フリー・レイセン

欧州のアートシーンを牽引するフリー・レイセンが見る
フェスティバルのアイデンティティとは?

2009.04.27
フリー・レイセン

フリー・レイセンFrie Leysen

Theater der Welt 2010 キュレーター
1970年代後半以降のベルギーのアートシーンを牽引したアートセンター、De Singelの芸術監督をはじめ、先鋭的なプログラムと若手アーティストの発掘、国際共同制作に力を入れヨーロッパ屈指のフェスティバルに成長したベルギーのクンステン・フェスティバル・デザールの創設など、気鋭のアート・キュレーターとしてヨーロッパの舞台芸術シーンにおいて各方面によりその功績が認められるフリー・レイセン女史。後進キュレーターの育成にも独自の発想を持ち、数々のフェスティバルを成功に導いてきた。

彼女の近年の仕事を通して、そのオルタナティブなビジョンと、ヨーロッパにおけるフェスティバルのアイデンティティついて聞いた。
聞き手:内野儀
レイセンさんは、1994年にベルギーのブリュッセルでクンステン・フェスティバル・デザール(KFDA)を創設され、同フェスティバルの芸術監督として長年にわたってヨーロッパのフェスティバルを牽引されてきたプレゼンターのお一人です。あなたの功績や経歴については、このウェブサイトで以前インタビューした現KFDA芸術監督の クリストフ・スラフマイルダーさん が語ってくれています。世界のプレゼンターやアーティストから厚い信頼を得ているレイセンさんは、世界各地の重要なフェスティバルのキュレーターとしても活躍されています。
このインタビューでは、あなたの最近の仕事と、現代におけるフェスティバルのあり方についての考え方などをお伺いしたいと思います。まずは2007年にキュレーターを務められた中東のフェスティバル「Meeting Points」について教えてください。
 Meeting Pointsは、中東地域の若手アーティストの支援を目的としたヤング・アラブ・シアター・ファンド(YATF)というインディペンデントの組織がイニシアチブを取り、2004年に創設した現代アートフェスティバルです。当初は非常に小さいプロジェクトとしてスタートしました。初年度は1都市でのイベントでしたが、その後3都市になり、2005年度には7都市で同時開催されました。その成功があって、以後は定期的に開催することを決め、その都度異なるキュレーターを招いて作品をセレクションしていくという方法を採っています。2年毎に開催することになっていますが、もっともそこは中東地域でのフェスティバルですから、実際はおよそ2〜3年の周期で開催しようとしています。
私自身は、2007年度に開催された第5回の「Meeting Points 5」にキュレーターとして招かれました。2007年後半から2008年初頭(2007年11月1日〜12月1日、2008年1月10日〜20日)にかけて11都市を巡回し、最後はブリュッセルで幕を閉じました。私にとって、それは素晴らしい経験でした。KFDAのようにブリュッセルだけで開催するフェスティバルをキュレーションするのとはわけが違います。
つまり、よく知る地元の観客に対して、彼らに観てほしい作品やアーティストを選んでいくのであれば、ある程度押さえておくべき領域やアイデアなどを働かせることはできますが、中東のほぼ全域で開催するフェスティバルのためのキュレーションとなると、その領域はとてつもなく広いものです。中東地域といっても都市ごとに全く異なります。モロッコやシリアも同じ中東域内ですし、バイロイトとパレスチナの間にも大きなギャップがある。エジプトなどは他の中東地域とは全く異なる姿をしています。とにかく、巨大な相手でしたから、この仕事は私にとって大きな挑戦であったと言わざるを得ません。準備期間も1年弱と本当に短い期間でした。
Meeting Point 5を組織し、アーティスト、作品のキュレーションをするにあたり、あなたの当初の考えとはどういったものでしたか。
 Meeting Points自体については、私の方針より先にフェスティバルを主催するヤング・アラブ・シアター・ファンド(YATF)の考えがあります。
私が芸術監督だった最後の年(2006年)のクンステン・フェスティバル・デザールで、YATFのディレクターであるTarek Abou El Fetouh氏に出会いました。彼はエジプト人で、当時カイロからブリュッセルに移り住んでいました。YATFは実際、ヤングといってもさほど若くもなく、アラブといっても本部はブリュッセルにあり、シアターと呼べる劇団や劇場もなく、ファンドといっても基金があるわけではない……そんな名前をもつ団体です(笑)。
彼らはまず、中東での創造活動の場を求めて、アレクサンドリアの古いガレージを改装し、劇場のような小さなスペースをつくりました。その後同じ手法で中東地域に6つの場をつくり、創造的なプロジェクトを支援していました。そうするうちに、2つの地域同士が協力するようになるなど、徐々に繋がりが生まれます。そのネットワークを拡大するツールとして、まずはその2都市でフェスティバルを催してはどうかという考えが出ました。その時点からフェスティバルの主旨はあくまで、中東出身のアーティストを紹介し、中東地域で活動の機会を与えるというものです。ご存じのように、ヨーロッパではアラブ系のアーティストが色々と紹介されています。現在、欧米ではあらゆる“中東もの”の作品を観ることができます。しかし、彼らのどんな作品も、自国やその隣の国、周辺のアラブ圏のどこにおいても上演される機会はありません。
つまり、アラブ圏のアートは輸出のための創作で終わらざるを得ないということです。賢いアーティストなら欧米が求める作品をつくり始めるでしょう。それを否定することはできません。そして市場経済主義の世の中であれば、ビジュアルアートのジャンルなどは、その辺は得意だと思います。アラブ世界からやって来たビジュアルアートというだけで、何か大きな問題がベールに包まれた作品のように映るかもしれません。
もちろん、このような状況はアラブ圏に限ったことではなく、どこの地域においても西側への流通が重要な問題になってきます。そこはたいへん危惧すべきです。ですから、ホームグラウンドをもち、自国で、地元の観客のために創作をすることはたいへん重要だと思います。
そういう考えのなかでYATFがブリュッセルにオフィスをもつのは、EU本部の近くという一種の国際的なシーンの中にあり、中立的立場でいたいという意志によるものです。
つまり、Meeting Point5を企画するにあたっても、私はそういった彼らの考えを尊重することから始めました。
Meeting Pointsは、回を重ねるごとに規模が拡大し、プログラムも充実しています。明らかに成長しているフェスティバルであることがうかがえます。
 そのとおりです。先ほども申し上げたように最初のイベントは1都市で行われました。その後徐々に拡大し、私が手掛けた第5回から、中東地域のアーティストだけでなく世界中からアーティストを招いて、世界中で同時開催をしたいという要望があり、中東9都市(アレクサンドリア、ベイルート、チュニジア、ダマスカス、ラマラ、ラバット、アマン、カイロ、ミニア)に加えて、ヨーロッパ2都市(ブリュッセル、ベルリン)でも開催しました。そこに日本の梅田宏明も参加しています。ベイルートでは、梅田の作品に観客は大喜びでした。現在準備しているのは第6回で、同じく11の都市で開催するようです。
開催する都市については特に限定していません。ですので、数は増えていきましたが、実際に上演できる劇場や施設をもつ中東の都市はまだまだ少ないのが現状です。カイロなどのように、劣悪な条件のスペースと大きな劇場の両方を使った都市もあれば、ある場所を改造してどうにか劇場にし、フェスティバル後はそこを現地の人たちに寄贈したところもあります。
Meeting Points 5のプログラミングについて詳しくお聞かせいただけますか。
 フェスティバルの準備をするにあたり私は9カ月もの間、中東地域をあちこち旅しました。まず感じた重要な点は、すべての都市はそれぞれ非常に異なっているということです。中東と言えば、私たちは一枚岩的に考えがちです。例えば、ベイルートとダマスカスは車でたった2時間ですが、彼らのマナーは全く違う。比較することさえできません。
私が心掛けたのは、概して、ヨーロッパ的文脈であるか否かに関係なく中東地域のためのプログラムをつくっていくことでした。つまり、私がこれまで見てきたヨーロッパにおける中東地域を扱うプロジェクトはほぼすべてその逆だったからです。常にヨーロッパや西側の意向を確認するためのプログラムでしかありません。彼らにとってそれは当たり前のことであり、その傾向はどんどん拡大しています。中東のアーティストたちはまさにアート・ヴィクティム(犠牲者)であり、西洋がやっているのは中東へのアート・テロです。
中東以前には、欧米における中国のアーティストがそうであったように、彼らの仕事はいつも“政治”を扱ったものだと考えられていました。そのアーティストがいっさい政治を意図していなくても、マスコミは「実に政治的作品だ」といった風に書くわけです。中国人がかわいそうでしたね。こういう例は他にもたくさんあるでしょう。このように、西洋のクリシェ(常套句)でものごとがとらえられ、それをいちいち確認し、また新たなクリシェが出来上がる。ですから、私の場合、地元の観客のために、中東地域で仕事をすることは実に興味深いものでした。非常に理にかなっていると思いませんか。発想の転換をし、先入観をなくして頭を空っぽにする。自分自身を洗脳し、目の前にあるものに対してまったく違った見方をするのです。
もう一つの考えとしては、各都市がもつ長所をよく理解して、それをどのように活かすかということです。長所をさらに伸ばす一方で、弱点についてもよく見極め、開拓していきます。例えば、ベイルートにはいくつかの良い劇場があります。ともにレクチャー形式のパフォーマンスをする同世代(1967年生まれ)のワリド・ラードとラビア・ムルエを輩出した町です。しかし、信じられないことに、彼らは自国で自作を上演したことがありません。また、ベイルートにはダンスの文化はありません。そこに梅田宏明がラップトップ一つ抱えてやってきて、地元の劇場でコンテンポラリーダンスを上演しましたが、私たちにとってはある意味この当たり前のことが、現地ではたいへんおもしろかった。
具体的には、まず、11都市を交差しながら上演する約40のプロジェクトを選びました。さらに、フェスティバルの期間中、どの都市で、どの作品を、いつ上演するか、といったことをシャッフルしながら考える、クリエイティブ・プールといったものをつくりました。全プロジェクトが全都市に行くことはなく、1都市ですべての作品が見られるわけではありません。こういうスケジューリングと公演地の調整を行うに当たって、私一人では難しいので、各地域にコーディネーターを配して、地元のプレス対応やホテルの予約、チケットの販売など、あらゆるレベルの仕事をしてもらいました。ですから、各地の実施状況は地元のコーディネーターの仕事ぶりに大いに依存しています。いくつかの都市は素晴らしかったわけですが、率直に言って、コーディネーターが力不足だった地域ももちろんありました。もっともそこは計算の上でやっているというところはあります。
メインプログラムであるクリエイティブ・プールの外側には、地域独自のプログラム「Unclassified」も企画しました。主要6都市で実施しましたが、そのプログラミングには、地元のキュレーターもしくはキュレーションチーム(Unclassified Curators)を任命し、プロポーザルを出してもらいました。カイロ、アレクサンドリア、アマン、ダマスカス、ベイルート、チュニジアで実施しましたが、任命したキュレーターたちはYATFの仲間であったり、地元の若手アーティスト、ギャラリストであったりと、彼ら自身がそれぞれの都市のなかで活動フィールドをもっている個人やチームです。プロポーザルの選定にあたっては、メインプログラムとのバランスや対話、域内の他の都市や地元におけるリアリティをもつかどうかを重視しました。巡演を目的としませんから、サイトスペシフィックで多彩な内容になりました。
まず私は地元のキュレーター全員と、その周辺にいる多くの若いアーティストたちに会いました。大学を出たてのアーティストなど、普段あまり出会うことのない若者たちと語り合えるたいへん貴重な機会でした。時に、キュレーションをするにはこの子は若すぎる、などと言われたりもしましたが、私はフェスティバルの期間中、彼らキュレーターの成長を見てみたかった。
例えば、チュニジアでは、セルマとソフィアンという振付家の姉妹がキュレーターを務めましたが、彼女たちは、旧市街のメディナという町で、古い商店やカフェ、ストリート、小さな民家をマルチスペースにした「Dream City」というプロジェクトを立ち上げました。アラブ地域から約60人の若手アーティストが関わり、ダンス、演劇、音楽などのパフォーマンスや、インスタレーションなどのあらゆる内容の展示を行い、観客は地図を片手に町を探索しながら作品を見て回るという仕掛けです。地図を見ながらうろうろ歩き回る人々がこの小さな町にあふれる光景は、実に素晴らしいものでした。
ダマスカスでは、ウサマ・ガナン(Oussama Ghanam)がキュレーターとなり、20歳代の劇作家、詩人、映像作家の3人のアーティストがコラボレーションしたビデオ・インスタレーション『Of Death and Cafes』をつくりました。ウサマは才気あふれるユニークな若者です。シリア人ですが、数年間フランスで勉強し、ヨーロッパの多くの作品を見て、広い知識を備えています。その後ダマスカスに戻りましたが、砂漠のように飢えた状態だった彼にキュレーターとしてあるチャンスを与えたわけです。その映像作品というのは、カフェに入り浸って「時間をつぶす」という彼らの日常を皮肉った、私が見ても実にクレージーなものでしたが(笑)、他方で全く見たことのない異質な作品でした。ジャンルを超えたコラボレーションをすること自体、ダマスカスでは初めてのことだそうです。彼らのもてるものから何が生まれるか、それこそが私が彼らに与えたかった自由でもあります。ウサマはその後も、自分の国でのフラストレーションに打ち勝つためにいろいろと開拓しているということです。チュニジアでも彼女たちのプロジェクトは続いています。Meeting Pointsの後にも、フェスティバルを超えて、こうした活動が継続的に起こっていることは本当にうれしい限りです。
また、ベイルートでは、レート・ヤシン(Raed Yassin)がキュレーターを務めました。彼も若いビジュアルアーティストであり、ミュージシャンです。ワリド・ラードやラビア・ムルエの後の世代です。ヤシンたちの世代はもはや戦争を扱うことに飽き飽きしている。戦争は起こっているが、人々は普通に生活をしている。彼は同世代のフォトグラファー、ビジュアルアーティスト、造形アーティストらと共に、ベイルートにある教会で『周辺都市の秘密(The secret of peripheral city)』という作品をつくりました。本人は作品には直接参加していませんが、参加したアーティストから、ヤシンはキュレーターとして完璧な仕事をしていたと聞いています。
戦争を扱わないのであれば、彼らはどういったことをテーマにしていますか。
 普通の若者が興味をもっているようなことです。例えば、電子音楽や、人生における快楽や、愛とか。日本でも欧米でもごく当たり前に扱われているようなテーマだと思います。
中東地域でフェスティバルを開催するということは、検閲という避けて通れない関門があるのではないでしょうか。
 そのとおりです。私たちも検閲委員会に出ました。彼らは開催地全域に検閲にやってきて、これはいい、これは駄目だとチェックしていきました。それでも私たちは絶対的なクオリティの高さを維持しています。
各地域にはどういう観客がいましたか。
 Meeting Pointsがある意味成功しているといえる理由のひとつには、非常に若い観客を多く集めたことがあると思います。観客の70パーセント以上が30歳代、20歳代、さらにそれ以下です。中東のどの都市でも、町を見渡すとそれはもう若者がたくさんいることに気づきます。正確な数は知りませんが、彼らは実に好奇心旺盛で、普段見られるものが少ないためか、とてもハングリーです。現地にいるとそれを肌で感じることができます。
もちろん観客を強制的に劇場に来させることはできませんが、私がいつも思うのは、(潜在的な)観客は必ずいるということです。彼らを劇場に連れてくるために私たちは死にものぐるいで働き、彼らにそのことを伝え、彼らを尊敬することです。決して観客を馬鹿にした作品を提供しているのではない、尊敬の上にあるのだという思いを観客自身も感じてくれるはずです。こういう話は、どっちつかずの無駄な議論なのかもしれませんが、実際には時間のかかる仕事です。
例えば、クンステンを始めた頃に、理事会を組織しました。そこで私は、フェスティバルには2つの可能性があることを理事たちに言いました。一つは、もし1回目のフェスティバルで即成功を望むのであれば、それはそれで可能です。1回限りならそれなりにうまくいくでしょう。しかし反面、フェスティバルを真のアーティスティックなプロジェクトとして発展させようとするなら、成功と言えるまでに5年はかかるでしょう。1回目は惨憺たるものでしょう。2回目も、3回目も悲劇かもしれません。しかし、その後からおそらく何かが起こり始めるはずです。ここはあなた方が勇気をもち、失敗にいちいち絶望しないこと、時間がかかるということを理解して、信じることだと思います。という説明をしましたが、コミュニケーションそのものにも時間がかかります。彼らはなぜ私のことを信じるべきなのか、私がなぜ彼らを信じなければならないのかといった、お互いの信頼関係を築き上げることも重要です。
Meeting Pointsを成功にこぎつけたわけですから、主催者はあなたにまたキュレーションをしてほしいと考えているでしょう。
 そのようです(笑)。将来的にどうなるかまだわかりませんが。次回開催に向けて彼らはキュレーターを探しているところです。
あなたが手掛けている現在進行中のプロジェクトについてお聞かせください。
 2010年7月にドイツのエッセンとミュルハイムで開催されるフェスティバル「Theater der Welt」のキュレーターを務めます。今回もそのための視察で来日しました。このフェスティバルを主催するドイツの国際演劇協会(ITI: International Theatre Institute)に依頼されてプログラミングの責任者になりました。Theatre der Weltはドイツ国内の異なる都市で2年毎に開催されています。エッセンでの開催は2回目です。開催都市については希望する自治体が手を挙げ、コンペによって選ばれます。総予算の3分の1を自治体が負担しています。
私自身はテーマで動いているわけではありませんが、Theater der Welt、つまり「世界の演劇」というタイトルそのものがこのフェスティバルのテーマになっています。壮大なテーマですが、文字通り、世界に開かれたフェスティバルにしたいと思います。ヨーロッパは今、再び閉じた世界になりつつあります。境界線が再び引かれ、ナショナリズムやファシズムという波が押し寄せています。ですから、私にとって、作品そのものよりも世界中からやって来るアーティストひとりひとりを紹介することが非常に重要です。アーティストたちが、この閉塞した世界に風穴を空け、精神的、物質的世界においても風通しをよくしてくれることを願っています。
こういう危機に直面したヨーロッパ全体を見渡すと、私はアートの国際的循環がもはや機能していないように感じます。例えばオランダでは、海外のアートとの交流がほとんどありません。残念ながらドイツも以前ほど活発ではありません。フランスのほうがむしろ順調でしょう。イギリスでも、ある特別な場面でしか国際的な交流が行なわれていません。普通はもっと日常的なレベルで行なわれる必要があるはずです。
ですから、エッセンにとって国際フェスティバルの開催はますます重要になってきていると思います。私が作品よりもアーティストを重視する理由はそこにあります。一つの場所にある状態で、異なるビジョンをもつ人々が集まり、開かれた世界へと自分たちを高めていく。社会において異なるビジョンをもつ者同士がぶつかり合う瞬間を見てみたいのです。
2010年のTheater der Weltのプログラミングに関してどのような考えをお持ちですか。
 世界演劇フェスティバルではありますが、私は演劇だけのフェスティバルにすることに興味はありません。「コンテンポラリー・シアター」について話すとき、演劇と音楽、ダンス、ビジュアルアートとの境界線はどこに存在するでしょう。つまり、そこにある個性や現代性を提示することが大事であって、彼らが扱う作品の形式ではないと思っています。とにかく、本当の“コンテンポラリー”な作品に焦点を当てたい。メインストリームでもなく、伝統的なものでもなく、いかに現代的であるかということを検証します。さらに、国際的なものや非西洋文化圏のものとの繋がりが重要です。
エッセン市は2010年の欧州文化首都に指定されていますが、この都市は目下自分たちを売り出すことに必死です。欧州文化首都はマーケティング的発想であり、プロモーションのためのものであったりしますが、それはそれとして、私の仕事とは関係ありません。それよりむしろ、世界に開かれたこのプログラムに参加するということが大切です。エッセン市は田舎で、市の境界線が世界の果てのような保守的な場所です。地元の人たちは自分たちのことばかり話しています。世界中のアーティストと出会い、自分たちとは別の、大きな世界があることに気づいてくれることが非常に重要です。さらに、これがヨーロッパ全体に広がっていってほしい。ヨーロッパがナルシズムで、近視眼的なものの見方から解かれていくことを望んでいます。
招聘するアーティストやカンパニーの候補について可能な範囲で教えてください。
 実際にほぼ決まっているものもあれば、現在アプローチしているものもあります。例えば、メキシコ人のある演出家とオペラ作品をつくる構想があります。日本滞在の後すぐにメキシコに出掛けていき、彼と打ち合わせをすることになっています。ドイツのバロック音楽をメキシコ人の発想で上演する、おもしろい企画になると思います。
また、エッセン市の地域的特色を活かした作品を提示できるアーティストを海外からも招聘したいです。エッセンといえば、石炭、鉄鋼業などで繁栄したルール工業地帯の中心的都市でしたが、産業の衰退や人口の減少などで、文化的にも取り残された地域です。産業遺産として残っている古い工場などの建造物は、建築としてもアートとしても美しい。現在ではそういった遺産を文化的に再利用しよういうネットワークが形成されています。この土地とがっぷり向き合う意志のあるアーティストが求められています。歴史的建造物にチャレンジすることは、アーティストにとってもきっと有意義な仕事になるはずです。
「ベルリン」というベルギーのアーティスト集団は、都市の肖像や演劇的なインスタレーションとしての映像作品をつくる予定ですが、エッセンでどんな作品が生まれるか楽しみです。また、サモア生まれで現在はニュージーランドで活動している振付家のレミ・パニファシオにも、参加してもらいたいとアプローチしています。彼は大洋州の伝統舞踊の型をつかったムーブメントを、あくまでコンテンポラリーなものとして追究しているアーティストです。
タイの古典仮面舞踊の手法を用いた独特な表現をする舞踊家のピチェ・クランチェンからは、ニジンスキーを題材に作品をつくりたいと言われています。ロシアのバレエダンサー・振付家だったニジンスキーは、タイの古典舞踊に多大な影響を受けているそうです。ピチェはそれを証明する作品を体現してくれるようです。
ヨーロッパのフェスティバルでは新作委嘱が盛んですが、Theater der Weltではどのように考えていらっしゃいますか。
 Theater der Weltでも既存の作品と新作の両方を予定していますが、私からアーティストに対して、何かをするように頼んだりすることは決してありません。彼らがやりたいことに対して、私たちはそれを実現するために必要なサポートをしますが、それが一方では新作の創造であり、他方では既存の作品の招聘であるということです。真のアーティストなら自分たちは何をすべきかよくわかっているはずです。
もちろん新作を提示することも一つの方法ですが、すでにある作品を適切な形で招聘することも同等に重要であると思います。私は常に、自分のなすべき仕事とは何か、自分の仕事の存在意義は何かを自問しながら働いています。最近の同業者たちはみな、常に新作、ワールドプレミアを欲しがっています。いったい何をしているんでしょう。人が創造する作品には命が宿っているはずです。舞台であれば繰り返し演じることにより質が高められ、異なる観客に出会うことにより成長していく。しかし、現代のほぼすべてのキュレーターたちはとにかく新作を欲しがります。新作恐怖症とも言えるでしょうし、新しいものに取り憑かれているのかもしれません。私たちはその勢いに抗うべきです。このままではアーティストたちを殺してしまっているようなものです。
あなたは長年、ヨーロッパのフェスティバルの現場にいらっしゃいましたから、さまざまな見識をお持ちだと思います。現在のヨーロッパの他のフェスティバルについて何か感じていらっしゃることがあればお聞かせください。
 今や、何でもかんでも「フェスティバル」になってしまっていると思います。劇場さえも絶えずフェスティバルを企画しています。つまり、そういうラベルを張ることに対するニーズや、売り出しやすいパッケージ商品をつくることが目的になっているように見えます。フェスティバルの飽和状態です。フェスティバルにすれば、メディアにも載せやすいわけですから、この傾向は本当に危惧すべきです。劇場なら、普段の活動が影を潜めてしまいかねません。フェスティバルでないと注目されないわけですから。私たちはこういう流行病から自分の身を守っていかなければなりません。
あなたはある意味、フェスティバルに対してオルタナティブなビジョンをもっていると思います。通常、演劇フェスティバルにはマーケティングの要素は大ですが、あなたのような本質的な見方をすることも必要です。しかし、その考えに至るまでには、長い時間がかかるし、深い考察も必要です。そして、あまりにも多くのエネルギーを費やす必要があります。
 繰り返しになるかもしれませんが、アートの世界に生きる私たちは、あらゆる抵抗勢力に打ち勝つための勇気がまだまだ足りない。政治、経済、マーケットの力にいまだに圧倒されています。アートは政治に対して不平不満をよく言いますが、私にしてみれば、アートの世界も同罪です。政治が世界に課しているものすべてを受け入れる必要はないのです。十分にその自由はありますし、なぜそこで「No」とはっきり言って、戦わないのか。今日のような状況があるのは、私たちにも連帯責任があるのです。私たちは抵抗勢力の犠牲者ではなく、同じように原因をつくっただけです。私にとっては、その点がたいへん重要です。
欧米では、金融危機に端を発した財政破綻が相次いでいます。この状況は、文化芸術にとって2つの側面があると思います。一つは社会問題が浮き彫りになり、アーティストたちが立ち上がるべくして、その社会問題に対峙していこうとする動き。もう一つは助成金が減らされるのを恐れて、アーティストたちは率先して政治に迎合してしまうといったことが起こるかもしれません。
 いかなる状況下でも、私は、本物のアーティストはどこにいるか直感的にわかります。もちろん、淫売的なアーティストだらけかもしれません。しかし、経済危機であろうが、予算が下がろうが、本物のアーティストは必ずいるはずです。パンクのようなアラブ世界を大冒険した後に私が言えるのは、欧米(のアート)はとにかく甘やかされすぎているということです。

この記事に関連するタグ