桐竹勘十郎

世界に誇る日本の人形劇「文楽」 人形遣いのホープ三世桐竹勘十郎に聞く

2008.06.20
桐竹勘十郎

桐竹勘十郎Kanjuro Kiritake III

1953年大阪生まれ。父は人間国宝の人形遣い、二世桐竹勘十郎、姉は俳優、三林京子。1967年文楽協会人形部研究生となる。三世吉田簑助に師事。翌年、初舞台。父から学んだ立ち役、名女方の師匠から学んだ女方、男女の人形を遣いこなす。2003年、三世桐竹勘十郎を襲名。公演のほか、ワークショップや大阪府能勢町の「能勢人形浄瑠璃鹿角座」の指導、新作公演など活動は多彩。NPO法人人形浄瑠璃文楽座著作権担当理事でもある。

三人遣いの「人形」、浄瑠璃を語る「太夫」と「三味線」の三者が一体となって物語を進める文楽は、ユネスコより世界無形遺産として宣言された日本が世界に誇る人形劇だ。独特の上演形式は、フランスの太陽劇団やウォルト・ディズニーのミュージカル『ライオンキング』など、世界の演劇人に様々な影響を与えてきた。世界に類を見ない三人遣いは、「かしら」と呼ばれる首を遣う主遣い(おもづかい)、左手を遣う左遣い、もっぱら足を遣う足遣いが呼吸を合わせて1体の人形を操るもので、その豊かな表現力は「生きるかのごとく」といわれる。三世桐竹勘十郎は人形遣いになって42年、今もっとも華のある人形遣いだ。「梨園」と呼ばれる代々役者の家系が芸を継承する歌舞伎と異なり、文楽は本人の才能が第一。人形遣いの家系はないが、人間国宝の二世桐竹勘十郎を父に生まれた勘十郎は、中学時代に文楽に魅せられ古典芸能の世界に飛び込んだ。吉田簑太郎として足遣い、左遣いと長い修業を積み、2003年4月父の名を襲名。文楽の大黒柱を担う人形遣いである。
聞き手:奈良部和美
文楽は何度も海外公演をしています。2008年3月にはフランス公演にいらしたばかりですが、外国の方には文楽の見どころや魅力をどのように紹介されるのですか。
 特に外国の方だからと意識はいたしません。日本でも文楽を見たことのない方はまだまだ大勢いらして、初めて見る方からはよく、「どこをどう見たらいいのか。どう聞けばいいか」とご質問をいただきますが、演じる私どものほうから、ここを見てくれ、聞いてくれとは言いにくいものです。演目も大きく、歴史物語の「時代物」と庶民の世界を描いた「世話物」の2つに分けられますし、それぞれ何十とある演目ごとに見どころも違いますから、ひとくくりに「ここが見どころ」とは言えません。
文楽は今から300年ほど前の方が考え出された日本独特の、本当に珍しい演劇形式です。3人で遣う人形と浄瑠璃を語る太夫と三味線、この三者が一体となって物語を進めていく。三人遣いの人形は人間を超えるといったらおかしいですが、人間にはできないいろいろな表現ができますから、最初はどうしても人形に目がいくでしょう。それはそれでいいのですが、文楽は太夫と三味線、人形の三者がうまく合わさってのもの。太夫にも三味線にも魅力があって、いろいろな見方のできる面白さがあると思います。
本当は浄瑠璃の内容を理解していただければ、日本人の考えていることや風習、情が分かって、より楽しんでいただけるのですが。訳を字幕で出したり、解説をしても、外国では浄瑠璃の内容を理解して見ていただくのはなかなか難しい。江戸時代に書かれた浄瑠璃の言葉が分かりにくいのは日本の若い方も同じなので、日本の公演でも国立劇場では補助的に字幕を出しています。「字幕があったので、よく分かりました」という人もいらっしゃいますが、どんなものかなと思います。字幕があれば、ストーリーや太夫が何を語っているかは分かるでしょうが、お芝居が本当に分かったかというと、そうではない。やはりそこは字幕を追うのではなく、じっくり舞台を見ていただきたいと思います。
人形を3人で遣う人形劇は世界で文楽ただ一つ、と言っていいのでしょうか。
 私の知っている限りでは昔はなかったと思います。今はいろんな遣い方があるようです。これまで2回、フランスに文楽人形の遣い方を教えに行きましたが、そうした講習を受けた方たちが三人遣い、四人遣い、五人遣いと複数で人形を操ることをされています。今では、世界のあちらこちらで文楽の形式の遣い方が行われているようです。
教えに行ったのは、フランスのシャルルヴィル・メジエール市にある国際人形劇連盟(Union Internationale de la Marionnette UNIMAウニマ)の国際人形劇研究所で、3週間の夏期講習のようなものでした。人形遣いだけでなく、演出家や俳優、バレエダンサー、いろいろな方が世界中から来ていました。文楽の人形の遣い方の基本が足であることをまず覚えていただきたかったので、この時は人形の足を木から作ってもらいました。そもそも何十人という受講生の教材になるほど足の数はありませんし、モノがなければ説明ができませんから、体験しながら学んでいただこうと考えたわけです。木は現地で用意していただいて、膠(にかわ)と胡粉(ごふん)を混ぜて足を白く塗るんですが、これは日本から持って行きました。
角材を切って、足を彫り出すところからやるんですから、受講生は何でこんなことをやらされるんだろうと感じていたでしょうね。実は私は三人遣いを教えに行ったんじゃなくて、「三人遣いは難しいですよ、下手にまねをしないでね」ということを伝えたかった(笑)。文楽の三人遣いは主遣い、左遣い、足遣いの3人がお互いに息を合わせ、無言で意思を伝達し合う。これは身体でしか覚えられないし、3週間や4週間勉強して、ハイ出来ましたというものではありません。ですから、私どものやっていることから何か参考にされるのはいいけど、大変難しい、時間のかかるものでございますということを身をもって知っていただきたくて、足から作ってもらったわけです。すると、「なるほど」(笑)と、みなさん理解してくださいます。
足遣いをやってもらいましたが、外国の方は背の高い方が多いので、中腰で足を動かすのはとてもしんどいんです。でも、ひとりだけ連れて帰りたいほど上手な方がいらした。20代のフランス人の小柄な男性でしたが、3週間で足遣いをほぼマスターした。素晴らしかったですよ。文楽に来ないかと言えばよかったですねえ、初めての外国人弟子になったかもしれない(笑)。
人形遣いの修業は「足10年、左10年」といわれます。まず足遣いの修業が10年、さらに左遣いを10年修業して、ようやく主遣いになる。文楽の人形遣いの基本は足にあるということでしょうか。
 そうですね。三人遣いになった大きなメリットは足がついたことだと、私は考えています。記録によると現在のような形の三人遣いが最初に行われたのは1734年、大坂道頓堀の竹本座で、『芦屋道満大内鑑』というお芝居を上演した時です。270年前にこれを考えた人はすごいなあと思います。1734年からさかのぼること40年ぐらい前、17世紀の終わりごろに、江戸の外記座という芝居小屋で三人遣いをやった記録があるんです。ところが遣い方が全然違う。1人が首を持って、1人が両手を遣い、もう1人が足を遣う。多分、めちゃくちゃ遣いにくいと思います。首の遣い手と足遣いが息を合わせるのは、私たちの方式でも難しいですから。それからの40年はほとんど記録がありませんが、いろいろな試みが行われて、定着したのが竹本座方式だったと思うんです。1734年を境に、日本の人形芝居は急速に三人遣いに移っていきます。
1つの人形を動かすには、3人それぞれが3分の1ずつ仕事をやっている、ここが三人遣いの難しいところです。中心になる遣い手はもちろん主遣いですが、では主遣いが70%から80%の仕事をしているかというと、そうではない。女方ですと、まず足遣いが半分。女の人形は男の人形のように足がありません。足遣いが着物の裾を動かして足があるように見せているわけで、責任の半分が足遣いにあるといえるほどです。場面によって、振りによって、左遣いがものすごく重要なところもありますし、主遣いが重要なところもあります。3人で互いに100、120の仕事をしているのです。
そのうちの半分は常に足遣いの仕事と言っていいと思います。足遣いがパッと手を離したら、どんな最高位の技を持つ名人でも人形は遣えません。ですから、「足10年」というのは、10年かかって下っ端からやっと抜け出すということではなく、10年たったころには、ポジションは足遣いだけど人形遣いとしてはかなりのものになっていて、修業の半分は終わっているということ。だから、とにかく若いうちは「足を遣え、足を遣え」と、やかましく言われるのです。
しかし、自分でやっているときは、私もそうでしたが、足遣いが重要だとは分からないものです。辞めようと思うのもそのころですね。何でこんなこと毎日やってるんだろうと考える。来る日も来る日も中腰でしんどいですし、頭から黒衣をかぶっていますから舞台で顔が出るわけでもない。足遣いが誰かプログラムに名前は出ませんしね。この時期を乗り越えて足遣いを卒業できると、不思議なことに、後はもう大丈夫なんですよ。
足遣いの基本ができると、自然に左手や首が遣えるようになっているということですか。
 足遣いは、右腕のひじから手首の間のどこかが必ず主遣いの腰に当たっていて、そこから合図をもらっているんです。「腰当たり」といいますが、主遣いの腰の動きで次にどう動くかが分かる。これさえしっかり分かるようになれば、後はもう動きの組み合わせだけです。そして、役柄に早く慣れることができるかどうかですね。人形の足の一部に自分がならないといけないので、これが難しい。
男と女で歩き方は違いますし、武士と町人、老人と子ども、確かに歩き方一つでも役柄によって様々な足の遣い方がありそうです。
 そうですね、足遣いに限らず、技術的なことよりも、役に自分がなっていくということが難しい。そのための修業を10年、15年かけてしていくんです。自分が人形の一部になる、役になることが主遣いになった時に一番大事なことです。
人形遣いというのは、役を演じる「役者」であり、人形を操作する「技術者」でもある。どちらかが勝っていて、片方が劣っていてはうまく表現できない。役に込めた気持ちを客席に伝えられないんです。ですから、足を遣っているころから、「あっ、いま師匠はこういう気持ちでこの役を遣こうてる」と感じとって、自分もその気持ちになって足を遣う。ただきれいなだけの足遣いというのでは、主遣いはやりにくいんです。主遣いには自分の気持ちに合った足というのがありますから、いくら形がきれいでも、気持ちに合った遣い方でないとやりにくい。私も足遣いのときにここで失敗した。その時は、ほんとうに辞めようと思いました。
私の師匠は吉田簑助ですが、失敗すると師匠の機嫌が悪い。簑助師匠はだいたい何も言わない方で、昔の方はみんなそうだと思いますが、どこが悪いと注意はしない。ただ、ただ機嫌が悪い。私はもう何年も足を遣っているから自分なりの自信がある。しかも主役の足を任されているわけです。そうなると、「俺はもうこのぐらいの足はできるんや」と、ちょっと生意気にもなっている。形はきれいなんです。どこから写真を撮られてもきれいで、三味線との間もいい。足遣いは「足拍子」と言って自分の足を踏んでトントンと足音を出すんですが、そのタイミングも外していない。それなのに師匠は毎日機嫌が悪い。どこが悪いのか分からないんです。
どこが悪いか師匠に聞くことはできないのですか。
 聞いても絶対言ってくれない。聞いたとしても、「お前、何年やってんねん」と言われて終わりです。どこが悪いか自分で探さねばならない。先輩にそれとなく聞いたり、横に付いて見てもらっても、「別におかしくないで」と言われる。先輩にも分からない。そうなると、ますます分からなくなる。結局、先ほど言った「お前の足は、吉田簑助が遣うこの役の足ではない」ということなんです。「もうお前ね、それぐらいやっていたら、これは分からないかん」という厳しい、厳しい、究極のところを求められているわけです。
それに気付いたのは、やっているうちに何となくでしたね。巡業先で、師匠とお酒を飲んだりしますでしょ。そういう時にされる昔話を、「ああ、またいつもの話やなあ」と思ったらあかんのですよ。今回は違う話かもしれない。この話は5回聞いたな、という時でも聞いているんです。そうすると、いつもは言わないようなことがフッと出てくる。「左でも、足でもな、その役の気持ちになってんとな。なんぼきれいな足でもいかんねん」と言うかもしれない。あっ、今のは私のことを言っているのかな、と心に留める。師匠は「お前の足はな」とは絶対言わないですから、そういう話を聞いて自分でかみ砕いて、自分の今に当てはめていく。そんなことをして抜け出しました。
だから、足遣いも左遣いも役者と技術者の2つが両立しなければならない。特に主遣いは役の性根をつかまなければなりません。今の私はそれでちょっと苦労していますが、50代の後半はいかに性根をつかむかで頑張ろうと思っています。技術については四十何年やっていますから、今更、不安ですみたいなことを言うたらアホですからね。
同じようなプロセスを踏んで修業をなさっても、人形遣いによって個性が出てきます。人形を遣うときにどこを見るかも遣い手によって違っています。人形の動きと同じように目線が動く方もいますし、そもそも主遣いはどこを見て人形を遣うものなのでしょうか。
 主遣いの遣い手は顔の表情を変えない、あまり動かないというのが基本です。主遣いが顔を出して人形を遣う「出遣い」というのは江戸時代からあるんですが、きれいなお姫さんの後ろに色の黒い男の顔があったとしても、そこにお客さんの目がいかないようにしなければいけない。人形に集中させるような芸を身に付ければいいんですが、なかなかそうもいかない。では、せめて動かない、表情を変えないということぐらいしか最初はできませんね。芸が上がれば、人形遣いが消えてしまうとか、見えなくなるとかよく言われますが、そこまでいくには時間がかかります。
お客さんにとっていちばん気になるのは主遣いの目の動きやと言われます。役者をやっている姉がいまして、若いころは目線を定めたほうがいいとよく注意されました。どこを見て遣わなければいけないという決まりはないので、私はだいたい人形の後頭部、背中から後頭部を何となく見ていますが、人形とはまったく違う所を見て遣う方もいらっしゃいます。
まずいのは人形より先に遣い手の体が動いてしまうことですね。左を見るのに、遣い手の体が左を向いて、それから人形の体が向く。「1、2」と動く。ある程度は人形と一緒に体も動きますが、人形より遣い手が目立ってはいけないし、先に動いてはいけない。人形をきれいに見せるには自分の体を殺せ、とよく言います。自分が芝居をしてはいけないんです。胸でつくった芝居を、左手を通して人形で表現をして、さらに客席まで届かせるんです。これが、なかなかできない。もう、もがき苦しんでいますよ。
もがき苦しみつつも勘十郎さんは人形遣いを貫こうとしていらっしゃる。ご自分の仕事に選ばれたのは、どこに魅力を感じたからですか。
 昭和41年、1965年の5月、私が中学2年生のときでした。当時は文楽の人形遣いの数がかなり少なくなっていて、27人しかいなかった。人形1体を3人で遣いますから公演をやるには人が足りない。それで、親父(二世桐竹勘十郎)に呼ばれてお手伝いをしたんです。親父は文楽座の人形遣いですから、親父や母に連れられて小さいころから文楽は見ていました。楽屋や劇場のロビーや客席には何度も行っているので、そこが親父の仕事場だと思いこんでいたんです。黒衣を着て舞台裏を手伝って初めて、本当の親の仕事場を見ました。ああ、これはすごい世界だな、と思いました。
何が一番すごかったかというと、先輩がやっていた足遣いなんです。手伝いで集められた私らは手すりに隠れて、小道具を渡したり、主遣いが舞台に出る時に履く下駄を揃えたりするんですが、うずくまって見ていると、いちばん目の前にあるのが足なんですね。本当に生きている人間の足のように見えるんです。それを見た時に、やってみたいという気持ちがわいてきました。模型を作ったり絵を描いたりするのが好きでしたから、からくりとか仕掛けにも興味がありました。人形の首の仕掛けや大道具、小道具の仕掛け、床山さんが結う人形の髪、見ていて飽きない。首を床山さんに預けてすぐ舞台に帰らなければいけないのに、ついつい髪を結うのをずっと見ていたり、そんな子どもでした。1年ほど手伝っている間に、人形が動くというのがどんどん面白くなって、3年生になって人形遣いになろうと決めました。簑助師匠を師匠に選んだのは、親父ですが。
その時感じた面白さが、勘十郎さんの中では現在まで繋がっているわけですね。
 それが、どんどん面白くなっている。今が人形遣いになって一番面白いですね。2年ぐらい前からですか、人形が自然に動いてくれるんですよ。昔は必死でやっていたのに。慣れもあるでしょうが、大きくて重たい人形を遣っても汗をかかなくなりました。今年のお正月の大阪公演では先輩の吉田文吾さんが病気で休演されて、その代役と自分の役が2つ、合わせて3役やりました。1つは『国性爺合戦』の和藤内という文楽人形の中では一番大きな人形、もう1つの『祇園祭礼信仰記』の四段目『金閣寺』の東吉は鎧を着けた人形で初めての役でした。そして3役目が『傾城恋飛脚・新口村の段』の孫右衛門という難しい老け役で、これも初めて。本当に体が保つかなあと心配したんですが、楽しいんです。初役ばかりで、ものすごいプレッシャーがあるのに、人形を持って舞台に出るのが楽しい。入門して42年目ですけれど、今が一番楽しいですね。
その楽しい気持ちが舞台に出ているように思います。勘十郎さんの遣う人形は舞台の上で大きく映える。今回の公演で演じられた『鎌倉三代記』の三浦之助は実に美しい若武者ぶりでした。
 三浦之助も初役ですが、役が上手につかめていたのかもしれません。自分なりに三浦之助はこういう人間だ、というのを考えたわけです。病気の母親を案じて戦場から戻ってくる。「お母ちゃん、お母ちゃん」と言ってね。「敵に後ろを見せ、戦場から戻るような者は子ではない」と母に言われて、「戦場に行くぞ」と言っているのに、なかなか行かない。
マザコンですね。ちょっと駄々っ子のような若々しい感じが出ていました。
 それが人形では出来るんですね。役者さんですと、お姫さんの役の人でも年を取られたら、どれだけきれいな衣装を着ても顔が気になります。しかし、人形は永遠に変わりませんので、後ろの人形遣いが70歳でも80歳でもお姫さんはお姫さんとして遣えるところは得です。ただ、いつまでも若い娘の気持ちを持てるかどうか。うちの蓑助師匠は今年75歳ですが、この4月に『桂川連理柵』で14歳のおはんをやりましたが、それが憎いくらい14歳なんです。75歳の人が14歳の役をやって、14歳に見える。それが師匠のすごさであり、文楽のすごさだと思います。常にいろんな気持ち、少年のような気持ち、娘のような気持ち、いろいろな気持ちを持っていて、役によって気持ちをつくって舞台に出る。先ほども言ったように、技術だけでは表現できないものなんです。
人形遣いの大きな柱だった人間国宝の吉田玉男さんが亡くなって1年、その下の世代の吉田文吾さんも1月に亡くなりました。今、勘十郎さんは重要な役を次々に遣われ、人形遣いとしてばかりでなく、若手を育て、文楽全体を引っ張っていくお立場になっています。
 一気に来たんですよ、先輩がバタバタと逝かれて。予想もしてなかった。吉田和生さんと吉田玉女君と私は、世代で言えば、玉男師匠の次の次の世代になります。うちの簑助師匠、文雀師匠、玉男師匠の次の世代に、文吾さんとか吉田玉幸さん、桐竹一暢さん、桐竹紋寿さんがいらして、その次の世代が私らだったのに……。これ、どないすんの、という状態。立ち役がすごく不足してしまい、私が一気に大きな役をいただくことになったんです。何とかここを私らの世代で踏み堪えないとなりません。9月には私らの次の世代の吉田清之助が師匠の名を襲名させていただき、豊松清十郎の名前が復活します。清之助君は女方も立ち役も両方いけます。彼らの世代と一緒に頑張っていきたいなと思いますが、太夫も師匠が高齢になられているので心配ですね。
老若男女を語り分ける太夫は60代でも「はな垂れ小僧」といわれるほど一人前になるには時間のかかる芸といわれています。芸の継承には時間がかかりますから。
 竹本住大夫師匠も心配してらっしゃいますが、一番お元気なのが84歳の住大夫師匠なんです。人形遣いでは75歳のうちの簑助師匠が一番元気。ですから、師匠方がお元気なうちにいろいろ教えていただいて、吸収できるところは全部吸収しないと。必死になって、もう吸収するところはないと思うぐらいにならないけない。でも、まだまだあるんですよ。もう40年やっていて、これで全部師匠の技は盗ったぞと思っていても、「あっ、あんなもんあったの」というものがでてくる。師匠も自分の芸に満足して止まっているわけではないので、師匠には絶対追いつけません。一生追いつかない。それはすごいですよ、師匠の芸というものは。
ご自分の芸を磨くと同時に、学校に教えに行ったり、ワークショップや東京メトロの駅で公演のPRのために実演と解説の会を開いたり、観客の開拓も積極的になさっていますね。
 外国はもちろんですが、日本でもまだまだ文楽を見たことのない方はたくさんいますので、もうちょっときめ細かにPRをしていこうと考えています。地方公演も主要都市だけですが、昔は本当に奥の奥まで巡業して回ったもので、そうしたこともやっていきたいですね。今は小学校1校ですが、大阪市立高津小学校の6年生にも教えに行っています。太夫、三味線、人形の授業が7年続いています。後継者を発掘しようというつもりで始めたわけではなかったのですが、最初に教えた6年生の中から、太夫になりたいと豊竹咲大夫さんに入門した子がいます。人形遣いの弟子にしてくれという子もいたんです。「先生、弟子にしてください!」と言ってね。体鍛えろと言ったら、一生懸命腕立て伏せを毎日やって、中学生になって非常に精悍な顔つきになって、楽しみだったんですけど、病気で亡くなってしまいました。
NPO法人人形浄瑠璃文楽座という組織もつくられましたね。
 5年になります。大阪府の認可法人で、太夫、三味線、人形遣い、文楽を演じる私たち全員が正会員になってつくったものです。それまで互助会はありましたが、みんなでひとつになる団体はありませんでした。幼稚園や老人ホームからの依頼公演や、先ほどお話しした高津小学校の授業などをNPO法人の事業としてやっています。NPOで私は著作権担当理事もやっています。文楽の舞台写真などの著作権を管理するところがなかったので、私が仰せつかりました。文楽の舞台写真があるでしょう。写っているのは主遣いと人形だけですが、人形が写るということは、足遣いがいて、左遣いもいる。映像だったら、鳴り物さんもいる。休憩の間にデータを点検したり、写っている人のところに行って確認をとったり、それを私がやっています。やっと慣れましたが、この点検がなかなか大変です。
文楽の将来に向けての組織固めですね。これからの文楽にどのようなビジョンをお持ちですか。
 大それたことは言えませんが、やっぱり形を崩さずに次の世代に渡していきたいですね。お能は500年も600年も、形を崩さず続いている。なぜかと言えば、きちっと前の人の通りにやれという教えを守っているからなんだそうです。文楽も同じです。普通にやっていても、ちょっとずつどこか崩れていく。崩そうと思ったら、ものの1年、半年で崩れます。ですから、昔からあるものを、これ以上崩さないように次の世代に渡していきたい。お客さんを呼び込むためにも、これは大事なことです。東京公演は大変お客さんが多くて安心していますが、いつパタッと入らなくなるか分かりませんので、芸の質、レベルを保っておかないといけません。「誘われて行ったけれども、たいしたことなかったで」と言われるようになったらいけません。
形を崩さずに伝えるということですが、みなさん、新作に挑戦したり、浄瑠璃以外の音楽、ゴスペルやクラシック音楽と共演したり、いろいろな試みをしています。形を崩すことと紙一重のように思いますが。
 紙一重ですけれども、古典をちゃんと守って、古典をいつでも見せられる状態であれば、他のことをやってもいいと思います。古典を守れと言っている私が一番やっています。古典に勝るものはないんです。何百年練りに練った浄瑠璃、演出、これにはもう新作は勝てません。ただ、新作を作る面白さというのはあります。有名な喜劇作家の方が文楽を書いてみたいとおっしゃっているそうです。文楽は喜劇がありませんから、面白く見られるものがあると、若い方に注目していただけるかもしれません。新作を見て、次は古典へ、という流れをつくりたい。そういう意味での新作は大いにやるべきだと思っています。
これからの時代、いろんなことがあると思います。よく、なぜ女性は入れないのかと質問されますが、ひょっとしたら女性や外国人が人形を遣う時代が来るかもしれない。日本の国技といわれる相撲にはどんどん外国人が入ってきていますしね。文楽の場合は、何百年と人形に託して演じられてきた日本人の気持ち、情が外国人の方に表現できるかどうかでしょうが……。しかし、今の若い日本人より日本人らしい外国の方っていっぱいいらっしゃるから、どうなりますか。まあ、その前に、まずは、文楽が生まれ育った大阪で文楽を見たことのない人が大勢いる状況を何とかしたい。肝心の大阪で何とか盛り上がってほしいと思っています。

文楽
商都、大坂で生まれた人形浄瑠璃・文楽は、町人が育んだ芸能だ。17世紀半ば、竹本座を起こした浄瑠璃の名人・竹本義太夫は、浄瑠璃作者、近松門左衛門と組んで『出世景清』を皮切りに、『曽根崎心中』や『冥途の飛脚』など、現在も上演される人気作品を生んだ。人形浄瑠璃の演目はいずれも、親子の情愛や男女の恋、義理人情の葛藤や生きる苦悩が主題。老若男女を語り分ける太夫の語り、腹に響く奥深い太棹三味線の音色、命が宿ったように動く三人遣いの人形、三者一体となって生み出す人間のドラマに、人々は喝采を送った。

17世紀から19世紀にかけて、様々な一座が人気を競い盛衰したが、近代化という大きな社会の変化の中で人形浄瑠璃の人気は次第に傾いていく。20世紀初頭、ついに人形浄瑠璃の一座は「文楽座」のみとなり、やがて人形浄瑠璃そのものを「文楽」と呼ぶようになった。その文楽も、第二次世界大戦による専門劇場の焼失、名人の相次ぐ戦時下の死という痛手を負い、映画やテレビなど興隆する大衆娯楽と競う体力を失っていった。苦境を救い、再生を図るため、1963年、国、大阪府、大阪市、NHKが助成に乗り出し、財団法人文楽協会が発足する。72年には国立劇場が伝統芸能伝承者養成事業の一環として、後継者の要請を開始した。実力本位の文楽で、国立劇場養成研修生の出身者は5割に達している。84年には大阪に国立文楽劇場がオープン、新しい本拠地を得た。2003年には世界無形遺産に登録された。人形浄瑠璃文楽座の技芸員は現在、太夫25人、三味線18人、人形遣い37人である。

『曽根崎心中』
© 河原久雄

幼稚園での文楽教室
写真提供:NPO法人人形浄瑠璃文楽座