国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan

Artist Interview アーティストインタビュー

2007.12.19
マイノリティたちのタフでコミカルな生き様を描く在日コリアンの人気作家・鄭義信

Portraying the tough but humor-filled lives of an ethnic minority
An interview with the Japan-resident Korean writer Chong Wishing

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マイノリティたちのタフでコミカルな生き様を描く在日コリアンの人気作家・鄭義信

鄭 義信

舞台と映画の領域をまたにかけた旺盛な創作活動で注目される鄭義信(チョン・ウィシン)。彼は、朝鮮半島から日本に渡った移民を祖父母にもつ日本生まれの「在日コリアン」三世であり、その群像劇には自らの人生に裏打ちされた、たくましく生きる人々の笑いや記憶が満ちている。
「在日コリアン」には、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)籍をもつ人、韓国(大韓民国)籍をもつ人、日本に帰化し、日本国籍を取得した人がいるが、外国籍をもつ人は2002年現在で約62万人を数える。日本の現代文化の一角を担う人も多く、劇作家では、鄭義信以外に、つかこうへい、柳美里(現在は小説家に転身)がいる。
日本は戦前の帝国主義時代、朝鮮を植民地として支配した時期があり、多くの朝鮮人が徴用、徴兵として日本に強制連行され、労働力として搾取され、戦争に駆り出された。そうした人たちに加え、日本に新天地を求めて多くの人々が移住し、現在の「在日コリアン」のルーツとなっている。彼らは、「日本名」に改名させられるなど、日本人による差別が厳然とある中、日本で暮らしつづけてきた。
戦後から60年以上がたち、現在は差別が全くなくなったわけではないが、植民地を支配していた日本の帝国主義時代を知らない若い世代も多くなった。それに伴い「歴史的事実」が忘れられ、またそれを曲解する反動的な動きも日本国内にはある。一方、2002年の日韓共催によるサッカーのワールドカップ以降、文化交流は加速度的に進み、近年は韓国のテレビドラマが日本の主婦層を中心に大人気となる“韓流ブーム”を巻き起こすなど、新たな関係が築かれつつある。また、日本のメディアも韓国・朝鮮人の人たちの表記を「日本語読み」ではなく、「朝鮮語読み」とするのが当たり前になってきた。
こうした新時代の人気作家として、今年は4作もの新作を書き下ろした鄭義信。来年5月には「ソウル芸術の殿堂」と「新国立劇場」の共同制作により、時代に翻弄されながらも日本で焼き肉屋を営む在日コリアン一家のタフな生き様を描く『焼肉ドラゴン』(演出:梁正雄・鄭義信)の公演も決まっている。そんな彼の原点に遡って話を聞いた。
聞き手:小堀純

原風景を持つ劇作家

鄭さん一家は昔、姫路城の中に住んでいたと聞きましたが。
中ではないのですが、お城の外堀の石垣の上に住んでいました。そこは、戦後、土地を持たない人たちが勝手にバラックを建てて住んでいたところで、在日朝鮮人や日本人の貧しい人たちが多かったですね。父はそこに家を建てて、石垣を崩して庭にしていました。父はその土地を買ったというんですけどね、どう考えても国有地(笑)。姫路城は国宝で世界遺産にも登録されていますから、私たち一家は世界遺産に住んでいたということになりますね(笑)。
ユニークな人たちもいっぱい住んでいたそうですね。
廃車に住んでいる「ネズミ男」」とか、「ギチュー」と呼ばれている居候とかですね。僕が書く芝居に出てくるような、ボケてて、ヘンな人たち。そういう人たちがまわりにいっぱいいました。貧しくてズルくて。子どもの頃はそういう人たちが好きじゃなかったけど、今は、けったいでオモロイ人たちだな、彼らは彼らなりに一生懸命生きてきた愛すべき人たちだと思っています。
家の目の前に幼稚園、小学校、中学校があって、そこに通っていました。僕は男ばかり五人兄弟の四男ですが、なぜか僕だけ小学校の低学年の頃から両親と離れて祖母と暮らしていました。祖母の家があったのは朝鮮人ばかりの集落でしたが、実家のある石垣よりもちょっと小高い丘にあって。そこから日赤病院の白い壁と火葬場の煙突と刑務所の赤いレンガの壁がみえるんです。「生」と「死」と「罪」と「罰」が揃っているというか……。
「世界」そのものが凝縮されているような……。
ええ。素晴らしい集落でした。祖母と一緒にその集落で暮らしていたことで人生観が狂って、他の兄弟はみんな理系なのに僕だけ文系に進んでしまった(笑)。祖母のところから実家の石垣集落へ祖母と一緒に戻りました。僕はおばあちゃん子だったから中学生になるまで祖母と一緒に寝ていたんですけど、いつも寝物語で故郷の朝鮮の話をするんです。それで「死にたい、死にたい」と繰り返す。おかげで子どもの頃から「人生ってこんなもんなんだ……」「人生って無常なものなんだ……」って思ってました……。
父は15歳の時に日本に来ました。父は勉学で身をたてようと広島高等師範学校(現・広島大学)へ入学しました。だけど2回生のときに学徒動員で徴兵にとられるんですが、成績が良かったので陸軍中野学校に行くんです。子どもの頃、家にサーベルがあって、どうして父がサーベルを持っているのか不思議だったのですが、後に聞いたら、憲兵だったと言うんです。この間の芝居、『たとえば野に咲く花のように』にも在日朝鮮人で憲兵だった男の話が出てきますが、あれは父のエピソードから取ったものです。
終戦後はどうされたのですか?
戦後、いったん祖母や叔母と一緒に船で韓国へ帰ろうとするんですが、先に送った荷物をのせた船が沈んでしまって全財産を失ってしまって、もう韓国へは帰れないというので、父は姫路で廃品回収業を始めました。
廃品回収で集められた8ミリの映写機や、本や雑誌など、いろいろなものが家にいっぱいありました。そういう本をよく読んでいましたね。思い出に残っているのは、小学校低学年の時に読んだ『クオレの日記』というイタリア児童文学です。寄宿舎に入っている少年たちの話で、大好きでしたね。
映画館の空き缶やダンボールを廃品回収でひきとっていたので、月に1回、父が映画館にその支払いに行くんですが、そのとき家族でついて行って、映画館の2階からみんなで映画をみていました。お弁当広げてね。映画の選択権は母にあったので、見たのはもっぱら日活の青春映画でした。子どもの頃のそうした体験があるので古びた映画館への想い入れが強いです。最新作の『僕と彼と娘のいる場所』で舞台にした映画館は、実際に姫路にあった古い映画館をモデルにしています。残念ながら、もう取り壊しになってしまいましたが。
高校まで姫路で、大学は京都の同志社大学に進まれます。学部はどちらだったのですか。
文学部文化学科美学及芸術学専攻です。同志社は入試から専攻を選ばせるんですよ。小説家の筒井康隆さんも同じ美学及芸術学専攻で、まわりの学生は筒井ファンばっかり。でも僕はロシア文学や柴田翔や高橋和巳ばかり読んでいて、筒井さんは読んでいなかったので浮いていました。親は大反対しましたが、大学も結局2年で中退してしまいました。
その頃、小説家になろうと思っていなかったのですか。
いやあ、流されるままに生きてきたという感じですから、小説家や脚本家になりたいという強い想いがあったわけではありません。僕は恥ずかしながら、野望とか、夢というものがない(笑)。
大学を中退してからどうされていたのですか。
バイトしながら映画ばかりみていました。休みの週末には、京都で3本立て、それから大阪へ行ってまた3本立て。その後、京都へ戻ってオールナイト5本立て。翌日は大阪でまた3本立てとか。話がごっちゃになるくらい映画をみていた。そのときは、自分の人生を持て余していて、ぽっかりあいた自分の中の空白を一生懸命、映画で埋めようとしていたんでしょうね、きっと。ヴィスコンティの『若者のすべて』は五人兄弟の話で僕と一緒だから、思い入れが強いです。 『人魚伝説』 (「ウチウミ」という小さな町に海を越えてやってきた6人兄弟の一家とそこに流れ着いた金魚という女の因縁の物語※)を書いたときには『若者のすべて』へのオマージュのような気持ちもありました。ちなみに僕には幼い頃に亡くなった姉が二人いるそうで、両親はだから女の子が欲しくてね、でも生まれたのは男ばっかりだった(笑)。


映画館の暗闇から光さす演劇の舞台へ

同志社を中退した後、横浜にある日本映画学校(当時は横浜放送映画専門学校)に入学します。
映画をみているうちに、ああ、スクリーンの向こう側へ行ってみたい、映画の仕事で生きていけたらと思うようになって。映画学校に2年通い、それから映画会社の松竹で装飾助手を経て美術助手をやりました。その頃、黒テントに在日コリアンの先輩がいて、誘われて、当時、黒テントがやっていた「赤い教室」というワークショップに参加しました。
「演劇は誰にでもできる」とのスローガンのもとに、主婦や素人のおじちゃんたちがいっぱい来ていて、「これはこれでおもしろいな」と。「赤い教室」の卒業公演のときに、山元清多さんが演出したんですが、僕、いきなり主役やることになって。全然できなくて、山元さんに随分とダメ出しをもらいました。役者をやろうなんて全然思ってなかったですからね。山元さんに「おまえは(人間じゃなくて)機械の言葉を喋っている」と云われて。今でもよく覚えています。それでその公演が終わったときに山元さんから「おまえ、黒テントに入るだろ」と云われて、「はいっ」て二つ返事で応えてしまった。ね、流されるままでしょ(笑)。
黒テントでは、女優の金久美子(キム・クミジャ)が印象深いです。『西遊記』をみたときに、久美子だけ仮面をかぶっていなくて、ああ、何て綺麗な人なんだと思った。僕と同じ在日ですし。残念ながら彼女は2004年に亡くなってしまいました。
黒テントの公演は以前からみていたのですか。
高校生のとき、姫路で『阿部定の犬』の公演があったんです。僕はひとりでみに行って、ラスト、黒テントが外に向かって開くシーンでは興奮しました。演劇は初体験に何をみたのかが大きいと思いますが、僕の場合は、唐十郎さんの紅テントではなくて、佐藤信さんや山元清多さんたちの黒テントだったんです。ちなみに、初めてみた紅テントの公演は『女シラノ』でした。
黒テントに入ってすぐに処女戯曲『愛しのメディア』(86年)を書いています。
「タイタニック・プロジェクト」という黒テントの新人育成企画がありまして、どういうわけか僕が選ばれて台本を書くことになったんですが、先輩たちが「おまえが書いたホンなんだから自分で演出もしろ」と。そんなつもりはなかったし、スタッフも自分が集めなくちゃいけなくてとても苦労しました。
でもそこで鄭さんが選ばれたのは、すでに何か、持っているものがあったんでしょう。黒テントをきっかけに演劇の世界に入り、退団後、1987年に先ほど話が出た金久美子や状況劇場にいた金守珍らと新宿梁山泊を結成します。『千年の孤独』(88年)や『映像都市(チネチッタ)』(90年)、『人魚伝説』(95年)など数々の傑作を発表された後、現在はフリーで小劇場からミュージカルまで実に幅広い仕事をされています。鄭さんの作品に共通するのは「こういう人はいるな」「こういう場所はあるな」「こういう時代があったな」という“想い”です。ご自分の生いたちや姫路の原風景がその想いに投影されて、そこからリアリティが立ち上がってくる。
昔は、自分の生いたちとか、「在日」の話とか、そういった自分の身の回りの話を書くことには、凄く特殊なところにそれを押しこめて書かないと受け入れてもらえないんじゃないかと思っていました。それが、93年にヤン・ソギルさんの原作をはじめて脚色させてもらった映画『月はどっちに出ている』がヒットしたのを契機に、映画の中に韓国人・朝鮮人が出てくるのが当たり前になってきました。“韓流ブーム”もあったし。韓国人や朝鮮人がそのまま出てきてもすんなり受け入れてもらえるように変わってきたんです、時代の流れが。
もちろん、マイノリティであることを卑下する必要もないし、そのことを誇張する必要もない。今は、自分にとって等身大に近い人たちをそのまま書いていけばいいんだと思っています。かつての新宿梁山泊時代を知る人たちには、劇作が凄く変わったと思われているようですが、描く絵が少し変わっただけで、自分自身の根底は変わっていないと思います。


「在日コリアン」の作家として

鄭さんは韓国籍ですか。
元々は朝鮮籍でしたが、『千年の孤独』を韓国で公演するときに韓国籍に変えました。その後、家族も全員韓国籍に変わりました。父親もいろいろありましたけど、韓国に墓を建てるというので韓国籍にしました。日本人の多くが誤解していると思うのですが、朝鮮籍の人間は、北朝鮮の人間というわけではありません。1947年に外国人登録令が発せられた当初は、すべて「朝鮮」籍であったのが、1948年に大韓民国が樹立され、「朝鮮」から「韓国」に切り替えていく人が次第に増えていったんです。韓国籍に変えなかったからそのまま朝鮮籍という人が多い。父親も元々、忠清南道というソウルから少し離れたところの出身です。「朝鮮」籍を有する、ほとんどの「在日」が地理的に韓国出身の人たちではないでしょうか。
在日コリアンの作家の先行世代というと、つかこうへいさんが有名ですが、つかさんのことを意識されたことはありますか。
ちょうど今、つかこうへいさんの劇団に所属していた石丸謙二郎さんと一緒に芝居(『僕と彼と娘のいる場所』)をやっていますが、石丸さんが出演された『寝取られ宗介』(82年)と、他にもう1本ぐらいしかつかさんの芝居はみていません。僕にとっては、やっぱり黒テントや状況劇場ですから。
つかさんは『娘に語る祖国』(90年)を出されて自分が在日コリアンだということを告白されたのですが、韓国で『熱海殺人事件』を上演したときは韓国語が話せないということで、かなりつらい思いをされたと聞きます。
僕も韓国語は話せないのですが、ずいぶん時代状況が変わったので、わりと温かく迎えてもらっています。
実は12月に僕の戯曲集が韓国で初めて出版されることになり、金久美子のために書いた『アジアン・スイーツ』から始まって、『人魚伝説』『20世紀少年少女唱歌集』『冬のサボテン』『秋の蛍』と、いろいろな傾向の作品を収録しています。公演もいくつかやっていて、新宿梁山泊時代にやった『千年の孤独』と『人魚伝説』とくに『人魚伝説』は300人入ればいっぱいのテントに700〜800人もお客さんが来てくれて、びっくりしました。文学座の松本祐子さんが韓国の俳優を使って上演したのですが『20世紀少年少女唱歌集』も凄く評判がよかったです。それから、『杏仁豆腐のココロ』、こんにゃく座の『ロはロボットのロ』、わらび座の『響』とここ数年、毎年、韓国で公演が行なわれています。今年もこれから『冬のひまわり』の国立劇場公演が予定されています。ようやくそういう状況(日本の現代文化が自由に紹介できる状況)になってきたのではいでしょうか。
鄭さんは多彩な作品を書かれていますが、一貫して「金持ちは書けない。マイノリティしか書かない」と云われています。
自分がそういう生まれ育ちなので、貧しくてささやかな人たちしか書けないんです。たまには洒落たものも書こうと思うんですが、たぶん自分には向かないだろうなと(笑)。少年時代、僕のまわりにいたおじさんたちは結構ずる賢かったりするんだけど、でも日々を必死で生き、楽しく暮らしてもいる。普段は明るいけれど、心の中にいろんなものを抱えてもいる。人間というのは、そうやって生きていくものだし、悲しんでばかりもいられない。日々というのは、そういう風に進んでいくのではないでしょうか。だんだん歳を重ねてきて、そういったことすべてを受け入れられるようになりました。それと、自分も歳をとってきて、社会的なテーマにも目を向けていかなければいけないかなと意識するようになりました。
僕は、世の中の矛盾というか、“高級石垣朝鮮人集落”という矛盾の中で生まれ育っているので、作品を書けば、書いているだけでどうしても社会的矛盾を孕んでしまうんですね。自然に書いているだけで、至る所に差別された人たちが出てきて、差別用語がでてきてしまうので、「日本一差別用語が多い作家」と云われています(笑)。そういう(差別された)人たちを無意識に書いているだけだったのですが、(差別を)ちゃんと意識して書かなきゃいけないという年齢になってきたと思いますね。
今年の新作のひとつ、新国立劇場がギリシャ悲劇(アンドロマケ)をモチーフに新作を委嘱した『たとえば野に咲く花のように』では、戦後の寂れた港町のダンスホールで戦争の傷を抱えながらホステスとして明るく生きる在日コリアンの女たちを巡る物語でした。演出された鈴木裕美さんが「(鄭さんは)悲劇と喜劇をないまぜにした作品を書く」と云っていますが、ある人にとっての悲劇は別の人からみると喜劇になる。悲劇と喜劇は背中合わせですよね。「笑い」に差別が根底にあるように。
僕もそう思いますね。
鄭さんの作品の笑いは、観客に対するサービス精神からもきていると思いますが、それは笑いの土壌がある関西出身という要素が大きいのですか。
それは強いですよ。笑かさずにはいられない(笑)。とりあえず3回はズッコケなきゃいけない(笑)。吉本新喜劇をみて育ったので、ギャグがくどい(笑)。岡八郎さん、花紀京さんが全盛の頃だったけど、僕は花紀さんのちょっと引いた芝居が好きだったですね。
岡八郎が「おまえアホやろ」と突っこむと、花紀京が「何で知ってんの?」と切り返す(笑)。
ああ、この人は天才だという気がずっとしてました。
それって演劇体験ですね。
そうですね。あれは僕だけでなく、関西人共通の、最初の演劇体験じゃないかなと思います。ボケとツッコミの古典ですね。
鄭さんにとって、「関西弁」で戯曲を書くということを意識することはありますか。
『たとえば野に咲く花のように』は九州が舞台ですから九州弁で書きましたが、そうじゃない時はできるだけ関西弁を使いたいと思っています。関西弁で書いている劇作家も少ないということもありますが、関西弁でしか描けない世界があるし、関西弁の持っている“たおやかさ”が好きなんです。標準語、というのもヘンな言葉ですが、関東弁ではできない世界があるはずですから、たとえば九州の話は九州の言葉で書くように、できるだけ、そこの地域が持っている言葉の強さを凄く大切にしたいと思っています。そういうところに、実は案外、本当の、劇作の芯があると思うんです。
関西弁には“たおやかさ”と同時に、ある種の暴力性もありますしね。いきなり相手に向かって「どや!!」とか。
関西弁独特の言葉の強さがありますね。「おんどりゃあ!」とか。僕の生まれ育ったところはどちらかというと河内弁に近くて、映画『岸和田少年愚連隊』(96年、作:中場利一、監督:井筒和幸)のシナリオを書いたときは書きやすかったです。
鄭さんは舞台の劇作家としてだけでなく、映画のシナリオライターとしても非常に高く評価されています。今、話が出た『岸和田少年愚連隊』はじめ、出世作『月はどっちに出ている』や『血と骨』(04年、ヤン・ソギル、監督:崔洋一)など第一線で活躍されています。
僕にとっては芝居も映画も基本的に同じで、書き方に違いはありません。結局は「人間」を描いているので一緒です。ただ、表現方法は違いますし、それぞれにできること、できないことがあるのでその辺りは意識して書きます。昔は、きっちり構成を立てて書いていたんですが、今は最初と最後を決めておくぐらいで、書き始めます。よくシノプシスが欲しいと云われるんですが、「僕、シノプシスどおりに書いたことありませんよ」「シノプシス、すっごく下手です」って抵抗しています(笑)。
絵が浮かんでくるという作家もいますが。
僕もセリフというより絵が浮かんできますね。いっぱい雪を降らして、その中でリヤカーを引っ張ってとか。『たとえば野に咲く花のように』の時には、ダンスホールの設定を、この辺りに階段があってとか、けっこう細かくディテールにこだわって描きました。もともと映画の美術をやっていたし、下手ですが絵も描くので。美術家に絵をわたすということはありませんが、かなり話し合います。『僕と彼と娘のいる場所』の映画館の舞台セットも、映画館のどこの部分を演劇の場所として切り取るかでずいぶん話し合いました。ロビーとかを芝居の場所にすると、収まりすぎて面白くないし、それで古い映画館の裏口の空き地のようなところに設定した。
そういわれれば、鄭さんの芝居の舞台になるところは広場的なところが多いような気がします。
そうかもしれないですね。韓国には広場で芝居をするマダン劇というのがあるから、僕の韓国人の遺伝子の中にマダン劇のDNAが組み込まれているのかもしれない(笑)。僕は、“高級石垣朝鮮人集落”という隔離されたような場所で育ったので、基本的にはそういう風景が浮かびますね。
ところで、現代劇作家の作品には自分探しをテーマにしたものも多いですが、鄭さんの作品はそれが感じられません。
自分探しとか、大っ嫌い(笑)。いろいろあるけど生きてるでしょ、貧乏人は悩まないんです。生きるの死ぬのなんて、言ってなんかいられないんです。 チェサ─祭祀─としての演劇
鄭さんは、以前に書かれたエッセイ「さすらい論─さすらっていった人たちへのささやかな祭祀(チェサ)」(「ロジックゲーム」所収。1992年、白水社)の中で、「演劇はチェサに似ている」と云われています。「チェサ」(*)というのは死者を迎える韓国独特の法事のことですね。
はい。韓国独特の風習、祭祀です。今はそんなに夜遅い時間までやったりするところはないと思いますが、僕の子どもの頃は、深夜12時から始めて、家に訪れる亡くなったご先祖さまのために三度ぬかずくというのをずっとやるんです。おはしの位置を置き換えたり、ご飯出したり、ごちそう出したり、最後はお茶も出す。あたかも目の前に死者がいるかのごとくにふるまう。それで三度三度ぬかずいて、先祖が帰った後にようやく並べたごちそうが食べられる。
お芝居というのは、何か「チェサ」に似ているなと。
ありったけのごちそうを並べて、さすらっていく人たちを一時もてなす。都市をさすらっている無数の無縁仏にありったけのごちそうを並べてもてなすののが、演劇ではないかと。
はい。おこがましくも、自分はそういうぐあいに思っているので、一生懸命やってしまうのかもしれません。
このエッセイは15年前に書かれたものですが、鄭さんは変わっていないなあと思います。舞台で死者と生者を出会わせる祭祀をずっとやっているなあと。
だんだん、死のにおいが強くなってきたなとは思います。自分が歳を取ってきたこともありますし、周りで死んでいった人もいますし。やっぱり金久美子の死はショックでしたから。
今年、ついに50歳になったんです。でも精神年齢変わらないから(笑)。人間って変わらないですね。15のときに早く30になりたいと思い、今の僕の歳になったら人生はバラ色で、すべては約束されているように思われたんですが、そんなことはなかった。50になっても変わらなくて、世間の人に申し訳がない(笑)。
でも作家って、50歳ぐらいからがおもしろいんじゃないですか。
そうかもしれませんね。肉でも果物でも腐りかけがおいしいですから(笑)。そろそろ熟成期に入ってくるから、そのときにくだらないことをやりたいなあと思います(笑)。
Profile

鄭義信(Chong Wishing)
1957年生まれ。作家、演出家。同志社大学文学部を中退、横浜放送映画専門学校(現・日本映画学校)美術科に学ぶ。松竹の美術助手を経て演劇に転向。劇団「黒テント」を経て、87年に「新宿梁山泊」旗揚げに参加。座付き作家として、エネルギッシュでスペクタクルな作品を発表。国内はもとより、アジア各地で公演を行う。96年に新宿梁山泊退団。現在は、映画やテレビの脚本書き下ろしも多く、人気シナリオ作家として活躍する傍ら、92年に立ち上げた、自ら作・演出を務めるプロデュース集団「海のサーカス」で人生の機微を描いた哀しくもコミカルな作品を発表している。94年、『ザ・寺山』で岸田國士戯曲賞受賞。崔洋一監督と組んだ映画『月はどっちに出ている』『血と骨』でキネマ旬報脚本賞受賞。

*チェサ
韓国独特の儒教的な伝統行事(祭祀)。すべての子孫が長男の家に集まり、先祖の霊を祀る儀式で、生きている間にし尽くせなかった親孝行を命日の日に補い、祖先の冥福と一族の繁栄を願うというもの。チェサのために特別な食べ物を大量に準備し、儀式が終わった後、親族や隣近所の人たちと分け合って食べる。昔は男性のみが参加を許されていた。

『焼肉ドラゴン』
日韓合同公演/新国立劇場プロデュース
作:鄭 義信
演出:梁 正雄/鄭 義信
東京:2008年4月17日〜4月27日/新国立劇場
ソウル:2008年5月/芸術の殿堂
日本と韓国からスタッフ・キャストを混合で編成し、2008年4月に東京、5月にソウルで上演する新作。
高度成長と呼ばれた昭和30年代〜40年代。関西地方都市の線路ガード下にある小さな店「焼肉ドラゴン」。店主の金龍吉と先妻との間にもうけた2人の娘、後妻・英順とその連れ子。そして英順との間にやっと授かった一人息子。それぞれが時代に翻弄されながらも、必死で生きる普遍的な家族の物語。
http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/20000036.html

『たとえば野に咲く花のように』
初演年:2007年
新国立劇場公演
ギリシア悲劇の「アンドロマケ」を、トロイア戦争を太平洋戦争に置き換えた形で翻案した作品。朝鮮半島を捨ててきたダンスホールの女給満喜は、日本兵として死んだ婚約者が忘れられない。そんな彼女に、ライバル店のオーナー康夫は一目惚れしてしまう。康夫の婚約者あかねはあきらめきれず、彼女を慕う直也に康夫を殺せと迫る。朝鮮戦争の影が落ちる日本を背景に、複雑で激しい四角関係が描かれる。
撮影:谷古宇正彦

『冬のひまわり』
初演年:1999年
文学座公演
12月30日の昼下がり。潮騒とカモメの鳴く声が聞こえる、民宿「かもめ莊」。季節はずれの民宿で暮らす、いわくあり気な人々。捨てられた女、男を愛する男……孤独で、そして身勝手な彼らのストーリーが、喜劇タッチで描かれる。

『ロはロボットのロ』
初演年:2001年
オペラシアターこんにゃく座公演
舞台が明るくなると、四方八方から「ギイ、ガチャガチャ」とロボットたちが現れる。ここはウエストランド。パンが上手に作れなくなったパン製造ロボットのテトは、自分をつくったドリトル先生に直してもらうため、イーストランドを目指して旅に出る……。1台のピアノの演奏に合わせ、8人の出演者が30役以上を演じる、ノスタルジックなオペラ作品。

『杏仁豆腐のココロ』
初演年:2002年
海のサーカス公演
クリスマス・イブ。中年夫婦の別れ話。父親から継いだチンドン屋を切り盛りしていた女と仕事がなくて主夫をしていた男は、チンドン屋の廃業を機に別れることに。ふたりはおどけたり、ふざけあったり、笑ったりするうちに、互いに伝えきれなかった想いが溢れ出し、真実が明らかになっていく。2000年のクリスマスに一夜限りの企画として上演されたが、観客の支持により「海のサーカス」のレパートリーとして毎年再演を続けている。

『20世紀少年少女唱歌集』
初演年:2003年
椿組公演
東京・新宿の花園神社境内で小屋がけ芝居として上演された。70年代の初め、関西の地方都市。国有地にバラックを建てて暮らす家族の物語。秋江、冬江、春江、夏江の四姉妹がいる。秋江には戦争で片腕を失った夫・国男と国男の弟・辰男がいる。辰男と夏江の夫・博司は今の生活に見切りをつけ、祖母である海の向こうの、「この世の楽園」へ旅立つ。冬江の娘・ミドリは悪友のねずみ男、キヤンたちとタイムカプセルに「21世紀への想い」を託す。ミドリは女の子だが、男になり船乗りになりたかったのだ。やがて住む場所を追われた国男たち家族は次の土地を求め旅立っていく……。夢に破れ、希望を失いそうになりながらも精一杯生きようとする人々を涙と笑いを織り交ぜながら描く。オカマのリリー、紙芝居屋、梅夫・桃夫・桜夫のお笑い三人組といった、わい雑なキャラクターが物語に弾みをつけている。

椿組03年夏・花園神社野外劇
『20世紀少年少女唱歌集』

(2003年7月15日〜24日/新宿花園神社境内特設ステージ)

椿組06年夏・花園神社野外劇
『GS近松商店』

(2006年7月13日〜23日/新宿花園神社境内特設ステージ)

椿組公演
『なつのしま、はるのうた』

作:鄭義信
演出:松本祐子
(2007年3月28日〜4月1日/東京・下北沢「劇」小劇場)