ピリエッタ・ムラリ

コンテンポラリーダンスに新風 フィンランドの活気の源は?

2006.01.13
ピリエッタ・ムラリ

ピリエッタ・ムラリPirjetta Mulari

フィンランド・ダンスインフォメーションセンター プロジェクト・マネジャー
国際問題担当

後発でありながら未知数の魅力をたたえたフィンランドのコンテンポラリーダンス。照明や映像とのコラボレーション、スタイリッシュでありながらエネルギッシュで骨太な身体の存在感。フィンランド・ダンスインフォメーションセンターのピルエッタ・ムラリ氏にその秘密を聞いた。
聞き手:立木燁子
この夏(2005年)、フィンランドでクオピオ・ダンス・フェスティバルの全プログラムを拝見しました。北欧諸国のコンテンポラリー・ダンスに焦点をあてた今回のプログラムのなかでも、フィンランドのダンスに勢いがあり、魅了されました。デンマークなどこの地域のほかの国々と比べて、フィンランドのダンスはそれ程長い伝統を持っているわけではありません。にもかかわらず、これだけ勢いがあるのは何か特別の理由でもあるのでしょうか。私の知る限りでは、フィンランドでは、オペラ劇場でバレエが踊られていたものの、芸術としてのバレエもモダンダンスも歴史的にほぼ前後して発展し、多様なスタイルのダンスのエネルギーが同時期していたように思いますが……。
ひとつには、20世紀初めからドイツの表現主義舞踊と深く結びついた女性の[体操]の長い伝統があります。当時、むろん、フィンランドはロシアの支配下におかれ、戦争の影響を被っていました。その後、50年代から60年代にかけて一種の産業化が起こり、すべての芸術が多かれ少なかれ影響を受けました。ただ、フィンランド人にはクラシック音楽の愛好家が多かったので、ダンスは弱小芸術でしかありませんでした。もちろん、この時期、1956年にはフィンランド国立バレエ団が設立されていますし、モダンダンスも発展しています。
現在では、シアター・アカデミーで適切なダンス教育が行われていて、これがダンスの振興に重要な役割を果たしています。ヘルシンキのシアター・アカデミーの舞踊学科では、ダンス実技、振付、舞踊教育に関わる高度の教育が行われていて、すでに20年以上の実績があります。それによりダンスや振付に関する考え方は、大きく進歩しました。90年代初めには、ダンス・シーンが非常に面白くなり、ケネス・クヴェンストローム、ヴィルッピ・パッキネン、アリア・ラーティカイネンら力のある振付家が次々に登場しました。その結果、ダンスへの助成も徐々に増加しています。
それでも、ダンス助成がまだまだ少ないのは事実です。フィンランド人は演劇が好きで、普通は、どの街でも劇団がまず助成を得ます。ただ、いまダンスの人気が高くなってきており、ダンスの学校やフェスティバルが増えてきました。ヘルシンキ・シアター・アカデミーの舞踊学科の存在が、こうした隆盛の大きな要因であろうと、私は考えています。フィンランドの振付家たちは、以前よりずっと知識があり、成長していっています。
もうひとつこのアカデミーについて言えば、映画や照明デザインを手がける専門家が教育されていることが大きい。つまり、もし望むならば、いつでも彼らと一緒に仕事ができる。フィンランドのダンスの特徴を考えていただくと、とても視覚的に豊かなことに気づくと思います。我が国のダンスでは、視覚的な側面がとても発達していますが、その理由は、振付家たちが、映画や照明のアーティストと常に共同作業をする機会が多いからです。
ドイツや北欧諸国で心身の健康のために盛んに行われるようになった体操が、フィンランドのダンス興隆の素地を築いたというのは、面白いですね。このことは、フィンランドのように厳しい気候風土を持ち、生活のなかで人々が身体を動かすことを日常的に必要とする北国らしい特徴と考えられ、確かデンマークでも体操の伝統がモダンダンスと結びついています。ドイツのモダンダンスから影響を受けた日本のモダンダンスも、体操教育の実践とカリキュラムに組み込まれて発展をした歴史的経緯があるので、ピルエッタさんも興味をもたれるのではないですか。ヘルシンキ・シアター・アカデミーについてですが、設立されたのはいつですか。
アカデミーは1979年に設立されましたが、舞踊学科が開設されたのは1983年です。
私がフィンランドのダンス状況の変化を観察する機会を得たのは、90年代末になってから。アカデミーの誕生がなければフィンランドのダンスにそのような発展はなかったのですね。
フィンランドでは、演劇や音楽への公的評価と支援が先行してきましたが、舞踊学科は、フィンランドの芸術においてダンスにそれに見合った地位を与える一助となりました。同時に、その頃までばらばらのまま独自に活動していたダンス関係者に、継続的な方向性を与え、また、テクニック的にも、ダンサーたちに正式な訓練を受けて向上する機会を与えることで、重要な貢献をしています。また特に、舞踊学科のカリキュラムが、実践的、公演志向であることにも、注目していただきたいと思います。
教授陣には、舞踊史や舞踊理論の担当にペーター・カイクなどの学者を配する一方で、ダンス・テクニックや振付を教えるクラスでは、マルヨ・クーセラなど第一線で活動してきた舞踊家やヨルマ・ウオッティネン、トンミ・キッティなど現在活躍中の振付家たちが教鞭をとっています。
フィンランドの現代舞踊史を振り返ると、まずドイツのモダンダンスの影響があり、その後60年代には、アメリカのモダンダンスやポスト・モダンダンスの影響を受けてきたわけですよね。
60年代には、リィタ・ヴァイニオがニューヨークへ行き、帰国して自身のモダンダンス・カンパニーを設立しました。そのカンパニーから、新しい世代のダンサーや振付家が輩出しました。リィタは、まだ仕事を続けていますよ。
それに、レイヨ・ケラがマース・カニングハムの下で訓練を受けたなんて想像できますか。彼は、まるで舞踏ですよ。60年代、70年代の発展について言うなら、1972年に設立されたラーティコ・ダンス・シアターについてふれなければなりません。
初めてラーティコの舞台を見た時、私はとても幼く、地方の小さな町に住んでいました。ラーティコは、そういう地方の都市にも巡業してきました。
ところで、フィンランドのダンスに大きな影響を与えたマルヨ・クーセラも、体操の伝統から育ってきた人です。彼女は素晴らしい体操家でした。かっては、体操の伝統はとても強かった。今では、一般にはエアロビクスが盛んですから、段々弱まってきたとはいえ、いまだに強いと言えます。80年代には、たくさんの観衆を集めたエアロビクスのフェスティバルも開かれていました。そういうふうにフィンランド人はダンスと関わってきました。そのほかでは、社交ダンスがあります。また、民族舞踊の強力な運動があって、今でも民族舞踊は活発です。フィンランド人は、夏が大好きで、健康志向が強いですからね。
90年代の初めには、フィンランド国立バレエ団のテロ・サーリネンがバレエ団を退団して、日本に行きましたが、そういう海外に渡る舞踊家もかなりいます。新しい考えを吸収して帰国し、フィンランドのアーティストと共同作業を行う例が随分ありました。
ところで、独立運動との関係はいかがでしたか。演劇運動は、1917年の独立へ向けた国民的なアイデンティティ摸索の運動に組み込まれていたようですが、ダンスも同様にこうした時代状況に触発されたのでしょうか。
女性の体操においては、フィンランドの音楽を用いるとか、体操クラブとか、外国に対する政治的な運動と結びついていたかもしれません。しかし、そうした意味では、演劇活動の方によりはっきりとしたインパクトが現れていたと思います。それに、音楽にも運動がありました。芸術がこうした流れにいかに組み込まれていったかには、興味深いものがあります。
20世紀の初めには、我が国の政府は、フィンランドにアイデンティティを与える手段として芸術をとらえていました。たとえば、シベリウスの例に見られるように、芸術家たちにフィンランド的な表現を求める国家的意思がありました。シベリウスは重要です。ご存知のように、彼は『フィンランディア』を作曲しましたが、この曲を“国歌”と信じている人は多いのです。実際は、違いますよ。それに、視覚芸術においても、フィンランドらしい風景を描いたり、国民的伝説である“カレワラ”の絵を描いたり、とても愛国的でした。
フィンランドの歴史のなかで、ダンスと宗教の関係はいかがですか。ヨーロッパでは、ダンスの表現がキリスト教の宗教的教理における禁欲主義の下で禁止された時代などがありましたが……。
ダンスを禁じて、踊ることを許さない運動があったと理解しています。ちょうど、アルコールと同じように、フィンランドの歴史においてダンスが禁じられた事例がありました。それに対抗して、自由を求める地下活動がありました。
どのような新しい考えのもとで、芸術としてのダンスが促進されていったのですか。
70年代初頭に開設されたラーティコ・ダンス・シアターは、怒りをあらわにした作品をいくつか創っています。ラーティコは、それによって70年代にダンス・シアターの伝統を創りました。また、80年代のヨルマ・ウオッティネンについてもふれておかなければいけません。彼は、見応えのあるソロ作品をいくつか創っており、視覚芸術とのコラボレーションを含む“開かれたダンス”という分野を切り拓きました。このようにして、90年代、とりわけ2005年までの10年間を振り返ると、コンテンポラリー・ダンスのシーンで活躍する振付家が、ますます増えてきているのです。
たぶん、それが私がフィンランドのダンスについて受け取った印象なのですね。フィンランドを初めて訪問したのが、1998年ですから。きっと、ちょうどいい時期にお国を訪れたのでしょう。
それから、ヘルシンキ市立劇場ダンス・カンパニー重要です。マルヨ・クーセラ、ヨルマ・ウオッティネン、ケネス・クヴェンストロームなど皆、ここで仕事をしました。
その流れは、アカデミーとつながりますね。アカデミーは、新しい振付家を育てていますね。
ヨルマ・ウオッティネンもた、アカデミーで教鞭をとっていきますし、クーセラも、1995年以来教えています。彼らは、ダンサーは独立した存在であり、自分で考えるアーティストであるべきだと考えており、ダンサーたちが一緒に仕事をする上で(学ぶことの多い)強烈な個性を持った振付家たちですね。
アカデミーのカリキュラムでは、まず舞踊学科に学士号が取れる3年間のコースがあります。その後、教育を活かしていけるように、舞踊、振付、あるいは舞踊教育における修士号のコースがあります。クーセラは、ダンスの価値を信じて、“芸術としてのダンス”の基礎を築いたと思います。スサンナ・ライノネンとイエンニ・キヴェラは、2人ともアカデミーでクーセラの指導を受けました。ここは、ヘルシンキの舞踊教育の中枢です。アカデミーには、先ほど言ったように映画、映像技術、舞台美術、照明デザインなどのコースもあり、緊密に仕事をしています。
その他の都市では、単科大学としてダンスの教育が行われています。これらは、学士の水準での教育か、あるいは、コンセールヴァトワールです。こういう教育機関の生徒たちは、ヘルシンキに来てさらに教育を受けます。たとえば、クオピオがそうですし、ほかにアウル、トゥルク、タンペレなどがありますね。主に、こういう学校では、社交ダンス、民族舞踊、ジャズダンスなどの分野のダンス教師を育成しています。
フィンランドでは、多様な芸術がうまく融合していますね。異なったジャンルのスタイルやテクニックの融合は、フィンランドのダンスに素晴らしいエネルギーを与えているように思います。
我が国のメンタリティを考えていただくと、おわかりかと思いますが、とにかく我々はオープンでなければやっていけません。(フィンランドには)500万の人口しかありません。最初から、そのような小さな世界で、全てを行われなければいけません。ですから、協力し合うという長い伝統があります。たとえば、テロとミキ・クント、劇場の芸術監督のような人や振付家たちはみんなオープンです。彼らは、ひとつのプロダクションで一緒に仕事をする……つまり、何よりも総合芸術なのです。フィンランドのダンスにとって、融合こそがエネルギーの源であることをとても嬉しく思います。ヨルマ・ウオッティネンは、バレエもまた同時代の芸術であることを明確にしました。そういうわけで、私たちは、とてもオープンは気質を持っているのです。
国立バレエ団では、デンマーク・ロイヤル・バレエ団出身のディンナ・ビョルンの下で、古典作品のレパートリーに戻っているようです。ロシア・バレエの大きな影響を受けながら、これまでロシア人のバレエ芸術監督がいないのも面白いですね。
フィンランドは、ロシアといつも微妙な関係を持ってきましたからね。国民は、フィンランド人の指導者を持つことに明確な意思を持ってきました。それも、現在では弱まり、ロシアとずっと親密になっています。それが、我々の歴史なんですよ。
話は変りますが、フィンランドの陽の光はとてもドラマティックですね。お国に素晴らしい照明デザイナーが多いのは、フィンランドの自然環境と何か関係があると思われますか。
特にその理由はわかりません。まず、照明デザインの教育がありますが、環境の影響も否定できませんね。冬は、暗く、闇が続きます。ですから、生活のなかで照明を考える必要があり、照明はとても重要です。仰ったように、陰影に富む光がある。
それに、フィンランドはとても高い技術力を誇る国ですから、技術の一部である照明がそれ自体で芸術と言えるほどになったのでしょう。照明家が質の高い仕事をするので、たとえば、我々の街そのものも一種のアートと考えられるかもしれません。
フィンランドを代表する照明デザイナーのひとりであるキンモ・コルクネンは、これまでアリ・テンフラやアルポ・アールトコスキ、ユルキ・カルトゥーネンなどと仕事をしてきたそうです。テロは、常にミキ・クントと仕事をしています。キンモは、アカデミーで教えており、影響力を持っています。ダンサーと照明デザイナーは同じところにいて、最初から一緒に仕事をしますから、当初より作品のなかで照明デザインがどういう意味を持つかを理解しています。照明デザイナーも、ダンスがどのような芸術なのかを理解しています。ともかく、フィンランドのダンスでは、照明はとてもうまく機能しています。芸術上のコラボレーションであり、振付家と照明デザイナーは作品のなかでの主要な協力者なのです。もちろん、衣裳デザイナーの貢献もありますが、コンテンポラリー・ダンスのなかで振付家と照明デザイナーのコラボレーションが、決定的な意味を持つ例は多い。ミキはしばしば、ロック・コンサートのような巨大な仕掛けの照明を用い、「Borrowed Light【反射光】」において素晴らしい仕事をしています。
テロの作品『ハント』のように、才能ある映像・マルチメディア・アーティストも目を引きます。
ご指摘のアーティストは、マリア・リウリアですね。政府は、この分野にも手厚く助成を与えています。ノキアをご存知と思いますが、情報と技術分野に国家として援助を与えています。ですから、メディア・アートは、それ自身研究機関を持つ確立された芸術分野で、マリアのような芸術家は高く評価されています。彼らが創造し、この芸術分野を確立したわけですから。芸術の手段として、テクノロジーは計り知れない力を持っています。今では、ヴィデオ映像を投影するだけの振付では新鮮さに欠けます。芸術の一部として、一つの要素としてどうテクノロジーを用いるか、そこが最も面白い。ユルキとキンモ・カルトゥネンや、テロ・サーリネンとマリア・リウリアとのコラボレーションは、ヴィデオを用いる以上の大きな効果を生み出しています。
そうですね。ヴィデオを投影しているだけではないですね。ライヴの動きとヴィデオの映像は、空間を豊かにするインタラクティブな効果を生んでいます。
しかし、振付家が芸術のなかでテクノロジーをどう扱うかを知らなければ、うまくはいきませんよ。振付家たちは、自分の芸術においてテクノロジーをどのように用いていくかのコンセプトと目的をしっかりと持っていなければなりません。総合的なヴィジョンが必要ですね。
インフォーメーション・センターで見せていただいた作品のヴィデオが、印象的でした。たとえば、サハラの自然のダイナミックな映像と溶け合うアルポの美しいダンスやラーティカイネンの『Opal-D』など。
アリアの作品に出てくるのは、キンモ・コスケラの映像です。
映画制作の教育はどうですか?
映画制作を含めた視覚芸術に関する大学レベルのコースがあります。アートとデザインのくくりのなかに、芸術大学には、映画、視覚芸術、マルチメディア、衣裳デザインの学科があります。ヘルシンキに拠点を置くマリメッコ、イイタリアやその他のデザイン会社は、いま各々メディア・センターを持っています。彼らの考え方は大変進歩しており、テクノロジーは長いこと芸術の一翼を担ってきましたし、コラボレーションも盛んに行われています。
そのような創造活動への芸術家支援をしてくれますか。
基本的には、ノーです。なぜなら、国家が助成しているからです。何しろ、我が国では、大学教育は誰でも無料で受けられます。もちろん、申請しなければなりませんが。教育が無料なんて素晴らしいでしょう。ただ、税金は高いです。収入によりますが、およそ30パーセントです。むろん、ローンがあったり、何か理由があれば、税金の控除が受けられます。ともかく、そのお陰で、素晴らしい教育と社会保障が保たれています。ダンサーになろうと思えば、ダンスの世界に入る平等の機会を誰もが持っています。芸術家の地位も充分に補助されています。教育省とアーツ・カウンシルが、芸術家を支援しています。アーティスト・サラリーという制度もあります。月額1,000ユーロで、現在、20人のダンス・アーティストがそれを受けています。そのためには、活動計画をアーツ・カウンシルに提示し、申請する必要がありますが……たとえば、カトリ・ソイニはこのサラリーを5年間受けています。これによって、生活の基盤を思い悩む必要はなくなり、さらに仕事によって収入を得ることも可能なのです。
フィンランドの制度から芸術家支援の方法を学ばなければなりませんね。
ここで、方向の違う質問をさせてください。舞踏についてです。フィンランドの人々は、舞踏に強い関心を持っています。古川あんずが、フィンランドの多くのダンサーに影響を与えていますが、その理由は?
まず、表現の強烈さがあります。我々の表現と全く違う。フィンランド人は、非常にメランコリックな人々です。まあ、スウェーデン人もそうですが、これも古川あんずが受け入れられた理由のひとつです。自然に対する深い理解があるので、舞踏とは何かが我々にとっては理解しやすいのです。とても奥が深いですよね。舞踏は、厳しく、激しいですが、自然な感情を包含しており、どこかで自分とつながるものを感じとることができます。
古川あんずは、非常によく受け入れられ、フィンランドのダンサーたちに強く影響を与えました。アリ・テンフラは、古川あんずや伊藤キムと仕事をし、テロは大野一雄のところに行きました。テロは、普通のダンサーでいたくはなかったのです。(舞踏におけるような)厳しい教育を受けたかったのだと思います。彼は、動きや身体について深く理解していく独特の視点があり、ダンス作品を創り始めた時、バレエだけでは駄目だと感じていたようです。
彼の最近の振付家としての成長に対して、どう評価されていますか。とても興味深く思われます。もちろん、簡単に言えるものではないでしょうが。
舞踏の経験から、きっと何かを学んだと思いますね。国立バレエ団にいる時に、「ダンスは、これ以上のものを表現しなければならない」と言っていたのを憶えています。ただの感じですが、たぶん、基本的に全く別のものである舞踏の影響があるのかもしれません。
身体に関する彼の内的な探求、ピルエッタさんの評価を伺い、興味を引かれます。また、日本人としては、自然に対するフィンランド人の姿勢にある種の親近感を覚えます。
私もそう感じます。互いに大変離れたところに住んでいながら、我々は似たところが多いですね。どうして、我々の社会がいろんな点で似ているのかわかりません。歴史的には異なっていますが、教育水準が高く、産業化のプロセスもあります。精神性もどこか似ており、ともにとても内気で、無口でもある……。
それに、裸(ヌード)に対する考え方もありますね。他のヨーロッパ諸国では、キリスト教との関係から、“禁忌(タブー)”に対する挑戦としてとられることが多いのですが、フィンランドではもっと自然な受け取り方をしている。ある意味では、日常の一部としてみなされ、自然で健全なとらえ方をされている。ダンスの表現においても、ヌードに対して逡巡することがない。もっとも、その意味合いに違いはあるでしょうが……。
日本には、公共浴場のお風呂があり、フィンランドにはサウナがあります。フィンランド人は、裸でいることに慣れています。習慣は異なっていますが、似ている点もあります。ヨーロッパは近いですが、我々の考えや習慣に親近感を持つ人は少ない。もっと思考やその他の点で、自然との絆を持った方がいい。
ではここで、もう少し実際的な質問をさせてください。フィンランドのフェスティバルについて少し伺いたいと思います。1970年に始まり、北欧で最も長い歴史を持っている「クオピオ・ダンス・フェスティバル」は、昨年第36回目の開催を迎えました。フィンランド中部の美しい湖沼地帯に位置するクオピオ市で白夜の頃に毎年開催されており、フィンランドばかりでなく、北欧のコンテンポラリー・ダンスの発展に重要な役目を果たしてきました。プロデューサーのほかに、芸術監督を置き、その見識と方針がそれぞれの開催プログラムに魅力的な個性を与えています。これまで時々、日本、中国、タイなどの伝統文化も取り上げています。最近では、日本の若い振付家の仕事を紹介するのに、レニ・バッソが招聘され、『FINKS』が上演されました。
クオピオのほかに、どのようなフェスティバルがあるのでしょうか。
まず、「フル・ムーン・フェスティバル」があります。今度の夏で10周年になります。このフェスティバルもまた、マルヨ・クーセラとトンミ・キッティによって開始されました。フィンランド中部、プヒャイヤルビの近くにある人口3千人の小さな村に夏の別荘を持っている、とても活発なダンス関係者が偶然その村にいたのがきっかけで、地方のフェスティバルとして始まりました。2,3年後、新しい芸術監督にこの地方出身のアルポ・アールトコスキが就任し、彼がこのフェスティバルをフィンランドのダンス・プラットフォームのように作り上げました。現在では、ダンスの国際フェスティバルに成長しました。7月の終わりの6日間開催されます。
舞台は、スポーツ向けの会場にありますが、我が国で最もいい舞台ではないかと、私は思っています。巨大なアイス・スケート用のホールですが、とても美しい建物です。
フェスティバルの印象は特別なものがあります。一日に5から6公演あり、500人から600人の観客がコンテンポラリー・ダンスのフェスティバルを観にやってきます。昼間は、セミナーやワークショップがあり、夜は公演を楽しむ。クオピオは大きなフェスティバルですが、フルムーンはずっと親密な感じです。若い人々にとってそこに出演することは、とても重要で、芸術監督が若い振付家に作品を委嘱します。通常、主要な振付家の新作初演がある一方、若手の作品の初演も行われます。コラボレーションもあり、若い振付家たちの新作を支援しています。フェスティバルの委嘱作については、ゾーディアック「ヘルシンキの新しいダンスのためのセンター」とオウル・ダンス・センター、ジョジョ、ヘルシンキのプロダクション・センターの共同プロデユースになります。少なくとも、若い人々から2作品のほか、6から7本の新作が発表されますから、その時点で、最も面白いフィンランドのダンス作品がプレゼンテーションされます。
海外のカンパニー、あるいはダンサーや振付家も招待するのですか?
そうです。アクラム・カーンやキット・ジョンソンが招待されていますね。若い人に限りません。すでに地位を確立した国際的なカンパニーや気鋭グループということもあります。観客のほとんどは地域の農民で、ダンスを観る事を楽しんでいます。質問もたくさんでますよ。プロデューサーや観客はヘルシンキからもやってきます。
ほかのフェスティバルはどうですか。また、ダンサーや振付家への助成は芸術による自国文化の育成を目指しているように見えますがいかがですか? 現在、ヘルシンキで活動している日本人ダンサーの松田孝子さんによりますと、フィンランド人のアーティストと仕事をしている場合、外国人アーティストも助成申請ができると伺いましたが。
ほかには、アレキサンダー劇場での「アジア・イン・ヘルシンキ・フェスティバル」というアジアからの作品を紹介するフェスティバルがあります。それは、年毎にテーマがあります。ユッカは、クオピオに様々な民族舞踊や芸術を紹介しました。後継のヨルマが、それをコンテンポラリー・ダンスのフェスティバルにしました。また、80年代からすでに20年以上も開催されてきた「ムーヴィング・イン・ノヴェムバー」というフェスティバルもあり、ヘルシンキの観客に新しい海外のダンスを紹介するのを目的としています。2005年にピナ・バウシュなどのような海外からのゲスト・アーティストを紹介するパフォーミング・アーツのフェスティバルに衣替えしました。驚くことに、それがフィンランドでのピナ・バウシュの初公演でした。ドイツのダンスは、フィンランドのダンスに大きな影響を与えてきたのに、ピナ・バウシュの影響は大きくありません。もちろん、ピナはなかなかつかまらず、待望の公演ではあったわけですが……。
ダンスへの助成は、ただ今ご指摘のようなコンセプトが基本となっています。援助があるべき完璧なものでなかったとしても、アーティストが芸術活動をして暮らしていけることを可能とするシステムが求められています。ダンスへの支援がここへきて増加していることは、嬉しいことです。
ダンスのアーティスト支援システムにおいて、ピルエッタさんが仕事をされている「フィンランド・ダンス・インフォーメーション・センター」は、ダンス文化を振興する重要な役割を担っています。ダンス・インフォーメーション・センターのご活動を紹介していただけますか。
フィンランド・ダンス・インフォーメーション・センターは、1980年に設立されました。我々のセンターは、フィンランドのダンスについての情報を収集し、刊行物を出したり、国際協力を促進しています。センターは、フィンランド語で「タンシ」(ダンス)という季刊誌を発刊し、またフィンランドのダンスの最新情報を海外の読者にお知らせする「フィニッシュ・ダンス・イン・フォーカス」という題名の英語の刊行物も毎年出版しています。情報提供のほかには、センターは公演や観客に関する統計を集め、分析して、セミナーを開催したりしています。センターのウェブサイトは、フィンランドのダンスに関する総合的なオンラインの情報ソースとなっています。
国際関係のプロジェクト・マネジャーである私の仕事は、フィンランド・ダンス・インフォ-メーション・センターの国際部を設立する経済的、機能的な基盤を作ることです。それを通じ、フィンランドと海外におけるダンスの国際的プロジェクトをコーディネートし、組織化することを目的としています。