ヒダノ修一

和太鼓と西洋音楽の融合
ヒダノ修一の世界

2005.07.20
ヒダノ修一

ヒダノ修一Shuichi Hidano

1969年生まれ。10歳から打楽器を始める。18歳で和太鼓に出合い、鼓童で奏法を学ぶ。89年にソロ活動をスタート。以降、国内のほか世界16カ国で1300回を超える公演を行う。ジャズ、ロック、民族音楽などジャンルを超えた共演も多い。2005年愛知万博の政府主催事業のプロデュースなど、プロデューサーとしても活躍。米国の打楽器メーカーREMO社とアドバイザー契約を結び、和太鼓の開発も行っている。

http://www.hidashu.com

和太鼓音楽は今や、国際的に聴衆を獲得し、欧米では演奏グループも生まれている。そもそも日本の太鼓はソロ楽器ではなく、長く単独で演奏されることはなかった。あくまで寺や神社で祈りを捧げるために打つ、祭礼や舞台音楽の囃子の一翼を担う楽器だった。それが、一般聴衆を対象にした音楽としてアンサンブルやソロで演奏されるようになったのは、第2次世界大戦後のこと。現在では、アマからプロまで多くのグループや演奏家が誕生しているが、プロのソリストとして活躍しているアーティストは極めて限られている。その中でもヒダノ修一は、和太鼓音楽に西洋音楽の手法を採り入れながら、独自の世界を作りあげている人気アーティストであり、プロデューサーとしても活躍する希有の存在となっている。
聞き手:奈良部和美
ソロの演奏活動を始めて15年、記念コンサートで全国を回っていますね。
自分をリセットして今後どういう音楽をやっていくか、再構築するきっかけにしようと企画しました。毎回、演奏する地域の文化や会場の条件を考えて、曲も演奏順も変える。全ステージ違う内容にしようと、30種のプログラムを作りました。僕は今まで「太鼓打ち」という言葉が嫌いで、自分のことをミュージシャンと言ってきました。演奏活動も民族音楽やジャズや様々なジャンルとコラボレーションすることが多くて、和太鼓の世界では変わったことをやってる人というイメージがあったと思います。ところが今回、こてこて(どっぷり)に僕の太鼓の世界を表現するツアーを始めて、自分が初めて太鼓打ちになった気がしています。客席には、いろんな演奏家がいる中からヒダノを選び、好きだから聞きに来てくれる観客がいる──僕は和太鼓とは違う世界から入って、オリジナリティを追求してきましたから、それを認めてくれる方がいるのだと心強く思いました。
違う世界から入ったということですが、どういう経緯で和太鼓奏者になったのですか。
両親がクラシック音楽が好きで、いつも音楽が流れている環境で育ちました。メロディー楽器が好きで、小学校の音楽クラブに入る時はリコーダーとかピアニカがやりたかった。ところが、この2つは希望者が多くて、じゃんけんで負けて誰もやりたくなかったボンゴになってしまった。ボンゴは世界で一番“痛い”パーカッションと言われているんですよ、指の骨で叩くんですから。この痛い思い出が打楽器との出合いです(笑)。中学の吹奏楽部ではトランペットをやりたかった。でもこれまた定員オーバー。定員不足はチューバとパーカッションしかない。「小学校で何やってたの」と聞かれた時には、嫌な予感がしました(笑)。「体が大きいから、いいじゃないの」って言われて、ここでもパーカッション。打楽器から逃れられなくて、これで人生が決まってしまった(笑)。
打楽器に魅入られた(笑)。演奏家になりたいと思い始めたのはいつですか。
漠然と思い始めたのは中学の頃です。中学でドラムを知って、友達とバンドを始めました。高校ではジャズに出合って、ドラムとボーカルをやるようになった。ちょうどアマチュアバンド・ブームが始まった頃で、みんな必死に音楽をやっていました。僕もいろんな音楽に出合って、がむしゃらに吸収した時代です。演奏家を目指そうと決めたのは、「音楽大学を目指してみるか」という両親の一言があったからです。
音楽大学の受験のためには、声楽やピアノなど専門的な勉強が必要ですが…。
高校2年から授業を早退して、声楽やパーカッションの個人レッスンを受けました。当時、NHK交響楽団にいらした打楽器の有賀誠先生に、「うちに勉強に来る前に歌をやれ」って追い返されて、まず声楽を勉強しました。有賀先生いわく「音楽はすべて呼吸が基本」。吸って、吐いて、歌って、腹の底から声を出す。それが音楽をやる準備段階。人によって息の長さが違うから、人によって音楽が違う。呼吸がきちんとできていると、心地好い音楽になる。声楽を通して、呼吸が音楽にとっていかに大切かを学びました。21歳から25歳まで日本の伝統音楽を知ろうと、長唄のお囃子を勉強しましたが、日本の伝統音楽も同じで名人は呼吸を自在に操ります。
打楽器の技術はどう勉強しましたか。
僕は演奏する時に非常に手を速く動かしますが、こうした音楽的基礎はクラシックから学んだことです。打楽器は最初、有賀先生に学びました。初めてのレッスンの時、有賀先生にいきなりものすごい力で首を絞められた。僕は思わず振り払って、先生を押し倒してしまった。先生は、「それでいい。おまえは緊張で何を教えても伝わらない顔をしている。わたしを振り払った気持ちで毎日来なさい」って言われて、それでその日のレッスンは終わり(笑)。1つ質問すると答えが10返ってくるような方で、そして「自分で選べ」と。先輩から、今は先生から何を言われているかわからないかもしれないが、きっと役に立つ時がくるからノートにメモしておくように言われて、わけもわからずレッスンの帰りの電車の中で必死に思い出してメモをしていました。
17歳のロック少年には酷な先生でしたが、先生には音楽に向き合う考え方を教えていただいたと思っています。一番心に残っているのは、「打楽器だからこそ歌え。頭の中で何でも好きなメロディーを歌ってろ。どんな場面でもただ譜面を追うな」。人の考えに流されず自分の思った通りやるとか、メジャー、マイナーという評価は後からついてくるもので、自分が満足と言って死ねる音楽ができればいいとか、今、僕が考えていることはあの時、教えられたことです。
その後、岡田知之先生に打楽器を習いました。僕は本当にいい指導者に巡り合っていると思います。有賀先生も岡田先生も日本のパーカッションの創成期に、前衛的な活動を特別なことと思わずにやっていた人たちです。僕らが今、新しいと思うことも、既にほとんど先生たちがやっています。
和太鼓との出合いもその頃ですか。
大学受験に失敗して、岡田先生の紹介で鼓童に行くことになった。鼓童は新潟の佐渡島を本拠にする和太鼓グループで、世界的に活躍していることも知らないまま、ステージを見に行きました。5、6人が一斉に大太鼓をドンと叩いた時、音楽を聞くと五線譜が浮かぶくらい鍛えられていた頭の中から、音符がすべて吹っ飛んで真っ白になった。生の音で、体をダイナミックに使ってゴンと打つと、塊のようなものがこっちに押し寄せてくる。瞬間、この楽器なら世界に行けると思った。ステージの袖で鼓童の人の胸ぐらをつかんで、入れてくれと言っていました。
でも、集団生活が性に合わなくて、鼓童には1年もいませんでした。パーカッションを打つ筋肉から太鼓を打つ筋肉にスイッチして、太鼓を打つ心構えはできたけれど、頭は子どもの頃から身に付いた洋楽から離れられない──和太鼓から受けた衝撃はこんなものではなかったという気もして、鼓童のステージには一度も立たずに辞めました。
模索の時代の始まりですね。
飛び込みでライブハウスやジャズクラブを回って仕事をもらいました。日本の伝統音楽の楽譜は五線譜じゃないので、和太鼓をやっている僕が五線譜が読めて、ジャズのスタンダードナンバーを叩いてみせると、とても喜ばれた。ちなみに僕が作曲するものはすべて五線譜に書き込みます。だからジャンルを越えていろいろな人たちとセッションができる。また、この時期に能管の一噌幸弘さんや津軽三味線の木乃下真市さんとも出会いました。伝統楽器で今を表現したいという考えは同じで、いろいろ一緒にやりました。
シャーンっていう音が欲しいと言われて太鼓の横にシンバルを置いたり、カウベルを加えたりしているうちに、どうせならもっと太鼓を並べちゃえって始めたのが、ドラムセットみたいな僕の太鼓セットです。パーカッションも和太鼓も鼓もできる。何でもそつなくこなすので、15ほどのバンドに参加して、毎日忙しく演奏してました。ところが、24歳の時に左手が腱鞘炎になって半年休業したんです。半年後、復帰しようとしたら僕の入る余地はなかった。便利に使われていただけだったんですね。
考え方を変える機会になりましたか。
何でもできることはいいことだろうか、と考えました。自分がずっと演奏し続けたい楽器は何か。ジャズもインド音楽も好きだし、パーカッションから音楽のエッセンスを学んだけれど、和太鼓こそ自分の世界だ、この音が好きだと気付きました。最初に太鼓に出合った時のショック、音圧、音の洪水にのまれるような心地好さ、それを表現していきたい。そう思って、尺八と津軽三味線、ベースと僕の和太鼓のバンドを結成しました。和太鼓のアンサンブル「東京打撃団」の結成に参加したり、初めてのソロコンサートもやりました。
太鼓に打ち込む覚悟の証しに、1500万円の借金をして大太鼓を買ったのもこの頃です。借金を返さなくちゃならないし、1回でも多くステージに立って演奏したい。僕たちの世界ではプロデューサーの役割をする人がいませんから、自分で企画書を書いて売り込みました。楽しいことをやろうと呼び掛けて、太鼓のフェスティバルやライブをプロデュースしましたが、企画をすることは勉強になるし、新たな出会いがあって、音楽の幅を広げてくれました。
海外でも積極的に演奏しています。どのような手応えがありますか。
エキゾチックな東洋の伝統文化を紹介する時代は1990年代で終わったと思います。毎年、いろんな演奏家が来るので米国でもヨーロッパでも、伝統文化としての太鼓は見飽きている。行く度に「あなたたちの楽器はそれしかできないのか」と言われるようになった。ビジュアルからして、どうしても日本の伝統文化紹介になりがちだけれど、我々はそれを超えて純粋に音楽として評価されるものをやらないと、日本の文化の紹介にはならないと思います。
和太鼓はドーンとゆっくり音のサステインが伸びる。そのジワリジワリ来る音が、今のスローライフの考え方にぴったりで欧米人に受けている。今や、米国にもドイツにも和太鼓グループができています。彼らは伝統の様式に縛られない分、よっぽど自由にやっている。我々は妙に伝統の様式に縛られて、音楽が不自由になっている。
いいフォームはいい音を生むし、舞台人として格好よく見せるのは大切だし、僕は太鼓演奏の8割はパフォーマンスだと思っていますが、どうしても見栄を切って、古いスタイルを守ろうと考える人が多過ぎる。これだけたくさん演奏家がいるんだからハチャメチャなことをやっていいし、その人しかできないものを構築すべきだと思います。要は伝統と革新のバランスですよね。
和太鼓音楽は転換期にあるようですが、ヒダノ流は何を目指しますか。
僕が今の日本人として感じる最大限心地好い音を目指しています。そのためには奏法も開発しますし、胴に空気穴を開けたり皮を二重に張ったり、楽器も改良します。和太鼓は木と動物の皮という自然素材でできていますから、楽器のコンディションが天候に左右されやすい。米国の打楽器メーカーと協力して、どんな天候でも最低限の音の質が保てる全天候型の太鼓も開発しました。
打楽器はメロディー楽器に比べ、表現力がないと思うかもしれませんが、メロディーや歌詞がないことはその分制約されるものがないということで、逆にとても自由で豊かな表現力がある。僕は僕の方法で和太鼓の表現力を引き出したいと思います。音だけで「ヒダノだ」といわれる音を作っていきたい。大太鼓をドンとたった1回打った音が僕のすべてを表現する。そして、聴衆が「ああ、いい音だ」と思う。それが究極の目標。死ぬまでにそうなりたい。それほど僕は和太鼓の音にほれてます。