ズヴォニミール・ドブロヴィッチ

クロアチアから既存の価値観に挑む
フェスティバル「クイア・ザグレブ」

2014.03.13
ズヴォニミール・ドブロヴィッチ

ズヴォニミール・ドブロヴィッチZvonimir Dobrović

クロアチアのザグレブを拠点にフェスティバルのディレクターとして活躍しているズヴォニミール・ドブロヴィッチ。2003年、23歳の若さで“クイア”をLGBT(レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)という狭い視野から説き放った「Queer Zagreb」を立ち上げ。

2009年には、バルカン地域の新進アーティストにフォーカスしたフェスティバル「Perforations」をスタートするなど、クロアチアから既存の価値観に挑むドブロヴィッチ氏にその活動と理念を聞いた。
聞き手:岩城京子(ジャーナリスト)
ドブロヴィッチさんは、「クイア・ザグレブ芸術祭」(2003〜)、「クイア・ニューヨーク国際芸術祭」(2012〜)、「ペルフォラーツィ・フェスティバル」(2009〜)の3つの芸術祭を創設されました。特に前者2つは、クイアをテーマにした先端的なフェスティバルです。これらでは「クイア」の定義をLGBT(レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)という狭い視野から解き放ち、その意味を広げる試みがなされています。なぜクロアチアという厳格なローマ・カトリック教徒の多い国で、クイアをテーマにしたフェスティバルを立ち上げようと思ったのか。その経緯を教えてください。
 確かにクロアチア人の85%はローマ・カトリック教徒です。ですから宗教上、同性愛の問題に保守的な人は大勢います。また、私たちの国は歴史的に様々な民族問題を抱えていて、いまだにファシストとその反抗勢力のパルチザンという考えに二分されています。かつてナチズムと結託した過去を肯定する人たちさえいます。
容易に想像できることですが、このような国では何か事件が起きると価値観の保守化に拍車がかかります。破局的状況に追いこまれると、人は真っ先に論理を窓から投げ捨てるのです。ですからクロアチア人にとって最大の破局のひとつであった戦争(クロアチア紛争:1991年〜1995年)のとき、人々はまっとうな思考を捨てて、異常に視野狭窄な国民感情に身を委ねてしまいました。例えば、当時の多くのクロアチア人は単一民族性、異性愛、家父長制という教会の教義に賛同し、その価値体系に収まらないものは「悪」だと考えるようになっていきました。
その価値体系から外れる人は、漠然と自分が社会に貢献していないという負い目を感じたり、それで言動を自主規制したりしたのです。つまり国民はある「規範」に準じた行動を、自覚のあるなしに関わらず好んでいった。私はその規範に疑問を投げかけ、規範の枠を拡張していくために、クイア・ザグレブ芸術祭を立ち上げました。
クイア・ザグレブ芸術祭創設から10年、停戦から約20年が経とうとしています。しかし、2013年12月初旬にクロアチアで行われた3度目の国民投票(1度目は1991年、旧ユーゴスラヴィアからの独立の可否を問うもの。2度目は2012年、EUへの加盟を問うもの)では、440万人の国民のうち実に66%もの人が「結婚は、男女間の契りであるべき」という国法に賛成しました。果たして国民の規範的な考え方は、この間でより柔軟な方向に変わってきたのでしょうか。
 クロアチア人の85%がカトリック教徒であることに比べれば、66%という数字は敗北というより勝利に近い。ただ個人的なレベルでは、この結果は本当に悲しかった。というのも、同性のパートナーシップに婚姻ビザを認めない国法のせいで、私はブラジルで正式に結婚していたにも関わらず、3ヶ月前にこの世を去ったブラジル人の夫アンドレ・フォン・アーの死に目に会うことができなかった…。国の制度によって、最愛の人との時間を奪われた気がしました。
ただ広い観点で言うなら、このような国民投票の機会が設けられたことは好ましいと思います。どんなアートも到達することができない数の人に、同性婚にまつわる議論を呼ぶことができましたからね。もちろん、なかには心ないヘイト・スピーチをわめき立てる人たちもいて、多くの若い同性愛者たちのアイデンティティを深く傷つけました。そうであったとしても、大局的には国民投票前よりも後の方が遙かに同性婚に対する理解が増したのではないでしょうか。だから質問にお答えするなら、国民の考え方はより自由な方向に変化していると思います。
旧ユーゴスラビア時代の社会主義政権下において、芸術表現は厳しく検閲されていたのでしょうか。
 いわゆる、旧来の意味での検閲はありませんでした。というか、そういったものは人々の意識の中には多少は残っていたかもしれませんが、むしろ芸術領域においてのみ、人々は自由に表現することができました。政府は自分たちの最大の脅威が芸術ではないことを知っていて、芸術家を自由に泳がせていたのです。
そもそも旧ユーゴスラビア時代の社会主義制度は、ソビエト連邦のそれとは全く似て非なるもので、私たちが完全に鉄のカーテンに閉ざされていたことはありません。当時は地政学的に言っても東西の芸術が集まる土地として、非常に盛んに芸術活動が行われていました。いわゆる政府による検閲、あるいは自主検閲がはじまったのは、実は独立戦争が終わった後からです。クロアチアという新しい国のアイデンティティを誇示し、煽動し、増強するために、ある一定のメッセージを送り出す仕組みとして芸術が利用されました。
クイア・ザグレブ設立以前のクロアチアでは、芸術助成の大半は国立劇場などに与えられ、若いインディペンデントなアーティストを支える経済的/創造的プラットフォームが存在しなかったそうですね。
 ええ、そうです。20年前に芸術活動で生計を成り立たせようとしたら、そのアーティストは国家か地方自治体の助成金に頼るしか道がありませんでした。結果、これらの公的機関は大きな権力を持つようになりました。さらに問題だったのは、助成金のほとんどが運営費に充てられたことです。国立クロアチア劇場の例で説明するなら、予算の約85%が600人の職員の給料に消えた。そして残ったわずか15%の予算がクリエイションに充てられました。これは全く馬鹿げたことです。それでも、国立劇場で働く作家や俳優たちは、インディペンデントのアーティストよりも安定した創造環境を与えられていました。国家に守られる形で、昔ながらの物語演劇なんかを作っていられたのです。
けれど私の意見では、真に創造的で、エネルギーに溢れ、革新精神に満ちていたのはインディペンデントのアーティストたちでした。私は、彼らを経済的に支えるためにも、クイア・ザグレブを設立することが必要だと考えました。今では私たちのようなインディペンデントな芸術組織が増え、また国際プロジェクトに対して他の欧州機関から予算が与えられる機会も増えたので、以前よりもフリーのアーティストが活動しやすくなりました。
誤解して欲しくないのは、私は国立劇場のような機関の役割を否定しているわけではないということです。むしろ逆です。戦争のような危機的状況を経てなお生き延びられるのは、こうした機関に支えられた芸術です。ですから私たちはこれらの機関を活用することも視野に入れて、芸術の未来を考えていくべきなのです。
あなたの経歴について教えてください。なぜザグレブ大学政治学部に在籍してジャーナリズムを学んでいた際、新聞社やテレビ局でインターンをするのではなく、Eurokazというクロアチア随一のインディペンデント国際演劇祭で働きはじめたのでしょうか。
 私は若いときから、芸術に強く惹かれていました。芸術はいつだって人生の本質と渡り合い、創造的な思考を促してくれるからです。特に現代のような混乱の時代においては、芸術に身を捧げることこそ最も真っ当な生き方に思えます。靴を売って生きることも、それはそれで素晴らしい人生かもしれない。でも現代では、そのような手から口への単純労働や会社と自宅の往復運動のような毎日では、物足りなく感じる人が多いのではないでしょうか。もっといろいろ考えたいというか、そんなに盲目的に世界に従って生きられない。ですから創造的な思索が求められない、会社と自宅の往復運動のような毎日を送っていたら、人生は本当に味気ないものになっていくでしょう。そして知らない間に魂が摩耗し、疲れきってしまうのです。
特に東京やザグレブのような都市で生きる人たちにとっては、芸術は不可欠です。たとえ衣食住の機能がすべて上手くまわっていたとしても、そこに芸術がなければ人生は貧相になっていきます。また創造的な問題解決能力が衰えていき、小さなことから大きなことまで、国は逼迫していきます。「この経済不況下で、なぜ芸術なんかに予算を与えるべきだ?」という議論は各国で後を絶ちません。けれど私からすると、芸術こそ世界に不可欠なものなのです。それに芸術予算は軍事予算に比べたら、本当に微々たるものですよ。国立クロアチア劇場の予算を鉄砲玉に換算したら、そんなに多くの機関銃を装填することはできないと思います。
23歳のときにEurokazを退職、クイア・ザグレブを設立されます。なぜ名のあるフェスティバルの力を借りて国の芸術環境を変えるのではなく、一から新しい組織を立ち上げてそこから変革しようと思われたのでしょうか。
 1987年に設立されたEurokazは本当に素晴らしいフェスティバルで、限られた予算のなかで妥協のないプログラムを組み、パリやブリュッセルにも劣らない先鋭的芸術作品に触れる機会をクロアチアの若者たちに与えてくれました。この国際演劇祭を通してクロアチアの人々ははじめて、地元で「ニュー・シアター」と呼ばれることになるパフォーミング・アーツの存在を知ることになるのです。それは例えば、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル、ヤン・ファーブル、ヤン・ロワース、ロメオ・カステルッチなどジャンル横断的な舞台作家たちです。
けれどこのようなインディペンデントな組織にありがちな罠として、あらゆる指針が芸術監督であり、私の良き友人でもある、ゴルダーナ・ヴヌクによって決められました。このフェスティバルはゴルダーナが産み落としたベビーなわけですから、もちろんこれは当然です。でも私は自分の能力をもっと自由に試したかった。それでEurokazを飛び出して、クイア・ザグレブを設立したのです。
クイア・ザグレブの初年度予算は、主にどこから獲得されたのでしょうか。
 もちろんEurokazで働いていたときに顔見知りになった、文化省やザグレブ市の役人たちにも頼みに行きました。でも結果的に最も強力なスポンサーになってくれたのは彼らではなく、クロアチア外部のLGBT団体の人たちでした。非常にアクティブな活動家としてLGBTへの差別と戦っていた彼らは、私のフェスティバルにも興味を示してくれました。
正直、最初の頃の彼らは、芸術的側面にはそこまで関心を持ってくれませんでした。けれど初年度のクイア・ザグレブの成功を見るやいなや、彼らはいかにアートがパワフルな活動ツールになるかということを自覚した。それで彼等自身、人権活動の方法論のひとつにアートを戦略として盛り込んでいったのです。いまではクイア・ザグレブは、Eurokazの倍以上の予算を有する国内屈指の舞台芸術祭にまで成長しました。
過去招聘した作家には、どのようなアーティストがいるのでしょうか。
 招聘回数が最も多いのは、かつてピナ・バウシュのカンパニーでドラマトゥルクを務めたドイツ人振付家のレイモンド・ホグです。あとはフランス人のジェローム・ベルや、米国人のアニー・スプリンクル(元娼婦の性教育者でパフォーミング・アーティスト)も何度もザグレブを訪れてくれました。あとはもちろん地元のアーティストとも、新作を制作していきました。中でもジェリコ・ゾリカ(Željko Zorica)は、私が最も敬愛したアーティストの一人です。残念なことに、彼は50代の若さで亡くなってしまいましたが、良き友人でもあるジェリコとは、生前、多くのプロジェクトをともに手掛けました。
例えば、彼の代表作のひとつに『KroaTisch-Amerikanische Freundschaft(クロアチア・アメリカ友好関係)』(注:クロアティッシュは、ドイツ語で“クロアチアの”という形容詞を意味すると同時に、食事もするし、秘密文書に署名もするクロアチアの机も示唆する)という巨大なフード・インスタレーションがあります。ここではアメリカとクロアチアの大統領が手を取りあって笑う写真の前に、聖書型のケーキや伝統料理が載ったドル札を敷き詰めたテーブルが設えられ、そのまわりに食用肉で作られた政治家の人形が座りました。そして観客は、作品を実際に食べながら鑑賞することができた。ジェリコは小説家にたとえるなら、ホセ・サラマーゴのような天才でした。リアリティとフィクションを巧みに混ぜ合わせた新たな現実を生成し、一見シュールに思える出発点に観客を立たせる。そして、そこから放射線状にあらゆるクレイジーな方向に作品が展開されていくのです。
クイア・ザグレブのプログラムには、振付家や演出家のほか、ボディ・アートの作家たちの名前も多く見られます。それら作家たちの作品は、どこか70年代にアメリカで隆盛を誇ったマリーナ・アブラモヴィッチに代表されるアーティストの作品を彷彿とさせます。なぜボディ・アートに特に注目されたのでしょうか。またやはり現地では、旧ユーゴスラビア出身であるアブラモヴィッチの影響は大きいのでしょうか。
 ええ、マリーナはバルカン半島で絶大な影響力を誇っています。ですから彼女の流れを汲むアーティストが多いことは事実です。でもそれ以上に、私は、特にクロアチアという国においてはボディ・アートという表現形態がいまだ必然的に求められているように思います。
というのも前にお伝えしたように、クロアチアでは宗教が大きな権力を保持しています。ですから宗教や、それに影響を受けた教育システムによって、多くの人々は「身体」という自分の最もプライベートな部分を社会にコントロールされている。でも私の考えでは、いったん自己存在の核ともいえる「身体」の操縦桿を人に明け渡してしまったら、その個人の性や心や意志さえも同時に失われてしまいます。
これはなにも同性愛者に限ったことではありません。制度によって自分の愛する人とセックスができないということは、例えば、若い女の子が望まない子どもを堕胎できない問題と同義です。身体を解放することは、性の解放だけでなく、あらゆる言動の解放へとつながる自由への第一歩なのです。そしてボディ・アートは、現存する束縛を自覚してそれと戦うための極めて有用な芸術表現です。
「クイア・アート」と聞くと陳腐な連想をしてしまうことが少なからずあります。つまり口紅を塗ってフェイクファーを背負ったゲイの演者が、過去の痛ましい物語をキャバレー的な見世物にするといった自己治癒的なパフォーマンスです。つまり強度のある芸術表現というよりも、コミュニティ・アートやアート・セラピーに近いものを連想してしまいます。そのような定型化されたクイア・アートについては、あなたはどのような意見をお持ちですか。
 コミュニティ・アートやアート・セラピーに限りなく近いクイア・アートが多いことは知っています。私はそれらの表現にあまり好ましい感情を抱いていません。なぜならこれらの表現は、突きつめれば「趣味としてのアート」の域を出ないものだからです。それらのアート表現は、田舎のおばさんが趣味で楽しむ陶芸となんら変わりません。それはそれで結構なのですが、あえて自分のフェスティバルに招聘しようとは思いません。
あなたの質問のなかで重要なのは「物語」という単語です。多くのクイア・アートのパフォーマーは自分語りをしたがります。それは彼や彼女の日記に綴るには恰好の素材かもしれませんが、不特定多数の観客に暴露する必要はありません。
そもそも私の考えでは、言葉ですべてを語ろうとする芸術表現は稚拙です。言葉は、最も高度な伝達手段だと思われがちですが、芸術においては言葉を用いることが逆に伝達の妨害になることがあります。芸術は、日常の伝達手段とは異なるレベルでの対話を促さねばなりません。さもなければ、その国の観客はどんどんクリエイティブな頭の使い方を忘れていき思考能力が低下していくことでしょう。観客は愚かではありません。ですから芸術活動に携わる者は、観客を信用せねばなりません。その信頼関係からすべてがスタートするのです。
2012年には、クイア・ニューヨーク国際芸術祭が設立されます。なぜ数ある芸術都市のなかからニューヨークを選び、そこでフェスティバルを開催しようと思われたのでしょうか。
 簡単です。クイア・アートという表現が生まれたのがニューヨークだったからです。ただ私は、今も昔も、ニューヨーク生まれのほとんどのクイア・アートに批判的です。なぜならそれらは、先ほどあなたが「定型化されたパフォーマンス」と呼んだ、とても叙情的な物語性に溺れたセルフ・ヘルプに近い自己表現ばかりだからです。
私はクイア・ニューヨーク設立に際して、アメリカに数えるほどしかいない国際的視野のあるキュレーターたちに連絡をとりました。そして彼らに、自分のフェスティバルに呼ぶべき良いアーティストはいないかと尋ねました。その答えを聞いたとき、私は自分のビジョンが正しいことを確信しました。なぜなら彼らが提示したアーティストたちは一人残らず、キャバレーや、バーレスクや、トランスヴェスタイト・ショーといった形式で、自己憐憫に満ちた物語を語る作家たちだったからです。そのような「クイア・アート」の概念しか、私が訪ねたキュレーターたちは持たなかったのです。
でもだからこそ、こうした既成概念を覆したいと思っていた私には好都合だった。ザグレブでの成功から、私は「クイアの意味を拡張する」というコンセプトが、新たな芸術的対話を生成するために有効であることを知っていました。けれど多くのニューヨークのキュレーターたちは、私の言葉を信じないわけではないのですが、どうでもいいと思っているようでした。もし私が面白いアーティストを紹介したら、彼らはそのアーティストを奪い、クイアという名札を外して自分たちのフェスティバルで紹介するだけです。クイアというラベリングを外して集客を上げることのほうが、彼らには大事なのです。
少し話が前後しますが、一連のクイア・フェスティバルとは別に、あなたは2009年に「ペルフォラーツィ・フェスティバル」をザグレブで立ち上げられます。このフェスティバルでは、演劇やダンスといった既存ジャンルに収まらない、ジャンル横断的な芸術表現に焦点が当てられました。すでにクイア・フェスティバルのディレクターとして十分忙しいなか、なぜ新しいフェスティバルを始めようと思われたのでしょうか。
 個人的な解答としては、忙しくしているのが好きだからです。基本的に自分がいかに怠けた人間だか知っているので、憂鬱になって寝室にこもらない唯一の方法が働きつづけることなんです。自転車と一緒ですよ、止まると私は倒れる(笑)。それに私は、熱しやすく冷めやすいタイプなので、すでに少しばかりクイア・ザグレブに飽きてきていた。かつてのようにチャレンジングな毎日ではなく、気楽にフェスティバルを運営できるようになっていたので。それで新しい刺激を求めて、このフェスティバルを作ることにしました。
私は過去の経験から、あらゆる芸術機関や組織の網の目から漏れてしまう、優れたアーティストの存在を知っていました。特にジャンル横断的な表現であればあるほど、そのアーティストたちはどこにも目をつけられないことが多々ありました。でも、これら新しい表現者たちを無視しつづけることは、未来のクロアチア芸術界にとって大きな損害になる。それで私は、これら枠に収まりきらないアーティストたちに焦点を当てるフェスティバルを作ることにしたのです。
またこのフェスティバルを、バルカン半島のアーティストが集まるプラットフォームにしたいという思いもありました。我々は隣国に対してあまりにも無関心です。ザグレブの人間はベルグラード(セルビアの首都)やリュブリャナ(スロベニアの首都)のことよりも、ベルリンを良く知っています。これは非常に危険です。ですから、このフェスティバルにバルカン半島の優れたアーティストたちを集めて、どのような芸術的潮流が生まれているかをお互い情報交換すると同時に、西欧の国々に対しても自分たちのアートの正しいイメージを発信していこうと思ったのです。
ある種の、西欧の文化的搾取に対しての抗いですね。つまりバルカン半島のアート作品は「いつも紛争を語らねばならない」といった強制されたイメージを払拭したいと思われたのですね。
 そうです。これは非西欧圏の国なら、どこでも同じように抱える問題です。日本だって例外ではありません。西欧のプログラマーたちは、誰もが チェルフィッチュ みたいな作品が「日本的」だと思いたがる。そして、そのような自分たちの思惑にあった作品を買っていく。でも実は日本人作家の多くはチェルフィッチュとは違うことを語っているし、バルカン半島の若い作家たちの多くも紛争については語っていない。
現在のバルカン半島の若いアーティストたちの表現は、大きく二つに分けられます。ひとつは、ある種のプロテスト・アート。経済的な情況など、自分たちの逼迫した情況を抗議型のアートで表現します。でもこれらはあまりにも表現として直接的すぎて、私はあまり好きではありません。もうひとつは、自分たちの芸術表現の自明性を疑う作家たちです。例えばビジュアル・アートの作家なら、ギャラリーで作品発表するという自明性に問いをたてます。なぜギャラリーなどという隔離された空間に、アートを展示する必要があるのか。これは非常にスリリングな思考実験です。キュレーターとして、あるいは観客として、あらゆる概念の再構築を促されますからね。
最後の質問です。近い将来、予定しているプロジェクトなどがあれば教えてください。
 まずはクイア・ニューヨークを通してアメリカでかなり大きなプロジェクトを計画中です。アメリカにはいまだに打破せねばならない多くの壁が存在するので、とてもチャレンジングです。またオーストラリア、日本、ブラジルといった国々との国際プロジェクトも計画中です。ブラジルでは実際、来年の5月にサンパウロで公演を行います。また来年はアテネで、マリーナ・アブラモヴィッチが行う公演にも携わっています。
これらプロジェクトは一つとして同じものはありませんが、自分の中では一本の線でつながっています。簡単に言えばつまり、より負荷の大きいプロジェクトに取り組みたいのです。あまりにも簡単で安全すぎるプロジェクトを選ぶと、私は睡魔に襲われます(笑)。そして自分を信頼できなくなっていく。ですから自分を保つためにも、私はいつでも不確実なものに立ち向かっていきたいのです。人生のあらゆることが理解できたと思った日から、私は家にこもってテレビの前から動かなくなるでしょう。

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