団」が設立され、障害福祉の分野で顕著な活躍をしている者の表彰ほか、障害者の福祉の向上のための啓発・研修、調査・研究等の諸事業を行う。主な著書に、『この子らを世の光に』、『愛と共感の教育』、『勉強のない国』、『精神薄弱児の職業教育』、『精薄児の実態と課題』、『福祉の思想』などがある。
糸賀一雄記念賞舞台芸術祭『ロビンフッド・楽園の冒険』
[日時]2006年11月19日
[会場]栗東芸術文化会館さきら
[作・演出]内藤裕敬(南河内万歳一座)
© 滋賀県社会福祉事業団
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