- 大鼓は小鼓を大きくした形で、膝にのせて打ちます。音色は小鼓と全く異なり、「カーン」という金属的な鋭い音がします。小鼓との楽器の違いを教えていただけますか。
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大鼓と小鼓は、タイプは違いますがどちらも非常に繊細な楽器です。(木や皮/革などの自然素材でつくられている)和楽器は湿度などの環境に音が大きく影響されますが、小鼓が演奏しながら唾を付けたり、息を掛けたりして少し潤わせておくことが必要なのに対し、大鼓では逆に乾燥が大事になります。焙じるといいますが、「カーン」という高音を作るために2時間ぐらい皮を炙って締め上げてから引っぱたく。大鼓の皮は馬ですが、火で炙るということは皮の細胞はどんどん壊れていく。しかも締め上げるので、皮が伸びてへたってしまう。4、5回使うと音が下がって使えなくなるので、どんどん買い換えます。その日、その日の湿度も影響しますから、つまり同じ音は二度と出ません。
大鼓を打つときは、腰、背中、胸という身体の芯を中心にして、指先に力を入れずに振り抜きます。手首の力を利かせる、スナップを利かせる感じです。体の芯がしっかりしていれば、後は振り抜くだけ。大鼓の音は後ろに抜けます。胴という筒の部分を通って裏の皮を抜け、舞台の後ろにある松を描いた鏡板に反射する。観客のみなさまは、この反射した音を聞いているわけです。 - 「四拍子」といわれる囃子は大鼓、小鼓、太鼓の3つの打楽器と笛で構成されています。能という音楽劇の中で、「四拍子」はどのような役割を果たしているのでしょうか。
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“役者の声なき声”がオペラのオーケストラ演奏だとすると、能の囃子もそういう役割に近いと思います。単なる伴奏ではなく、劇音楽として、我々の「よー」とか「ほー」といった抽象的な掛け声と、大鼓の「ちょん」、小鼓の「ぽん」、太鼓の「てん」と笛の「ひー」の4つの単純な音の組み合わせによって、役者の声なき声を埋めていく。つまり、登場人物の魂の叫びを奏でるのが、能の四拍子の役割だと考えます。
我々は演奏することを「囃す」と言いますが、それで言うと、音楽的に囃していくという役割と、主役を務めるシテ、脇役のワキに次ぐ“第三の登場人物”として、言葉の不足部分を掛け声で囃していくという役割のふたつがあるということです。 - 大鼓の掛け声は、ある時は劇中の効果音のようにも聞こえ、ある時は非常に抽象的な世界にトリップさせてくれるとても魅力的なものです。
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舞って謡うのがシテの役割ですが、シテが言葉で言い切れない部分を、まずは「地謡」というコーラスパートが語って埋めるわけです。ギリシャ悲劇のコロスみたいなものですね。地謡が十分説明しているから、囃子の楽器チームは同じように言葉を使って演奏する必要はない。ただ、地謡の謡う言葉にも限界があり、シテの謡う言葉にも限界がある。そこで我々が発する抽象的な掛け声が、言葉なり動きなりに現実味を持たせる役割を担うわけです。
具体的な例では、雨の風景と雪の風景を掛け声の音の使い分けで表すこともあります。高音、中音、低音の声をいかに使い分けて雰囲気を出すかです。あとは、歌舞伎役者の九代目団十郎が言っているような「腹芸」じゃないですが、自分で「雨」と念じながら雨の音を声に出していくという工夫もします。 - オーケストラに例えると、能ではシテが指揮者の役割をしていると言われます。とすると、四拍子はシテの指揮に従って演奏しているということでしょうか。
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シテが主役であることは間違いありませんが、実際はシテに従って演奏するということではなくて、四拍子と地謡が、シテ、ワキ、狂言という立ち方、つまり役者を動かしていくという感じです。四拍子のコンサートマスターが大鼓で、地謡のコンサートマスターが地頭になります。舞台ではこの2人のコンマスが全体を引っ張っていきます。
シテは演技をしているので、舞台上で囃子方や地謡に言葉で指示することは出来ません。そこで、シテが発した謡の位取りや、所作そのものを見て、我々が声と声で信号を出し合うんです。位取りというのはペース配分ですね。シテの出すその日の位取りは、体調、精神状態、積み重ねてきた稽古による「この曲をこうやってつくっていこう」という思いによって影響をうけますから、同じ曲を25日間連続でやっても、同じ時間で収まることはまずありません。 - 能楽師は一度も一緒に稽古をせず、「申し合わせ」といわれるたった1回のリハーサルで本番を勤めるそうですね。わずか1回のリハーサルで完成度の高い舞台を作り上げるというのが、とても不思議です。
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それが出来るのは、六百何十年にわたって受け継がれてきた台本があるからです。能楽は完全分業制で、シテ、ワキ、狂言、囃子の4つの職業に分かれています(囃子は楽器毎に家が分かれている)。それぞれの家に六百何十年の伝承があって、楽譜、演技法などのメソッドが伝わっているわけです。それぞれに伝わってきているものを、それぞれ自分のパートだけ稽古をして、リハーサルで1回合わせる。それだけで十分本番が出来るような修業を幼い頃からしてきているわけです。逆に言えば、こういうぶっつけ本番に近い状態でできるメンバーしか残れないということでもあります。
ちなみに、私の稽古は、大鼓を叩くのではなく、謡を謡うことです。父から教えられた方法ですね。まず謡を完全に丸暗記します。それから曲の位を掴んでいきます。過去に打った経験の積み重ねから、曲のイメージを確かめていくわけです。この他、人の舞台を見ることも稽古として大事なことだと思います。見ることで自分だったらこうやると考えますから。
大鼓を打つためには、笛、小鼓、太鼓、謡、欲を言えばシテの動きまで、全体を把握する必要があります。笛の気持ちを知らないと舞は打てない。小鼓の気持ちを知らなければ、どうやって大鼓を受け止めてくれるんだろうと不安になる。大鼓が「旦那」で小鼓が「奥さん」と夫婦にたとえられるぐらいの関係ですから、旦那の気持ちだけの一方通行じゃダメなんですね。女心をわからなければいけない。
大鼓を1人で打っても大した勉強にはなりませんから、本番まで打ちません。専ら、曲をどう解釈して打つか、掛け声をどう掛けるかを考える。技術的なことは手が覚えているので、手は本番までとっておきます。大鼓という楽器は、打てば打つほど手が消耗します。今の舞台数を考えると、稽古で打って手を消耗させたくない。本番で潰す、という覚悟です。 - いつ頃からそういう意識になったのですか?
- 手を大事にしなければと思ったのは7歳の頃です。技術は獲得しなければなりませんから、高校ぐらいまでは猛烈に稽古しましたし、今は「指皮」というプロテクターをはめて打っていますが、10代の頃は指を鍛える意味もあって素手で打ったりしました。稽古でこんなに打っていたら手が壊れちゃう、と思ったのは16歳ですね。
- リハーサルの時に、自分の中で組み立てていたイメージとシテ方のイメージがずれているということもあると思います。どうなさるんですか。
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その場によります。力のある、みんなに認められている役者なら、そのシテの意向をくむ。あくまでシテが言葉を発さないコンダクターですから、その意向を聞くのが大前提ですが、納得がいかない場合には、こちらから注文をつけることもあります。でも、実際の舞台を動かすのは、曲を仕切る大鼓と地頭です。
能のリズムの取り方は8拍子で、洋楽でいえば4分の4拍子か4分の8拍子ですが、大鼓は奇数拍を担い、小鼓は偶数拍を担っています。ということは、大鼓は出だしを担当しているわけです。5拍、8拍というお尻の拍は小鼓が担当している。出だしは大鼓、受け止めるのは小鼓なので、出だしの「よーっ」という声でも、音でも、その質、打ち込みの音、声と音の間の“間”もすべて大鼓がきっかけをつくるわけです。だからやっていて面白い。
四拍子の中で、小鼓は音に肉付けする役。太鼓は表拍、裏拍を倍速で打っていて、リズムを支配する役で、言ってみれば心臓みたいなものです。笛は、小鼓が肉付けをするのに対して音を彩る。そして、大鼓がすべてのきっかけとそれぞれの役割の間の骨組みをつくる。ですから、大鼓がしっかりしていないと、その1曲は成り立たちません。
- 掛け声はとてもノイジーで打楽器音に近い。亀井さんは工夫をして掛け方を変えたりしていますか。
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私が一番工夫しているのは、実は、音よりも掛け声のほうなんです。掛け声は、謡と同化しなければならない部分が非常に多い。たとえば、音には、上音、中音、下音、日本古来の言い方をすると「呂中干」がありますが、次に上音が来る謡のフレーズが来る前には、私のほうから上音を発して、「はい、次は上音の謡だよ」と知らせるような掛け声を掛ける。出だしを担当する大鼓として、掛け声でもその役割を意識してやっています。謡が上音であろうが、こちらは下音で掛けような、引っ張り合いをすることもあります。謡に関係なく、抽象的にフラフラさまようような掛け声を出すこともあります。どう掛けるか、実は試行錯誤でやっています。
昔の師匠方には「お前の掛け声の使い方はあざとい」「そんなにクッキリ音を何色も使い分けなくて1つの音でいい」と言われることもある。私に言わせれば、師匠方も若い頃に通って来た道だと思います。亀井忠雄の若い頃の録音を聴いていたら、場面によって声音を変えたりしているわけです。年を取ってくると試行錯誤でやってきたものが、いい意味で削ぎ落とされる。まあ、40半ばまでは肉付けじゃないですかね、舞台の世界は。50を過ぎてから削ぎ落とされてようやく光ってくる。教えられたものをそのままやるのは、10代のレベルですよ。
- 能や歌舞伎の方は幼少から修業がはじまるので、亀井さんの年齢でもう四半世紀以上のキャリアがあります。
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そうですね、稽古を初めてからもう30年ですから。スポーツ選手は私の年齢あたりがピークで、あとはどんどん下がる。ところが我々はこれから歳をとればとるほど上がっていくのですから、楽しみです。死ぬまで自分がどういう役者だったかわからない、そういう一生のスパンで修業できるものに出会えたことは本当に幸せだと思います。
それだけではなくて、老いの美学というものもあります。世阿弥は「老木(おいき)に花の咲くが如し」、つまり、枯れた木にも花が咲いたらいいなあ、と言っています。70を過ぎても花が咲くとは、昔ほど声も出ない、動けないけれど、なんて抑制された、削ぎ落とされた仕舞を舞うのだろうと感動できる。能はそういう見方が出来る世界です。世阿弥は『風姿花伝』の「年来稽古條々」で言っています。34、5歳までに、ある程度の名声、技術、人格を伴っていなければ後は落ちるだけ、アンタはそこでだから諦めなさいと。私はこの第一の目標を目指して修業してきましたが、今は次の40半ばを目標に肉付けをしていきたいと思っています。
- 亀井さんはご自分のことを演奏家ではなく「役者」と言われていますが、なぜですか。
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囃子方という意識を捨てたいんです。舞台に上がっている以上は、大鼓という楽器を借りて曲を表現している役者だと思いたい。お客様に見えている所で演奏している以上、目線、手の出し方、姿勢、顔の表情といったものすべてで表現している。大鼓ってお客様から見て一番目立つ所に座っていますから、所作ひとつとっても美しくなければダメなんです。所作をする、動くということは、もう役者なんだと思います。
- 亀井さんのご家族はみなさん囃子方ですが、3歳で習い始めたのはご自分の意思ですか。
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両親に「前に座れ」と言われて、そこからです。なんせ母の胎内にいる頃から能を聞き、歌舞伎を聞き、ですからね。その頃の母は国立劇場養成課の歌舞伎の鳴り物研修の講師をし、自分の素人弟子、田中流の一門の稽古をしていた。さらに自分の旦那の能を見に行き、自分の親父の歌舞伎を見に行き、下座音楽も打っていましたから、もの凄い胎教だったと思います。
その上、母は、私たち兄弟が小さい頃から歌舞伎や能を度々見に連れて行ってくれました。すぐ下の弟を背負い、一番下の弟を抱き、私の手を引いて。歌舞伎のオーケストラボックスにあたる黒御簾の中や客席の一番後ろから、「静かにするんですよ」と言われて舞台を見ました。かけらでもいいから記憶に残ればと、母が選んだ舞台だったのだろうと思います。4歳の頃に歌舞伎座二階席の中から中村歌右衛門の「道成寺」を見た時は、本当にいつまでも見続けていたかった。小さいながらもオーラを感じたんでしょうね。そうして見た歌舞伎の二代目尾上松緑、市川猿之助、能の先代観世寿夫から知らず知らずのうちにいろいろなことを学んだと思います。
母が歌舞伎囃子の家元だったので、そちらの道に進んでもよかったのですが、能を選んだのは、父の大鼓を打っている姿が格好良かったから。小さい頃は大人用の楽器しかありませんから抱えて打ったり、左手を大鼓に見立てて右手で打つ真似をしたりしていました。同時に、3人兄弟で、先代の観世銕之丞先生のところに入門しました。私が3歳で、真ん中の田中傳左衛門が2歳、田中傳次郎は0歳の時です。銕之亟先生には謡と仕舞を学びました。私の能の基本はここで培われたものです。
先ほど私の稽古は謡だと言いましたが、謡が9割、掛け声が1割。まず能の基本である謡の言葉、メロディー、そして所作を、自分が意識する前から身体に刷り込ませることが大事で、これが出来ているかいないかで、能楽師として一人前になれるかどうか決まります。潜在意識の中にあるもので動くことが出来ないと、能の世界では生きていけないんじゃないでしょうか。
- まさに英才教育ですね。遊びたい盛りでしょうに。
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部活動はやっておりましたが、小学校、中学校と遊んだ記憶はないですね。長男は親父に何かあれば家を支えていかなければならない、という思いが小学校の頃からずっとありました。だから早く上手くなって舞台に出て稼ぎたかった。
父は26歳で人間国宝だった自分の父を亡くしています。お祖父さんは舞台で倒れて亡くなったのですが、曲の前半で倒れたから、父が後半から代わって大鼓を打ちました。そんな話を幼稚園の頃から聞かされ、小学生の時には母に「ヒロ、お父さんに何かあったら、アンタが代わらなくちゃいけないんだよ」と言われていましたから。そういう意識で稽古もするし、舞台に臨んでいました。
父、つまり私の大鼓の師匠のお供で鞄持ちをして、楽屋に行って着物を着せたり畳んだり、楽器の準備をしたり。我々の世界では「働き」と言いますが、小学3年生ぐらいの頃からずーっと土日は「働き」に行っていました。行けるときは平日の夜も。どこに控えていればいいのかといった楽屋の作法や、大鼓の皮をどう焙じればいいかなど、楽屋働きをしながら身につけました。
楽屋では漠然と働きをやっているのではなく、そこで色々な曲を見聞きするわけです。自分の師匠が出ている間は、その後ろに座って舞台を聞く。これが「後見」というやつですね。あの頃は、父が例えば月に十何番能を打つのであれば、せめて1番か2番は暗記して、後ろに座ってやろうと思っていました。そうすると1年で12曲覚えられるでしょ。学校が終わって家に帰ると、晩ご飯の前に父に「30分稽古だ!」と言われるわけです。その30分の間、必死でした。礼儀や能に向き合う時の態度は母親から、能の技術は父親から、先代銕之亟先生には能の厳しさ、難しさ、楽しさを教わった感じですね。 - 中学生・高校生時代はいかがでしたか?
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中学3年生ぐらいから自分の本番の舞台が増えてきて、高校1年生の時には1年間で舞台を20カ所ぐらい勤めていたと思います。これは年齢からいうと多いほうで、高2の時には100カ所、高3で120カ所になっていました。しかも、毎回違う曲ですから大変でした。能だけで120番、その他に舞囃子もありますから。万が一父が倒れてもとりあえず間違えずに1曲勤めおおせるぐらいは出来るようになってきたと実感したのはその頃ですね。
その後、東京芸術大学に進み、オペラとかミュージカルなど他ジャンルの音楽に接するようになりました。また、大学で長唄、箏曲、尺八、日本舞踊など、同世代で同じような志をもっている連中と知り合えたのがすごく良かったと思います。彼らが考えていることを見たり聞いたりして、能について客観的に見る目も持てましたし、「これは能でやる必要があるのか」といった疑問も出てきました。たとえば、能の『安宅』と歌舞伎の『勧進帳』では同じ題材を扱っていますが、私は『勧進帳』のほうが面白いと思っています。基本的に、ドラマ性のある劇的な芝居は、能より歌舞伎のほうが面白いんです。歴史的には、世阿弥の作った幽玄本意の曲にお客が少し飽きてきたというところから、『安宅』や『船弁慶』のようなドラマ性のあるものを題材にした能が生まれてきた経緯があります。室町中期・後期あたりから、お客の好みに合わせて見て聞いて楽しい曲が生まれるようになったわけですが、能が能として成り立っていくためには、歌舞伎に負けるような題材ではなく、『高砂』のような、力業一辺倒で押していく曲で勝負するか、『井筒』や『定家』のような、能にしかできない人間の内面に迫るドラマ性をもった曲で訴えたほうがいいと思います。
- 歌舞伎のほうが面白いといわれたのには驚きました。何につけ、能が本家みたいな言い方をされることも多いですから。
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能楽界のそういうところは、私が嫌だなと思っている点のひとつです。あくまでウチらが芸能の本家だ、みたいな。我々の先生、大先輩が太平洋戦争後ゼロから日本の伝統文化をつくり直してきたのに、それを忘れて、能は能だ、歌舞伎は歌舞伎だ、文楽は文楽だ、みたいな風潮がありますが、それはとても嫌ですね。能だって雅楽やお神楽を取り入れたり、幸若舞や田楽といった呪術的な祈りの芸能を取り入れたりして出来たわけで、能もパクリの芸能だと思います。離見の見じゃありませんが、今は能楽界を客観的に見ることが必要なのではないかと思っています。
幸いな事に私の体の半分は歌舞伎ですし、せっかく歌舞伎と能の血を半分ずつ持って生まれたのだから、じゃあ兄弟3人で何か、能の良いところ、歌舞伎の良いところを掛け合わせたものを作り続けていこうと始めたのが「三響會」での企画公演です。日常生活では、互いの演奏について突き詰めた話はしませんから、三響會で一緒に仕事をして初めて深い話をするようになりました。それで分かったのは、歌舞伎も能も、決してパクリの芸能ではなく、同じ題材を、違う価値観、違う視点で扱っていることでした。
- 能は今の若い人が見るにはテンポが遅くて、ちょっとしんどいところがあります。どうしたら同世代の観客の共感を得られると思いますか。狂言師の 野村萬斎 さん、囃子方笛方の 一噌幸弘 さんと3人で2006年に始めた企画公演「能楽現在形」も同世代に能の面白さを発信しようという、そうした試みの1つだと思います。みなさんが主役であるシテを指名することをはじめとして、毎回、斬新な試みがあります。
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技術的に文句をつけようがないメンバーばかりで見せることが出来たら、誰が見ても良いものになっているはずです。それが基本だと思います。それと、自分で言うのもなんですが(笑)、下世話かもしれないけど、ビジュアルの良いメンツが集まったらこれはこれで美しい能になります。
あとは公演のやり方にも工夫できることはたくさんあると思います。開演時間を遅くして夜8時からのナイトシアターにするとか、後は1回公演ではなく、1週間の連続公演というのも考えられると思います。ただし、一期一会という1回性を重んじてきた能楽師の体質がそれについてこられるかどうかですが。
「能楽現在形」は、「橋の会」の企画ではじまりましたが、そのコンセプトは「1人で600〜700席の能楽堂をいっぱいにできる同世代3人の催し」というものです。内容はわりと尖ったことをやっています。技術もさることながら、これだけ集客できる能楽師は我々の世代では他にいないのが実情なので、若い世代にも続いて欲しいのですが、現状では難しいと思います。それで、私は今、次の世代のシテ方で素質のある子を育てています。能は、室町時代の世阿弥のようなスターがシテ方で生まれないと未来が開けない。能楽界の中心人物はシテですから。
- 大鼓の楽器としての可能性についてはどんなことを考えていますか。民族音楽との共演など試みる方もいますが、亀井さんはどのようにお考えですか?
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全く興味ないですね。能楽師大鼓方と名乗っている以上は、大鼓のソロなんてあり得ない。やはり笛、小鼓とのトリオ、太鼓を交えたカルテットの中で生きるのが囃子方の生き様だと思います。大鼓だけ飛び出して、他ジャンルとセッションするのはあり得ないですし、可能性を探るなどというのもお門違いも甚だしいと思っています。
ただ、2006年に世田谷パブリックシアターで上演した野村萬斎構成・演出の『敦─山月記・名人伝─』には大鼓単独で音楽を担当しました。大鼓は言葉を囃す楽器でもありますから、そういう意味で『敦』の企画に共感して音楽を担当しました。同じく、言葉を囃すということで朗読とやったこともあります。朗読の中で大鼓を打つのは難しくて、言葉の句読点の間に音をもっていくとか、朗読をかき消さないボリュームで囃すなどの意識を働かせたりするのが勉強になりました。
どんな仕事をしても根底には「演劇の中の音楽」であり続けたいという気持ちがあります。日々の稽古を怠っていなければ、自分の音楽性は日々磨かれていくはずだと信じたいですね。体の使い方でも、自由闊達でありたいという考え方でも、「天地縦横」、これが私の演奏の目標です。
- 新作能の作曲(作調)もなさっています。
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能楽では、曲を作ることを「作調」といいます。作調は曲の調べをつくるという意味です。これまで二十数回はやっています。シテ方の梅若六郎先生の『空海』、作家の瀬戸内寂聴さんの『夢の浮橋』や『蛇(くちなわ)』など、面白いものが出来たという手応えもいくつかありましたが、新作能はやはり難しいと思いました。
能は、動きでも音楽でも、広がりという意味では限界があって、歌舞伎のように装置や振り付けで凝ったり出来ず、現代を題材にするのはなかなか難しい。しかし、例えば寂聴さんがエロスをテーマにされているように、室町時代でも平成の世でも変わらない人の日常に題材を求めるのであれば、可能性はあると感じました。
それと、600年前からあるんじゃないかと思わせるような作調法、作舞法でやったほうがいいと思っています。「能楽現在形」でも新作をやってほしいという要望がきていますが、我々3人はもう少し古典の名作、名曲をつくり上げ、お客様にお届けする作業をしてから新作をやりたいと思っています。たぶん10年以内にはお見せできるのではないでしょうか。
- それは楽しみですね。「能楽現在形」の3人で海外公演をする計画はありませんか。今いちばん尖っていて、ビジュアル的にも良いみなさんですから、新鮮な能の面白さを海外に届けられると思います。
- やりたいですね。2年先まではほぼスケジュールが決まっている上に、3人そろって忙しいですから、今から計画しても3年後か4年後かということになるのでしょうが、若々しい能の魅力を外国の方にも伝えたいと思います。
獅子虎傳阿吽堂vol.4 和のリズムを楽しもう!
[日時]3月27日(木) 昼:14時開演/夜:19時開演
[会場]世田谷パブリックシアター
[チケット]全席指定:5,000円
[内容]
◎囃子レクチャー
亀井広忠・田中傳左衛門・田中傳次郎
◎「松の翁」
立方:中村梅枝(歌舞伎役者)ほか
◎「三番三」
シテ:茂山逸平(狂言方)ほか
◎「天請来雨」
太鼓:英哲風雲の会(上田秀一郎・はせみきた・田代誠・谷口卓也)
◎「供奴」
立方:尾上青楓 日本舞踊)ほか
◎「獅子〜髪洗い〜」
亀井広忠・田中傳左衛門・田中傳次郎・福原寛
公演詳細
https://setagaya-pt.jp/bf2022/theater_info/2008/03/vol4.html
三響会ホームページ
https://www.sankyokai.com/