ラルフ・サミュエルソン

5000人以上のアーティスト等を支援
アジアン・カルチュラル・カウンシルの精神

2008.08.08
ラルフ・サミュエルソン

ラルフ・サミュエルソンRalph Samuelson

アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)上級顧問
コーネル大学卒業後、ウェズレイアン大学にて音楽の修士号を取得。民族音楽学の講師、フェスティバルのリサーチャーを経て、1976年よりACCの前身であるJ.D.R三世ファンド財団に勤務し、1992年よりACCのディレクターを務める。今年7月から現職。ACCにおける職務の他、尺八の奏者としても古典曲・現代曲の両分野において、第一線の演奏者としてのキャリアを築いている。

アジアン・カルチュラル・カウンシル(Asian Cultural Council)は、芸術分野におけるアメリカとアジア諸国の交流を目的に、アジアのアーティスト等がアメリカに滞在し、また、アメリカのアーティスト等がアジアに滞在するための奨学金制度を45年以上にわたって継続してきた有名な財団。これまでに5000人を超えるアーティストや研究者たちが、ACCの奨学金制度を活用して交流してきた。そのフェロー(奨学金受給者)には後に世界的に活躍するようになった著名なアーティストも多く、これまでに築いたアジア・ネットワークの価値は計り知れない。そのACCに32年間にわたり携わってきたのが、この7月に17年務めたディレクターから上級顧問となったラルフ・サミュエルソン氏である。アーティストたちのよき理解者であり、アジア・ネットワークの要とも言えるサミュエルソン氏に、同じく日米交流を牽引してきたジャパン・ソサエティーの塩谷陽子氏(アーティスティク・ディレクター)が奨学金制度を支えた思想について聞いた。
聞き手:ジャパン・ソサエティー芸術監督 塩谷陽子
アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)は、アーティスト支援を行う米国の助成財団の中でも最も寛容なやり方で助成金(奨学金)を提供するところのひとつです。
 そうですね、我々の助成は小規模ですから、「額」の面ではなく「援助の方法」という意味において、おっしゃる通りでしょう。我々の援助はお金だけではなく、アーティストたちが彼らの目的に到達できるよう一連のサービスを提供することをも含んでいます。その結果、彼らは母国に戻って仲間や所属先に多大なインパクトを与えます。フェローたちは、細心の注意を以て選ばれ、細心の気配りを以てサポートされる──これが我々のプログラムの特徴のすべてです。
その「気配り」ということには本当に感服しています。なにしろACCのケアは、海外からのフェローたちが異国に数カ月滞在するために「住む場所を手配する」といった実質面だけではないですものね。ACCから助成を受けた人々との数々の会話によれば、例えばあるアジアのアーティストがニューヨークに滞在している間、ACCのスタッフはそのアーティストに会って、彼が何に興味があり何をやりたくて、そしてどこに行きたいのかを聞く。それを実現できるよう手助けするのはもちろん、さらなる情報の提供や、「あの人に会ったらこのアーティストの将来に役だつだろう」という人々とのミーティングまでセットアップしてあげる。そのアーティストの英語力が不十分な場合には通訳の手配までしてあげる、といった具合ですから。この「細心のケア」というポリシーは、いつから始まったのですか?
 ジョン・D・ロックフェラー三世(JDR 三世)氏の考えでした。1963年にJDR三世氏は自ら出資をして、J.D.R三世ファンド財団を設立しました。小さな財団ですが、「米国とアジア諸国との間の文化交流をサポートする」という目的にはっきり焦点を定めた財団でした。「多少のまとまった金を持っていたとして、それを文化交流とその発展のために使いたいとしたら、何が最良の方法だろう?」と、JDR三世氏はポーター・マクレイ氏に相談したのです。ニューヨーク近代美術館の「国際展覧会」というプログラムを作り上げた人物で、「米国の美術を海外へ送り出す」という事業──主にヨーロッパとラテン・アメリカ方面でしたが──におけるMoMAの最初の試みでした。JDR三世氏とマクレイ氏は膝を突き合わせて相談し、マクレイ氏はJ.D.R三世ファンド財団のプレジデント職に就くことを承諾しました。
 「才能のある《個人》に助成金を提供しよう」というのが、彼らの決定でした。大きな組織が行う一展覧会に小さな金額を寄付したりするよりも、ずっと効果的なプログラムを行う、つまり、「最高の人材を注意深く選び、彼らの目ざすものに対して細心の手助けを施してやれば、小さな金も大きなインパクトを生むはずだ」、そう彼らは考えたのです。
 それは、一個人が発揮し得る力というものを信じることに繋がります。この種のインパクトが起こり得る機会を最大限に作り出してやるプログラムというのは、非常に手間のかかる贅沢なものですが、それは当時のJDR 三世氏の考えを反映しており、今もってこの発想が我々の事業の核となっています。
ACCが非営利の財団として発足したのは1980年ですよね。けれども数年前にACCは「40周年記念」と銘打った資金調達のガラを行っています。つまりJ.D.R三世ファンド財団の設立をACCの誕生だというふうに計算しているのですね?
 そうです。JDR 三世氏は、当初3種類のプログラムを設けていました。最も主要なものが「アジアン・カルチュラル・プログラム」と名付けられたアジアとの文化交流事業です。《アジア》とは、西はアフガニスタンから東は日本までという範囲で、この地理的な定義は現在も健在です。彼はまた教育における芸術の役割ということにもたいへん関心を持っていましたので、「アーツ・イン・エデュケーション・プログラム」という事業も作りました。小さな事業で米国内だけを対象としたものでしたが意義深いものでした。3つ目はほんの数年しか存続しなかった「青少年プログラム」。しかし何にせよ中心になっていたのは「アジアン・カルチュラル・プログラム」です。芸術という分野の中で、作家や学者や芸術にかかわるプロの人たちという《個人》を対象にしたフェローシップ・プログラム、つまり今の我々の事業は、基本的にこの1963年時に作られたプログラムの体系とまったく同じです。「継続は力なり」です。その歴史を今からお話します。
 JDR 三世氏は、ロックフェラー家の三世代目にあたります。寄付行為を行う篤志事業のプロであり、もの静かで縁の下の力持ちという方でした。プリンストン大学を卒業後、1929年に初めてアジアを訪れて以来アジアに惚れ込み、戦後のサンフランシスコ講和条約の後には、ジョン・フォスター・ダラス(アイゼンハワー大統領政権時、1953〜59年に国務長官)の一行に同行して再び日本を訪れました。文化面での交流関係を築くという任務を与えられていたためです。その後も、妻のブランシェットと共に日本以外のアジアの国を訪れ、彼らは特にアジアの美術に傾倒します。当時の戦後世界情勢において、アメリカとアジアの人々はもっと互いを深く理解しあう必要があると強く感じた彼らは、米国とアジアという異なる二つの世界の関係を築くべく様々に尽力しましたが、中でも大きなのは(貴女もよく知っているように)ジャパン・ソサエティーの再建(JDR 三世は、1952年にジャパン・ソサエティーのプレジデントに就任)、そして1956年にアジア・ソサエティーを設立し、翌1963年にJ.D.R 三世ファンド財団を作ったのです。
 ところが1978年、JDR 三世氏は不慮の自動車事故で亡くなります。高齢ではありましたが、死ぬことなど念頭になかったから、J.D.R 三世ファンド財団を今後どうしていくかとかいう遺書もありませんでしたし、財団には基金もありませんでした。その頃には「アーツ・イン・エデュケーション」プログラムは終了していましたから、J.D.R 三世ファンド財団の活動はアジアン・カルチュラル・プログラムだけでした。
 とにかく長い話を要約すれば、彼の遺産の管財委員とブランシェットたちはアジアン・カルチュラル・プログラムの意義を認め、このプログラムは存続させるべきだとの合意に達したのです。そこで、彼らは小さな基金をこのプログラムのために設けると同時に、J.D.R 三世ファンド財団を、公からの寄付を募って運営される501(c)3というステイタスの組織、つまり民間NPOにしました。
それが1980年なのですね?
 そうです。「外に出かけて行って運営資金調達することで、このプログラムを存続させなさい」ということです。さらに我々は、この新組織を「アジアン・カルチュラル・カウンシル」という名前に変えました。新しい名前、新しい運営体制、そして外に出かけていって公に資金を調達する──その始まりが1980年なのです。フォード財団、スター財団、そしてメロン財団、さらに堤清二氏と西武セゾングループが、国際交流基金を通じて資金提供してくれたのです。さらに、その他の方面からも寄付を得るべく、年次ごとの資金調達も開始しました。そうしてアジアでの運営資金を拡大していったのです。
ACCはアジアのいくつかの場所に自営の事務所を構えていますね。
 最初の事務所は、堤氏の援助によって誕生した「ジャパン・プログラム」を行うための日本事務所でした。1985年には香港事務所を、1995年には台湾事務所、2000年にはフィリピン事務所を開設しました。東京・香港・台湾・フィリピンの各地域には、各現地で我々とともに資金調達活動をしてくれる人々がいますから、この4つの場所では、他のアジアの地域よりも多くのことができます。
ということは、この4つの場所で調達された寄付金は、それぞれの場所のためにしか使えないという限定条件付きなのですか?
 各地は互いに少しずつ条件が違っていますが、基本的にはその通りです。例えば香港の場合、香港で調達した寄付は香港と中国全土の個人と団体を対象に使えますが、台湾からの寄付は台湾だけ、フィリピンもフィリピンだけです。
ACCは、アメリカの個人がアジアに行ったり、アメリカの団体が個人をアジアに送ったりする時の助成もしていますよね。
 我々のプログラムの第一義は常に、「アジア人が米国を訪れる」ことに対する支援です。ただし「ジャパン・プログラム」の場合のみは、「双方向的に」ということが最初からの条件でした。ですから長年、ACCがアメリカ人のアーティストのアジア行きを支援できるのは、日本行きだけだったのです。が、近年ではヘンリー・ルース財団がくれた寄付によって、アメリカ人をアジアのどの国にも送れるようになりました。
他にも近年の新しい動きはありますか?
 アジア内での交流に対する助成を、2000年からスタートさせました。つまり、「アジアとアメリカ」だけでなく、例えば中国の人が日本へ行きたい場合、あるいは日本人がインドネシアを訪れたい場合、などです。これによって、アジアの助成申請者のものの考え方が以前とは違う方向に向かいました。発端は、他のアジアの国のことをもっと理解したいと思っていた日本の申請者です。さらに、ACCのフェローには、特に舞台芸術の分野で、古典の音楽を学び、日本に興味を持っている多くの中国人がいます。例えば、現在ニューヨークに滞在しているフェローのひとりはとても優秀な古琴奏者で、現代音楽や実験的な音楽に非常に興味を持っていました。中国で伝統楽器の奏者が現代音楽を試みるというのは、ようやく最近起こってきた動きです。けれど、日本ではそれはもう長年やってきていることでしょう。
助成申請と、その審査基準、審査のプロセスなどについて説明してください。
 ACCの助成に申請したい人は、このニューヨーク・オフィスにでも、アジア各地のオフィスにでも、どこにでも申請を出せます。その申請書に書かれた内容を吟味してから、次の段階として過去の作品や活動の資料に目を通します。そこからより注意深くその申請者を知る作業に入り、我々はここで最終候補に選ばれた申請者たちに実際に会いにいきます。ですので、我々のスタッフはアジア各地によく出張に出かけます。
それはつまり「面接」ということですか?
 ACCでは「面接」という言葉を意識して使わないようにしています。「申請者に会う」というのはつまり、申請者の《地元》で会うことによって、彼らが誰なのかよく知ることができますし、彼らの作品や仕事が地元の文脈の中でどのような位置を占めているか、そもそもその《文脈》とはどんなものなのか、それを把握したい。それが申請を評価するプロセスの一環となるわけです。しばしば、我々の付き合いのある人で、申請者の仕事に近いところにいる人物に面談を頼む場合もありますが、基本的には、助成対象者を決定する前に我々スタッフ自身が申請者と会うのが基本です。
どれくらいの人数の人がACCに申請をして、どれくらいの人数の人がACCのスタッフと《会う》段階にまでゆくのでしょう?
 あまり一概には言えませんが、例えば今年なら、「申請したい」とACCにコンタクトをしてきたのがたぶん1000件くらいで、そのうち700件くらいに申請書を送付しています。そこからだいたい450件ほどが実際にACC申請書を提出し、その先に我々スタッフが会う個人の申請者は、80人くらいでしょうか。最終的には、アメリカ人がアジアに行くケースも含め、対個人・対団体合わせて、合計100件が助成を獲得します。
どのような人が審査に携わるのですか? 「審査委員会」のようなものを作っているのですか?
 「アドバイザー委員会」というものを、各地・各(芸術の)ジャンルごとに設けています。アジアの4つのオフィスにも、現地ごとのアドバイザリー委員会があります。委員たちは実際に集まって話し合い、推薦する者を決めます。我々はこれも意識して「審査委員会」とは呼ばずに「アドバイザリー委員会」と呼んでいるのですが、というのも、彼らの話し合いは(決定ではなく)推薦をすることであり、あくまで長い審査の一過程だからです。また、受けた申請の内容によって種類の違うアドバイザリー委員会を設けたりもします。
私は自分の仕事上、ニューヨークを訪れたいと思っている日本人のアーティストや、日本へ行きたいと思っているアメリカのアーティストなどに数多く出会うのですが、彼らの渡航の希望が、「展覧会をやりたい」とか「公演がしたい」とかいうのではなく、むしろ「行ってみて、何が起こっているのか見てみたいのだ」というような場合には、ACCの説明をして申請してみてはどうかと勧めています。何人かは、実際にACCにコンタクトをして、興味の内容を簡単に説明したものを提出し、めでたく申請書を手にしたりしています。
 それは良いですね。どうやって申請するかということについて言うならば、まずはインターネットや何かのきっかけで我々のことを知った、というケースがあります。二つ目には、我々のことを知っている人や以前にACCのフェローだった人々が、貴女がなさっているように、若いアーティストや研究者にACCの話をする場合。我々の過去のフェローはアジア全土とアメリカに5000人いますから、彼らは申請を広く奨励したい我々にとって貴重な広報資源です。そして三つ目。ACCのスタッフが出張先で、すばらしいアーティストに出会い、その仕事の重要さを感じ興味をそそられて、「ACCを通じての国際的な体験をすることが、この人の利益になるのではないか」と思った場合、そのアーティストに申請を勧めるケースです。
ACCのスタッフが勧めたからといって、申請の審査過程が免除されるということではありませんよね?
 もちろん免除などされません。誰もが申請書を提出しなければなりません。申請しようとしている人たちに私がいつも言っていることですが、競争率の高い助成金の審査というのは、最初はなにしろ脆弱な申請を振り落とす作業に始まります。簡単に半分くらいの数になる。この作業を繰り返して、だいたい最後の10件くらいにまで絞った時点では、すべてが強力な申請ばかりになっているものです。この中からたった一つを選ばなければいけない場合、どうするのか? そこまでくると皆等しく助成を得る価値があるのです。最後の段階での決定は、まったく本当に難しいものです。
 つまりは、時には良い結果かもしれないし、時にはそうではないかもしれない、そういう理解のもとで成り立っているのが助成申請というものなのです。アートの世界にいるアメリカ人は、なにしろ「助成申請」という歴史とすでに50年つきあっていますから、このコンセプトを受け入れていると思います。けれども、アジアの多くの地域においてはこのプロセスは新しいものなので、ACCから助成申請書が送られて来た時点で、申請者たちは助成金がもらえると思ってしまうかもしれません。
そうですか。でも日本ではそんなことはないと思いますが…。
 今はそんなことはないですが、かつては日本もそうでした。アジア各国の芸術や学究の世界にいる人たちが、助成あるいは賞与のための「公募申請」というコンセプトを学習することにおいて、ACCは一翼を担ってきたと思います。
舞台芸術の分野における助成の成果の実例をいくつかお話いただけませんか?
 どなたか外部の方にお話いただくほうがいいかとも思いますが、私自身は、作曲家の例をいくつも思い起こします。例えば近藤譲。確か1979年か1980年に、ACCの助成で1年間ニューヨークに滞在しています。当時の彼は若手の作曲家で、ジョン・ケージやあの一連の作曲家によるアメリカの現代音楽に興味を持っていました。近藤譲のここでの経験は、そういった作曲家と実際に交流を深めることができたというだけでなく、彼が世界の作曲界のどこに位置するのかをよりよく理解するための重要な経験となりました。彼自身ならもっと正確にこのことを説明できると思いますが。その3〜4年後に、佐藤聡明がやはりACCの助成で(ニューヨークに)来ました。彼は、西洋の影響を受けつつも、彼のバックグラウンドや受けた教育、美学という観点からみてももっとずっと日本というものに比重を置いている作曲家であり、思想家です。ですから、その彼が日本を出て、ニューヨークという国際的な環境の中に身をおいたことは、劇的なことだったと思います。
ニューヨークにいて、彼が自分自身のアイデンティティを見直したとか、日本人としての意識を深くしたとか、そういう意味ですか?
 佐藤聡明にとって海を渡りアメリカで過ごすというのは、挑戦だったと思います。どのような発展をみたかという面においても、よっぽど強烈な経験だったのでしょう。彼の音楽を聞いたアメリカ人はたいへん好意的でした。しかも、日本よりも早くアメリカで彼の音楽は演奏されるようになった。彼の音楽が国際的に演奏されるようになってようやく、日本の人々も彼の音楽を弾くようになりました。キャリアという意味で、非常に実践的な成果を生みました。
他の分野ではどうでしょう?
 近年の例をあげましょう。乙女文楽の桐竹繭紗也と知られる木村真奈美です。彼女のACC助成の一段階目はインドネシアへの1カ月滞在で、かの地の棒使い人形劇や影絵人形劇を初めて見て、彼女は非常に感銘を受けました。その後の5カ月の米国滞在も彼女にとってすばらしい体験で、バジル・ツイストやダン・ハーリンといったニューヨークの現代人形劇のアーティストたちと出会って、相互に影響を与え合いました。
バジルもダンもふたりとも日本の伝統劇な人形芝居から深い影響を受けたアーティストで、しかも独自の人形舞台を創造してきています。バジル・ツイストもACCのフェローですし。
 ここニューヨークだけでなく、ラリー・リードのような西海岸のアーティストにも木村真奈美は出会っています。非常に様々なことが派生的に起きて、しかも彼女はここで出会った人々との関係を今も継続して、そのことが彼女をヨーロッパに誘うという結果をも生んでいます。また彼女は、「言語の壁」という意味でも非常に面白い例でした。英語はあまりしゃべれなかったのですが、それでも人々とのコミュニケートに尻込みすることなく、実際、まったく英語をしゃべらないままに自分の人形の技術・芸術を使って人々とコミュニケーションできていました。
アメリカ人がアジアを訪れるという逆方向で成果を上げた実例はありますか?
 実にたくさんありますよ。例えばカレン・カンデルという女優で、マブー・マインズをはじめ多くの実験演劇の演出家たちと仕事をしています。ACCの助成で彼女は初めて日本を訪れました。目的のひとつは、当時オン・ケン・センが作っていた新作の『芸者』という作品に出演するための準備で、芸妓にインタビューをするというものでした。ACCと付き合いのある芸術分野の人々は芸妓の世界とのつながりがなかったので彼女を助けるのは難航したのですが、最終的には、ACCは彼女の調査を手助けすることができました。滞在中、彼女は能に非常に傾倒しまして、能の稽古を始めました。以来、彼女は機会をみつけては日本に通っています。彼女は非常に多くの日本のアーティストとの交流を深めています。
よくわかります。実際、アメリカ人にしても日本人にしても、一度ACCの助成で互いの国をおとずれた人は、その後も再訪するというケースを何件も知っていますから。さて、ACCのフェローには、「国際スター」的なアーティストも大勢いますよね。
 スターというカテゴリーなら、村上隆の話をしましょうか。ACCの助成を得たのは1992年、彼がまだ若い美術作家だった頃のことです。「物議をかもす」といった類いの注目を多少は受け始めてはいましたが、もちろんスターなどではなく、ニューヨークのP.S.1で1年を過ごしました。P.S.1は、1977年以来「インターナショナル・スタジオ・プログラム」というのをやっていまして、80年代の半ばからは「ジャパン・スタジオ」を開始したんです。ACCは毎年、P.S.1のスタジオで制作滞在をする日本からのアーティストに助成をしていました。村上隆はそのプログラムの参加者でした。川俣正もそうですよ。あと、祭國強も。彼は当時日本に住んでいましたから。ただし、残念なことにP.S.1は近年インターナショナル・スタジオ・プログラムを撤廃してしまいました。
関係者の間では、「ACCのフェローばかりだよね」、という話題が時々出ます。例えば、経済的にとか、キャリアの上でとか、あるいは国際的な名声を得るとか、成功したアーティストが登場するたびに「あ、この人もACCのフェローなのか」とわかる。「ACCのフェローが世界を制覇しているみたいだなぁ…」と私たちは語り合っているのですが、そのことについてどう感じていらっしゃいますか。
 フェローの多くが、重要な仕事をしていたり、業界で名の通った存在になっているというのは素晴らしいことです。しかし、多くのフェローは、人々が名前を聞いたこともない人々です。名の売れた人というのは、ほんの一部です。もっといればいたに越したことはないとはいえ、例えば、チエンマイ市の小さな劇場の演出家や、ホーチンミン市にいる美術作家、ソロ市の振付家など、知られていない人々は大勢います。つまり「ACCが世界を制覇している」などというのは正しくありません。そんな例も2〜3あるかもしれませんが、我々のプログラムは基本的に非常に小規模なものなのですから。
フェローはみんな、助成期間の終わった時に報告書を提出しなければならないはずですが、例えば、申請の時に「これこれがしたい」と書いた内容と、実際にその人が他国での滞在期間中にしたことが全く違っていた場合、それでも良いのでしょうか?
 もちろん、問題ないです。ひとたび、他国の文化にさらされて異経験をしたならば、人の考えは変容するものです。つまり、新しい場所で新しい経験をするにつれて、当初定めた方向や目的が変わるのは、ごく自然なことだと思っています。
ではこんな場合はどうでしょう? これは実際に私が知っている事例なのですが。アジアからのフェローがニューヨークに滞在していて、一方、ACCのスタッフは彼が滞在中に出会ったら彼のキャリアの役に立つだろうと思われる面白い人々と彼を巡り会わせるべく、アポ取りに腐心している。しかし、その人はこういうサービスをうっとうしいと感じて、自分のアパートに引きこもっている。助成金のおかげでニューヨークにいるのに、どこにも出かけない、誰に会おうとしない…。
 問題ないです。もしも引きこもることが彼にとって役立つことであるならば。そのフェローが、例えばモノを創るアーティストだとして、ならばひとりで考える時間が必要なのかもしれず、その結果の引きこもりかもしれない。それはオーケーです。
つまり、全面的に信頼しているということですか?
 もちろんです。まぁ、それ故、このプログラムも100パーセント完ぺきではないかもしれないし、リスクも負っています。ですが、我々は常に、フェロー個人に抱いた印象と信頼関係の上に立って助成の決定を行っているのです。
501(c)3というステイタスに照らせば、ACCは、近い将来や遠い将来の方向性や目標を定めるためにも、何らかの方法で「フェローの為したこと」を評価・判断しないとならないですよね。その際の評価の基準は何なのでしょう? 今までのお話から、明らかに彼らの報告書でないことは確かですが。
 我々の組織は個人に対して投資をする小さな団体です。ACCとしてもそして私個人としても、一般的には、芸術や文化への助成に対して「量」を評価軸にするのは難しいのではないかと思っています。ACCは個人に対して投資をしているのですから、この根幹にのっとれば、我々の仕事とは「個人とその個人の仕事を知る」いうことに尽きます。我々は助成の期間が終わってからも彼らと長くつきあって、我々のネットワークや助言を以て彼らのその後のキャリアを支えてゆきますし、必要ならば何らかの追加の支援をすることもあります。
 となると、何を評価の基準にしたら良いのか? それは、5年、10年、あるいは15年かけて、その人がどのような道を歩むのかを見続けるということです。我々のスタッフがアジアへ出張をする時、どこへ行こうとも、我々はACCのフェローたちが大きな文化団体を率いる立場になっていたり、彼らが重要な発言をしていたりするのを目にします。それこそが「我々の行っていることは成功しているか否か」を評価する方法です。
つまり、非常に長い時間をかけた評価、ということですね。
 その通り。ですから、「量」を評価軸にしようとする寄付者に対して成果を示すことは難しいんです。
ACCの最新の動きについてお話いただけますか。
 この7月1日付けを持って、私はACCのフル・タイムのポジションから退きました。1976年から32年間勤めて、1991年からはディレクターを務めていました。今後はパートタイムで、私に貢献できる重要な部分のみ集中して働いてゆきます。この変化はいわば個人的な理由で、今後は私の別の興味の部分を追うことで人生のバランスを取って行こうというものです。というわけで、私の新しい肩書きは「上級顧問」。新しくエグゼクティブ・ディレクターに就任するのは、つい先頃までアルトリア・グループ(元フィリップモリス)の企業貢献部バイスプレジデントを務めていたジェニファー・グッデールです。篤志事業のすばらしいプロで、アルトリア社の企業の芸術支援を米国最大の規模にまで育てた実績を持っています。彼女はこの国の芸術のことや芸術団体のことを熟知しており、卓越したマネージャーで、そして優れた資金調達能力をもったすばらしいチーム・プレイヤーです。彼女には豊かな国際経験があります。アジア専門家ではありませんが、多くのアジア通のプロに囲まれて仕事をしていきます。
ジェニファーさんが背負ってゆく新規の使命とか課題といったものはあるのでしょうか?
 ありません。前にも言及しましたように、私たちの強みは「継続」です。継続こそが、このプログラムを成功に導いているものだと私は考えていますし、ACCの理事会も同じ見解を持っていますから。今日のACCが直面している新しい挑戦は、むしろ経済的な問題です。寄付をもっと集めなければなりませんし、その必要性は過去に例をみないほど高くなっています。アメリカ国内での資金調達は、我々にとってはある種新しい行為で、ニューヨークで資金調達のためのガラを始めたのもそのためです。
ジェニファーさんは優れたファンドレイザーだとおっしゃいましたが、そうすると他のアジアに関係する米国の非営利団体──例えばジャパン・ソサエティー、アジア・ソサエティー、チャイナ・インスティテュート、あるいはグッゲンハイム美術館の現代アジア美術プロジェクなど──は、大丈夫でしょうか? つまり、アジアのことに寄付をしてくれそうな資金源をACCがすべてさらってしまうかも…という心配はありませんか?
 もちろんそれはないでしょう。我々はこの10年間に米国内での資金調達活動を積極的に行ってきましたが、ACCを支援しようと興味を抱く寄付者は非常に限られています。何しろACCは寄付者に謝辞を表明する機会があまりありませんから。例えば、ジャパン・ソサエティーやグッゲンハイム美術館などは、一般の目に触れるパンフレットやカタログに寄付者の名前を掲載できますし、プログラムや公演にその寄付者の名前を冠したりもできる、あるいはその美術館の一部屋に寄付者の名前を付けることもできますが、こういった一切の返礼を、ACCはできません。年次報告書やウェブサイト以外には、一般の目に寄付者の名前を露出させる手段がほとんどないのですから。
 別の言い方をすれば、ACCは一般向けのプログラムを持たず、ただ助成金を出すだけの財団なために、「一般が認知できる人格」というものを持ってないということです。ですから、我々が誰で何をしているのかを常に人々に説明しなければなりません。ところが、「私たちはアジアン・カルチュラル・カウンシルという名の助成財団で、ジョン・D・ロックフェラー三世が設立しました」と説明すれば、「あぁ、アジア・ソサエティーですね」と言われ、「いや、そうじゃなくって。アジア・ソサティーは一般向けのプログラムを行う活動団体ですが、我々は財団ですよ」と言えば、今度は、「あぁ、ロックフェラー財団ですね」と言われ、「いや、そうじゃなくって…」ということになるのです。我々が誰なのかをはっきりとした絵を描くのはとても難しいのです。
その悩みはわかる気がします。けれども、私を含めてACCのことを知っている人間にとっては、ACCを知らない人が大勢いるなどということはまるで想像もできません。私たちやアーティストにとっては、ACCはなによりもまず真っ先に知るべき財団だというぐらい大きな存在です。
 ありがとうございます。それも確かでしょうけれど、アジアの文化に関係している人々以外には、ほぼ無名です。それは資金調達の困難さを意味するわけです。つまり我々への寄付者は、そういった我々のプログラムの意義を真に理解するところまでつきあってくれた人たちです。
ジェニファーさんの仕事は、現在アジアにいる寄付者・支援者との関係を維持するということも含んでいるのですか?
 はい。重要な業務ですから、私も引き続き携わっていきます。
ラルフさんはしばしば、「アメリカ人が日本へ行くための助成金の獲得は一番競争率が高い」とおっしゃっていましたね。
 アジアに興味を持っているアメリカ人の《ものを創るアーティスト》に関して言えば、現在最も人気の高いのは中国で、従って助成金獲得の競争率の高いのも今は中国です。もちろん日本へ行きたいと思う人々まだまだ大勢いますが、90年代の時ほどの競争率ではありません。この点についても再び《資金》が課題です。非常に多くのアメリカ人が申請書を提出してくるのに対して、我々が供給できるのは小さな金額のみなのですから…。
研究者も含めて、現在、何人の日本からのフェローがニューヨークに滞在していますか?
 現在はそれほど多くないですね。美術作家の橋本聡、コレオグラファーの常樂泰、東京都写真美術館のキュレーターの小林美香です。小林さんは、インターナショナル・センター・オブ・フォトグラフィー(ICP)で開催中の日本に関する写真展『Heavy Light: 近年の日本の写真とビデオ』のために、ICPでインターンとして働いています。それから、ハープ奏者で《箜篌》の奏者でもある菅原朋子。箜篌は、西アジアを起源にする古代琴のひとつです。菅原さんはこの楽器を弾くと共に、過去十年、国立劇場主催の正倉院楽器復元演奏をはじめこの楽器に係る様々なプロジェクトに参加してきました。ここニューヨークでは、中央アジアの琴の研究者であるボー・ローワーグレン氏の下で研究に従事しています。
最後の質問になりますが、ニューヨークに滞在する日本のアーティストにとって、最も価値のある経験は何だとお考えですか?
 おそらく「アーティスティック・コミュニティー」というものを感知することでしょう。演奏家、作曲家、ダンサー、画家──ニューヨークでは彼らは共に語り、共に支えあい、互いの仕事を見せ、観に行きます。こういうコミュニケーションが「アーティスティック・コミュニティー」という空気を作りあげますが、これは日本で体感するのはなかなか難しいものです。
まったく同感です。ACCの助成金で日本からニューヨークに来たアーティストの多くが、「アーティスティック・コミュニティーというものを体感したのは目から鱗だった」と異口同音に語っています。貴重なお話とお時間をどうもありがとうございました。

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