ダン・ミッチェル

先住民や移民のコミュニティとの対話を促進する
フッツクレイ・コミュニティ・アーツ

2023.03.09
ダン・ミッチェル

(C) Footscray Community Arts

ダン・ミッチェルDan Mitchell

フッツクレイ・コミュニティ・アーツ チーフプロデューサー
メルボルン郊外にあるフッツクレイ・コミュニティ・アーツ(1974年開館)では、先住民アドバイザーを設けるなどの取り組みにより、アートを媒介にして先住民や移民コミュニティとの対話を促進してきた。

ソングラインやドリームタイムといったアボリジナルの考え方から多文化社会における芸術文化施設のあり方まで、チーフプロデューサーのダン・ミッチェルからのメッセージ。
聞き手:田村かのこ(アートトランスレーター)

フッツクレイ・コミュニティ・アーツ Footscray Community Arts
https://footscrayarts.com/

フッツクレイ・コミュニティ・アーツ

フッツクレイ・コミュニティ・アーツ外観

フッツクレイ・コミュニティ・アーツ

円形劇場(Amphitheatre)

フッツクレイ・コミュニティ・アーツ

Roslyn Smorgon Gallery

フッツクレイ・コミュニティ・アーツ

スタジオ

フッツクレイ・コミュニティ・アーツは1970年代のかなり早い段階から社会のコミュニティ形成にアートの視点を取り入れた画期的な試みだと思います。まずはその成り立ちについて教えていただけますか。
 まず、ウルンディエリ・ウォイウルングとブーンウルングの土地で働くことがいかに特別であるかについて述べるところから始めたいと思います。彼らの土地で仕事ができる特権と名誉に感謝し、長老たちに敬意を表します(*1)

 フッツクレイ・コミュニティ・アーツには、興味深い歴史があります。この種の組織としては、オーストラリアで最も古いものです。1974年、地元の組合員や政治活動家を中心に、関心を持った人たちが集まって始まりました。メルボルンの西側、労働者階級が住む工業地帯を拠点にしています。造船所もあった地域です。当時使っていた建物は豚の屠殺場だったところで、マリビノング川沿いのとても美しい場所にありました。今も同じ場所を拠点にしていて、その後、近くの倉庫を借りて、リハーサルやパフォーマンスのための空間とオフィスに改装しました。

 この地域では労働組合運動が非常に盛んでした。地元の活動家やリーダーたちは、地域の人々が高い学費を払って学校に通わなくても、文化的な暮らしに触れ、楽器を習うなどの機会を提供したいと考えていました。つまり、文化的で創造的な表現手段を得る機会を提供しようとしたわけです。また、コミュニティへのアクセスを広げることも重要な要素でしたので、誰もが参加できるようにしました。

 とても力強いスタートで、この考え方が活動の方向性を定めました。政治的な運動だけでなく、アートの分野でキャリアを積みたいと考えているアーティストやコミュニティの若者たちに、最初の一歩を踏み出す機会を提供することも重要視しています。
それらの運動は公的資金で始まったものですか。それとも私的な活動だったのでしょうか。
 私的な活動です。さまざまな人々が私財を投入して支援してくれました。いわばフィランソロピーの初期形態でしたね。当財団に寄付するだけの余裕がある方や組合のみなさんに支えられました。
当時のメルボルン にはどのような人々が集まっていたのでしょうか。
 オーストラリアにはさまざまな移民の歴史があります。70年代のフッツクレイで起こった出来事について少しご紹介すると、アイルランド系の労働者階級などの新しいコミュニティが入ってきたり、ベトナム戦争による難民問題でベトナム人が移住してきたりしていました。イタリア人やギリシャ人も移住してきました。

 このように、オーストラリアは非常に豊かで多文化的な素晴らしい場所なのですが、新しい移民の波がやってくる度に、人々は制度的な人種差別やもっと単純な人種差別によって、大きな困難を強いられました。オーストラリアが白豪主義を掲げていたからです(*2)。その考え方は70年代でもまだ続いていましたし、今でもまだその名残があります。すべての人が、何かしらの差別を経験しました。アボリジナル以外では、おそらくベトナム人が最もひどい差別を経験したのではないでしょうか。ベトナム人は異なる部分が多くありましたから。

 そこで、フッツクレイ・コミュニティ・アーツはこのような人々の物語に寄り添うことにしました。人々のたどってきた旅や物語を表現できる場所であろうとしました。新しいコミュニティが新しい土地に入る際、彼らが自分たちの物語を堂々と語れるようになるには、一世代もしくは二世代はかかると言われています。そして今、ようやくその語りが始まりつつあります。彼らが物語という媒体を好むのは、新たな難民の波はいつも、ただ生き延び、ひっそりと息を潜めることで精一杯になるからです。フッツクレイは、メルボルン西部に居住するベトナムやアフリカの角エリア出身の現代アーティストが自分たちの家族のたどってきた道のりを表現するのに適した場になりつつあります。
フッツクレイには、当時から先住民のコミュニティも多くあったのでしょうか。
 あまり多くはないですね。住んでいても数世帯だけだったと思います。最近になってメルボルン西部に人口が増えてきたのは、この地域が家賃や生活の面で手ごろだからです。ここ10〜15年の間、メルボルンにやってきた先住民の多くが西部に移っています。でも昔は、大多数がメルボルンの北部に住んでいました。
70年代というと、先住民の方々にとっては主権・人権を取り戻す動きがやっと始まった時期ですよね。
 メルボルン西部は、先住民にとって誇りある政治運動の歴史を有する地域です。50年代から60年代にかけて、あるいはそれ以前の第二次世界大戦終戦直後より、アボリジナルの人々が強いリーダーシップを発揮し、メルボルンの主要な政治団体の設立を支え、人々の権利を守るために闘ってきました。

 フッツクレイ・コミュニティ・アーツが設立された74年当時のオーストラリアは、アボリジナルの人々の存在が憲法で認められ、国勢調査の対象となってからまだ5年しか経っていませんでした。67年に市民権が認められるまでは、アボリジナルの人々はオーストラリア人として数に含まれてすらいなかったのです。ですから、政治運動としては本当に初期の段階でした。
そのような状況の改善・解決が急務とされたであろう時代に、直接的な即効性を持たないアートの力を信じ、アートセンターを作ろうという先見性を持つ人々がいたことが驚きです。
 当時としては信じられないほど先進的で、だからこそ非常に特別だったのです。芸術は裕福な人たちだけのものだと思いがちなので、不思議ですよね。でも人々は、文化芸術と健康的な生活がどう関係しているか、よく理解していたのだと思います。

 つまり、どうすれば機会を開き、人々が地域社会において新しい可能性を見出せるようにできるのか、という問いです。私がまだ子どもだった70年代に、「フェア・ゴー」という考え方を導入し、反映させたゴフ・ウィットラム率いる連邦政府がかなり進歩的だったのだと思います(*3)。オーストラリアではこの言葉を少し大ざっぱに使っていますが、ウィットラムは大学教育の無償化を実現し、オーストラリア芸術評議会(Australia Council for the Arts)を設立するなど、さまざまな先進的なプログラムをスタートさせました。また、アボリジナルの土地の権利に関しても、ウィットラムは真面目に話し合いを始めました。多くの先進的なことが国家レベルで起こっていたのです。

 一方で経済が悪化し、多くの人々が苦境に立たされていたことも事実です。興味深いことに、この二つのことは同時進行することがよくあります。70年代には、石油危機など、あらゆる種類の問題が発生しました。今とさほど変わりません。当時は進歩的な時代でしたが、人々はアートの可能性に気づき始めたばかりでした。
そういった意識改革に後押しされる形で、フッツクレイ・コミュニティ・アーツも先住民の方たちとの関わりを持つようになったのですね。
 はい、より広いコミュニティとの対話を構築する時期にきていたのです。50年代から60年代にかけて、アボリジナル主導の活動によって変化がもたらされました。そして60年代後半から70年代にかけて、非アボリジナルの「アライ」と呼ばれる人たちがこの問題に取り組み始め、「こんなことは許されない、政府レベルや地域レベルでこの問題に取り組む必要がある」と言い始めました。

 当時のフッツクレイにも、そのような課題に対してオープンなアライの活動家たちがいたに違いありません。しかし、まだ非常に未熟で、複雑な状況でした。オーストラリアのアボリジナル以外のコミュニティは、どうすればよいアライになれるのかわかっていませんでした。そして、彼らは今も学んでいる最中です。

 当団体は進化を続けながら、強力なアドボカシーの役割を常に担ってきました。そのなかでも最近の12年間は、特に、アボリジナルのリーダーシップ、先住民のリーダーシップを強化する方向に舵を切ってきました。これは組織全体を先住民主導にしようとするものではなく、同等のレベル、公平なレベルに持っていこうとするもので、現在では、理事会のメンバーにアボリジナルの人を加えることを規約で定めています。 ヴィッキー・クーゼンさんやアンクル・ラリーおじさん、ナーウィート・キャロリン・ブリッグスさんなど多くの人が先住民アドバイザーとして規約に明記されていて、彼らには自主的に活動を行う権限も与えられています。この表現で伝わるかわかりませんが、役所的な物事の進め方とアボリジナルならではのものの見方や考え方が共存できるような、新しい運営方法を構築しようとしているのです。このプロセスは興味深いもので、今も常に見直され、検討され、議論され続けています。
12年前から特に先住民の人々との協働の仕方を見直すようになったのは、何か理由があったのでしょうか。
 あまり勝手なことは言えませんが、オープンな組織ですし、このような働き方を求めていたのだと思います。10〜15年前というと、さまざまな団体・組織が特定の人に役職を与えようとする試みが広まり始めていました。例えば、プログラムを主導するスタッフにアボリジナルの人を積極的に雇用するなどです。それは非常に新しい試みだったと思います。今ではもっと活発に行われるようになっています。

 最初にこのような役職に就いた人々がプログラムを強化し、組織として成長していくには何が必要か、うまく運営していくために何をしなければならないかについて考え始めました。そして今も学んでいる最中です。この過程で得た教訓の一つは、西洋的な価値観が支配する組織の中にアボリジナルのスタッフが一人いる程度ではどうにもならない、ということです。これで文化的に安全だ、というわけにはいきません。ですから、この分野での発展を目指している組織は、さまざまな人に門戸を開き、できるだけ安心・安全な活動環境にするにはどうすればいいかを考え続けなければいけません。大変な仕事です。
そのような行動に移る際、どのような難しさがありましたか。
 難しさというよりも、どうするのがベストなのかと考えていました。アボリジナルではない方々の中には間違いを犯すのではないかと警戒心や恐れを抱いている人は多かったと思います。でも、正しいか正しくないかではなく、向き合って取り組んでいくしかないのです。

 オーストラリアには、RAP(Reconciliation Action Plan)と呼ばれるものがあります(*4)。すべての組織がRAPを持つように義務付けられています。ですが、アボリジナルのコミュニティから見ると、RAPは組織が形式的にチェック項目を埋めていくだけのものになってしまっています。土地の所有者に敬意の言葉を述べて、アボリジナルのアートを少しだけ買って、組織内でアボリジナル問題に取り組んでいる感じのする方針を掲げて…という具合です。

 それらを紙に記してファイリングしたら、はい終わり。それで仕事は完了です。こんなことばかりだと、アボリジナルの人々も組織に入ってRAPを確認し、「実際には何をしているのですか?どんな行動に移したのですか?」と尋ねたくなってしまいますよね。そこで、私たちもようやく行動の段階に入り、学んでいるところです。ここでいう行動の段階とは、ずばり経済、つまり雇用のことです。それが先住民の人々のために着実に達成できる成果の形です。だからこそ各組織は精力的にこれに取り組んでいるのです。うまくいっているところとそうでないところがありますが、互いに学び合っています。
フッツクレイ・コミュニティ・アーツにいる先住民アドバイザーたちのことを教えてください。
 幸運なことに、素晴らしいアドバイザーやリーダーの方々が集まってくれています。ラリー・ウォルシュおじさんはタウングルン族で、語り手でもあります。これまでの政治的な道のりや社会的な道のりの理解の仕方という点では同じ西部の一員で、アートや新進アーティストに情熱を注いでいます。

 ナーウィート・キャロリン・ブリッグスおばさんはコミュニティの偉大なリーダーでもあり、エルダーズ・イン・レジデンス(フッツクレイ・コミュニティ・アーツに継続的に関わる長老)でもあります。彼女も同様に、次世代への支援にとても熱心です。そしてグンディツマラのリーダーであるヴィッキー・クーゼンさんもいます。彼女は言語のスペシャリストであり、アーティストでもあります。パオラ・バラさんはアーティストで学者です。カレン・ジャクソンさんもアーティストかつ学者ですが、みなさん先住民です。

 ロバート・バンドルさんは素晴らしいミュージシャンで、コミュニティの支持者であり、アーティストです。そしてアネット・ジベラスさんという、ウルンディエリの人類学者もいます。本当に素晴らしい人たちです。彼らは自分の時間を割いて、当団体に助言を与えてくれます。助言だけではなく、時にはアイデアを提案してくれることもあり、彼らの考えをできるだけ取り入れるようにしています。

 私たちは「ファーストネーション・ファースト」というポリシーを掲げています。当団体の哲学のなかで最も優先順位が高いポリシーです。これは例えば誰かを雇用するときに、3人の候補者がいて、そのうちの1人がアボリジナルだった場合、全員が同じ程度の条件なのであれば、アボリジナルの候補者を採用しようというポリシーです。また、当団体では、何かしらの側面で不利な状況にあるコミュニティすべてに対して同じポリシーを適用しています。つまり、不利な状況にある人々を組織に招き入れて、私たちが支援するコミュニティの状況を運営に反映させることに重点を置いているのです。
彼らは普段どのようにアートセンターのプログラムに関わっているのですか。
 これにはいくつかの段階があります。先住民のアドバイザリーグループは、年に4回ほど正式な会合を開きます。これを下回ることはありませんが、大きな戦略的決定を下す場合は、もっと頻繁に開催することもあります。また経営陣や役員たちも、「戦略的計画についてフィードバックが必要なので、特別な会合を開くことはできないか」と、別途情報を回すことがあります。しかし、皆さんの時間を奪うことのないように、最新の注意を払うようにしています。

 彼らは社員ではなく顧問です。彼らは自分たちのコミュニティを大事に思う気持ちからこの役割を引き受けてくれています。私たちはその思いを尊重しなければなりません。年間の謝礼をお渡ししている長老が2人いますが、そうすることにより私のような組織の人間が彼らに電話をして、「こんなことがあったのですが、どうすればいいと思いますか」「誰に相談すればよいでしょうか」などと相談することができるのです。私たちとしては、この部分をより重視していきたいと考えています。
彼らのアドバイスを取り入れるのは、先住民の関わるプログラムだけですか。
 いえ、プログラム全体で取り入れています。特に戦略的なレベルで取り入れることが多いですね。例えば、州政府から大規模なインフラ整備のための資金提供を受け、造園や野外のパフォーマンス用スペースを作る計画があります。先住民のアドバイザリーグループや長老たちは、この事業が先住民の土地とのつながりを保てるようにするにはどうしたらいいかということについて、大きな発言力を持っています。

 会場だけでなく、その周辺の敷地全体が地元の自治体の所有です。自治体では、職員が頻繁に入れ替わるなどの理由から、土地との関わり方について継続的に理解を深めていくことが難しくなっているため、さまざまな意見が飛び交います。自治体が何かを行う際に、私たちや先住民アドバイザリーグループに何も言ってこないこともあります。だから難しいのです。最良の結果を得るためにどうするかという緊張感が常にありますね。でも、この新しいプロジェクトのための資金を調達することはできました。
体系化・効率化された組織の運営方法に先住民の方々の考え方や価値観を取り入れるには、相入れない難しさもあると思います。たとえば時間の捉え方が違ったりしますよね。
 そうですね。難しいことではありますが、同時に組織にとってはやり方やあり方、見方を変えるチャンスでもあります。いつも私は、儀式のようなものだと説明しています。伝統的な考え方には、始まりも終わりもありません。常に「起こっている」のです。

 時間というのは本当に重要な概念です。それは聞くこと、深く聞くということです。長老が口を開くと、誰もが必要なだけ耳を傾けます。伝統的な思考法は、直線的に意思決定を行おうとする西洋の思考法とは異なり、循環的です。人の話を聞くことで、意思決定を急かしたり押し付けたりするのではなく、前後の関係を踏まえながら意思決定に近づけていくことができます。なぜなら物事を決定するというのは共通認識を持つということでもあるし、想定外の結論を許容したり、話し合いの場に持ち寄られる知恵を丁寧に共有したりすることでもあるからです。だから、時間と忍耐が必要なのです。

 私自身も、大学のシステムやこれまで出合ったあらゆる仕事や制度、方針などを通して考え方が西洋化された人間です。もちろんそれらのことにも意義はありますが、それはあくまで一つの考え方に過ぎません。ですからこれはいい機会でもあるし、同時にこのプロセスを理解する努力や、このプロセスを停止させないための努力が必要です。だから私たちは常にこのプロセスを見直しているのです。

 先住民のアドバイザリーグループのルールを作ろうとしても、組織の視点からだと、西洋の伝統的な直線的思考モデルに引き込まれてしまいます。でもそれはそれでいいのです。私たちは合意に至るための方法を模索中だからです。西洋的な直線的思考と彼らの循環的思考をうまく組み合わせる方法はまだ見つかっていませんが、とても興味深い分野ですよね。
それでも歩み寄りを重ねることに意味があるのですね。
 個人的には、私たちがアイデンティティの問題やアートやパフォーマンスなど表現の可能性について考えるとき、このことにこそオーストラリアのポテンシャルがあると感じています。もしオーストラリアが先住民的な思考や振る舞いを体現することができれば、私たちのアートは欧州中心的な狭い射程のものではなく、唯一無二のアイデンティティを獲得することができるはずです。

 オーストラリアが歴史と和解すれば、世界的に見ても計り知れない6〜8万年の文化的歴史を受け継ぐことになるのですから。どんな経歴の持ち主であれ、「どうやって今からこのソングラインに加わろうか」と考えることになるのです(*5)。現在のオーストラリアには240年の歴史がありますが、この大陸の旅に参加し、それをアートで表現することができたら。横取りしようとするのではなく、お互いに協調・協働し、学び、相手の言葉に耳を傾け、儀式のような創作をしたい、というのが私自身の情熱です。大きな夢であることも理解していますが、すでにある程度は実現していると思っています。
すべてがスピード重視で簡単な解決策ばかり求める現代の社会では、息苦しく感じることもしばしばです。循環のなかで考えるという視点や、常に答えを探し求めないという姿勢は、そういった社会にあらためて向き合うヒントになりそうですね。解答を出す代わりに問いを立てていくアートの力とも重なる部分があるように感じます。
 その通りです。私が言いたいのは、結果にこだわるよりも、流れに身を任せることで思いがけない素晴らしい結果にたどり着くことができるということです。その一例として、毎年フッツクレイで開催されている「ウミンジカ・フェスティバル」という先住民主導のフェスティバルをご紹介しましょう。

 「Wominjeka」はクリン族の言葉で「ようこそ」という意味ですが、他の意味もあります。私はクリン族ではないので、これ以上詳しくお話することはできませんが。とにかくウミンジカは、先住民が自分たちの手で自分たちの土地を所有するということを主導し、祝福するためのフェスティバルなのです(*6)

 ここでの私の役割は、まとめ役です。長老たちと並んで座り、すべてが始まる5分、10分前になっても何が起こるのかわからない状態のまま、するべきことについて話し合う。同僚たちは気を揉み、「ダン、これはどうする、あれはどうした」と言ってきます。でも、私は「今この状態なのは、こうなるべくしてなっている。絶対的なことは何も言えない」と。こうしたことには、本当に、言葉では表せない特別なエネルギーがあると思います。起こることに身を任せるべきです。そのような空間には、学び、咀嚼し、結果を出すための本当に素晴らしい機会がたくさんあります。作ること、実行すること、創造することの儀式です。そしてそれらは変化の過程の中にこそあるのです。

 アボリジナルの英語には「yarning」または「yarn」という言葉があります。これはテーブルを囲んでとにかく話し合うという意味です。テーブルではなく床に座って話すのでもなんでもいいのですが、とにかくその空間ではたくさんのことが起こります。

 私がこれまで企画したプログラムの中で最もうまくいったものは、アーティストが中心となって制作をしたり、地域の人たちと話し合ったりしながら、このような対話の場が生まれるように促すことができたものでした。そのような場では、多くの学びを得ることができ、文化的な安全やつながり、そしてさまざまな結果が生まれます。「yarn」すること、よい「yarning」の場を持つことは本当に重要なことで、オーストラリアの人々が日常的に参加できるものになることを願っています。

 これは議題を設定して行うようなものではありません。会議ではないのです。時にはただ作ったり、聞いたり、話したりするだけのこともあります。それが、儀式的なプロセスの表出の一つだと思います。ここから最高の結果が生まれるのです。
フッツクレイ・コミュニティ・アーツはほかにも多種多様なプログラムを展開していますが、すべてのプログラムが先住民コミュニティ中心というわけではないのですね。
 私たちは大規模な組織ではありませんが、正規雇用のスタッフは25人以上います。他には、イベントの時に来る臨時スタッフもいます。そして各チームはそれぞれ重点的に関わる担当分野を持っています。とはいえ、いろんな分野が交わることもありますし、組織としてはそういった関わりをもっと増やしていきたいと思っています。

 当団体は決して先住民の組織ではありませんし、フッツクレイも先住民の街ではありません。私たちはオーストラリアの組織としてあるべき姿の一例を示そうとしているのです。オーストラリアというより、フッツクレイという街や、メルボルン西部の郊外においてという方が適切かもしれませんが、不利と思われる状況にあるコミュニティに特別な注意を払う組織である、ということを示そうとしているのです。

 例えば「エマージング・クリエイティブ・リーダーズ」(*7)というプログラムには、不利な立場にあるコミュニティの人から新生のリーダーと言えるような人までさまざまな人が参加しています。また、プログラムの枠外でも気軽に学べるサポートシステムが充実していて、先住民アドバイザリーグループやエルダーズ・イン・レジデンスの長老たちがアドバイスしてくれます。フッツクレイは一つの有機体のような組織なんです。
アーティスト・イン・レジデンスプログラムも非常に興味深いです。滞在中に作品を制作し、成果発表したらそれで終わりというプログラムも多いなか、もっと長期的にアーティストのキャリアをサポートするシステムになっているように感じました。
 そうなんです。ですからレジデンスが6カ月とか8カ月続くこともあります。新型コロナウイルスは、私たちの活動にも少なからず影響しましたが、アーティストは大きな打撃を受けました。私たちは基本的にアーティストを何らかの形で支援するために活動しているので、パンデミックのような事態が起きたときに何ができるのか、個々のアーティストにとって意味のあるものを一定期間提供するにはどうしたらいいかを話し合っています。今のところはこのような状況ですが、かなり流動的なプログラムで決まったものではありません。ニーズに応えていくということで、そうあるべきだと思っています。

 また、このプログラムを通じて「ファミリー」を作ることも考えています。毎年、プログラムに参加したことをきっかけにとても近い関係になるアーティストが現れます。そのようなアーティストは最終的に当団体で雇用することになるかもしれませんし、展覧会の企画や素晴らしいアイデアを携えて戻ってくるかもしれません。何かしらの結果を出すことを強要されるのではなく、作品が成熟するのに必要なだけ時間をかけた企画たちです。これは本当に素晴らしいことだと思いますし、すでに起こっていることです。

 だからここで働き始めたとき、「なんて素晴らしい職場なんだろう」と思いました。若い人たちが、「4年前にエマージング・クリエイティブ・リーダーズに参加したのですが、こんな展覧会をやってみたいんです」と戻ってくる。アーティストたちもここではアイデアを提案していいのだと感じてくれている。これは非常に効果的なモデルだと思います。
展覧会も、昨年だけで12本実施されています。どのような展覧会なのでしょうか。
 バラエティに富んでいました。12のうち4つは、メインギャラリーでのグループ展や個展といった大規模な展覧会でした。また、メインギャラリーの他に小さなスペースもあるので、そちらでは新進アーティストの展覧会や小規模な展示も可能です。また屋外スペースでは、期間限定のパブリックアートの展覧会などを開催することもあります。

 また、「アートライフ・レジデンス・プログラム」や「エマージング・クリエイティブ・リーダーズ」などのような当団体の活動に参加したアーティストの成果発表やグループ展を行うこともあります。さらに、その時々にフッツクレイで議論されているトピックに関連したより専門的な展覧会も行います。規模は大きくありませんが、国際的な巡回展になる可能性もあります。あるいは、「Photo 2020/2021」のような大規模な催しの関連イベントを提案することもあります。あとは隔年で「フッツクレイ・アート・プライズ」(*8)を実施しています。

 という感じでいろいろなことをやっています。ひとつのプログラムをキュレーションすることと、非常に多様なプログラムを生み出して展開することの間でバランスをとるのは、本当に難しいことです。
先住民の人々の芸術表現を紹介する際、彼らが作る作品について「伝統的」であることへの期待や、ある種の理想を投影するような見方をされることも多いと思います。伝統を守りつつ、現代的な表現にアップデートしていくバランスについてどのように考えていますか。
 文化は決して立ち止まることはないので、そのバランスをとろうとする必要はありません。それはアボリジナルの文化でも同じことです。つまり、現在もアボリジナルの文化は脈々と続いているということです。

 「伝統的な文化」というのは、厄介というか、奇妙な概念ですよね。もちろん欧州から入植者がやってくる以前の文化には外部からの影響がほとんどなく、ゆっくりとしたペースで進化してきたところがあります。どこの国でも貿易が始まる以前はそうでしたよね。そこには必ず、慎重に保存すべき貴重なものごろがあります。伝統的なものごとには多くのプロトコル(儀礼)があり、進化する文化の旅とはそれに則ったものなのです。

 つまり、オーストラリアの物語にあるドリームタイムやソングラインがそれで、そこに現代の物語が加わろうとしているのです(*9)。欧州から来た人々やその他オーストラリアに住むすべての人々が、新しいソングラインの一部であり、オーストラリアのドリームタイムの一部なのです。人々がそう考えるようになれば、アイデンティティについて語ることももう少し容易になるかもしれません。

 しかし、現実には伝統的な形式が問題になることが多いです。オーストラリアで最も一般的な例がドット・ペインティングです(*10)。もちろん欧州から人々が入植する前から今のような形で存在していたわけではありません。アクリル絵の具もキャンバスもありませんでしたから。多くの作品は、サンドアートのようなその場限りのものであり、洞窟の表面などに黄土色のような限られた色で描かれたりするものでした。それは、(いろいろな情報を)場としてマッピングする作業であり、形式としては現代アートのようなものです。

 普通は真似して描いた絵を売ろうとは思いませんが、こうした先住民のアートについては盗用という厄介な問題が起こりました。オーストラリアでは先住民のアートに対する意識が高まっているため、あまり見かけなくなりましたが。日本で気づいたのは、明らかに善意でアライであろうとするアーティストたちが、アイヌの図像やイメージを用いて熊の彫刻を売るなどの商売をしていることです。しかもそれがどういう意味を持つのかよく考えていない。アイヌの人たちはこのことについてどう感じているのでしょうか。そのことについて尋ねられたことはあるのでしょうか。
フッツクレイ・コミュニティ・アーツで先住民のルーツを持つ作家を紹介するときは、「先住民アーティスト」と紹介しますか。それともただ「アーティスト」と言いますか。
 アーティストの好みによりますね。中には非常に気にする人もいます。先住民族のアーティストのほとんどは、肩書きはプロトコルのようなもの、自分自身を位置付けるようなものだと考えているのではないでしょうか。自分のアートを作るとき、自分はここにいる、これが自分だ、自分はこの土地でやっているのだと表明するような。でも、全員がそうだというわけではなく、あくまで個人的な選択です。

 私の友人たちには、先住民だけれどもその文脈で活動していない人もいます。自分はプロのアーティストで、アートが自分の仕事だ、と言うのみです。作品にはその人の文化が反映されているものもあるでしょうが、それを武器にすることはありません。それが態度表明なのかもしれません。それでいいんです。みんながそれぞれのやり方で向き合っています。
ダンさんご自身はどのようなキャリアを経てフッツクレイ・コミュニティ・アーツに関わるようになったのですか。
 若いときは西オーストラリア州に住んで、大学で人類学と先住民学を学んでいました。バンドで演奏もしていましたし、道化芸や昔ながらのコメディ、スラップスティック・コメディ、そしてエネルギーに溢れたアクロバットがとても好きでした。友人たちがサーカス、音楽、演劇など多分野のアートを上演する「ARTRAGE」というイベントのショーに参加していて、私も誘われました。

 私は舞台に立ち、大きなショーを行うことがとても好きになりました。また、そこで物語を創造的に語るストーリーテリングの力を初めて体験しました。それで、本番直前にあるアイデアを思いつき、私の師匠である演出家のロッキー・マクドナルドに言うと、素晴らしいからとにかくやってみなさいと。私は舞台に上がりましたが、実際には何もしませんでした。シュールレアリスム的な道化です。とっても楽しかった。観客の前に立つと、あの瞬間に湧き上がった力を思い出します。一瞬にして多くのことを学びました。私は夢中になり、大学は辞めました。

 その後、フランスのストリート・シアターの伝統にとても触発されました。ある種のハプニング、ラディカルな介入型の演劇として、屋外のサイトスペシフィックなシチュアシオニスト的作品に取り組みました(*11)。オーストラリアのフェスティバルに参加するために来たカンパニーとも仕事をしました。こうして、パブリックアートや公共空間、演劇やパフォーマンス制作と私の関わりは、キャリア全体を通して発展していきました。そして気がつけば、作品の制作と演出に携わることが多くなっていました。

 フッツクレイ・コミュニティ・アーツと初めて仕事をしたのは2017年で、同団体が主催したメルボルン西部との対話を表現するフェスティバルでした。それと同時に、先住民の従兄弟たちともっと密接に仕事をしたいと強く思うようになりました。ただ、私自身はこの土地の先住民の出身ではないこともあって、機会が来るのを待つしかありませんでした。その後、レジデンスの長老の一人と5時間にわたって面接をした結果、「君なら大丈夫だ」と言われ、プロデューサーになりました。
よろしければ、ダンさんご自身がどのように自分のアイデンティティを形成していったのか教えていただけますか。
 父方が先住民族ワジュク・ヌンガーの出身で、母方はアイルランド系とスウェーデン系です。つまり、複数のルーツを持っています。そして、年を重ねるにつれて、先住民としてのルーツや遺産により共感するようになり、自ら学び始めました。

 先住民のことはずっと知っていましたが、それをどう自分のこととして認識するかは、なかなか難しいことでした。私の家族には、ブラックの家族とブラウンの家族の物語がありますが、私自身がそれを体験しながら育ってきたわけではありません。そしてこの二つの物語は、それぞれ異なる人生経験です。一つは、盗まれた世代(Stolen Generations)の物語で、今も続くトラウマです。もう一方は、同化し、相対的特権がありましたが、そこにももちろんトラウマがあります。一つ目は実体験をともなう極度のトラウマ、もう一方は受け継がれたトラウマです(*12)

 私は8人兄弟の7番目で、家族のなかでこの領域で活発に活動しているのは3〜4人。アイデンティティを自らオープンにしていますが、他の人たちは言及していません。それでいいのです。ここでいう「言及していない」というのは、その話を口にすることはあっても、自分の仕事に生かすことはないということです。

 私は18歳か19歳になる前まではかなり無頓着で、何も意識していませんでした。祖父がとてもアボリジナルに見える顔つきだったので、弟は学校でひどく差別的な名前で呼ばれていましたが、本人はその理由さえわかっていませんでした。ばかげた話ですよね。アボリジナルの人たちが寄ってきて「あなたは私たちと似ているね」と言うので、なんとなく嬉しく思っていました。自分もそうなのにわかっていませんでした。

 そこから長い道のりでしたが、今は自分のアイデンティティを心地よく感じています。広範な家族との関係を理解した上で、自分のアイデンティティを語ることができます。そして、点と点をつなげるために、遠い親戚や長老たちにも会いました。そして、根っこのところにある自分の特権についてもよく理解しています。両親は、他の人たちにはない機会を私に与えてくれましたし、従兄弟たちのような困窮を強いられることもありませんでした。そこのところは常にコミュニティの緊張を高めるポイントになります。

 私の家族は、今の世代が自分たちの文化を受け入れてくれているおかげで、文化をこれまで以上に実践し、言語を学ぶことができています。長老たちに話をすれば、彼らは「そうだ、それは君の権利だ」と言うでしょう。家系については、欧州から人々が入植する前まで遡ることができています。先祖を知ると共に、その物語を学んでいるのです。だから、私はとても幸運なのです。盗まれた世代の中には、そのようなつながりを失ってしまった人たちいますから。わかりますか? これがこの物語の最も厳しいところです。
ダンさんは2022年8月から9月にかけてセゾン文化財団の招きで来日し、アイヌの人々とも交流されました。オーストラリアの状況と比べてどのように感じましたか。
 相対的な差異があるので比較するのは難しいかもしれません。オーストラリアの場合──私は国内の対話が成熟してきた恩恵を受けているのだと思いますが──ここ20年ほどの間、先住民の人がもっと安心して自分のアイデンティティを明らかにできる状況になりました。そして、人々がつながるための機会や知識が増えたため、社会で自分たちだけが孤立していると感じたり、脅威を感じることはなくなりました。日本における私の理解や印象では、アイヌのアイデンティティを力強く表現している人たちはいますが、単一文化であるこの国では、どんな違いであっても違うということを表現するのは困難を伴う行為なのだろうと推察します。これはあくまでも私の印象であって、詳しいことはわかりませんが。

 日本でいろんな人と会話をして面白かったのは、日本にも多様性があること、そしてそれはアイヌや南の島々の向こうにまで続くものだと、気づいたことです。先日、友人とこのことについて非常にいい話ができて、その中で「先住民って何だろう」という話になりました。

 誰もがその土地に固有(indigenous)の存在です。しかし、異なる先住民性によってさまざまな道のりを辿り、トラウマを経験したりする。もちろん日本にも先住民族がいて、アイヌも先住民族ですし、さまざまなグループが何らかの先住民性を持っています。オーストラリアにはアイルランドのルーツを持つ人がいますし、アイルランドにはイギリスのルーツが、イギリスにはスウェーデンのルーツが、という感じです。でも先住民族は、支配的な文化がそれを抑圧し、排除や差別をしようとして初めて認識されるものなのです。それはどういう意味を持つのでしょうか? 頭を撃ち抜かれる恐れがあるときにわざわざ防壁から顔を出そうという人はいません。オーストラリアで昔起こっていたのはそういう状況でした。

 だから私は、祖先が同化したことを責めるつもりはありません。自分たちのアイデンティティを示して何も起こらないと考えることはできなかったからです。私のアボリジナルの先祖の多くは、第一次世界大戦と第二次世界大戦でイギリスの女王と国のために戦いました。彼らは帰ってきても、市民権すらないままでした。信じられないことです。これは強い文化を持つ者たちが生き残るために闘った、とてつもない生存の物語です。オーストラリアでは支配的な文化が他の文化の存在そのものを否定し、お前たちは人間ですらないと言ってきた歴史があるのです。
日本に住む人が自分や周りの人々のルーツに向き合おうとするとき、何かアドバイスはありますか。
 日本のそれぞれのコミュニティに属する人々や若者たちに伝えたいのは、ぜひ学んでほしいということです。それも、自分の文化について学んでほしい。文化は素晴らしい贈り物ですから。文化を宣伝する必要はありません。ただ学ぶだけでいいのです。そうすれば、自然と自分のものになるでしょう。無理せずとも、文化のほうから近づいてきます。なぜなら、つながりが深くなればなるほど、その土地があなたを引き寄せ、あなたの先祖の精神を引き出してくれるからです。素晴らしいことですよ。

 これこそが私の旅であり、本当に恵まれていると感じています。そして私は今、より積極的に主張し、闘い、困難を共有することができるようになったと感じています。でも、誰もがそうでなければならないわけではありません。このように対話を始め、支援し、搾取しないようにすることについて話すと、おそらくコミュニティのアライの話に再び戻っていくのだろうと思います。深い敬意をもって対話に参加し、仲間を驚かせましょう。そういったところから変化が起こるのです。

 私はオーストラリアで変化のときを目の当たりにしました。国会議員の振る舞い方や、アボリジナルの問題についての語り口は、30年前、40年前と比べると大きく変わり、以前と比べて敬意を払うようになりました。右も左も関係なく、人々はそこにある大きなチャンスと責任について理解していると思います。もちろん、全員がそうではありません。ひどい人たちや保守的な人たちもいます。
お互いの理解を深めてアライを増やすためにも、学びを続けなければいけませんね。しかし、マジョリティがマイノリティの問題を理解しようとする際に、マイノリティのほうが消耗してしまうという課題もあるのではないでしょうか。
 一つの例ですが、オーストラリアでは、真実を語ること(truth-telling)が重要とされるフェーズに入りつつあります。できればそれが法律や議会に反映されるべきだと考えています。現在、アボリジナルの国会議員は11名か12名いますが、これは驚くべきことです。前回の選挙では3名ほどが新たに当選しました。こういった状況が見られるのは素晴らしいことです。しかしとても重要なのは、先住民の議員のみが真実を語る状況をつくらないようにすることです。

 今、オーストラリアでは、善意の人々がアボリジナルであるとはどういうことかを知りたいと思っています。そういった人々には、とにかく歴史の本を読め、自国の歴史を学べと言いたいです。先住民の文学を読めば、そのすべてが載っています。そうすれば、あなたは啓発され、少しでも教養が身につけばすぐに職場での戦士になるでしょう。大量虐殺について読めば、学ぶことができます。歴史が隠蔽されているだけなのです。

 私たちの職場でも、以前はアボリジナルが主導するトレーニングや文化的コンピテンシー・トレーニングを行っていました。しかし、彼らにとってとても大きな負担となっていました。ある時、アボリジナルのリーダーたちが「もうたくさんだ、多額の報酬をもらえるとしても、もう自分たちから与えてやるのはごめんだ」と言いました。彼らにとっては結構な収入に繋がっていましたが、毎回トラウマを蘇らせる体験になっていたのです。

 コミュニティの中でも特権的な背景を持つ私でさえ、話し始めるととても感情的になってしまうトピックです。盗まれた世代を生きたラリー・ウォルシュおじさんの語りは非常に力強いものですが、彼にそんな苦労をかけたくありません。彼にはただ平和な生活を送ってほしい。ですから、代わりにアライが働きかけて、知識と意識を高めていくべきなのです。始めてしまえば簡単です。なぜなら、実際にあった話にきちんと向き合えば、とても恐ろしいことばかりだと気づくからです。アイヌにも同じような物語があるはずです。
ダンさん個人として、そして組織としての今後の目標や夢は何でしょうか。
 今後も続けていきたいと考えているのは、この対話を発展させ、確実に持続可能なものにしていくことです。なぜなら、どんな職場でも同じように、何かひとつのモデルが継続性を保証してくれるわけではなく、個人に依存してしまう可能性があります。私はアドバイザリー・グループとともに、この取り組みが次のステージに進むよう支援することに注力しています。

 また個人的なこととしては、自分自身の創造性を高めるための模索の期間を設けようとしています。すでに物語形式の作品を書きはじめているのですが、私の興味は儀式的な思考やプロセスにあると感じています。そのため、成果について考えることはありません。だからこそ、言葉にして説明するのが難しいときもあります。

 この間、ある大学から「あなたは具体的に何をしたいのですか?どこで研究をしたいのですか?」とメールが来ました。旅をスタートさせたいのですが、目的地がわかりません。でも、素材はあって、それを織ったり糸を紡いだりする作業が必要なこともわかっています。だから、それをやりたいと思い、すでに始めています。そのプロセスにはっきりとした形を与えたいと思っています。
国境をまたいだコラボレーションについてはいかがですか。
 今回の来日やここでの対話を通じて、この対話を広げることが重要だということがはっきりしました。対話を広げるというのは、アイヌの人たちとのつながりを通してより多くのことを学び、協力し合える関係を築くということです。例えば、日本のクリエーター、アイヌのクリエーター、アボリジナルのクリエーター、そしてオーストラリアのクリエーターが参加するフォーラムがあれば、両国のアイデンティティやそれにまつわる課題、歴史について、より広範な対話ができるようになると思いますし、とても面白いものになると思います。日本側にとっても有益な対話になると思いますが、オーストラリア側にとっても、これまでの道のりを振り返る機会になります。私たちにはまだやるべきことがたくさんあるはずです。

 ラリーおじさんは、フィンランドやスウェーデンのサーミの人々ともつながりたいと思っています。連邦政府や外務貿易省も、世界と再びつながることに関心を持っているようなので、今がチャンスです。現在、世界はパンデミックが発生し、それぞれが国境を閉ざしたため、少し縮小したように見えますが、本当はとても危険な時代です。つながりを失いそうになっています。ですから、私たちは再び共に人間らしくある必要があるのです。
長い時間お付き合いいただき、どうもありがとうございました。

*1 オーストラリアでは、先住民社会との協調にむけた活動の一環として、公の場で発言をする際などには、その活動を行う土地の先住民族たちとその祖先たちに敬意の言葉を述べることから始めることが推奨されている。

*2 白豪主義は、オーストラリアにおける非白人入植を制限しようとする政策。その一つとして、1901年12月23日に「移民制限法」が施行された。この法律は、新しく設立された連邦議会に提出された最初の法律の一つで、オーストラリアへの非英国人の移住を制限することを目的としていた。この法律が制定されたことで、白豪主義が正式に確立された。この政策は1966年に廃止された。

*3 ゴフ・ウィットラム(1916―2014)はオーストラリアの政治家、第21代首相(1972-75)、労働党。フェア・ゴー(fair go)はウィットラムが選挙活動で掲げた「Give Gough a fair go」というスローガンがもとになっており、平等主義の精神を表す言葉として浸透した。

*4 Reconciliation Action Planは、オーストラリアの各地方行政が設置する先住民社会との和解・協調に向けた活動計画。企業や組織、個人などさまざまな規模で実践できる行動指針が示されている。冒頭でダンさんが述べた祖先や土地への感謝の言葉もその一つ。

*5 ソングラインとは、アボリジナルの先祖がたどってきた軌跡を示す道すじ。大地または空に架かる道として、歌や物語、ダンスやペインティングによって語られる。

*6 ウミンジカ・フェスティバルは2022年10月22日、3年ぶりに開催された。ウェルカムセレモニーでは、新しいフクロネズミの皮で作ったマントを「エルダーズ・イン・レジデンス」であるラリー・ウォルシュおじさんとナーウィート・キャロリン・ブリッグスおばさんに贈る重要な儀式が行われた。300人ほどの参加者は1日を通じて、アボリジナルのアートやクラフトマーケット、ライブパフォーマンス、DJ、食べ物を楽しんだ。イベントはアボリジナルのコミュニティにも歓迎され、フッツクレイ・コミュニティ・アーツの掲げる「ファーストネーション・ファースト」ポリシーへの熱意を、実践を通じて示す結果となった。

*7 美術・舞台・映像・文学・放送などのアーティストおよびそこで働く人を対象にしたリーダーシップの育成プログラム。

*8 2016年に創設され、隔年で実施されているヴィジュアルアートを対象にした賞。18歳以上のオーストラリアのアーティストを対象にしたメインのフッツクレイ・アート賞(大賞、西部のアーティストを対象にしたローカル賞、フッツクレイ・コミュニティ・アーツでの滞在創作・展示ができるレジデントアーティスト賞)、メルボルン西部の小・中学生を対象にしたヤングアーティスト賞があり、受賞作とヤングアーティスト部門の応募作全てを展示する展覧会を開催。

*9 ドリームタイムとは、世界の創造を表す言葉。アボリジナル独特の時間・歴史・記憶の感覚を伴う。

*10 アボリジナルの人々には読み書きするための文字がなく、点を多用した模様などの絵によってさまざまな情報を伝えていた。1971年にイギリス人の美術教師であるジェフリー・バードン(Geoffrey Bardon)の指導によりキャンバス時にアクリル絵の具で絵を描きはじめたのがアボリジナル・アートのはじまりとされる。その特徴的な画法がドット・ペインティング(点描画)と動物の骨格などが透けたように描くエックスレイ・ペインティング(レントゲン画法)。

*11 シチュアシオニスト(状況派)は1950年代からフランスをはじめヨーロッパ諸国で勃興した文化的・政治的運動。大量消費が示すような社会・政治・文化・芸術・生活といった既存の体制に反発し、それに支配されない解放された生の瞬間を生み出す「状況の構築」を目指して表現活動を行った。パリの五月革命(1968年)における若者の活動や70年代のイギリスのパンクなどの活動にも影響を及ぼした。

*12 ダンさんのアボリジナルの曽祖父には二つの家族があり、一つはアボリジナルの妻との家族(ブラック)、もう一つはイギリス人妻との家族(ブラウン)だった。ブラックの家族が体験したトラウマは、植民地時代のアボリジナルの人々を対象にした「盗まれた時代」を作り出した差別的法律(アボリジナルの子どもを両親から引き離す政策、文化や言語の統制、土地権利の没収、移住の強要など)によるもので、ブラウンの家族が体験したトラウマは、アボリジナルとしてのアイデンティティを隠し、否定し、主流の文化に同化して差別を避けて生きのびることを選択したことによるものだった。