『To Belong -dialogue-』
- 『To Belong -dialogue-』は、インドネシアのスラマット・グンドノ(音楽家)とマルチナス・ミロト(舞踊家)、日本の石川慶(映像作家)、森永泰弘(音楽家)等が、北村さんのディレクションでコラボレーションしたマルチメディア・ダンス作品です。北村さんが長年リサーチしてきたインドネシアの文化が色濃く反映されていました。
- 一般的にはインドネシア=バリというイメージが強いですけど、外国人が想像するステレオタイプではないインドネシアを出したかったんです。私も友人から『今度の作品はバリ舞踊やケチャが出てくるの?』と言われていたので、この作品では多様性を見せようと思いました。
- コラボレーションの難しいところですね。その国の文化の魅力は伝えたいが、お国紹介になってもしょうがない。
- そうなんです。コラボレーションといっても『二つの国が力を合わせて一緒にこんなことができました』というだけではないはずだろうと。彼らが彼らのままで、私たちが私たちのままで、お互いの違いを認識しつつ成り立つ舞台が必要だと思っていました。……ただ言うほど簡単ではなくて、何度も破綻しかけました(笑)。不思議ですね。昔ダンスを始めたとき、ヨーロッパ文化にはスッと入っていけたのに、アジアの文化にはそうはいかないんですから。
- アジアは地理的には近いのに、文化的には遠い存在かもいれませんね。
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リサーチをすればするほど異物感が増してきて、これは何だろうと(笑)。彼らが身につけている伝統舞踊の揺るぎなさを見ると、憧れと同時に「ちょっとは疑問とか持たないのか」と意地悪な気持ちになったり(笑)。しかもスピリチュアルなことも、日常に普通に溶け込んでいる。論理的ではないのに、揺るぎない。そこに大きな魅力を感じました。自分にないものがあるな、と。
私が自分のカンパニー・レニ・バッソで10年間やってきたのは、まさにヨーロッパ式の論理との戦いでしたから。コンセプトを研ぎ澄まし、ストイックにつくっていく。「明確に筋が通っていない作品はだめだ」と念頭に入れてずっときてしまった。でもダンスって、当然論理から漏れてくる部分が大きいですよね。「まず私自身が楽しめてないんじゃないか?」「混沌としたものにちゃんと説得力をもたせて観客を驚かせたい」と思うようになりました。
それは武術から始まった
- 今回の企画はどのようにスタートしたのですか。
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この作品を作るために始めた、というよりも、様々なリサーチの積み重ねがこういう形にまとまった、という感じです。以前の私では絶対にやらないし許されないような(笑)、長大なプロジェクトでした。
幾つか段階があって、まずは2004年にプンチャック・シラットというインドネシアの伝統武術、プリサイ・ディリ派との出会いがあります。これは防御を中心とした武術ですけど、攻めと防御の型を決めてインプロビゼーションしていくんです。動きの美しさ、回転の美しさ、ルールの洗練された感じに惹かれました。シラットの流派は100くらいあり、様々な信仰と結びついているものもありますが、私がやっているのはルールが整備された近代的なものです。『To Belong』でも、そのまま出してはいませんが、エネルギーのやり取りとか、そういうところでは活かされています。 - なぜ伝統舞踊ではなく伝統武術に惹かれたのでしょう。
- レニ・バッソの『finks』(01年)や『Ghostly Round』(05年)では、身体同士がコミュニケーションをとるために様々なことを明確化する必要がありました。その際に、武術的なものは洗練された型のひとつとして有効だなという手応えを感じていました。他の武術も色々やりましたが、シラットが一番自分に合っていた。円形で素早く動く63歳のシラットの先生を見て、驚くと同時に舞踊的だなと思いました。スピード感とパワーを出す方法や、相手の動きにシンクロさせていくような点にも惹かれましたね。
- 効率的に敵を倒すことを目的とする武術が、無駄の極みであるはずの舞踊に近づいていくのは面白いですね。身体にどういうエネルギーを通すか、その通し方がシステムとして型に集約されていくわけです。それは哲学だし、文化・生活の中から導き出されたものですよね。さらには「こっちのほうが気持ち良い」「格好いい」という美的な(つまり文化的な)価値基準が入っていきます。その積み重ねが伝統舞踊であり、伝統武術の型の美しさにもつながるのでしょう。
- そうですね。インドネシアでも舞踊と武術の両方を修めている人は多いです。それで、シラットから始まって興味を持ったインドネシアを訪れました。私が勤務している信州大学の研究の一環でリサーチして回りながら、コラボレーションをできるアーティストも探しました。条件としては「共通の言語(英語)で意志の疎通が図れること」「伝統芸術を身につけていて、かつ新しい表現にも意欲的な人」「ある程度年齢が上の人」…… その中で今回のマルティナス・ミロトと出会ったんです。彼は伝統舞踊でもコンテンポラリー・ダンスでもインドネシアでは有名な存在で、ヨーロッパでのキャリアも積んでいます。しかも新しいことに意欲的でした。
- インドネシアでオーディションをしたのですか?
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いえ、20代後半のダンサーから60代までひとりひとりに会いに行きました。レニ・バッソがこけら落としをしたサリハラ劇場の芸術監督や、ケローラ財団、そして国際交流基金の方が本当に親身になってくださって助かりました。特に交流基金の方は現地のダンスにも非常に詳しくて、いろいろご教示いただきました。その結果、バリよりもジャワのほうが同じ感覚を持ちうるダンサーが多いことがわかりました。
2010年3月には助成金もある程度決まり、プロジェクトが本格的に立ち上がってきました。私は昔から、全員がシェアする構成表を作るんです。act1、act2とか、6ぐらいまでシーンがあって共有する。ミロトは来日するまで遠隔操作でクリエイションを進めなくてはならないので、その構成表とSkypeが命でしたね。ミロトを招聘して2012年3月に日本でのワーク・イン・プログレス公演を行い、4月にジャカルタで劇場版『To Belong』の公演、そして9月に日本で『To Belong -dialogue-』上演、というスケジュールでした。 - ワーク・イン・プログレスを拝見しましたが、かなりスリリングでしたね(笑)。舞台上で本当に「どうしようか」と探り合う姿をそのまま見せていて、ミロトが「それはやりたくない」と言い出したり(笑)。
- ほとんど破綻していましたね(笑)。スタッフも新しくてダンサーとのやりとりもうまく機能しない部分が多くて。ただそれこそがこのプロジェクトの意義でもあるのだと覚悟していましたから。というのも、レニ・バッソのときは気心の知れた仲間とつくっているぶん、みな私の好みをわかっていて、私が好きなものしか出てこないんです。それは滑らかに効率的に進んでいくので良いことなのですが、やはり同じ枠内での発想しかないという閉塞感もありました。だから今回は、私が『ゲッ。もうやめて!』と思うようなものをあえて出してもらいたかった。だからあの時点での合わなさっぷりは、ある意味、必要なステップだったんです。
- それでインドネシアをリスペクトしていながら、適度な距離感のある作品に仕上がっていたのですね。単にインドネシア大好きということではなくて、それを異物感として認識し、かつそれが自分に必要なものだという相反性がもたらす距離感。もう一人のインドネシア・ダンサーのリアントとの距離感はいかがでしたか。
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彼はバニュマス地方に伝わるレンゲル・ダンスという伝統舞踊の女形なんです。絶対にノーと言わない人で、サポート力も強く、助けられました。とにかく新しいことを吸収しようという意欲が高くて「どういう考えが背景にあってこんなヘンな動きをするんだ?」とか聞いてくる。逆に絶対に私から出ないような要素も色々と出してくれましたね。それは彼だけではなく日本人ダンサーも含めてですが。
フィクションが伝えるリアル
- その後行ったジャカルタでの公演はどうでしたか。
- 観客はすごく喜んでくれて、良い評もいただきました。ただやはり日本の身体語彙が新鮮に映った感は否めず、日本公演は大改訂を加えました。日本のダンサーを入れることでインドネシアの良さを浮き上がらせるため、今津雅晴、三東瑠璃、西山友貴という力のあるダンサーをお願いしました。
- 冒頭のアニメーションはすごく良いアイデアですね。ミュージシャンであり「ダラン」という伝統の語り部であるスラマット・グンドノの姿がアニメで描かれ、彼の頭にジッパーがあって、中に入っていく(笑)。本人の映像もちゃんと出てきますけど、作品の導入としてあのアニメは秀逸でした。
- この作品の骨格として、『ワヤン・クリ(インドネシア伝統の影絵芝居)の話の中に演者たちが入っていく』という構成にしたかったのです。彼自体がすごくカワイイ人ですし、今までの私の作風の中には全くない、ちょっとおふざけ的な、可愛らしい部分も入れたかった。あれは、グンドノが森の中で語るドキュメンタリー部分を撮った映像作家の石川慶が知り合いのイラストレーターに依頼してつくりました。そこにレニ・バッソ時代から親しい映像作家の兼古昭彦が、グラフィックでプラスしていく……という、ほんとうにインドネシア式のコラージュなんです。実は音もそうで、まず音楽家の森永泰弘がインドネシアでフィールドワークを行い、ハエの羽音や地面から水が湧く音、魚が呼吸する音などを録音し、それを別の音楽家に渡して曲にしてもらってまた森永に戻すという……それらを最終的にトータル・ディレクションしたのは私ですが、大変でした。
- 実映像でグンドノが語る「ダラン」はゆったりとして心に染みてきます。
- あそこで語られる『パパ・リモ・パンチャの教え』は、『4人の兄弟が自分たちの周りを常に守ってくれている』という発想で、それによって自分のエゴを捨て去っていくという思想です。インドネシア全体というよりもジャワの一部の教えで、ネットで調べてもほとんど出てきませんが、彼らにとっては非常に重要な話。ジャワは外部から人が来る度に宗教も身体の儀礼も変わっていくんですが、芯の部分はすごくしたたかなんですね。長い歴史の中でジャワ・ヒンドゥーやジャワ・イスラムみたいなものがでてきたり、『ムスリムがカッコいいからいまは流行っているけど、自分の気持ちは仏教』だとか、言いのけてしまうアーティストにも出会いました。グンドノは『本当の民間の宗教は山から来て、外部の宗教は外から来る。二重奏になっているんだ』と言います。文字化されていないことが本当に多いんです。
- 今回の公演では、リアントと今津雅晴とのデュオや、ラストの群舞などは、本当に大きなエネルギーをやりとりしている様に感じられました。ダンスの中で実にリアルな行為が成立していました。
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ありがとうございます。デュオの部分はほとんどあの二人で作ったものです。今回は日本のダンサーも含めて、クリエイションも彼らに任せる部分を増やしました。それも挑戦でしたね。
もちろん最後に取捨選択や構成は私がするわけですが。たとえばインドネシアの教えを語るテキストの中に、「僕は自分の身体が好きだ」という私のテキストを織り込む。この作品は私というフィルターを通したインドネシアであり、日本であり、それ以上でも以下でもない。彼らにジャワの教えを提供してもらうけど、それを私や映像作家が自分の要素と入れ子にして再構成していきました。当然フィクション性は高くなっていきます。しかしフィクションでしか伝えられない真実、というのがアートの使命でもありますからね。
レニ・バッソ/ベルリン/ジャワ
- ここで少し北村さんご自身の活動を振り返らせてください。北村さんは80年代からいち早く注目を集め、若くして彩の国さいたま芸術劇場のオープニング(1994年)も飾られました。ストリートダンス出身のコンテンポラリー・ダンスの先駆者でもありました。
- 舞踊評論家の市川雅さんの奨めでバニョレ国際振付コンクールの東京プラットフォームに応募した(1994年)頃から注目していただきましたが、いろんなことをやりましたね。ボディペインティングのショウを振り付けたり、演劇的なものを試みたり。ストリートといっても今のようにカッコいいものではなく、タケノコ族の亜流みたいなものです(笑)。まだコンテンポラリー・ダンスという言葉こそ一般的ではなかったけど、『世界のダンスシーンでは従来のモダンダンスとは全く違う何か新しいことが起こっているぞ』ということは肌で感じていました。同年代ではコンドルズの近藤良平さんとか、Nestの石山雄三さんとか、珍しいキノコ舞踊団の伊藤千枝さんなどと仲が良かったです。
- 1995年には在外研修でベルリンに行かれます。いまインドネシアに惹かれていらっしゃる北村さんから見て、当時は何を求めてドイツを選ばれたと思いますか。
- 私が行ったのは1990年に東西ドイツが統一されてから数年経ち、首都もボンからベルリンに移行する時期でした。都市全体がザワザワした感じが良かった。最初は西にいて、その後東に移りましたが、旧共産圏なのでスタジオに暖房もなく、炭を焚いて震えながらレッスンしていました。古い建物がどんどん壊されて、のちに古い街並みを保護する方向になりますが、若いアーティスト達は「これからどうなっていくんだろう」とワクワクしているのが伝わってきました。
- 日本でコンテンポラリー・ダンスが盛り上がったときもバブル景気の最中で、古い街並みがどんどん壊されて新しいビルが建っていた頃でした。街の変化がアーティストに与える影響は面白いですね。ちなみに北村さんが行かれていた95年のドイツ・ダンスの状況を見てみますと、ウィリアム・フォーサイスは『エイドス・テロス』、ピナ・バウシュは『ダンソン』という、一通り評価が定着し、ひと山越えた感じの作品が出ています。期待の新星だったサッシャ・ヴァルツは翌96年に出世作となる『宇宙飛行士通り』を発表しています。
- 『宇宙飛行士通り』は、フランクフルトのバニョレ・プラットフォームで見ました。当時、彼女は「エンタテインメントとしてはいいが、社会的なメッセージが足りない」と批判されていて、難しいんだなと思いました。当時のベルリンは、ダンススタジオでもとにかく議論が多くて驚かされましたね。私はジャズダンスをやっていて、舞踏と出会って驚き(自分でやりはしなかったですが)、自分のスタイルをつくろうと学生時代に格闘していろいろ試しても、しっくりこなかった。でも「話し合って論理的に考えてつくるダンスって面白いなあ」と惹かれましたね。ベルリンは、ちょっとモッサリしていますが、すごく性に合いました。
- その頃から、北村さん独自の振付法である「グリッド・システム」を考えていたのですか。
- 以前から漠然と『ダンサーと振付家の関係性を変えたい』と思っていたんです。「私が全部振り付けるのではなく、といって即興としてダンサーに全部投げてしまうのでもなく、考えを共有しつつダンスが自然に成り立つ仕組みはないか」とずっと考えていました。それで舞台上をマス目に区切り、一定のルールを設定し、そこに即応する形でダンサーが踊るのを「グリッド・システム」と名づけ、『Quarterback Trace』(97年)、『bittersidewinder』(99年)などの作品をつくりました。ただやってみてわかったことは、システムとして本当にやっていくためには50年くらいかけて浸透させる必要があるなと(笑)。システム構築よりも、現場でダンサーとの作業に必要な部分を残していこうと方向転回したのが『finks』(01)でした。
- レニ・バッソは照明や映像を駆使した作品づくりという意味でも、先駆けでした。『Quarterback Trace』などで、走査線みたいな光が舞台上を走り、ダンサーは追い立てられるような極度の緊張感で踊っていました。
- 「映画が好きなので『光の運動』の魅力には取り憑かれています。バレエのようなコッテリしたストーリーよりも、瞬発的に小さな物語をパッパッとインサートしていくようなダンスのつくり方ができないかなと思っていました。『ダンサーがよく見えない』とも言われましたが、なぜ照らさないといけないの?と(笑)。見せたいのはダンスを含めた空間全体ですから。その点では今も一緒にやってくださっている照明デザイナーの関口裕二さんには感謝しています。毎回激論を戦わせるんですけどね(笑)。
- やがてレニ・バッソは「日本一海外ツアーが多いコンテンポラリー・ダンス・カンパニー」と言われるまでになります。
- 99年に香港のフェスティバルに呼ばれたり、01年にアメリカのベイツ・ダンス・フェスティバルに呼ばれて、『フェスティバルにはディレクターやキュレーターという人がいるんだ』ということを知り(笑)、ネットワークも広がっていろいろ呼ばれるようになりました。日本では限定された観客層しかいなかった時代なので、このままでは先がないという危機感もありました。ただ日本の環境って、もちろんヨーロッパに比べれば不十分ですが、海外のフェスティバルでは、もっと過酷な環境の国もいっぱいあることを目の当たりにしましたね。文句ばっかり言っていてもしょうがない。
- その頃から世界中のフェスティバルがネットワークを組み出し、情報共有が一気に進み、ツアーや公演のあり方を変えましたよね。
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そうだと思います。作品がキュレーターに伝わる過程でどんどん変化していく。「ダンスって、作り手だけで作ってるんじゃないんだな」と思いました。オランダのユリダンス・フェスティバルのディレクター、ヤープ・バースバンクにはお世話になりましたね。多いときには1カ月に15〜20都市くらいまわり、オランダのバンガローに滞在して、公演しながら新作をつくったりしていたんです。しかし集団で行くわけですから、ダンサーも日本での仕事が途切れて、負うリスクも大きくて、大変でした。国際交流基金・文化庁・セゾン文化財団といったサポートをできるかぎりお願いしていました。一方で、国内のコンテンポラリー・ダンスでエンタテインメント化していく流れもあり、自分の作風はそこからは距離があるなと感じていました。その頃、海外でのツアーが忙しくなり、様々なタイミングが合ったことから現在の信州大学に勤めることにしました。
大学で教えるということ
- 海外ツアーが忙しいはずなのに大学で勤めて大丈夫なのか!? と驚きましたよ。「現役のダンサーが大学で教える」という点でも、北村さんは先駆け的でしたね。
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「正直、ツアーとの兼ね合いは大変でした。しかも『大学で教えるイコール引退』と捉える人も多く、私やレニ・バッソが過去の伝説上の存在のように語られたり。単に海外ツアーで日本公演が少なくなっただけなんですけど(笑)、伝わっていないんだなと思いました。
当時、大学も実践的なことをやっていこうという盛り上がりがあったんです。私は人文学部の芸術コミュニケーション講座(旧非言語コミュニケーション講座)なので、ダンスに興味のない学生もいっぱいいます。座学としての概論では、ダンスを観ることでイスラエル文化とかインドネシアの伝統とか、アメリカの60年代のザワザワしたことを知るとか、「こんなこと、ダンスを観なければ知り得なかったよな」という授業にしようとしています。また、学生の中にはダンスの衣装が気になったので服飾の歴史を調べてみるといったような、ダンスをきっかけに自分の興味のある研究をしてもらうようにもしています。
現在は『To Belong』を基に学生たちが独自のリサーチを重ね、ホールで公演する準備をしています。ただ私はずっと、自分の作品や活動に学生を取り込むことにはすごく抵抗があり、あえてやってきませんでした。 - 現役のアーティストの活動を身近で見られることは学生にとってメリットなのでは?
- 最近ではそういう面もあるかなとは思って、今回のリサーチ&公演もやってみるつもりです。ただアートには考える部分と実践部分があるはずなので、その考える部分を大学でしっかりやるべきだとは思っています。できれば大学・学生のみならず劇場側にも能動的に関わってもらえるようにしたいですね。大学と劇場はもっと連携できるはずなのに、まだまだ接点が少ないのが現状です。大学では基本的にアーティスト養成所ではないので、どんどん作品をつくらせればいいというものでもない。逆にいうと、観客とアーティストをつなぐ方法を考えるとか、アートの現場というマニュアルのない世界で物事を企画し着地させていく、ということは、どんな仕事に就いても必要なことだと思います。
- 先日、インバル・ピント&アブシャロム・ポラック・ダンス・カンパニーの公演が松本であり、トークに呼んでいただいたのですが、老若男女ほとんどの観客が残ってくれて、とても温かい雰囲気でした。
- 松本の人々はとても文化的です。バットシェバ舞踊団やインバルたちのような作品は、コンテンポラリー作品に対するハードルを下げてくれますし。学生の反応は本当にビビッドで、面白いと思ったものはガッと食いつきますが、そうでないものは本当に無関心というか(笑)。ただ「わかりやすい」というのもクセモノで。私たちがダンスを始めた学生の頃は、「わからない喜びに打ちひしがれに行く」「わかってるものは見なくていいじゃん」という感じでしたけどね(笑)。
- さて長大なプロセスを経て結実した『To Belong』のあと、今後どのような展開を予定していますか。
- 『To Belong』の企画自体は2014年まで決まっており、それ以降も継続していく予定です。2013年まではインドネシアとのコラボレーションがメインでしたが、来年度はTheater Garasi(テアトル・ガラシ)のユディ・タジュディンさんとの共同制作です。演劇的要素を少し入れて、改訂というよりもほぼ新作になっていくのではないでしょうか。先ほど言った学生とのリサーチ上演は、その下地づくりも兼ねたものになると思います。さらに来年は改訂版というか、新作を茅野市でやることになっています。
- インドネシアの研究は続きますか?
- はい。インドネシアはジャワ島には西にスンダ文化があり、中部以東のジャワ文化もエリアによってそれぞれ違います。ジャワ島、バリ島、スマトラ島、カリマンタン島、スラウェシ島など、各地の文化がモザイク状にあり、さらにマレー系言語エリアと共に「マレー(ムラユ)文化圏」の一部でもあり、その違いに触れる度に、面白さが倍増していきます。今はバリやスンダの音楽、歌に興味を持っています。スマトラはまだ行ったことがなく、未知の世界です。リサーチの経緯で、西スマトラのミナンカバウ族の宗教儀礼と身体技法について知ることがあり、魅了されました。でも、イスラム教やその土地の慣習と身体技法の繋がりの深さを感じれば感じるほど、まだリサーチに留めておこうと思いました。バリについては、そもそもイスラム教が90パーセント近くを占める国で、バリだけは伝統儀礼が延々と続いていくのが不思議で。あらたな「異物感」を抱えながら、作品と私自身を進化させていきたいと思います。
- 長時間にわたるインタビューをどうもありがとうございました。