近藤良平

男ばかりの超人気ダンスグループ
コンドルズを率いる近藤良平に聞く

2005.05.17
近藤良平

撮影:宮川舞子

近藤良平Ryohei Kondo

1968年生まれ。ペルー、チリ、アルゼンチン育ち。1994年に山崎広太作品にメインダンサーとして抜擢され、バニョレ国際振付コンクール本選に出場以来、笠井叡、木佐貫邦子などの作品にも出演。96年にダンスカンパニー「コンドルズ」を旗揚げし、全作品の構成・映像・振付を手がける。コンドルズのメンバーは、ユニークなキャラを持つ男性のみ、舞台衣裳は中学・高校生の制服である「学ラン」で結成当時から話題に。ハイスピードなシーン展開と、ダンス、映像、生演奏、人形劇、コントなどを自在に使いこなすバラエティ豊かなステージングで大人気となる。国内のダンスカンパニーとしては群を抜いた動員力で全国ツアーを行い、海外でもアメリカや東アジアでツアーを敢行している。

■コンドルズ 公式ウェブサイト
https://www.condors.jp/

現在の日本のコンテンポラリーダンスには、舞踏の流れを汲むもの、クラッシックバレエの流れを汲むもの、大学のダンスサークルなどを出発点にして共同作業的なアプローチを特徴とするもの、そのいずれにも属さず、オリジナルな身体表現を追求するものなど、いくつかの流れがある。近藤良平率いるコンドルズは、ダンスサークル系の流れを代表するグループだ。学生時代に出会った独特のキャラクターをもつ仲間たちが、共同作業的なアプローチにより、ダンス、コント、映像、音楽をミックスした身体表現と娯楽性を兼ね備えたステージを体当たりでつくりだし、コンテンポラリーダンスを娯楽として楽しむ若い観客層を開拓した。海外にも積極的に進出しているコンドルズについて、また、ダンサー・振付家としての外部活動について、近藤良平に聞いた。
(聞き手:塩谷陽子)
僕がダンスを始めたのは、二十歳の大学生の時です。横浜国立大学の教育学部に在籍していたのですが、必修科目の「一般教養」の中に「創作ダンス」の授業があり、そこでダンスと出会いました。踊ったら周りの人たちに「いいじゃない」と誉められて、大学の創作ダンス部に誘われたので入部しました。普通大学のダンス部だから、いわゆる「モダンダンス」をやる女の子しかいない。それで間違って入部しちゃったのかもしれないですね(笑)。
二十歳という遅い年齢で始めて、あそこまで身体が動いて踊れるようになるのですね。バーレッスンのような基礎トレーニングから始めたのですか?
ええ。大学のクラブの他にも習いに行って、バレエもモダンダンスも両方やっていました。
毎日毎日、踊ってばかり?
いやそういうのではなくて。ちょっと言葉は悪いですが、いわゆる「ダンスバカ」ではなかったので、バンド活動もやってました。僕は「楽器フェチ」というくらい楽器が好きで、本当にいろいろな楽器をいじっていました。南米に住んでいたことがあるので南米の楽器とか。とにかくいろいろやっていた中のひとつがダンスでした。
そんな風にしてダンスと出会ったわけですが、当時、88、89年ぐらいに横浜の(神奈川県民ホールのダンス部門のプログラミングを手がける)佐藤まいみさんが──もちろんそのころはただの学生で、佐藤さんのこともまったく知りませんでしたが──ローザスなどのコンテンポラリーダンスのカンパニーを海外から招聘していた。そういうダンスが来日し始めた時代だったんですね。大学が横浜だから、しょっちゅう観に行っていました。ピナ・バウシュの『カーネーション』とか、ジョルジュ・ドンも「アルゼンチン出身だしなぁ」なんて思いながら初めて観た。
学生にとってはチケットが高いのでそれほどたくさんは観に行けませんでしたが、でも、何しろびっくりした。「ダンスってこんなにいろんなものがあるんだ」って。つまり、ダンスのことを何も知らないままダンス部に入って踊り始めたけど、「踊る」ことと同時に「創る」ということにも出会ったわけです。おかげで、「踊る」ことと「創る」ことが、僕の中ではまったく同等のモチベーションとして芽生えた。
大学のダンス部が女の子ばかりだったのなら、そのころの近藤さんの「創る」ものは、女の子ばかりを材料にしていたのですか? いまのコンドルズは「男ばかり」というグループですが?
いや、大学でも女の子と踊っていたわけではないんです。
コンドルズのメンバーは、みんな僕みたいに「大学で初めてダンスと出会った」「大学で間違ってダンスを始めた(笑)」というヤツばかり。その仲間が出会ったのが、その頃ちょうど始まった「神戸高校・大学ダンス・フェスティバル」(女子体育連盟が主催しているダンスの祭典)です。参加者はみな大学単位で参加するのですが、男は人数が少ないから、所属大学に関係なくみんなひとつの楽屋で一緒になる。
全国津々浦々のダンスをやっている男連中がすぐに知り合いになり、しかも、「ずっと前からバレエをやっていました」というヤツはひとりもいない。ストリートダンスも出てきてはいたけど、そういうのを熱心にやって身体を使っていたわけでもない(ストリート系は僕らよりもう少し下の世代)。何しろ「たまたま大学でダンスに目覚めた」という人間ばかり。しかも「目覚めた」からと言ってそれに没頭するのでもない。あの頃の日本では、まだまだダンスは「女の子の世界」という感じでしたから。「神戸高校・大学ダンス・フェスティバル」も女子体育連盟が始めたわけですし(笑)。でも僕の仲間たちは、そういう女の子たちとダンスを創りたいと思っていたわけではなく、ダンスをやってはいるけど、それだけに特化するのではなく、それぞれ自分の方法で何らかの“表現”をしたいと思っていた「表現系」のやつらだったんです。ダンスというものに対するアプローチが、まわりとまったく違っていた。特に「関東舞踊大会」みたいに関東圏内だけで集まるような大会があると、世界も狭いし、男も少ないし、団結するじゃないですか。そうやって、大学の単位を越えて、活動するようになっていきました。
当時の日本の環境から言えば、大学4年生になったとたんに「就職活動」に躍起になるのが普通だと思います。「就職しろ」というプレッシャーを親からかけられたのではないですか?
それはもう、言われましたよ(笑)。自分自身、大学に入る前までは、いわゆる「中の上」の家庭に育ったごく普通の日本人の感覚・価値観の少年でした。でも大学にいる間にすごく変化したんだと思います。身近にいる大学の友人たちのことを面白いとは感じなくなって、でもダンスの大会に行くとあいつらがいて、めちゃくちゃ面白くて。「こいつらは誰もマトモな就職なんかしないだろうな」みたいな感じで(笑)。
その上、大学を休学して「ヨーロッパ放浪の旅」をしたことで、さらにだいぶ狂いました(笑)。出かける前はちょうど日本がバブル経済の真っ盛りで、バイトだけでいくらでも稼ぐことができた。貯めた金で放浪の旅をしたわけですが、就職なんてものをまともにしなくても、自分は──別段ダンスという意味でなくても──健康で体も効くし、お金が稼げて食べていければいいか、みたいな気持ちでした。若い時というのはそんなものかもしれませんが、1年放浪して日本に帰ってきてみたら、完全にバブルが崩壊していた。アルバイト先の事務所も、軒並み潰れていました。1年でこんなに変わるものなんだと、すごく驚いた。それならそれで、堂々と自分のやりたいことをやる道を選んで、大手をふって創りたいもの創って生きてゆく、そういう路線の代表格になってやれと決意しました。
「コンドルズ」のデビューはいつ、どこで?
96年、神楽坂のセッション・ハウスの公演です。いまから思えばいい加減に創ったという感じですが、それでも3回くらいやったら、当時のセッション・ハウスで最も観客の入る出し物になっていました。そんな中で、あそこで働いている「大人たち」──つまりプロの照明さんとか──に、公演の後で「君たちは面白いから、お金を払って観に来てもらえるものをちゃんと創れ」と言われた。「人前で見せられるものをやれ。それには俺たちが必要だ」と。よく理解はできませんでしたが、じゃあやってみるかと、99年に、東京グローブ座で行われていた「春のフェスティバル」に応募しました。
演劇系の場所というイメージのところでしたが、東京近辺ではちょっと大きなフェスティバルでした。通ったので準備を始めてから驚きました。「まともな舞台公演を打つにはお金がかかる」ということに初めて気づいたんです。照明や音響のスタッフが必要だということも、それまでは知りませんでした。助成金の申請を出したのも、その時がはじめてでした。グローブ座でやった公演の内容は、今やっているものとノリとしては変わらないですが、それがきっかけになって、評価につながり、ダンス界からも演劇界からも認知されるようになりました。


翌2000年1月、ニューヨークのジャパン・ソサエティーでそのころ年頭の恒例になり始めていた『ジャパニーズ・コンテンポラリーダンス・ショウケース』に参加したのが「コンドルズ」としての米国デビューになった。続く2001年には東アジア縦断ツアー。同年の同上ジャパン・ソサエティーでの単独公演では、ヴィレッジ・ヴォイス紙に「日本のモンティー・パイソン」と称される。さらに2002年には韓国ツアー、2003年にはアジア・オーストラリア環太平洋ツアーと海外公演も目白押し。今年3月に行われた東京の渋谷公会堂での公演では、前売り発売の14分後には全公演完売というコンテンポラリーダンス史上例を見ない記録を樹立。超人気のカンパニーとなった。


結成から約10年。近藤さんはいま37歳。コンドルズの団員も皆30代半ばから40歳までという年齢層になりました。いままでずっと、「全開バリバリ、エネルギー爆発!、行くぜ!」というノリの作品できたわけですが、この先このタイプの作品を、いつまで続けてゆくつもりでいますか? 例えば、人間だれでも齢を重ねればメンタルなものも変化しますから、若い時には全開を「稔り」と感じていても、だんだんそういうものが「変わってゆく」のが自然ではないでしょうか? 「そろそろどこかで方向転換を…」と考えていますか?
つまり、老化ということですね。いや、男というのは、意地でも「やる」ものじゃないですか。その「意地さ」がよかったりする(笑)。コンドルズは意地でも、ずっと今のタイプを続けてゆくと思います。フィジカルなことで言えば──別に逃げるわけではないですが、ガンガン踊っている時間が40分あるとしたら、それが20分に減って音楽の演奏時間が増えるとか、そういうことがあるいは出てくるかもしれない。でもこちらも経験を重ねているわけですから、踊る時間を減らしてもそれを「衰えてるな」と思わせない他のワザを、同時に増やしていけますから。
なるほど。例えば、ミック・ジャガーはもう還暦を過ぎているけど、まったく変わらない。バッドボーイの感じは昔のままですよね。あそこまでやると、当然無理はしているのだろうけれど、「無理している」と観客に感じさせない。いや「無理している」とこちらが思っても、それはそれでやっぱりかっこいい。そんなイメージですか?
そう、まったくその通り。ローリング・ストーンズはかっこいい、ああなれればと思いますね。自分らはローリング・ストーンズにくらべればごくごく普通ではありますが(笑)、はれる意地はとにかくとことんはるつもりです。コンドルズはほとんどオリジナルメンバーが残っていて(プラス多少増えている)、ほとんど顔触れが変わってない。「若いメンバーを入れて若返らせよう」なんて考えは、まったくありません。「いまのこのメンバー」というのが大事ですから。
コンドルズのメンバーは、近藤さんだけはダンスを中心にして活動していますが、他の人たちはみんな基本的に「表現系」の他の仕事を持っている。つまり「コンドルズが人生の1番」ではなく、2番目だったり3番目だったりする。老化ということは別にしても、年齢を重ねることで出てくる社会的な困難というものはありませんか? 特に男の人ばかりだと、日本では結婚したとか子供が出来たとかということで、だんだん活動がやりづらくなっていくと思いますが。
はい、実際にやりずらくなっています。それでも、そんなことは丸め込んでやっている(笑)。いや、逆にこれがコンドルズにとって結構大切なポイントなんです。「ダンス一筋」の人生じゃないけれど、いったん「コンドルズ」として集まってやる時には、もうとことんやる。コンドルズのメンバーは、あくまでコンドルズを一部として持ちながら人生の中で全体のバランスがとれているんです。「人生これだけ」というのにしてしまうと、だんだん限界が見えてくるんじゃないかと思います。ダンス一筋の生き方をしていないからこそ、みんなで続けていけると思うし、意地もはれる。それがコンドルズの味なのかもしれません。
コンドルズを離れたところの近藤さんの活動について伺いたいと思います。最初の海外公演は、ジャパン・ソサエティーでの1996年の最初のショウケースで、「カンパニー・レゾナンス」という今は無くなってしまったグループのダンサーでしたね。その後、ダグ・バローン振付の『ニード』という作品にダンサーとして参加したり、山崎広太のカンパニーのダンサーだったりと、「近藤良平」の名前は個人のダンサーとしても高い評価があります。近年は、様々な女性ダンサー兼振付家と踊るコラボレーションの活動を広げていますが。
コンドルズとはまったく違うので、面白いんです。女性と男性という違いのせいかもしれないけど、簡単に言えば、新しい可能性の探求でしょうか。コンドルズというのは、コンドルズという母体があってそれに僕も「参加する」という形ですが、デュエットというのは、つくり方として、カンパニーのために振付けるよりもすごく互いの関係が濃密。相手を女性だけと決めてるわけではないので、いろいろな面白い人たちとのデュエットは続けてやっていこうと思っています。
どういう理由で相手を選ぶのでしょう?
野和田さんとのデュオは、きっかけはセッション・ハウスの企画でしたが、彼女も二十歳を過ぎてダンスを始めた人だし、南米育ちということもあって、もうそれはぴったり合いました。そろそろ別の作品をまた一緒に創りたいですね。
「BATIK」を率いている黒田育世さんとのデュエットは?
僕が誘いました。彼女が創っている作品に興味があったというよりも、黒田さんという人間に対する興味からです。彼女のように小さい時からずっとバレエをやってきた人と、大学で初めてダンスを始めた僕やコンドルズの仲間のような人間とは、ダンスとのつきあい方がまったく違う。その違いの中から、僕自身に対して一般の観客やダンス界の人たちが持っているイメージを、彼女と踊ることで崩してみたいと思ったし、同時に彼女の持っているものを崩してみたいという興味もありました。彼女にとってもダンスの言葉が増えるという意味で、いいんじゃないか、と。
日本舞踊の坂東扇菊さんとのコラボレーションは?
あちらが「男性コンテンポラリーダンスものを創りたい」と思ってらして、そういえばコンドルズって男性ばかりだから、じゃぁその代表の近藤君にって声がかかった(笑)。僕は日舞をまったく知らなかったですし、扇菊さんは年齢的にも先輩で、彼女のまわりの人々は僕のまったく知らない世界の人たちでした。創ることや舞台そのものよりも、そういう世界を新しく知ったということにすごく知的な刺激を受けました。
他に、近藤良平個人としてやっていきたい活動は?
いまもうひとつ面白いと思っているのは、日本のいろいろな地方都市でやっているワークショップです。大分県とか鳥取県とか、知らない地方都市にあちらこちら出かけて行く。なんでもかんでも東京一局集中の日本では、地方都市ではコンテンポラリーダンスも基本的に不毛ですから。そういう地域に行くと、2種類のワークショップ参加者に出会うんです。ひとつは、バレエをずっとやってきたけど、情報やきっかけが無いためにそこを抜け出して新しいものに手を染めることができなかった、だから僕と何かやってみたいという人。もうひとつのタイプは、ダンスのトレーニングはしたことがないけれど、美術作家とかのクリエイティブ系で、踊ることを通じた表現にも興味があったのに地方だからきっかけが見つけられなかったという人。どちらも純粋で、すごく面白い。こういう人たちが、地方にはたくさんいます。彼らと一緒に何かするという活動を見つけていきたいと思っています。
コンドルズを見たことないアメリカ人にコンドルズを説明する時に、「TVのバラエティー番組みたいな作品」と言って紹介します。アメリカ人なら知らない人はいない『サタデー・ナイト・ライブ(SNL)』というバラエティー番組があって、数分のお笑いのナンセンス・スキット(寸劇)がいくつもちりばめられている90分の番組です。その合間にバンドの演奏なんかも入る。コンドルズの舞台作品の構成や可笑しさは、ちょうどSNLみたいだと説明すると、イメージがよく伝わります。例えば、世界に通用するユニバーサルな表現ということで、TVのバラエティー番組を意識しているということはあるのでしょうか?
実は、僕はテレビのお笑い番組がとても嫌いなんです。ヘンに育ちがいいのかもしれないけれど(笑)、そういう番組は子供のころに親から見ることを禁止されていたし。コンドルズの作品は、あくまでダンスから出発し、「コンテンポラリーダンス」という枠組みでやっているものです。TV番組でないだけでなく、演劇でもない。僕らの作品は、あるいは演劇というバックグラウンドから出発してたどりつく表現として生み出される可能性もあったかもしれませんが、あくまで僕らのはダンスなんです。僕の意識の中では、僕の舞台はあくまで「ライブで見せる芸術」としての「ダンス」でないといけない。コンドルズの、こんなぐちゃぐちゃ転がっていっちゃっているような内容のものだからこそ、芸術としての意識が大切だと思っています。
例えば、中学生とか高校生のワークショップに出かけるでしょう。球技やらのスポーツではすごく身体を動かせる子なのに、ちょっとでも“何も目的のないこと”をやらせようとするとまったく身体が動かなくなってしまう。そこにポイントがあると思います。僕たちコンドルズのやっていることは「勝ち負け」のような目的は何もなくて──そのことが直接「芸術」につながるわけではないけれど、ここらに芸術としてのダンスの糸口があるような気がしています。「アタマを使わないと動けない・でも与えられた目的があるわけでない」と。そういう世界を僕たちは提示しなければいけないと思うし、子供たちに対してもそういう世界があるということを知らせるべきだと思っています。