- アタカラリ・センター・フォー・ムーヴメント・アーツ(以下、アタカラリ・センター)の主な活動を教えてください。
- 伝統舞踊とコンテンポラリー・ダンスの研究と教育、そしてクリエイションです。私はインドの伝統舞踊を経てイギリスでコンテンポラリー・ダンスを学び、ダンサー・振付家として14年間活動。帰国して、1992年7月にアタカラリ・センターをオープンしました。
- ベンガルールを選んだ理由はなんですか。
- 私の故郷のケララ州には資金がなく、伝統舞踊が盛んなチェンナイは少し保守的で、デリーは政治色が強すぎますし、ムンバイ(ボリウッド(*1)の拠点)は商業的すぎる。その点ベンガルールは新旧文化がほどよく混ざり、気候もよく、一年中仕事ができるので選びました。
古いガレージを改装し、部屋の壁を取り払って大きなホールをつくり、2階にはオフィスを増築して2つのスタジオをつくりました。インドのダンスはコンクリートや石の床で踊るのが一般的で、よく膝を傷めていました。それで、私はイギリスの友人からクッションを木で挟んだダンス用の床のサンプルを送ってもらい、床材を合板工場でつくりました。リノリウムのマットもロンドンの友人が寄付してくれました。こうしてアタカラリ・センターは、インドで初めてダンス用の床を備えた施設としてオープンしました。 - センターの名称である「アタカラリ(Attakkalari)」とはどういう意味ですか。
- 南インドの言語の中でも古いドラヴィダ語で、「Attam」は「パフォーマンス」、「Kalari」は「場所」のことで、アタカラリは「パフォーマンス・スペース」という意味です。当初は「アタカラリ・センター・フォー・コンテンポラリー・パフォーミング・アーツ」と称していました。
- 設立資金はどのように集めたのですか。
- 最初は私がロンドンの仕事で貯めたわずかな貯金を投資しました。それと、ダンス教育のプログラムへの出資を募ったところ、サー・ラタン・タタ財団が資金を提供してくれました。この教育プログラムが好評で、公益信託(Public Charitable Trust)の非営利団体を立ち上げることになりました。私達の意気に感じて、タタ財団に勤めていたある女性が公益信託設立に協力してくれました。
最初の公益信託の原資は約1200万ルピー(約1800万円)でしたが、5年後には4000万ルピー(約6000万円)、その後さらに4000万ルピーを追加しました。この基金を使ってダンス教育のための奨学金支援などをしています。基金の利子の50%をアタカラリ・センターの事業に充て、残りの50%を基金の原資に組み込んでいます。
現在では、サー・ラタン・タタ財団(Sir Ratan Tata Trust)、インド政府文化局(the Department of Culture Government of India)、ファナック・インディア(Fanuc India Pvt Ltd.),TNQテクノロジーズ(TNQ Technologies Pvt Ltd.)の支援を受けています。「ファナック」は産業用ロボット等をつくる会社ですが、本社は日本の企業です。TNQテクノロジーズは医療関係の雑誌の編集をしているチェンナイの企業です。 - センターが設立された1992年、インドのダンス状況はどのようなものでしたか。インドは伝統舞踊が強いイメージがありますが。
- そうですね。少しインドのダンスの状況と流れを説明しておいた方が良いでしょう。アタカラリ・センターを始めた1990年代には、インドにはコンテンポラリー・ダンスがほとんどありませんでした。しかし、戦前から音楽家のラヴィ・シャンカール(Ravi Shankar)の兄のウダイ・シャンカール(Uday Shankar)が『ラーダ・クリシュナ』(1923)でアンナ・パブロヴァと共演するなど、インドのアーティストはヨーロッパと交流していました。ウダイ自身は正式な舞踊教育を受けたわけでありませんが、インド北部のアルモラ(Almora)にインド文化センターを建てました。活動期間は約4年間でしたが、伝統舞踊の様々な教師を招くなど、特筆すべき取り組みをしました。
1970年代にはインドでも現代的なダンスの研究所を設立するプロジェクトがあったそうです。しかし、官僚主義に陥って頓挫したと聞いています。視覚芸術や現代演劇、現代音楽のための研究所はあるのですが、ダンスは宗教に直結していることもあり難しいところが多かったのです。 - ジャヤさんの生まれはどちらですか。
- 私はインド南部ケララ州のスリッスール地区で生まれました。両親とも教師で、ダンスとは無縁でした。私のコミュニティからは伝統的にダンサーや武道家が多く出ています。男子がダンスをやることは推奨されませんでしたが、カタカリ(Kathakali)は別で、有名な男性ダンサーを輩出しています。私は子どもの頃に伝統舞踊を少しと、ケララ州の伝統武術であるカラリパヤット(Kalaripayattu)を習っていました。
- インドの子どもたちは皆、伝統的な踊りを習うものなのですか。
- そうでもないですね。とくに私が生まれた頃から、インドも核家族化が進んでいましたから。以前は大規模な共同家族で、女性が力を持っていました。母系社会で、財産は女性が継ぐのです。私はたくさんの子どもたちと一緒に野山を駆けまわって、素晴らしい時代を過ごしました。勉強もできたので、大学進学にあたっては4つの奨学金を得ました。
- 大学では物理学を専攻されました。
- はい。しかし17歳ぐらいから本格的にバラタナティヤム(Bharatanatyam)(*2)を学び始めました。大学を卒業すると、両親にはコンピュータ・サイエンスを勉強すると言って、1982年にチェンナイ(*3)へ行きました。しかし授業には出ず、朝から晩まで伝統舞踊のクラスを受けまくりました。そして最終的にダナンジャヤン(Dhananjayans)スタイルのバラタナティヤムと、カラクシェトラ(Kalakshetra)スタイルのカタカリを学びました。チェンナイを拠点としていたチャンドラレーカ(バラタナティヤムを修めながらも新しい表現に取り組み、世界的に評価された)の作品『アンギカ(Angika)』にも参加しました。
- 伝統舞踊だけでは満足できなくなっていたのですね。
- 私はより新しい身体言語を探して、演劇の実験的なグループ「クートゥ・プ・パッタラーイ(Koothu-p-pattarai)」(*4)でも活動しました。そして1987年、初めての振り付け作品として2時間のソロダンスを発表したのですが、チェンナイでは満員御礼になるなどかなり好評でした。ロンドンから来た友人たちが見て、「君はコンテンポラリー・ダンスを学ぶべきだ」と言ってくれました。
私は新しい表現を求めてチャンドラレーカや演劇を学んではいましたが、答えは見つからなかった。インドにはコンテンポラリー作品の文脈自体がなかったからです。新しいものに見えても、古典的な身体言語を現代的なアイデアで包み直したようなものばかりでした。古典舞踊は長く他の文化と触れあうことなく成長してきたために、新しいアイデアがあっても、身体を動かそうとすると昔ながらのメソッドを使うほかなかったのです。
でも次第に「新しい表現を全て一からつくる必要はない」とも思うようになっていました。車輪があるのならそれをうまく使えるようになればいい──。それで友人たちの言葉にも押されて、1987年にロンドンへコンテンポラリー・ダンスを学びに行くことを決めました。 - その時点でプロのダンサーになろうと思っていたのですか。
- 振り返ってみると、キャリアのことは考えていませんでした。ロンドン・コンテンポラリー・ダンス・スクール(LCDS)、トリニティ・ラバン、ミドルセックス大学から入学許可が下り、最終的にLCDSに入学しました。在学中から仲間とパフォーマンスを始め、ロンドン・アーツ・ボードやアーツ・カウンシルなどの助成を受けるようになり、「イムラタ(Imlata)」というカンパニーを立ち上げました。インド人は私だけでした。
- インド風の名前に聞こえますが、イムラタはどういう意味ですか?
- 名前の由来は、いつも遅刻(Late)するメンバーがいたので「I am Late』」を縮めたものです(笑)。初めて日本に行ったのもこの頃で、「World of Music, Arts and Dance」(*5)の日本ツアーに参加しました。バアバ・マール、ユッスー・ンドゥール、カリッド、サブリ・ブラザーズといった有名なワールドミュージシャンと一緒でした。
- この頃はどのような作品をつくられていたのですか。
- とにかく思いつくことは何でも試していました。友人のイギリス人アーティストたちと、インドの伝統舞踊を現代的な身体言語で見せる作品を企画したこともありますが、互いに理解が難しく、あまり成功しませんでした。この頃のイギリスでは、「ビ・マ・ダンスカンパニー(Bi Ma Dance Company)」を主宰しているマレーシア人振付家のピット・フォンロー(Pit Fong Loh)が、中国やマレーシアの伝統舞踊のコンテンポラリー化に挑戦していました。現在では、アクラム・カーンのように伝統舞踊の要素を取り入れて成功を収める人も出てきていますが、当時は私たちの挑戦を理解してくれる人は限られていました。もちろん他にも様々なタイプの作品を創りました。
- ロンドン時代に「バークレイズ・ニュー・ステージ・アワード」を受賞しています。
- 『Beyond the Walls for Men』(1997年)という作品です。当時のロンドンは、ロイド・ニューソンが設立したDV8フィジカルシアターなどゲイ・セクシャリティをテーマにした作品が多く、これもそうした流れにあるものです。インドの伝統的な動きとコンテンポラリー・ダンスが融合したダンスでした。
この頃から、インドでコンテンポラリー・ダンスの拠点となるセンターを立ち上げたいという思いが強くなりました。ロンドンに来たのは、リソースが全くない中でセンターを立ち上げるにはどうすればいいかという、必要な知識と経験を得たいということもありました。それで、14年の活動に終止符を打ち、センターを開設するため帰国を決意しました。 - アタカラリ・センターの事業について伺いたいと思います。まずはセンターが主催しているフェスティバル「アタカラリ・インディア・ビエンナーレ」について教えてください。
- フェスティバルを始めたのは、インドの人々にコンテンポラリー・ダンスへの理解を深めてもらうには、優れた最先端の作品を紹介するのが最善だと考えたからです。第1回は2003年2月で会期は3日間。第8回は2017年2月3日から12日までの10日間開催できるまでになりました。インドのマンディープ・ライキーやフィンランドのテロ・サーリネン、カナダのマリー・シュイナール等の他、南アフリカ、イタリア、ポーランド、ドイツ、スイス、韓国のカンパニーのパフォーマンスを上演し、ショーケースや映像作品上映などを合わせて26のプログラムを組みました。第9回はコロナ禍のため延期していますが、今年(2021年)の年末に開催できないか、現在検討しているところです。
- 公演以外にはどのようなプログラムがありますか。
- 5週間にわたる集中的なトレーニングを行う国際的なレジデンシープログラム「FACETS」や、若手振付家のための「ヤング・コレオグラファー・プラットフォーム」を実施し、その成果発表を行いました。また、「南アジア・プラットフォーム」では南アジアのダンスについて国際ゲストと話し合い、既存の作品や新しい振付作品の紹介もしました。
舞台評のための集中的な共同ワークショップ「ライティング・オン・ダンス」も実施しています。様々なバックグラウンドを持つアートライターたちが新しい時代の舞踊評論について議論して実際に評を書きます。ドイツでダンス雑誌『タンツ(Tanz)』の編集長をしているアーント・ワッサマン(Arnd Wesemann)も協力してくれました。書いた物はオンラインマガジンで発表しました。
フェスティバルは、インド政府文化省(Ministry of Culture, Government of India)、カルナタカ州政府観光局(Department of Tourism, Government of Karnataka)、インド文化関係評議会(Indian Council for Cultural Relations)の他、各国のアーツカウンシルなどからの支援を受けています。 - センターは当初からダンス教育のプログラムに力を入れていたそうですね。
- 以前からベンガルールの「マックス・ミューラー・バヴァン(Max Mueller Bhavans)」(ゲーテ・インスティテュートのこと。インドでは、ドイツ人のインド言語学者マックス・ミューラーに敬意を表してこう名付けられている)が主催して、各ジャンルの著名なアーティストを10名ほど集めた「身体」をテーマにした3日間のセミナーが開催されていました。アタカラリ・センターでは1992年にイギリスからビジュアルアート、ダンス、演劇、インドからは文学、哲学、演劇、ダンスに関わる人たちが集まり、互いに学び合う「インターナショナル・ウィンター・スクール」を開催しました。隔年でスクールを開くつもりでしたが、残念ながら1994年までしか続けられませんでした。
現在は、「ムーブメントアーツとミクストメディアのディプロマ(Diploma in Movement Arts & Mixed Media)』という教育プログラムを進めています。今のところ1年コースと2年コースの選択制ですが、最終的には3年課程を目指しています。コンテンポラリーダンス、バレエ、ボディコンディショニング、バラタナティヤム、芸術史、解剖学、ライトデザイン、伝統舞踊などを総合的に学ぶことができます。伝統的・民俗的舞台芸術学科では舞踊劇のクーティヤタム(Kootiyattam)など、レアな伝統文化について深く学ぶこともできます。
年間の授業料は2万ルピー(約3万円)で、留学生については年間5,000ユーロ(約65万円)にしています。いまインドで活躍しているダンサーの多くは、アタカラリ・センターのこうしたプログラムを受講した人たちです。 - 学校などへのアウトリーチも行っていますか。
- はい。学校や企業で行っています。もっとも昔はほとんどが「宣伝になるからタダでやってくれ」というものでした。私たちは、「教師や学校職員に給料を払うなら、アーティストにも払うべきだ。そうでなければアーティストは生活ができない」と有償を主張し続けてきました。
その結果、現在のベンガルールでは、多くの大学や高校がダンサーを教師として良い給料で雇うようになりました。またIndian Institutes of Technology(IIT)といった一般企業や、国立演劇学校(National School of Drama)、デザイン系の学校(Srishti School of Art and DesignやNational Institute of Fashion Technology)などとも幅広く提携しています。
最近、「ダンス・エクセレンス(Dance Excellence)」というプロジェクトを始めました。地元の4つの小学校から、とくに優秀な生徒を何人か選び、無料でダンスのトレーニングを行っています。こうして将来に向けてインドのダンスの基盤をつくっていく事業は重要です。そのことに早く政府が気づいて支援してほしいのですが‥‥。 - コンテンポラリー・ダンスを持ち込んだことで伝統舞踊界からの反発はありませんでしたか? 「伝統舞踊を破壊しようとしている」と感じる人もいたのでは?
- たしかにセンター設立当初は伝統と現代という二極化が常にありました。「アタカラリ・センターは伝統を尊重せずに好き勝手なことをやっている」という人もいたかもしれませんが、いまでは多くの伝統文化に関わる人たちがアタカラリ・センターに参加しています。私たちは伝統舞踊のフォームに絶対的な敬意を払っていますし、伝統舞踊の人々も新しい身体言語や能力への興味は高いので、軋轢などは感じません。
そもそも伝統舞踊も、元をたどれば、かつて誰かが新しく始めたものでしょう。たとえばカタカリの最初の演者は、実はカラリパヤットの武術家たちでした。寺院で行われていたラーマナッタム(Ramanattam)を宮殿で上演しようとしたところ、許可が下りなかった。そこで武術家たちが伝統芸能のクーリヤッタム(Koodiyattam)やラーマナッタムなどをまとめてカタカリを創り上げたのです。
現在のバラタナティヤムが確立されたのも、実は20世紀になってからのことです。踊り自体は古くからあり、寺院で「デーヴァダーシー(Devadasis)」と呼ばれる巫女達が神に捧げる踊りの「ダーシヤッタム(Dasiyattam)」です。イギリスの植民地時代に禁止されましたが、独立運動の高まりとともに、インドのアイデンティティを確立する必要から伝統舞踊が重要な存在と見なされるようになっていきました。そこでヒンズー教徒の上流階級であるバラモンが「ダーシヤッタム」から「バラタナティヤム」と名前を変えて引き継ぎ、今日的な形が確立していきました。そして1947年にインドが独立すると、国家的な支援を受けるようになったのです。 - 伝統舞踊にも長い歴史の間で断絶や変更があったのですね。
- 伝統舞踊の身体言語は、いわば正確で完璧な「黄金の箱」のようなものです。伝統の身体言語で、黄金の箱に収まるよう作品を創るのが伝統舞踊です。一方のコンテンポラリー・ダンスは新しい身体言語をつくりだし、「自分だけの箱」をつくる必要があります。しかし、歴史に十分な理解を持ち、かつ自分の信じるに足る感性を持っていれば、「新しい表現」を「黄金の箱」に納めることも、十分に可能なのです。実際に多くのアーティストが、伝統以外の優れた身体言語を知ると同時に、古典の形式の中にも無限の創造性があることを実感しています。
- アタカラリ・センターでは、伝統舞踊とコンテンポラリー・ダンスの研究をともに行っています。
- そうです。古典の動きを分解し、概念的な原理に到達して、それを再構築するためです。古典だけではなく、イザドラ・ダンカンやマーサ・グラハム、マース・カニングハム、ビル・T・ジョーンズなどの映像や本も研究しました。さまざまな分野から共同研究を行う人々が集まり、知的・芸術的・美的な面からインドの伝統舞踊のリソースを引き出そうとしてきました。それを私たちは「ナガリカ(NAGARIKA)」(*6)というコアプロジェクトのひとつとして進めています。
ナガリカはテクノロジーを介して伝統芸能にアプローチするインドでははじめての試みであり、伝統舞踊を分析してアーカイブする統合情報システムです。バラタナティヤムやカラリパヤットの動作などをさまざまな観点から映像で分析しています。伝統文化とコンテンポラリー・ダンス、そしてテクノロジーによって、新しいパフォーミング・アーツを創造することを使命とした、アタカラリ・センターを象徴するプロジェクトといえます。 - コロナ禍の2021年3月にアタカラリ・センターと国際交流基金ニューデリー日本文化センターが国際共同制作を行い、ダンスプロジェクト作品『-scape』をインドで発表しました。その模様は日本でもインターネットで配信され、高く評価されました。この作品については後で詳しく伺いますが、そもそもセンターではどれくらいのダンス作品を創作しているのですか。
- ひとつの作品に1〜2年間はかけるので、大きな作品となるとこれまでに10〜12本くらいでしょうか。芸術的な作品以外に、商業的なイベントに呼ばれて小品を上演することもあります。ダンサーの経験になりますし、新しい観客の開拓にもつながります。
最初に本格的に取り組んだ作品は、2005年〜2006年に制作した『Purushartha』です。イギリスで知り合った松尾邦彦さん(メディアアーティスト)、松本充明さん(音楽家)、濱中直樹さん(建築家)とともに仕事をしました。私が振付と出演をして、伝統とテクノロジー、コンテンポラリー・ダンスが融合した舞台で大きな成功を収めました。インドでも大々的に報じられ、ヴェネチア・ビエンナーレ、ミュンヘン・コンテンポラリー・ダンス・フェスティバル、モロッコ・ダンス・フォーラムなど、さまざまな場所を巡回し、横浜でも公演しています。
附属のアタカラリ・ダンス・カンパニーもありますが、残念ながら現在は年間を通じて給料を支払うことが難しく、プロジェクトに応じてダンサーを選ぶ形になっています。 - アタカラリ・センターは国内でのコンテンポラリー・ダンスの普及と同時に、世界のダンスシーンとつながる拠点であることを使命として掲げています。
- コンテンポラリー・ダンスの特徴のひとつは、国際的な芸術であることです。動きの原理や技術は、国を超えてどんどん交流することで深まっていきます。アタカラリ・センターにとって、コンテンポラリー・ダンスをインドに根付かせることと、インドのダンスを世界へ発信することは車の両輪です。
しかし、マハトマ・ガンジーはこんなことを言っています。「私は自分の家の窓やドアをすべて開けて、他の文化の風が自由に通り抜けられるようにしたい。しかしその風によって、家が足元から吹き飛ばされてはならない」。つまり、新しい情報や知識を無制限に採り入れるのではなく、インド人のアイデンティティーに引き寄せた形で、慎重に行う必要があります。とくに植民地時代、インドの発展は止まってしまいました。私たちは、伝統から得た知識や知恵にアクセスしつつ、一方ではその外殻を解体し、その奥底にある本質的な概念や原則を掘り起こす必要があります。「ナガリカ」によって伝統を研究し、新しいアートとテクノロジーを取り入れていくのもそのためです。 - とはいうものの、植民地時代についての認識にはジェネレーション・ギャップがあるのではないですか。たとえば東南アジアの若いアーティストは、自分が生まれる前の植民地時代の文化を、ポップな文化に採り入れたりしています。
- 確かに若い人は植民地時代について映画などで知ってはいても、その重さに実感はないでしょう。植民地時代の支配者を恨む気持ちも、ほとんどないと思います。
一方で世界的に見ると、自分のルーツを持たないことをある種の欠落と感じる人もいます。アフリカ系アメリカ人が自分のルーツをたどる旅をしたり、韓国人が古い言葉に興味を持つようなケースです。いずれにしても、伝統は過去の物として博物館に入れるのではなく、新しく現代的な感性を育むために活かしていくべきだと思います。アーユルヴェーダ(生命科学)でもヨガでも、私たちが身につけている概念や認識を利器として、バレエやオペラを学んでいくことができるはずなのです。
実際、私が初めてバレエやコンテンポラリー・ダンスの授業を受けたとき、それらは私の「インドの伝統舞踊を学んでいた身体」へ自然に入ってきました。伝統舞踊の身体は、新しい身体言語と相反するものではありません。たとえばピカソがすでにあったアフリカの図像を作品に採り入れて「新しい表現」だと評価されたのと同じです。
私はマーサ・グラハムが突然、インドの伝統舞踊の動きやヨガのポーズを取り入れたのを覚えていますし、それ以前のイザドラ・ダンカンやルース=セント・デニス等の時代から、西洋のダンスはアジアのダンスフォームに影響を受けています。そこには、インドのスタイルも間違いなく入っています。「ある文化の伝統が、別の文化では新しいスタイルとして受容される」ことはいくらでもあることです。 - インドの若いアーティストについて伺います。ヒップホップやテクノロジーなどとの融合はどうでしょうか。
- ここ数年で、学習のプロセスがずいぶん変わりました。ダンスを学ぶにはインターネットやビデオを使う、仲間同士で教え合うなど、様々な選択肢があります。
もちろんインドでもヒップホップは人気ですし、ボリウッドや伝統舞踊との融合など、さまざまなものが混ざり合っています。これらのダンスをサポートするシステムがないにもかかわらず、ダンスは様々な場所で行われています。インドでは結婚式でも振付家が新郎新婦や家族のために振り付けるなど、ダンスはあらゆる場所で行われています。
一方で、本当に強いオリジナル作品を作るための体系的なトレーニングと一定期間のサポートは、決定的に不足しています。私がイギリスにいた頃は、アーツ・ボードやアーツ・カウンシルなどがダンスの支援に必要なことを協議し、支援のための機関を国が設立していました。フランスではミッテラン大統領の時代に、19の国立振付センターが設立されました。インドではそのような取り組みは行われていません。何とか各大学が独自のアートセンターを設立して頑張っているところですが、若いアーティストをどのように育成し、どのようなチャンスを与えるかという定見がないことがきわめて重要な問題です。 - ジャヤさん自身はイギリスで学ばれていますが、インドの現代芸術は旧宗主国のイギリスと親密な関係にありますか。
- コンテンポラリー・ダンスについては、インドはドイツとの関係のほうが深いのではないでしょうか。マックス・ミューラー・バヴァン(ゲーテ・インスティチュート)が明解な戦略を持って、ドイツ語に馴染みのないインドで非言語芸術であるダンスを特に力をいれて支援していましたから。
たとえば、1984年にマックス・ミューラー・バヴァンの芸術監督だったゲオルグ・レヒナー(Georg Lechner)が中心となり、ムンバイの国立舞台芸術センター(NCPA。The National Center of the Performing Arts)で「東西ダンスの出会い(East-West Encounter)」という画期的なフェスを開催しました。当時、私はイギリスにいたため、このイベントに私のカンパニーが招聘されました。こういう事業をインド政府の機関が主導するようにならなければいけないと思っています。 - 『-scape』ではインドと日本のアーティストが参加してクリエイションを行いました。実はこのプロジェクトには私も日本側のアドバイザー(後にプロジェクト・メンター)として関わっていました。
- インドと日本の若いアーティストやスタッフに国外のアーティストと協働する機会を創りたいと思ったのがはじまりです。国際交流基金ニューデリー日本文化センターの担当者と打ち合わせしたときには、2020年8月〜9月に3週間ほどアタカラリ・センターで滞在制作を行い、2021年2月にアタカラリ・インディア・ビエンナーレで上演する。また、インド国内外のフェスティバルでも上演する──という計画でした。私は2020年2月に日本を訪れ、横浜ダンスコレクションやTPAMで日本のダンサーを見て、乗越さんともミーティングを行いました。
しかし帰国直後から急速にコロナ禍が深刻になり、レジデンスが不可能になりました。違う方法を考えざるを得なくて、関係者とオンラインミーティングを重ねました。最終的に日本側から鈴木竜、インド側からへマバーラティ・パラーニ(Hemabharathy Palani 以下、ヘマ)をダンサーとして選出し、「コロナ禍で移動を禁じられ、会えない状況」自体をテーマにした作品を模索しました。
そして、鈴木の存在そのものを分解する約30分間の映像作品(出演:鈴木竜、撮影監督:吉開菜央、音楽:タツキアマノ)をつくってインドに送ってもらい、それに呼応する形でヘマがライブ・パフォーマンスを行うという企画になりました。 - 2021年3月16日、インド時間午後7時30分からベンガルールの有名な劇場ランガ・シャンカラ(Ranga Shankara)でまずヘマが踊り、次に映像作品が流されました。全ての模様は日本にも同時配信されました。
- アタカラリ・センターの劇場スペースではコロナ禍でも注意をしてイベントを行っていましたが、親密な空間なのでクリエイション向きで高さがあまりありません。ランガ・シャンカラは天井も高くて素晴らしい劇場です。チケットはほぼ完売で、開演前にパフォーマンスと映像の関連を説明するために、私とニューデリー日本文化センターの担当者が事前説明を行いました。インドの観客にとってこういう形式のパフォーマンスは珍しく、とても興味を引いていました。各国の領事やインド中の劇場関係者も詰めかけて、好評でした。しかし、これはあくまで第1段階に過ぎないので、コロナ禍が終わったら、あらためてレジデンスをして完成させ、世界中をツアーして回りたいと思っています。
- 現在進行中のプロジェクトはありますか。
- ベンガルールの美しい湖のほとりにある1.65エーカー(約6700㎡)の土地に、複数の劇場とスタジオ・研究施設を備えた舞台芸術革新センター「Center for Innovation in Performing Arts(CIPA)」を建設する計画が進行中です。ダンスだけではなく、様々なボディケアシステムや武道などができるウェルネス関連の施設もあります。さらにレストランやカフェテリア・図書館なども揃った複合的な施設になる予定です。
実現には500万ドル(約5億5千万円)が必要ですが、出資に興味を持っている人が何人もいます。残念ながら資金集めを始めようとした矢先にコロナ禍が襲ってきたため、現在は中断していますが、パンデミック後には実現したいです。部分的な施設の建設からでも進めて行きたいと思っています。 - これからのインドのダンス環境はどう変わっていくと思いますか。
- インドの問題点は、アーツカウンシルなどもなく、文化省から年間を通して活動できるような支援を得ることが難しく、ほとんどの劇場がキュレーション機能のないただの貸し館になっていることです。アタカラリ・センターもワークショップや公演の収入やダンスに関するサポート事業に頼りつつ新しいプロダクションに投資していくという、その日暮らしのサーカス一座のような状況です。しかし、アタカラリ・センターが過去20年間かけて培ってきたコンテンポラリー・ダンスの基盤の上に、新しくCIPAというインフラが実現すれば、インドの舞台芸術にはもっと活気が生まれると信じています。
世界的に見ても舞台芸術は危機的状況にあります。しかし、インドでは古来から舞台芸術が常に社会的・宗教的慣習と一体化してきた強さがあるので、これからも生き残っていけるはずです。進歩とは新しい家や車、銀行の残高が増えることではなく、素晴らしい「経験」を増やすことです。ダンスや演劇は、まさにそれです。自分の経験を大切にしなければなりません。そして日々起こっている変化を一貫した方法で長期間にわたって学び、活動することが必要なのです。
ジャヤチャンドラン・パラジー
インドのコンテンポラリーダンスの拠点
アタカラリ・センターが目指すもの
ジャヤチャンドラン・パラジーJayachandran Palazhy
伝統舞踊が強いインドにあって、コンテンポラリー・ダンスへの道を切り開いてきた拠点が、南インドのベンガルールにある「アタカラリ・センター・フォー・ムーヴメント・アーツ(Attakkalari Centre for Movement Arts)」である。その創立者であり、芸術監督を務めるのがジャヤチャンドラン・パラジー(Jayachandran Palazhy)だ。同センターは海外とのネットワークの構築、「アタカラリ・インディア・ビエンナーレ」の開催、アーティスト・イン・レジデンスを含めた創作、さらには教育にも力を入れ、世界的に高く評価されている。
聞き手:乗越たかお(舞踊評論家)
アタカラリ・センター・フォー・ムーヴメント・アーツ
Attakkalari Centre for Movement Arts
https://www.attakkalari.org/
*1 ボリウッド
インドの映画制作の中心地であるムンバイの俗称。ムンバイの旧称「ボンベイ」と「ハリウッド」を合わせた造語。
*2 バラナティヤム
インド4大伝統舞踊「バラタナティヤム」「カタカリ」「カヤック」「マニプリ」のひとつ。南インドのタミルナードゥ州の寺院や宮廷で育まれ、4大舞踊の中で最古とされる。
*3 チェンナイ
タミル・ナードゥ州の州都。伝統舞踊バラタナティヤム発祥の地であり、クミニ・デヴィ・アランデール(1904-1986)が1936年に舞踊と音楽のアカデミーであるカラクシェトラ(Kalakshetra)を開設。また、バラタナティヤムからスタートした前衛舞踊家のチャンドラレーカ(1928-2006)が拠点とするなど新旧インド舞踊が交差する地。
*4 クートゥ・プ・パッタラーイ(KPP)
1977年に劇作家のNa Muthuswamyが設立。チェンナイを拠点として現代演劇と伝統演劇を保存・発展する活動を進めている前衛的グループ。ダンスや武術などの身体パフォーマンスも重視。
*5 World of Music, Arts and Dance(WOMAD)
1982年にピーター・ガブリエルが企画して始まったワールド・ミュージックの祭典。日本では横浜みなとみらい地区開発にともなう「パシフィコ横浜」開館事業として「ウォーマッド横浜フェスティバル」が1991年から5年間開催された。
*6 ナガリカ
ナガリカは「文明の次元」を意味するサンスクリット語が由来。長年にわたってアタカラリ・センターが行ってきたインドの伝統舞踊の研究を踏まえ、ダニエル・ラングロワ財団、ゲーテ・インスティチュート、フォード財団の支援を受けてバラタナティヤム、カラリパヤットについてのDVDを作成。動作などの映像を分析的に収録し、解説を加えるとともに、正面、側面などさまざまな角度から見ることができるインターラクティブ仕様になっている。
https://nagarika.org/attakkalari
『-scape』
(2021年3月16日/Ranga Shankara)
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