- 韓国国立中央劇場は韓国演劇人たちにとっては故郷のような存在と言われていますが、その歴史と機構をご紹介いただけますか。
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韓国国立中央劇場は1950年4月にアジア初の国立劇場として設立されました。当時はここ南山(ナムサン)ではなく、市内の太平路(テピョンロ)の方にありました。日本が韓国を統治していた1935年に京城(キョンソン)府が府民のためにつくった「府民館」という大規模劇場があったのですが、光復(クァンボク)(1945年8月15日)後、米軍に接収されて一時使用され、1949年にソウル市の所有となりました。この建物が、国立劇団の旗揚げとともに国立劇場として再開したわけです。
しかし、開館後間もなくの6月に朝鮮戦争が始まり、国立劇場は慶尚北道(キョンサンプクド)の大邱(テグ)に一時的に移転を余儀なくされます。そして、1957年6月、明洞(ミョンドン)にある芸術館を引き受け、ソウルに帰還しました。この建物も1935年に日本人が建てた明治座という元・映画館でした。国立劇場もまた韓国の近現代史から逃れられない時間を過ごしてきたわけです。
現在の国立中央劇場は、1973年に開館したものですが、日の出(ヘオルム)劇場(1,563席)、月の出(タルオルム)劇場(427席)、星の出(ピョルオルム)劇場(約100席)、野外劇場の空(ハヌル)劇場(約600席)の4つの劇場があり、現在は国立劇団、国立唱劇団、国立舞踊団、国立管弦楽団の4団体が所属しています。 - 2006年に国立劇団の芸術監督として就任されましたが、それまでもずいぶんと国立劇団でお仕事をなさってきましたよね。
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ええ、おそらく国立劇団でもっとも多く仕事をしてきた演劇人のひとりだと思います。余談ですが、大学生時代に書いたデビュー作ともいえる『栄光』(1962)も明洞の国立劇場で公演しました。ある日、明洞の喫茶店で朴正熙(パク・チョンヒ)将軍がラジオ訓話で「市民芸術祭」を開催すると宣言したという話を聞いて、その翌日が締切りにもかかわらず、この『栄光』という作品を書きました。当時としてはものすごい額の賞金でしたし、国立劇場で公演できるというので、即席で「回路舞台」という劇団までつくって(笑)。
その後、『換節期』(1968、林英雄(イム・ヨンウン)演出)、『高草熱』(1968、林英雄演出)、『女王と奇僧』(1969、李眞淳(イ・ジンスン)演出)、『飼育』(1970、ナ・ヨンセ演出)、『山茱萸』(1980、李海浪(イ・ヘラン)演出)などの作品を国立劇団に書き下ろし、1978年の『飛沫』からは劇作と演出の両方で一緒に仕事をしてきています。 - 国立劇団は、韓国演劇界においてどのような存在ですか。
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韓国には、演出、俳優、スタッフなど、演劇に関わる人々が、経済的に保障されている専門劇団がほとんどありません。唯一あるとすれば、国立劇団のように公的機関が運営する国や市の芸術団体だけです。私は劇団木花(モックファ)という劇団も運営していますが、多くはこのような小劇団です。小劇団の場合、俳優たちは30代半ばになると、結婚したり、子どもが出来たりと、経済的な理由から多くが劇団を離れていきます。近頃はプロデュース公演やミュージカル公演が増加し、劇団を離れても専門俳優として活動していける道はありますが、それでも継続して舞台経験を積むのは簡単なことではありません。そのため俳優の層は薄くなっています。
このような韓国演劇界の状況の中で、国立劇団の俳優たちは一定の社会的保障を得ているため安心して俳優業に専念でき、経験を積んだ俳優から若い俳優まで年齢層が幅広いのが特徴です。しかし、最近は独立採算を要求され、少しずつ難しい状況になりつつありますが、それでも民間劇団や興行会社のように収支に大きく左右されることなく作品をつくることができます。
このような条件を備えた国立劇団は、正統演劇を志しながら実験的な試みが可能な場であり、時代の流行や潮流に左右されずに演劇活動ができる大きな存在です。また、今年、韓国新演劇は100周年を迎えました。新演劇とは日本でいう新劇のことですが、この新劇の確立と韓国現代演劇の基礎をつくってきたひとつが国立劇場と国立劇団だと思います。 - 木花では志を同じくする同人劇団にこだわり、変わることなく黙々とご自身の演劇世界を構築なさってきましたが、国立劇団で何をなさりたいと思いましたか。また、就任後に国立劇団が変わった点はありますか。
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役に合った年齢の俳優たちと作品をつくりたかったし、自分の作品もそうですが、国立劇団の作品やレパートリーの完成度も高めたいと思いました。朝鮮6代王端宗(タンジョン)と朝鮮7代王世祖(セジョ)の政治的葛藤を背景にした『胎(テ)』は国立劇団で以前に何度か公演している作品ですが、就任後、伝統を活かした韓国を象徴する国家ブランド演劇の最初の作品に選ばれ、3年間の国家助成を受けて制作しています。初年度に再演、2年目にはインド公演、来年はポーランドと日本での公演を準備しています。特に史劇は、その役に見合った年齢の俳優と十分な稽古が必要なので、国立劇団だから可能な作品といえるでしょう。
私が就任して変わった点は、どうでしょうね。国立劇団が本格的な芸術監督制になってから、まだ10年にもなりません。芸術監督制の前は、俳優たちの中から団長を選んで運営していました。私から任期が3年制になりましたが、前芸術監督たちは2年でした。まだ、芸術監督と国立劇団の両者が、国立劇団における芸術監督とは何かを模索している段階なのかもしれません。長い間のシステムはそう簡単には変わりません。芸術監督というそれぞれ違う色をもった新しい風が吹き込み、徐々に変わっていくのではないでしょうか。
- 国立劇場に芸術監督制が導入されたのはいつですか?
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2000年だと思います。演出家のキム・ソクマン氏、キム・チョルリ氏の時は、団長もいて2人体制で国立劇団を支えていました。その後、イ・ユンテク氏から単独芸術監督制になり、私は2代目です。国立劇団は俳優集団です。韓国演劇界が演出家の時代と言われるようになり、潮流が変わり始めたのを契機に国立劇団も外部の演出家を芸術監督として起用し始めました。
- 国立劇団の人員構成と年間公演は?
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現在、俳優は26名、年間4本以上の作品を公演しています。作品は最終的には芸術監督が決めますが、観客のアンケート、韓国の古典作品の再創造、モリエールやシラー、シェイクスピアやチェーホフの西洋の古典作品、それと創作戯曲の4つの柱で年間レパートリーを組んでいます。特に創作戯曲には力を入れ、一般公募とともに、30代〜70代の劇作家に作品依頼をして、競わせるというのはおかしいですが、その中から1作品を選ぶこともしています。
演出家は国内だけでなく、海外からも招聘しています。特に1年に1作品は公演している「世界名作舞台シリーズ」の時は、海外の演出家を招いて、西洋演劇の演出法を俳優も観客も体験できるようにしています。今年はドイツのイェンス・ダニエル・ヘルツォークを招聘し、『テロリスト・ハムレット』を公演しました。私も一部劇中劇の部分を担当させてもらいましたが、西洋と東洋が混在する楽しい仕事でした。そうそう、それと今年は俳優たちにも「スタジオ俳優熱戦」という企画で演出する機会を与えました。 鄭義信 さんの『冬のひまわり』を中堅俳優イ・サンジクが演出し、国立劇団の若手俳優たちが総出演して好評でしたよ。
- 最近、国立劇場と海外団体との交流も盛んになった気がしますが。
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国立劇場は以前から海外と交流していましたが、館長がシン・ソンヒ氏に代わり、活発になり始めたように思えます。去年から『世界国立劇場フェスティバル』を開催していますが、第2回目の今年は、10月1日から30日まで、フランスのオデオン国立劇場、ノルウェーのベルカントフェスティバル、中国国立バレエ団などが参加し、韓国の団体も合わせて11団体が公演します。また、国立劇場の各専属団体も年々海外公演、海外交流に力を入れるようになってきました。最近、韓国は国家次元で文化ブランドを海外に出すことに力を入れていますからね。
- 今年で芸術監督の任期を終えるわけですが、国立劇団に対する今後の希望は?
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就任して一番残念だったのは、公演期間が短いことでした。1週間程度の公演期間では、作品の完成度はなかなか上がりません。演出も、俳優も、観客と出会い、何かをつかみ、舞台に集中し始めた頃に幕が下りるという感じです。先ほど俳優の層の厚さと経済的な安定についてお話をしましたが、これが国立劇団の長所なら、公演期間が短く、作品の完成度をなかなか上げられないシステムは短所といえるでしょう。俳優は何といっても、舞台を経験することで、訓練され、演技力が向上していくものなのに。
私としては、20人ほどの俳優を1チームとして2チーム40人が常時稽古しているのが理想です。作品によってはオーディションも行い、外部の俳優とも切磋琢磨し、休むことなく作品が上演されている。演劇と俳優はコンクリートミキサーと同じです。止まるとどんどん固まっていきます。回り続けることで、いつでも柔軟な演技と作品を創出できるわけです。これは、予算や観客動員など、制作的なことも絡むので簡単には変えられないと思いますが、今後検討してもらえればと願っています。 - 任期終了後の劇団の活動は?
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在任中も、劇団はバービカン劇場など海外でも公演し、劇団は劇団として以前と変わらず活動していました。今月は中国の北京、南京、張家港の3都市で『ロミオとジュリエット』を公演します。中国公演が決まった時は、感慨深かったですね。劇団木花が『胎』で初めて日本公演をしたのが1988年、その20年後にやっと中国公演ですから。韓国と日本、韓国と中国、この20年の時差はいったい何だろうと。
最近、中国に行く機会が多く、改めて韓国、日本、中国、東アジア3カ国の漢字文化について考えています。以前から漢字という文字文化を持つ3カ国で何かできないだろうかとは思っていましたが、やっとその時期が来たような気がします。日本とは歴史的な問題で、中国とはイデオロギーの問題で、なかなかオープンにはなれない関係でしたが、そんな時代ではないことを中国に通いながら実感しました。
面白いと思いませんか? 例えば、「天地」という漢字は3カ国共通です。発音はそれぞれ違うけれど、漢字で違う国の人たちが同じものを想像し、同じ意味を共有するんですから。漢字文化演劇をつくりたいですね。漢字文化を共有する3カ国が、共に何ができるのかを提示し実践できるのは、韓国だと思います。どうしてだと思いますか? 韓国は混ぜる食文化と発酵させる食文化があるので、混ぜること、発酵させることが得意です。文化も同じ。日本、中国という異質な文化を、韓国文化というどんぶりの中で混ぜて発酵させる。面白いでしょう(笑)。これは、これからの私と劇団木花での仕事になっていくでしょう。
- 呉泰錫先生と日本の演劇人たちとの交流についてお聞かせください。
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初めて日本を訪ねたのは1980年でした。『草墳』という作品を日本で公演したいと連絡を受けたのですが、あまりにも韓国的な作品なので日本の演出家で演出できるのかと尋ねたところ、なら演出もしてくれと。今はなくなったと聞きましたが池袋の文芸坐ル・ピリエという劇場で公演しました。この公演は在日韓国演劇公演会と国際青年演劇センターとの共同作業でしたが、この時に発見の会の瓜生良介さんらと出会いました。
1982年には、地人会が企画した「母たち」という6人の劇作家と6人の女優による一人芝居シリーズがあり、李礼仙さんの主演で『オミ』という作品を発表しました。この時、唐十郎さんと知り合いになり、ずいぶん酒を飲みました(笑)。
1988年、劇団木花が『胎』で三井フェスティバルに参加してからは、タイニイアリスで『春風の妻』『鴎よ!』『朝、時々雪か雨』をはじめ、『父子有親』『胎』『I LOVE DMZ』『ロミオとジュリエット』と数知れず日本で公演させてもらっています。実は、私の父は早稲田大学に通っていたし、日本とは縁があるのでしょう。
- 最近の韓国演劇界は、プロデュース公演やミュージカル公演も増加し、大学路には100以上もの劇場が立ち並び、多様性と華やかさを増していますが、このような状況をどうご覧になっていますか。
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一見、華やかで活気があるように見えますが、伝統がなくなり、演劇を続けていく条件は悪化しているなと思います。一番大きな問題は基礎を学ぶ時間がないということです。映画やテレビは瞬間的な演技ですし、機械が俳優をカムフラージュしてくれるので、一夜にしてスターやシンデレラがどんどん現れます。演技を志す若者たちは、それを夢見ていますしね。
ひとりの俳優が生まれるまで、どれくらいの時間がかかると思いますか? 大学の演劇関連学科に入学するのが19歳くらい、韓国は徴兵制があるので男子学生なら卒業するのは26、7歳、それからオーディションなどを受けてデビューするまで、すでに10年ほどの歳月が必要なわけです。だから、誰もが一刻も早くスターになりたい。しかし、演劇はそうはいきません。なのに、演技も、演劇も、同じく一夜にしてできるものと思っているようです。すべてが、“早く、早く”です。稽古もしかりです。生産性をあげ、経費を切り詰めるために、稽古時間はどんどん短くなっています。1作品の稽古時間は、1カ月から2カ月でしょうね。このような状況では作品の完成度が低くなり、軽くなるしかありません。
実は、劇団木花の公演は学芸会だと言われることがあるのですが、でも、学芸会であろうと、何であろうと、そんな言葉は全く気になりません。なぜなら、俳優たちは劇団木花で基礎を学ぶ時間を過ごしていると思っているからです。人間ひとりが育つには、本当に膨大な時間が必要です。劇団は1年中、稽古と公演の繰り返しです。この繰り返しが蓄積されて俳優は育っていきます。先ほどもお話しましたが、30代中盤になると多くの劇団員たちは劇団を離れざるをえない選択を迎えます。しかし、劇団に留まらなくとも韓国演劇界に輩出されていくなら、劇団木花はある役割を果たしているのではないでしょうか。
- 今日はどうもありがとうございました。韓国、中国、日本の「漢字文化演劇」でどのような作品が生まれるのかとても楽しみです。
- 和食は食べられるけれど、中華料理が苦手でね。どれもこれも油っぽいし、香辛料がきつくて(笑)。また、日本で皆さんとお会いしたいと思います。
オ・テソク
韓国演劇界の鬼才、オ・テソク(呉泰錫)
韓国国立中央劇場・国立劇団芸術監督に聞く
オ・テソクOh Tae-sok
韓国国立中央劇場・国立劇団 芸術監督
1940年生れ。劇作家、演出家。延世大学哲学科卒業。1964年、『化粧した男たち』(未公演)で韓国日報新春文芸長幕佳作を受賞し作家としてデビュー。その後、国立劇場に『換節記』『高熱草』『山茱萸』などを書き下ろし、作家として活動。1984年に劇団木花を旗揚げして以来、自作の演出も手掛け、韓国を代表する劇団として日本、イギリス、インド、中国などでも数々の公演している。呉泰錫の演劇美学は、韓国の伝統演戯であるパンソリの三・四調を基調とした台詞にあり、俳優の身体表現に韓国独自の喜怒哀楽を用いるなど、伝統から多くの影響を受けている。多数の各種演劇賞を受けるとともに、2004年には大韓民国文化芸術賞を受賞。現在、劇団木花代表、韓国国立中央劇場国立劇団芸術監督、ソウル芸術大学劇作科名誉教授。
聞き手:木村典子
韓国国立中央劇場
https://www.ntok.go.kr/
国立劇団公演『胎』
(作・演出:呉泰錫)
1974年、ドラマセンターで初演(アン・ミンス演出)される。劇団木花旗揚げ後、呉泰錫自身が演出を手掛け、代表作となる。1997年、国立劇団で公演され、観客が再演を望む作品ベスト3に選ばれ、2000年には国立劇団50周年記念作として上演された。2006年、韓国政府が、文化芸術を通じて韓国に対するイメージを高め、韓国文化を海外に広める戦略のひとつとして国家ブランド演劇を選定したが、その第1号作品となった。 『胎』は、幼くして王位についた端宗を暗殺し王座についた世祖が、権力に対する欲望と端宗の家臣をことごとく処刑した罪悪感の間で、狂気と破滅へと向かっていく内容だ。韓国史の実話をもとに、古から変わることなく繰り返される人間の愚かさを描くとともに、人間存在の哀れさを表出する。
劇団木花
1984年、『アフリカ』(作・演出/呉泰錫)で旗揚げ。
以来、韓国現代演劇をリードする劇団として、『父子有親』『春風の妻』『自転車』『ビニールハウス』『沈清はなぜ二度インダンスに身を投げたか』『白馬河の月夜に』『千年の囚人』『狐と愛を』『コソボ、そして流浪』『忘れられた河』『I LOVE DMZ』『ロミオとジュリエット』など、数々の代表作を残すとともに海外でも高い評価を受けている。
劇団木花『ロミオとジュリエット』
初演:1995年
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を韓国版に脚色。若い恋人たちのはかない死にかかわらず、モンタギュー家とキャピュレット家の争いはむしろ深くなり殺戮の渦へと向かう。原作とは異なるラストシーンが、今も南北に分断されている朝鮮半島を想起させ衝撃的だった。1995年から韓国内はもちろん、日本(富士見・東京・北九州)をはじめドイツ(ライプニッツ広場劇場)、インド(ニューデリーカマニ劇場)、イギリス(バービカン劇場)、中国(南京・北京・張家港)などでも公演されている。
劇団木花『I LOVE DMZ』
脚本・演出:オ・テソク
朝鮮半島を南と北に分断する38度線DMZ(非武装地帯)。そこは、自然の宝庫、動物たちの天国だ。ある日、ここで暮らす動物たちに南北を結ぶ列車が開通するとの知らせが届く。動物たちは自らの棲みかを死守るために、朝鮮戦争で死んだ国軍・人民軍・UN軍の兵士たちの霊を呼び出し、愚かな人間たちに戦いを挑む。子供たちに朝鮮半島の現実を伝え、未来を切り開いてほしいとの願いが込め、2002年に初めて劇団木花が挑戦した大人も子どもも楽しめる家族劇。現在も再演が重ねられている。
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