畑澤聖悟

「地域」と「学校」──
ふたつの視点から演劇界を見つめる畑澤聖悟

2009.04.27
畑澤聖悟

畑澤聖悟Seigo Hatasawa

1964年、秋田県出身。91年、劇団弘前劇場に入団。俳優としての経験を土台に、2000年以降は劇作家・演出家としての活動を本格化させる。05年『俺の屍を越えていけ』が日本劇作家大会2005熊本大会・短編戯曲コンクール最優秀賞を受賞。同年、青森市を拠点に演劇プロデュース集団「渡辺源四郎商店」を設立し、08年より劇団として始動。地元演劇人の育成や、全国を視野に入れた新たなアートネットワークづくりに取り組んでいる。独自のユーモアを交えた深い人間洞察に基づく劇作は幅広い世代に支持され、劇団昴、青年劇場、民藝など他劇団への書き下ろしも多い。ラジオドラマでも文化庁芸術祭大賞を受賞。また、現役教諭として指導した高校演劇部を幾度も全国大会へ導き、05年には『修学旅行』が高校演劇日本一の栄冠に輝く。本作品は第44回東北地区高等学校演劇発表会にて最優秀賞を受賞し、全国高等学校演劇大会への出場権を獲得したほか、東日本大震災で被災した気仙沼や大船渡、釜石など東北各都市での無料慰問公演を実施。今後も慰問を継続する予定となっている。

https://www.nabegen.com/

青森県を拠点にする演劇ユニット「渡辺源四郎商店」店主・畑澤聖悟。現役高校教師である畑澤の戯曲は、教育現場を知る者ならではの視点を武器に、親子や生徒と教師の関係の歪みを鋭く描き出し、幅広い支持を得ている。現在は劇作のみならず、演劇を介した教育や人材育成、地域劇団間のネットワークづくりにも意欲的に取り組む畑澤の演劇的ルーツと、彼が見つめる地域演劇の未来について聞いた。
聞き手:大堀久美子
畑澤さんは、現在、青森県に住み、県立高校で美術を教える現役教員であり、高校演劇(*)の指導者であり、ラジオドラマのシナリオライター、そして地元を拠点とする演劇ユニット・渡辺源四郎商店店主という複数の顔をお持ちです。演劇と関わるきっかけと、多面的な創作活動を展開することになった経緯から伺えますか?
 演劇に興味を持ったきっかけは、実は非常にバカバカしいことなんです。出身は秋田ですが中学・高校時代はバスケットボール部所属で、生活もバスケ一色。東京の私立大学からバスケットボール推薦まで来たほどの腕前でした(笑)。ただ高校時代、少女漫画との出合いがありまして。ちょうど『日出処の天子』や『綿の国星』、『エロイカより愛をこめて』など、山岸涼子・大島弓子・青池保子ら作家性の高い漫画家の代表作が発表された時代で、すっかり少女漫画にハマってしまった。さすがに自分では買いに行けないので、バスケ部の女子マネージャーに買ってきてもらったりしていました(笑)。
そうこうしているうちに大学受験が近づき、僕の通っていた県立秋田高校が秋田大学に隣接していて、付属高校のような環境下にあったので、結局、その教育学部に進学することにしました。
受験勉強に飽きると書店に入り浸っていたのですが、そこで出合ったのが美内すずえの『ガラスの仮面』です。その時点での全巻を読破し、主人公・北島マヤの演技の描写を読んで、なぜか「俺でもできんじゃねぇ?」と思い込んだ(笑)。「入学したら演劇サークルに入ろう」と、その時点で心を決めていました。
『ガラスの仮面』が入り口ですか(笑)。それでは、大学の演劇サークルは随分様子が違ったのではないですか?
 全く違いましたね。大学に入学したのが1983年で、その年に学内の「北の会」という演劇サークルに入って役者になったのですが、これがアングラどっぷりの暗い芝居で(笑)。でも、芝居をやることは直感どおり自分と水が合っていました。
初舞台は北村想さん『寿歌』(核戦争直後の世界を舞台に、旅芸人のゲサクとキョウコ、キリストを思わせるヤスオ=ヤソが、地球の終わりに淡々と向き合う静謐な会話劇)です。1年の春いきなり僕はヤソ役。ライトの熱と興奮で鼻血を出したりしましたが(笑)、手ごたえも楽しさもバッチリ感じていました。
バスケで身体を鍛えていたことが、芝居でも役立ちましたね。足腰がしっかりしていたので、小回りの利くキレの良い動きができたし、試合中の声出しで喉も強くなっていたので、発声も最初からできた。授業の終わる夕方5時くらいから深夜12時まで、毎日のように稽古をしていました。
2年からは外部に客演するようになって。ちょうど秋田市主催の市民ミュージカルが始まり、劇団のオールスターメンバーで 井上ひさしさん のミュージカル『11ぴきのねこ』をやる、という企画があったんです。スゴイ作家がいるものだとハマり、井上さんの戯曲は随分読みました。
北の会ではその後、竹内銃一郎さんの戯曲などをやったのですが、入って来る後輩たちがサークル気分で、以前の「12時まで稽古」という雰囲気とはだいぶ違ってきた。そこで有志何人かで別にもうひとつの劇団「漫金堂」をつくり、そこには作家がいたので彼の書いたオリジナルを上演し始めました。
自分で書こうとは思わなかったのですか。
 演出はやりましたが、当時はひたすら役者志向だったんです。当時は学内でふたつ、学外でも「シアター・ル・フォコンブル」に所属し、3つの劇団を掛け持ちしていました。他に美術の研究室にいたので、そこの仲間たちとパロディの8ミリ映画や自主制作映画を撮ったり、色々なイベントを仕掛けたりもしていました。
そんな大学生活を送ったにも関わらず、卒業後は教職に就かれていますが、役者になりたいとは思わなかったのですか?
 優柔不断というか、流されやすい性質なんです(笑)。教員採用試験も、自分の意志というより教育学部にいれば、当然まわりが受験準備を始めるので、それを見ているうちに「受けたほうがいいかなー」と思い出した。東京に出て、俳優で頑張ろうかという思いもなくはなかったのですが、悩むうちに採用試験を受けていました。最初は2次試験で落ちたのですが、秋田市内の中学校の臨時講師になれたので、1年間は地元劇団で芝居をやりながら講師をやり、翌年には試験にも受かり、比内町(現・大館市)の中学教員になりました。そこではバスケット部の顧問になり、それから3年間は再びバスケに明け暮れる生活を送りました。
実は、53歳で亡くなった僕の父も同じ教員で、秋田では名の知れたバスケットボールの指導者でもあったんです。父の名を冠した「畑澤正作杯」という大会もあるほどで、その息子が中学のバスケ部を指導するなんて、絵に描いた親孝行だと思ったところもありました。
でも3年目の頃、ふと先が見えてしまったんです。中学校教師はとにかく忙しくて、ビッチリ授業した後に部活が8時頃まであり、そのあと学校の仕事をして帰宅は毎日11時過ぎ。「このまま親父のようになるのか、芝居はもういいのか……」と考え出したとき、頭に浮かんだのが弘前劇場の存在でした。
弘前劇場は青森を拠点に活動している劇団ですが、学生時代に観客としてご覧になったことがあったのですか?
 「漫金堂」で本を書いていた友人が弘前劇場のファンで、学園祭に2度ほど呼んだことがあるんです。まだ弘前劇場が出来て5年目くらいの頃で、オリジナルを上演し始めて間もなかったと思います。当時の弘前劇場は今と違ってギラギラとアングラの匂いがしていて、ラストは必ずビートルズがかかる(笑)。特に、今でも看板俳優である福士賢治さんの存在感が圧倒的で、「いつかは一緒に芝居がしたい」と思っていました。
それで弘前まで何回か通って、自分の足で稽古場を探して顔を出したら大学時代のことを劇団の人たちも覚えていてくれた。それが91年2月頃。その後、すぐに入団を申し出ました。入団後すぐにアトリエ公演で主役をやらせてもらい、演劇に即復帰。東京に出て俳優をやるか、秋田で教員になるかの二者択一だったのが、「弘前なら両方できる!」と気づいたんです。
入団半年で、当時劇団員だった女優と結婚もして住居も青森に移しましたが、職場は秋田のまま。片道2時間通勤が辛くて(笑)、真剣に青森の学校を探したのですが、4年後にやっと募集があり、95年に青森中央高校(当時は女子校)の美術教員になりました。
そこが高校演劇との出合いの場になったわけですが、きっかけはどういうものだったのでしょう。
 当時、弘前劇場は文化庁の助成を受けていて、その条件により1年間に4本公演する必要がありました。つまり両立するには1週間ずつ4回、仕事を休まなければいけないわけです。長期休暇を利用しても、そんなに休む教員はさすがにいません。最初は「演劇がんばりへ」などと言ってくれた教頭や同僚から次第に笑顔が消えていく……。自分のような教員の存在価値を認めてもらわなくては続けていけない。と考えた末、演劇部顧問になることにしました。僕の経験を学校に還元する一番良い方法だと思いましたから。
それまではソフトテニス部を教えていたのですが、スポーツ系クラブが圧倒的に強い学校だったので、文化部は軒並み虐げられた存在でした。クラブにカースト制度があるとしたら、演劇部は間違いなく最下層(笑)。地区大会も一度も抜けたことがなかった。ならば「県大会には絶対に連れて行く!」と僕も燃えまして、演劇部のために戯曲を書いた。それが生まれて初めて書いた戯曲『室長』です。
学校では4月に図書委員や体育委員、保健係といったクラスの役員・係を決めますよね。僕のクラスで実際にあったことなのですが、学級委員だけ決まらなくて、係に就かなかった10人くらいを残して放課後に話し合ったこと。そのエピソードを戯曲化し、公約通り県大会まで行きました。
畑澤さんの戯曲には、何かを決めるために複数の人が一堂に会し、話し合うという展開のものがいくつかありますが、処女戯曲で既にその形式に取り組んでいたのですね。
 確かに僕は「会議モノ」とでも言えばいいのかな、話し合いの過程を戯曲にするのが好きです。『室長』は、2年後に改作して、設定を学校内での校長選びに変えて『召命』というタイトルで弘前劇場でも上演しました。ラジオ局でリストラ候補を決める『俺の屍を越えていけ』もそうだし、劇団昴に書き下ろした『親の顔が見たい』も、いじめの加害者の親たちによる、ある種の会議モノと言っていいでしょう。
教員をやっていると、「民主主義とはどういうものか」と考えることがよくあります。クラス内では何でも挙手で決めるじゃないですか。賛否が20対21になって、20人も手を挙げているのに一人足りないだけで「正しくない」とされるみたいなことが日常的に起こる。子どもたちのほうでも、何かもめると多数決で決めようして議論をあまりしない。これは日本人独特の発想と行動に通じるものではないか。日本のコミュニティの在り方は学校を舞台にした会議モノに凝縮できるのではないか。と考えたりもしています。
その後、青森中央高校演劇部の躍進は目覚しいものがありました。『修学旅行』(2005年)と『河童』(08年)で全国大会二度の優勝、『生徒総会』(95年)で優秀賞。『修学旅行』は韓国から招聘されて海外公演も行いました。この作品は職業劇団である青年劇場の公演として全国の高校演劇鑑賞教室を巡演。青森中央高校演劇部は昨年、青森県の発展に寄与した人や団体を顕彰する東奥賞(地元紙・東奥日報社主催)も受賞しました。
 そこまでの成果を、予測したり目指したりしていたわけではありません。何せ最初は、自分が演劇を続けるための方法であり、教員としての義務感から起こした行動ですから。でも実際にやってみると、一生辞められないと思うほど面白かった。高校生は、短期間で驚くほど上達するんです。
教員は人に物を教えるという、非常に不遜なことを仕事としています。もちろん、教育と名の付くものはとかく時間が掛かるもので、成果が見えにくい場合が多い。それが演劇の場合、「ここがゴールだよ」と示すと、部員は一丸となってそこへ向かい、必要なことを身に付け、できるようになっていく。台本の完成が遅く、大会本番の3日前にできたとしても彼らはちゃんと上演する。何せ人生で一番記憶力が良い時ですから。物を教える立場の人間として、対象が音を立ててみるみる上手くなっていく場に立ち会える、これ以上の快感はありません。
それと、僕の周りには高校演劇の世界を「閉塞的だ」と悪く言う人が少なくなかった。そういった部分も確かにありますが、だからといってそこで生まれた作品が人の心を打つ力を持たないかと言えば、それは断じて違う。16〜18歳の俳優しかいないという制約はあるけれど、そこでできることをやればいいだけで、それは高校演劇でも渡辺源四郎商店でも違いはありません。『修学旅行』はまさにその証拠で、僕は高校演劇の勝利だと思っています。
劇作家として高校演劇から受けた示唆や刺激には、どういうものがあるのでしょう?
 『修学旅行』を通して、「劇作家の意図したことがすべて観客に伝わらなくても、それは敗北ではない」ということは自覚しました。戯曲は、観る人それぞれがわかるレベルで楽しめばいい、と思えるようになりました。
『修学旅行』は青森県の女子高生が、修学旅行先の沖縄の旅館で夜に喧嘩になり、マクラを投げあうなど大騒ぎになるという話です、表面的には。その、一番上を流れる物語とドタバタで笑ってもらってもいい。でも同時に中心となる5人の女子高生は、過去と現在のアメリカやイラク、日本、ロシアにもなぞらえてあり、彼らの投げる枕は頭上を飛ぶテポドンや、沖縄に降り注いだ鉄の雨にも見立てられるようになっている。そこまで理解して楽しんでくださる観客がいても、もちろんいい。その両方の観客の存在を、初めて意識的・戦略的に想定して書いたのが『修学旅行』という作品で、劇作家である僕にとっても大きな作品だったと思います。
当たり前ですが、高校演劇ではつくる側だけでなく観客も高校生。彼らはわずか1、2年の演劇経験しかない中ですべてを判断し、「面白い・面白くない」を決める。だから高校生から演劇に詳しい観客まで、それぞれのレベルで持ち帰れるものが作品には必要なんだと思います。
06年からは他校に転任され、以降青森中央高校演劇部には戯曲提供などの形で関わられているそうですね。畑澤さんの行動とその成果が、高校演劇界に変化をもたらしているようにも思えますが、実感としてはいかがでしょう。
 先生らしく言えば、当初は、偏差値も普通科高校の中で低いほうだった学校の、文化部系の生徒に誇りをもたせたいという思いがありました。実際、全国から選ばれたたった12校しか出場できない全国大会に5回出場し、2回も優勝を果たした。大学入試や就職の面接の時、「私の母校は演劇で日本一になりました」と言えることは良いことだと思います。演劇部だけの幸せではなく、学校全体の幸せにならなくてはいけない。
ただ他校がどうか、青森地域はどうかと考えると……残念ながらまだ「青森中央はやっているけど…」という例外を見る感じでしかないと思います。しかし、地域で演劇に携わる人間は、青森県に限らず、高校演劇部が地域演劇に人材を輩出するための有効な機関だということを、もっと肝に命じるべきだと僕は思っています。地方によっては、高校演劇にしか望みはないかもしれないんですから。
高校卒業後、彼らの半分は地元を離れ、東京や他の都市に行ってしまうかもしれないけど、それでも彼らが成人した後まで良き演劇人、良き観客、良き表現者であり続けるためには、高校での演劇体験は非常に大きな機会、チャンスだと思います。別に全員が俳優やスタッフをやらなくても、「良いな、面白いな」という演劇に出合えるだけでいい。いろんなことには後からいくらでも気付ける。その後々の気付きのための、良い演劇的インプットをするために、高校演劇は最適の場だと思っています。僕が直接対象にしているのは青森県の高校生ですが、これはどこの地域でも言えますし、演劇界全体の課題でもある「観客育成」にも繋がることだと思います。
俳優だけでなく、劇作家・演出家として活動されるきっかけについてお話いただけますか。
 実は、弘前劇場で劇作をする前に、ラジオドラマの仕事を始めているんです。津軽藩を興した津軽為信という、織田信長より30くらい年下で上杉景勝などと同世代の武将がいまして。彼と彼の子が弘前城を築城するまでの漫画が地元紙・陸奥新報に連載されていた。それを青森放送がラジオドラマ化したいという依頼が弘前劇場の主宰者で劇作家・演出家の長谷川孝治さんのところに来たんです。でも彼が多忙だったため、僕のほうにお鉢が回ってきた。僕は、美術の教科書に原稿を書いた程度の経験しかなかったのですが、流されやすい性格なので、その時もつい「できんじゃねぇ?」と思ってしまった(笑)。
番組タイトルは『卍の城物語』、1回10分の帯番組で月曜から金曜まで週5本。放送は正味8分だから、1本が原稿用紙5枚になります。素人に簡単に書ける量ではなかったのですが、資料を調べたり、実際に城址や史跡の取材に行ったりしているうちにどんどん面白くなってきた。いまや古文書調べは趣味のひとつです。番組も「3カ月も続けば」と始まったのに、もう15年、3000話を越えて今も続いています。ありがたいことに番組には弘前市内の企業がスポンサーに付いてくれていて、自社制作の番組では聴取率もトップ。局からは「永久に続けてください」と言われています(笑)。
これがきっかけで他のラジオドラマも書くようになり、誰も騒いでくれませんが、実は密かに芸術祭大賞、ギャラクシー大賞、民間放送連盟賞、放送基金賞の四冠をラジオで取っている(笑)。書くことに関しては、ラジオで相当鍛えられました。
弘前劇場で初めて作・演出を手がけたのは2000年で、先ほど話した高校演劇に書いた本を改作した『召命』がそれです。劇団的には活動方針のひとつとして「劇作家二人体制」という呼び方をしていましたが、例の文化庁の助成金の条件として年間4公演が義務付けられた時に、書ける人間が近くにいたぞ、というので始まりました。
高校演劇と劇団での戯曲執筆と演出、ラジオドラマの脚本。現在はさらに外部への戯曲提供もされていますが、それぞれの創作について、ご自身の中でどう切り替えているのでしょう?
 思考も方法も、切り替えはまったくありません。演劇部も05年に弘前劇場を退団して旗揚げした渡辺源四郎商店でも、ラジオの現場でも「この人たちと一緒にものをつくりたい」と思う俳優やスタッフがまずいて、劇作家・演出家として彼らをどう幸せにするかを考えるところから僕の創作は始まります。その過程はすべて同じです。
執筆するための動機として、戯曲の題材より俳優やスタッフの存在の方が大きいということですか?
 はい、自分の中でまず「○○に未亡人役を演じさせたら面白いだろうな」という発想が生まれ、それが興味のある題材と結びついていくという順番です。死刑制度やいじめなど、その時々に興味のある題材はありますが、物語は題材から生まれるのではなく、一緒にやる俳優がどうしたら面白く見えるかを考え・積み重ねていく中で生まれてくる。それは他の劇団に書く時も同じで、劇団昴さんにも「まず役者さんを知る時間をください」とお願いし、1年間かけて昴の全公演を観て書きました。それが『猫の恋、昴は天にのぼりつめ』(06年)です。
もうひとつ、心がけているのは「青森で書かなくてもできる」と言われないものを書くこと。「死刑」を考えるにしても、青森の住人と東京の住人ではおのずと考えることは違う。東京でできることを、青森でやる必要はありません。東京─青森間は約700キロ。この距離は気候の違いを生み、確実に人や環境に差異を生じさせるもので、作品をつくる上では非常に有効な、逆手に取れる「武器」だと思っています。
ただ、昴への書き下ろし作品を演出してくださった、青年座の演出家・黒岩亮さんに、こうしたことにあまり固執し過ぎないほうがいい時もあるというアドバイスもいただきました。「俳優のキャラクターを面白がり過ぎると物語の進行で犠牲になるものが出てくる」とか、「描きたい人間関係のためには、青森より東京が舞台の方が有効な時もある」というようなことを、『猫の恋〜』や『親の顔〜』のときに言われ、その辺は以前より柔軟に考えられるようになってきたと思います。
再演を重ねている『背中から四十分』は、ここまでの話に出てきた作品と少し印象が違います。この作品は、深夜のホテルの一室を舞台に、いわくありげな男性の宿泊客が女性のマッサージ師からマッサージを受けながら物語が展開します。登場人物の役割や背負っているものが伏せられた状態で始まり、物語の進み方が一方向ではなく、行き来する構成になっています。
 福士賢治と森内美由紀、二人の俳優ありきで書いたのは同じですが、マッサージという行為を通して、複層的な動きの反復からドラマをつくるということを試したのが『背中から〜』です。
発端は「人を癒す」とはどういうことかへの興味。肩が凝ったとき、自分で押すとコリは楽になっても、今度は押した手が疲れますよね? 僕は「コリ保存の法則」と呼んでいますが(笑)、だとしたらマッサージ師という人たちは、他人の疲れやコリ、哀しみまでも自分の身体に引き受けているんじゃないか、だとしたらその人たち自身の疲れや哀しみはどこへ行くのか、とイメージが膨らみ、マッサージの施術と同時進行で癒される人と癒す人、両方の変化を描こうと考えました。
それだけでは物足りなくて、さらに加えたのが心中物の情交の場面。『心中天網島』や『曽根崎心中』など、必ず心中の前に情交場面があるじゃないですか。どうやって統計を取ったのかは知りませんが、物の本によると実際に心中者の8割が死ぬ前にセックスするそうで、『背中から〜』の場合はその代償行為としてマッサージを考えました。人を癒す仕事をしている人ほど、実は強く癒しを求めている。そんな「癒しの転移・連関」を、マッサージが進行していくラインと会話のライン、ふたつの方向から書いたのがこの作品です。
でも僕が心中物、近松門左衛門トリビュートとして書いたということは、誰にもわかってもらえなかった。初めての指摘はニューヨークでこの作品がリーディングされたときで、観客から「これはチカマツでしょ」と。ヨーロッパ圏で『The Chikamatsu』みたいなタイトルで上演したら、ウケるかもしれないと思っているんですが(笑)。
渡辺源四郎商店の最近の活動についても伺いたいと思います。拠点である青森市で、08年からアトリエ兼劇場のアトリエ・グリーンパークを運営されています。小規模劇団が上演もできる自分たちの場を持つのは、東京近郊では考えられない贅沢な創作環境です。
 創作のための場所の確保が比較的しやすいのは、地域演劇の数少ない利点だと思います。アトリエ・グリーンパークは元レストランだった建物の2階部分を借りて、それこそ吸音のための有孔ボードの穴開けから劇団員たちでやったという、徹底した手作りで立ち上げたアトリエです。公演はもちろんですが、僕はここをあらゆる方向から演劇に触れられる「場」にしたかった。僕が「弘前劇場があるなら、東京へ行かなくてもいい」と思ったように、「グリーンパークに行けば演劇ができるから、東京へ行かなくてもいい」と思える場所にしたいと思っています。
戯曲や演劇雑誌のバックナンバーを探しに来てもいい。公演やワークショップに参加することもできる。駅から少し離れた湾岸地帯に場所を決めたのは、中高校生が大勢出入りする際の自転車の駐輪スペースを確保したかったからです。
グリーンパークでは昨年から中学生対象のワークショップを始めました。高校演劇だけでは限界があるし、もっと早い段階で演劇に触れる機会をつくりたかったのと、劇団の認知を高めるためのアウトリーチが必要だと思ったこと、2つのことがきっかけです。第1弾は戯曲『修学旅行』使い、「ココロとカラダの平和教育〜7日でつくる『修学旅行』」というタイトルで昨年行いました。戯曲の読みから入り、参加者には、戯曲に出てくるテポドンや中東戦争といった言葉について分担して調査させ、その内容をプレゼンさせました。作品の背景を自分で調べ、知ることによって、台詞の言葉も裏打ちをもって喋れるようになりますから。最後は公演もしましたが、当然家族や友人が観に来るわけで、これはすごいことだと思います。
『修学旅行』を使ったワークショップは、今夏札幌でもやりますし、8月下旬にはグリーンパークでワークショップ第2弾として「ココロとカラダで考える差別〜7日間でつくる『河童』」も開催します。今、建物の一階部分も借りる交渉中で、ゆくゆくは1、2階ともに劇場とアトリエとしてフル稼働させたいと思っています。
劇団としても、演劇を使った教育や、人材育成に取り組んでいこうとしているのですね。
 はい。中島諒人さんが主宰する鳥取の「鳥の劇場」(*)との出会いからも大いに影響を受けました。この2月にも鳥取へ行って来たのですが、中島さんとは東京を経由しない地域演劇団体同士のネットワークをつくろうと話しています。弱いもの同士の団結ではなく、意志のある活動のためのネットワークを作るのが目標です。
公的機関との付き合い方や助成に関しての動きは鳥の劇場がぶっちぎりで先んじていて、予算もあちらが桁ひとつ大きいのが現状です。渡辺源四郎商店の場合、主宰の僕が公務員であることや、青森市内に活動拠点があるのに市内に居住していないことなどがネックになって助成を受けることができないという事情もあります。でも、そんな「前例がない」というだけで道が閉ざされている現状は、劇団の存在価値と公共性をアピールすることで打破していけばいい。そうやって一歩ずつ集団として体力を付け、活動の場を広げていきたい。高校生対象の戯曲解釈講座や、60歳以上限定のワークショップなど、やりたいことは他にもたくさんありますから。
とはいえ教員を辞めるつもりは、今のところありません。地域で生業をもちながら演劇をするのは正しいことですし、職場と高校演劇に携わる時間があるからこそ書ける・つくることができる作品が絶対にあります。教員の世界や学校は閉じた、狭い世界ですが、そこから見えるものや教員として感じることは僕にとっての原点であり、同時に大きなアイデアの源泉です。だから可能な限り、今履いている四足の草鞋を履き続けなければと思っています。
畑澤聖悟 最新作
渡辺源四郎商店 第9回公演
『3月27日のミニラ』

作・演出:畑澤 聖悟
[青森公演]2009年4月19日〜26日/アトリエ・グリーンパーク
[東京公演]2009年5月2日〜6日/ザ・スズナリ
[秋田公演]2009年5月23日/秋田市文化会館

*高校演劇
全国の高等学校およびそれに準ずる学校に設置されている演劇部で行われている演劇活動を指す。こうした演劇部が都道府県単位で加盟する全国高等学校演劇協議会が設置されており、その下部組織として全国を8ブロックに分けた北海道、東北、関東、中部日本、近畿、中国、四国、九州の地方連合組織がある。県大会、ブロック大会を勝ち抜いた代表校12校による全国大会が年1回開催され、最優秀校には全国高等学校演劇協議会会長賞が贈られる。

*鳥の劇場
鳥取県鳥取市鹿野町の廃校になった学校と幼稚園を劇場に改造して、演劇活動、劇場運営を行うNPO法人。演出家の中島諒人(なかしま・まこと)が主宰。“創るプログラム”“招くプログラム”“いっしょにやるプログラム”“試みるプログラム”の4本の柱により、年間にわたって舞台芸術に関するさまざまな事業を展開。
https://www.birdtheatre.org/birdtheatre/

青森中央高等学校演劇部
『修学旅行』(初演版)

平成16年度
青森県高等学校総合文化祭演劇部門
(2004年10月31日/八戸市公会堂)
撮影:西澤勝

弘前劇場『召命』
(2000年1月/スタジオ・デネガ)
そう遠くない未来。学校教育の現場は今以上に荒廃を極め、権威も力も失った文部省は「校長職」を教職員の互選によって選出する制度を導入する。事件や不祥事の責任を取る立場である校長にかかる重圧は大きく、死亡率はうなぎ登り。舞台となる青森県の公立中学でも、新校長選出のための話し合いが行われていた。話し合いに公開選挙、議論は白熱しても結論は出ず、それぞれの思惑があぶり出される。

弘前劇場『俺の屍を越えていけ』
(2002年4月/浪岡現代美術空間)
青森市に本社を置く老舗放送局。経営状態の悪化を救うべく就任した辣腕の新社長は、「360度評価(上司、同僚、本人、部下の4者による評価)」を実施し、徹底した人員削減を提唱する。その一環として取られたのは、若手社員による管理職リストラ候補社員の選抜。部下いじめを弾劾する者、他人事を決め込む者、義を説く者。集められた6人は気の重い話し合いを始める。

劇団昴 ザ・サード・ステージ『親の顔がみたい』
(2008年2月/THATER/TOPS)
都内にあるカトリック系私立女子中学校の教室で、一人の生徒が自殺した。夕方、学校の会議室に保護者が集められる。彼らは、自殺した子供の遺書に名前が書かれていた生徒の親たち。 生活環境も職業も違う親たちは、ひたすら身勝手に我が子を擁護し、学校の責任を追求する。だが、第二、第三の遺書と「証言者」が現れたとき、それぞれの親子の「本当の顔」が暴かれて…。
2017年にKAAT神奈川芸術劇場で初演され、2019年にムーゾントゥルム(フランクフルト)で再創作上演された作品。リヒャルト・ワーグナーのオペラ『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に描かれた民衆の歌合戦に着想を得て、ラップ、DJ、サイファー、グラフィティ等のヒップホップ・カルチャーを大胆に導入。劇場の機能や慣習、空間・時間のあり方そのものに対する問いを提示した。

『親の顔がみたい』(初演版)
撮影:梅原渉

青森中央高等学校演劇部『生徒総会』
(1998年12月)
生徒総会を明日に控え、リハーサルをするために集まった生徒会役員執行部のメンバーは、制服廃止にこだわる男子生徒の動議でもう一度話し合いをすることにする。「制服は廃止すべきか否か」、「多数決による決定は本当に正しいのか」。白熱した議論は思わぬ方向にそれ、執行部を危機的状況に追い込んでいく。

青森中央高等学校演劇部『河童』
(2007年12月)
とある町の平凡の高校の平凡な教室。いつもと違うのは、クラスメートの一人が突然河童になってしまったことだ。友人の「変身」を受け入れようと団結を誓う生徒たちの前に現れたのは、制服を着た河童ヒメノ。受け入れるはずのクラスメートたちは、生臭くヌメっとしているヒメノに嫌悪感を隠せず次々に理解者の立場から離脱していく。「自分」の存在を否定されるたび、ヒメノの河童化は進んで行き…。

『河童』
第54回全国高等学校演劇大会(群馬大会)
(2008年8月8日/群馬県桐生市民文化会館)
撮影:ハラセイ写真館 原敏明

劇団昴 ザ・サード・ステージ
『猫の恋、昴は天にのぼりつめ』

(2006年7月〜8月/三百人劇場)
仕事に出掛けたまま失踪した父に代わり、旧家を一人守る櫻はもう43歳。同居人は15歳になる老猫・正ちゃんのみ。一人身の櫻を心配する世話焼きな親戚のおかげで、なんとか見合い相手と結納まで漕ぎつくが、見合い相手の赤田まさをの家族は一家揃って訳ありの風情。人々の想いが錯綜するなか、誰よりも櫻を案じる“思わぬ人物”が現れる。

渡辺源四郎商店『背中から四十分』
(2006年10月/こまばアゴラ劇場)
撮影:田中流