オーブリー・メロー

世界的な俳優養成機関
オーストラリア国立演劇学院(NIDA)の学長に聞く

2005.06.17
オーブリー・メロー

オーブリー・メローAubrey Mellor

オーストラリア国立演劇学院(NIDA)学長。オーストラリアを代表する舞台演出家。手がけた作品は、シェイクスピアやチェーホフなどのヨーロッパの古典作品にはじまり、オーストラリアの創作演劇のプロデュースも行う。オーストラリアが著名な俳優を輩出した世代の演技術の教師としても有名。シドニーのジェイン・ストリート・シアターとニムロッド・シアター、ブリスベーンのロイヤル・クイーンズランド・シアター・カンパニー、プレイボックス・シアター・カンパニーの芸術監督を歴任。彼はまた、オーストラリア演劇に対する貢献によりオーストラリア勲章(OAM)を受章。近年は国際共同制作を活発に行い、国内外の主要劇作家の作品・コラボレーションを手がける。

オーブリー・メロー氏と私は、およそ30年来の友人である。私たちが出会った1970年代後半、オーブリーはその時すでに、オーストラリアのもっとも革新的な演出家の一人としてその名を知られていた。彼は1968〜69年にNIDAで学び(当時のコースは2年制)、卒業後も同校で教鞭を執る。その後、ニムロッド・シアターのディレクターとなり、同劇場を当時のシドニーでもっとも活気のある劇場に育てた。その後、ブリスベーンのクイーンズランド・シアターカンパニーおよびメルボルンのプレイボックス・シアターの芸術監督を歴任。2004年後半、世界の舞台芸術教育において最も重要な位置をなすオーストラリア国立演劇学院(NIDA)の学長に就任した。
これらの経歴は特筆すべきではあるが、彼に引きつけられる、少なくとも私をこれほどまでずっと引きつけてきた、彼の驚くべき業績には計り知れないものがある。オーブリーほどアジアの演劇、特に日本の演劇の作法やしきたり、メッセージを理解し、自身の作品に芸術的かつ美的に吸収している演出家は、世界中どこを探してもほとんど見つからないだろう。ことオーストラリア国内で言えば、唯一無二の存在である。彼の演劇に対する手法自体、伝統と形式を融合したものであり、それは古典でもなければコンテンポラリーでもない。彼の視点は、オーストラリア先住民の儀式をはじめ日本の能、イギリスの修辞的伝統、アメリカン・メソッド、インドのヤクシャガーナ(訳註:インドに伝わるヒンドゥー教を題材とした野外民俗舞踊劇)と幅広い。実際、彼の作品に影響を与えてきたものを突き詰めようとすること自体が、無意味といっていいほどだ。
2005年5月25日、東京の国際交流基金のオフィスでオーブリー・メローに会った。1週間の日本滞在の後、シドニーへ発つ直前のあわただしい時に。そんな中、彼が語っておかなければならなかったこととは……。
(インタビュー・文:ロジャー・パルバース)

“AUSTRALIA IS A PART OF ASIA. THERE IS NO GOING BACK.”
オーストラリアはアジアの一員。後戻りはできない。

私が最初に日本を訪れたのは1972年です。日本の伝統芸能と演劇作法を研究することが主な目的です。当時の活動は決してアカデミックな分野に限定していませんでした。能を実践しなければ、と思っていたので、東京で能の金春流に学びました。『船弁慶』でシテ役を演じたこともあります。

その日本滞在(その後何度も再訪していますが、まさに初来日)で私は非常に多くのことを教えられました。西洋演劇は状況や登場人物に始まり、それぞれの関係を確立します。これは私たち西洋人が一つの作品を創作する際の標準的なアプローチです。しかし、能では、これらの要素がわかるのは一番最後です。能は所作や踊りに始まり、稽古を繰り返し、うまくいけば習得できるものです。つまり、「能」とは「技能」を意味します。そして、この技能を通して登場人物に対する解釈が及ぶようになります。意味付けは最後にくるのです。

私たち西洋人はたえず、異質なもの、個性的なものを目指しています。しかし、それらは多くの場合、恐ろしく無駄な労力を費やしていると私は感じます。俳優はまず、技能とテクニックを習得する必要があるでしょう。例えば、72年に、例の能の稽古をしていたときのこと。私は扇を使って円を描くような所作をしていました。そうしたら、私の師匠(本田先生)が激怒したのです。「あなたはこの扇で何をしているのかわかっているのですか」と彼は言いました。私には何のことだかわからなかったのですが、「あなたは恋人にさようならを言っています。これは果てのない切望を示しているのです」と言われたのです。私は思いました、「そう、そうだ、果てのない切望。勿論、私にも果てなき切望なら表現できますよ」と(笑)。しかし、本田先生の説明と指導のおかげでそのことがすべて腑に落ちました。ただそれだけでは、体感して解釈するのに十分ではありません。扇の扱い方一つとっても、まずはその仕組みを理解しなければなりません。そこから人物が浮かんでくる。これが、当時の日本滞在で学んだ貴重な体験です。

「柱」も違う、つまり西洋と日本の劇場ではそのあり方が異なるのです。能舞台の柱のアプローチであろうが、西洋演劇の柱であろうが、その仕方によってさまざまな真価が生まれ、必要に応じてさまざまな効果を取り入れることができます。例えば、はじめに一束の衣裳を俳優に与える、または一足の靴でもいい。すると彼らはそこから人物像を開拓できるかもしれません。「待って、靴はまだいらない」と言う俳優もいるかもしれません。それもありです。また別の俳優にとっては、その靴が逆に、彼らに閃きを与えるものになるかもしれないのです。

私はアジアで多くの時間を過ごしました。1979年に中国で京劇の研究をし、その前は台湾、香港、インドにも行きました。すべての旅で、各国の伝統演劇を通して、本質を追求するための新たな方法を学びました。物を見る眼を学生たちに伝えるための方法です。

1970年代にNIDAで教えていたころ、何度か学生らと能を上演しました(ちなみにそのころはメル・ギブソン、ジュディ・デイヴィス、コリン・フリールズもいました)。演技だけでなく、観客の作法、例えば「見得」などの異質な歌舞伎の所作にいかに反応するかなどを訓練しました。歌舞伎を観る日本の観客は、舞台上の一連の段取りを心得ていて、ひと通り演じた後に見得を切る所作があることを知っているわけです。観客はいわば、俳優の技能や虚勢の演技を鋭く観察し、その熟達ぶりに拍手するのです。西洋演劇の観客はこういった要素を意識していませんから、観客の反応というのは、日本で見られるものとは異なった方法で形成されます。日本の伝統演劇のテクニックだけでなく、どのようにすればよい観客になり得るかを学ぶことによって、舞台と観客との間に流れているものを認識することができる、そう思うのです。まるで運動選手だ、と言っていた学生もいました。まさにハードルを跳んでいるような感覚でしょう。舞台での一つ一つの所作は、ゴールへ向かう次のステップを示す一段一段のハードルのようなものです。私は日本で学んだことのすべてをNIDAで試しました。あえて言えば、NIDAの若い俳優たちはそのことでかなりインスパイアされたのではないかと思っています。実際、彼らに混乱した様子はなく、むしろ集中力を養うのに役立ちました。

現在の私の演出家の見識としては日本演劇、少なくとも様式化された伝統演劇には、二極の側面があるように思います。歌舞伎に見る様式としての誇張、つまり観客を惹きつけるショーマンシップがある。それと同時に、外見に依存せず、内面の激しさや感情、集中力を内側から引き出すものもある。ちょうど今回の訪問でも、そのことを再認識しました。これらの二つの流儀がどうして共存し得るのでしょう。とにかく、非常にうまい。いかに感情を引き出し、それを表現しながら演じるかという、真の意味での演劇的様式──これこそが西洋の俳優たちの芸術性に、多大な洞察を与えるものと私は考えます。

1972年の初来日で体験したことは、現在の私のディレクターとしてのキャリアにおいて非常に重要ですので、もう少しお話しさせてください。当時まだ初期の舞踏、そして、唐十郎の紅テント(状況劇場)から佐藤信らの黒テントまであらゆる前衛演劇を観ました。その後80年代に入ってたびたび来日するうち、新しい戯曲作法というものをかなり意識し始めました。困ったのは、日本の現代戯曲の英訳がほとんどなかったことですが。私たちと同時代の日本の演劇は、作家主導だと思います。唐十郎、寺山修司らのように、日本では多くの劇作家が、戯曲を書き、そして自分のカンパニーで演出もします。オーストラリアでこういうことはありません。事実、西洋演劇にはほとんど例がないでしょう。ポーランドのタデウシュ・カントルかイエジ・グロトフスキーなら、少しは共通点がみられるかもしれませんが。

とにかく、私が日本滞在で発見したのは、日本の演劇はその特徴として、ものすごくバラエティーに富んだものであるということです。ですから日本で生まれる演劇は、アメリカやイギリスのそれよりもはるかにおもしろい、と私は現在にいたるまで思い続けているのです。

ここで私自身のルーツ、つまりオーストラリアの話に戻ります。すべてはクイーンズランドでの幼少期に始まりました。両親はボードビルにいて、私も幼いころから演劇に強い関心を持っていました。NIDAに入る前に学生演劇で演出をしたこともありました。

さて、NIDAはニューサウスウェールズ大学の付属機関です。同じ敷地内にありますが、かなり独立しています。1959年に設立され、当初のビジョンはアカデミックなコースと実践的な職業訓練の場を併せ持つ機関であること。加えて、きわめて重要なプロダクション・カンパニーであることでした。当初からNIDAは、プロダクションに重きを置いていましたし、私たちのコースは、芝居をつくるという目的に終始します。この点が世界の演劇教育界における独自の存在になり得るのだと考えています。

59年に大学から土地を提供され、NIDAはオールド・トート・カンパニーをつくりました。そこには演出スタッフがいて、私たち学生が運営を手がけました。私自身、舞台監督、照明デザイン、しかも役者までやりました。今思えば、私はあくまで端役でしたが。ここは後の演出家としての私に深い洞察を与えてくれたところでした。非常によかった。最近の演出家はこのようなバックグラウンドを持っていない人が多く、ものを知らないですね。例えば、照明やデザインなどのイン/アウトを心得ていないなど、本当に残念なことです。私自身は実地体験を積んで、あらゆる分野の仕事をしたのが幸いでした。

昔話はこれくらいにして、NIDAのトップとしては、今こそNIDAと演劇界との繋がりを回復させたいと思っています。オールド・トートは結局解散し、ニムロッドを経て、現在はシドニー・シアターカンパニー(STC)となりました。しかし、NIDAにいる私たちは、これらプロの劇団との結びつきがかなり薄くなっているように思います。私はこれを改善しようとしています。例えば、私はSTCに無料チケットを学生に提供するよう求めました。また、共同で芝居をしたり、学生のためのインターンなどを実施してもらえないかとも思っています。大学の授業の一環として学期中、学生が無料で働くことができるよう、労働組合と交渉しています。

つまり、私がしようとしているのは、実践面を優先させることです。学生は現場に立ってこそ学ぶのです。また、劇場の最新技術に対応できる多くの人材が必要です。シドニーには私たちを導いてくれる優れた人材が数多くいます。

さらに現在、私たちのカリキュラムで弱いのはおそらく、劇作と演出でしょう。来年から1年制のディレクター・コースを2年制にします。そこで演技、照明、音響などのディレクターを養成します。作家コースについては、現在、やや厳しさを欠いています。作家の感性を甘やかし過ぎているきらいがあります。ですが、私はより厳しく職人的なコースであってほしいと考えています。私たちは、若い作家に一定のスタイルをもつよう強制してでも書かせるべきだと考えています。例えば、「イプセンが書いたかのように幕を開け、チェーホフの芝居のように幕を下ろしなさい」と言うかもしれません。

さらに、作家コースをより実践的にしたいと思い、NIDAはThe Australian Film Television and Radio Schoolと提携する予定です。クリエイティブ・ライティング、劇作法、映画・テレビ脚本作法の3つのコースを設置します。作家コースの学生はここから選択することができます。
しかし、これらはもちろん戯曲を書くことが前提にあってのことです。学生には常に、演劇のもつ可能性を面白がっていてもらいたい。オーストラリアでは自然主義が君臨していて、実に多くの舞台がテレビ的になってきています。私の興味は常に、「舞台でしかできないもの」というところにあります。例えば、2つの異なる時間枠が同時に舞台上で進行することや、2人の俳優が同じ人物を、別々の年齢の時に演じること、そういった演劇特有の可能性は日本演劇に触れて開眼したことでもあります。1972年の来日時に観た、歌舞伎役者が自分の腕を頭上高く、宙に突き上げる所作を思い出します。オーストラリアでは感情を形にするのに腕を頭上に振り上げるジェスチャーをする俳優なんて見たことないでしょう? 自然主義的な演技──これは私たちがテレビで見ているものですが──「リアル」に見える演技が主流なのです。しかし、ここでリアルとは何かという疑問が沸いてきます。なぜなら、観客が受け入れるものならどんなものでもリアルだからです。

オーストラリア人はすべての演劇的表現に対してもっとオープンであるべきです。問題は、多くの俳優が自分の理解できる範囲の安全ゾーンにある演技を好むということにあると思います。非リアルな芝居をしようとすれば、最初はかなり心地の悪い思いをするのは当然でしょう。

鈴木忠志がメルボルンのプレイボックスに「鈴木メソッド」をもってきたとき、オーストラリアの俳優たちは、最初はとにかくへとへとでした。エネルギーを持続させることができません。それでも、しばらくすると非常に熱中し、結局彼らのコミュニケーション能力や、役の解釈をより複雑にし、深めることができたと思います。

オーストラリアの観客は、劇場がテレビ化していることにうんざりしています。家にいてタダで見ることができるものに、どうしてわざわざ足を運ぶでしょうか。観客は異質のものを求めています。ですから、フェスティバルに集まるのです。そこなら、はっとさせてくれて、想像力をかき立てるような作品を観ることができるからです。

残念なことに、これはあらゆる意味で、イギリス植民地時代の古い文化的(従属的)概念に起因します。現在、オーストラリアの劇場は、以前にもましてずっとイギリス的だと思います。非常に保守的です。シドニー・シアターカンパニーはますますオールド・トート的で、過去に逆行しています。事実、ほとんどの州立カンパニーでは、60年代後半のイギリスのプログラム制のようなものがいまだに行われています。それは、当時オーストラリア国内で権勢を振るっていたイギリス演劇そのものです。

州立カンパニーはいまだ観客の要望に対して甘いところがあります。私たちは新しいテーマ、斬新なデザイン、新たな演劇性を求めています。しかし、実際に舞台の上で観られるのは「赤い照明とたくさんの煙」だけなんだ(笑)。

一方、非自然主義的な形式もあります。オーストラリアには優れた喜劇のスタイルがあります。(コメディ番組「Kath & Kim」のような、大げさで風変わりな母娘のドタバタドラマがテレビにもあります)。ただ、ごく限られてはいますが。大劇場風のプロダクションはオーストラリアではほとんど見られません。観客は、例えば、大キャストでイマジネーションに満ちた壮大な物語に飢えています。忘れてはならないのは、観客の存在は実際のパフォーマンスの一部であること。観客との相互作用なしでは、公演がある一定レベルに達することはありません。もっとも、これを意識している演出家や作家もいます。ベル・シェイクスピア・カンパニーのジョン・ベルのプロダクションは、多くが観客と雑談したり観客に向かって演技したりするという手法を用いています。ルイー・ナウラやスティーブン・スーエルのなどは非常に演劇的な書き手ですし、オーストラリアの最も偉大な劇作家で今は故人のパトリック・ホワイトやドロシー・ヒューイットなどは、ぜひ日本でも上演したいと思っています。

最近は、実験的な演劇集団がたくさん出てきています。60年代後半に始まったオーストラリアの演劇ルネッサンス時代以来、このような小規模グループの活動はありませんでした。当時、プラム・ファクトリー(メルボルン)のオーストラリアン・パフォーミング・グループ(APG)、同じくメルボルンのラ・ママ、シドニーのニムロッドらは、いわゆるオーストラリアの堅気な演劇制度に対して、かなり反発していました。今の集団にはそのような対立意識はあまりないかもしれませんが、彼らは彼らなりの異なるスタイルを確立し、突出した存在になっています。イラク人の弦楽器奏者を呼んだり、ポーランド人俳優を連れてきて芝居を打ったりしています。この種類の非自然主義的な動きは制度化されたオーストラリアの演劇界では稀です。

オーストラリアは単なるイギリス文化のとりでではなく、ケルト、イギリス、アメリカ、ヨーロッパ、そしてアジアが融合する活気あるマルチカルチャーなのです。何より嬉しいのは、最近は人種を越えたキャスティングが行われており、多くのグループが日本、インドネシア、マレーシア人などの劇場関係者と共に働いています。このような例を挙げればきりがありません。現代オーストラリアの超保守的な政府が認めたがるかどうかはわかりませんが、私たちはアジアにいます。地理的にも、いまや文化的にもアジアの一部分なのです。そう、後戻りはできないのです。

オーストラリア国立演劇学院(NIDA)
オーストラリア国立演劇学院(The National Institute of Dramatic Art:通称NIDA)は、オーストラリア政府によって1958年に設立された演劇人養成の専門機関である。世界の演劇、映画、テレビなどのエンターテインメント界の中心を担う数々の卒業生を多数輩出してきた。ケイト・ブランシェット、ジュディ・デイヴィス、メル・ギブソンに加え、映画『ロード・オブ・ザ・リングス』に出演したヒューゴ・ウィービングやブロードウェイで『The Boy from Oz』をプロデュースしたベン・ギャノンもNIDAの出身である。
現在、NIDAには、演技、デザイン、美術、技術、演出、身体動作、発声等のコースがあり、また、子どもから大人まで参加できる一般に開かれたOpen Programも熱心に行われている。その一環として社会人を対象にした、コミュニケーションのスキルアップを図るプログラム等も実施している。
2001年に725席の劇場Parade Theaterと、映画とテレビの制作を行えるスタジオ、リハーサル・ルーム、図書館などを備えたNIDA Theatre and Studioを設立。ここを拠点に、附属アクターズ・カンパニーが作品を発表している他、授業の一環として海外から招いた演出家の指導による公演を実施。日本からは、これまで金守珍が招かれているが、2006年には坂手洋二の指導により『屋根裏』の公演が行われる予定。NIDAは、オーストラリア政府のDepartment of Communications, Information Technology and the Artsによる助成やFriends of NIDA, American Friends on NIDAからの寄付を受けて運営されている。