ロー・キーホン

記憶と現代をつなぐ
シンガポール・アーツフェス

2012.02.10
ロー・キーホン

ロー・キーホンLow Kee Hong

1977年に国内の芸術祝賀祭として設立されて以降、現代芸術の大胆かつ革新的なコラボレーションで知られ、世界をリードするフェスティバルの一つとして位置づけられる。2009年からロー・キーホンがジェネラル・マネージャーを務める。シンガポール最大の劇場の一つであるエスプラネードやドラマセンター劇場などを会場とし、4週間にわたる会期中に世界的な評価を受けるプロダクションをはじめ、20カ国以上の国のアーティストが150以上のアクティビティを実施。

国を挙げて文化・芸術を 振興する「ルネッサンス・シティー」プロジェクトに取り組むシンガポール。1987年に政府に提出された「文化と芸術に関する諮問委員会報告書」をきっかけにナショナル・アーツカウンシルが設立されるなど、芸術振興制度の本格的な整備が始まり、2002年10月には東南アジア地域最大規模を誇る劇場コンプレックス「エスプラネード──シアターズ・オン・ザ・ベイ」(以下、エスプラネード)がオープン。また、2006年からはシンガポール・ビエンナーレをスタートするなど、その動向は国際的な注目を集めている。演劇人として知られ、シンガポール・ビエンナーレの初代ジェネラル・マネージャーを経て、2009年からシンガポール・アーツフェスティバルのジェネラル・マネージャーに就任したロウ・キーホンにフェスティバルの新たな方向性について聞いた。
聞き手:滝口健
キーホンさんは実に多様で様々な分野にわたって活動されておられますが、キャリアの出発点は演出家、俳優、舞台美術家であったと聞いています。2003年にはストレーツ・タイムス紙の「ライフ!演劇賞」で最優秀演出賞、最優秀舞台美術賞を受賞しておられますね。演劇に興味をもつようになったのはどうしてなのでしょうか。
 芸術にはずっと関心を持ち続けていました。しかし、大学に入った時、演じるということについて、きちんとした訓練を受けなければと感じるようになりました。そこで、1年生の時に、まずクラシック・バレエを習い始めました。演劇に興味を持つようになったのは2年生の時からです。プロとしての初舞台は、シンガポールの劇団、ネセサリー・ステージの作品です。その後、1994年からは劇団シアターワークスと仕事をするようになったのです。
同時に学問の分野でも活躍されていた。
 そうですね。その頃、私は大学の修士課程にいたのですが、シンガポール国立大学で講義も担当していました。
学術的な分野への関わりを続けようと思った理由は?
 私の修士号は文化政策についてでしたので、アーティストと研究者という2つの側面を保ち続けることは自然な選択でした。それぞれを良い形で組み合わせることができたのです。アーティストとしてプロジェクトに参加することで、文化政策がどのように適用されているのか、また、受け手としてアーティストたちがどのように対応しているのかについてつぶさに知ることができました。研究者として、それを社会学的な視点から分析したのです。ただ、政府の側の情報については、公表されているものしか使えませんでした。内部情報にアクセスすることはできなかったのです。私が政府機関で仕事をしようと考えたのはそれがひとつの理由です。
演劇におけるキャリアの中では、日本のアーティストと一緒に仕事をする機会が大変多かったように思います。国際交流基金アジアセンターが制作した国際共同制作作品『リア』(1997年)にも参加されていますね。この作品は岸田理生が戯曲を書き、シアターワークスのオン・ケンセンが演出しました。その後も日本人との共同作業を続けておられます。
 はい。シアターワークスが『リア』に引き続いて実施したプロジェクトにも参加しましたし、岸田さんご自身の劇団でも仕事をさせていただきました。私がシアターワークスで演出家として活動していた時期には、ダムタイプのメンバーをはじめとする日本のアーティストとの対話を始めていました。残念ながら、シアターワークスを辞める前にプロジェクトを終わらせることはできなかったのですが。
実は、シアターワークスの一連のプロジェクトよりも前に日本のアーティストと一緒に仕事をしたことがあるのです。舞踏の作品でした。桂勘さんが演出した1995年の作品で、私のほか2人のシンガポール人と3人のタイ人、3人の日本人ダンサーが京都に3カ月間滞在し、最終的には京都と東京で作品を上演しました。私にとっては初めての日本滞在でした。
岸田さんとのご関係はとても親密で特別なものであったと伺っています。亡くなられる前に最後に書かれた作品、『ソラ・ハヌル・ランギット』(2001年)の上演にも参加しておられますね。彼女との仕事について聞かせていただけますか?
 岸田さんとの出会いは『リア』によるものでした。戯曲の準備のために、シアターワークスでワークショップが開かれました。彼女はシェイクスピアの『リア王』を基にしながらも、全く別の物語を用意しようとしたのです。新しい登場人物を追加したのもそのためでした。私の役、3人の「長女の影」のうちのひとりもそうした新しい登場人物です。この役は長女という登場人物の野望を象徴しているのですが、私に当て書きされたもので、私の性格を非常によく反映しています。『リア』に関わった数年間、岸田さんと私は実にたくさん話をしました。プロフェッショナルな関係として大変親しくなったのです。また、個人としても、いくつかの点で彼女は母親のような存在でした。
岸田さんとの関係の中で、日本人の考え方について、より深く知る機会を得ることができました。日本の劇団で仕事をするというのは、国際共同制作プロジェクトに参加するのとは全く異なる経験ですから。シアターワークスが2000年に制作した国際共同制作作品『デズデモーナ』でご一緒したとき、すでに岸田さんは『ソラ・ハヌル・ランギット』の構想を温めておられ、私に声をかけてくださったのです。
日本に滞在している間、岸田さんの影響で寺山修司について調べるようになりました。寺山と岸田さんの関係もまた特別なものでしたから。その結果、これは日本だけではなく世界中どこでもそうだと思うのですが、1960年代のさまざまな出来事が忘れ去られてしまっているのはなぜなのだろうと考えるようにもなりました。
私が滞在した1990年代半ばから2000年代初めにかけては、 ダムタイプ の作品に代表されるように、日本では高度な技術を駆使したクリーンな作品の大きな波が来ていました。私自身、ダムタイプには大きな影響を受けています。『S/N』という作品には驚きました。当時、私は社会学の学位を取ったところだったのですが、ミッシェル・フーコーに非常に関心を持っていました。『S/N』がフーコーを引用しているのを見て、「なんてこった!」と思ったのです。その5年後、ダムタイプのBuBuさんとはじめて一緒にお仕事をすることができました。それ以来、ダムタイプのニュージェネレーション・メンバーの皆さん、古橋悌二さんが亡くなった後に中心となっておられる方々とも知り合うことができました。
その後、2006年にシンガポール・ビエンナーレのジェネラル・マネージャーに就任され、日本人のチーフ・キュレーター、南條史生氏と一緒に働かれることになります。そのニュースを聞いた時、なぜあなたが現代美術の分野に行かれるのだろうと思ったものでした。何が動機だったのですか?
 現代美術は私にとって特段に新しい分野というわけではありませんでした。アーティストとして参加した作品には、現代美術の要素が含まれているものも多かったのです。ただ、この話がきたのは全くの偶然でした。
私は当時シアターワークスを離れることにしていました。一方、ナショナル・アーツカウンシルでは、ビエンナーレを始めるにあたって責任者として適当な人物を探していたのです。私は研究者としてアーツカウンシルと一緒に仕事をした経験があったので、ジェネラル・マネージャーのポストに興味があるかと声をかけていただきました。すぐに「もちろん」と答えました。その結果、これまでとは全く違った道がひろがったというわけです。それまではアーティスト、さらには研究者として活動してきましたが、アーツカウンシルに入ることでアドミニストレーターとしてものごとを見られるようになりました。この分野における能力は、自分に欠けているものだという自覚もありました。
現代美術の世界とより密接に関わるというのは、とても興味深い経験でした。それまでの美術との関わりは、展覧会を見たり、アーティストと対話するなど、芸術的な観点からのものでした。アートフェアを始めとする美術界の仕組みは私にとって全く未知のものでしたので、急いでこれらについて学び、同時に自分をそうした世界に結び付けなくてはなりませんでした。
南條さんは同僚として、またこの分野の「師匠」として素晴らしい方でした。この点で、シンガポール・ビエンナーレが初代ディレクターとして彼をお迎えできたのは大変重要なことでした。もちろん、多くの課題がありました。「ビエンナーレ」が何なのか知っているシンガポール人はほとんどいませんでしたし、このように大きな現代美術展を開くことの意義を理解していた者も極めて少なかったのです。南條さんは、こうした疑問の声に機敏に応答することができました。
ビエンナーレに関わった4年間で、現代美術の世界に深く入っていくことができました。シンガポール・アートフェスバルでの仕事を始めてからも、美術展のオープニングには必ず顔を出し、作り上げたネットワークを維持するように心がけています。ビエンナーレでの経験は、アーツフェスティバルの事前準備としても大変貴重なものでした。
そして、2009年10月、シンガポール・アーツフェスバルのジェネラル・マネージャーに就任されました。このフェスティバルは1977年に開始され、以来ナショナル・アーツカウンシルが運営してきました。つまり、政府が主導するフェスティバルだと言えます。一方、あなたはある意味でアーティストの側から出たジェネラル・マネージャーです。私も、多くのアーティストが多大な期待をしているのを感じています。アーツコミュニティに近い立場にいるというのは、あなたの大きな利点であるとは思いますが、一方ではそれによる難しさというのもあるのではないでしょうか。つまり、アーティストの期待と、フェスティバルのビジョンや、そしてもちろん予算の限界との間にギャップがあるのではないかと思うのです。ご自分ではどのように感じておられますか?
 確かにアーティストだけでなく、利害関係者を含めたいろいろなグループが異なる期待を持っています。いい方にも、悪い方にもです。アーツカウンシルに入って以来、自分の役割が非常に明確な形で理解できるようになりました。それは、政府とアーツコミュニティの橋渡しをするという役割です。結局のところ、政府もアーティストも同じことについて話をし、同じものを欲しているのです。ただし、それにどのように到達するかという点では全く異なります。私のアーツカウンシルでの役割というのは、このギャップを埋めることです。自分では、未だに自らをアーティストだと考えています。政府の考え方とアーティストのニーズとのバランスをとるために、これは私にとって大変重要な点なのです。
フェスティバルのテーマと内容について聞かせてください。シンガポール・アーツフェスティバルはこれまで、シンガポールを「アートの香り豊かなグローバル・シティ」に発展させていくための装置と位置づけられてきました。そうしたこともあって、過去のフェスティバルは未来への志向が強かったという印象を持っています。ですから、2010年のフェスティバルのパンフレットで、過去の記憶と伝統を現代社会に結びつけようとするさまざまなプログラムを見つけた時には嬉しい驚きを感じました。「私は思い出したい」という昨年のフェスティバルのテーマもこうした流れに沿ったものだと思います。こうしたテーマに込められた思いとはどんなものだったのでしょうか。
 シンガポールを見ると、この国が極めて未来志向であることがわかります。進歩し、発展することへの強迫観念があるのです。しかし、拠り所となるもの、基盤となるものにしっかりとつながっていなければ、たとえ進歩が実現したところで空疎なものになってしまうでしょう。シンガポールの文化はとても視覚的で、「見かけがすべて」というようなところがあります。しかし、そうした「見かけ」を剥いでいくと、中にあるものが何かというのははっきりしないのです。街がますますコスモポリタンになっていく中で、もし世界中を流通しているもの──スターバックス、グッチやプラダのようなものについてしか話さないのならば、他のコスモポリタン・シティと全く違いがないということになってしまいます。
シンガポールにしかないものとはなんでしょう?2010年のフェスティバルで私がやろうとしたのは、ある種の「再起動」です。ファッション・デザイナーは過去3〜40年の記録を調べ、それを参照しながら新しいものへと再構築する、ということをしますよね。それと同じことをしたいと思ったのです。それは、過去についてロマンチックな想いをめぐらそうということではありません。過去と現在との間をつなぐものを見据え、それを基礎として現在の状況を語ろうということなのです。歴史、記憶、神話といったテーマに基づいてフェスティバルのユニークなコンテンツを創りだしていこうと取り組んだのは、このような考えによるものです。
欧米の関係者と話しているときにいつも感じるのですが、彼らは我々が招待しているヨーロッパやアメリカのアーティストにはそれほど関心を持っていません。むしろ、アジアの作品を見たいと思っているのです。これこそ、シンガポール・アーツフェスティバルが主要な役割を果たすことができる部分なのではないかと感じています。「アジアの作品はチケットが売れない」という人たちがいることは知っています。しかし、この地域ではこんなにもたくさんのことが起こっているのです。私たちがリサーチをし、関係を作っていかなければ、誰がそれをするというのでしょう?
2010年から12年までのフェスティバルはこうした役割を果たすものと位置づけています。単純に過去に帰れというものではないのです。様々な事象を再分類し、それを元に新しいものを作り出す基盤となってほしいと考えています。
2010年のフェスティバルでは、ハーレシュ・シャルマの『他に能がないなら教師に』とステラ・コンの『エメラルド・ヒルのエミリー』という、シンガポールの古典ともいえる2つの作品の再演をコミッションしましたね。
 ええ、過去40年間にシンガポールのアーティストたちは実に多くのものを創りだしてきました。しかし、若い世代の観客たち、例えば演劇学を学ぶ学生たちはこれらの作品をDVDで学ぶしかありません。フェスティバルとして、シンガポールのアーティストによる重要な作品を紹介したいと考えました。初演に忠実な再演としてもいいですし、若いアーティストによる再解釈という形をとってもいいでしょう。方法はどうであれ、我々のアーカイブの一部としてこれらの作品を含めたいと考えました。
昨年はウィリアム・テオの『鳥の会議』を取り上げました。テオが亡くなってから10年、この作品の初演から20年経ったことを記念したものです。今年はオン・ケンセンによる『リア・ドリーミング』を上演します。この作品は、先にも触れた1997年の『リア』を再訪しようとするものです。これらはシンガポール人、特に若い世代のアーティストにとっては、ひとつの基準点となることでしょう。
2011年には「記憶」というテーマが強調されました。「失われた言語と記憶」、「パーソナル・メモリーズ」という2つのサブテーマで特に取り上げられています。
 記憶というのは実に興味深いものですが、考えてみれば、我々はすべてを完全に思い出すことなどできないのです。シンガポールでは皆が常に忘れ続けているともいえます。ですから、思い出すということは、実は再構築や再発明をするということでもあるのです。また、記憶というのはきちんと記録に残っているものだけではありません。社会的な記憶、口述による記録といったものこそ、我々が探求していきたいと思っている部分です。シンガポール人、つまり観客に失われてしまったものについてじっくりと考え始める機会を与えたいと思いました。
シンガポールにおいては、忘却と記憶というのはとても具体的なものです。古い建物は常に消えていきます。別の例をあげましょう。同僚との会話の中で、私にとっては大変慣れ親しんだものについて話したことがあります。しかし、彼らは私がなんの話をしているのか全くわからなかったのです。世代が違うという話ではありません。私と彼らの年齢はたった5歳ほどしか変わらないのです。これは大変恐ろしいことです。国が発展し、そして年をとって成熟した時、すでに失われてしまったものへのつながりや、基準となるべきものを持たなければ、非常に大きな問題となるでしょう。2011年のフェスティバルが記憶というテーマに真剣に取り組んだのはそのためです。
歴史、伝統、記憶といったテーマに取り組んでいるということは、フェスティバルのアジェンダが「シンガポールをアートの香り豊かなグローバル・シティに発展させる」という従来のものから変化しているということなのでしょうか。
 「アートの香り豊かなグローバル・シティ」をどう考えるかによるのではないでしょうか。現在、我が国の主要な劇場である エスプラネード・シアターズ・オン・ザ・ベイ は年間17のフェスティバルを開催しています。劇団ネセサリー・ステージが主催するM1シンガポール・フリンジフェスティバルや劇団ワイルド・ライス主催のMANシンガポール・シアターフェスティバルも開かれています。これだけたくさんのフェスティバルが存在する中で、シンガポール・アーツフェスティバルが占めるべき位置はどこかが問われています。我々のフェスティバルが埋められるギャップはどこにあるのか、ということです。2009年に新しい体制ができた時、我々はすでにこのことを明確に意識していました。シンガポール・アーツフェスティバルはまだ人々と繋がっているのだろうか? 繋がりを保つためにはどこへ向かうべきなのか? 当時、我々はこうした自問自答をしていたのです。
人々が単に作品を消費するだけにはしたくありません。それでは何も変わらないのです。私にとって、アートとは視野を広げること、考え方を変えることなのです。それを可能にするプロジェクトを模索していかなくてはなりません。我々はフェスティバルが果たすべき役割を真剣に考えています。
1カ月にわたって行われるフェスティバルに加え、「com.mune」 (*1) と名付けられたユニークな通年プログラムが始まっています。一般の人々に長期的に芸術活動に参加してもらおうとするものですが、これもそうした考え方の延長線上にあるわけですね。
 その通りです。シンガポールのさまざまなコミュニティに継続的に参加してもらうことが目的です。このプログラムを通じ、そのための各種プロジェクトが育ってきました。コミュニティ・プロジェクトについては、世界中でさまざまな議論が行われています。これは、それへの我々のフェスティバルからの回答です。多様な議論を戦略的に文化政策に取り込んでいくことを目指しているのです。
これまでの成果をどう評価していますか?
 我々がやるべきことはたくさんあると思います。多くのシンガポール人にとって、アートが日常生活において意味のあるものとは捉えられていません。多くの作業とリソースを注ぎ込む必要があるはずです。簡単ではありませんが。我々がやっていることの原点に戻る必要があるでしょう。ゼロから始め、そこから進んでいかなくてはなりません。
先日、今年のフェスティバルの予算が縮小されるという新聞記事が出ていましたね。
 はい、今年のフェスティバルは期間が短縮されるので、それを反映した結果です。もちろん、景気がよくない時期には公共予算の使い途については特に神経質になる必要があるわけですが。
強調しておきたいのは、我々のプロジェクトにコミュニティが長期的に参加し、さらに大きく展開していくように努力しているのだということです。多くのシンガポールのアーティストや劇団が参加してくれています。これは、彼らがコミュニティを基盤とした作品を制作する能力を獲得する機会ともなるはずです。「コミュニティを基盤とした作品」といっても、それが低レベルの作品であるということはまったくありません。むしろ、そうした作品は高度に芸術的であるのです。実際、昨年に制作された作品は全てコンセプチュアルなものでした。
こうしたプロジェクトにおいては、個人的な繋がりこそが非常に重要です。地元の劇団と協力することで、我々がこの分野で活動する能力を育てていくことができると考えています。予算の削減によって、大規模なプロジェクトは影響を受けるかもしれません。しかし、私の長期的なビジョンに関しては、このような厳しい情勢下でもそれほど大きな影響を受けることはないと感じています。
シンガポール・アーツフェスティバルはアジア舞台芸術フェスティバル協会(AAPAF) (*2) の創設に主導的な役割を果たし、現在も重要なメンバーとなっています。こうしたネットワークに、目に見える利点というのはあるのでしょうか?AAPAFでの経験があなたのビジョンに影響を与えているというようなことはあるのでしょうか?
 本質的な部分で私のビジョンが影響を受けているということはないと思います。アジアの他のフェスティバルがどのように運営されているかという補完的な情報を知ることができるのは、利点ではありますが。かつては海外のフェスティバルと共同作業を行うことはなかなか考えにくいことでした。AAPAFが発足して以来、アーティストについて、プロジェクトについて、あるいはリソースの分担について、相互に意見を交換することができる重要な場として機能していると思います。近年はあらゆるもののコストが高くなっており、特に作品をコミッションすることは非常に高くつくという認識が広がっています。AAPAFは、こうした負担を参加しているフェスティバルの間で分担していくための助けとなるはずです。
AAPAFが創設された時は、私がフェスティバルに関わるようになるよりも前のことですが、単なる「友達グループ」としてスタートしました。彼らは、その関係をもう少しフォーマルなものにしようと考えていました。その後、フェスティバルのキュレーションについての議論が、AAPAFを通じて継続されてきました。どのフェスティバルもそれぞれの都市に深く結びついていますが、よいプロジェクトやアーティストであれば、国境を越えてサポートしたいと彼らは考えたわけです。
こうした対話、それもフェスティバルを運営している人々だけではなく、プレゼンターである組織やアートセンターも含めた形での対話を継続することが必要です。ヨーロッパではEUの予算が使えますし、それぞれの都市がユニークな文化状況を作り出していますが、アジアではそのようなことはそれほど多く起こっているわけではありません。我々は、独自のモデルや方法論を生み出したいと願っています。ネットワークはプロデューサーにも拡大されるべきでしょう。アジア地域のさまざまな芸術見本市、例えば東京芸術見本市(TPAM)、ソウル芸術見本市(PAMS)、オーストラリア芸術見本市(APAM)などにおいても、プロデューサーやプレゼンターを繋げていく方法、そしてこうしたネットワークを使って作品を作り出していく方法について議論が続けられています。
最後にシンガポールのアートシーンについてお聞かせください。近年、シンガポールのアートシーンではいくつかの論争が起こっています。一つ例をあげれば、ナショナル・アーツカウンシルがある劇団の助成金をカットしたというケースがありました。これは、この劇団の作品のテーマや内容が原因でした。こうした近年の状況にアーティストはどのように対処していけばいいのでしょうか。また、こうした状況についてどのようにお考えですか。
 シンガポールでは多くのことが起こっています。これはいろいろな意味でよいことですが、同時に困難ももたらしています。多様であることは常によいことです。ミュージカルのように非常に商業的なエンターテインメントからきわめて実験的な作品まで、あらゆるジャンルの作品が上演されているということは大変重要です。さまざまなアーティストが、さまざまな視点から語ることが可能だということですから。ですから、私はシンガポールがある特定の方向のみに向かって進歩していくべきだとは考えていません。
シンガポールのアーティストにとって現在もっとも必要なのは、原点に立ち返り、自らを一つの作品群を築いていく芸術家として見つめ直すことだと思っています。長いこと、シンガポールのアーティストは新しい作品を作ることに追われ、自らの作品について深く考える時間を持てずにいます。ある種の「サバティカル」、つまり休暇が必要なのです。
これは、構造的な問題として考えるべきです。シンガポール・アーツフェスティバルでは、アーティスト支援を通じてこれを実現しようとしています。我々のコミッションが2年間に及ぶのはこのためです。もちろん、すべてが上手くいくわけではありません。リスクはつきものですし、ギャンブル的な要素があることは否めません。しかし、これは、アーティストが自らの仕事の仕方を再考し始めるきっかけともなり得るのです。
いくつか考えておかなくてはいけないことがあるのは言うまでもありません。私がアーティストとして活動していた頃のことです。自身もアーティストである友人たちは、いつも「考える時間がない」とこぼしていました。しかし、幾ばくかの余裕が与えられると、彼らはそれまでにやってきたことを真剣に振り返るよりも、むしろ単に仕事のスピードを落としてしまうことが多かったのです。アーティストにとってどんな方法がもっとも効果があるのかについてはよく考えなくてはなりません。
世界で最も優れたアーティストであっても、すべてのプロジェクトで素晴らしい結果を出せるわけではありません。シンガポールのアーティストたちが数年間で結果を出せなくてもそれはかまわないのです。しかし、その経験からできる限りを吸収し、作品を作るための糧としてほしいのです。アーティストにいつも言う言葉があります。それは、「好奇心を持ち続けてくれ」ということです。ある作品に賛同することができなかったとしても、それを見に出かけてほしいのです。アーティストとして、好奇心を失うことは実に大きな問題であると私は信じています。
興味深いお話をどうもありがとうございました。

*1 com.mune
観客参加を促進するために実施されているプログラム。フェスティバル期間中に開催されるアーティストやドラマトゥルクとのディスカッション、フェスティバルのテーマに関係するショートフィルムのコンテストなどの他、年間を通じてプログラムを実施。7〜14歳を対象とした「チルドレンズ・ホリデーワークショップ」(2010年12月)や14〜15歳を対象とした「ユース・アートキャンプ」(2010年10月)などの子供向けプログラムや教師向けのワークショップ(2011年1〜6月)、1986年に解体された国立劇場が建っていた場所での野外映画上映会「ピクニック・アンダー・ザ・スターズ」(2010年11月)など、フェスティバルのテーマに沿った各種イベントが継続的に開催されている。

*2 アジア舞台芸術フェスティバル協会
アジア地域の舞台芸術祭の国際的な協力の促進、コストシェアリング・共同コミッショニングなどのためのネットワーク構築などを目的として2004年6月に設立。創設メンバーは上海国際芸術祭(China Shanghai International Arts Festival)、シンガポール・アーツフェスティバル(the Singapore Arts Festival)、香港アーツフェスティバル(the Hong Kong Arts Festival)、ジャカルタ国際アーツフェスティバル(the Jakarta International Arts Festival: JakArt)の4フェスティバルだったが、現在は東京国際芸術祭を含む12団体が正式加盟している。

シンガポール・アーツ・フェスティバル
Singapore Arts Festival


1977年に国内の芸術祝賀祭として設立されて以降、現代芸術の大胆かつ革新的なコラボレーションで知られ、世界をリードするフェスティバルの一つとして位置づけられる。2009年からロー・キーホンがジェネラル・マネージャーを務める。シンガポール最大の劇場の一つであるエスプラネードやドラマセンター劇場などを会場とし、4週間にわたる会期中に世界的な評価を受けるプロダクションをはじめ、20カ国以上の国のアーティストが150以上のアクティビティを 実施。