- 演劇の世界に足を踏み込んだそもそもからお聞かせください。
- 大学に入るまで、芝居なんて見たこともない人間でした。慶応大学に入学し、ずっと好きだった映画が作りたくて、あるサークルに入ったら、そこの活動の中心が映画よりも実は演劇だったんです。新入生が参加する公演に、みんなが係わるものだから、流されるみたいにして照明の手伝いから始めました。
- そこでやめずに、さらに深入りしていった理由は?
- シナリオなり脚本なり、書くことをしたかったんですね。映画を撮る機会がないうちに、芝居の脚本を書き始めて、そうすると自然に演出にも興味が湧いてきたという感じです。
- その頃の作品は、どういうものだったのですか。
- 僕の入学した92年が、ちょうど野田秀樹さんの「夢の遊眠社」の解散公演の年でした。それまでは名前を知っていた程度で興味もなかったのですが、見てみたら当時の僕にとってはすごく刺激的で、その後は野田戯曲の影響を受けたような作品を書くようになりました。もちろん全く同じスタイルのものではありませんが、あの言葉の転がりというか、言葉の運動の論理だけで思いもかけない場所まで作品を連れて行ってしまう、あの手法を最初の頃は模倣していました。
- 野田の演劇と、今の岡田さんの演劇スタイルとはずいぶんと違う気がします。徐々に推移が起きていったのですか。それともなにか大きな転換期のようなものがあって、急激に変化したのですか。
- 卒業するくらいの年に、平田オリザさんの「現代口語演劇のために」という本を読んだことが大きな転機になりました。「台詞を喋るときに、俳優がその言葉に自意識を投入してしまうのは変なことだ」と、多分、平田さんはそうおっしゃっているのだと思いますが、そういう演技論、演劇論にとても影響されました。自分が今やっていることの発端は、そこにあると思います。この本を読む前に、平田さんが指導された2日ほどの一般向けのワークショップにも参加しました。俳優の身体にわざと負荷を与えて、台詞への意識を分散させるやり方にとても触発されました。
- 俳優の体への負荷というのは?
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たとえば、同時に二組の会話を進行させることもその一つですね。こっちで誰かと喋ってる最中に、向こうでも会話がなされていて、こちらで台詞を進行させつつ向こうの会話にもリアクションをする、そういう作業です。確かにこれは台詞への意識を分散させる分かりやすい方法だと思いました。
それとその頃もう一冊ショックを受け、面白いなあと読んでいた本がありまして。ブレヒトの演劇論『今日の世界は演劇によって再現できるか』です。「第四の壁」(舞台と客席を隔てる見えない境目のこと。俳優はここに向かって演技をする)という考え方への批判なんかは、すごく感銘を受けました。
僕の中では、ブレヒトの言っていることと平田さんの言っていることは、スムーズに繋がっています。ブレヒトと平田さんが、僕のやっていることの元になっているのは、間違いなくはっきりしています。 - そうした思いの中から、「超リアル日本語」と呼ばれる、岡田さん独特の台詞の文体が発明されていった。そのプロセスは、どのようなものだったのでしょう。
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あのキチンと喋らない台詞、要領を得ない台詞を書くきっかけのひとつが、テープ起こしのアルバイトをやっていた経験にあるのは明らかです。テープの内容は、地域振興のシンクタンクが、その地域の住民を対象に行なったヒアリングなどでした。
このテープ起こしが、ものすごく面倒くさいのですが、それと同じくらい面白い。というのも、一字一字、全部忠実に文字に起こしても、何を言ってるのか全然分からないんですね。でも、言葉ではっきりとは言っていないのに、話全体からは、その人が何を言おうとしているのかは分かる。そのことにビックリした経験は大きい。
ただし、実際に戯曲を書くときに、人がしゃべったテープを起すといった手法を使ったことはありません。全部自分で書いています。だったら、もうちょっと分かりやすい台詞で書けよと言われそうですけれど(笑)、それをやると、僕にとって大切なものが落ちていってしまう。世の中の人が会話している、あの要領を得ない喋り方を再現し、その要領を得ないものの中に含まれていることを表現するのが、僕のやりたいと思っていることのひとつです。 - 細部では何を言ってるのか分からないのに、話の全体からは言いたいことが理解できてしまう、そういう会話の面白さを観客にも体験してもらいたい?
- というよりも、現に僕たちはそういう言語生活をしてるじゃないか、ということが僕にとっては大切なんです。こういうふうに喋ってるじゃないか、と。もちろん、そういう言語生活のあり方を批判することはできるんでしょうけど、僕はいいとか悪いとか判断したり、批判することにはまったく興味がない。そういう言葉の使われ方の中にわれわれは生きている。そうであるなら、演劇においてはせめて、もっと正しい日本語、クリアな日本語を使おうよ、とするのは、現実に対してすごく卑屈な態度なんじゃないかと。僕にとっては、今使われているこの日本語の方がよほど豊かで、とてもポジティブなものなんです。
- いつまでも話に区切りがつかなかったり、そういう要領のなさに加えて、主語が省略されていて、今誰が語りの主体なのかも分からなくなる、台詞としての曖昧さもあります。
- それにはまた別のきっかけがありまして。STスポットのフェスティバルに参加するために、チェーホフの『煙草の害について』を文字って、『マリファナの害について』という一人芝居を書いたんです。そのときに、友人のことを喋っているうちに、話者がその友人そのものになったら面白いと気づき、それ以降、複数の人間の会話でも同じことをやるようになりました。このアイデアの元に、もうひとつ、フォークナーの小説があります。『アブサロム、アブサロム!』の中で主体の変化が字体の区別で書かれているのですが、これは演劇でやった方がもっと面白くできるなと思っていたんですね。
- 見ていてイライラしたり、退屈したりすると言うお客さんはいませんか?
- いますね(笑)。
- そういうお客さんに対して、退屈させないサービスは。
- 僕の中にあるビジョンを僕自身が達成させられていないことが理由で退屈させてしまっているのだとしたら何とかしなくちゃと思うのですが、退屈されているのが、僕が豊かだと感じているもの、僕が提示したいもの、つまり僕の表現したい本質的な部分に対する拒否反応だったら、それについてはどうしようもないですね。
- 劇作家として作品にしていく上でのフィクショナルな作業が行われていると思いますが。
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劇作家としての作業というか、構成みたいなことで考えているのは、持続ということですね。僕は作品を俯瞰した箱書きのようなものを作っては書かないんですが、それは僕が、あるシーンと次のシーンが、本当に持続しているかどうかということだけを大切にしているからです。
- 冒頭に「今から、なんとかかんとかをやりまぁす」と告げてから舞台上の人物がその話に入ります。あれは、「昔々あるところに」と同じフィクショナルなフレーズなわけで、現実の生活には絶対にない設定ですが……。
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その辺は劇作家としての作業というより、お客さんへのサービスというか、芝居をわかりやすくするための解説としてやっています。「これこれをやる」って言えば、「ああそうなんだ。やるんだ」ってお客さんにも分かるじゃないですか。そういうことなんですけど(笑)。
- 台詞にリズムを付けようとなさってはいるのでしょうか。戯曲だけ読むと、大変リズミカルな感触があります。
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それは自覚していません。戯曲というのは、声に出して読むのを前提にしたものだから、声に出したくなるとか、声に出してみると何を言っているのか分かるとか、読んだ方がそういうふうに感じてくれるのは嬉しい。けど、僕自身が上演するときには、そういうリズムで語ってる身体は否定しています。身体は台詞のリズムとは別の固有の動きをするべきだと思っているので、戯曲からリズムが読みとれてもとれなくても、僕のやろうとしていることとは関係がありません。
- 本にする時に、編集の方が苦労して台詞に句読点を入れたと聞いています。それがリズミカルに感じるリ由かもしれません。
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もともとは、点も丸も、まるで打ってない台本ですからね、僕のは(笑)。
- 独特な台詞術と同時に、岡田さんの舞台では、俳優の身体もとてもユニークな動きを見せます。
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さっき言った平田さんから受けた影響という話に繋がりますけど、言葉への意識を散らすために、身体へ意識をシフトさせるというところまでは、平田さんの作業を追っかけているんです。ところが、言葉に意識を集中させると言葉が死んでしまうように、身体に意識をシフトさせることによって今度は身体が死んでしまう。なので、身体に意識をとどまらせることもできない。それで、意識をどこに持って行くかというと……ここからは言葉にするのが難しいのですが、イメージだのシニフィエ(意味されるもの)だの、いろいろな言い方をしているのですが、つまりは台詞や身体の動きに先立つものが人間の中にはあるはずだと。何か喋るにしろ、何か動くにしろ、ゆえなくしてではない、それらの出てくるところのものがあるはずだと。そこに意識を持っていく、それを自分の中に作れというのが、今稽古場でやってる僕の作業です。
- そのイメージというのはたとえば、スタニフラフスキー流で言う「衝動」とか、あるいは新劇の演出家がよく言ったりする「動機」とかいうものとは、違うのですか。
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スタニフラフスキーやストラスバーグ、新劇のことも、よく知らないので分かりません。もしかしたら同じものかもしれません。同じものであってもなんの不思議もないです。何からすべての言葉や動きが出ているのか、その出所があるかないかというのは、演劇にとってすごく基本的なことを言っているだけですから。
ただし、僕が必要だと思っているイメージは、受け手にとってのイメージではない。ある台詞があって、その台詞を読んだ後から出てくる悲しみや喜びを「受け手のイメージ」と呼ぶとすれば、それではありません。というのも、僕が見る限り、「受け手のイメージ」で台詞を発している演技が圧倒的に多い。ある台詞から受けるイメージを使ってその台詞を喋る演技は、決定的に間違っていると僕は思います。僕が言っているのは、すべての言葉や動きを生み出す、出所にあるイメージのことです。
- 岡田さんの稽古場では、稽古の始まる前に一般的な劇団で行われている肉体訓練の替わりのようにして、「今日あったこと」を俳優がダラダラと喋る、言葉の訓練のようなものがありますね。あの風変わりなトレーニングは何を目的としたものですか。
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あれは、喋りの訓練と言うよりも、ふだん喋っているときに自分がどうやって体を動かしているかを知ることに目的があります。そして、その動きがいかに言葉から出てきていないか、それを知ることにあります。もうちょっと説明すると、そのとき喋っている言葉を仮に台詞として与えたとしたら、その台詞から作ろうとするとどれだけむずかしい動きを自分が普段しているかが分かってくる。それを分かった上で、普段の身体に見合った動きを、フィクションとして作る手助けにしてもらうための訓練なんです。
もうひとつ目的があって、それは、言葉に先立つもの、つまり僕の言っているイメージというものが、いかに豊かかということを意識してもらう訓練でもあります。豊かというのは、出てきた言葉に対して、それに先立つイメージのほうが圧倒的に情報量が多い。先立つイメージをすべては言葉にできていない。その氷山の一角ぶりを意識してもらうということです。逆にいうと、ひとつの台詞を喋るために、必要最低限のイメージを作るというのはつまらないことなのであって、台詞よりもずっと情報量の多い先立つイメージを作るために、自分で自分の中に起きていることを把握してもらう訓練でもあります。
僕は、身体と言葉は一致しないということをいつも俳優に言っています。現実の中で、喋っている言葉を補足するような身体の動きというのはごく稀であって、たいがいはまるで違った動きをしている。そのような身体が僕は豊かだと思います。その意味で、現実にある身体の方が、演劇にある身体より豊かなんじゃないでしょうか。だからこそ、現実の身体の豊かさに少しでも近づきたいと、現実をモデルにした演劇をやろうとしているんです。
- 現実というものには一枚ベールがかかっていて、生活の中でその本当の姿を見ることは難しい。けれど、岡田さんの舞台を見ると、そのベールが一枚はげて、現実の生の顔が一部見えてくる、そんなこともあるんじゃないでしょうか。
- それでよく言われるのは、僕の芝居を見た帰りに、電車の中でうちの俳優と同じようなヘンテコリンな動きをしているやつが電車に乗ってたって(笑)。まあそれは副作用であって、狙った効果ではないのですが、ちょっと大風呂敷に言うなら、たとえば唐十郎さんのテント芝居のラストでテントがバッとはね上がって、現実の風景が垣間見えることの効果と同じようなことであればいいなぁ、と思っています。
- その豊かな身体への模索の延長なんでしょうか、岡田さんは、ダンスの分野でも活動をされています。
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実は、僕のことを最初に面白がってくれたのは、ダンスの世界の人たちだったんです。演劇の分野の人たちが関心を示してくれたのは、岸田戯曲賞をとってから(笑)。それはひとつには、僕の活動のメインだったSTスポットという場所が、日本のコンテンポラリーダンスにとって重要な拠点のひとつだったということもありますが、手塚夏子さんというダンサーの方と合同公演をしたときに、ダンス関係者が見に来て面白がってくれた。そうこうしているうちにダンスフェスティバルに出るようになって(笑)。
- 『クーラー』『マンション』『ティッシュ』という、このダンスはどんなものだったんですか。
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いい加減なタイトルですよね(笑)。台詞の量が全体的に少ないだけで、基本的にはいつも作ってる演劇と同じ。交わしている会話自体は、実にくだらない内容で、それが何か別のところに帰結するのが演劇、くだらないままに終わるのがダンス、それくらいの違いしかないです(笑)。あとは、喋っているときに出てくる一見言葉と無関係な動きへの意識が、多少誇張されるかな。ダンス作品のほうが会場が大きいから、動きは少し大げさになっています。
- 先ほど、ブレヒトに影響を受けたと言われていました。たとえば、岸田戯曲賞をとった『三月の5日間』ではイラク戦争がモチーフになっていますが、現実と演劇が深く関わり合うこと、あるいは演劇が現実に働きかけることについての考えをお持ちのように見えます。
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ふたつの問題に分けて答えた方がいいですね。まずはイラク戦争を脇において、演劇と現実の関わりだけについて言うと、舞台空間の中だけに閉じて演じることに関して、つまり空間としての虚構の中だけで生きることに関して、僕は白けているんだと思います。「第四の壁」の嘘というか。なんのかんの言ったって、観客はそこにいるし、ある時間を共有してる。逆に言うと、それくらいのことをぶっちゃけたところで、演劇は壊れやしないと思っているんです。
それから、『三月の5日間』の時に考えていたことについて言うと。戦争というものについて何かを言いたいと思ったんですが、たとえば反戦運動にコミットしていくことは、僕たちにフィットする感じじゃない気がするんです。だけど、それでも何がしかは思っている。そういうふうな、距離感を持った思い方というのを僕たちはしていて、それは、思っていないということでは決してない。そういうことを、距離感も含めた形で、提示したかったんです。イラク戦争が起こっていることに全然関心がなく、ただセックスしてる若者たちを描いた作品という見方をされることもありますが、僕自身はれっきとした反戦演劇だと思っています。
- 先ほど、現実はとても豊かだという発言がありましたが、その豊かな現実と、コミットして変えてゆきたい現実とは、岡田さんの中で別々に存在しているのですか。
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現実は変えていきたいと思っているんです。ただ、これはもしかしたらそのことと矛盾しているのかも知れないんですが、それとは別に、「君たちは、貧しい現実を生きているのだよ。もっと豊かな生のあり方があるんだよ」と思わされ、そう思うように仕向けられている立場を僕らは押しつけられているような気がするんです。それに対して僕は卑屈にだけはなりたくない。僕が言っているのは、現実がハッピーだとか、生として豊かだといっているのではなくて、あくまで演劇として見たときの、雑多な要素と複雑な仕組みで動いている一人の人間が抱えている豊かさのことなんです。
- 次の新作『目的地』はどのような作品になるのですか。
-
新興住宅地に若夫婦が住んでいて、妻が妊娠した。そのことをめぐる、まあ言ってみればそれだけの話(笑)。なぜその話をやろうと考えたかというと、僕自身に子どもがいるということもあって、今子どもを産み育てるということにまつわる、不安だとか、倫理的な問題、もっというなら、子どもを産むことは今正しいことなのかどうかということ。もちろんそんなことは分かりようがないのは分かっているから、答えを出したいのではなく、ただ問いとして発したいと思いました。
- 『三月の5日間』は、フランス語での出版の計画があるそうですが、もしチェルフィッチュの海外公演を行なうとすると、どういう上演方法があると思われますか。
- 言葉というか、台詞の問題ですよね。全然予定がないのであくまで仮定ですが、多分、字幕とかイヤホンガイドのようなかたちではなく、通訳を一人のパフォーマーとして舞台に上げようと思います。そういうスタイルが僕の作品では可能なんじゃないでしょうか。
岡田利規
「超リアル日本語」を操る
劇作家・岡田利規の冒険
岡田利規Toshiki Okada
1973年横浜生まれ、熊本在住。演劇作家、小説家。チェルフィッチュを主宰し、作・演出を手がける。2005年に『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。以降、その活動は国内外で高い注目を集め続けている。2008年、小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』で第二回大江健三郎賞受賞。2016年よりミュンヘン・カンマーシュピーレ劇場のレパートリー作品の演出を4シーズンにわたって務め、2020年には『The Vacuum Cleaner』がベルリン演劇祭の“注目すべき10作品”に選出。タイの小説家ウティット・へーマムーンの原作を舞台化した『プラータナー:憑依のポートレート』で2020年第27回読売演劇大賞 選考委員特別賞を受賞。2021年には『夕鶴』でオペラの演出を初めて手がけるなど、現在も活動の幅を広げ続けている。
チェルフィッチュ公式サイト
https://chelfitsch.net/
聞き手:岡野宏文
チェルフィッチュ『三月の5日間』
チェルフィッチュ『クーラー』
© non takagi
チェルフィッチュ『目的地』
(「びわ湖ホール夏のフェスティバル2005」より)
撮影:西岡千春
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