井手茂太

コンテンポラリーダンス界の異才 井手茂太の発想とは?

2006.02.28
井手茂太

井手茂太Shigehiro Ide

ダンスカンパニー「イデビアン・クルー」主宰。イデビアン・クルーは、95年に『イデビアン』で旗揚げし、以来、国内外で公演活動を行っている。日常的な身振りや出演者の個性を活かした動き、オリジナリティのある群舞などの振り付けで注目される。現代美術家・椿昇や音楽家・ASA-CHANGなど、異分野のアーティストとのコラボレーションにも取り組んでいる。最近では、『AMERIKA』(松本修演出)、『ルル』(白井晃演出)、『クラウディアからの手紙』(鐘下辰男演出)など演劇やミュージカルなど多数の舞台作品の振り付けを担当し、高い評価を得ている。04年に振付家として初めて読売演劇大賞優秀スタッフ賞受賞。

http://www.idevian.com/

日本のコンテンポラリーダンスシーンの中でも異彩を放っているイデビアン・クルーは2005年で結成10年を迎えた。主宰の振付家・井手茂太は、独自の解釈に基づいた音楽、身振り、空間造形により、バレエから日本のお葬式まで多彩なモチーフをダンス作品にしてきた。近年では、自身のカンパニー活動のほか、現代美術、演劇、ミュージカルなど異分野とのコラボレーションにおいてもその才能を発揮。井手のオリジナリティ溢れる発想の原点に迫った。
聞き手:石井達朗
井手さんはこれまで数々の作品を手がけていて、なかにはダンス以外の演劇の人たちとのコラボレーションもたくさんやっていますね。井手さんの振付を見ていても、だいたいダンス的でない部分が多いのではないか、という気がしています。そういう意味で、ダンスの活動以前の生い立ちについて興味がわいてくるのですが。
僕が育ったのは佐賀県武雄市という焼き物で有名なところです。近くに有田や伊万里があります。父も陶芸をやっていて、その周辺は5〜6人に1人は父親が焼き物か陶芸をやっている家でした。父はどちらかというと作家として作品をつくる人で、僕も小学校のころはよく、ろくろなどで遊んでいました。僕が高校を卒業する頃までは、家にも大きなガス釜とかあったんですが、その後全部壊してしまいました。やっぱり田舎なのでそういうのは商売にならなかった。
母は美容師です。同居している叔母が地元でチェーン展開をしている美容会社を経営していて、そこを手伝っていました。ですから、うちは母親と叔母、二人の姉、さらに美容院の住み込みお手伝いさんやインターンがいるという、女7〜8人に男2人という家庭でした。親父は仙人のような人で無口。親父らしい親父ではなかったし、井手家はうちの叔母が全部仕切っていました。
井手さんの振付作品では、女性がたくさん登場するんですが、それは美容院と関係がありそうですね。小さい頃から、意識なしに女性たちの中に同化していたというか。その時はまだダンスは始めてなかった?
ダンスへのきっかけは不思議なものでした。子どもの頃、一番上の姉が日本舞踊を、2番目の姉はクラシックバレエを習っていました。僕だけは何も習い事をさせてもらえなくて。でも、姉たちに踊りの相手役をよくやらされていました。夜、店を閉めた後イスを全部取り払うと、美容室が鏡でいっぱいのスタジオになるんです。例えば、今度アイドルの振付を学校でやるからと「ピンクレディーのあんたミーちゃん、私ケーちゃん」などと言って、姉にいつも相手役をやらされてた。一番上の姉の時代は、ヴィーナスというバンドの『キッスは目にして』という曲が流行っていて、みんなポニーテールにして、女の子がシューッとスライディングする踊りとか。そういうときの相手役です。今思えば美容室はいいスタジオでした。
真ん中の姉がバレエのレッスンに行くときは、わざと早めに迎えに行って見学することもありました。女の子たちはレオタードを着ていて、男の人も大人もいるのに、なんで僕だけやってはいけないのかなと思ったりして。日本舞踊やバレエをやっている姉たちを見て、ダンスに対する憧れみたいなものがなんとなくありました。
そういう姉弟だったんで、小学校の頃から何かのイベントのたびに、井手の姉弟を踊らせろ、みたいな感じでよく踊っていました。小学校のレクリエーションの時間などで、姉の発表の相手役をやったり、家の美容室スタジオでやったものをそのまま、僕も出て学校で発表したりしました。その頃には人前に立つ楽しさに目覚めてましたね。本当は超シャイなんですが(笑)。ああ、こうすれば受けるな、とか、こうしたらきれいだと思うんだ、みたいなことを考えていました。
うちは貸衣裳屋もやっていたので、着物などの特別な衣裳にも昔から興味がありました。今も自分の作品のなかに着物を使おうということになると、実家の貸衣裳を使ったりすることもあります。この前のソロ公演(『idésolo井手孤独』)の時は女性の結い髪のかつらを借りてきました。
別に習っていたわけじゃないけど、子どもの頃から踊る環境はあったんですね。
親戚もほとんどみな美容師という美容師一家のなかで、もう自動的に「お前は美容師だ」という環境だったんです。だから僕は、ちょっと言えば美容師のホープみたいな感じで育てられました。そういうプレッシャーもあってか、高校を卒業して半年もしないうちに美容師の見習い修行をやめてしまい、福岡でプータローしていました。
そんな時に、もう一度学生をやりたいと思って探していたら、東京にダンスの専門学校があるのを知りました。こんなのが世の中にあるんだと思って、なんとなく行ってみたいなと。上京して、渋谷の「日本ヘルス&スポーツ学院」という全日制のダンス専門学校に入学しました。その学校にはモダンダンスの人、ジャズダンスの人、バレエの人など、いろいろな学生がいました。先輩に能美健志さんなどもいます。ちょっと不思議な学校だったかもしれません。
そこで初めて本格的にダンスを習った。
そうですね、授業ではあらゆるダンスをオールラウンドにやっていた感じです。グラハムテクニックとかバリバリやらされましたよ。1年目は必修で、2年目からは選択になるんです。基本的にはジャズダンスとかヒップホップみたいなものに人気があって、その他にモダンダンスや、当時のコンテンポラリー、クラシックバレエもありました。朝からレオタードを着せられて、泣きながらバレエのレッスンなどを受けていました。また、ダンスの理論や歴史に関する講義の時間があったり、身体や骨の勉強をしたり。その後またジャズを踊ってモダンを踊って、英会話の授業があって、なぜかボイストレーニングもあって。月から金、朝から夕方まで踊りっぱなしでした。バレエ振付家の望月辰夫さんや、評論家の長谷川六さんらが講義に来たり、ロイヤルバレエ団やローザスの人など海外からの講師も多くいました。
当時面白いと思ったのは、学校では夏休みが1カ月以上しっかりあるのですが、踊りずくめの毎日だったのが、夏休みになった瞬間にボーンと太るんですよ。僕だけじゃなくてクラスの女の子みんな。それが、学校が始まってまた同じようなプログラムを毎日こなすと、1カ月で元の体重に戻る。若かったせいもあると思いますが、それこそ10キロ近く太って3〜4週間で元に戻るほどハードなプログラムでした。だから、座学の講義の時間はみんな居眠りしていましたよ。そこでも、まわりは女の子ばかりでした。1クラスに女性が25、6人いるうち、男が1〜2人ぐらいしかいなくて。2年目になってやめていく男もいたから、僕は目立ってた(笑)。
学校では毎月1回、パフォーマンスの発表会のようなものを行っていました。作品タイトルやユニット名などを決めなければなかったのですが、ある時、モダンダンスの外国人講師のクラスで、カリビアンダンスの振りを踊っていたら、妙にウケたんです。そしたら「あなたはカリビアンじゃなくてイデビアンだね」と言われて、それで僕らのユニットを「イデビアン」にしました。
とにかくダンス学校での2年間は、バリバリ踊っていました。自慢じゃないですが、僕は成績優秀だったんですよ。2年時には級長をやって、その後卒業公演のまとめ役になって、ずっとみんなを仕切るリーダーでした。
そこでの仲間がイデビアンのメンバーになっているのですね。
そうですね。今残っているのは4、5人ですけど。結局そこを卒業してみんな何をしているかというと、ほとんどがダンスをやめて結婚してしまいました。今ダンスを続けている人はあまりいないかもしれません。
その2年間で振付は? どんな作品をつくりましたか?
月1回パフォーマンスをやっていましたので、とにかくいっぱいつくりました。そのカリビアン風の振りのイデビアン作品をやったとき、ちょっと変な振付だったので、すごくウケました。僕もあまりにもハマってしまったので、自分なりにもっとつくりたくなって。ある意味ここから「パクり」みたいなものを始めたんです。
例えば、ちょうどリレハンメル・オリンピックのころだったので『イデハンメル』というのをつくったり、ピナ・バウシュが流行っていた時だったから『イデ・バウシュ』をつくったり。『イデリアム・フォーサイス』とか、『イデ・キリアン』とか。イデをつけるだけ(笑)。でも、ただおちょくっていたのではなくて、みんなあまりそういうものを知らなかったので、あえて付けていたんです。ジャズダンスが好きな人たちばかりだから、ピナの公演とか、授業の一環で団体チケットをもらっても参加しない人が多くて。もったいないから僕は余分にチケットもらって観に行っていましたね。
その当時から僕は振付を主にやっていて、自分自身は作品に出ていませんでした。というか、自分が踊ること自体あまり興味がなかったんです。授業でバリバリ踊っていてバリバリ優秀だったし、体重は今より余裕で10キロは少なかった。だけど仕切り役でもあったので、いろいろなグループの構成をつくらなければならなかった。まあ正直言うと、自分が出るまでの余裕がなかったということもあります。
どういうかたちであっても月に1本振付をするというのは、自分自身が踊るのと違って、空間的なことから音、コンセプトまでを全部決めるわけですから、すごいですね。
大きなスタジオで簡単な照明はありましたけど、実際は身内だけのスタジオパフォーマンスです。月毎に違う先生が教えに来る「パフォーミングアーツ」というクラスがあったのですが、その先生からメソッドを教えてもらって、じゃあ今度はあなたが振り付けてみなさい、といった授業や、パブリックではないけれど人を呼んでもよいというパフォーマンスもありました。
そういう運命だったのか、しまいには先生にも「この辺で井手ちゃんの変な振りが欲しいんだけど」と言われて、先生の相談役になっていたりしました。僕は学生なのかアドバイザーなのか、不思議な環境でした。最初からずっとダンサーに振り付けていましたから、振付というものには慣れていたと思います。演出というか、やっぱりそういうのが好きだったんですね。学校はちゃんと修了したわけですし、好きじゃなきゃ、これだけ毎日通って、いろいろなことはできないでしょう。
卒業してからは? その時はダンスを続けていこうと?
親には「卒業したらどうするの!」と言われましたが、とりあえず東京にいることにして、アルバイトをしながらダンスを続けていました。卒業してからも母校に、ちょっと代行で授業をやってもらえないか、と頼まれることもありました。何を教えていたか覚えていませんが。
他には、小川麻子さんなど学校の先輩たちがスタジオでダンスレッスンをしていると聞くと、魅かれてレッスンを受けに行ったり、セッションハウスの企画ものに出たり。それで、ちょうど卒業の頃に近藤良平に出会いました。彼は早稲田のサークルでモダンダンスをやっていて、面白いらしいと聞いて一度遊びに行ったんです。それで友だちになり、早稲田のモダンダンス部で一緒に踊ろうということになりました。良平さんも早稲田の人ではなかったのですが。その頃ちょうど、ドイツで学生のダンス・フェスティバルみたいなものがあって、それにみんなで行くことになりました。良平さんと僕と7人ぐらいで行って、演出はゴルジ工房の林貞之さんがやりました。
それが学校の外で踊った作品としては初めて?
そうです。自分が出た記念碑的なものですが、そういうことを学校を卒業する時にやったので、なんだかもう、こんな感じで踊りを続けていければいいかなと思ってしまった(笑)。
これまであえて言っていませんが、卒業して3年ぐらいはダンサーとしてもたくさん踊っていました。何かのイベントの時にちょっと出演させてもらったり、そうするうちに小作品がたまってきていたんです。
そんな時、東京・神楽坂のセッションハウスで「ダンスシアター21」という、夜9時から公演すると会場を安く借りられるという良心的な企画があったんです。そこで、これまでの作品の総集編みたいな感じで公演をしようということになりました。95年1月13日の金曜日、「イデビアン・クルー」と名前を変え、『イデビアン』という作品で旗揚げ公演をやりました。
『イデビアン』はまさに、その後の井手さんのスタイルを集約したような作品でした。デビュー作なのに、けっこうたくさんの人が出ていましたね。
学生時代のメンバーを中心に25、6人でやりました。実は、この作品をやろうと思ったのは、それでダンスをやめるつもりもありました。学生時代から続いていた「イデビアン」(結成91年)自体の卒業公演みたいな意識で、最後の記念に1回、大きくやらせてもらってやめようかなと。そうしたらすぐにドイツ・エアランゲンのARENA FES 95でこの作品をやってみないかと言われて、自腹を切って旅行がてら公演に行きました。そして帰ってきたら、パークタワーから「ネクストダンス・フェスティバル」で3年間やってみないか、と誘われて。あら、どんどんやめられなくなっちゃったノノみたいな感じです(笑)。
それ以来、年に2本のペースで新作を発表し、「イデビアン・クルー」の結成4年後には、世田谷パブリックシアターで『コッペリア』(99年)という大作をやることになった。
『コッペリア』を選んだのは、バレエ作品をそれまでずっとやりたかったというのがあります。パークタワーは劇場というよりもホールですが、世田谷パブリックシアターはプロセニアムの劇場ですから、クラシック公演という感じの、なにかでかいことをやりたかったんです。僕自身学生時代にバレエを習っていましたし、卒業後もよくバレエレッスンを受けに行っていて、チャイコフスキーも好きでした。
『コッペリア』自体、物語は単純ですが、曲がいい。僕あまりストーリーをくっつけるのは得意ではないので、ただ音に合わせて動きたいと思いました。あのリピートしているような曲を聴くと段々怖くなってきますから、「あ、ここに岩下徹さんが出るとおもしろいな」とか。単純とはいえ、『コッペリア』をやるからには話の筋を通さなければならない。それで、あらすじだけ通しておけば、あとはダンスに集中して遊んでもいいかな、といったイメージでした。体育会系ではないのですが、群舞の振付はきちんとそろっていたと思います。あの時にカンパニーに新人を3人入れて、それまでとまったく違うところからつくりはじめましたが、振りや構成自体は、そんなに時間はかかりませんでした。むしろ曲の使い方、曲の並び替えなどの踊り以外の構成には時間をかけました。
あのダンス的な動きは、井手さん自身が編み出した動きで、ダンサーたちの出や入りのフォーメーションなど、かなり緻密にやっていましたね。それで、井手さんのいいところは、一つの作品の評判が良くても、それを引きずらずに次の作品ではまったく違うことをやる。2000年にパークタワーでやった『不一致』は、がらりと変わりました。
ノストラダムスの大予言で99年に地球は滅びるという噂を信じていて、そのとき自分は絶対死んでしまうんだと思っていました。メモリアルで自分の葬式をしたくて、『不一致』をつくりました。でも、99年をすぎて「何ともなかったね」ということになりますが、やっぱり葬式はやろうと。それと、畳の上で踊りたいという希望がずっとあって、あの作品では、リノリウムではなく、床全面を畳にしました。背景には葬式で使う白と黒の横断幕を張り、登場人物は喪服を着て踊りました。あれは自分の葬式だったので、僕もダンサーとして出ました。もうこれで終わりにしよう、と。あと言葉の上で「性格の不一致」という響きが何となくずっと気になっていて、そのタイトルで作品をやりたいなと思い、最初からこのタイトルを決めていました。
葬式の風景ではありますが、音楽はラテンミュージックを使うことにこだわりました。そもそもラテンミュージックが好きなんです。やっぱり好きな音楽は全部聞きたいし、自分が演じるんだったら全編通してやろうかなと。でも、さすがに全部はキツかったので、2曲ぐらいは現代音楽、その他にアストル・ピアソラのタンゴの曲を使いました。
2002年にイギリスのダイバージョンズに振り付けた『Unspoken Agreement』(2002年1月)はさらにがらりと変わって、物語的なものや意味を排除して、ダンスに徹底している感じがしました。
ダイバージョンズはウェールズのカンパニーですが、そこが以前から外部から振付家を呼んでレパートリー作品をつくる取り組みを行っていました。ちょうど彼らが振付家を探している時に、日本のセゾン文化財団がある見本市でブースを出していて、そこでたまたま『不一致』のビデオを見たらしいんです。こいつは面白い、ということになり、最初はウェールズで踊らないかという話がありました。僕は振付家として活動していると伝えると、向こうのプロデューサーが「振付・演出でもウェルカムだ」ということになり、すぐに決まりました。
彼らには『暗黙の了解』を振り付けました。でも、イギリスではタイトルが英語で『Unspoken Agreement』となってしまい、なんだかしっくりこなかった。そのときは、後でこれを絶対日本でやってやる、と思っていました。なんでしょう、なぜかタイトルにはこだわりがあるんです。作品をつくるときは必ず先にタイトルがあります。僕は根っからの日本人ですが、例えば「ちょうちん」という平仮名を見ると、文字が動いているように見える。うねりが好きだし、語感や文字の形がなんだか動きに見えてくるんです。あとは響き。別にラリっているわけではないですよ(笑)。それで2002年4月に日本版として、『IDEVIAN LIVE five「暗黙の了解〜後編〜」』(東京・森下スタジオ)をやりました。
ウェールズでは、全然違う環境の人たちに振り付けたわけですが、ソロやデュオの部分と、群舞とのズレやユニゾンがすごく巧かった。時間の流れの中で、空間をどう構成して、どのような変化をつけていくか、ということに関してはすごく神経が行き届いていますね。
それはよく言われます。細かい部分で注意しているところもあるんですが、あまり気にしていません。振付をすること自体早いんですよ。パっとできてしまう。それで、まずベースをつくってから、「あ、ここもうちょっと」などと付け足していったり、後にゴチャゴチャと手を入れたりすることはあります。
ダイバージョンズをやっていた頃には、お芝居の振付もやるようになっていて、役者さんに振り付けることに慣れてきていた時でした。逆に本物のダンサーを振り付けることに、最初すごく勇気がいりました。彼らは小さい頃からずっとトレーニングをしていますから、すごく踊ります。ちょっと休めというくらい動いています。それで、彼らに振り付けると、どうしても“踊り”にしてしまう。僕の振りに慣れていないのは当然ですが、なんでも踊りっぽくなってしまう。それがすごく嫌で、僕にとっては毎日が戦いでした。通訳は週に1度ほどしか来ませんでしたから、辞書を引きながら話をしました。
ウェールズでは最初、2001年の5月に1週間ほどワークショップを行い、それから12月〜1月にふたたび出向きました。12月に彼らなりのとらえ方で振り付けたものを見せてもらって、それからどんどん壊していくという作業をしました。それこそ作品のベースは2週間でできました。
最終的にはまあ僕なり綺麗になったとは思います。でも、能ではありませんが、僕は下に重心がくるのが好きなんです。でも西洋の人は腰が高くて重心が上にある。それがもう僕にとって落ち着かない感じで。彼らが踊ると良くも悪くもすごくダンシーな感じになる。あと、小さい動きがヘタだなと思いました。それはまあ環境もありますが、彼らはオーバーアクションに近い大きな動きに慣れているようです。もっとミニマルに動く、ということの意味が伝わりにくい。
僕は、日常的な「仕草」や人の「癖」などがたまに格好よく見える時があって、それが振付だと思っています。例えば、日本でウケるちょっとした仕草は、外国では通じないけれど、逆にイギリスやドイツでは「こういうシチュエーションではどういう動きなの?」と尋ねて、「ああ、それは日本と似ているね」というようなところからつくっていきます。
仕草といえば、僕は小さい時から人を見るのが好きでした。女の人が多い家庭だったというせいもありますし、ウチの家にはたくさん人が行き来していたので、なぜかいつも人の多いところにいたんです。本当は一人でぽつんとするのが好きだったりするんですけど。とにかく、人を見ると、なんだかその人の動きが見えてくる。背後霊のように動いている。そういうのってありません? 人間ウォッチングのような。
だから、まったく初対面の人でも、この人はこの動きが絶対面白いと思いながらイメージを全部つくってしまいます。ダンス学校時代に級長をやりましたし、今でいうコギャル系みたいな人たちを150人ぐらい仕切っていましたから、大人数に対応することにも慣れていました。
なんだか、その不満足な部分が実現するようなかたちで出てきたのが『関係者デラックス』だと思います。すごく演劇的でした。
あれはそもそも、リノリウムを斜めに張りたかったんです。その前に、山口のYCAMでのワークショップをした際に、同じような舞台構造で一般の人を振り付けて踊る発表会をやりました。その時から、イデビアンの本公演で同形式のもっと密度の高いものをやりたいなと思っていました。
『関係者デラックス』という名前もあらかじめ決めていて、音楽はチェンバロなどのバロック音楽だとすごく強くなるだろうなと思っていたんです。バロック音楽をあれだけたくさん使ったのは初めてです。チェンバロはある意味陰険な感じがしますし。『4台のチェンバロのための協奏曲』が一番好きなんですが、よく調べてみたら3台、2台とだんだん少なくなってくる分、(曲の力が)強くなる気がしました。
この作品では、まず三角地帯で小さく動く、そしてそこから拡がっていく構成にしました。それと、みんながサザエさんのような家族だったらおかしいかなと。ユニフォームもちょっと昔っぽくして、ちょっと言えば港町の一般家庭ふうで、洋風かぶれでシャンデリアはあるが、畳の家に住んでいるような人たち。アメリカではなくて、ヨーロッパのほうにちょっと興味がある会社員の一家、みたいな感じでやりたかったんです。お父さん像としては、そんなにパーフェクトじゃないほうが面白いと思ったので、ダンサーじゃなくて役者を使ってみようということで、佐伯新を使いました。
日本のわりとどこにでもありそうな家族の頭上にむなしく輝いているシャンデリア、みたいなのがなかなか面白かった。それに比べて2005年の『迂回プリーズ』は、独特のつくりかたでした。おそらく井手さんの中では明瞭なコンセプトがあるんじゃないかと思ったのですが。
コンセプト? どうしよう、なんもないんです(笑)。現実的な話になりますが、パークタワーがなくなるという話を聞いたので、ただ単純に前からやりたかった横長の舞台を一度つくりたいと思いました。この作品は、ダンサーたちがボーイスカウト、ガールスカウトのような格好をして横一で行ったり来たりしますが、当初は全員婦人警官の制服にしようと思っていたんです。そうすると「迂回してください」みたいに使える。
でもそれだと、わかりやすすぎるかなと思って、家の近所にあったガールスカウトハウスから思いついてあのユニフォームにしました。それで、赤のラインなどを入れて衣装つくったのですが、劇場に入って赤い照明が当ると戦闘服っぽく見えて。そんなことは考えていなかったんですが、戦争のイメージに見えるという人もいましたね。こういう風に言ってみると、少しはコンセプトがありますね(笑)。
ダンス以外の演劇の人たちともコラボレーションもたくさんやっていますね。
演劇の振付は、正直言うと、いつもお話しの設定自体がわからないままやっているんです。いつも台本読まないんで。読むと逆につくれません。とりあえずどういう雰囲気で、踊り始めるまでにどういう芝居があって、というところから。芝居の途中に「はいここでダンスシーンです」というのではなく、あくまで自然な感じにしたい。そこだけ変なふうに突出しないように日常的な動きを多用してつくります。芝居の流れに馴染むようなものを考えます。
井手さんは2005年でちょうど、「イデビアン・クルー」としてダンス活動を始めて10年目でした。
はい。近年は自分の振付作品には出ていなかったのですが、10年の記念として、『迂回プリーズ』には自分から出ると言いました。また、3年ほど前からずっと依頼を受けていたソロ公演の『井手孤独【idésolo】』を実現させました。もともと踊るより振付家としてさまざまな作品をつくっていく方法をとってやってきたわけですが、2005年はそういう年にしたかった。だからといって、これらかずっと出るわけではないですが。
『井手孤独【idésolo】』については、ソロだし、あまり深く考えなくていいかも、と。素のままの自分がモルモット状態になっているところを観に来て喜んでくれるお客さんがいればいいじゃん、みたいな感じでやったところがあります。イデビアン・クルーでやる作品のようなテーマ性などはあまり深く考えなかったかもしれません。
これからのプランは?
9月には4年ぶりに、世田谷パプリックシアターでの、イデビアン・クルー新作公演があるので、それは今から楽しみです。
それと、自分としては、今もの凄く勉強がしたい。変な言い方ですが、学校など何かに束縛されたいんです。ダンサーではなくて、振付家としてどこか海外に行けるところはないかなあと考えています。若いころはワンパッカーでしょっちゅうヨーロッパに行っていたのですが、イデビアンや芝居の振付を始めてから行けていません。例えば、ハワイでフラダンスをやってみたい。フラダンスは、本当は男性の暴力的な激しいイメージをもつダンスなんですよね。神の舞みたいな、一つ一つ言葉があるちょっと宗教クサイ踊りをね、勉強したい。というか、日本から離れたいっていう願望があるのかな……。

『井手孤独【idésolo】』
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『イデビアン』
(1995年)
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『コッペリア』
(1999年)
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『不一致』
(2000年)
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『IDEVIAN LIVE five「暗黙の了解〜後編〜」』
(2002年)
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『関係者デラックス』
(2004年)
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『迂回プリーズ』
(2005年)
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