天児牛大

30年以上にわたり世界のダンスシーンを牽引
舞踏家・天児牛大のあくなき挑戦

2009.02.28
天児牛大

©Yuji Arisugawa

天児牛大Ushio Amagatsu

天児牛大が、麿赤兒率いる舞踏集団・大駱駝艦から独立して<山海塾>を設立したのが1975年。たった4人の男性メンバーによってひそやかに立ち上げられたこのカンパニーは、77年に『アマガツ頌』で旗揚げを行い、78年に出世作『金柑少年』を発表。80年には早くも海を越えてフランスへと飛び立つ。そして渡欧1年目にして、春のナンシー・フェスティバル、夏のアヴィニヨン・フェスティバル、秋のボルドー・シグマ・フェスティバルを制覇。またたくまに欧州全土にSankai JukuとButohの名を広めていく。また82年からパリ市立劇場との共同製作公演を開始。以後、2年に1度のペースでこの劇場を拠点に新作を発表し、2006年度の朝日舞台芸術賞グランプリを受賞した『時のなかの時―とき』や最新作『降りくるもののなかで―とばり』など、今も四半世紀以上にわたり共同製作を続けている。現在までヨーロッパ、アジア、アメリカ、オセアニアと、世界43カ国延べ700都市以上での公演を敢行。

「ル・モンド」のコレット・ゴダール氏がナンシー・フェスティバルで山海塾の舞台を初めて目にし、「息つくことも忘れてしまう、2時間の途方もない旅」と称してから30年あまり。加速も減速もせず、淡々と自らの舞踏哲学に従い創造の旅を続ける天児牛大に話を聞いた。
聞き手:岩城京子
山海塾は80年に初めて欧州へと渡り、2年後の82年からは早くもパリ市立劇場との共同製作(コ・プロデュース)が始まります。極東から出てきた若いプライベート・カンパニーに対して、なんと勇気のある破格のオファーを持ちかけるのだろう、と当時は驚かれたのではないでしょうか。
 今でも、オファーをいただいた時のことはよく覚えています。確かあれは81年。パリ市立劇場のディレクターであるジェラール・ヴィオレット氏とコンサルタントを務める故トーマス・エルドス氏が連れだって、私たちがその時『金柑少年』を上演していたリヨンの劇場を訪れてくれた。そして『金柑少年』ともう1本新作をやらないか、もちろん新作に関しては共同製作というかたちを取らせてほしい、と依頼してきたのです。けれど……これは今となっては笑い話でしかないのですが、当時の私はパリ市立劇場のことをそれほどよく知らなかったので「ちょっと考えさせてほしい」とその場ですぐに承諾することを渋った。後年、ヴィオレット氏には、「うちからの依頼を受けて考えたいと言ったのはおまえが初めてだったよ」と笑われました。
今改めて振り返ってみると、最初の出逢いからここまでパリ市立劇場との共同製作が続くとは思いもしませんでした。26年で12作、ストレートに言ってすべてが大成功だったとは思いません。それでも絶えずオファーし続けてくれたヴィオレット氏には心から感謝しています。声をかけ続けてくれたことにより、拠点のない我々のようなプライベート・カンパニーを支え、育ててくれたように思います。正直、今の山海塾は、パリ市立劇場をはじめとするフランスの文化基盤に支えられてきたからこそ、存続してこられたように思います。あくまでも仮の話ですが、私が80年にフランスに渡る決断をせず、そのままずっと日本にい続けていたら、早々に踊りをやめていたかもしれません。
そのヴィオレット氏が、昨年末に退任されました。代わりにディレクターに就任されたのは演劇畑出身の三十代の若手演出家。今後、山海塾とパリ市立劇場との関係はどのように変容していくのでしょう。
 現段階ですでに2010年の春シーズンに新作を発表することは決定しています。喜ばしいことに新ディレクター、エマニュエル・ドマーシー=モタ氏の下でも、コ・プロデュースの関係性は継続できるように思われます。ただ、山海塾は別に劇場とフランチャイズ契約を結んでいるわけではありません。今までも、これからも、先々がどうなっていくかの保証はない。あるのは毎回新作を発表した時点での、クリエーションの出来映えによって下される、ディレクターの冷静な判断だけです。
そのジャッジにアーティストとの個人的癒着はまったく介在しません。共同製作の関係が何年続いていようが、新作のクオリティがあまりにも良くなければ、それっきりということになる。実際に私は、パリ市立劇場から依頼を受けた若いカンパニーが、先方の望んでいるインプレッションある作品を提示できず、その後、声が掛からなくなった例をいくつも知っています。すべては作品の良し悪しのみの結果論。とても厳しくクリアな世界です。
判断するディレクターにも重大な責務が伴ってきますね。
 そうですね。だからこそ彼らは、見る、聞く、会うことを非常に重視します。そしてプロフェッショナルとしての自負をもって、自分の目と耳で判断して、納得のいくものだけをプログラムに組んでいく。そう考えると、山海塾が82年以後、パリ市立劇場でワールド・プルミエール(世界初演)を続けてこられたことはとても意味のあることだったと思います。やはりどれほど素晴らしい作品を創ったとしても、ファーイーストで上演される舞台を、欧州のディレクターたちに目にしてもらうことは難しいですから。定期的にパリで上演して見続けてもらえたからこそ、山海塾はこれだけ世界に活動の場を拡げられたのだと思います。
ちなみにフランスの劇場は、地方であれどこであれ、そのほとんどが税金で賄われています。ですから半端な作品を上演し続ければ、プログラムを組んでいるディレクターが、観客の矢面に立たされます。ものを生み出すアーティストがいて、それをジャッジするディレクターがいて、さらにそれを判断する観客がいる。この国では個々の役割がとても明解。だからこそ、私自身も他の雑事に惑わされず、自分としてやるべきこと──つまりクリエイターとしてクリエーションに徹底して向き合うこと──に集中していくことができたように思います。
初の欧州ツアーで最も多く上演された『金柑少年』では、本物の孔雀を抱いたソロが披露されたり、千数百匹のマグロの尾が壁面に打ちつけられたりと、斬新な演出が多用されていました。初めて山海塾を目にした時の、欧州のダンス関係者の反応はいかがでしたか。
 当時のフランスの現代舞踊の主流は、15分足らずの小品を並べて連作として見せるというモダンダンス的なもの。そうした状況下で、突如、ドイツに現れたのが、ピナ・バウシュによるタンツ・テアターでした。彼女はそれまでのダンス界に全くなかったもの、つまり壮大な舞台美術で空間をつくり、切れ目のない数時間の大作を発表する、という新風を吹き込んだのです。
このような新しい潮流が生まれていた頃だったので、私が80年に初めてナンシー・フェスティバルで取材を受けたときには「あなたのやっていることはタンツ・テアターに近いのか?」という質問を受けました。確かに山海塾の作品は、舞台美術を使い、空間をデザインし、一本の長時間な作品を提示するという意味ではタンツ・テアターに似た側面があります。けれど私のダンスへの入り方はやはりピナとは異なる。私のダンスへの入り口は間違いなく舞踏にある。そこで、以後、取材でこのような質問を受けた場合には、先達の土方巽さんや大野一雄さんの名前をあげて「私のやっていることは舞踏です」とレスポンスしていくことにしました。
天児さんのそうした考えや山海塾の活動によって、世界にButohの名が広まっていったにも関わらず、日本ではいっとき「山海塾は舞踏ではない」と言われていた時期もあったとか。
 ええ、80年代中頃に、かなり評論家に言われました。けれど、私は一度たりとも舞踏の看板を下ろさなかった。なぜなら創作の最初のインプレッションが、先達からの影響で生まれているわけですから。私はその一点で、自分のやっていることを舞踏と呼んでいいと考えていた。とはいえ、私は別に土方さんや大野さんの様式を、ただそのままの形で踏襲しようと思っていたわけではありません。
特に80年にフランスに渡って丸1年、日本からの情報が物理的に途絶えたときは、その時間が「自分にとっての舞踏とは何か?」という問いを検証するいい機会になりました。ヨーロッパでの取材では、舞踏総体のことではなく、「あなたにとっての舞踏とは何か?」としばしば質問される。そうなると個人として咀嚼しきれていないことはこちらも曖昧にしか語れないし、先方にも納得してもらえないのです。ですから私は、舞踏の先駆者たちが自分たちなりの全く新しい器=舞踏を一からつくり上げていったのと同じように、既存の情報から安易に何かを引用しない方法論……これは創作本来の方法論とも言えると思うのですが、そのような手法を取って「自分なりの舞踏の在り方」を丁寧に考えていきました。
その「自分なりの舞踏の在り方」とは、どのようなものなのでしょうか。
 これは「舞踏の在り方」というより「創作の在り方」を答えることに近くなるかもしれませんが、日本を離れたことで私は、文化における「差違と普遍性」の大切さを強く認識するようになりました。
言語、食文化、生活習慣──ツアー先の街々はこれらのすべてが異なっていて、私はその異なりのシャワーを毎日のように浴び続けた。そして「差違があるからこそ文化は形成されるのだ」というひとつの確信に至った。と同時にもう一方で、これとは全く正反対の認識、つまり人には人種も国籍も越えたなんらかの「普遍性がある」という確信も生まれてきました。
この普遍性は、「感情の原型」あるいは「プリミティブな衝動」と言い換えてもいいもの。壺の文様であれ壁画であれ、岡本太郎さんも取りあげたある種のアーキオロジック(考古学的)な文化には、欧州・南米・アジアと土地は違えども、何らかの共通項がみられる。また各地で語り継がれている黄泉の国からの再生神話、古代ギリシャの『オルフェとエウリディチェ』や、日本の『イザナギとイザナミ』など、これらの話もディテールこそ異なるものの、大枠はとても似通っている。「人は自然と向き合ったとき、どうやら似た創作衝動を抱くらしい」──そんな思いがぼんやりと自分のなかで形づくられていきました。
今振り返って考えてみると、このような「普遍性」を身を以て体感できたことが、世界に向けて作品を提示する私の、ある種の後ろ盾というか、勇気づけになっていたように思います。
そうした「普遍性」に勇気づけられながら、パリ市立劇場との共同製作による、新作を発表され続けます。天から地へと一筋の水と砂が流れ続ける『卵を立てることから―卵熱』(1986)や、全面を砂で覆った床面に13の水盤を配した『遥か彼方からの―ひびき』(1998)など、振り付けのみならず舞台美術の出来映えも素晴らしい作品が生まれました。以前、この劇場に出会ったことにより「床面への意識が変わった」という話をされていたように思うのですが。
 ええ、そうです。ギリシャの野外劇場のように客席から舞台面が見下ろせるパリ市立劇場と出会って、私の床面に対する考え方は大きく変わりました。眼前に広がるパリ市立劇場の床面には、間違いなく、何らかの意志が宿っていた。以後、私は床面をないがしろにすることなく、美術構成に深く関わるマチエールのひとつとして丁寧に扱うようになっていったのです。例えば、床一面に薄く砂が敷かれた『時のなかの時―とき』(2005)などを見るとよくわかることですが、山海塾の作品では多くの場合、時間の経過とともに床面が変化していきます。そして1時間半の踊り手のさまざまな強度をもつ足跡により、床に一枚の絵が完成されてゆく。今では私はこの絵さえも、自分の舞踏作品の一部だと考えています。
それを踏まえて、改めてお聞きしますが、天児さんにとっての「舞踏」とはどのような表現なのでしょう。
 そう質問された時にはいつも、「私にとっての舞踏とは“重力との対話”です」と答えています。そしてこの対話はどこの国の人であれ、さほどの差違なく理解できるはず。なぜなら人には、前述した感情的な普遍性のほかに「身体的な普遍性」があるからです。
例えば「個体発生は系統発生をうながす」という言い方がありますが、人の誕生は、国籍や人種を問わず、みな同じ人類の進化の過程を踏まえています。魚類から両生類になり、両生類から哺乳類となり、人として陸地を歩くようになる。我々はみな誕生と共に、この系統発生の路上に等しく身を置くことになるわけです。また、ある生命が母親の羊水のなかで育まれ、この世に誕生し、1年という時間をかけてゆっくりと立ち上がってゆくプロセス。これもコーカサイトであれモンゴロイドであれ、人種を越えて同じ過程を辿っていきます。つまり人は誰であれ一定の身体的な普遍性をたずさえ、誰であれ誕生とともに重力と対峙して立ち上がっていく。そして私には、この重力との対話こそが、舞踏に欠かせない要素に思えるのです。
人は誰でも重力と対峙して立ち上がっていくかもしれませんが、誰でも舞踏を踊れるわけではありません。ステージ上での環視に堪える「重力と対話する身体」は、どのようにしてつくられていくのでしょう。
 完全にリラックスしている身体というのは寝ている身体ですよね。私はまずこのもっとも平易な状態から始めて、座る、立つ、という重力と対話する身体へとゆっくりいざなうようにしています。その際、留意すべきは「最小限の力で」ということ。人の身体は放っておくと、どうしても知っている動きをしてしまう。下手な意志が働いて身体に無駄なテンションが掛かってしまう。こうしたテンションをひとつずつ排除していくことによって、重力との素直な対話が可能な身体を構築していくわけです。
例えば人の左右の腕というのは胴体にぶら下がっているわけですから、横になろうとすれば通常はパタンと胴体にくっついてくるはず。けれどそこに必要のない力が介入してくると、腕が先行する動きになってしまったりする。これは重力に対する意識が途切れている状態と言えます。こうなってしまった場合に、余分な力が入っている箇所を丁寧に指摘していくわけです。
イメージとしては重力との対話がうまくできている身体は「立ち上がったときに、身体の中心軸が地球の中心軸に素直に向かっている状態」にあります。つまり、重力が均等に足裏に伝わり、とても楽な状態にあること。これが理想型です。そしてこの直立の基本姿勢から、なるべく腰を深く落として、踵からゆるやかに歩いていく。どうしても腰の位置が高いと、バレエのソテのように余分な力が入る動きになってしまうので。我々の場合は西洋舞踊とは逆に、腰を持ち上げるのではなく落とすことによって、ひとつの身体の基本型をかたちづくっているのです。
テンションについての考え方が西洋の舞踊とは異なるということですね。
 そうです。ほとんどの西洋の踊りは、テンションによってつくられますよね。片足を上げてホールドしたり、あるフォルムをコントロールしたり。ムーヴメントの土台に緊張感が据えられている。しかし、私は、テンションの逆のリラクゼーションにこそ踊りのベースがあると考える。人は一瞬力を抜くからこそ、右足から左足に重心を移動できるわけで、その重心の移動ができなければ、ひとつたりともステップが踏めない。つまりリラックスしている状態が基本にあって、その後、どこに、どのように、どの程度のテンションを加えていくか。その検証を丁寧にこなしていくことによって、私にとっての舞踏が、徐々につかまえられていくのです。
自然と動きはスローになってゆきます。一度力を抜いた状態から、どのように重力と関わっていくか。その「意識の糸」を断ち切らないで動こうとすると、自ずと、ジェントルでゆっくりとしたムーヴメントになっていくのです。舞踏の動きはなぜあれほどスローモーションなのだ、と疑問に思われる方もおられるようですが、私にとってあれは必然。重力との丁寧な対話を試みようとすると、自然とあのような所作になっていくのです。
「意識の糸」を保持した上で動くと、自然にゆっくりした動きになるということですね。
 そのとおりです。そして、山海塾の振り付けでは、すべてがこの「意識の糸」を保てるか否かにかかっていると言えます。これがひとたび失われてしまうと、すべてが単なる運動になってしまう。
例えば踊り手たちはいったん舞台上に上がると、彼らの外側にあるものは、単なる日常空間ではなく、宇宙や水中や海浜など「何らかの設定を表すための外部環境」になります。つまり光や、音の振動や、空間そのものに、特定の意識をもって触れていくことによって、観客の脳内に、あるバーチャルな時空を映し出してみせるわけです。
さらに、踊り手たちには「自分の内側とのインテンシブな関わり」を切らさないことも求められます。その刹那に内的に自分が感じていること、それは畏れなのか希望なのか何なのか。その感情の変化を意識を切らさずに丁寧に追っていくことで、自ずとそれに動きが付随してくるわけです。
要するに山海塾の振り付けでは、常に、意識がフォルムに先行する。外的な設定や、内的な変化に、意識を集中させていくことによって正しいムーヴメントが生まれてくるわけです。だからこそ我々の稽古場には、ただフォルムの美しさを確認するための道具である鏡は一枚も置かれません。
となると踊り手たちの内的意識を導いてくれる外部環境──美術、音楽、衣装などにも、精緻な完成度が求められるわけですね。
 仰るように、私にとってはムーヴメントと同様に、照明や音楽や美術も大切な要素になります。なぜならこれらはすべて、等しく、舞台上に浮かぶ目に見えない「何か」を表出させるための手立てだから。抽象的な表現になってしまいますが、私は、踊る側と見る側との間には、ひとつのブリッジが浮かぶものと考えています。そしてそのブリッジの時空に「何か」を具現化させるための要因として、美術や音楽や踊り手たちのムーヴメントはあります。ですからムーヴメントが作品の「主」であり、音楽や美術が「従」であるということではなく、いわばすべてはその目に見えないブリッジに仕えるための「従」だといえる。そして毎回のパフォーマンスでは、その「何か」が見えてくることがなにより大切になります。とはいえ、それが上手くいくときといかないときがあるんですけどね。
その目に見えない「何か」は、視覚化できないものだからこそ、踊り手たちとどのようにコンセンサスをとっているのか気になります。
 そうですね、稽古場で徐々に取れていくという感じでしょうか。まず私の場合は稽古初日に「今回はこうしたものを目指そうと思っています」という短いレクチャーをすることから始めます。そして大まかに自分が考えていることを踊り手たちに把握してもらい、その上で、実際に身体を動かす「試みの一」に入っていく。勝手知ったる山海塾のメンバーたちは、私が「はい、試みの一ね」と言えば、そこから二、三、と自ずと振りが変わっていくことを符丁的に理解してくれています。そしてあるひとつのコンセンサス、私自身の納得のいく在り方に辿り着くまで、何度でも変化を繰り返し、稽古に集中していきます。うまくいけば5分ほどの場面が、1日で完成することもあれば、終日稽古をしても、1分も納得のいく動きが生まれてこないこともあります。それでも山海塾の踊り手たちには、鏡も音楽もない空間で、集中力をきらさずに内面に向かっていける忍耐力が求められます。これは意識の鍛錬とも言える作業です。
このような丁寧なやりとりにより、徐々にコンセンサスが取られ、動きがフィックスされていきます。最終的にはストップウォッチで計っても、呼吸と集中によって、音楽がないなかでも30秒と誤差のない踊りができあがってきます。これ以上タイムが違ってくると、踊っている当人たちが体感的に違和感をもつようになってくるのです。
2005年には、『金柑少年』で初めてリ・クリエーションに取り組まれました。もともと天児さんが踊られていた4つのソロパートを若手の踊り手たちに分配し、自身は出演されませんでした。なぜこのようなかたちで作品を蘇生させようと思われたのか、また若手の踊り手たちとのコンセンサスはうまくとれたのか、詳しく教えてください。
 なぜリ・クリエーションを手がけようと思ったかというと、これは単純に、外部からのオファーがあったからです。93年のパリ市立劇場での公演を最後に『金柑少年』を封印してからも、「ぜひやってほしい」という依頼を多くの劇場からいただいてきました。けれど体力的にいって、私が再びこの作品を踊ることは難しい。そこで若くパワーのある他者の身体に委ねるかたちで、作品を再創造してみることにしたのです。
実際の振り写しの作業に関しては、型を写すのではなく、感情のうごめきを写すことに重点を置きました。その時々の動きのなかで、何を体感し、何を感受しているのか。そこさえブレなければ、具体的な動きの型に関しては、むしろ、個人差を許容するかたちで作業を進めていきました。
確かに若手の踊り手たちとは、旗揚げメンバーたちほどは、あうんの呼吸でコンセンサスが取れないこともあります。例えば「沈殿」というと、古いメンバーたちは私がどのような意図でその言葉を使っているかを即座に理解してくれる。しかし、若手からは「何ですか沈殿って?」「落下と沈殿は違うんですか?」なんて質問が返ってくる。でもそうした疑問を投げ掛けられることによって、私の方が気付かされることがある。ああそうか、自分の言葉は符丁化してしまっているんだな、と思わされたことが多くありました。なので、このリ・クリエーション作業は自分にとっても非常に実りの多い作業でした。
新作の場合、稽古期間はどれほど与えられているのでしょう。2008年5月にパリ市立劇場で世界初演された、最新作『降りくるもののなかで―とばり』を例に教えてください。
 稽古期間はおよそ2カ月。その間は、すべてのツアー公演を断ちます。『とばり』では、まず横浜で、市とNPO法人が管理・運営している(公設民営の)稽古場で最初の1カ月を過ごし、それからパリ市立劇場の上階にある、ステージと同サイズの稽古場に移りました。実尺の空間で稽古ができることは、踊り手たちにとって非常に重要なこと。なぜなら内的な緊張感を大切にする私の振り付けでは、歩数ひとつが変わるだけで、感情の揺れが微妙に変わってきてしまうからです。
また、パリ市立劇場の場合には、公演直前の1週間はいつでも、実際の劇場をエンプティにして明け渡してくれます。なので、そこで音楽、照明、美術のすべてについて最終的な試みをしていけます。26年前から付き合いの続くテクニシャンたちは、「まだこの時点では創作の過程である」という意図を共有してくれているので、仕込みが完了した後でも「あそこの照明はやっぱりこう変えたいのだけど」と言えば「もちろんだよ」と快く応じてくれます。クリエーションとはそうして直前まで変わってゆくもの。このことに対し徹底した理解のあるプロフェッショナルな態度に接するたびに、私はいつも、深く感心してしまいます。
山海塾の場合、実際の踊り手たちが、美術や衣装などのスタッフワークに携わります。これには最初、海外のスタッフたちも戸惑ったのではないでしょうか。
 そうですね。ただこれに関しては、あえて意図的に、山海塾が70年代に活動を始めた時と同じスタイルを踏襲し続けているんです。なぜなら私は踊り手たちにもある程度「舞台の成り立ち」を理解しておいてもらいたいから。舞台には、すべての御膳立てが済んだ時点で「はい、踊り手さんどうぞ」という関わり方をしていては見えてこない要素がたくさんあるのです。例えば小道具ひとつとっても、それを自分の手でつくるのと、人につくってもらうのとでは、その道具に対する態度が異なってきます。自らの手でつくることにより、そのつくり上げられたものと自分とが舞台上でどのように関わればいいのか、というより具体的な視野が踊り手たちのなかに育まれていくのです。
ただ確かに最初の頃は、そんな我々の姿を見て劇場スタッフたちは驚いていました。特にアメリカでは、ユニオンで厳しく技術者たちの請け負う仕事が規定されているので、本来なら踊り手は舞台裏の小道具には一切触ることができません。けれど付き合いが長くなってくると「おまえたちのところは特別だからいいよ」と、彼らも柔軟に対応してくれるようになる。持続していくことでお互いに胸襟を開く、ということはとてもあるように思います。
先ほど「稽古場は無音である」と仰いましたが、音楽の創作プロセスについても少し具体的に教えてください。
 基本的には、稽古場でムーヴメントを完成させる作業を進めるのと同時に、音楽家との対話作業も行っていきます。このプロセスは、共に作業する音楽家が誰であるかによって微妙に異なってきます。
例えば加古隆さんの場合は、すでに彼が一度成立させた曲をアレンジする作業になるので、ある意味、西洋古典舞踊のスタイルと同様、踊りのベースに「音のテキスト」がある状態から入っていくことになります。つまりはじめに音ありきで、すでにそこにある音符のエモーションやポエジーに、自分がどう立ち向かっていけるのかが焦点になるわけです。この音はピアノから他の楽器に転用することが可能か、ここは小節数を倍に増やすことが可能か。と、ふたりで真摯な話し合いを重ねていくことになります。
YAS-KAZさんの場合は、どのインストゥルメントでいこうか、という視点から話し始めることが多いです。ここはやっぱり壺タブラだろう、いやもっとテンシブな弦だろう、もう少し電気ヴァイオリンのブルーな色を加えてみようと、とにかくまず楽器の音色そのもので世界を捉えることに集中します。
ただ加古さんにしろ、YAS-KAZさんにしろ、吉川(洋一郎)さんにしろ、最終的なトラックダウンのときには必ず私はスタジオ収録に付き合うようにしています。そしてスタジオで実際に響いてくる生の音色を身体で感じて、それをどれだけ舞台に反映させていけるかを考える。私は音楽であれなんであれ、なるべく一緒に作業をしていきたいタチなんです。それがまた面白いし、勉強にもなりますからね。
東京の消防会館ホールで出世作『金柑少年』が上演されてから、約30年の月日が経ちました。けれど今でも天児さんの中には、当時と同じように、仲間たちとゼロからつくっていくことを愉しむ感覚があるわけですね。
 そうですね、そこは大きくは変わっていないように思います。でも本当に我々の場合、フランスでの最初の1年がなかったら、これほどカンパニーを持続することはできなかったように思います。フランスに渡り、そこからのネットワークで、ベルギー、スイス、イタリアなどのエンプレサリオたちに呼ばれていく。あるいはまた「ル・モンド」に記事が載ることによって立ち位置が変わり、評判が広まっていく。
欧州にしろアメリカにしろ、何か表現したいことがあり、それがなにがしかのものであれば、すぐにそれを支えていく文化的機構が成り立っている。これは表現する側としては、非常に勇気がもてるし、有り難いことです。日本でも少しずつ状況が変化してきているとはいえ、やはりここまで若い芸術を支えきるバックボーンは成立していないように思います。だから残念ながらいまだに才能のある人たちは、海外に出ていってしまう。この現象について、日本は改めて考えなおすべきだと思います。やはり商業的でないものも擁護していかなければ、文化がバランスを欠いてしまいますからね。

『金柑少年』
[初演]1978年/日本消防会館ホール
©SANKAI JUKU

©Masafumi SAKAMOTO

 

©Minako ISHIDA

『卵を立てることから─卵熱』
[初演]1986年/パリ市立劇場

『遥か彼方からの─ひびき』
[初演]1998年12月/パリ市立劇場
©Masafumi SAKAMOTO

『時のなかの時─とき』
[初演]2005年12月/パリ市立劇場
©Jacques Denarnaud

©Jacques Denarnaud

©SANKAI JUKU

『降りくるもののなかで─とばり』
[初演]2008年5月/パリ市立劇場

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