ジェニー・シュレンツカ

PS122からパフォーマンス・スペース・ニューヨークへ
新ディレクターが掲げるミッションとは?

2022.02.24
ジェニー・シュレンツカ

(C) Giorgio Zanardi RCK97

ジェニー・シュレンツカJenny Schlenzka

ジェニー・シュレンツカは、2017年にパフォーマンス・スペース・ニューヨークの初の女性ディレクターとして、エグゼクティブ・アーティスティック・ディレクターに就任。以前は、ニューヨークのMoMA PS1でアソシエート・キュレーターを務め、毎週開催されるジャンルを超えたライブイベントシリーズ「サンデーセッションズ」を立ち上げた。サンデーセッションズでは、Honey Dijon、Mette Ingvartsen、Ann Liv Young、Sondra Perry、Terre Thaemlitz、Justin Vivian Bond、そしてWu-Tang Clanなど何百人ものアーティストが登場、またHannah Black、Trajal Harrell、Ragnar Kjartansson、Mårten Spångberg、Anne Imhof、Matthew Lutz Kinoy、そしてTobias Madisonなどにコミッション作品も依頼している。イベント企画に加え、シュレンツカ氏は展示としてパフォーマンスを発表することにも関心を持ち、2014年にグザヴィエ・ル・ロワ回顧展、2015年にアンネ・イムホフ『DEAL』展を企画した。2008年から2012年までは、ニューヨーク近代美術館メディア・パフォーマンスアート部門のアシスタント・キュレーターを務めた。ベルリン・フンボルト大学カルチュラル・スタディーズ修士号

パフォーマンス・スペース・ニューヨーク(旧称・パフォーマンス・スペース122、もしくはPS122)は、1980年、イーストビレッジ地区にある廃校となった公立学校の建物にアーティストらによって設立された。そこにはアーティスト、クリエーター、思想家、そしてコミュニティの人々が集まり、実験的かつラディカルな表現を生み出し、パフォーマンスの概念を広げてきた。2017年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)とMoMA PS1(*1)でキュレーターを務めていたジェニー・シュレンツカが初の女性ディレクターとして就任。そして翌18年、7年間にもおよぶ改修工事を経て、名称を「PS122」から「パフォーマンス・スペース・ニューヨーク」に変更し、リニューアルオープンした。COVID-19のパンデミックが全世界を襲う直前、シュレンツカは同組織の40周年という節目の年を迎えるにあたって、『02020』という実験的なプロジェクトを立ち上げた。それは、複数のアーティストを招き、1年間、組織の運営を譲渡するというものだ。パンデミックの影響を受け、『02020』は当初の思惑通りには実現されなかったが、パフォーマンス・スペース・ニューヨークの挑戦はまだまだこれからであり、21年12月には新しいミッション・ステートメントも発表された。シュレンツカにMoMAでの取り組みと新生パフォーマンス・スペース・ニューヨークについてインタビューした。
聞き手:山﨑梨真
先日、ちょうど2022年春シーズンのラインアップが発表されましたが、まずはこのラインアップについて紹介してください。
 2019年以来のやっと本格的なシーズンという感じがして、とてもワクワクしています。トップバッターは、これまでずっと一緒に仕事をしたいと思っていたジェイド・クリキ・オリヴォ(*2)というアーティストで、彼女は以前、パピーズ・パピーズという名前で活動していました。コンセプチュアル・アーティストなのですが、ずっと本名を伏せ、ただ「パピーズ・パピーズ」という名前を使って、正体を明かしてきませんでした。たとえ登場したとしても、いつも着ぐるみなどのコスチュームを着ていました。スタジオビジットの時に、彼女はずっと寝ていて、当時のパートナーが訪れてきたキュレーターの相手をしたという有名なエピソードもあります。

 ところが数年前、トランスジェンダー女性であることをカミングアウトし、性転換し始めました。トランスジェンダーの人は常に社会から排除され、時には危害を加えられ、不可視化され続けているため、トランスジェンダー女性でありながら匿名のままでいることに強い違和感を覚えたのです。それで自分の正体を明かしたのです。最近の作品の多くは、トランスジェンダー女性としての現実、性転換、そしてトランスジェンダー・コミュニティを題材にしています。

 私たちが新しいミッションステートメントを作成したことも、彼女の作品を発表する理由の一つになっています。私たちの組織はちょうど40周年を迎えましたが、今まさに、何のために存在するのか、何に焦点を当てたいのかを問い直す時期にあると感じています。その大きな柱の一つがコミュニティです。それに対してジェイドが提案したのは、トランジェンダー女性らを招き、メットボール(*3)やアカデミー賞のような授賞式をトランジェンダー・コミュニティのために開催し、これまで彼女たちが一緒に活動を行ってきた古い世代のトランジェンダーの人たちを讃えようというものでした。

 彼女たちは2020年のプロテスト運動にもとても深く関わり、今でも定期的に集まって、社会変化を求めて共に行動を起こし、プロテスト活動を続けています。そしてこの授賞式の後は、当施設内での展示に移行することになっています。彼女はもともとビジュアルアート出身なのですが、この展示ではパフォーマンスもたくさん行われる予定です。トークイベントやコミッション作品もあり、確かレコードのリリースもしようとしていると思います。これが3月と4月に行われる企画です。

 その次のアーティストはストーリーボード・P(*4)です。有名なストリートダンサーで、最も素晴らしいダンサー、そして即興パフォーマーのひとりだと思っています。彼のパフォーマンスを何度か見たことがあるのですが、まさに衝撃的な体験でした。彼の身体の使い方は、この世のものとは思えません。彼のダンスは、フレックス(*5)と呼ばれるブルックリンのストリートダンスのスタイルに起源がありますが、それを超越すると同時に、様々なものの影響も多く取り込まれています。彼は2晩にわたって即興で踊る予定です。トークイベントも行います。というのも、彼は実に面白いアーティストで、作品についての話し方、それがどこから来たのか、そしてなぜそれをやっているのかなどを聞くと、とても興味深く、詩的でさえあります。

 他にもこれまでずっと一緒に仕事をしたいと思っていた素晴らしいアーティストがたくさん登場します。まずは、コリン・セルフ(*6)で、とても音楽的なパフォーマンスになると思います。オペラになる予定なのですが、20世紀、クイアの人たちが、警察や政府に見つからないように隠れてコミュニケーションを取り合うために使っていた「ポラリ」と呼ばれる暗号化された言語にとても影響された作品です。アリアナ・ラインス(*7)は司法をテーマにした作品を作っているところです。そしてブロンテス・パーネル(*8)の作品はシルビア・プラスの短編をもとにしたものになります。ブロンテスは作家でありダンサーでもあるのですが、彼の作品ではこの2つのメディアが相互に影響し合っています。

 トークイベントも企画していますし、他に2つの新しい取り組みもあります。1つは「オープン・ムーブメント」。これは毎週日曜日、ここの劇場スペースを開放するというプログラムです。ニューヨークに住んでいたらご存知だと思いますが、ニューヨークでスペースを確保するのは本当に大変です。アーティスト、特にパフォーマンス・アーティストには常にスペースが必要ですが、借りるのはとても高いです。それなら、毎週日曜日、私たちの劇場を開放しようではないかということになりました。さらに、モニカ・ミラビレ(*9)によるワークショップも行います。

 もう1つの取り組みが「オープン・ルーム」です。ここのロビーは、近隣コミュニティのために開放されていて、無料Wi-Fiもあり、誰でもここで仕事をしたり、ミーティングをしたり、単にゆっくりしていただくこともできます。これらの2つのプログラムは、事前予約やチケット購入をする必要はなく、ただ来ていただきさえすれば、私たちのスペースを利用することができます。
ちょうどこの新しいラインアップのように、PS122時代からここでは様々なタイプの、そしてジャンルを超えた作品が発表されてきました。インスタレーションや、展覧会、朗読など、中には従来の「パフォーマンス」というカテゴリーに収まらないような作品もありました。一方で組織としては「パフォーマンス・スペース」を名乗っています。ジャンルを超えた作品を発表していくことに特段の関心があるのでしょうか。
 もちろんです。私が就任する以前からずっとそうだったと思います。ここはかつてPS122を名乗っていて、1980年に創設されました。創設当初から、ジャンルを超えた作品ばかりを発表していました。単にダンス、単に演劇、単にパフォーマンス・アート、単にコンサートということは、ありませんでした。ここはずっと、複数のジャンルに跨がることを行なっているアーティスト、あるいは1つのメディアに収まらないアーティストのための場所でした。

 また、個人的にもそうした作品に関心があります。つい最近成人したような若いアーティスト、あるいは過去20年とは言わないまでも、ここ10年、15年の間に大人になった若い世代のアーティストは、もはやこうしたカテゴリーにとらわれて物事を考えていません。私が関心を寄せているアーティストの多くは、詩人であり、映像作家であり、そしてパフォーマーでもあったりします。コンピューター・ゲームをプログラミングできる人もいれば、本を出版する人もいて、そしてダンスも踊る。今シーズンのプログラムはまさにその良い例です。

 例えばブロンテスは、素晴らしい作家であると同時に、大学でダンスを専攻していました。つまり専門的教育を受けたダンサーなのです。私は、最も面白くて前衛的なアートは、中間的なところに生まれると思っています。結局、こうしたカテゴリーというのは、学者やキュレーター、美術館がアーティストや美術史に押し付けたようなものでしかありません。歴史的に見ても、ダダやシュルレアリスム、アンディ・ウォーホルのファクトリー、ジャドソン教会派、ミニマリズムなどはどれも、後になってからビジュアルアート、パフォーミングアート、ダンスなどと振り分けられてしまったに過ぎない。しかし、実際に作品を作っている時のアーティストたちは、常に様々なメディアと対話していました。そして、それこそがまさしく現代的な見方なのではないかと思います。

 とはいえ、ライブパフォーマンスは私たちが専門としている中核であり、常にそのレンズを通して見ています。もし朗読を行うならば、10時間のマラソン朗読にするとか。そうすれば自ずとパフォーマンスになるからです。「パフォーマンスをやっているわけではない」とは言いたくありませんが、「パフォーマンスしかやらないよ」というのは実につまらないし、抑制的で、全くタイムリーでありません。
PS122を率いたマーク・ラッセル、ヴァレホ・ガントナーという2人の前任者を経て、2017年、初の女性ディレクターに就任さました。それ以前は、MoMA PS1でキュレーターをされていましたが、どのような経緯でこの組織を率いることになったのですか?
 「ディレクターに応募してみてください」と声を掛けていただきました。その当時、私はPS1にいて、その前にいたニューヨーク近代美術館(MoMA)でライブパフォーマンスを専門的に扱うようになりました。美術館初の常勤のパフォーマンスアート専門キュレーターでした。私の前にはそういう役職はなく、MoMAでメディア・パフォーマンスアート部門の設立に携わりました。

 PS1では、「サンデーセッションズ」という毎週開かれるライブパフォーマンスのプログラムを立ち上げました。その頃には、ある程度、ライブアートの専門家になっていたように思います。MoMAに5年間、PS1に5年間在籍し、ある意味、次のステップに進むタイミングにきていました。PS122の理事メンバーが「新しいエグゼクティブ・アーティスティック・ディレクターを探している」と声を掛けてくれて、応募し、採用されました。それ以降、振り返ったことはありません。
この組織に入る以前、外からPS122をどのように見ていたのでしょうか。
 ニューヨークに来た当初、何度か足を運びました。ただ、2011年には建物の改修工事が始まっていました。つまり、私がパフォーマンスに本格的に取り組むようになった頃には、すでに閉鎖されていたのです。前任のヴァレホ・ガントナーの時代には、毎年1月に「COILフェスティバル」(*10)を主催していましたが、いつも別の会場で開催されていました。PS122の公演はたくさん観ていましたが、キッチンやアブロンズ・アートセンターなど他の場所に行っていました。なので、正直なところ、PS122の公演だとあまり認識していませんでした。存在は知っていましたし、何をやっているかいつもチェックしていましたし、たくさんの公演を観ていました。でも、PS122と結びついた建物がなかったので、あまり意識することもなく、思っている以上に彼らの公演をたくさん観ていることに当時は気づいていませんでした。建物がなかった時期というのは、組織として実に大変だったと思います。
就任された2017年は、建物の改修工事が終わり、リニューアルオープンされた時期でした。そして、最初にやったことの1つが組織名を「PS122」から「パフォーマンス・スペース・ニューヨーク」へと変更することでした。ロゴも変わりましたね。どのような決断があったのでしょうか。組織のリブランディングを図ったということですか。
 いろんなことが絡んでいたと思います。採用された当初、建物はすぐに再オープンするはずでした。しかし、その後、工事が1年以上長引いてしまい、組織についていろいろと考える時間がありました。もしすぐに新しいシーズンの企画を組まなければいけない状況だったら、大幅なリブランディングをしようとは思わなかったでしょう。建物がない時期だったので、更新ボタンを押すなら今だと思ったのです。実際、若い世代やこの組織についてあまり知らない人と話すと、名前のせいでかなり混乱されているのがわかりました。というのも、アメリカで「P.S.」といえば「Public School(公立学校)」の略なので、ここを公立学校と勘違いする人もいれば、MoMAのPS1と混同する人もいました。
 PS122には素晴らしい歴史があるので、企画プログラムとして当時のアーティストを招いて公演してもらったり、新しい作品を依頼したり、その歴史について話すなど、敬意を表してきましたし、今でも続けています。

 一方、「PS122」という名前にどこか排他的なところがあると感じてもいました。そもそもこの名前はどういう意味なのか?学校なのか?PS1のことなのか? それで、ここは「パフォーマンス・スペース」だとはっきり知ってもらいたいと思いました。そして明確にここが何なのか、名前で誰にでもわかるようにしたかったのです。

 先ほどの質問にもありましたが、文学やビジュアルアート、そしてコミュニティ・イベントなどもプログラムに盛り込みたいと思っていました。スケートボーダーたちが劇場内にスケートパークを再現したこともあります。普通ならば劇場ではやらないだろうと人々が思うようなことにも取り組みたかったのです。古い正式名称は、実は「パフォーマンス・スペース122(Performance Space 122)」だったのですが、みんな「PS122」と呼んでいて、その正式名称は誰ひとり使っていなかった。だから「パフォーマンス」を名前に入れて、「パフォーマンス・スペース」とみんなに呼んで欲しいと思いました。そうすることで、私自身、「ライブパフォーマンスとは何か」ということをもっと押し広げることができるのではないかと思いました。後悔はしていません。名前を変えたことでずっと明確になりましたし、より包括的になったと思います。
反対の声はありませんでしたか?前世代の舞台芸術のアーティストは「PS122」を通過し、キャリアをスタートさせた人がたくさんいます。
 最初は、ショックを受けて動揺した人も中にはいたと思います。でも、実際の公演内容を見て多くの人が意見を変えて受け入れてくれました。最初のシーズンはPS122、パフォーマンス・スペース・ニューヨークのあるイーストビレッジ地区とその歴史に捧げた内容でした。ちょうど今、来年の企画を練っているところですが、当時、PS122に関わった多くのアーティストに再び声をかけているところです。もちろん、説得しなければならない人も何人かいました。創設者や前任のディレクターたちとも話をしました。気に入ってくれない人もいましたが、それでも最終的には多くの人が納得してくれたと思っています。

 ここしばらく批判的なことは耳にしていません。まあ、面と向かって言わないだけかもしれませんが。怒る理由はわかりますし、驚きはしませんでした。もし、自己形成と深く結びついた団体の名前が変更されたとしたらどう感じるでしょうか。この名前に深い思い入れがある理由もよくわかっていますが、名前を変えない根拠としては少し弱いとも思いました。新しい観客からしたらとても紛らわしい名前でしたから。

 ディレクターとして、前世代のアーティストたちとの関係が切れることはないとわかっていましたし、彼らの存在を当然のものとして捉えていました。むしろ考えていたのは、新しい観客をどう開拓していくのかということ。この周辺地域もだいぶ様変わりしましたし、舞台芸術という分野も変わったので、名前を変えることが必要だと思いました。
話は変わりますが、出身や経歴についてもお聞かせください。舞台芸術やパフォーマンスに携わるようになったきっかけはどのようなものでしたか?もともとは映画やビデオについて学ばれていたそうですね。
 カルチュラル・スタディーズの修士号を持っています。ドイツのベルリン出身で、ベルリンにある大学に行きました。とても学際的なところで、もしかしたらジャンルを超えたものへの興味もそこからはじまったのかもしれません。美術史はもちろん、美学、メディア研究、ジェンダー研究、文学、歴史・・・ありとあらゆるものを勉強しました。人文科学全てと言ってもいいほどです。その中でもメディア研究、特にビデオや映画、テレビに焦点を当てていました。

 それで、MoMAで働き始めた当初は、映画部門に所属していました。それから映画部門から分かれて立ち上がったメディア部門に移ったので順当な配属でした。その後、2007年か、2008年に、クラウス・ビーゼンバック(*11)のもとでメディア部門がメディア・パフォーマンスアート部門へと組織変更になりました。メディア・パフォーマンスアート部門に変わったとき、パフォーマンス専門のアシスタント・キュレーターが必要になりました。当時、私は彼と一緒に仕事をしていて、すでにパフォーマンスに携わった経験があったことから、ラッキーなことに彼が「やってみたいか」と声をかけてくれました。あらゆる世代の素晴らしいパフォーマンス・アーティストが大勢いるニューヨークにいられたのは本当に幸運でしたし、実際、私はアーティスト本人たちからパフォーマンスやパフォーマンスアートについて学んでいきました。

 また、舞台芸術、特に演劇がとても重要視されているドイツで育った影響もあるかもしれません。ドイツではみんな学校で演劇を学び、家族と舞台を観にいきます。アメリカで演劇を観るのは高くつきますが、ドイツでは補助金が出ているため安く観ることができます。ですから観劇は生活の一部でした。でも、大学生の頃は演劇に関心があったわけではなく、将来は映画の仕事をすると思っていました。

 ですから、アートや美術、舞台芸術とは異なる出身であり、「私は専門家じゃない」と思っていたので、最初は不安もありました。でも何年かするうちに、自分が異なった視点を持ち込み、違った見方をすることで、知らず知らずのうちに、実は固定観念を打ち破ることができていると分かりました。専門的な教育は受けていないけれども、現代アーティストと一緒に仕事するには、それは決して悪いことではありません。専門的な訓練を受け過ぎて、例えば6年間ずっとその勉強しかしていなかったばかりに、絵について話す方法、書く方法、展示する方法が1つしかないと思い込んでしまうこともあるかもしれません。でも、私はそうではなかったので、最終的に自由でいることができました。
2008年から12年までMoMA、そして12年から17年までPS1でキュレーターをされていました。そこでの仕事についてもう少しお聞かせてください。美術館という空間でパフォーマンスを発表するというのは、どのようなことでしたか。
 とても面白かったです。今ではどこの美術館もパフォーマンス事業を行なっていますが、15年ほど前は全く様相が異なっていました。確かにかつてもパフォーマンスは行われていました。美術館の所蔵資料をたくさん調べたのですが、オノ・ヨーコが勝手にパフォーマンスしたり、もしくは草間彌生やジャン・ディンゲリーがやったり。いろいろ発表されていましたが、大抵、夏の庭園コンサートとか、展覧会のオープニング・レセプションなどでのパフォーマンスで、主要展覧会の付属企画でしかありませんでした。

 私がキュレーターになったときには、MoMAは開館して70年か80年ぐらいたっていましたが、展示・保存・収蔵することに特化した見事な装置、円滑に動くとてつもない機械のようでした。そこに、生きた、呼吸する、汗をかく、そして食べる身体、パフォーマーを迎え入れるということは本当に大変でしたが、とても刺激的でした。

 当時はまだ若く未熟だったので、そのことに気づいていませんでした。あらゆる面で運営方法が完全に確立されている組織に、ライブパフォーマンスを持ち込むことは正に冒険でした。世界で最も才能のある、野心的な人々が一緒になった素晴らしいチームで働きながら、私は多くのことを学びました。

 とはいえ、パフォーマンスを企画する体制が出来上がっていなかった初期には思いもよらないことも起きました。例えば、プロデューサーもいなくて、パフォーマンス企画の予算の立て方もわかりませんでした。「パフォーマーたちはどこで衣装に着替えるんだ?」「彼らはどこのトイレに行けばいいんだ?」「しまった!食事がいるんだ!」などというやり取りもありました。もちろん彼らは水も飲む必要がありますが、美術館の展示室で飲食は禁じられています。こうしたロジスティックな課題がたくさんありました。

 しかし、実際にやってみて、パフォーマンスによってさらに展示室が活気づく様子を目にするのは興味深かったです。今のMoMAには、展示室にもなるパフォーマンス用の新しい多目的スペース(*12)がありますが、当時はそのようなスペースはなく、展示室やアトリウムを使うしか選択肢はありませんでした。アトリウムは個人的にはとても好きなスペースですが、パフォーマンス作品を発表するには最悪でした。石床なので、ダンサーがそのまま踊ると怪我をしてしまいます。あまりに巨大な空間なので、音響も最悪です。このように様々な課題がありましたが、まだ最初だったので、今では不可能なこともたくさんやれました。意図していたわけではないのですが、基本的に私ひとりでやっていたので、気づいたらそうなっていたのです。

 また、常に観客がいるのも興味深いところでした。MoMAには毎日、何千人もの観光客がやってきます。展示室でパフォーマンスをすれば、そこにはすでに観客がいました。本当に世界中から様々な人がやって来るんです。

 が正式にキュレターになる前、出身も世代も全く異なる様々なパフォーマンス・アーティストを招いてパフォーマンス・ワークショップを始めました。これは、アーティストとキュレーターが一緒になって、美術館にライブパフォーマンスを取り込むにはどうしたらいいのかをとことん考えるものでした。当時、ライブパフォーマンスに取り組んでいた大きな美術館はロンドンのテートだけだったような気がするので、まさに新境地を開拓する感じでした。
パフォーマンス作品の収集にも関わっていらっしゃったと思います。美術館にとって収集は主要な役割の1つですが、パフォーマンスの収集というのは具体的にはどのような取り組みなのですか?
 MoMAのようなところでは、展示企画同様、収蔵コレクションが美術館の全てであるのは明白でした。クラウスはとても戦略的でしたが、私はまだ若く未熟だったので当時はあまりよく分かっていませんでした。パフォーマンス作品を収集すること、収蔵コレクションに加えていくこと、そして展覧会を開くことについてすぐに話し合いを行いました。その結果として実施したのが「パフォーマンス展示シリーズ」です。またちょうど、クラウスがマリーナ・アブラモヴィッチ展(*13)に取り組み始めた時期だったので、その企画についてもかなり話し合いました。

 最初に購入した作品の1つはティノ・セーガルの作品だったかと思います。彼はダンス出身のアーティストですが、美術館はパフォーマンス作品も購入できると言いはじめました。ちなみに彼は自分の作品を「パフォーマンス」とは呼ばず、「シチュエーション」と呼んでいます。彼は作品記録を全く残さないので、作品購入それ自体が複雑なパフォーマンス作品のようでした。あったのは、このほんの一瞬しか存在しない作品を収蔵コレクションに加えるという、いわば購入の儀式でした(*14)
 それから、スロベニア出身のローマン・オンダックの作品も購入しました。購入したのは《Measuring the Universe(全世界を測る)》という作品です。参加型の作品で、何もない空っぽの展示室から始まります。そして美術館係員が壁に来場者の背丈の印をつけていきます。子どもの身長を測る時、壁やドア枠などに小さな線を引いて、日付と名前も書いて、成長の記録を残したりしますよね。それと同じように展示室に来た人みんなの背丈の印をつけていくと、その街、もしくはその瞬間の素晴らしいポートレートが出来上がるという、その作品を購入しました(*15)

 そして、偉大な振付師でムーブメント・アーティストのシモーヌ・フォルティと仕事するようになりました。最初の企画のひとつとして、2009年に彼女の《ダンス・コンストラクション》を発表しました。彼女の作品収集についても話し合いが始まりました。彼女は前世代のアーティストで、この作品はもともと60年代初頭に発表されたものです。作品収集についてすでに考えのあった若い世代のティノやローマンなどとは対照的で、どういった形で《ダンス・コンストラクション》を収蔵することができるか尋ねると、「いいえ、これはみんなのものです!」と言われてしまいました(笑)。なので、かなり年月がかかったのですが、私の後任であるアナ・ヤネフスキとスチュアート・コマーが最終的に購入を完了させ、今では近代美術館の収蔵作品の一つになっています(*16)。それ以来、MoMAは数多くのパフォーマンス作品を購入し、そしてもちろん記録資料も多く収集してきました。ある意味、これがパフォーマンスを収集する一番簡単な方法です。
記録ビデオのようなものですか?
 ええ、パフォーマンス作品を記録したものです。ただ、そこには「これは本当に作品といえるのか?」という哲学的な問いが付きまといます。アーティストによっては、それが作品である場合もあるし、他のアーティストにとっては、全くそんなことはない場合もある。これらのワークショップや対話から学んだ重要なことの1つは、パフォーマンス作品を収集するには、絵画を購入するような決まった方法はないということです。それは魅力的なことでもあります。それぞれの作品、それぞれの収集方法についてかなり具体的にアーティストと話し合い、一緒に進めていく必要があります。
では、最近のトピックについて聞かせてください。2020年はいろいろな意味で大変な年でした。ちょうど組織の40周年の年でしたが、新型コロナウイルスのパンデミックが全世界を襲い、全ての人が未曾有の困難に直面しました。そして、多くの中小の文化芸術団体は、これで最後かと悲嘆に暮れました。どのようにしてこの難局を乗り越えたのですか?
 新型コロナウイルスやパンデミックについて誰一人何も知らなかった時のことですが、40周年を迎える2020年に、何か特別でこれまでにないことをやろうと考えました。2018年、つまり誰も何も知らなかった時、2020年には通常のプログラムを何もやらず、代わりに複数のアーティストを招いて、この組織の持っている事業予算をすべて渡そうと決めました。そして、私たちのオフィス内にスペースを提供し、鍵も渡し、彼ら自身も手当を受け取るようにしてもらい、私たちスタッフおよび理事会と協力して仕事をしてもらう。そして、その年の芸術プログラムに関して全権を委ねる。きちんと経費を払い、危険なことはせずにこの施設が使われている限り 、ここで働いてもらい、やりたいことを何でもやってもらうのです。

 パンデミックに見舞われた時、もちろん心が痛みましたし、いろいろな意味で怖かった。ただ、他の舞台芸術団体とは違って、幸いにも、予定していた企画は何もなかったので、スケジュールしていたものをキャンセルする必要がありませんでした。それで事業予算のほとんどは、隔週支払う形で、アーティストのサポートに割り当てました。ある意味、アーティストをサポートできる体制にあったといえます。

 しかし、当然ながら、ここも閉鎖し、ロックダウンを余儀なくされました。アメリカの団体ならばどこでも常にファンドレイジングしたり、収入を得るために様々なことをしなければなりませんが、その年は、そうしたことは何もできませんでした。なので、生き残るために何をしたかという質問に答えるならば、自分たちを小さくしました。一番大切なのは、スタッフを維持し、アーティストたちに給与を払い続け、彼らが苦しまなくてすむようにすることだと、すぐに理事会と決断しました。そして、多くの財団に働きかけ、他の団体とも連携しました。パンデミックの中で最も素晴らしかったことの1つは、他の団体と連携し、毎日のように連絡を取り合ったことでした。一緒に協力して資金集めをし、緊急助成金を申請しました。幸運なことにたくさん助成金を受けることができました。それに政府からの特別給付金があったので助かりました。最初の年は、誰も解雇する必要はなく、本当によかったです。私たちはまだここにいます。

 アーティストたちとの仕事は継続しましたが、最初はリモートになりました。そして、2020年夏の政治運動が起こった時、アーティストの何人かはまたここに戻ってきて、イニシアチブを立ち上げました。無料学習プログラムや、人種差別撤廃イニシアチブ、そしてたくさんの相互扶助活動などです。かなりカオスな状況でした。素晴らしい瞬間はもちろんありましたが、とても大変な時でもありました。

 そしてこの『02020』プロジェクトに参加したアーティストの中には、そのままここに残り、今も私たちとともに組織改革に取り組み、コミュニティに貢献するより公平で、よりアクセス可能で、より開かれた組織を作ろうとしています。新しいミッション・ステートメントはそこから出てきました。「オープン・ムーブメント」と「オープン・スペース」もそこから誕生しました。他の人にとってもそうだったと思いますが、特にパフォーマンス・スペース・ニューヨークにとっては、まさに変革の年でした。
新しいミッション・ステートメントについて、もう少し詳しく話していただけますか。
 過去40年の間にステートメントは何度か変わっていますが、2017年に私がディレクターに就任した時点で、当時のミッション・ステートメントはほぼ10年前のものでした。作り直す必要があることはわかっていました。ただ、最初の頃は、リニューアルした建物に戻ってくることと事業企画に集中していました。加えて、エグゼクティブ・ディレクターとして、常にファンドレイジング、ファンドレイジング、ファンドレイジング‥‥という状況でした。なので、『02020』の実験的企画を計画し始めた時、新しいミッション・ステートメントは私が目標にしていたことの1つであり、2020年にやりたいこととして理事会に伝えました。
02020
02020
02020
02020
02020
02020

『02020』
(C) Performance Space New York

かなり以前から計画していたのですね。
 ええ。2019年の時点で、ミッション・ステートメントに取り組むことはすでに決まっていました。理事会、そしてチャンピオンズ・デザインというエージェンシーと協力して取り組みました。彼らは多くのリサーチを実施し、アーティストやコミュニティにたくさんのインタビューを行いました。ミッション・ステートメントというと大抵はかなり回りくどいものになってしまいます。その業界にいないと、何が言いたいのか全くわからない。でも私たちは、とてもシンプルで、端的で、記憶に残るような、それでいて的を射たものにしたいと思いました。ここで働いているスタッフや理事会メンバーが、「えっと、実は、ミッションが何か知らないんです」なんて言うことがないよう、誰もが同意できるようなものにしたかった。そうして出来上がったステートメントを、私は本当にすばらしいものだと思っています。ちょっとした詩のようでもあり、とてもシンプルです。こうです。

 アーティストにYES
 リスクにYES
 コミュニティにYES
 全ての人にYES
 _____にYES

 今からちょうど1ヶ月後、2月末に初めてのタウンホール集会を開きますが、これは毎年実施していく予定です。コミュニティの人が集まり、私たちが何に重点をおくべきか、何が必要かを提案してもらえたらと思っています。ミッション・ステートメントの最後の行の空欄を埋めてもらうこともできます。それをミッション・ステートメントの一部として盛り込み、そしてその目標に向かって邁進するのです。
最後の質問になります。少し大きな質問になると思いますが、現在のニューヨークのパフォーミングアート・シーンをどのように見ていますか。そして今日のプレゼンターとしての役割についてどのようにお考えですか?
パフォーマンスは、これまで以上に重要な意味を持っていると思います。アーティストは特にパンデミックの打撃を大きく受けました。去年、通常に戻っていく兆しが見え始め、秋には週2、3公演ぐらい観に行けるようになった時もありました。そうしたらオミクロン‥‥。例年、ニューヨークの1月は、実験的なパフォーマンスの公演が最も盛んになる月なのですが、今年はほぼ全てキャンセルとなってしまいました。とても心が痛みました。

 今日のプレゼンターの役割は、今この瞬間に応えることだと思います。例え2019年の時点では物事が変わりつつあること、従来のやり方が通用しなくなっていることを知らなかったとしても、今では誰もがそのことに気づいています。おそらくメトロポリタン・オペラやリンカーンセンターですら、新しい時代にいるとわかっているはずです。旧態依然はもう通用しない。アート制作についても同じです。こうした変化に最初に反応するのは、いつもアーティストです。プレゼンターの役割は、彼がどこに向かっていようと、どこに行くことが必要であったとしても、まずは彼らをサポートすること、こうした変化を支持すること、そしてこの歴史的瞬間に応えることだと思っています。

 アートはこれから大きく飛躍すると思いますし、実際に私はそれを肌で感じ、目撃しています。後からこの瞬間を振り返った時、この前後で明確に違っているでしょう。私たちの責務は、こうした変化と移行をサポートすることにあります。私たちが話を聞いたアーティストたちは、アート団体と深い関係を築くこと、そしてアーティスト同士の関係を深めることが必要だと明言していました。これまで競争があまりにも激し過ぎました。フェスティバルという形式が、アーティスト間の競争と孤立を生み出してしまったのです。でも今、彼らが必要としているのはサポートです。特にニューヨークでは、みんながスペースを必要としていて、リハーサルするスペースへのアクセスがもっと必要です。そして、もっと深い関わりが求められています。これが、私たちが今まさに応えようとしていることです。

*1 MoMA PS1はアメリカにおける最も古い大規模な現代美術館の一つである。1971年に「Institute for Art and Urban Resources Inc」として設立され、後に「P.S.1コンテンポラリー・アートセンター」となった。2000年以来、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の傘下に入る。MoMA PS1の多種多様なプログラムは、回顧展、サイトスペシフィック・インスタレーション、サーベイ展、さらに音楽やパフォーマンスイベントなどを含み、毎年50を超える展示企画が行われている。

*2 パピーズ・パピーズとしても知られるジェイド・クリキ・オリヴォは、ブルックリンに拠点を置くコンセプチュアル、パフォーマンス、インスタレーション・アーティスト。彼女の初期の作品は、性別や出自、その他個人的な詳細が特定されないように匿名で発表していた、スポンジボブや自由の女神のコスチュームで登場することでも有名。2018年、日本人の母親と、先住民およびプエルトリコ人の父親に持つトランスジェンダー女性であることを明かす。2021年12月、クリーブランド現代美術館第二回トビー賞を受賞。

*3 メットボール、もしくはメットガラは、ニューヨークのメトロポリタン美術館コスチューム・インスティテュートが毎年開催するファンドレイジングのガラ。招待された有名人が著名デザイナーの衣装を身にまとい、レッドカーペットを歩くことでも有名なファッションイベントでもある。

*4 ストーリーボード・P(本名、サーリム・ムスリム)はブルックリン出身のベッシー賞受賞ダンサーおよび振付師。雑誌『ニューヨーカー』に「ストリートダンスのバスキア」と評される。これまでカリール・ジョセフ、アーサー・ジャファ、ジェイ・Zなどのアーティストとコラボレーションしている。
https://youtu.be/CiOjKotMqO0

*5 フレックス、もしくはフレックシングは、ブルックリン発祥のストリートダンスのスタイルで、ダンサーが驚異的な柔軟性で折り畳むように身体を曲げる。

*6 コリン・セルフはニューヨークとベルリンに拠点を置くアーティスト、作曲家、振付師。意識・二元性・知覚とコミュニケーションの限界を押し広げるような音楽・パフォーマンス・環境作品を制作。これまでオランダ国立オペラ、HAUベルリン、ニューミュージアム、MoMA PS1、キッチン、イシュー・プロジェクトルームなど、国際的に様々なフェスティバル・会場で公演。
http://colin-self.com/

*7 アリアナ・ラインスは詩人、劇作家、パフォーマンス・アーティスト、翻訳家。最新の詩集『サインド・ブック』は全米図書賞のロングリストにノミネート。ホイットニー美術館、グッゲンハイム美術館、スチュアート・シャイブ・モダンアートなどでパフォーマンスおよびアート作品を発表
https://www.arianareines.net/

*8 ブロンテス・パーネルは作家、音楽家、ダンサー、映画作家、パフォーマンス・アーティスト。著書には『Since I Laid My Burden Down』やアートブック『Fag School』などを含む。パンクバンドのThe Younger Loversのフロントマンであり、ブロンテス・パーネル・ダンスカンパニーの創設者でもある。

*9 モニカ・ミラビレはニューヨークに拠点を置くアーティストで、シグリッド・ローレンとともにパフォーマンス・デュオのFluTとしても活動。ブルックリンにある低価格に設定されたパフォーマンス練習スタジオのOtion Front Studioの設立者でもある。
https://monicamirabile.com/

*10 COILフェスティバルは、Performance Space 122が2005年から2018年まで毎年冬に開催していたフェスティバル。全米および世界中からの現代パフォーマンス作品を紹介していた。

*11 クラウス・ビーゼンバックは、ドイツ・ベルリンの新ナショナル・ギャラリー現館長。前ロサンゼルス現代美術館館長、元ニューヨーク近代美術館チーフ・キュレーター、元MoMA PS1館長。

*12 ニューヨーク近代美術館は増改築工事を行い、2019年10月にリニューアルオープンした。増改築工事の一環として、ライブパフォーマンスや実験的企画のための多目的スペース「マリー・ホセ&ヘンリー・クラヴィス・スタジオ」を新たに設けた。

*13 マリーナ・アブラモヴィッチ回顧展『The Artist Is Present』は2010年3月から5月まで開催。

*14 ティノ・セーガルは自身の作品の写真・映像撮影を一切認めていない。彼の作品が購入される場合、取引は全て口頭で行われる。ニューヨークタイムズマガジンの記事によると、MoMAが彼の《Kiss》を購入した際の価格は7万ドルであった。「書面の契約書はなく、セーガルの作品の購入取引は、弁護士か公証人の立会いのもと、口頭で行われなければならない。どのような作品か説明され、セーガルもしくは彼の代理人の監督のもと不特定回数作品を展示する権利が規定され、そして作品の価格が提示される。購入者はいくつかの制限に同意することになる。最も重要なのは、作品の記録を残すことを一切禁じ、将来的に作品の所有権を譲渡することになっても、その制限は及ぶ。」
(引用:https://www.nytimes.com/2010/01/17/magazine/17seghal-t.html

*15 美術館などがローマン・オンダックの作品を購入する場合、書面の指示書を購入する。美術館は展示した時の記録を残すことが許されている。

*16 2015年、近代美術館はシモーヌ・フォルティの《ダンス・コンストラクション》の購入を完了させる。この作品は、ベニヤ板やロープを使ったミニマルな構築物と、ダンサーのシンプルな動きとで構成される。美術館が作品として購入したのは、上演権利、構築物、膨大な量のフォルティによる文章、そして説明資料の一式など。説明資料には、指導ビデオ、スケッチ、過去の資料写真、ノート、そしてインタビュー記録などが含まれた。2016年には、ダンスペース・プロジェクトと共催で若い世代のパフォーマーのためのワークショップを実施した。
https://www.moma.org/explore/inside_out/2016/01/27/moma-collects-simone-fortis-dance-constructions/

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