踊ることに救われた人生
- 子どもの頃の話を聞かせてください。バレエに興味を持ったきっかけは何ですか。
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親友がバレエを始めて、彼女と一緒にバレエ学校に通うようになりました。先生がとても陽気だったこともあって、私もバレエが好きになりました。でも7歳の時にテーブルに頭をぶつけて耳が聞こえなくなってしまった。母は私がバレエを辞めなければならないと思ったようですが、バレエ学校の先生に、「音楽が聞こえないことは問題じゃない。バレエは視覚的な表現なのよ」と言われた。先生は私に音楽を聴く別の方法を教えてくれました。音楽を感じてリズムを刻むように歩くと、音楽が自分の身体の中に入ってくるんです。そうやって音楽的な能力を身につけていきました。
耳が聞こえなくなってから学校生活が本当に大変で、まるで水から上がった魚みたいでした。でもバレエを踊っているときには、池の中を自由に泳いでいるみたいに自分自身でいられた。バレエは私の人生を救ってくれたんです。一晩で聴覚障がいになっても、人生は続きます。聴覚障がい者としてどのように生きるか誰も教えてくれなかったけど、ダンスの先生が「大丈夫、一緒に何とかしましょう」と言ってくれて、私は踊りを続けました。
でもその時は、生きていくためにダンスが必要だとまでは考えていませんでした。まだ7歳だったので、ただ踊るのが好きだった。でも歳を取るにつれて、自分にとってそれがいかに重要かがわかるようになりました。バレエは、学校や読唇(*1)から解放される自分の時間でした。バレエは私に自分のままでいられる自由を与えてくれたのです。 - 子どもの頃のバレエで、何か特別な思い出はありますか。
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たくさんあります。コンクールの時、チュチュを着て、小さなティアラを付けて、メイクをしてソロを踊らなければならないことがありました。みんなで小さな輪になったら、審判の先生が「最初は誰、次は誰、次は誰」と順番を呼び上げるのですが、もちろん私には何も聞こえなかった。私は笑顔でそこに立っているだけでした。なぜって、バレエは笑顔でなきゃいけないから。他の女の子たちがみんな行ってしまって、「ジェニー、ジェニー」って言われた気がして、「あっ、私だ!」と気づいて、思いっきり走り出たのでもう少しでステージから落ちそうになった(笑)。そして初めてメダルをもらったんです。ものすごく興奮しました。
ダンススクールでも、小学校から大学時代まで、聴覚障がい者は私ひとりでした。学校や日常生活ではつらいこともありましたが、いろんな対処方法を身につけていきました。例えば、授業中はノートを丁寧に取る友人の隣に座って、それを写すようになりました。先生は教室の中をあちこち動きながら授業をしていたので、先生の唇を読むのを諦めてしまったのです。
大学でもダンスはやりましたが、講義には行かなくなりました。個人指導の先生から課題のリストをもらって、図書館で独学するようになりました。他の聴覚障がい者と出会うこともなく、聴覚障がい者としてどのように生きていくべきかも知らず、ある意味とても孤独でした。それで、唇を読んだり、頷いたり、わかっているふりをするのがとても上手になりました。今でも、状況によってはそうしています。
大学にいる間に、自分はそこそこのダンサーだけど飛び抜けたダンサーではない、プロのダンサーになるための訓練にも耐えられないと気づきました。それで演劇の友達と仲良くなり、彼女が演出するダリオ・フォーのひとり芝居『一人の女』に出演したのが大きな転機になりました。「あの聴覚障がいの女の子に何ができるんだろうか」と興味津々でほとんど大学中の人が見に来ました。それがちゃんとやれた!私はすっかり独演が好きになり、以来、ダンサーより俳優の方が向いていると思うようになりました。
グレイアイとの出会いと芸術監督の19年間
- グレイアイ・シアターにはいつから参加されたのですか。
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初めは、1987年に俳優として参加しました。雑誌「ステージ」でオーディションの広告を見つけて受けに行きました。オーディションの時、障がい者が大勢いる部屋に入ったのですが、それまでそんなに多様な人々に会ったことがなかったので、「わー、すごい」と感じました。そしたら、聴覚障がいの女性が手話を交えて話し出したんです。突然自分の家に戻ったような気がしました。自分がいるべき正しいコミュニティに出会ったんです。
それは信じられないことでした。全く新しい目覚め、人間としての新しい夜明けのようなものでした。オーディションに受かって仕事をもらいました。あまり良い作品ではありませんでしたが、障がいのある女性たちと共に学び、協力し合うことは本当に素晴らしい経験で、私の残りの人生を前向きにしてくれました。
その舞台のツアーが終わって、学校や青少年クラブで活動している小さなカンパニーに移りました。そこで、演劇は政治的な存在だという考え方を持てるようになり、人生にとってもうひとつの重要な経験になりました。演劇は人生を変えられる、と。その後、何年か教育活動に携わり、1997年にグレイアイの芸術監督に応募しました。それ以来、19年間その仕事を続けています。 - なぜグレイアイ・シアターの芸術監督になろうと思ったのですか。
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1993年に息子を妊娠して、仕事を考え直さなければならなくなりました。小さな乳幼児と一緒に俳優としてツアーに参加するのはとても難しいことでしたから。その時、また雑誌「ステージ」で、イングランド北部のインタープレイというとても小さなカンパニーがディレクターの研修生を募集しているのを知りました。彼らは、重度の身体障がいと学習障がいのある若者たちにもアクセスが可能な作品を創る活動していました。
その6週間の研修生に応募して採用されました。私は妊娠した大きなお腹をかかえて、俳優や演出家の動きをじっと見ながら、「彼はどうしてあんなことをするんだろう。私ならこうするのに」と感じ、「ひょっとしたら私は演出ができるかもしれない」と思いました。その後、息子のジョナが生まれ、ウェスト・イングランドの別の小さなカンパニーで聴覚障がいのコミュニティのためのプロジェクトを演出しました。その時はただ目の前の仕事をするだけでしたが、それがディレクターになるための下積みになり、グレイアイの芸術監督に応募する自信に繋がりました。
当時は、障がいのある俳優はあまりいませんでした。基本的な問題は、障がいのある人たちの訓練に興味のあるドラマスクールが皆無で、訓練の機会がほとんどなかったことです。そこで資金調達をして、5年間の俳優訓練を行いました。そのプロジェクトは「失われた破片」と呼ばれていて、各コース6〜9カ月間の訓練期間で、発声、ムーブメント、シェイクスピア、現代劇、即興、ワークショップなどの授業を行い、最後にロンドン市内を巡回する演劇公演も行いました。
その後、演劇学校と一緒に俳優の訓練を始めましたが、ある意味で失敗に終わりました。彼らは、「障がいを扱う演劇は少ないので、卒業しても仕事がない役者の訓練はできない」と言うのです。私たち障がい者は多くの役を演じることができます。障がい者の役である必要はありません。わたしはいつも「シェイクスピアは、ジュリエットが車いすを使っていたかどうかなんて、どこにも書いていない。彼女は目が見えなかったり、耳が聞こえなかったりしたかもしれない。演劇はすべての人たちのためのものです」と訴えました。でも、彼らのメンタリティを変えるのはとても難しかったし、今でも困難なことに変わりはありません。それで、2015年には「アンサンブル」という別の訓練プログラムも立ち上げました。
日本での経験とグレイアイのビジョン
- 2007年に世田谷パブリックシアターで「エイブルアート・オンステージ」という日英共同企画が行われました。これは、英国から2人の演出家(ジョン・パルマー、ジェニー・シーレイ)を招き、日本の障害のある人や俳優たちとワークショップを行い、作品を作り上げるもので、あなたは『血の婚礼』を演出しました。
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世田谷でのことはよく覚えています。あの俳優たちと一緒に仕事ができたのは、本当に素晴らしかったので。聴覚障がいや視覚障がいの俳優たちがいて、手話通訳者にも加わってもらいました。私は日本人アーティストたちの情熱がいつも好きでした。「とにかくやってみよう」と取り組んで、私たち全員にとって芸術的な学びになりました。
中でも挑戦的だったのは、新婦の父役は目の見えない新井恵二さん、新婦役は耳の聞こえない廣川麻子さんに演じてもらったことです。新婦は父親の目が見えないことを知っているので、父親の目の前で電話を取りだしてボーイフレンドにメールを送る。観客にとっては衝撃的だったと思いますが、それが障がい者の実際の生活なのです。
『血の婚礼』は圧倒的な愛の物語で、それ自体が大きなメッセージをもっています。障がい者も人を愛し、結婚し、子どもを産む権利がありますが、しばしば脇に追いやられています。ですから、私たちが世田谷パブリックシアターの美しい舞台に立ち、『血の婚礼』を通じて、日本の文化の中に新たな歴史の1ページを開いたのは、本当に素晴らしいことだったと思います。
そこで学んだことを、2011年に彩の国さいたま芸術劇場で演出した『R&B(ロミオとジュリエット)』に生かしました。「エイブル・アート」を実践し、実現させたのです。できるだけ多くの日本の障がいのあるアーティストと年2回、1〜2週間のワークショップを、3、4年実施しました。そこから障がいのある俳優の仲間を見つけ、障がいのない俳優も参加して一緒に舞台をつくりました。 - グレイアイが最も重視している価値やビジョンがあれば教えてください。また、代表的な作品について紹介してください。
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最も重視しているのは、芸術的に質が高く(エクセレンス)、誰でもアクセスが可能で(アクセシブル)、誰をも受け入れる(インクルーシブ)演劇ということです。人材を育成し、限界を押し広げることにも責任があると考えていて、実際、そうしています。いろいろなことをやってきましたが、その中心にはいつもエクセレンス、アクセシブル、インクルーシブの3つがありました。
初期の代表的な作品がエドガー・アラン・ポーの短編小説をモチーフにした『アッシャー家の崩壊』です。この舞台は、聴覚障がい者のための音声解説(*2)を俳優がライブで行う形で演出した初めての作品です。すべての手話の事前録画も行いました。この作品から、グレイアイでは真の意味で作品の中核にアクセス(障がいのある人でも登場できること)を組み込むという新たな発見の旅が始まりました。ステージ脇の手話通訳も、音声解説も必要ありませんでした。その後、19年間の実践の積み重ねで、すべてを作品を演技だけでできるようになりました。
2002年の『ピーリング』は、障がいのある女性が書いた作品で、彼女は音声解説をナレーションに書き込みました。登場人物はそのナレーションを会話の一部として演じました。そしてサラ・ケインの『ブラステッド』も全く新しい取り組みでした。音声解説をすべて登場人物の台詞に関連づけ、視覚障がいの役者も台詞だけで演じられるようにしたのです。それは視覚障がいの観客が作品を理解できることにもつながりました。
英国における障がい者の舞台芸術活動
- 英国における障がい者の舞台芸術活動の歴史や現状についてお話しいただけますか。
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1980年代、私が大学を出てグレイアイのことを知った頃、「障がい者差別禁止法」を成立させようという政治的な動きがあり、それを支援するアーティストたちの活動が徐々に広がっていきました。
そうした中、1980年代から90年代にかけて、グレイアイとほぼ同じ時期に障がい者に関わる5大カンパニーが誕生しました。カンドゥーコ・ダンス・カンパニー(*3)、マインド・ザ・ギャップ、オイリー・カート、少し遅れてエクスタントという視覚障がい者のカンパニーです。その他に、ブルー・アイ・ソウルという小さなカンパニーやネチ・ネチという素晴らしいカンパニーも誕生しました。ネチ・ネチは、文字を読めない聴覚障がい者のために手話の手の形を脚本に掲載していました。他にもエジンバラでは、ショー・オブ・ハンズ、シアター・ワークショップ、バーズ・オブ・パラダイスというカンパニーが活動しています。
中にはアーツカウンシルから幸運にも助成金を獲得する団体が出てきて、アーツカウンシルもグレイアイや他の障がい者の舞台芸術活動を支援するようになりました。英国では歴史的に、芸術は中流の白人男性や上流階級のためのものでしたが、アーツカウンシルには、社会の状況を確実に反映させて、助成対象にあらゆる多様な団体を含める責任がありました。そのためアーツカウンシルは方針を再検討しなければならなくなり、私たちを支援するようになりました。その後グレイアイは私が芸術監督になった1997年の少し前からアーツカウンシルの運営助成団体となりました。
最近、障がいのある俳優たちの演劇作品のツアーにアーツカウンシルが大型の助成をする「ランプス・オン・ザ・ムーン」(*4)という事業が始まりました。グレイアイやメインストリームの劇場も含め、7団体が参加しています。年1回、共同で大型作品をつくる予定で、今年は『政府の検査官』を上演し、来年は障がい者のために楽器を改良しているドレイク・ミュージックと一緒に大型のロックオペラ『トミー』に取り組む予定です。
また、1995年に「障がい者差別禁止法」が成立し、建物のバリアフリー化が進展して、私たちが発表できる上演場所などが増えていったのも大きな変化でした。私たちは皆に呼びかけて蜘蛛の子のようにあちこちに散って活動しました。それが障がい者アート全体のムーブメントの興隆に繋がったのではないかと思っています。今後は、演劇学校も、メインストリームの劇場が障がい者を出演させるようになったことを受けて、障がいのある人々の訓練に価値を見出すようになるのではないでしょうか。
創作の方法と教育活動
- 障がい者と言っても、障がいの種類や程度はまちまちです。グレイアイではあらゆる障がいの方々を受け入れているのですか。
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はい、配役にぴったりの俳優であれば受け入れています。脚がないとか、耳が聞こえないとか、目が見えないということは関係ありません。様々な異なる障がいのある幅広い人たちと一緒に仕事をしていて、最近になって学習障がいの人たちとも仕事をするようになりました。彼らは俳優として仕事を探しているので、作品毎にオーディションを行って採用しています。来年上演予定のガルシア・ロルカの『ベルナルダ・アルバの家』では、オーディションで45名を審査しました。オーディションに合格するのは狭き門ですが、それは健全な競争す。
障がい者の新しい劇団も出来ていて仕事は増えていますが、メインストリームの劇団ではまだ障がい者の仕事がありません。「ランプス・オン・ザ・ムーン」のようなプロジェクトにより、他の劇団の人にも障がい者の可能性についてもっと知ってもらえれば、仕事が増えるかもしれません。 - いろいろ異なる障がいのある人たちと一緒に、どのようにして作品をつくるのですか。
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ただ一緒にやっているだけですが、グレイアイでは、例えばリハーサルには必ず手話を入れて聴覚障がい者が私の言うことも含めて、すべて理解できるようになっています。また、聴覚障がいの俳優が台本を手に持たなくてもいいように台本は投映します。彼らは、手話通訳とテキストの両方を参照できるようになっています。視覚障がいの俳優がいるときは、点字の台本を用意し、リハーサルの時はヘッドホンも用意して音声解説によって自由に動けるようにしています。グレイアイの稽古場は、完全なバリアフリーで、車いすの利用者はどこにでも行けるようになっています。
それと、いつも素晴らしい音楽監督と一緒に仕事をするようにしています。視覚障がいの人たちにとって音はとても重要で、音によって人の立ち位置やセットの様子がわかるからです。今、私たちは森の中にいるとか、ハイウェイにいるとか。ですから音や音楽はとてもとても重要です。
すべての作品ではありませんが、ステージにはできるだけ字幕を出したいと考えています。でも聴覚障がい者が全員それを読むとは限らないので、併せて手話を入れるべきかどうかについても常に考えています。可能な限りアクセシブルにしようという思いがベースになっています。間違いもたくさんありますし、全員に万全な状態をつくれるかどうかわかりませんが、そうしようと試み、そうしたいと思ってきたことが、私たちを前進させてきました。
この芝居をどうやってつくるか、登場人物の会話はどうやれば面白くなるか、を考えるところから作品をつくり始めます。どの作品もつくり方が違うし、出演者もマチマチなので、つくり方を説明するのは本当に難しいです。でも、どうやっていい作品にたどり着くか、というプロセスは同じです。作品を演出して俳優たちから最高の演技を引き出すこと、それが演出家としての私の仕事の中心です。 - グレイアイでは、障がいのある子どもたち向けに何か活動を行っていますか。
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学校向けには幅広いプログラムを実施していますし、「ルーレット」という8歳から16歳の青少年によるアドバイザーチームも設けています。彼らは皆、電動の車いすを使って動き回っていて、自分たちが求めていること、グレイアイが行うべきだと考えていることを話してくれます。
学校で公演やワークショップを行ったり、依頼を受けて作品をつくることもあります。障がいの有無にかかわらず、教育分野ではとても活発に活動しています。たいていの場合、ワークショップのリーダーは障がいのある人が務めています。障がいのある子にも、ない子にもいい模範になるからです。
障がい者による舞台芸術活動の社会的価値
- あなたの劇団の社会的な価値は何だと考えていますか。
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私たちの劇団の社会的価値は、出演者と観客に対してとてもシンプルなメッセージを発していることです。それは障がいのある人生には意味がある、包摂的な環境は豊かな環境である、そして私たちは全員そのことに参加すべきだ、というメッセージです。
今では演劇界がより多くの障がい者を受け入れるようになってきました。演出家には、障がい者と一緒に仕事をしたら観客が離れていくのではないか、観客は障がい者が舞台にいるのを見たくないのではないか、という恐怖が常にありました。私は、それがどれほど侮辱的で、いかに間違ったことで、どれほど不作法で差別的か、ということを言っているのです。逆に、私たちが障がい者を舞台に登場させればさせるほど、観客はそのことに馴れて、誰もがどこかで障がいと関係しているということを思い起こすことになるのです。友人や家族も含め、障がいは我々すべての人々の一部であることに気づき、受け入れる必要があります。
ナショナル・シアターでも、今の芸術監督のルーフェス・ノリスによって、初めて障がいのある俳優が登場することになりました。グレイアイのアミット・シャルマが、死産をテーマにした『ソリッド・ライフ・オブ・シュガー・ウォーター』という痛ましい作品を演出し、若い障がいのある男性が出演しました。その作品がエジンバラ・フェスティバルでソールド・アウトになったので、ナショナル・シアターでも公演することになったのです。グレイアイは創設から35年でようやくナショナル・シアターで公演することになったのです。
私たちは草の根的な活動をずっと続けてきましたが、今ではナショナル・シアターや「ランプス・オン・ザ・ムーン」に参加する主要な劇場も障がい者の舞台芸術活動に取り組むようになりました。願わくばそうした流れが中心部に広がって、素晴らしい包摂的な社会になってほしいと思っています。それが私のプランです。
パラリンピックの開会式で目指したこと
- パラリンピック開会式にはどのようにして関わるようになったのですか。
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障がいのない劇団が開会式の演出を依頼されたことを知って、組織委員会のセレモニーの責任者に会いに行きました。そして、「開会式は聴覚障がいや障がいのある人が指揮を執ることがとても重要だと思います。英国の私たち障がい者のコミュニティには、とても素晴らしいアーティストが大勢います。ですから私たちの実力を尊重してください」と直談判しました。
そうしたら、2011年の2月から3月にかけて日本に滞在していたときに、セレモニーの責任者のマーティンからメールが来ました。私とブラッドリー・ヘミングスに共同で開会式の芸術監督を依頼するための面接をしたい、と。そして長い面接を受けて採用されました。彼らが評価したのは、私たちが優れた演劇の作り手で、それまで潤沢な資金を扱ったことがなかったので、資金の使い方が上手だろうということでした(笑)。パラリンピックの開会式には十分な予算がなかったので、私たちなら解決策を見出せるだろうと思われたのです。
一番大変だったのは、セレモニー・チームの中で障がいがあるのは私たちだけだったということです。私たちは完全で平等なアクセシビリティを確実に獲得しなければなりませんでした。障がいのある人たちを幅広く起用して一緒に仕事をするために、アクセスについて彼らの認識を変えるのは本当に大変でしたが、実現しました。
ブラッドリーと私は大切な物語から始めたいと思いました。人権に関して政治的な宣言を行うには、これ以上ないチャンスだったからです。閉会式で訴えたかったことは、私たちは平等だ、ということです。私たちは平等に扱われていない、平等に見なされない、社会の一員と認められないことにうんざりしていたからです。人権はすべての人の責務である、というメッセージも込めました。
ロックミュージシャンのイアン・デューリー(*5)の曲『Spasticus Autisticus(痙性麻痺の自閉症)』をやりたいと言ったのは、私のアイディアです。開会式の仕事が決まったとき、この曲をやらなければならないと思いました。『Spasticus Autisticus』は障がい者に対する賛歌で、政治的にも大きな意味を持っている、セレモニーにとってとても重要な要素になりました。
それからスティーブン・ホーキング博士(*6)にも開会式に登場してもらいました。私たち障がい者はこれまで世界に対して多大な貢献をしてきたにもかかわらず、そのことは忘れられています。ホーキング博士がいなかったら、私たちはブラックホールの存在を知りませんでした。ベートーヴェンがいなければ第九だってなかったし、フリーダ・カーロがいなければ彼女の素晴らしい芸術もこの世に存在していなかったのです。同じ意味でアリソン・ラッパー(*7)も、私たち障がい者はここにいるということ、そして重要なんだということを思い出させてくれる人です。
パラリンピックの開会式は、オリンピックの開会式、閉会式に続いて3番目のセレモニーだったので、英国政府はあまり注視していませんでした。任せてもらえたおかげで、私たちにはつくりたいショーをつくれる大きな自由がありました。 - パラリンピックの開会式や「UNLIMITED」(*8)によって、人々の障がい者に対する態度や障がい者の芸術活動について何か影響はありましたか。
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舞台芸術の世界は、間違いなく変化したと思います。UNLIMITEDはまだ継続されていて、そのことがUNLIMITEDの成功を証明しています。私がグレイアイでつくる作品も変わってきました。2013年には、爆弾で足をなくした元兵士が登場する『手足のない騎士(Limbless Knight)』という大きな演劇作品を上演しました。それは兵士が払った犠牲、つまり私たち障がい者が払ってきた犠牲をテーマにした作品でした。その翌年には、『三文オペラ』をやりました。それは持てるものと持たざるものに関する作品、社会の中でどうやって生き抜くかを扱った作品です。
2012年には、オリンピック・パラリンピックを開催し、たくさんのメダルを獲得したことを、国全体が誇りに感じました。英国はそれを成し遂げ、世界が私たちを見つめていました。私たちは素晴らしかった。でも今、英国はEU離脱で政治的に本当にひどい状況にあります。それが一般の人々、あるいは障がい者にどんな影響を与えるか、はっきりとはわかりません。でもそこには、今も芸術があります。そこに芸術がある限り望みはある、と私はいつも思っています。
東京2020大会に向けて
- 東京2020大会について、何か提案やアドバイスはありますか。
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日本の関係者といろいろ話をしてきましたが、皆さん、「日本には障がい者アートのインフラが整っていない」と言っていました。でも、そんな話をするべきではありません。つくればいいんですから。恐れる必要はありません。
そのためには、劇場に予算を付与するよう政府や行政から確約を取り付ける必要があります。そして障がいのあるアーティストを見つけて優れた仲間を集め、トレーニングをして何ができるかを見出すために一緒に活動することです。「とにかく始めること」、そして、「自分たちのやり方を見つけること」です。座って話しているだけでは何も始まりません。
今は、積極的な行動が必要です。日本には才能のある人たちが大勢いますから。私は日本での仕事でそのことを知っていますが、それを知っている人は多くありません。より多くの人たちにもっとチャンスを与え、その人たちが、文化オリンピアードや開会式で、もっと積極的になり、声を上げ、目に見える存在になることです。その人たちが今から2020年以降に向けたリーダーになることがとても重要です。それこそがレガシーです。
私は、英国政府が開会式で障がい者がリーダーになることを受け入れたことを、とても誇りに思っています。日本にもぜひそうしていただきたい。私たちはそのために信念を押し通してきたから、障がい者の真の認知を求めることができるのです。東京もそうしたメッセージをもう一度発信する責任を選び取らなければならないと、心から思います。
制度化された仕事のやり方や今までの慣習は身体に染みついています。人々は変化を望みません。でも皆さんには2020年がやってきます。「国全体が変化し、東京も間違いなく変化する。私たちは2020年を、恐れずより大きな変化へのきっかけとしてどのように活用できるだろうか」と問いかけることです。 - 最後に、日本の障がいのあるアーティストたちにメッセージをください。
- そこから出てきて、とにかくやりましょう!!