マティアス・ペース

マティアス・ペース
ベルリン芸術祭新総裁に聞く

2023.03.27
マティアス・ペース

(C) Marlena Waldthausen

マティアス・ペースMatthias Pees

マティアス・ペースはジャーナリストとしてキャリアをスタートし、ベルリン・フォルクスビューネ劇場やハノーファー州立劇場でドラマトゥルグを務めた後、ブラジルに渡り制作会社を立ち上げた。その後、ドイツに戻り、ウィーン芸術週間のチーフ・ドラマトゥルグを務め、2013年より2022年までキュンストラーハウス・ムーゾントゥルム(フランクフルト・アム・マイン)の芸術監督・経営責任者。

2022年9月、その彼がベルリン演劇祭をはじめ複数のフェスティバルやプロジェクト、展示会場のグロピウス・バウを束ねるベルリン芸術祭総裁に就任した。新運営体制やフェスティバルの改革について聞いた。

聞き手:山口真樹子
この度はベルリン芸術祭総裁ご就任おめでとうございます。各方面からとても期待されていることと思います。まず、ムーゾントゥルム時代に得たもっとも重要な経験と認識はどのようなものだったかお聞かせください。
 ムーゾントゥルムはドイツのいわゆるフリーシーン、つまりあらゆる形のインディペンデントな(訳注:公立劇場に属さない)パフォーミング・アーツを扱うプロダクションハウスです。そういったタイプの劇場を運営するのは自分には初めてのことで、振り返ると非常に密度の濃い9年間でした。

 専属のアンサンブルを抱えレパートリー・システムをとるドイツの市立・州立劇場のような制度のない国では、公立劇場とプロダクションハウスの違いといわれてもピンとこないかもしれません。私たちがこれまで協働してきた国外のアーティストのほとんどがそういった国々の出身ですので、ムーゾントゥルムとの協働は彼らにとって有意義だっただろうと思います。そもそも彼らが協働できる劇場がドイツには今でも数か所しかありません。
確かにドイツの公立劇場は海外のアーティストや団体との協働はあまり行いません。
 ドイツの公立劇場は、年間一定数の作品を制作し、レパートリーとして定期的に再演する制度をとっているため、海外のパートナーとの協働を手がける余裕は通常ありません。とはいえ最近はハンブルク・タリア劇場のレッシングターゲや、ヴィースバーデン劇場のビエンナーレ、ベルリン・シャウビューネ劇場の国際新作戯曲フェスティバル「FIND フェスティバル」など、国際フェスティバルを実施している公立劇場も出てきてはいます。しかし現実には、時折協働による作品発表があるものの、大半は既存の作品の招聘です。一方、海外のアーティストに新作の委嘱や共同製作を行っている主要な国際的なプロダクションハウスは、ドイツに7つあります。
その7つのプロダクションハウスで2015年にネットワークを作りましたね。
 ベルリンのHAU ヘッベル・アム・ウーファー、ハンブルクのカンプナーゲルなど計7プロダクションハウスが同盟を結びました。それぞれの市・地域のフリーシーンにおける創作や上演を支えるという非常に重要な役割を果たしており、さらにはその地域の舞台芸術界をドイツ国内ひいては海外と接続させています。

 外国のアーティストや団体はドイツ国内の舞台芸術界との接点が得られ、国内・地元のアーティストや団体は国際協働を通してより広い範囲から注目や評価を得ることができます。さらに重要なのが観客の存在です。地元の観客は世界中のプロジェクトや作品に触れることになり、パースペクティブの変化を実感できます。
ペースさんは南米などドイツ国外での活動経験もあり、特に新しい視点や視座の獲得の重要性について確固たる考えを持っています。
 ブラジルで得た経験や、ウィーン芸術週間所属当時に外国の様々な舞台芸術界に接した経験から、パースペクティブの変化は決定的に重要だと考えています。私たちが自分をみつめるだけでなく、外の世界に目を向け、従来見知っていたことと比較してみる、あるいは外からの視線に身をさらす。この場合、多様化がますます進むドイツの街における私たちとは、果たして誰のことなのか。非常に重要な問いです。

 現在の芸術文化機関、従来のいわゆるインスティテューションは、長いことドイツの同質的な社会理解を前提としてきました。しかし、それはもはや私たちの現実を反映していません。ではどうやってその現実を、歴史的に発展してきたインスティテューションに反映させ、その中に現出できるのか。つまり、観客、プログラム、そして機関自体の構造のレベルにおいて現出できるか。これは欧州の文化機関にとって非常に重要な問いです。

 一方、プロダクションハウスの歴史は浅いですが、それでもインスティテューションではあります。ムーゾントゥルムは市の劇場であり、その予算の半分はフランクフルト市より、あとの半分は州や他の、主には公的資金により保証されています。その意味でムーゾントゥルムにとっても大きな問いではあるのです。ただ、私たちは従来の公立劇場のような専属のアーティストやアンサンブルを抱えていないので、外部のアーティストのプロジェクトの共同製作パートナーもしくはプロデューサーとして行動できます。非常にフレキシブルです。フランクフルトで手がけたもうひとつの重要な仕事は、他の機関との協働です。
具体的にはどういう機関との協働ですか。
 同盟を組んだ先述のプロダクションハウスがそうです。さらにヘッセン州立バレエ団、これは隣接する都市ヴィースバーデンとダルムシュタットのダンスカンパニーですが、自ら共同製作や招へい公演も手掛けています。約8年前から年間を通じて協働し、「ライン=マイン・ダンスフェスティバル」を立ち上げました。また、フランクフルト市立劇場の協力を得てフリーシーンのアーティストの作品の制作を手がけました。美術館・博物館とも連携しました。フランクフルト応用(工芸)美術館やユダヤ美術館、考古学博物館とも特別プロジェクトを進めました。大学や教育機関、市民団体とも共同で様々なテーマや課題に取り組みました。

 たとえば「ヘッセン演劇アカデミー」は、ヘッセン州とその隣接する州の舞台芸術の教育機関と劇場が様々な形で提携するもので、ドイツでは唯一の取り組みでありムーゾントゥルムは提携劇場のひとつです。

 私は演劇界に詳しいですが、そのほか関心を持っていたのが、未来を志向する観点から、また内容的にも自然科学分野なんです。今どういったことが研究され、どういう取り組みがなされているのか。自然科学・学術における「実験」には常にひとつのテーゼがあり、それを証明することを目的としています。一方、芸術における「実験」は、結論・結果が最初から推定されることなくオープンなまま進められます。科学的実験と芸術的実験という区別を取り除き、実験というコンセプトをさらに発展させることに興味があります。

 芸術における実験の技法がどこまで科学の世界に応用されうるのか?テーゼの証明ではなく、未知のなにか・空間の存在を新たな研究の出発点にどこまで据えることができるのか?非常に面白いですし、従来、特定の前提や出発点を設定していなかった芸術の未来を考える上で、重要なチャレンジになると考えています。
アーティストについてはいかがですか。たとえば高山明とはウィーン芸術週間時代より数回にわたりプロジェクトを展開してきましたね。
 ムーゾントゥルムでは、アーティストを選びアソシエイト・アーティストとして新作を上演し、共同製作を行い、外からの眼差しを継続的に劇場の中に取り入れ、一時的ではなく長期的に彼らの声に耳を傾けました。主にドイツ以外の国の出身で、相互の信頼関係がすでにあるアーティストです。こういったプロジェクトの実施は、その時どきの状況次第でもあります。

 時間をかけて体制を整えて、私が去る昨年の夏の時点でムーゾントゥルムには5名のアソシエイト・アーティストがいました。高山明はその中のひとりで、その他はフィリピンの振付家アイサ・ホクソン、コンゴ・フランスの作家でパフォーマー、演出家デュードネ・ニアングナ、スイスのアーティストであるマッツ・シュタウプ、オランダの演出家イェツェ・バーテラーン(テアター・アルテミス芸術監督)です。
大変な顔ぶれですね!
 イェツェ・バーテラーンとは多数のプロジェクトを実現させてきました。彼のプロジェクトには、ムーゾントゥルムを起点としたものがあります。テアター・アルテミスとともにムーゾントゥルムに滞在しながら作品の一部を作り、その後、完成してからフランクフルトに戻ってきて上演しました。作品制作の最初の一歩と、完成後の上演の両方に劇場としてコミットしました。

 高山明のプロジェクトはマッツ・シュタウプと似ていて、私たちの街およびその周辺と住民のリサーチを中心に据えています。日本から高山を連れてきて、自分たちの住むフランクフルトを自分たちがよく知る、また彼に知ってもらいます。彼のほうがより深く知ることができるかもしれません。
外からの眼差しですね。
 高山がフランクフルトをよく知れば知るほど、私たちもよりよく知ることができる。彼のフランクフルトへの視線が、私たちにはガイドとなりますし、私たちだけでなくフランクフルトのアーティストや観客も同様です。もちろん地元フランクフルトの多数のアーティストと何度もフランクフルトをテーマとしたプロジェクトを行い、実際とてもいい作品も生まれています。ただその多くはインスタレーションでした。それに対して高山のプロジェクトでは、ある現象や運動、交流の機会がシリーズとしてシステマティックに「演出」されます。

 ハンス=ティース・レーマンは高山の作品について「演劇が隠されている」としました。再び出現するためにいったん隠されなければならない。私は「秘密裡の演劇」と名付けることもできると考えます。多くのハードルを越えて、インターネット上で課せられた課題を解決しないと、どこに向かうのかを知ることができない設計になっている。彼が日本で手がけたプロジェクトのいくつかをフランクフルトで展開しましたが、ゼロからフランクフルトで作ったのが『ヨーロピアン・シンクベルト』です。セドリック・プライスによるスタッフォードシャー地域(イギリス)のプロジェクト「ポタリーズ・シンクベルト(思考帯)」を下敷きにしたもので、その核となる『マクドナルド放送大学』を作りました。確か日本でも展開されましたね。

テアター・デア・ヴェルト2023

フランクフルト市の劇場として、3年毎にドイツの都市・地域持ち回りで開催される国際演劇祭「テアター・デア・ヴェルト(世界演劇)」(ITIドイツセンター主催)の2023年開催に立候補されました。やはりこういったパートナー機関との連携の経験が大きかったですか。
 2023年のテアター・デア・ヴェルトへの立候補は、フランクフルト劇場の劇場長アンセルム・ヴェーバーと私の間の非常に良好な協働関係に基づいたものでした。彼が劇場長に就任することが決まったとき、電話をもらいました。「毎年フリーシーンのアーティストとの共同プロジェクトを一緒にやらないか。会場、自分たちにあるリソース、プロダクションの予算を提供するから、君たちのキュレーションの専門能力とその他必要な予算を持ち寄ってくれないか。どういうプロジェクトを共同して行うかは任せる」と言い、本当にキュレーションを私たちに任せてくれたのです。

 先方は大規模な市立劇場で、こちらは小さなプロダクションハウスです。あまりにも規模が違うにもかかわらず深い信頼を寄せてくれ、その信頼関係の上に多くの成功を共に収めました。フォースド・エンタテインメント、リミニ・プロトコル、ネイチャー・シアター・オブ・オクラホマといった、素晴らしいアーティストたちと新作を作りました。そのなかにはベルリン芸術祭下のベルリン演劇祭に招待された作品もあります。そうしていつしか、テアター・デア・ヴェルト2023を開催しようという話になりました。

 立候補するにあたって、さらに2つのパートナー機関に声をかけました。まずはフランクフルト応用(工芸)美術館です。ここは特にファッションとデザイン分野に強く、非常に幅広く応用美術を扱っています。観客層は実に多様で、建物は1980年代のリチャード・マイヤー設計による素晴らしいモダニズム建築です。フェスティバル期間中、この美術館を全館提供してもらうので、まったく新しい活用が可能です。

 もうひとつは、オッフェンバッハ市文化・スポーツ担当庁です。ここが加わることで、同市とフランクフルト市という隣接する姉妹のような2都市がフェスティバルを実施する形になりました。それぞれ何百年にもわたり発展してきた歴史があります。

 フランクフルトはかつて神聖ローマ帝国に直属することで自治権を与えられ、皇帝戴冠式が行われていた帝国自由都市です。ですからその境界線が明確に定められており、フランクフルトはその後拡大しませんでした。一方、オッフェンバッハは周辺の伯領のひとつでした。そういう都市発展の異なる状況が、19世紀半ばにプロイセン王国がフランクフルトを併合するまで続きました。その後、行政上の差異は取り除かれましたが、大企業が集まる国際金融のハブとして発展したフランクフルトと、オッフェンバッハの間の経済的な格差は改善されませんでした。現在のオッフェンバッハはドイツの代表的ないわゆるアライバル・シティ、つまり移民や仕事を求める人々が移住してくる都市です。

 この隣接する2都市は、重なり合う地域もありながらそれぞれ別の方向に発展してきたのです。フランクフルトで特に芸術文化の分野で働く人々の中には、フランクフルト市内の家賃が高いためオッフェンバッハに住み毎日通勤する人が大勢います。その逆のケースもあります。現在のオッフェンバッハには通信技術分野のスタートアップ企業が多くあり、また優れた専門大学もあります。特にオッフェンバッハデザイン大学はドイツの応用美術系の大学の中で最も名が知られています。

 ムーゾントゥルム自体がフランクフルト市の東に位置しており、市内の西の地域よりもオッフェンバッハのほうが地理的にずっと近いので、実験的なものも含めて数多くのプロジェクトを実施してきました。2023年テアター・デア・ヴェルト開催都市に選ばれたのは、まさにこの都市としての性格も違う、経済状況も異なる2都市の組み合わせが決め手となったのだと私は考えています。特に、美術館を演劇祭の上演会場として活用することや、経済的な格差のある都市が並列していることからくる新しい可能性が評価されたのではないかと思います。

 もちろん、アンサンブルを抱えレパートリー制をとる大規模な市立劇場と、非常に実験的なプログラムを展開するフリーシーンのプロダクションハウスという組み合わせも大きかったでしょう。
確かにその組み合わせは面白いですし、説得力があります。今回、テアター・デア・ヴェルトのプログラム・ディレクターが初めて公募されたのではないかと思いますが、それもこうした流れの延長線上にあったことなのでしょうか。
 ディレクターの公募自体は今回が初めてではないと思います。ただし、今回は実に広範囲に、世界中に告知しました。欧州外からの応募を強く持ちかけました。テアター・デア・ヴェルト史上、欧州外の国出身者がプログラム・ディレクターになったことはなく、もっといえばドイツ人以外もしくはドイツ語を母語としない人がディレクターになったのは唯一フリー・レイセンだけです(2010年ミュールハイム市・エッセン市にて開催)。

 その意味でもこの公募はとても革新的でした。ディレクターを公募することも、開催都市立候補に際し作成したコンセプトに当初から組み込んでありました。世界中に向けて公募をして、フェスティバルに欧州の外からの視点を取り込みたい、と考えました。その結果、相馬千秋と岩城京子と芸術公社によるチームが、80件にのぼる応募の中から選ばれました。

 35カ国から合計200件以上の応募があり、その多くがチームとしての応募でした。驚くべき数字です。選考には6カ月かかりました。15の応募者・グループに対して、より詳しいコンセプトの提出を求め、その中から6チームと面談をしました。予想をはるかに上回るすばらしく学びの多いプロセスでした。フェスティバルの将来像について非常に多くを学ぶこととなりました。できることなら、全15件のコンセプトをフェスティバルの未来に関する本にまとめたかったくらいです。それほど興味深い様々な観点と思考が全世界から集まってきたのです。
相馬・岩城チームが選ばれた最大の理由はなんでしたか。
 複数のポイントを考慮しました。まず相馬のフェスティバル経験の豊富さです。フェスティバル・トーキョーのみならず芸術公社での仕事も重要視しました。相馬が一個人としてだけではなく、日本で組織を持っており、その組織を頼りにできること。また、岩城による理論面・学術面での実績も高く評価されました。さらに両者によるコンセプトが、コロナ下の世界でのモビリティや交流といったまさにこの時代の非常に適切な問いをとりあげていたこと。そしてそれらを「インキュベーショニズム(孵化主義)」という新しいワードでまとめたことです。元来インキュベーションという言葉にはウィルスの潜伏期間という意味が含まれています。プロジェクト、具体的な作品、それからフェスティバルとして委嘱する作品の提案、その多くが私たちを納得させるものでした。8名からなる選考委員会は、民主主義的なプロセスにおいて非常に緻密な話し合いを行い、この2人の案を選出しました(*)
選考委員会のメンバーも国際的だったのですか。
 いいえ、今回の主催団体に限定されていました。ムーゾントゥルムから2名、市立劇場から2名、美術館から2名そしてオッフェンバッハから2名です。

ベルリン芸術祭総裁に応募

あなたは劇場長としての任期を2年残したまま ムーゾントゥルムを去りベルリン芸術祭総裁に就任しました。総裁のポジションは公募だったのですか。
 公募でした。10年来総裁をつとめたトーマス・オーバーエンダーが次期を務めないと突然決断したことから、2021年夏急遽公募が出ました。欧州全土をみてもこれだけの特別なポジションはなかなかありませんし、自分にはめったにないチャンスだと思いました。
応募までの準備期間はどのくらいあったのですか。
 急な公募でかつ募集期間も短く、応募から決定まで2カ月でした。2021年9月半ばに内定の知らせを受けました。
その知らせを受けてどう感じましたか。
 自分が選ばれるとは思っていませんでした。
就任はいつですか。
 トーマス・オーバーエンダーの契約が2022年末まででした。しかし、私はまずムーゾントゥルムの当シーズンを無事終了させ、自分がスタートさせたプロジェクトを軌道に乗せる必要もありました。そうしたことから、私のベルリンの契約は2022年9月のスタートとなりました。
後任についてはよい体制が組まれましたね。
 後任のことは、フランクフルト市にとって重要事項でした。私が9年間ディレクションをした劇場が、その時点で全く新しいスタートを切る必要はない。テアター・デア・ヴェルト2023の準備が進行中ですし、すでにスタートさせたプロジェクトが多数あり、パートナーシップに基づいて展開する協働プロジェクトもしかりです。規模としては小さな劇場ですが、テアター・デア・ヴェルトの他にも手がけていたフェスティバルがあります。たとえば2022年の「Politik im Freien Theater フェスティバル」や「ライン=マイン・ダンスフェスティバル」もありました。それらすべてをムーゾントゥルムがエクゼクティブ・プロデューサーとして運営し、私たちは芸術面だけでなく、プロジェクトの財政面も含めた運営責任を負っていました。

 小さな機関なのでフレキシブルで融通が利く。またムーゾントゥルムは国際プロジェクトを手がけることが多く、他の劇場に比べその実践がはるかに多様です。それだけ抱えている責任は幅広く重い。近年はムーゾントゥルムでアンナ・ヴァーグナーとマルクス・ドロスという2名のドラマトゥルグと仕事をしてきました。1年半ほど前、私たち3人は芸術監督チームであると自分たちの役割の認識を改めました。私自身はインテンダント(劇場長)であり経営上の責任者でもあるので、最終責任や最終決定は私が負いますが、劇場のプログラムはこの3人のコレクティブ体制から生みだされてきました。ですので、自分が去った後、この劇場は2人の手にゆだねることを提案しました。1人去るのであれば残りの2人で続ければよい。すでにスタートさせたプロジェクトを中断するわけにはいきません。また、私たちは市や州からの補助金に加え、企画ごとに外部から助成金を得ています。インテンダントが去るからといって企画を中断し、獲得した助成金を辞退するわけにはいきません。
結局、アンナ・ヴァーグナーとマルクス・ドロスの2人があなたの後任となったわけですね。
 はい、今後3年間劇場のトップを務めます。両者が同時に芸術監督でありかつ経営責任者となります。他に例のない組み合わせです。ドイツの公立劇場では、芸術監督と経営責任者の2名が劇場のトップに就くことが多いのですが、もともとムーゾントゥルムではそれを1人が担っていました。今回のように、両方の役割を2人で負うのは珍しいことです。
これも新しい試みと言えますね。
 この2人はすでにムーゾントゥルムで8年間共に仕事をしてきた同僚同士であり、互いのこともチームの他のメンバーのこともよく知っており、互いの得意・不得意もよくわかっていますので、劇場のトップとして堅実でかつ革新的なチームだと思いますよ。
確かに得意分野は異なりますね。アンナはダンスやパフォーマンス、マルクスは演劇ですか。
 マルクスは特にドイツのいわゆるフリーシーンにおける仕事の進め方をよく心得ています。彼自身非常に経験の豊かなドラマトゥルグです。初期のリミニ・プロトコルのメンバーでもありました。アンナはベルリンのHAU劇場にいて、その後フライブルク劇場のダンス部門の責任者を務めました。確かにアンナはどちらかというとダンス、マルクスはどちらかというと演劇出身と言えますが、マルクスはパフォーマンスや音楽にも強いです。

新生ベルリン芸術祭

ではベルリン芸術祭の話に移りましょう。ベルリン芸術祭とはそもそもどういうフェスティバルですか。おそらく全体像を知っている人は日本にはそれほど多くないと思います。
 ドイツにもそれほど多くありません。ベルリン芸術祭は、まず、かなり管理的な組織体制を持つ統括的な団体であり、一方で一部伝説となった長い歴史を持つベルリンの芸術祭やアートイベントのオーガナイザーでもあります。第二次世界大戦後ドイツが東西に分裂し、ベルリン自体も東西に分かれた中で、当時の西ベルリン政府は西側のショーケースとしてのフェスティバルが必要だと決定しました。1951年に「ベルリン芸術週間」と「ベルリン国際映画祭」が、1964年には「ベルリン演劇祭(テアタートレッフェン)」、「ベルリン・ジャズ・フェスト」がスタートしました。ベルリン演劇祭は、西ドイツ国内の州立・市立劇場が西ベルリンに渡り、作品を上演して交流するプラットフォーム的な存在でした(注:トレッフェンには出会う、という意味あり)。そうした流れの中で、1967年にこれら年間を通じて開催される複数のフェスティバルを束ねるベルリン芸術祭が創設され、当時の西ベルリンの重要な組織のひとつとなりました。

 東西ドイツ統一以前はベルリン芸術祭もあくまで西ベルリンの文化政策の手段でありであり、現在のような連邦レベルの政策では全くありませんでした。遅くとも70年代以降、東西ブロック間の緊張緩和が図られた時勢の中で、ベルリン芸術祭は芸術文化活動だけでなく政治交流のためのプラットフォームとして重要な役割を担っており、時には東西ベルリン政府が接触するインフォーマルな機会にもなりました。また、1987年のベルリン市750周年記念関連催事など、ベルリンの大規模な催し物も開催するようになりました。
東西ドイツ統一後はどうなったのですか。
 統一後はしばらくの間、ベルリン芸術祭を継続すべきかどうかが議論されました。当時の芸術祭総裁ウルリケ・エックハルトが、自分たちは形としては再統一されたが、感情面で真に再統一されるためには最短でも10年は必要である、そして感情面の再統一プロセスは、ベルリン芸術祭のような機関がとりまとめて行う芸術文化事業によって支えられるべきだと主張しました。この姿勢のもとベルリン芸術祭は継続されることになりました。

 しかし、1990年に東西ドイツが統一された後、ベルリン市はますます財政難に陥り、一方で多くの連邦省庁が旧西ドイツの首都ボンからベルリンに移転し、ベルリンが首都として宣言されました。かつて西ベルリン都市州が担っていたベルリン芸術祭など芸術文化関連の機関や活動がドイツ連邦政府の管轄となり、今では予算も連邦政府から充てられることになりました。
ドイツでは過去の反省から文化と教育に関しては連邦ではなく州・市が権限を持ついわゆる「州の教育文化高権」 という大原則があります。ベルリン芸術祭はその大きな例外といえますね。
 その通りです。ベルリン芸術祭の実施に関して、ベルリン州政府とドイツ連邦共和国政府の間で交わされた取り決めが、この例外的措置の根拠になっています。ベルリンはひとつの州ではありますが、同時にドイツ連邦共和国の首都でもあることから、首都で実施される文化事業のうちドイツ全土に波及する重要性を帯びるものについては、連邦レベルで予算をつけることとなりました。2002年、ベルリン芸術祭を運営する公社と世界文化の家の運営公社が合併し、新しい管理会社「ベルリン連邦文化運営会社(KBB)」が設立されました。
その会社は具体的には何を運営するのですか。
 KBBの一部門であるベルリン芸術祭に関する権限・責任を担います。ベルリン国際映画祭(ベルリナーレ)は2002年以前はベルリン芸術祭に属していましたが、独立し、KBBの中の新部門となりました。さらには世界文化の家が3つ目の部門です。このKBBの3部門が総務部の管理下にあります。自分はベルリン芸術祭の芸術監督で、同時に4人いるKBBのエクゼクティブ・ディレクターの一人としてKBBのマネジメント全般に関する責任を互いに担っています。
大変重くかつ多岐にわたる責任です。
 4名のエクゼクティブ・ディレクターのうち1名は全体の財政面のディレクターですので、日々のルーティンにおいては自分の責任範囲は芸術監督として直接関与している分野が中心です。といってもそれだけでもかなり広範囲にわたります。1年間におよそ10のフェスティバルがあり、そのうちの8件については芸術面でのディレクションと運営をすべて私たちで担います。年間を通して行うパフォーマンス・プログラムがあり、展示は7件〜8件、市内各所で展開する大規模な特別イベント、またベルリン芸術祭に属する会場が2つあります。ひとつ目が「ベルリン芸術祭の家」です。それ以前は独立した劇場でした。
かつてのフライエ・フォルクスビューネ(ベルリン自由民衆劇場)ですね。
 西ベルリン当時に建設された新しいフォルクスビューネで、1963年にエルヴィン・ピスカートア芸術監督のもとオープンした劇場です。しかし東西統一後は補助金を失い、商業化されて10年ほど様々な上演やフェスティバルの会場として活用されました。2000年にベルリン芸術祭の家となりました。もうひとつの会場がグロピウス・バウです。ベルリンでも指折りの素晴らしい建築で、ドイツ国内の19世紀の美術館建築のうち最も重要なもののひとつです。再建された歴史的美術館で、マルティン・グロピウスとハイノ・シュミーデンの両建築家によりイタリア・ルネッサンス様式で建築されました。マルティン・グロピウスはバウハウス創立者のヴァルター・グロピウスの大伯父にあたります。1881年工芸美術館としてベルリン・クロイツベルク地区にオープンしました。1945年破壊された後、1970年代後半になってようやく再建され、1981年に展示会場として再開されました。ベルリンの壁(西側)のごく近くに位置していたため、入口を建物の南側へ移さなければなりませんでした。2001年よりベルリン芸術祭がグロピウス・バウを運営し、2018年以降は年間を通して開催する全展示プログラムを手掛けています。

 8件のフェスティバルも運営しています。そのうちの3件は音楽祭で、60年間開催され続けてきた「ベルリン・ジャズ・フェスト 」、「ベルリン音楽祭」(旧ベルリン芸術週間)があります。ベルリン音楽祭はオーケストラを中心に据えた大規模なフェスティバルで、財団法人ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共同で主催しており、毎年8月・9月に彼らの本拠地であるホール「ベルリン・フィルハーモニー」で開催します。さらに、再統一後東ベルリンから引き継いだ現代音楽祭「メルツムジークMaerzMusik」もあります。

 やはり60年来続いているベルリン演劇祭(テアタートレッフェン)もあります。これは毎年5月にドイツ語で上演された演劇作品のうちベスト、もしくは最も注目すべき作品として演劇批評家が選出し、ベルリンで上演するものです。それから若いアーティストを対象とする4つのフェスティバルがあります。すべて12歳から25歳までが参加する全国コンクールをベースとしています。数10年にもわたり続けられていて、当初は演劇部門だけでしたが、今ではダンス、文学、音楽も加わった4部門で開催されています。

 各フェスティバルにはそれぞれ芸術監督もしくはキュレーターがいます。一時的に私、もしくは私の前任者が任命した人々です。グロピウス・バウにも私が任命する専属ディレクターがいて、独自の体制とチームを備えています。
ということは、各フェスティバルやグロピウス・バウが実施するプログラムの内容にはあくまで間接的にかかわる立場ということですね。
 私はそれらを統括し、それぞれの戦略目標、全体としての戦略さらにシナジー効果について定めます。全プログラマー、キュレーターとともに、フェスティバル・展示立案の実務と原則や、より持続的で多様でアクセスしやすいイベント・マネジメントのさらなる発展に取り組んでいます。共通のトピックや同時代的アプローチ、私たちインスティテューションがアーティストや観客に対して、また社会の中で果たすべき役割についても同様です。

新体制のチーム作り、外部からのパースペクティブ

変化を起こすとのことですが、どのくらいのスパンで考えていますか。
 締切があるわけでもないですし、変化によってはすぐには可視化されないものもあります。あまりに多数の催し物や活動がベルリン芸術祭にはあって職員たちの仕事量が多大なので、業務をよりよくコーディネートしたり、時折整理することが必要になります。ベルリンに存在する連邦レベルの大規模な文化機関となったことから、ベルリン芸術祭が今後5年間で未来のことを考える場所になればいいと考えています。未来の共生や共存をめぐる議論の場にもう少しなることができればいい。私たちは今後どのように暮らし生きるべきなのか。私たちの社会はこれからどのように機能すべきなのか。取り組むべきテーマには平等、脱植民地主義、アイデンティティ、歴史、記憶、などがあります。

 私たちは、将来、非常に多様な社会で生きていくことになるでしょう。ひとつの共通のナラティブや記憶をもはや共有していない状況です。これを考えることにとても関心を持っているので、バックグラウンドの異なる人々にチームに加わってもらいました。これまでロームシアター、その前はKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭のプログラム・ディレクターだった橋本裕介も、チーフ・ドラマトゥルグとして招きました。彼にはここベルリンと類似のテーマや課題、状況の中で働いた経験があるからです。
またもや、外部のパースペクティブですね。
 外部のパースペクティブを取り入れることで、私たち自身のパースペクティブの明らかな転換が起きうると私は考えています。これをポジティブに達成するためには芸術祭のプログラムの中だけでなく、その体制そのものの中に外部の視点を取り入れる必要があるのではないか。外部からのインプットを体制の中に取り込むことを考えたわけです。
画期的なことですね。20年前、それどころか10年前でも、欧州の外からベルリン芸術祭で働くメンバーを迎えることはまず考えられなかったのではないですか。
 もちろんこれまでにも欧州圏外からのアーティスト、もしくはキュレーターのポジションは常にありましたが、キュレーターについては今日に比べれば例外的だったかもしれません。音楽、ダンス、美術界では実践されていましたが、言語の壁が立ちはだかる演劇界にはあまりありませんでした。
確かにそうでした。2000年から2004年にかけて日本の演劇関係者のグループを3度にわたりベルリン演劇祭などドイツに送り出したことがありましたが、字幕のついた上演はひとつもありませんでした。
 昨今では字幕つきがスタンダードになりましたが、例えば当時ここではどんな映画でもドイツ語でしか観られませんでした。私の子供時代からそうでした。今では、ドイツ国内のどの街角でも国際的な作品が観られますし、国際フェスティバルが開催されています。
30年前はまったく考えられなかったことが、今や当たり前のことになったわけですね。
 そうです。大きな進展ですが、最初のうちはやはりかなりエキゾチシズムに裏打ちされていた部分があったと思います。そのうちに、単にアーティストとその作品を招いて上演することから、キュレーションを行い、観客とコミュニケーションをとることへと発展し、さらにはインスティテューションの中にその変化が取り入れられていく。まさに今、私たちはその中にいるわけです。ただし10年・20年前に自分たちがとったやり方が、今日のそれに比べるとあまりに古く遅れていたことを恥じる必要はありません。変化とは非常に相対的なものであり、これから10年もたてば今の私たちがこうすべきと考えていることが結果的に再びばかばかしく思えるようになるかもしれません。

 尚早にジャッジしたり、先入観を持って行動するのではなく、変化とは十分に時間がかかるものであることをまず認識すべきです。私たちの同僚、組織体制、そして観客も含めて、その進行プロセスに立ち会い参加してもらう必要があります。というのも、私たちがどこに行こうとしているかについて彼らと十分にコミュニケーションをとり、コミュニケーションのチャンネルを常に開いておくことが重要だからです。
大きな変化を想定しているのですね。
 私たちは変化には時間がかかるという認識を持ち続けますが、変化を求めて戦うことはまだ必要です。当然、その困難さを過小評価することはありません。これまで物事が進化するプロセスの中で得られた、もしくは私たちが関与し発展させてきたある種の方法や考え方があります。しかし、そういったものは新たな変化や変革のたびに俎上にのせられ、変化の危機にさらされます。

 たとえば古典的な戯曲を取り上げるかどうか、むしろ現代の戯曲を支援していくべきか、という問題がよく議論されます。しかし、私たちは実は戯曲の上演よりもはるかに面白い演劇の実践があると考えているのです。劇作家がテキストを書き、戯曲を上演するというのは、演劇を創るひとつの方法です。でも演劇には他にもたくさんの方法や形態があります。演劇を拡張していくと、つまり概念の範囲を拡張していくと、現状を維持したい側と革新したい側との間で、即刻、文化闘争が起こります。
それはいつの時代にもあることですね。
 たしかに古典的な現象で、いつどの時代にもありました。古代にはコロスからドラマへと発展するときに大議論が起こっています。こういった文化闘争の場では、コミュニケーションをとることが非常に重要で、ポジションを得るために争うのではありません。そういった争いでは、えてして権力を行使しながら自分の影響力を守ろうとするものです。やるべきことは、闘争の中心にあるテーマを議論することであり、私たちとこの問題について議論しましょう、と語りかけて観客を議論にひきこむことです。

何をどう変えるのか

では具体的に何をどう変えていこうと考えていますか。
 ベルリン演劇祭については、イヴォンヌ・ビューデンヘルツァーがこれまで10年にわたって成功裡に導いてきましたが、現在は単独のディレクターではなくディレクションチームが率いています。女性の演劇人・フェスティバル企画者3名のチームです。このうち2名はドイツ語を現時点では話しません。ウクライナのドンバス出身で数年前にポーランドに移住して活動している演出家オレナ・アプヘル、ワルシャワの劇場Nowy Teatrの副ディレクターを15年にわたって務めて国際プロジェクトやフェスティバルを手掛けるヨアンナ・ヌコツフスカ、そしてドイツのドラマトゥルグのカロリン・ホーホライターで、過去にヨアンナとNowy Teatrで仕事を共にしていました。

 批評家の選出によるドイツ語圏の注目すべき10作品をベルリンで上演することに加えて、ベルリン演劇祭には若い演劇人のための国際フォーラムなど関連プログラムがあります。新旧の全枠組みやフリンジのイベントは、タイトル「10 ミーティング」のもとにまとめます。ベルリン演劇祭の名称であるテアタートレッフェンからトレッフェン=ミーティングという語を取り出したタイトルです。現在のフォーマットに加え、ベルリン演劇祭を中・東欧に対してもう少し開こうとしています。もちろん実施のためのプロセスを注意深く計画し、外部からの参加者と十分にコミュニケーションをとりながら実現させる予定です。
予算の問題もありますね。
 確かにそうです。

東欧に開く

ポーランドのメンバーが2名いますね。
 ポーランドの演劇界はベルリンからするとせいぜい100キロ先から広がっています。ベルリンから一番近いスイスの劇場は1,000キロメートル離れています。ドイツの演劇界はスイスの演劇界と近いと言われますが、それはドイツ語という共通項があるだけのことです。
中・東欧へ開くことは、国同士が近接していることに由来するのはわかりますが、ウクライナの戦争など現在の状況にも呼応するものですか。
 現在の状況に関し、目下私たち全員ウクライナの戦争に注目していますが、統合された欧州の中にある東西間の大きな格差について話すことは重要です。ベルリン芸術祭には東西の和解の場として機能してきた歴史的経緯があり、ベルリン演劇祭は 1989年5月に初めて東独の劇場を招聘することに成功しました。ベルリンの壁が崩壊する数カ月前のことです。私の望みは、さらに一歩も二歩も東へ向かって踏み出すことです。非常に重要でかつ必要なことと考えています。

 実はドイツと東欧諸国の劇場制度は非常に似ているんですよ。レパートリー制度とアンサンブルを持つのがドイツの公立劇場ですが、これは何もドイツ語圏に限ったことではなく、多くの中欧諸国にもみられます。逆に西欧諸国、特にフランスや英語圏にはこのシステムは存在しません。世界の他の地域にもありません。
それは確かに重要な共通項ですね。
 ポーランドやハンガリー、ロシアやウクライナにも存在します。バルト三国にもあります。これはもう共通の文化遺産と言ってもいいのではないでしょうか。ドイツの劇場制度をユネスコの世界文化遺産にしようという動きがずっと以前からありますが、他の数カ国共通の文化遺産なんです。

 共通する枠組みのなかで制作された演劇作品は比較できるはずです。ですので、ドイツ語圏より毎年選出される10作品の上演と並列・拡張する形で、ドイツ語圏の外の「注目すべき作品」をベルリン演劇祭に招待することを夢見ています。
10作品を選び出す審査員の制度も変わるのでしょうか。
 演劇批評家が審査することは、ベルリン演劇祭というブランドの核を成しており変更はありません。むしろ問われるのは、演劇批評は変わったか、もしくは変わるのか。そしてメディア一般はどうか。ジャーナリストと読者の間の新しいコミュニケーションのあり方が取り上げられるようになり、新しい世代が新たに喫緊の問題提起をし、私たち全員がパースペクティブを多様化することを必要としています。それもすべての分野においてです。
なるほど、ここでも開いていくわけですね。もうひとつお尋ねしたいのですが、確か雑誌のインタビューで、東欧に向けてだけでなく、グローバル・サウスに対しても開くと発言されていました。気候変動が喫緊の問題であることに関連しての言及でした。
 植民地主義はグローバル・ポリティクスが言うところの南でも東でも問題です。どの国がどの国によって植民地化されたのか。中・東欧諸国の人々には、ソビエト時代に植民地化された直接的な体験があり、脱植民地化と民主化のプロセスをつい最近経験しています。そしてまさに今、あたかも帝国が反撃してくるかのような状況があります。これら異なる歴史的経験から、植民地主義の遺産と現在に関連するグローバルな依存関係と責任に関して非常に異なる理解が生じています。西側ではこのことを忘れがちですし、そこにはかつての西独とその考え方も含まれます。ですので、いわゆるグローバル・サウスを扱うのであれば、私たちはまずヨーロッパ内に存在する異なる理解へのアプローチから始めるべきではないかと考えます。そうでない人々全員にまで自分たちの視点を強いることはやめるべきです。

 他者に自身のパースペクティブから歴史の異なる見方を語ってもらい、私たちはそれに耳を傾ける必要があります。それを通して問題に向き合いディスカッションやコミュニケーションに参加する。私たちは物事を同じように経験しているわけではありません。そのことを認めなければならないし、その違いとともに生きていかなければなりません。これこそが鍵です。ゆめゆめ、全員で同じ考えをもつべきなどと考えてはならない。
その考えに基づいて、ベルリン芸術祭の体制を変えることを考えているわけですね。
 例を挙げます。ポーランド・エジプトの音楽キュレーター、カミラ・メトワリは「MaerzMusik」の新芸術監督です。彼女はこれまで何年にもわたってベルリンでより多様な現代音楽シーンを形作ることに貢献してきました。今は私たちとともに、周縁の音楽や正統ではない音楽文化やサウンドの歴史に広く深く取り組み、出会いと交流のためのとてもオープンな場を作ろうとしています。

 持続可能性、エコロジーや気候変動といったテーマを語るときには、グローバルな公平性や気候の公平性についても考えたいと思います。脱植民地化とグローバル・サウスについては、持続可能な生活の確保と気候危機への対応の問題と深く結びついているので、その文脈で取り上げたい。そうでなければ、自分たちには利益や安定性を許しているのに他者に対しては禁じるといった、植民地主義的行為にまたもや陥りかねないからです。
すばらしい試みですね。
 そうですね。どうなるかわかりませんが、この方向性でやっていきたいと考えています。全てを実現させるのは簡単ではないでしょう。
その中で自分の考えを実現するためにどんな戦略をとりますか。
 目をしっかり開けてやりとげる!
大変示唆に富んだお話をありがとうございました。

*岩城京子は個人的な事情によりチーフ・ドラマトゥルクを退任し、プログラム・アドバイザーとしてフェスティバルに関わる。

ベルリン芸術祭
https://www.berlinerfestspiele.de/en

ベルリン演劇祭
https://www.berlinerfestspiele.de/de/theatertreffen/

ムーゾントゥルム劇場
https://www.mousonturm.de/en/

FIND フェスティバル
https://www.schaubuehne.de/

マッツ・シュタウプ
https://matsstaub.com/en

テアター・デア・ヴェルト
https://theaterderwelt.de/en/

ライン=マイン・ダンスフェスティバル
https://www.tanzfestivalrheinmain.de/en/

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