長田育恵

地を渡る舟─1945/アチック・ミューゼアムと記述者たち─

2014.01.31
長田育恵

長田育恵Ikue Osada

1977年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部文芸専修卒。96年よりミュージカル戯曲執筆・作詞を経て、2007年に日本劇作家協会・戯曲セミナーに参加。翌年より井上ひさし氏に師事。09年、自身の劇団「演劇ユニットてがみ座」を旗揚げ。以降、てがみ座全公演の戯曲、依頼戯曲等を手掛け、心の機微を見つめる繊細な言葉、丹念に織り上げられた構成で、スケールの大きな物語を描きだす筆力が注目されている。15年、てがみ座 『地を渡る舟─1945/アチック・ミューゼアムと記述者たち─』 (再演 扇田拓也演出)にて第70回文化庁芸術祭賞演劇部門新人賞を、16年にグループる・ばる『蜜柑とユウウツ─茨木のり子異聞─』(マキノノゾミ演出)にて第19回鶴屋南北戯曲賞を受賞。18年には青年座『砂塵のニケ』(宮田慶子演出)、てがみ座『海越えの花たち』(木野花演出)とPARCO PRODUCE『豊饒の海』(マックス・ウェブスター演出)により紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞した。近年は、市川海老蔵第二回自主公演「ABKAI 2014」の新作舞踊劇『SOU〜創〜』(藤間勘十郎演出)、文学座アトリエの会『終の楽園』(鵜山仁演出)、『夜想曲集』(小川絵梨子演出)、兵庫県立ピッコロ劇団『当世極楽気質』(上村聡史演出)、劇団民藝『SOETSU─韓(から)くにの白き太陽─』(丹野郁弓演出)、『百鬼オペラ 羅生門』(インバル・ピント&アブシャロム・ポラック演出)などの戯曲も執筆し、活動の場を広げている。

てがみ座公式サイト
http://tegamiza.net/

昭和初期、私財を投じて「アチック・ミューゼアム」(「屋根裏の博物館」の意)をつくった銀行家で民俗学者の渋沢敬三。同志として膨大なフィールドワークを行った在野の民俗学者・宮本常一の二人を主人公にした“記憶”を伝えるものたちの物語。主な舞台は、東京・三田綱町の渋沢邸の敷地内に建てられた木造2階建ての「アチック・ミューゼアム(後の日本常民文化研究所)」1階の集会室。昭和10年から20年まで、満州国建設から第二次世界大戦の敗戦へと向かう焦臭い時代が背景。

演劇ユニットてがみ座 第9回公演『地を渡る舟─1945/アチック・ミューゼアムと記述者たち─』
(2013年11月20日〜24日/東京芸術劇場シアターウエスト) 撮影:伊藤雅章
演出:寺十 吾(じつなし・さとる)
Data :
[初演年]2013年
[上演時間]2時間30分
[幕・場数]1幕10場
[キャスト]13人[男8、女5]

第1場:敗戦を目前にした昭和20年7月の集会室。空襲で焼け出された人々を受け入れるため、渋沢家の女中りくが掃除している。不意に常一が現われ、「陸軍省に呼び出された」と言う。渋沢は常一を護るよう計らうと約束し、彼を送り出す。

第2場:昭和10年5月の集会室。研究員の桐生登志夫、吉永修司、林逸馬、民俗学者・柳田國男門下の生田哲郎、女中頭・志野らで賑わっている。三菱財閥の岩崎家から嫁いできた渋沢の妻・誉子は、在野精神を掲げ若い研究員に勝手をさせている夫の意図が理解できず、苦々しく思っている。

 渋沢から招待された常一は、民具収集協力者である一ノ瀬かつらに案内され、女中見習い・りくとともにやって来る。かつらが瞽女(各地を回り弾き語りなどする盲目の女芸人)の手を借り集めてきた草履について、渋沢を交えてみんなが楽しそうに議論する姿を見た生田は、移籍を願いでる。

 故郷・周防大島に関する常一の原稿に感銘を受けた渋沢は、彼に民俗資料の発掘者にならないかと研究の道へ誘う。仕事と妻子を理由に躊躇う常一に、渋沢は「名もなき農民、漁民──この国の古い暮らしが消えないうちに、君はその中で生活し、その人たちのありのままを書きとめてもらいたい」と言う。

第3場:大阪の宮本常一自宅前。帰宅した常一は妊娠中の妻・真木に教員の仕事を辞め渋沢の下で民俗学をやると告げる。真木の猛反対も常一には届かない。

第4場:山口県周防大島の心象風景。常一が故郷の自然と一体になりながらその暮らしを記述している。

第5場:第二次世界大戦目前、満州のノモハンで日本とソ連が交戦状態にあった昭和14年7月の集会室。南九州の調査から戻って来た常一を、スパイと疑っている陸軍憲兵司令部大尉の比留間が追いかけてくるが、渋沢が追い返す。

 満州建国大学に移る工藤教授から常一を助手にと乞われ、渋沢は断る。渋沢は予見していた。大陸の戦いは第二次世界大戦を引き起こす。日本に勝機はない。やがて来る敗戦の暁に国を建て直すためには日本人とその生活の詳細な記録が不可欠であり、常一や所員を死地にはやれないと言う。

 渋沢は「ありのまま、常に在る=常民」という言葉を思いつき、時制を鑑み、アチック・ミューゼアムを「日本常民文化研究所」と改称する。

第6場:常一の民俗調査。島根と広島の県境の峠を行く常一が農民・松太郎に「不思議な話を聞かせてくれ」と声をかける。松太郎は漁師だった父が、丸木舟で島から島へと漕ぎ継ぎ、中国まで渡った話をする。こうして常一は、馬喰や漁師ら、名もなき人々の記憶を記述して歩く。

第7場:昭和17年5月の集会室。渋沢の日銀副総裁就任が決まる。祝う生田や比留間に対して、「民を捨て官へ。戦争の片棒を担ぐ職に就くのは東条英機に脅されたから」と渋沢は言い捨てる。

 生田は文部省が新設する「民族研究所」について話し、そこなら戦時下でも有意義な研究ができると所員を誘う。だがそれは国の民族政策に荷担していく道でもあった。

 集会室に集っていた人々はそれぞれに民俗学への思いを語る。常一は言う。「民俗学者が耳を傾けるのは、風の言葉だ。文字を持たなかったひとたちが親から子、口から口で伝えてきた、放っておけば忘れられる風に散る記憶だ。それを描き留めるのは、民俗学者以外にはいない。そうして留めた言葉だけが時を越える!次の記憶になる!」

 渋沢は常一に家族の元へ戻るよう諭し、研究所の休止を宣言する。

 「放り出された気分だ」と言う常一に、りくは「あなたが尋ね歩いた人たちは、旦那様と繋がっているわけじゃない。あなたと繋がっている」と諭す。常一は入所以来つけていた日誌を「続きを書ける日まで」と、りくに預けて去る。

第8場:昭和20年の空襲下の大阪。常一の家はこれまで集めた資料や書きためた原稿もろとも焼け落ちた。息子が疎開する周防大島に逃げようという妻に、常一は今だからやらねばならないことがあると背を向ける。

第9場:昭和20年の島根県境の峠。常一は、どうすれば農村から食糧調達ができるかの調査を大阪府から依頼され松太郎に会いに行く。それは、これまで民俗調査で尋ね歩いた農民達を再び尋ねてまわる旅だった。常一は、彼だけが築き得た農民ネットワークの力で、飢えた国を救おうとしていた。昔から農家で行われている芋の茎の活用法などを聞き取りながら、常一は「敗戦後を生き延び、再び国を始めるための仕事だ」と言う。休む間もなく歩むその姿を、松太郎は「舟のようだ」と言う。

第10場:昭和20年7月の集会室。食糧調達の任を負う戦備課少佐になっていた比留間が常一を尋ねてくる。敗戦を覚悟し、渋沢、比留間、常一は生き残るための食糧調達について話し合う。自らも責任を取り財閥を解体して国を建て直すことを考えていた渋沢に、誉子は「あなたは、“名もなき人たち”の側にいる。私は家を出て岩崎家のものとして最後まで胸を張って生きる」と言う。

 終戦後の東京駅付近。旅支度の常一と渋沢が待ち合わせている。焼け野原に再び立ち上がった“名もなき人たち”の暮らしを尋ねる旅だ。二人は、「行けるところまで。この地面を」と歩き出す。

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