アムナ・クスモ

アート・マネージャー育成で、多文化・多民族アーティストを支える
ジャカルタのクローラ財団

2008.04.28
アムナ・クスモ

アムナ・クスモAmna Kusumo

クローラ財団ディレクター
ジャワ島、スマトラ島、バリ島など1万7500もの独自の文化を持つ大小の島により構成され、約300の民族、約600の言語がある多民族、多言語国家のインドネシア。さまざまな課題を抱える同国で1999年に設立されたクローラ財団(Kelola)がアート・マネージャーの育成に乗り出すなど、芸術の世界に新風を巻き起こしている。

その活動について、クローラ財団の発起人でディレクターのアムナ・クスモ氏と、25年前から親交のあるダンスNPO法人JCDN代表の佐東範一氏が語り合った。
佐東 :僕が初めてアムナさんに出会ったのは1981年です。1982年に、当時、僕が在籍していた白虎社という舞踏のグループがインドネシア・アーツ・カウンシルの主催でインドネシア・ツアーをしたのですが、そのときにオーガナイズしてくれたのがアムナさんと、アムナさんのパートナーのサルドノさん、そして舞踊評論家のサル・ムルギヤントさんの3人でした。
 以来、セゾン文化財団とアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)が支援したアメリカ・インドネシア・日本のダンス関係者が各国に滞在して交流する「トライアングル・アーツ・プログラム」や、昨年、JCDNが実施したダンス公演「踊りに行くぜ!」のインドネシア・ツアーなどをオーガナイズしていただいています。僕の知る限り、アムナさんと、現在はジャカルタ芸術大学の学長ともなっているサルドノさんは、ともにインドネシアの現代舞台芸術のパイオニアとして、また牽引者として国内外で活躍され、日本のアーティストの受け入れ先ともなってきました。改めて、アムナさんがこうした仕事を始めた経緯をお話いただけますか?
クスモ :今で言う「アート・マネージャー」として働き始めたのは、偶然のことでした。70年代半ば、私がパリに住んでいた時にサルドノのパリ公演を見に行ったのがきっかけで制作を手伝うようになりました。新作の委嘱をされて事務作業の苦手なサルドノが困っていたので、私から声をかけました。ですから、今でも、私がアート・マネージメントを考えるときには「アーティストの友人たちを支えること」、それによって彼らが目指していることが達成できることがその本質だという気持ちでやっています。
 しかし、当時は「アート・マネージャー」という呼び方もありませんでしたし、アメリカでさえアート・マネージメントが議論されるようになるのは70年代になってからですから、自分でも何をやっているのかよく説明できない状況でやっていました。インドネシアも80年代まで同じ状況で、アーティストでさえもマネージャーの必要性をあまり考えていませんでした。
佐東 :僕がアムナさんに初めてお会いした頃は、アムナさん、サルドノさん、サル・ムルギヤントさんたちはジャカルタ・アーツ・カウンシルを通じてインドネシアに新しい芸術のムーブメントを作り出そうとされていた時期でしたよね。
クスモ :ジャカルタ芸術センター(タマン・イスマイル・マルズキ)Taman Ismail Marzukiの中にジャカルタ・アーツ・カウンシルができたのは1969年です。元水兵で、まちづくりのヴィジョンをもっていた先見性のあるジャカルタ首都特別州のアリ・サディキン知事により設立されました。
 ジャカルタ芸術センターは、シンガポールよりも先に東南アジアにできた初の大規模な公立文化施設で、2500人収容の野外劇場、300席のプロセニアム劇場、300席のアリーナ劇場、リハーサル室などがあります。当初、アーツ・カウンシルが芸術センターで行う公演のプログラムを決定し、芸術センターも専門家を雇って運営されていました。70年代は芸術センターの黄金時代で、いろいろな企画が行われ、1976年にはピナ・バウシュが来ましたし、マーサ・グラハムも、マース・カニングハムも、世界的に注目されていた人はほとんどインドネシアに来ました。ダンスだけでなく、美術や演劇など、すべての領域のアーティスとたちがいつもアート・センターに集まってきました。そこは、単なる集会所ではなく、お互いの作品を見ることができるハブでした。非常にエネルギッシュな時代だったのです。インドネシアを代表するアーティストの多くがその時代に生まれました。
 しかし、アリ・サディキン知事が退職してから状況は一変しました。芸術センターは貸し館状態になり、建物も荒廃してひどい状態になりました。その後、現在ではもう少し状況がよくなり、アーツ・カウンシルの予算もここ数年は増えてプログラムが充実しつつあると思います。
佐東 :ピナ・バウシュが初めて日本で公演をしたのが81年ですから、インドネシア公演は日本より早いわけですよね。そういうアーティストを招聘できたバックグラウンドが何かあったのでしょうか。
クスモ :その当時の公演の多くは政府の支援がありました。ほとんどの公演は無料で行われていて、多くの観客が来ていました。ジャカルタ芸術センターがとても活発に活動していたので、外国の政府がその国のアーティストを海外ツアーに出すときに、ジャカルタをツアー地の1つにしていたのです。ジャカルタがエキサイティングな場所だと思ったんですね。その頃、サルドノが2500人収容の野外劇場を2日間満席で公演したのを覚えています。そのような活気のある時代でした。
佐東 :1982年に白虎社でインドネシア・ツアーをしたとき、ジャカルタ、バンドン、ソロ、ジョグジャカルタ、バリなどへ行きましたが、インドネシアの観客は伝統的なものだけでなく、コンテンポラリー・アートに対する強い情熱をもっているのを感じました。
クスモ :それは人々が非常にオープンだったからです。当時はみんな、新しいことを経験したいと熱望していました。81年に韓国で開催された第三世界演劇祭で白虎社の公演を見たサル・ムルギヤントが、今まで見たこともない日本のダンスをみたと興奮して帰ってきたので、インドネシアに連れてきたいと思いました。公演は大成功で、全新聞社が記事を書きましたね。
佐東 :いろいろ物議をかもしましたが、各地でとっても大きな反響があり今でもそのときのことがインドネシアの人にあったときに話題にのぼります。
クスモ :白虎社は1995年に山海塾が来るまでインドネシアで公演した唯一の舞踏グループでしたからね。当時のインドネシアには裸体についての検閲があったので、衣裳について何日も話し合いました。最終的には素晴らしい衣裳をつくってもらいました。
佐東 :インドネシアには80年代と同じような舞台芸術に対する情熱が今でも残っているのですか?
クスモ :いろんな理由があって、かなり変化しました。理由のひとつはかつて若者にとっても「かっこいい(cool)」場所だった芸術センターが改修もされず古くなり、活動も衰退したことにあると思います。加えてジャカルタそのものが大きく変わりました。ジャカルタ首都特別州の人口は当時の4倍になり、人々は街の中心から離れた地域に暮らしています。公共交通機関もそんなに整っていないし、劇場に行っても、夜になると帰れないのです。たとえば、ジャカルタの中心にあるジャカルタ芸術劇場のメーリングリストの85%の人々が南ジャカルタ市に住んでいます。市の中心から2時間もかかる南ジャカルタ市にたくさんの人々が移り住んでいっているのですが、そこには劇場がありません。政府はそれらに着手する必要があると思います。
佐東 :現在のインドネシアの劇場の状況について教えていただけますか。
クスモ :それぞれの州都に「文化的空間」という意味の「タマンブダヤ」と呼ばれる公立の施設があります。全国におよそ32館ありますが、大抵の場合そこには劇場が2つあります。中にはソロ地区のタマンブダヤのように野外劇場もある大きな施設もあります。インドネシアの舞台芸術の団体は個人のスペースか、芸術系学校か、このタマンブダヤで活動しています。また、首都のジャカルタには、ジャカルタ芸術センターに3つ、ジャカルタ芸術劇場、ゲーテ・インスティトゥートのホール、ジャカルタ芸術学院の劇場、ウタン・カユ劇場があります。2008年10月にはサリハラに新しい劇場がオープンする予定です。
佐東 :アムナさんはサルドノさんの活動のサポートに始まり、インドネシアの中心的な舞台芸術の制作者として30年以上にわたり活動を続けていますが、それだけ継続していけるアムナさんの情熱はどこからくるものですか。
クスモ :前にも言った通り、それは私の「アーティストの友人たちを支える」という考え方からきたものです。芸術センターが活発な時代は、当時のアーティストたちはアーツ・カウンシルからプロダクションのための十分な資金援助を受けていました。例えば、アリ・フィン・チェヌールという著名な演劇の演出家は、年間4本の作品を制作した年もありました。しかし、資金援助は徐々に減り、アーツ・カウンシルは十分な活動ができなくなっていきました。それでアーティスト自身が資金やスポンサーを探さなくてはならなくなったのです。
 私は、資金調達をしてくれる誰か(アート・マネージャー)がいないために、作品がつくれなくて大変困っている才能ある多くのアーティストをみてきました。結局彼らは、アーティスト活動をやめてしまいます。おそらく私は他の方達よりも、プロデュースしたり資金調達をしたりするのが上手くやれたのだと思いますが、多くの人に役立つことを何かしたいと考えました。
 インドネシアの我々の世代は、若い世代の舞台芸術のアーティストが育たないことをとても危惧しています。例えば、ダンスにおいてはサルドノ世代の後、誰も育っていません。ボーイ・サクティがいましたが既に引退していますし、ミロトやムギヨノなどはいますが、ほんの少しです。インドネシアにはとても多様で豊かな文化遺産がありますが、何もしなければカリマンタンの熱帯雨林が伐採で消滅したように、25年後にはどうなっているかわかりません。
佐東 :アムナさんは、1999年にクローラ財団を設立されました。そのきっかけは?
クスモ :クローラ財団を立ち上げたきっかけとなったのは、なぜ一部のアーティストは他のアーティスよりも上手く仕事ができているのか、と疑問をもったことです。よいプロデューサーとマネージャーがいれば資金調達をすることができるし仕事依頼もとってこられます。それで、私たちは、アーティストをサポートできる能力のあるマネージャーを育てられればと思い、クローラ財団を立ち上げて、たくさんのマネージメントのワークショップを行いました。最初はアート・マネージメントのワークショップをするだけのとても小さな団体でしたが、私たちの活動内容も幅広くなりました。
佐東 :インドネシア政府はクローラ財団のことをどう考えているのでしょうか。
クスモ :NPOとして活動しているので、政府は干渉しませんし、また支援も全くありません。政府と話すことはありますが、私は彼らが何かをやるときのパネリストまたはアドバイザリー・ボードとして呼ばれる関係です。
佐東 :さきほどのマネージメント・ワークショップについて少し詳しく教えていただけますか。
クスモ :まず、1998年にパイロット・プロジェクト(試験的なワークショップ)を行いました。インドネシアでは芸術大学でもアート・マネージメントを教えているところはありませんし、正式なアート・マネージメント教育というものがありません。それでビジネス・マネージメントの大手コンサルタント会社のディレクターや講師の人と一緒にアート・マネージメントのワークショップのモデルをつくるところから始めました。その会社がこのプロジェクトに協力してくれる人を募集し、協力を申し出てくれたPPMという団体と一緒にあらゆる芸術団体を訪問しました。それは私たちにとっても、彼らにとってもひとつの勉強でした。多くの芸術団体のリーダーに会い、話し、たくさんのヒアリングを行いました。それを練って発展させ、私たちのアート・マネージメント・ワークショップのモデルをつくりました。最初のワークショップは1999年2月に実施しました。
 その後、改訂しながら何度もワークショップを行っていますが、この9年でのべ900人以上の方が参加しています。ワークショップは約1週間で計48時間のコースで定員は24名です。授業は朝から午後まで行われ、参加者はグループ別に課題について作業を行い、翌日発表します。カリキュラムは、実際のアート・マネージメントの仕事に生かせるような実践的なものです。ワークショップは一般の人も参加できますし、地域も問いません。このワークショップをやってよかったことのひとつは、全く異なる地域から来た人々が約1週間ともに過ごし、学ぶことによってお互いをよく知るようになることです。インドネシアでは、移動費が高いのであまり旅行をすることがありません。ですから、このワークショップはこれらのマネージャーが1カ所に集まり、ネットワークをつくる非常にいい機会になっています。これはクローラ財団にとっても重要なネットワークになっていて、今ではいろいろな人が「この街へ行きたいのですが、どなたか仕事を一緒にできる方を知りませんか」と訪ねてきます。
佐東 :クローラ財団では「ディレクトリー」というインドネシアの舞台芸術に関するA4サイズで400ページにも及ぶ膨大なデータファイルを発行されていますよね。
クスモ :そうです。私たちがワークショップを始めた頃は、インドネシア国内にどのようなアーティストや芸術団体があるのかを探し出すのは本当に難しかったのです。そこで、そういった情報を多くの人と共有すべきだと考え、2000年に初めてディレクトリーを発行しました。
 当初、インドネシア国内で活動している芸術団体で、伝統的なものからコンテンポラリーなもの、ダンス、演劇、人形劇など約3600団体の連絡先が掲載されていました。それぞれの地域で協力してくれる地域コーディネーターのような人が情報収集をサポートしてくれました。全団体をカバーできないので、現在活動中でコンタクト先のわかっている団体から始めて、その他の団体に繋いでもらいました。98年から約2年かけて調査を行い、2000年に発行しました。
 2003年に最新版を発行しましたが、それに掲載されているのは2600団体ぐらいです。約1000が活動をやめてしまったということです。98年に32年間大統領を務めていたスハルトが退陣したのですが、それまで厳しい規制をしていた彼が退陣していろいろなことが自由になった結果です。現在のディレクトリーはもう印刷物としてではなく、CD-ROMとウェブサイトとして発行しています。最新版はウェブサイトで見られます。
佐東 :クローラ財団ではアーティストへの助成も行っていますが、いつからどのように始められたのですか。
クスモ :2001年からです。自然な展開でした。ワークショップを行い、アーティスト情報を収集してディレクトリーを作成し、アート・マネージャーをワークショップしても、いったい彼らはどこで働けばいいというのでしょう? それで彼らに実践の場ができるよう少額の助成金を用意しました。新作をつくるためと、国内3都市をツアーするためのものです。助成金を出す団体があれば、アーティストも企画書や報告書の書き方を学ぶことができます。多くのアーティストは、私たちの助成金で初めて報告書というものを書きます。それまで誰に対しても財政報告などした経験がありませんから、クローラ財団のスタッフがアーティストやマネージャーを手伝って作成します。私はこのような教育プロセスが非常に重要だと考えていますし、アーティストにとっていい勉強になると思います。
佐東 :政府からの助成がほとんどないという状況で、クローラ財団のような団体を立ち上げるのに何が最も大変でしたか。
クスモ :フォード財団からの支援があったので、立ち上げに際しては財政的な困難さはありませんでした。むしろ団体を継続し、維持していくことのほうが課題です。フォードの援助は減る一方ですし、これから新たな資金源を探さなければなりません。昨年はインドネシア国内からの支援を得るために、本当に熱心に働きました。インドネシアの企業や個人からの支援を広げなくてはなりません。将来、クローラ財団が続いていくためには、インドネシア国内の支援者を開拓することが不可欠です。
佐東 :フォード財団以外に海外からの支援はありますか。
クスモ :オランダ系のヒボからの資金提供を受けている他、アジアン・カルチュラル・カウンシル、メルボルン大学の関連機関であるアジアリンクも援助してくれています。ACCとアジアリンクは主に海外へのレジデンシー・プログラムに関してアフィリエートしています。これは、インドネシアのアーティストやアート・マネージャーが、米国もしくはオーストラリアで2〜6カ月研修するためのものですが、舞台芸術に限ったものではなくて、美術系のアーティストやキュレーター、映画関係者も参加しています。
佐東 :そうすると、舞台芸術に関するアーティスト助成の資金は主にフォード財団からのものですか。
クスモ :当初はフォード財団のみでしたが、現在はフォードとヒボからの助成が半々です。アート・マネージメント・ワークショップは、フォードの援助のみで行っています。当初ワークショップは年7回行っていましたが、現在は年に1回です。他にもいろいろなワークショップを行っているのですが、それはその都度、ACCだったり、アジアリンクだったりゲーテ・インスティトゥートだったり、そのワークショップの種類によって支援団体が変わります。また、若手のマネージャーやアーティストを対象にした国内のインターン制度も創設したのですが、当初はフォード財団がこれも支援してくれていましたが、最近の3年間はインドネシアの個人からの寄付で支えられています。この制度では、年間14名のインドネシア人に奨学金を出して、3カ月間芸術団体で働く機会を提供しています。この奨学金には交通費、生活費、保険、舞台鑑賞や書籍購入の費用などが含まれます。
佐東 :フォード財団がインドネシアの芸術を支援することになった経緯はどのようなことだったのですか。
クスモ :フォード財団は50年前からインドネシアに事務所を持っていて、初期は米国に行って勉強するための奨学金を提供していました。70年代には行政官や政治家など多くの重要人物がフォード財団の奨学金で学びました。芸術支援を始めたのは1988年頃からだと思います。インドネシアのあらゆる舞台芸術団体が米国にいき、ツアーをしてまわりました。
佐東 :日本のアーティストや芸術団体といろいろと仕事をされてきたと思います。特にサルドノさんは日本人アーティストとのコラボレーションも多いですが、こうしたコラボレーションの可能性についてはどのようにお考えですか。
クスモ :サルドノは日本に何度も行っていて、Yas-Kaz、高橋悠治、勅使河原宏などとコラボレーションしていますし、これまでの日本のアーティストとの関係は非常にいいものでした。勅使河原宏の演出で高橋悠治が音楽を担当し、バリ島の舞踊団にサルドノが振り付けをして熊野で公演を行ったこともあります。また、私たちは白虎社、山海塾、JCDNなどのインドネシア公演のオーガナイズもしてきました。しかし、私は、もっとたくさんの日本のアーティストにインドネシアで公演をしてもらいたいと思っています。というのも、世界は大きく変化しています。もしも、さらに成長しようと思ったら自分のいる場所の外で一体何が起っているのかをみなければなりません。アーティストにとって他の作品をみることは重要な学習プロセスです。インドネシアでは西洋の舞台公演は時折みることができますが、日本やアジアのものはとても充分とは言えません。
 コラボレーションについては、アーティストが成長するために重要なことだと思います。しかし、まずは、そこに行って人々と会って話すということが大事だと考えます。コラボレーションが結果として生まれるか否かは別として、お互いに会って話すのです。アジア諸国における諸問題の多くは、お互いをほとんど知らないということからきています。なぜなら他に情報がないからで、まずは会って話しをしてお互いを理解することがとても大事なのです。そのプロセスが大事ですし、それには時間がかかると思います。
佐東 :2年前に僕がクローラ財団のアート・マネージメントのワークショップに招かれてインドネシアに行った時、貨幣価値の違いや貧しさのためにパソコンを購入することができず情報化が遅れていることなど、インドネシアの舞台芸術界が直面している問題がたくさんあることを知りました。
クスモ :特に、舞台芸術のアーティストは情報収集が得意でないようで、人々はどうやって情報にアクセスすればいいのか知りません。ですから、私たちは情報提供に力を入れていて、入手した情報はみんなに伝えるように努めています。ほとんどの人がパソコンをもっていませんし、ジャカルタですら、まだインターネットが遅い状況なので、コミュニケーションにも問題があります。ただ、最近では携帯電話が普及したおかげでかなり改善されていて、今は携帯のテキスト・メッセージ(SMS)が一番有効な連絡方法になっています。公演の告知でもテキスト・メッセージを活用しています。
佐東 :インドネシアは多言語、多民族という多様な文化の集まりです。舞台芸術のアート・マネージメントを行う際にこうしたインドネシアの多様性による難しさや苦労はどのようなものですか。
クスモ :インドネシアというのは極めて政治的な概念をもつ国です。オランダが支配していた地域がインドネシアになったわけですが、文化的にインドネシアについて語るのはとても難しいと言えます。なぜなら中部ジャワと西ジャワとは文化が異なりますし、バリ島も違う、南スラウェシも違う、北スラウェシも違います。もしも「インドネシア芸術とは何か?」と問われたら、答えるのが非常に難しいでしょうね。私は、そうした多様なルーツがあることが私たち独自の文化資源だと考えます。だからこそ美しく豊かでいられるのです。
佐東 :そのような多様性を活かしてマネージメントするためにどのような工夫をされていますか。
クスモ :私の経験上、インドネシアでアート・マネージメントを行うときに最も重要なのは、こうしたそれぞれの芸術様式を尊重し、そのおかれている文脈を知ることだと思います。そしてそこにある構造とつきあっていくのです、それを変えようとしてはいけません。たとえば、ある地域のアーティストと一緒に仕事をする場合、彼らはそのコミュニティと密接な関係にありますから、そこにある暗黙のルールを理解し、尊重しなければなりません。例えばバリのアーティストと仕事をするなら、郷に入れば郷に従えで、彼らのやり方に添って、支えることがアート・マネージャーの仕事です。
佐東 :最近では、芸術界の中で「アジア」という言葉がクローズアップされています。アムナさんは、アジアの芸術コミュニティの一員としてどのようにこの現在の動きを捉えていますか。
クスモ :私はアジアの芸術コミュニティの一員としての強い希望を持っています。長い間私たちはアジアよりも西洋をみてきました。ヨーロッパやアメリカから招聘され、多くの日本や中国のアーティストが海外に行っていますが、インドネシアや他のアジア地域に来るアジアのアーティストは非常に少ないのです。どうしてでしょう? その大きな理由は資金調達と関わっていて、構造的にそうなっているのです。アジアのアーティストはヨーロッパや北米だけを訪れるのではなく、自分達の地域をもっとよく知るためにアジアに行くべきです。今はベトナムに行くより、アメリカに行くほうが簡単ですが、アジアにいる私たちがこのことについて話し始めることで、こうしたことができるような方法を見つけ出せたらという強い希望をもっています。
 まずここから始まります。ベトナムではどんなことが起こっているのか、カンボジアではどんな人が働いているのか、まずは知らなければなりません。知らなければ、コラボレーションも何もできないからです。将来クローラ財団ではそのための取り組みができればと思っています。現在、私はインドネシアのアートに触れる1週間ぐらいの滞在企画を催したいと考えています。アジア各地から私たちの仲間やアーティストを集めて、インドネシア国内の展覧会や公演をみて、アーティストに会いに彼らの稽古場を訪れるのです。インドネシアのアーティストがどのような考えを持ち、どのように仕事をしているのかを実際に触れることによって、彼らのことをより理解してもらえると思います。彼らが直面している問題や状況を目の当たりにして、お互いの知恵をさらに発展させることができると信じています。
佐東 :私も新しいことを始めるには十分に機は熟していると感じています。これからアジア諸国の間でもっと盛んに交流ができるように一緒に形を作っていけたらと思います。
クスモ :今はいい時期だと思います。私はクローラ財団で仕事を始めてからスタッフ交流のような人材交流に興味をもつようになりました。それでACCから助成をうけてマレーシア、ベトナム、インド、カンボジアなど数カ国をまわりました。私が他のアジア諸国をまわるために助成をしてくれたのは、ニューヨークに拠点を持つ団体だったのです。ある意味、これは悲しいことだと思いませんか。アジアにおいて最も強力な経済力を持っているのですから、日本にはアジアの文化交流にもっと大きな役割を担ってほしいと期待しています。